【完結小説】「愛のカタチ・サイドストーリー ~いびつな二人の物語~」
連載小説「愛のカタチ・サイドストーリー」全10話を通しで読めるようにまとめたものです。まとめるに当たり、加筆、誤字脱字修正をしています。
執筆後記も合わせてご覧下さい(*^-^*)
前編
鶴見かおり
ハイヒールとスキニージーンズから解放されたわたしは、脇目も振らずにベッドに飛び込んだ。一人の部屋に帰った瞬間、何もかもを脱ぎ捨てて素の自分に戻る。そして、もふもふのぬいぐるみをぎゅうっと抱きしめる。そうすることで今日一日、頑張った自分を癒やせるのだ。
このまま寝てしまおうかしら……。
みっちり詰まった大学の講義に疲れたわたしは、チラリとそんなことを考えたが、直後に一件の着信があったのを思い出してベッドから起き上がる。
メールでのやりとりが苦手なわたしのために、わざわざ電話でメッセージをくれる唯一の友人――後藤凜――からだ。
高校で親しくなり、卒業後も連絡を取り合っている。今回の電話の内容は、今週末に会いたい、というものだった。午前10時に都内のS駅前で。わたしはすぐに折り返しの電話をかけたが、あいにく繋がらずに留守電に切り替わった。
「電話の件、了解です。その日にS駅で会いましょう」
メッセージを残し、通話を終えたわたしは激しい睡魔に襲われた。今度こそ眠る支度を始める。
わたしの部屋には、全く趣向の異なるアイテムが混在している。まるで、性格の違う二人が同居しているかのようだ。しかしそれはどちらもわたしの持ち物である。
外に出る時は出来る女のイメージ。反面、在宅中はゆるキャラのぬいぐるみやグッズに癒やされている。本当のわたしはどちらなのかと言われれば両方なのだが、後藤さん以外にわたしの裏の顔を知る人間はいない。
しかし、自分がこんなにもかわいい物好きだったことに気づいたのは、つい最近である。それまではオンオフの切り替えという概念もなく、ひたすらに優等生であり続けてきた。それが後藤さんに出会って少しずつ、力を抜けるようになった。結果、想像もしなかった自分が顔を出したというわけだ。
もちろん戸惑いは大きかったが、ごまかすことはしなかった。こんなふうにして、いままで知らなかった自分の一面を探し出していく作業も面白いかもしれない、と思えたからだ。
大学生になってからはじめた一人旅も、新たな自分探しのひとつ。行ったことのない場所や見たことのない景色を見た時の、閉じていた心が開くような感じがたまらなく好き。だから、大学の講義がない日や週末には、愛車に乗って各地へ出かけている。
*
S駅は駅舎を出たところに銅像が建っていて、待ち合わせスポットになっている。わたしたちも普段会う約束をする時はそこで落ち合うのだが、電車が到着したあとは右も左も分からないほどの人で溢れる。これだけの人の中から目的の人物を探し出すのは毎回至難の業だ。
「鶴見さん、こっちこっち!」
声のする方を見ると、後藤さんが手招きしているのが見えた。やはりこの人混みで彼女の姿に気がつかなかったようだ。しかし、足を向けようとして立ち止まる。
(どうして高野君と橋本君が一緒に……?)
後藤さんの恋人とその友人。彼らとは高校の同級生だから、一応の面識はあった。しかし今日、彼らと会う約束はしていない。が、後藤さんの謝るような仕草を見て悟る。彼女ははじめからそのつもりで黙っていたのだ、と。彼らを連れてきた目的は何……? 不信感が募る。
「事情を説明してくれる?」
怒りが伝わらないように言ったつもりが、我ながら刺々しい声だったと思う。目も彼女を睨み付けているかもしれない。そのくらい、いらだっていた。
「ごめんなさい。実は……」
心底申し訳なさそうな後藤さんは、街中へ歩きながら、ここまでに至る経緯を順に話し始めた。
きっかけはわたしが後藤さんに渡した、旅先で購入したお菓子だったという。それを何の気なしに彼らにも分けたところ反応が良く、ことさらブログを書いている橋本君が自分のサイトで紹介したいと言い出したために、わたしと繋がっている後藤さん経由で会うことになったというのだ。
「ご当地のお菓子や名物なんて、今ならネットでも買えると思うのだけど? わざわざわたしの買ってきたものを紹介したいっていうのは、いったいどういうことなの?」
経緯を聞いて、最初に浮かんだ疑問をぶつける。しかし橋本君は、
「いやいや、旅先で直接買うって言うのが大事なんだよ。なんでそこに行ったのか、どうしてそれを買おうと思ったのか。ストーリーをつけることで、ブログを読んだ人もそこに行きたくなる。同じものを買ってみようと思う。おれはブログの読者に、行動のきっかけを与えたいんだよね」
「それってつまり、あなたのブログの読者を増やすためにわたしを利用するってこと?」
「どうしてそう邪推するかなあ? おれはただ、おいしいものはおいしいと言いたいだけ」
「なら、あなたが旅行して買ってくればいいじゃない?」
「まあ、それはごもっともなんだけど、おれ、一人で出かけらんない質だから、ここは行動力のある鶴見さんにお願いしたいわけ。もちろん、お土産代はこっちが出すからさ。悪い話じゃないと思うんだけど」
行動力を買われてのことだと言うのは分かった。けれども、まだ今ひとつ納得できないでいる。悩んでいると、高野君がそばにあったお店を指さす。
「まあ、歩きながら話すのもなんだから、適当なカフェにでも入ろうぜ?」
「え? 四人でカフェに?」
「あ、二人きりで話したい? それならおれと凜は失礼するけど」
彼が意地悪そうに笑った。橋本君と二人きりで話すなんて、間が持つわけがない。
「……このまま帰してはくれないんでしょう?」
「こいつがどうしても、って言うんだ。聞くだけ聞いてやってくれないかな」
高野君はそう言いながら橋本君に目をやった。
橋本君とは高校生の時、一緒にクラス委員をしたことがあるけれども、プライベートな会話は一切しなかった。知っていることと言えば、彼がどうやら同性愛者らしいということくらい。だからといって真相を確かめたことはないし、どちらにしろわたしには関係のないことだ。だってわたし自身、恋愛に全く関心がないのだから。
橋本純
高校で同じクラスだった、彼女との接点はそれだけだ。だから、理由を聞いた彼女が怒り出して帰ってしまうことも充分考えられた。それでも想いを伝えたかった。どうやらおれは、一度想いが膨らんだら伝えずにはいられない性格らしい。
どちらかと言えば嫌いなタイプである。なのにどういうわけか、会って旅先での話を聞いてみたくなった。単純に、鶴見さんの話を伝える、後藤さんの話術が優れていただけなのかもしれない。けれど、一人でふらりと、それも自分で車を運転をして出かけることの出来る女性がどういう思考をしているのか知りたくなったのだ。
カフェで話し合う時間を作ってくれた鶴見さんにまずは感謝だ。四人がけの席に女子と男子に分かれて座る。おれは大好きな斗和君の隣。思わずぎゅーっと抱きしめたくなる衝動を抑え、今日の任務を完遂すべく、正面に座った鶴見さんに意識を向ける。目が合うなり、彼女から話し始める。
「ブログに書くって聞いたけど、よくよく考えてみれば、どうしてわたしに白羽の矢が立ったのかしら? 別にわたしでなくても、頼めそうな人はいくらでもいそうな気がするけど? 例えば高野君とか。恋人ならともかく、いささか不快ね。……まさか、恋人になれという相談? それなら最初からお断りしておくわ」
「早とちりが過ぎるなあ。あくまでもおれは、かつての学友が旅して回ってるって聞いたから、許可を取った上で旅日記書かせてって言ってんの」
「あら、そう……」
鶴見さんはそう言って窓の外に視線を外した。彼女の興味がなくならないうちに話を続ける。
「もちろん、ブログはおれが勝手にやってることだから、鶴見さんは旅先でのエピソードを、これまで通り後藤さんに話してくれればいい。写真を送ってくれとか、細かい旅程を教えて欲しいなんてことも言わない。……確か、パソコンとかネットとか、苦手なんだよね?」
「えっ? あなたに話さなくていいの?」
「鶴見さんが嫌じゃなけりゃ、直接話してもらった方がいいけど、そこは任せる。それと、個人情報は伏せるんで、安心してもらって大丈夫。まあ、興味を持った人から何かしらのコメントはあるだろうけど、鶴見さんのことは一切書くつもりないし、所詮は一般人の書いてるブログ記事だからね。よほどのことがない限り、拡散することもないよ」
「ふーん……」
「……で、許可してくれる?」
素っ気ない返事に、ドキドキしながら問いかける。
「まあ、いいわ。わたしがやることは何も変わらないし。そこまでして載せたいと言うのなら」
「ありがとう」
目的が達成され、一安心する。
「それはそうと後藤さん。わたしはあなたにだけ旅の話をしたはずなのに、どうしてこんなことになったのかしら?」
「えっ?! えーとぉ……」
メインの話が終わると今度は女子トークが始まる。そっちには興味がないので、おれは手元にあるオレンジジュースのストローに口をつけた。
ジュースを飲む脇で斗和君が言う。
「今更だけど、意外だったよ。純が鶴見と連絡とりたいって言ったこと。高校の時、苦手なタイプって言ってたのに、本人に会ってまで許可とろうとするなんてさ。……何か心境の変化があった? 例えば、女を好きになれるようになったとか」
「まさか。おれが好きなのは……」
ちょっとムキになって身体を押しつける。
「あー、悪かった悪かった。お前の気持ちはわかったけど、外で引っ付くのはやめろよ? それだけは約束してるはずだからな?」
「つれないなあ、斗和君は」
「外向きはどうしたって、お前とは男同士の友だちなんだ。分かるだろ?」
「うん。分かってるよ……? でも……」
おれは幼少の頃から女の子より男の子の方が好きだった。今夢中なのは隣に座る斗和君。斗和君には後藤さんって言う彼女がいるけど、おれの気持ちを知っていながら彼は友人として付き合い続けてくれる。有り難いことだけど、時々空しい気持ちになるのも事実である。だって、斗和君がおれを好きになる日は永遠に来ないんだもん。だから、いつか斗和君と決別しなくちゃいけないんだけど、分かっていても、それを考えるとメチャクチャ苦しくなる。
辛い思いをする前に、何かしら他に夢中になれることを見つけなければと思うのに、焦れば焦るほど空回り。バイトの予定を詰め込んだって、意識が目の前の作業に向かない日も多い。もしかすると、鶴見さんへのアプローチは、こんな日々から抜け出したいというおれの内なる心がそうさせたのかもしれない。
一人ずつ会計を済ませる。先に支払いを終えたおれは店の外で待っていた。そこへ鶴見さんがやってくる。
「さっきの話だけど、なんなら、一緒に行かない?」
イッショニ、イカナイ……? 一瞬意味が分からずに固まる。鶴見さんは続ける。
「わたしが運転する車の助手席に乗るってこと。旅って、人それぞれに感じ方が違うと思うの。だからわたしの体験談より、橋本君が直に感じたことをブログに書くのが一番いい気がして。そうすれば、お土産だって自分好みのものを選べるじゃない?」
「…………」
「あなた、一人で旅に行けないって言ったわね? でもそれは、誰かと一緒なら行きたいって意味よね? ……本当は自分で体験したい、違う?」
「……でも、おれがいたら楽しめないっしょ。逆に、鶴見さんは一人旅したいんじゃないの?」
「どうかしら……?」
彼女は曖昧に返事をした。
……なんなんだ? この、微妙な反応は? 戸惑いを隠せない。
「……あのー、一応確認したいんだけど、いきなりおれを好きになった、なんてこと、ないよね……? おれ、女の子は好きになれない体質でさ」
思い切って正直に打ち明けると、「何を言っているの?」と睨まれた。
「思い上がりも大概にしなさい。……断っておくけれど、わたしは恋愛には興味がないの。あなたに提案したのは、一人で行くも二人で行くも、わたしの労力は変わらないと言うシンプルな理由からよ。ただし、日帰りできる近場限定ね」
彼女に言われるまでもなく、おれのブログなんだから、おれの体験を書くのが一番いいに決まっている。おれが行けば、土産物に限らず、そこでしか味わえない郷土料理を食べた感想も書ける。分かっていたことだけど、そうか、二人で旅すりゃいいのか。その発想はなかった。
「……そういうことなら、便乗させてもらおうかな」
想定外の展開になったが、こうなった以上流れに身を委ねてしまうのも悪くないかもしれない。
かおり
「いつから知っていたの? 橋本君が同性愛者だってこと」
カフェを出て駅へ向かう途中、こっそり後藤さんに尋ねた。彼は高野君と話をしながらわたしたちの後ろを歩いている。
「いつって、高校生の時から」
「知っていながら、頻繁に三人で会っているの? ……高野君は同性として平気なの?」
「うーん。一応二人の間の決め事はあるっぽいけど、詳しくは……」
彼女は後ろの高野君を気にするように視線を動かした。そのとき、唐突にある考えが浮かぶ。
(もしかして、橋本君は高野君のこと愛している……? そして後藤さんはそれを知っていて、橋本君を気遣っている……?)
後藤さんと高野君。恋人同士なら二人で会えばいいと思うのに、なぜ橋本君を交えた三人で行動するのか、疑問に思っていたのだ。しかしそう考えれば納得できる。
考え事に耽っていると、後藤さんが話し始める。
「斗和はね、橋本の想いを全部知った上で友だちでいるの。私も同じ。……っていうか、同性愛者かどうかは抜きにしても、私は橋本のこと、尊敬してるんだ。何でも知ってるし、達観してるし、それでいて話していて楽しいし」
「だからこうやって三人で会っている、というわけ?」
「そうだけど……何か、おかしいかなあ?」
「あなたって、相変わらず暢気なのね……」
恋敵から友だちだなんて言われ、橋本君もさぞかし立場がないだろうと想像する。
一人で旅に行けない性格だ、といった彼の表情がよみがえる。あの場では単に行動力のなさが原因だと思ったけれど、本当は、高野君を愛するがゆえの葛藤から身動きがとれなくなっているのではないだろうか。
「こんなことを言うのは酷だけど、橋本君とは少し距離をとるべきだとわたしは思う。本当に友だちを想うならばね」
「えっ、どうして……?」
「もう少し、恋人の高野君を見てあげなさい、ってこと。八方美人は嫌われるわよ」
「そ、そうかなあ? そんなつもりはないんだけど……」
後藤さんは高二の時まで神と対話が出来たらしく、そのせいか人との接し方に難がある。高野君も、幼なじみから恋人になれたとは言え、後藤さんの扱いに苦労しているのでは? と他人事ながらも心配してしまう。
気づけば駅に到着していた。後ろを歩いていた橋本君に声をかけられる。
「鶴見さん、連絡先教えてくれる? 次に出かける時は連絡して欲しいから」
「わかったわ。でもわたし、メールのやりとりが苦手で。連絡する時はたぶん、電話をかけると思う」
「OK、すぐに出られないかもしれないけど、そのときはかけ直すよ」
「ええ。面倒でも、よろしくね」
わたしはカバンから、スマホではなく、手帳とペンを取り出した。電話番号と下宿先の住所を書き始めると、橋本君は目を丸くし、口をあんぐりと開けた。破った紙を手渡してもまだぽかんとしている。
「……ああ、本当に苦手なんだ」
「……橋本君もここに連絡先を書いてくれるかしら?」
「あ、はい……」
大きな手で小さな手帳に文字を書くのは難しそうだったが、なんとか記入してもらうことが出来た。
これからもう少し遊んでいくという三人を残し、一足先に帰路につく。埼玉方面に向かう電車は空いていた。席に座り、落ち着いたところで先ほど書いてもらった彼の連絡先を確認する。
「あら……?」
無骨な文字で読みにくかったが、そこはわたしがいま下宿しているアパートから、バス停二つ分ほどしか離れていない番地だった。まさか、こんなに近くに住んでいたとは。これも何かの縁だろうか。
下車駅に着くまで時間があったので、不慣れな手つきながらも彼の電話番号だけはスマホに登録した。これで向こうから連絡が来ても大丈夫。安心したわたしは、ほんの少しだけ夢を見ようと目を閉じた。
***
折しもイチョウの葉が美しい季節だった。空気は澄み渡り、雲一つない青空。行楽にはうってつけの朝にわたしの心は躍った。
携帯用のカップにドリップコーヒーを入れ、車に持ち込もうとしたところで急に、橋本君の顔が浮かぶ。事前の約束はしていないが、出かける時には連絡をしてくれと言われていたっけ。急なことだけど、今日は都合はつくだろうか?
まあいい。一応声をかけてみて、不都合だったら今日は一人旅。次回、改めて日程を決めて一緒に行けばいい。車に乗り込んだわたしは、橋本君がいるはずのアパートに向かった。
埼玉県のY市。都心へのアクセスはいいが、やはり駅から少し離れると車を所有する人が増えてくる。わたしも車の便利さを知ってしまった人間の一人。車のない生活などもはや考えられない。
週末の早朝で道をゆく車の数は少ない。目的のアパートにはすぐ着いた。近くまで来て、駐車場がないかもしれないと焦ったが、幸いにして南側に住人用の駐車場があった。一台分空いていたのでそこに車を滑り込ませる。
車から降り、一階の彼の部屋へ行こうとした時、偶然にも洗濯物を干す橋本君の姿を見つけた。
「橋本君」
わたしは短く声を発した。が、彼はわたしを見つけるなり、部屋に引っ込んだ。
(突然押しかけたのはやはり失礼だったかしら……。)
諦めて車に戻りかけた時、電話が鳴った。
「来るなら来るって、一言連絡して欲しいなあ。おかげで寝起きの無防備な姿をさらす羽目になった」
「ごめんなさい。あまりにもいい天気だったので、ご一緒できたらなと思って。都合が悪ければ日を改めるわ」
「いや、少し待っててくれたら出られるよ。今日はバイトが休みなんだ」
「少しって、どのくらい?」
「うーん……。15分くらいかな。待てる?」
「ええ。本でも読んで待ってる」
「OK。じゃあ、一旦切るよ」
通話が終わり、声が聞こえなくなった。とたんになぜか胸がドキドキし始める。
(この胸のざわつきは何……? 自分から誘っておいて緊張しているの……?)
心を落ち着かせるため、コーヒーを飲み、バッグから本を取り出す。きっと普段と違う行動をしたから心が乱れたんだわ。ルーチンワークをすれば元通りになるはず……。
思った通り、本を開き、読み始めたら少しずつざわつきは収まっていった。けれどもそれは数分の間。途中から、主人公の男が、好意を寄せる女に愛を語り出したあたりで、またしても心が乱れ出す。
(どうしよう……。持ってくる本を間違えたわ……。)
激しく動揺しているところに橋本君が現れる。わたしはしおりも挟まずに本を閉じてバッグに突っ込んだ。急いで運転席側のドアを開ける。
「あら、もう支度が出来たの? もう少しゆっくりしてても良かったのに」
「待たせるのは趣味じゃなくて。それに、支度って言っても身ぎれいにする程度だからね。まあ、見た目を整えるだけでいいって意味では、男はラクだから。……それで、どこに座ればいい?」
「助手席へどうぞ」
隣の席へ促すと、彼は車の前を通って助手席側のドアを開けた。
「座れっかなあ。おれ、身体がこんなだから心配」
少し太めの橋本君。軽自動車の座席の狭さに不安を感じたようだが、身をよじりながらもなんとか身体を押し込んだ。そして座るなり「へえー」と声を出す。
「『マシュマロにゃんねこ』、集めてるんだ? かわいいよね、おれも好き」
「…………! み、見ないでっ……!」
フロントガラスの下部に並べてあった、手乗りのぬいぐるみのいくつかをかき集めるがすでに手遅れ。
(橋本君にバレてしまった……!)
わたしとしたことがこんなところで墓穴を掘るなんて……。
寒いはずの車内が急に暑く感じる。いや、熱を帯びているのはわたし自身か。赤面したまま橋本君を見る。
彼はニヤニヤ……というより、ニコニコしていた。何だか嬉しそうだ。
「隠すことないよ。好きなら好きって言えばいいじゃん? おれはそれを知ったからって、鶴見さんのことをどうこう言うつもりは全くないし」
「本当に……?」
「おれもねこキャラ好きなの。それが高じて本物を飼ってるくらい。……ごめん、長時間うちを空けるかもしれないと思ったら放っておけなくて連れてきちゃった。……猫は大丈夫?」
「猫……?」
わたしが言うと、彼は手持ちの袋を開けた。直後、小さな子猫が顔を出す。灰色と白の毛の、もふもふ……!
(きゃっー! か、かっわいいー♡)
声が出そうになるのを必死にこらえたが、思い切り顔に出ていたようだ。彼は「ふふっ」と笑った。
「良かったあ。気に入ってくれたみたいで。この子、トルテって言うの。旅のお供にしてくれる?」
「え、ええ……。もちろんいいわよ」
普段の調子を取り戻そうと頑張ったが、今更感が拭えない。彼もそう思ったようだ。
「ねえ、鶴見さん。もっと素の自分を出しても大丈夫だよ。おれを見てよ。こんなにも自然体。すんごいラクだよー」
そう言って彼は手荷物を持ち上げた。スマホケースやキーホルダー、トルテの入っている袋に至るまで、『マシュマロにゃんねこ』をはじめとした猫グッズで統一されている。
(これを普段から携帯しているの……? 男性なのに……?)
「あ、いま男の癖にって思ったっしょ。すぐ分かるんだから」
本心を言い当てられて返す言葉が見つからなかったが、彼は「まあ、それが一般的な反応なんで、気にしないけどね」と言って笑った。
「あなたって、不思議な人ね」
「不思議? 変って言わないの?」
「変だなんて思わないわ。だってあなたにとってはこれが『普通』なんでしょう?」
「うん、そうだよ」
「だから、変だなんて言わない。けれど、わたしの知っている男性像と違っていたので、不思議と言っただけ」
「なるほど。それなら確かにそうだ。でもさ、誰だって外見と中身は違うもんでしょ? 鶴見さんだって……」
改めて『にゃんねこ』好きを指摘され顔がかあっと熱くなる。
「……話が長くなってしまったわ。出発しましょう」
わたしは無理やり話を終わらせると、車のエンジンをかけた。
純
まさかこんなに急に互いを知ることになるとは思ってもみなかった。けれど逆に、知ったからこそ二人きりのドライブでも息が詰まることはなさそうだ。
「今日の目的地は?」
「紅葉を見に秩父方面へ。ミューズパークのイチョウ並木が見てみたくて。三キロにもわたる並木道になっているんですって」
「へえ、そりゃ楽しみだ」
そのとき、スマホのカーナビアプリから、ルート案内のアナウンスが流れる。
「あれ? スマホに道案内させてるんだ?」
「あー……。音声で目的地を検索してくれるから、いちいち入力しなくてもいいのよ。……後藤さんに教えてもらったんだけどね」
「なあるほど」
機械音痴だと聞いていたし、間が持たなければ道案内役に徹する覚悟もしていただけにほっとする。これなら安心して会話に集中できるだろう。
それからしばらくは互いに、大学のことやアルバイトのこと、高校時代の昔話なんかをして有意義なひとときを過ごした。
関越道を利用したので、目的地には一時間少々で到着した。まだ午前中の早い時間帯なのでそれほど混雑はしておらず、駐車場にもすんなり駐められた。車から降りるなり、鮮やかな黄色が目に入る。
「うわあ、すっげー!」
我ながらなんとも情緒に欠ける第一声だったが、長く続くイチョウ並木に圧倒されてしまい、それしか言葉が出なかったのだ。しかしそれは鶴見さんも同じらしく「わあ……!」と一声漏らしただけだった。
並木通りを歩いてみると、黄色いじゅうたんがこれまた美しかった。見上げた空とイチョウの黄色も、まるで星がきらめいているかのようで、ただただ無言になる。いや、言葉なんて要らないし、言葉ではとても表現しきれないものがそこにはあった。
そんなおれたちの前後には、カップルらしき男女が数組いて、身体を寄せ合いながら談笑している。
「デートで遊びに来る人たちもいるのね」
鶴見さんがしみじみ言ったので、
「気になる? ああいうの」
と尋ねた。しかし彼女はすぐにかぶりを振った。
「気になるようならはじめから二人で出かけよう、だなんて誘わないわ」
「それもそうか」
「なんなら『きょうだい』ってことにしておく? そうすれば何か聞かれても平然としていられるわ」
「ああ、その手はあるね。まあ、世に言うきょうだいが、二人きりで観光するかは知らないけど」
おれがそう言うと、彼女は少し考えるように視線を泳がせた。
「……まあ、わたしならしないわね」
「……ってことは、お兄さんか、弟が?」
「ええ、三つ上に兄がね。もはや連絡も取り合っていないけど。……鶴見家はもう、家族としてはなり立っていないから」
「……いろいろ大変そうだね」
「別に、わたしは一人でもこうして生きていけるから何も困っていないわ。……橋本君はごきょうだい、いる?」
「二つ下に弟がいる」
返答をして、弟の顔を思い浮かべる。
「こいつはちゃんと男男してるから彼女もいるみたい。おれが男好きなのは知ってるくせに、彼女作れば? ってしつこいんだ。……心からは信じてないんだよね、きっと。おれの心と体が不一致なのを。まあ、別に気にしないけどね」
「……あなたこそ大変ね」
「まあ、お互い様だよ」
並木の奥にひときわ大きなイチョウの木が立っていた。カップルたちは素通りしていったが、鶴見さんはそこで足を止めた。
「どうしたの?」
おれの問いには答えず、彼女は何度も何度も深呼吸をした。少ししてからようやく、
「この素晴らしい天気、そして美しい景色や空気を覚えておきたいの。二度と同じ日はやってこないし、こうすることでわたしの中の淀みが押し流されていく気がするから」
「ああ……」
そこまで深く考えていなかったおれは、彼女の考えに触れて心動かされた。確かに、美しい自然に接すれば身も心も洗われる。しかしそれは、意識しなければただ感じただけで終わってしまい、何も残らないだろう。
やっぱり鶴見さんの旅に付き合って正解だった。
彼女の旅の目的は深い。ただ美しいものを見たいと言う気持ちだけでは終わらせないその姿勢が、想いがあったからこそ、きっと後藤さんからの又聞きであっても惹かれたに違いなかった。
「うん、これならブログに書ける」
この旅での「ストーリー」が思い浮かぶ。この体験をもとにすれば、きっとおれらしい言葉にしたためることが出来る。
「誘ってくれてありがとう。おれ一人じゃきっとこんなに感動しなかった」
「わたしこそ、橋本君から話をもらわなかったら、ここまで深く自分と向き合おうとしなかったかもしれない」
「じゃあ、ここもお互い様だ」
「そうね」
人が増える前に、ここに来る道中で買った軽食を食べることにした。空いているベンチに腰掛け、トルテも外に出してのランチタイム。11月だが陽光は暖かく、気持ちが良かった。ここしばらくの間、うつうつとしていたのが嘘みたいに心の奥底の霧が晴れていく。
「良かったら、また近いうちに会える? 旅じゃなくても、ご近所なんだし、どうかな?」
おれの口からは思いがけない、しかしおそらくは本音であろう言葉が飛び出した。鶴見さんは少し驚いた表情を見せたが、
「ええ、いつでも」
と言って微笑んだ。
*
そのあとも園内を散策し、アパートに戻ってきたのは夕方だった。ほどよい疲れ。部屋に戻ったら真っ先に風呂を沸かそう、などと考えていた時、おれはあることを思い出して「あっ!」と声を上げた。
「どうしたの?」
「お土産買うの、忘れた……」
「あっ、そういえば」
土産物を片手にブログを書き、同じものを斗和君にも差し入れようと考えていたのに、おれとしたことが……。頭を抱え込むおれを見て、鶴見さんは「ふふっ」と笑った。
「……馬鹿だと思ってるっしょ」
「いいえ。今日はすごく楽しかったなと思ったら自然と顔がほころんでしまって。お菓子という形でのお土産はないけど、今日という日は間違いなくわたしの記憶に残る。そんな日があってもいいんじゃないかなって思えるの」
形にとらわれていたおれはショックを受けた。もちろん、自分の愚かさに。
そうだ。お土産のことを忘れるくらい、おれたちは「今この瞬間」を楽しんでいたんだ。だからこそこんなにも満たされた気持ちになっているんだ。
「そうだね。お土産はまた別の機会に買えばいいよね。ものにこだわること、ないよね」
「わたしだって、そんなふうに思えたのは、たった今よ。……今日はありがとう。ご一緒できて嬉しかったし、楽しかったわ」
そう言って鶴見さんはもう一度笑った。なぜだかその顔におれは癒やされたのだった。
*
部屋に戻ったおれはさっそく風呂を沸かし、その間に一気にブログを書き上げた。イチョウ並木、そして昼食のおにぎりを食べながらトルテと撮った写真もアップした。
風呂から上がってブログを見ると、短時間にもかかわらず、かなりの数の「いいね」と数件のコメントが残されていた。
――素敵な旅ブログですね! ついに彼氏が出来たのですか? ジュンジュンの楽しそうな様子が伝わってきます! 次回の投稿も楽しみです!――
ブログではジュンジュンと名乗り、男しか好きになれないことを公言してあるのだが、それでもコメントを読みながら複雑な気持ちになる。彼氏なんて、出来るわけないじゃん! そんな自虐的なツッコミを入れはしたものの、おれの文章からそんなにも楽しそうな様子が伝わったのかと思うと悪い気はしなかった。
(次も楽しみ、か。うん、おれも楽しみだ。)
旅仲間が同級生の女の子だなんて、誰も思わないんだろうな。それはおれ自身も想像していなかったこと。だけど、今日の旅をきっかけにおれの中で何かが変わったのは確かだ。今のまま暗闇の中を進み続けることを思えば、この変化は歓迎すべきものに違いない。
心地よい眠気に誘われる。布団に横になると、トルテが潜り込んできたことにも気づかないうちに眠りに落ちてしまった。
かおり
後藤さんが言っていたとおりの人物だった。橋本君の語り口調には人を惹きつけるものがある。たった一日一緒にいただけで、彼の話をもっと聞きたいと思っているわたしがいた。おそらくそれは恋愛感情とは違うけれど、好感を抱いたのは確かだ。
「また会いたい」と言った彼は、一週間も経たないうちに連絡をよこした。夕食の誘いだった。お互い、部屋に帰れば一人ご飯。わたしは快くOKの返事をした。やはり彼との会話は楽しく、時間の許す限り語り合ったが、それでも名残惜しかった。
次に会うのはクリスマス。高校の同窓会を兼ねた屋外イベントの会場で、だ。後藤さんの父親が宮司を務める神社を盛り上げたいと、境内を開放して行うのだという。
橋本君とは話したい。けど正直、行きたくない。クリスマスには嫌な思い出しかないからだ。しかし、断ろうと思っているうちに時は過ぎ、予期せぬ出来事も重なって気づけばその日は目前。こうなったら、単発のアルバイトをねじ込んで無理にでも予定を作るしかない。クリスマスなら急募の求人も多いはず。
夕食の買い出しついでにもらってきた求人雑誌に目を通していると、後藤さんから着信があった。時刻は午後九時を回った頃。こんな時間にどうしたのだろう?
「珍しいわね、夜に電話なんて。何か、相談事?」
「……あまり大きな声では話せないんだけど、誰かにつけられてるみたいなの」
「えっ? ……ストーカー?」
思わずこちらも声を抑える。
「でも、そういう相談なら高野君の方が」
「うん、そうなんだけど、斗和はまだバイト中で。ごめんね、遠くにいる鶴見さんに助けを求めちゃった」
二人は同棲しているが、緊急事態ならばここはわたしが対応するべきだろう。
「……今、どこにいるの?」
「花屋のアルバイトを終えて、E駅からアパートに向かって歩いているところ。……街灯が少ない道だから、余計に怖くって。一本道だし、いまさら駅に戻るってわけにも……」
E駅は、ここから車で15分ほどの場所。彼女の住むアパートへもそのくらいの時間でいける。
「今からそちらへ急行する。アパートで落ち合いましょう。万が一のことがあったらすぐに警察に通報するわ」
「万が一って……。怖いこと言わないでよぉ……」
「ごめんなさい、怖がらせてしまって。とにかく、今すぐ向かうわ」
途中にコンビニの一軒でもあればいいのだが、住宅街の中程にあるアパートなので避難する場所もない。わたしはすぐに車に乗り込んだ。
高校生の時は垢抜けない後藤さんだったが、高野君と付き合い出した頃から内気な性格を克服し、それ以降、癒やしキャラとしてクラスの人気者になった経緯がある。高野君との交際が公になっても、「後藤さんファン」は一定数いて、遠巻きに眺めては盛り上がっていたのを思い出す。
(ひょっとして、その中の一人がストーカー行為を……?)
高野君は一般に言う「イケメン」だから、容姿では彼に太刀打ちできない男が腹いせに付け狙っているのだろうか。女のわたしがどこまで力になれるかは不明だが、とにかく彼女を救いたいとの一念で車を走らせる。
彼女が通るであろう道をゆくと、運良く本人を見つけることが出来た。アパートは目前だったが、彼女はほっとした様子でこちらに駆け寄ってきた。
「ありがとう、来てくれて」
「たいしたことはないわ。それより、乗って」
後藤さんを助手席に乗せてすぐに発進する。進行方向にストーカーがいるなら姿を見てやろうと周囲に目を配ったが、どこかの家の陰に入ったのか、見つけることは出来なかった。
「ストーカーの存在には以前から気づいていたの?」
車を走らせながら問う。
「んー、つけられたのは初めて。でも、何度か部屋をのぞかれてるような気がしていたんだよね。斗和に見てもらった時には誰もいなくて、私の気にしすぎだろうってことで終わっちゃったんだけど」
「……何度も続くようなら一度、警察に相談した方がいいかもしれないわね。犯罪に巻き込まれてからでは遅いもの」
「そうだよね……」
帰宅する人で混雑するE駅まで戻ると、程なくしてバイトを終えた高野君が姿を現した。合流して経緯を話す。彼は見ず知らずの犯人に怒りをぶつけた。
「くそっ、おれがその場にいたら一発食らわしてやったのに!」
「落ち着いて、高野君。まだ被害に遭ったわけじゃないんだから」
「そうだけど……! なんか、腹が立つ」
「……とにかく、今日はこのまま送るわ。まだうろついているかもしれないから」
憤る高野君をなんとかなだめ、車に乗せる。わたしは先ほどと同じ道を通り、二人をアパートに送り届けた。
「今日はたまたま駆けつけることが出来たからいいけど、今後は気をつけてね。高野君、彼女のこと、頼んだわよ」
「おう。任せろ」
「それじゃ、おやすみなさい」
二人が部屋に入るのを見届けたわたしは、一息ついて車に乗り込んだ。ひどく疲れている。早く自分の居場所に帰ろう。シートベルトを締め、エンジンをかけた、そのときだ。
暗闇に動く人影を、わたしは見逃さなかった。もしや……。
急いで車を動かし、ヘッドライトで照らし出す。犯人とおぼしき人物は両腕で顔を隠した。が、観念したのか、すぐに諸手を挙げて降参のポーズをとった。
「えっ……」
顔を見て絶句した。どうして……ここに……?
車を降りたわたしは犯人に歩み寄る。
「橋本君。あなた、何をしているの……?」
純
「何って……」
詰問されても何の弁解も出来ない。かと言って、嘘の一つも出てこない。黙っているとあちらから話し出す。
「わたしは夢を見ているのかしら……? 後藤さんを付け狙うなんて……。本当に、わたしの知っている橋本君なの……? 信じられない……」
「おれはただ……。ただ、斗和君に会いたくて……。高校のときから好きなんだ。だから、後藤さんについていけば、一瞬でも姿が見られるんじゃないかと……。それだけなんだ、本当だよ」
事実を告げてはみたものの、我ながらひどいいいわけだ思った。誰がどう聞いたって、これじゃあ不審者のそれだ。
「高野君に……? ああ、そういうこと……。どちらにせよ、悪質極まりないわね。あなたとは、良い関係を築ける気がしていたのに、残念だわ」
鶴見さんは大げさにため息をついた。
「どんなに願っても、人の心を変えることは出来ないのよ。ご存じでしょう? ……それとも、狂った愛情ゆえに知性を失ってしまったのかしら?」
「…………」
「……どうしてすぐに帰らなかったの? 後藤さんが車に乗った時点で諦めていれば、こんな形で会うこともなかったはず……」
「それは……」
ここ最近、斗和君に会いたくて仕方がない日がある。ちゃんと約束を取り付け、しかるべき方法で会えば済む話なのに、おれの理性がバグってこんな行動に出てしまう。いけないことだと自分を叱れば叱るほど、こそこそとのぞき見したり、後をつけたりしてしまう。
「鶴見さん、助けて……。こんなことはもう、したくないんだ……」
「えっ……? 何を言って……」
「おれには頼れる人がいない。理解者もいない。……リアルに会って本音で話せる人は鶴見さんだけだ」
「……助けてと言われても、いったいどうすれば」
困惑する彼女にすがる思いで言う。
「……こんなことを言うのはおこがましいけど、また旅に連れ出してくれないかな……? そう……旅の間は斗和君のことを忘れられる。他に楽しみが見つかればきっとおれだって……前に進める」
「…………」
「もしも次に同じことをしてしまったら、そのときは警察に突き出してくれて構わない。だから……お願いします」
深々と頭を下げた。しばらくの間、沈黙の時が流れる。あまりにも無言が続いたので諦めかけたそのとき、
「一度だけ、信じてみる」
彼女はぽつりと呟いた。
「ただし、二度目はないと思って」
「……ありがとう、信じてくれて」
本当にありがとう。繰り返し礼を言うと、彼女は思い詰めた様子で目を伏せた。が、少し経ってから、
「……ここへは電車で? もし良かったら、乗ってく?」
と言った。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったから、返事をする声がうわずってしまう。
「え……、いいの?」
「どうせ帰る方向は一緒なんだし。旅の時にも言ったでしょう? 一人も二人も、わたしの労力は変わらないって」
おれを信じると言ってくれた、彼女の優しさだと受け取った。
「ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
おれはもう一度深く頭を下げた。
*
おれを乗せてくれた彼女だったが、長い間黙りこんでいた。何を話題にすればいいか分からない、そんな空気が場を支配していた。
車に乗ればアパートにはすぐ着くはずだった。しかしどうやら、すんなりとは帰してくれないらしい。黙っていると高速道路の料金所を通過した。車が一気に加速する。彼女はいったい何を考えているのだろう。
かおり
頭の中がごちゃごちゃしている時、わたしはしばしば高速道路を走る。信号のないまっすぐな道を走っていると、不安や悩みを忘れられる。けれども今日はなぜか上手くいかない。気づけば青ざめた兄の顔がよみがえり、頭の中を支配し始める。
◇ ◇ ◇
見知らぬ番号から電話がかかってきたのは、一週間前のことだった。
「もしもし……」
応答してみたものの、向こうからの返事はない。不審に思い、眉をひそめる。わたしに電話をかけてくる人なんてまずいない。いたずらか間違い電話なら切ってしまおうと思った。
「かおり……? かおりだよね……?」
切ろうとした時、電話の向こうの人物がわたしの名を呼んだ。どこかで聞いたことのある声。わたしは再び受話器を耳に当てた。
「……どちら様ですか?」
「僕だよ、透」
「えっ、透って……お兄さんなの?」
あまりにも疎遠になっていたから、声を聞いただけではすぐに兄と分からなかったが、記憶がよみがえるにつれ、確かにこんな声だったと思い出す。
「急に電話なんかかけてきて、いったい何の用?」
兄と話す時はどうしてもぶっきらぼうになってしまう。兄も分かっているはずだが、今日はどうも様子が違った。
「……もう大学生になったんだろうね。元気にやってるの?」
「えっ、何、急に……」
「僕はもう、生きる希望を失ってしまったよ……。これ以上、耐えられそうにない。だから最後に……。最後にかおりと話したかった」
「ちょっと待ってよ、透。最後って、縁起でもないことを言わないで」
「久々の会話が別れの挨拶だなんて、かおりは嫌だろうと思う。でも、僕の知る限り、一番マシな頭を持ってる人間はかおりだから」
「……今、どこにいるの? それだけは教えてちょうだい」
わたしの問いに、兄は少しの間黙り込んだが、やがてぽつりと、
「……K市の……実家近くの公園をぶらぶらしている」
と言った。
「分かった。今すぐそっちに行くわ。だから、早まらないで」
「ダメだよ、かおり。僕はもう、あっちの世界に行く」
「ダメ。そんなことさせない」
「どうして……? 僕のこと、嫌いなんじゃないのか? だったらいなくなったって何も変わりゃしないだろう? むしろ清々するはずだ。……親だって周りの大人だって、僕がいなくなった方がいいと思ってるに決まってる」
「……そりゃあ嫌いよ。だけど、嫌われてることを理由に自分から人生を終わりにしなくたって」
「だから意味があるんじゃないか。最後に、僕を苦しめた奴らに迷惑をかけてやるんだ」
「そんな……」
「……かおり。君は僕の分まで生きろよ。やっぱり最後に話す相手として、かおりを選んで良かった。それじゃ。さよなら」
「透……!」
電話が切れた。すぐにかけ直したが繋がらない。わたしは混乱した頭のまま、貴重品だけひっつかんで車に飛び乗った。
兄は、厳格な両親のいうことを忠実に守って、地元でも随一の高校へ進学した頭脳明晰の人間だ。しかし、両親が望む国立大にはどうしても合格できず、結局今年も浪人したと聞いた。兄の頭脳ならばどこの大学にだって入れるはずだが、生真面目な性格のためか、T大合格にこだわっていた。
兄とは、生まれた時から敵同士だった。学校ではもちろんのこと、家でさえ成績を競うよう強要されて育ったせいだ。三歳差だから普通の努力では敵うはずもなく、人一倍勉強して兄を上回れるよう努めてきたが、「勝てた」と思えたのは一度か二度。兄はわたし以上に努力家だった。
幸いにしてわたしは、目を覚まさせてくれる友人を得たことで、親の言いなりだった人生に終止符を打つことが出来たが、兄にはそういう出会いがなかったのだろう。最後の最後の話し相手として、生涯競い合ったわたしを選ぶくらいだもの。
いや、兄はわたしを敵ではなく、良い意味で刺激し合えるライバルだと思っていたのかもしれない。お互いに、相手を蹴落とすための努力をしても、空しさと痛みしか生まないことを知っている。そういう意味では、わたしは兄の気持ちを理解できる唯一の人間と言えよう。
平日の帰宅ラッシュに巻き込まれ、実家のあるK市にはなかなか着かなかった。そうでなくても焦る気持ちから時の経過が遅く感じられた。赤信号を待つ間に思い出すのは、兄と喧嘩した日々。それすらも今になってみれば懐かしく、もう二度とあんなふうに言い合うことが出来なくなることを思うと胸が痛んだ。
電話で聞いたとおりの場所に兄はいた。すでに、うつ伏せで倒れていたところを通報されていた。パトカーと救急車のランプで真っ赤に照らし出された公園。一気に不安に駆られる。心臓がぎゅうっと締め付けられる中、そばにいた警察官に歩み寄る。事情を話すと、兄にはまだ息があることを教えてくれた。
兄は睡眠薬の大量服用が原因で昏睡状態に陥っていた。病院に搬送され、すぐに適切な処置が施されたが、意識は戻らないまま今に至っている。
念願叶って、親や身近な人間に迷惑をかけることが出来た兄だが、彼がそれを知る術はない。命をかける以外にも、迷惑がっている彼らの姿を見届けて優越に浸る方法はいくらでもあっただろうに……。
◇ ◇ ◇
途中、パーキングエリアにさしかかる。思考が停止できないのなら、これ以上先へ進む意味はない。わたしはそこで休憩を取ることにした。
車を停めても橋本君は黙っている。
「いつもならいろいろと話題を提供してくれるのに、今日は静かなのね」
「思い詰めた顔をしている人に何を話せばいいか、今のおれには思いつかないから」
「……そんなにひどい顔をしていたかしら?」
「うん。まるで……このままおれを道連れにして高速道路のガードレールに突っ込むんじゃないかと。正直、ちょっと怖かった」
「わたしが……わたしが命を捨てる訳がないでしょう! 軽々しくそんなことを言わないでちょうだい!」
「……ごめん。……ちょっと、外に出てもいいかな?」
激高したせいか、橋本君は逃げるように車外へ出た。
背にもたれ、天井を仰いで息を吐く。深いため息は天井に当たり、自分に返ってきた。我ながら嫌になるくらい、重苦しい空気だ。彼が逃げ出すのも当然である。
自分探しがしたいと旅を始めた。しかし、探せば探すほど道に迷い込んで、元いた場所にすら戻れなくなっている。余計に自分を見失っている。わたしはどこへ向かっているのか。どこに行けば本当の自分に出会えるのか。そもそも、そんな自分が存在するのかさえ、今となっては疑わしい。
何度もため息をついていると、彼がドリンク缶を持って戻ってきた。
「なんか冷えちゃって。鶴見さんの分も買ってきた。良かったらどうぞ」
手渡されたコーンポタージュ入りの缶は、持っているのがやっとと言うくらいに熱かった。
わたしは、自分の生を感じた。缶の熱は、彼の優しさの温度。生きているわたしにしか、感じられないものだ。手のひらの皮膚から胸の奥までじんわりと温かさが伝わってくる。
親の行きすぎた愛情が兄を追い詰めたように、橋本君のそれも度重なれば、いつかは高野君を傷つけてしまうのではないか……。
兄のことがあったせいで、つい悪い方に考えてしまったが、すぐにそれが愚考であったと気づく。こんなにも温かい心の持ち主である彼が、自分の行動を反省すらしている彼が、むやみに人を死の淵に追いやるはずがない。
一人、心の中で反省し、ようやく平静を取り戻す。
「ありがとう。……謝るのはわたしの方ね。アパートに送り届けると言っておきながら、こんなところへ連れてきてしまって申し訳なかったわ」
「いいんだ、そんなことは。あのまままっすぐ帰っても、モヤモヤして眠れなかっただろうし。……さっき、何を考えていたの? おれが斗和君見たさに後藤さんをつけていたこと?」
わたしはゆっくり首を横に振る。そして熱い缶を握りしめたまま、ぽつりぽつりと兄に起きた出来事を話す。
橋本君は言葉を挟まずにじっと聞いていた。わたしが話し終わってからも、しばらくうつむいたまま動かなかった。沈黙に耐えきれず、こちらから口火を切る。
「……暗い話題だったわね。忘れてちょうだい。これを飲み終えたら、今度はちゃんと部屋まで送るわ」
「鶴見さん。ごまかしちゃダメだ」
話題を変えたかったのに、真面目に返されてドキリとする。彼は繰り返して言う。
「自分に嘘をついちゃダメだ。本当は忘れて欲しくなんかないくせに、そうやって強がるなんてダメだよ」
「…………」
「こうやって話したのは、この問題に向き合いたいからだ。一緒に考えて欲しいからだ。鶴見さん自身はそう思っていなかったとしても、心の声はそう叫んでいるとおれは思う」
「……兄にこそ、そう言ってあげて欲しかったわ」
馬鹿よね、透は。現実逃避してでも生きていれば、彼のような人と出会う機会もあったでしょうに。このまま一生目覚めなかったら、これから起きる良い事も体験できないじゃないの。
「わたしもそんなふうに言ってあげれば良かったのかな」
苦しい胸の内を吐露する。
「電話を受けたのに、兄を止められなかった……。それが心残りで、思い出しては眠れなくなるの」
「……人の心は変えられない。そう言ったのは鶴見さんじゃなかった?」
言われてはっとする。彼は続ける。
「うん。だから、何を言っても言わなくても、お兄さんの気持ちは変わらなかったと思う」
「……そうなのかな」
「でも、おれは思うんだ。鶴見さんはお兄さんの最後の気持ちを受け止めた。それだけでも充分役目を果たしたんじゃないかって。もし電話で話をしないままだったら、お兄さんは本当に孤独を感じたまま死出の旅に出てしまったかもしれない。
……おれだってそうだ。鶴見さんがいてくれたから、踏みとどまろうって思った。ここまで連れてきてもらったことで、おれは救われたんだよ」
彼の話を聞いて胸が熱くなった。
あの日からずっと、自分は何の役にも立てなかった、無力な人間なのだと責め続けてきた。しかし彼は言った。そんなわたしに救われたのだと。
「直接力になれなくても……? 差し出した手が空しかつかめなくても……?」
「そう言うのって、目には見えないものだよ。……だから難しいとも言えるけどね。うん、感じ取るって、伝えるって、すごく難しい」
目に見える数字こそが、結果こそがすべて、という世界で長い間生きてきた。そのせいでわたしの、いわゆる第六感は鈍ってしまったのかもしれない。
「……もしもわたしが感じる力を取り戻せたなら……。兄のための『祈り』は……想いは届くと思う?」
「きっと、届くよ」
力強い返事に勇気づけられる。
(まさか、このわたしが兄のために祈りを届けたいなんて、笑っちゃう。でも、人はきっかけさえあれば簡単に考え方を変えられるものなのね……。)
兄という高い壁がなければ、わたしの人生はもっと楽だったはずなのに、と何度思ったか分からない。透なんていなければよかったと、面と向かって言ったこともある。けれど、やっぱり兄がいなかったら、十年近くもの間、上を目指すための努力を続けることは出来なかった、とも思う。むしろ、わたしが透のように、人生に絶望していたかもしれない。
透が命を捨てようとしなければ、その存在の大きさを知ることもなかっただろう。透は、自分が思っているよりずっとこの世に影響を与えることが出来る。決して、居なくなって清々すると言われるような存在じゃない。
たとえ言い合いになったとしても、生きている透にわたしが感じたことを伝えたいと思った。そのためなら祈るし、神様にだってすがる。
「わたしも、あなたには助けられたわ。一人で悩んでいたら、いつかわたしも心を病んでいたに違いないもの。今日はありがとう」
橋本君にお礼を言い、買ってきてもらったホットドリンクを飲む。なぜだろう、ただのコーンポタージュのはずなのに、あっという間に飲み干してしまうほどおいしかった。空になった缶を見つめながら言う。
「ねえ、橋本君。……例のクリスマス会の日、二人で出かけない? 話を聞いてくれたお礼に、ご飯をおごらせて欲しいの」
「それ……。同窓会をブッチするってこと?」
「まあ……そういうことになるわね」
わたしのわがままな誘いに対し、彼は「うーん」と唸った。きっと彼は高野君に会いたくて、その日が来るのを楽しみにしているはず。それを、陰気な話に付き合ったばかりにキャンセルしなければならないとなれば、悩むのは当たり前だ。
ところが彼は急にクスクスと笑い出す。
「って言うか、鶴見さん。実はおれと一緒にいるの、好きでしょ。クリスマスに食事に誘うなんて、まるで片思いしてる人みたい」
「…………! わ、わたしはただ、恩返しがしたくて……」
事実、それは本心だった。が、言ってからクリスマスである必要もなかったと気づき、赤面する。そんなわたしを見て橋本君は再び笑った。
「ちょっと、からかいすぎちゃったかな。ごめん、ごめん。……実はおれもさ、どうしようか悩んでたんだ。斗和君を追いかけ回してるのがバレちゃったのに、鶴見さんや斗和君たちと顔を合わせるのはやっぱり気まずいなあって。でも今更どうやって断ろうかって考えてたところだったんだ。
いいよ、おれは。鶴見さんに付き合う。なんなら、どこか遠いところに行こうよ。その日は一日空けてあるんだ。そうだなあ……。鶴見さんさえ良ければ、旅に連れて行ってもらえると嬉しいな。そうすればまた、旅ブログも書けるし」
快諾してもらえるとは思っていなかったから、逆に戸惑う。
「ほんとうに、それでいいの?」
「そっちが誘ってきたんじゃん? それとも、本当は断って欲しかった?」
「いいえ……。あなたと出かけられるなんて嬉しいわ」
うつむきながらも正直な気持ちを打ち明けた。彼は嬉しそうに微笑む。
「へえ、今日は素直なんだね。うん、思ったままを言える人って素敵だよ」
「……あなたが教えてくれたのよ。確かに、口に出した、ありのままの想いを受け止めてくれる人がいるって有り難いわね」
「鶴見さんにとっては、おれがそういう存在になれてるってことなのかな。だったらおれも嬉しいよ。それだけで、ここにいて良かったって思えるから」
「じゃあ……。あなたを喜ばせることが出来たわたしもまた、生きている価値があると言える?」
「もちろん」
兄の背中を追うのをやめてから、わたしは生きる目的を見失っていた。けれど、たった今みつかった。わたしと関わり合う人が喜んでくれること、話し相手になってあげることで安らぎを感じてもらうことが、わたしの存在価値であり、生きる意味なのだ。
大勢の人間を蹴落として頂点を目指していた時にはおよそ感じることの出来なかった、穏やかな気持ちが胸の真ん中にある。とっても心地の良い温かさ。わたしはそれをいつまでも感じていたいと思った。が、時計をみるといつの間にか、午後11時を回っていた。
「そろそろ帰りましょうか。……トルテも首を長くして待っているわね」
「そうだね。……部屋を出る前にご飯と水はやってきたけど、遅くなっちゃったから、いたずらされてるかもしれないなあ」
彼はそう言って肩をすくめた。
「なら、急ぎましょう」
「あー、くれぐれも安全運転でお願いします」
さっきの荒い運転を思い出したのか、彼は顔の前で手を合わせてそう言った。
「大丈夫よ。兄には生きて再会するんだから、それまではわたしだって死ねない」
わたしはエンジンをかけ、ゆっくりと車を動かし始めた。
中編
純
あんなに苦手だったというのに、今のおれは鶴見さんと行動するのがだんだん楽しくなっている。一方で、斗和君に対する燃え上がるほどの気持ちは、ゆっくりと熱を失い始めている。客観的に状況を見られるようになってきたのならいいが、愛情が冷めてきたのではないかと思うと、とたんに苦しくなる。
忘れたいはずなのに、しがみついてもいたい。おれの中の古い自分と生まれ変わりたい自分とがせめぎ合っているのだ。このモヤモヤから逃れるためにも、おれは旅に出る。一人ではダメで、やっぱり誰か一緒に、鶴見さんと一緒でなければ頭を空っぽにはできない。話し相手が必要なのだ。それも、おれの話題についてこられる相手が。
街は、どこもかしこもクリスマス仕様である。コンビニやスーパーでもケーキの予約販売をしているし、大学に行けばカップルを探し求める会話で溢れている。みな、何かにつけてお祭り騒ぎがしたいし、浮かれた気分でいたいらしい。
おれはクリスマスだからってケーキを食べようとも、恋人と過ごさなきゃいけないとも思わない。もちろんこんなことを言えばハブられるのが落ちなので、普段は口外しない。話せるのは、ごく一部の親しい人だけだ。
「わたしもそう思うわ。クリスマスなんて大嫌い」
鶴見さんにその話をすると、案の定、同じ考えだった。聞けば、小学生のころ通っていた塾で毎年、クリスマステストなるものが行われていたのを思い出すからだという。
「朝から晩まで休みなく、机に向かってひたすらテスト。ようやく帰宅しても、待っているのはサンタからのプレゼントではなく山ほどの課題だもの。嫌になっちゃう。かと言って、泣き言を言っても親は決して取り合ってはくれないでしょう? 募る不満や怒りは全部、兄にぶちまけていたものよ」
「そりゃあ、クリスマスが嫌いになるわけだ」
「だから、イメージを上書きしたかったの。そのためにあなたを利用するのは申し訳ないけれど」
「いや、おれも行きたいと思ってたんだ。でも、一人で行く勇気はなくて……。だからホント、誘ってくれて嬉しいよ」
クリスマスに訪れたいと鶴見さんが提案してきたのは、埼玉と栃木の県境に出来たばかりの、「マシュマロにゃんねこ」ショップだった。デパートに出店している小さな店舗にもかかわらず、入り口に置かれた巨大なにゃんねこ像は大人気。週末ともなると、一緒に写真に収まりたいファンが列を成すという。
キャラクターグッズのショップに行くんじゃ、旅とはいえないんじゃないか? と思うだろうが、ここは抜け目のない鶴見さん。ご当地ラーメン店はしっかりリサーチしてくれている。ネットが苦手だってのに、どこでそんな情報を集めてくるのかは分からないけど、さすがである。
目的地周辺は田畑ばかりで、ほかには何もなかった。ただ、近くにローカル線の駅があるせいか、昼近くの駅ビルやデパートの利用客は思いのほか多かった。
「うっそ……。何この行列……」
にゃんねこショップの前まで行くと、想像していたよりも遙かに長い列が出来ていた。それも、女の子ばかり……。みんな、入り口のにゃんねこと写真が撮りたくて並んでいるのだろう。これでは、普通に店内に入るだけでも時間がかかりそうだ。鶴見さんもそう思ったのだろう。
「あの……。ここへ並んでいてもらって構わない? 少し冷えてしまって。今のうちにお手洗いに……」
「OK。おれはここで待ってるよ」
「ありがとう」
鶴見さんはそういうなり、小走りで列を抜けた。
さて。待っているとは言ったものの、一人の待ち時間は正直苦手だ。動画でも見ていようかとスマホを取り出す。
「あれえ? 兄ちゃんじゃん!」
唐突に、聞き慣れた大きな声がおれに向かって飛んできた。はっとして顔を上げる。
そこにいたのは、弟の塁だった。隣には恋人らしき女の子がべったりと寄り添っている。黙ったまま軽く手を挙げると、向こうから近寄ってきてべらべらとしゃべりはじめる。
「まさか、一人で並んでるわけじゃないよな? ……あ、オレ? オレは彼女とデートだよ、デート。埼玉じゃ、このデパートにしか入ってないらしいアイスクリームの店にどうしても行きたいっていうもんで、週末だし、わざわざ電車乗り継いで『ど田舎』までやってきたって訳よ」
「ねえ、塁……。ワタシ、ちょっと引きそうだよお……。話には聞いてたけど、塁のお兄さんって本当に……フツーじゃなかったんだね」
彼女の見る目が、明らかにおれを軽蔑していた。小声で「キモッ」と言ったのも聞こえた。にゃんねこショップの前で、にゃんねこグッズに身を包んでいるおれの姿を見れば、だれだって同様の反応をするだろう。
それでも、言葉と態度ではっきりと示されたらさすがに落ち込むし、悲しい。そんなこととも思っていない様子の塁は、追撃するように言う。
「だから言ったろう? 兄ちゃんは変人だって。それでずっと、フリでもいいから女の子の恋人作れよって言ってんだけど、マジで男好きらしくて聞いちゃくれない。……今日は偶然会っちゃったからしゃーないけど、今後は一切オレたちの前に現れないでくれる? 同類だと思われちゃたまんないんだよねー」
弟ながら、ひどい言い様だ。あまりのひどさに、腹が立つどころか吐き気がする。黙っているのをいいことに、彼女までもが追い詰めるように言う。
「本当に塁のお兄さんなの? 男女ってマジ、キモい……」
普段のおれなら、何を言われても平然としていられる。なのに、今日に限って受け流すことが出来ない。息が止まりそうだ。写真待ちの列も相変わらず長い。今にも倒れそうになったとき、突然、誰かがおれたちの間に割って入った。
「純さんに謝りなさい! 見た目で人を判断した上に冒涜するなんて、サイテーな人間のすることよ!」
鶴見さんだった。突如として現れた女の子に、二人は顔を見合わせている。
「な、なんだ。ちゃんと女の子と一緒だったんじゃねえか。脅かすなよ……。って言うか、そのねこグッズは彼女の趣味か。あーあ、全身毒されちまって、ご愁傷様。ま、彼女がいるならオレも安心だわー。余計なことを言ったな。わりぃ、わりぃ」
「ねー、塁。早く行こー?」
「そうだな……。んじゃ、またなー」
二人は逃げるように走り去っていった。
二人が見えなくなっても、なかなか動悸が収まらなかった。胸を押さえていると、鶴見さんがおれの正面に立った。
「あなたらしくもない。あんなふうに言われて黙っているなんて。どうしていつものように言ってやらなかったの? おかげで出しゃばることになってしまったわ」
「……ありがとう。また助けられちゃった。……それと、名前で呼んでくれて嬉しかった」
「えっ?!」
正直な気持ちを伝えると、鶴見さんはうろたえた。
「あ、あれはその……。あの場を乗り切るために仕方なく……」
「おれも名前で……かおりさんって呼びたい。ダメかな?」
今の一件で、おれの中で彼女の存在が一気に変わった。
ただの同級生じゃなく、もっと大切な人。だけど決して恋人にはなれない人。……うまく言えないこの感情を伝える方法があるならおれは、親しみを込めて「かおりさん」と呼ぶ。
「……自業自得とはこのことね。もう、いいわ。好きに呼んでちょうだい」
彼女はそう言って、諦めたようにため息をついた。ようやく動悸が収まったおれも一息ついて、二人が走り去っていった方を見やる。
「……さっきの、弟なんだ。こんなところで会うなんて思ってなかったもんだから、びっくりしちゃって。それで何も言えなくなっちゃったんだ」
黙り込んでいた理由を告げると、かおりさんは肩をすくめた。
「……彼女に間違われて嫌だったよね? ごめんね」
頭を下げると、鶴見さんは一瞬にして表情を曇らせた。
「どうしてあなたが謝るの? 何も悪いことはしていないのに。……むしろ、嫌だったのはあなたの方じゃなくて?」
「えっ、おれの方……?」
戸惑っていると、彼女は続ける。
「わたしといる時のあなたはいつも、三歩引いた距離を保っている。恋人同士に思われたくないのがよく分かる。わたしは敏感な方じゃないけれど、そのくらいの洞察力はあるわ」
指摘されて、はっとする。
おれは性の不一致に気づいてからと言うもの、努めてごまかそうとせずに生きてきた。でも、そうすることで逆に、そんな自分を強く意識しすぎていたのかもしれない。おれは男しか愛せない人間。だから、女の子とは近しい関係になれないし、なっちゃいけないんだ、って。
(性にとらわれていたのは他でもない、おれ自身だったのか……。)
本当は境界線なんてなかったんだ、と気づく。男の中にも女の面はあるし、女の中にも男っぽさは存在する。それを、わかりやすいからって、見た目だけで区別しようとするからおかしなことになるのだ。
恋愛対象が男性のおれでも、話していて楽しいと感じる女の子がいたっていいし、好感を抱いたって何も恥ずかしがることはない。たとえ恋人に間違われたって、「親しい友人です」と言えば済む話だ。
ようやく長蛇の列がはけ、写真を撮る順番が回ってきた。おれは後ろの人にスマホを手渡し、かおりさんの横にぴったりと立った。
「……純さん?」
目を丸くする彼女の顔を見て言う。
「かおりさん。今日は思い切り楽しもう」
「ええ、もちろんそのつもりよ」
「おれはおれの好きなものを、好きと言って生きたい。嫌いなものはちゃんと嫌いだって言いたい。身体が男であることも、今はどうだっていい」
「同意するわ」
「ってことで、もしも嫌じゃなければ、この距離で写真に収まって欲しいんだけど……」
「純さん、前を見て」
返事を聞くより先に、スマホカメラのシャッター音が何度か聞こえた。スマホを受け取り写真を見返すと、間抜けな顔のおれと、余裕の微笑みを浮かべるかおりさん、そして愛らしいにゃんねこの姿が写っていた。
写真に満足したのか、かおりさんはうなずきながら言う。
「よく撮れてる。これなら他人っぽく見えなくていいわ」
「……なんか、今ので一気に距離を縮めちゃった気がするけど、大丈夫……だったんだよね?」
「これで、今日の『旅』は一層楽しめるわね」
「えーっ? 何、その言い方……。やっぱり、かおりさんっておれのこと……?」
好きなの? と言おうとして制される。
「わたしたちの関係を、互いに抱いている感情を、言葉にする必要があるのかしら?」
「ううん、ない」
「なら、いいじゃない。一緒にいて楽しければそれで。わたしもあなたも、急いで答えを見つける必要なんてないわ」
さあ、入りましょ。かおりさんは店の奥に入って手招きをした。
そうだ、おれたちはまだ探し始めたばかり。たくさん道に迷って迷って……。最後に答えが見つかればそれでいい。
おれたちは狭い店内で肩を並べながら歩き回った。塁のことも、斗和君のことも、そして時の経つのも忘れて。
*
かおりさんの車の後部座席には、子どもほどの大きさのにゃんねこが二匹座っている。二人とも、どうしても諦めきれなくて連れて帰ることにしたのだ。レジではかなり目だったけれど、もはや人目は気にならなかった。
帰りしな、ご当地ラーメンに舌鼓を打ち、旅ブログ用の写真も撮影できた。クリスマスっぽいことは何一つしていないという、クリスマスの思い出が作れたことに、おれもかおりさんも大満足だった。
帰宅する頃には夜もすっかり更け、日中の暖かさが嘘みたいに寒くなった。スマホの天気予報が、「上空に寒気が流れ込んだ影響で、ところにより雪のちらつくクリスマスになるでしょう」などと報じている。それを見て、例のクリスマス同窓会はすでに終わっている頃だな、と思う。
「……後悔してるの?」
おれの心情を見抜いたかのようにかおりさんが言った。おれは静かに首を横に振る。
「むしろ、ほっとしてる。これで良かったんだ、きっと。……あー、でも本音の本音を言えば、このあと一人の部屋で寝るのは寂しいかも」
「……また、すぐ会えるわ」
「うん、そうだね。って言うか、会いたい」
「ふふっ……。あなたもわたしと一緒にいるのが好きなのね?」
先日、おれの言った言葉をそのまま返されて、何だか照れくさい。いたたまれなくなって視線を空に外す。本当に雪なんて降るのか? って言うくらいに澄んだ空に星がいくつも輝いている。
「それじゃあ、おやすみなさい。いい夢が見られるといいわね」
天を仰ぐおれに、彼女の優しい言葉が届く。
「今日は楽しかったよ。ありがとう。また連絡する」
「ええ、待ってるわ」
「おやすみ」
まるで恋人たちが交わす挨拶のようだった。けれどもそこには口づけも抱擁もない。あるのは極めてドライな別れだ。
彼女の乗る車を見送って部屋に入る。ベッドに倒れ込んだおれは、強い眠気に襲われてそのまま眠った。次の日が最悪な目覚めとともに始まるなんて、そのときには夢にも思わなかった。
***
もやがかかったような場所に一人、立っている。ここは……どこだろう……? それにしても、身体が妙に熱い……。
「なんで昨日は来なかったんだよ。お前は誠実なやつだと思ってたのに、がっかりだ」
突然、目の前に斗和君が現れたかと思うと、いきなり怒られた。ああ、確かに昨日は、行くと返事をしておきながら、連絡もせずにクリスマス同窓会を欠席したんだった。やっぱり、斗和君を失望させてしまったのか、と思うと胸のあたりがぎゅーっと締め付けられた。
「お前はもう、友だちじゃない。そんなやつとは二度と会えない。これっきり、さよならだ」
斗和君はそう言って背を向けた。
待って……! 行かないで……!
手を伸ばすが届かない。声も出ない。もがきながら前に進もうとしても、全然追いつけない。苦しい、苦しい……!
「待ってよおっ……!!」
ようやく声が出た。同時に夢から覚めたのだと気づく。自分の声で飛び起きたが、頭がガンガンするのですぐにまた横になる。
(ああ……。おれは風邪で熱を出していたんだった……。)
それにしても酷い夢だった。本当の斗和君はもっと優しい声をかけてくれたのに、なんであんな夢を……。
「うなされていたようだけど、大丈夫……?」
台所から手を拭きながらやってきたのは、斗和君ではなく、かおりさんだった。
「熱い……。気分も悪い……。嫌な夢を見たせいかな……」
「……起きられる? おかゆが出来てるの。少しでもいいからお腹に入れて、薬を飲んだ方がいいわ」
「うーん……。とりあえず熱を測ってみる。熱があったら仕方がない。空腹感はないけど、食事して薬を飲むよ」
午前中に病院に行き、インフルエンザの陽性反応が出たって言うんで、専用の薬を処方されている。病院へは、かおりさんが車で送ってくれた。熱が出たと泣きついたら、すぐに飛んできてくれたのだ。そればかりか、食事の支度さえしてくれている。斗和君は「お大事に」と一言くれただけだったのに。
そう、斗和君には真っ先に電話をしたのだ。夢の中のような対応ではなく、熱が出たせいで昨日は連絡も出来なかったと解釈してくれたし、身体を気遣う言葉もくれた。でも、それだけだ。
男友達だもの、いくらこっちが好意を抱いているからとはいえ、どうしたってドライな関係になる。それが普通。もちろん、理解は出来るし、したい。だけど、苦しい。
買ってきてもらった体温計で熱を測ると、病院で測った時より上がっていた。何、39度って……。数字を見たら、余計にくらっときた。
「ほら、見なさい。早く良くなりたかったら薬を飲むことね」
「はい……」
「でもその前に、まずは何か食べないと。一口でもいいからおかゆを召し上がれ。こうみえて、料理は得意なのよ」
おかゆが運ばれてくる。普段使っている茶碗なのに、つやつやの卵がゆが入っているだけで特別おいしそうに見えた。出汁のいい香りもする。急に空腹を感じ、食べてみようかという気になって起き上がる。
壁にもたれ、熱々のおかゆを口に運ぶ。ほどよい塩味と水加減。メチャクチャうまい。
「こんなにうまいおかゆ、生まれて初めて食べたよ」
「大げさね。両親が仕事でいない時に限って、兄が熱を出してね。何度も作ってやったものよ」
「どうりでうまいわけだ。おかわりしたいくらい」
「まあ、今日はやけに褒めるのね。……あら、ずいぶん長居をしてしまったわ。食事が終わって、薬を飲むのを見届けたら帰るわね」
彼女はチラリと時計を見やって言った。朝から呼びつけ、おれが起きる夕方までずっとここにいてくれたのだ、彼女だって疲れているだろうと思う。だけど、いつものようなさっぱりとした物言いに、なぜだか胸が締め付けられる。
「待って。帰らないで。今日は、一緒にいてほしい……。薬はちゃんと飲むから……」
夢で斗和君を引き留めた時と同じ言葉が口をついて出た。おれはよほど一人になりたくないらしい。
「今日のあなたはずいぶんと気弱ね」
かおりさんはあきれ顔で言った。
「わたしが帰ってもトルテがいるわ。あなたはひとりぼっちなんかじゃない」
「うん、それはそうなんだけど……」
そもそもトルテは、おれの寂しさを紛らわすために飼い始めた捨て猫だ。本当にひとりぼっちの時はそれでも良かった。たとえ猫であっても、その体温を感じれば孤独も多少は癒やされた。
でも、かおりさんと会うようになってから、トルテでは満足できなくなっていた。トルテには悪いけど、おれはおれの言葉に反応してくれる相手が欲しい。知的な会話、深く考察された話、そう言ったものが欲しいんだ。
「かおりさんじゃないとダメなんだ」
食い下がるおれに、かおりさんはとうとう折れた。
「仕方ないわね。まあ、いいわ。その代わり、あなたが愛用している山ほどのクッションを敷き布団代わりにさせてもらうわよ。わたしだって横になりたいもの」
「……ありがとう。かおりさんがいてくれて良かった」
「……こんなわたしでも役に立てるなら何でもするわ」
「こんなわたし、って……。かおりさんは充分、役に立ってる。インフルエンザと分かったあとも、看病してくれる人なんて……。たとえ恋人だって、ここまでしてくれる人はいないかもしれない」
かおりさんが、おれに対して恋心を抱いていないことは分かってる。おれだっておんなじだ。けど、こんなにまでしてもらって、感動しないわけがない。
おれが本当に求めていたもの。それはこういう優しさ――おれ一人に向けられる、無条件の施しや、おれ一人を見つめるまなざし――だったんじゃないだろうか。
抑えきれない想いから、今なら斗和君に恋い焦がれ、独占されたいと願った。けれど、絶対に叶わないと分かっているから苦しいし、この苦しみからは一生逃れられないのだとさえ思っていた。
けれども、それは思い込みに過ぎなかったのかもしれない。たとえ身体を求める関係になくても、おれはちゃんと女の子から優しさを受け取り、感動することが出来るとわかった。これはすごい発見だ。
性という鎖を断ち切ってくれる人がここにいる。性から解き放たれた時、おれは男としてでも、女としてでもなく、橋本純という一人の人間として新たな人生を歩める気がする。本当の自分になれる気がするのだ。
一度帰宅したかおりさんは外で食事を済ませたあと、洗面用具と着替えを持って戻ってきた。そして寝る支度を終えると、おれのベッドの脇にクッションを並べて横になった。
「病気の時に一人でいるのは、だれでも不安よね。わたしがいることであなたが安心して眠れるなら、それに越したことはないわよね」
「本当に助かる。持つべきものは友ってやつ?」
「……ねえ、本当に友人止まり? つまり……」
かおりさんは途中まで言いかけてやめた。いいたいことは分かる。病気とは言え、帰るのを引き留めたんだ、誰だって勘ぐりたくもなる。
「おれもそれについて考えてるとこ。……昨日、かおりさんは言ったよね。おれたちの抱いている感情や関係を言葉にする必要はないって。……でも、やっぱりモヤモヤするから、これらに名前をつけたい。どうにかして表現したい。だから、そんな質問を投げかけた、と……。その気持ち、分かるよ。だけど……。だけどさ、言葉にしちゃったら、とたんに別のものになってしまうんじゃないかって、おれは思うんだ」
「そうね。友だちでも恋人でもない。かと言って、その間でもない。そんな関係を指し示す言葉はないけれど、わたしたちはその、中途半端なところを行ったり来たりしている。……ちょっと前のわたしなら、はっきりしないのはお断りだったけれど、今なら許せる。そういう、名もなき関係もありかなって、受け容れられる気がするわ。……そう、先日あなたが言っていた、目に見えないものの話のように、固有名詞を必要としないものが一つくらいあったっていいんだわ、きっと」
「そうだね。おれたちがわかり合えるなら、名前なんて要らないよね」
「うん……。ねえ、純さん。言葉を必要としないわたしたちが気持ちを伝え合うには、どうしたらいいのかな……」
難しい問いだった。言葉以外で伝える? どうやって? 熱のせいで頭は使い物にならない。いや、こういうときは、心に正直になるべきだ。
おれは掛け布団から腕を出し、一段下で横たわるかおりさんの頭に手を置いた。
「……純さん?」
「今はただ、そばにいて欲しい。こんなふうに、お互いの考えを打ち明け合える関係でいたい……。それが、おれの今の気持ち」
「ええ……。わたしも同じ気持ち。純さんといるのは心地がいいから、たとえ病気と分かっていても、あなたのそばにいたい」
「よかった。同じだ……」
ほっとしたら何だか急に眠くなってきた。ふわあっとあくびをすると、かおりさんも小さくあくびをした。そして一言、
「……ねえ、手を繋いでもいい? 慌てていたせいで、寝る時に抱いている、お気に入りのぬいぐるみを忘れてしまったの……」
「いいよ」
頭の上に載せていた手を彼女の手に重ねる。小さくて、温かい。まるで手乗りのぬいぐるみを持っているかのように癒やされる。その手がきゅっとおれの手を握る。
「おやすみ、純さん」
「おやすみ、かおりさん」
手の温もりに癒やされ、おれは眠りについた。朝まで一度も目覚めることなく。
後編
かおり
人を愛することについて考えていた。親からは望む愛情を受けることが出来ず、年の近い兄とも常に争っていたわたしは、なんのために生きているのか、わたしが存在する意味は何か、常に考えながら生きてきた。
わたしには、誰かを愛するという感覚が分からなかった。自分が好きという感覚さえも持っていないのに、どうして他人を愛することが出来るだろう。
けれど、純さんと話すうち、もしかしたらこれが「愛」と呼ぶものなのではないか、と思える感情が胸の中に生まれ始めている。確信は持てない。それでも、純さんといる時は心が穏やかになり、胸の中心の温かいものをそっと抱きしめたくなる。大事にしたいと思える。
なぜ、彼といる時にだけこんなふうに思えるのか。隣で安らかに寝息を立てている彼を見て、彼もわたしも、社会に溶け込めない人間だから理解し合えるのだろう、と思う。愛する対象が同性である純さんと、愛し方を知らないわたしは、この世の中では生きづらい。けれど、生きづらい者同士が寄り添えば心地よい。
ただ、そばにいて欲しい、と純さんは言った。わたしもそう願った。わたしたちは安らぎが欲しい。心えぐられる言葉ではなく、共感が欲しい。
理解されたい、はエゴだろうか。きっとそうなんだろう、けれどもやっぱり、この苦しみを分かって欲しい。そして、苦しんでいるわたしがここにいて、もがきながらも生きていることを知って欲しい。
この、押しつけにも似た想いを、純さんはきちんと受け止めてくれる。それはきっと、彼が自分自身と深く向き合ってきたから。そんな純さんのことをもっと知りたい。……やはりこれを、恋や愛と言うのだろうか。
純さんは程なくして回復し、以前にも増してわたしは純さんと会うようになった。旅行をしたり、互いの部屋に寝泊まりすることもあった。
寝食を共にしても、わたしたちに互いの性を意識させる行動は一切なかった。他愛ない話をし、笑い合い、悩みを打ち明けあう……。それだけの関係。それだけで満足だった。
そんな折に、兄が死んだ――。
せめて夢にくらい出てきてくれたらよかったのに、兄は何も言わずに旅立ってしまった。あの日電話で聞いたのが、本当に最期の声になってしまった。
「もう一度、喧嘩がしたかった……。透の声を、もっと聞きたかった……」
死の直後の、まだ体温の残る透に向かって語りかけるが、彼は一ミリも動かない。どれほど後悔しようが、もう取り返しはつかない。過ぎ去った時は永遠に戻っては来ないのだ。
喧嘩ばかりしていたはずなのに、兄が死んでから急に、勉強を教えてもらったことや、笑い合いながら食事をしたこと、真面目に将来について語り合った記憶なんかが蘇って泣けてきた。二度と言葉を交わすことが出来ないと分かってからでは遅いのに、どうして今になって楽しかった記憶を思い出しては涙に暮れているんだろう。
一番マシな頭を持っている人間はかおりだ、と言った兄の言葉を思い出す。兄はわたしのことを、わたしが思う以上に信頼していたのかもしれない。喧嘩するほど仲がいいとは言うけれど、わたしたちは心の奥底では互いを尊敬し、必要としていた。そう思えば、わたしの深い悲しみにも一応の理由付けが出来る。
兄のという人生の支えを失ってしまったわたしは、生きることの意味を再び見失ってしまった。祈りは届かなかった。わたしはやっぱり無力な存在なのだと言うことを改めて突きつけられたようで苦しかった。
僕の分まで生きろ、といった兄の言葉が頭の中をずっとぐるぐるしている。けれど、透の分まで生きるなんて無理。あまりにも責任が重すぎる。
誰にも会いたくなかった。ましてや純さんには。こんなわたしを見せたくないし、弱さを武器に「癒やして欲しい」だなんて甘えたくもない。だから、何度会いたいと言われても、頑なに断り続けている。わたし自身が、傷を癒やせたと思えるまで、わたしは心のドアの鍵を閉めていようと決めたのだ。
純
毎日のように会っていたから、突然の面会拒否を食らっておれは、ものすごい喪失感にさいなまれている。会えない訳は分かる。辛いのも想像がつく。だけど、こんなときこそそばにいてあげたいと思うおれの気持ちを、彼女には分かってもらえない。
一週間が経ち、もう一週が経ち……。拒まれれば拒まれるほど、会いたい気持ちは募っていく。と同時に、かおりさんが、おれの人生には欠かせない人になっていることを痛感させられる。
会いたい。でも、会えない……。
悶々とした日々が続き、一月も終わろうとしていたある晩、珍しく斗和君から電話がかかってきた。一瞬にしてときめき、楽しい会話を想像しながら電話に出る。が、「鶴見のことなんだけど」と切り出されて、浮ついた気持ちはあっという間にしぼんだ。後藤さんが、新年会を兼ねて会おうと言っても全く取り合ってもらえないので、斗和君経由で連絡してきたのだった。
「お前は何か知ってる? 結構、頻繁に会ってんだろ?」
「いや、今はおれだって会ってもらえないよ。……でも、会いたくないって言ってるなら、そっとしといてあげようよ」
「えっ、マジで? ……あいつ、大丈夫かよ……? 最近、大学生のうつ病も増えてるって言うけど、まさか……な?」
「大丈夫とは思うけど、おれも分からない……」
曖昧に返事をすると、斗和君は訝る。
「……本当に何も? ……何か隠してないか?」
「…………」
「おれとお前の仲じゃねえか。凜には黙っとくから、おれには教えてくれよ」
おれとお前の仲。その言葉にどれほどの重さがあるだろうか。おれと斗和君とでは明らかに認識が異なるだろうが、おれはその言葉を信じることしか出来ない。
「……絶対に、他言しないと約束してくれるなら」
「ああ、言わないよ。凜は今日はバイトでいねえんだ。ここにはおれ一人。だから、安心して欲しい」
「分かった。その言葉、信じるよ」
改めて電話の向こうの気配を探るが、そばに誰かがいる感じはしない。おれは呼吸を整え、こっちも一人の部屋で語り始める。
「おれも詳しいことは知らない。ただ……実のお兄さんが先日、亡くなったって……。意識を取り戻して欲しいと願っていたのにそういうことになってしまったから、それで酷く落ち込んでるみたいなんだ」
「……そういうことなのか」
思ってもみなかったことを告げられた、と言った様子で斗和君はそれきり黙り込んでしまった。
「……凜にも話せないことを、お前には話すんだな」
しばらくして、斗和君がぽつりと言った。
「会いに行ってやらないの? 本当は会いたがってるんじゃないのか?」
「部屋には入れてもらえない。向こうがおれを拒んでる。会いようがないんだ」
「拒まれたら、会わないの? お前は、それでいいの?」
「……どういう、意味?」
「……お前さ、鶴見のこと好きだろ。クリスマス会に来なかったのだって、本当は二人で会ってたからじゃないのか?」
なんだか突き放されたような気がして嫌気がした。
「おれが好きなのは斗和君だ」
語気を強め、はっきりと告げたが、斗和君は疑っている。
「本当にそうなのか……? 最近のお前は、そう思い込もうとしてるみたいに見える。前みたいにぐいぐい来なくなったし、電話もよこさなくなったし」
「それは……」
忘れようと努力しているのは確かだ。だけどおれの気持ちはやっぱり斗和君に……。
「斗和君に……おれの気持ちの何が分かる!? おれがどれだけ我慢しているか、好きの気持ちに蓋をしているか、君には分かるはずもない!!」
抑えきれない感情が爆発し、意図せず大きな声が出た。そんなおれの怒りめいた想いを聞いたあとだっていうのに、斗和君は冷静にいう。
「……だっておれは、男のお前に恋愛感情なんて抱けないから、分かるはずないって言われたら、そりゃあ分からないよ。だけど、おれが凜に抱く思いと一緒なんだとしたら分かる。お前がどれだけ苦しんでるか。好きな相手に振り向いてもらえない気持ちは、おれも経験してるから分かる。
……分かるからこそ言えることもある。会えないって言われたからって、引き下がってていいのかよ? どれだけ拒まれたって、会いたいって思ったら会いに行くだろ? ……お前はそういうやつだろ?」
その言葉に、おれは嫌な予感がした。斗和君は続ける。
「……知ってるんだ、お前がおれをつけてたこと。凜には言わなかったけど、薄々気づいてた。だけど、お前の気持ちにはどうしても応えられないし、友だちでいたかったから知らないふりをしていた……。お前の気持ちは分かってるつもり。だから、不用意に傷つけたくはなかったんだ」
「…………」
「お前は傷つくのを怖がるようなやつじゃないと思ってたんだけどな。無謀な行動が出来たのは、相手がおれだから? 女の鶴見相手じゃ、出来ない理由があるのか?」
「……おれが傷つくのを怖がる? 違う、おれはこれ以上、彼女を傷つけたくないだけだ」
「お前が会いに行って鶴見が傷つくとは、おれには思えない。むしろ、傷を癒やせるとおれは思う」
「どうしておれが彼女の傷を癒やせると……?」
「本当は分かってるんじゃないのか? お前は鶴見に必要とされてるし、お前も必要としてる、って。……ただ、互いに何かのブレーキが働いてそれを認められずにいる。お前の場合はたぶん、おれへの気持ちがそうさせてる」
斗和君の言葉に混乱する。
「なら……。なら、おれはどうすればいい? 分からないんだよ、自分の気持ちが。斗和君には助けを求められない。かおりさんも殻に閉じこもったきりだ。おれに出来ることがあるとすればただ待つことくらい。それしか出来ないじゃないか」
「……もしおれがお前に恩情をかけるせいで前に進めないのだとしたら、おれは今すぐお前と絶交する」
「えっ……。そ、それは……」
本気にも思える発言に、再び動揺する。斗和君は続ける。
「お前はいいやつだ。いいやつだからこそ、幸せになって欲しいと思う。でも、お前を幸せに出来るのはおれじゃあない。おれはせいぜい友だちとして、くだらない話をしたり、はっちゃけたり、時々菓子を焼いてやったりするくらいしか出来ない。それ以上の関係にはなれない。……お前にはもっと自分を幸せにしてくれる人がいる。その一人が鶴見だとおれは思いたい」
「…………」
「心配するな、おれはお前が望む限り友だちだ。もしもおれの言ったことが完全に間違っていて、鶴見から全否定されたって言うなら、煮るなり焼くなり好きにしてくれたっていい。だから、体当たりしてこい。嘘偽りのない、お前の想いを伝えてこい」
「斗和君……」
「一つ助言しておく。女ってやつは、どんなに強がっていても優しくされたら弱い生き物だ。プライドの高い女ほど、情けはかけられたくないと思うものさ。だけど、そんなのは本心じゃない。……おれには鶴見を慰める言葉なんて思いつかないけど、純ならきっと出来る。お前ならあいつを助けられると信じてる」
「どこまで出来るか分からないけど、やれるだけやってみる。斗和君、ありがとう。君と話せて良かった」
あんなにも記憶の外に追い出したいと思っていた斗和君なのに、今はなぜか穏やかな気持ちで彼の存在を感じられる。そうか、無理に嫌いになる必要なんてなかったのだ。斗和君はおれが思っていた以上におれの気持ちを汲んでくれる。おれを受容してくれる。
こんなふうにされたらますます愛情が深まってもいいような気がするのに、今のおれは彼からもらった強い自信を胸に抱き、斗和君ではない方に、かおりさんに目を向けようとしている。まるで自分じゃないみたいだけど、動き出そうとしているのは確かにおれなんだ。
「それじゃ、行ってきます」
「ああ、健闘を祈るぜ」
力強い声に後押しされ、おれは自室を出た。
かおり
葬儀にも出ず、最初の一週間はずっと車で旅をしていた。けれど、結局空しくなって部屋に戻ってからはこもりきり。気づけばここでも一週間が経つ。
空腹感もなく、時折水を飲む以外には食事もとっていない。このままでは、兄と同じ場所へ行く気がする。兄はまだ病院で死を看取ってくれる人がいたけれど、わたしの場合は孤独のまま、誰にも知られることなく死んでいくことになる。
カーテンを引いた部屋。昼も夜も分からなくなったワンルームのベッドで横になっていると、突然、窓の外から猫の鳴き声が聞こえてきた。ここへ入ろうとしているのか、窓をひっかくような音もする。一階の部屋だが、今まで一度も野良猫が訪ねてきたことはない。それなのに、いったいどうしたことだろう。
(困った猫ちゃんだわ……。)
気になったので重い腰を上げ、窓辺に寄って引き開ける。
「あら? トルテなの?」
冷たい夜風とともに入ってきたのは間違いない、トルテだった。なぜ、ここにトルテが……?
「まさか」
はっとして、外を見る。そこには純さんが、今、一番会いたくなかった彼がそこに立っていた。
わたしは慌てて窓を閉めようとした。が、その瞬間に彼はベランダを乗り越えて窓をこじ開けた。そして靴のまま部屋に入ってきた。
「許可もなく、ベランダから入るなんて……! いったいどういうつもりなの?!」
思わず声を荒げるが、彼は淡々と答える。
「玄関から訪ねても会ってくれないから、こうするしかなかった」
「わたしは会いたくないのよ、こんなことをされても困るわ。帰って!」
「帰らない」
「帰ってよ……!」
「嫌だ」
「どうして……。どうしてここまでしてわたしに会おうとするのよ……?」
かろうじて声を絞り出して反論するものの、食事を取っていないから彼を追い出す力も出ないし、頭も働かない。
「どうしてって、決まってるでしょ。かおりさんの役に立ちたいからだよ」
彼は静かに言った。
「頼んでもいないのに、勝手なことを言わないで! わたしを一人にしておいて!」
「そんなことをしたら、かおりさんは死んじゃう。お兄さんの後を追うような真似はさせない」
「…………」
「今度はおれが聞く。どうしてまた一人に戻ろうと……孤独を選ぼうとするの? おれが頼りないから……? そばにいて欲しいのはおれじゃないから……?」
「違う、違う、違う!」
自分でも訳が分からずに、ただただ否定する。
「頼りなくない。あなた以外の人に一緒にいて欲しいなんて思わない。ただ、一人の時間が必要なだけ。それだけなのよ、分かってちょうだい!」
「一人になって、冷静になれてるようには見えないよ」
「うっ……」
「一人では解決できない問題もある。かおりさん自身がよく知ってるじゃないか」
「…………」
「おれがそばにいる。一緒に悩む。話を聞く。辛いことは、おれが半分背負う」
「…………」
「遠慮しなくていいんだ。こういう時こそ、おれを頼って……」
「そんなことをしたら、わたしはずっと弱い人間になってしまう……! あなたなしでは生きられなくなってしまう……!」
「ようやく、本音が出たね」
彼はほっとしたようにいい、一歩こちらへ近づいた。
「いいんだよ、おれに頼って。おれなしでは生きられないっていうなら、そうすればいい」
「だけど、あなたの心は高野君に向いている。わたしのそばにいてくれるのは有り難いけれど、それではあなたが我慢することに……」
「おれだって変わってくよ。斗和君とは、友だちだ。この先もずっと。だから心配しなくていい」
「えっ?」
「斗和君に言われたんだ。自分には友だちとしての付き合いしか出来ない。おれを幸せにすることが出来るのは、斗和君じゃなくて別の人だって。
そう言われて、はっきり分かったんだ。恋愛感情を斗和君に求めるのは違うなって。斗和君のことは確かに好きだけど、違うんだ。彼に愛されたいと思っていたけどそうじゃない。
おれが欲しかったのは斗和君からの愛情じゃなくて、優しさや慈しみや安らぎそのものだったんだ。そしてかおりさんからはそれらを受け取ることが出来る。だからおれも、かおりさんとは一緒にいたい」
彼の揺るぎない信念を見せつけられた気がした。それはドスンとわたしの胸の奥深くまで突き刺さって抜けそうもない。これ以上の抵抗は出来ない。わたしはついに負けを認めた。
「どんなに強がってみても、一人のわたしは無力で弱い。一人きりでは生きられない……。分かっているの。分かっているから悔しいし、認めたくない……。ましてやあなたには知られたくなかった。だから会いたくなかったの……」
「おれは知りたいよ。おれにすべてを委ねることでしか生きられないというのなら。かおりさんの弱い部分も、情けない部分も全部、知りたい。だって、それを含めてのかおりさんだもん」
「純さん……わたし……」
「おいで」
純さんが広げた腕の中に、わたしは自然と飛び込んだ。純さんはそっと抱きしめてくれた。その瞬間に、うんと子どもの頃、兄にもこうして抱きしめられた記憶が蘇る。それに気づいたかのように彼が言う。
「本当はお兄さんに甘えたかったんだよね。おれは兄ちゃんだから、甘えられるのは歓迎だ。実のお兄さんに出来なかったことは、今、おれにすればいい。胸を貸すことくらいはできるから」
泣くまいと思っていたのに、どんどん涙が溢れ出てきて止まらない。わたしは声を上げて泣いた。恥ずかしいくらいに顔をぐしゃぐしゃにして。でも、純さんの腕に抱かれているうち、次第に落ち着きを取り戻していく。
すっかり涙が涸れたとき、わたしの中からはあらゆる付き物が落ちていた。心も体も軽くなっているのが分かった。
純さんに対する想いを言葉で伝えることは出来ないと悟る。それでもどうにか伝えたくて、わたしは涙で濡れたままの手を彼の背に回し、ぬいぐるみを抱くようにぎゅっと腕に力を込めた。
彼の体温がわたしに伝わり、わたしの体温が彼に伝わる。わたしは確かにここにいて、生きている。生きていていいんだという思いが再び湧いてくる。
今、はっきりと分かったことがある。本当のわたしを探し求めて見つけたのは、わたし自身ではなく、わたしを支えてくれる人。「争わず、ここで羽を休めていいんだよ」と、言ってくれる人。
どんなに肌を触れあわせても決して触ることの出来ない、目には見えない純さんの本質を感じたかったわたしは今、純さんという男性の肉体を持った、一人の人間の心に惹かれ、導かれ、生かされている。そしてわたしが触れたかったのはその「心」だったのだと知る。
「わたしはずっと忘れない。たとえこの関係が変わっても、純さんが投げかけてくれた言葉、温もり、心臓の音、匂いもすべて覚えておく。わたしだけの純さんを覚えておく」
「おれも、今日という日を忘れないよ。おれがおれを取り戻せたような、橋本純としての第一歩が踏み出せたような気がするから」
「あなたと出会えて良かった。今日、ここへ来てくれなかったら、わたしはきっと死んでいた。わたしはあなたに救われたの」
「確かにおれはここへ来た。でもきっと、かおりさんを救い出したのはお兄さんじゃないかな。何だかここにいるような気がするんだ」
「透が……ここに……? 見えるの……?」
「ううん。そんな気がするだけ」
「あなたはやっぱり不思議な人ね」
見やった純さんの顔が一瞬、透に見えてはっとする。透の方からわたしに会いに来たような気がして思わず周囲を見回す。
ショックのあまり、葬儀には出なかった。これきりお別れだなんて信じたくなかったからだ。けれど、透は寂しかったのだろう。見送ってくれないなんて酷いじゃないかと、喧嘩をふっかけに来たに違いない。
「ねえ、純さん。兄のお墓に一緒に来てくれない? 実はわたし、最期のお別れをしていないの。葬儀で手向けられなかった花くらい、供えてあげようかなって」
「うん、いいよ。お兄さんとの昔話も聞きたいな」
「そうね。兄との思い出はいろいろあるの。楽しかった思い出もたくさん」
そうだ、と返事をするかのように、部屋の照明が明滅する。しばらくここにいるつもりなら、兄の好きだった蜂蜜入りのホットミルクを入れてあげよう。
純さんに買い物を頼み、わたしは三人分のホットミルクを入れた。冷え切った身体だけでなく、心までもがほっこり温まる。こんな、ありふれた日常こそが人生であり、幸せなことなのだと痛感する。
「透。今度生まれ変わったら、また兄妹になろうね。……って、聞こえたかな」
いるかどうかも分からない兄に向かって言うと、純さんが、
「ちゃんと伝わってるよ。かおりさんの祈りは伝わる。信じていればきっと」
と力強く答えてくれた。この迷いなき言葉にわたしは何度も勇気づけられる。
「そうね。今度はちゃんと届きますように……」
わたしは目をつぶり、手を合わせた。心の底から「また会いたい」と願ったとき、脳裏に兄の顔が浮かんだ。その顔は今までに見たことがないくらいに笑っていた。
純
この日の出来事はおれの、おれたちの関係のあり方を考えさせる大きなきっかけとなった。
おれのことを必要としてくれるかおりさんのために変わりたい、と心底思った。ただ抱きしめておしまい、ではなく、かおりさんをまるごと受け容れられるようになりたいと。
それは、おれが一人の人間として歩み出す勇気を持ちたいという強い気持ちの表れでもある。これまでとらわれてきたあらゆる観念から解放されたい。新たな気持ちを持って生き直したい。おれもまた、かおりさんを必要としているから。
*
大学の春休みを利用し、おれは旅行の計画を立てた。かおりさんの車の旅はいつも日帰りだったが、今回は新幹線に乗っての遠出だ。関東甲信越にも見所や訪れてみたい場所はたくさんあったが、今回はどうしても「そこ」でなければならない理由があった。
「着いたわね」
かおりさんは、広い京都駅のプラットホームを見回しながら言った。
そう、おれが行きたかったのは京都。それも清水寺だ。修学旅行でも行ったし、誰もが一度は訪れたことのある場所だろう。それでも、だ。境内の、めぐっていない「あの場所」におれは行きたい。行かなきゃならない。
少ない荷物を持ち、駅からタクシーで清水寺へ向かう。春休みと言うこともあり、平日にもかかわらず人は多かった。しかし大抵の人が、本堂や音羽の瀧に向かっていくのに対し、おれは真っ先に三重塔に隣接する随求道を目指す。
随求道の胎内めぐりは、大随求菩薩の胎内に見立てたお堂で、中にある石に触れながら願掛けをすると願いが叶うと言われている。
「一人ずつ入るんですって。……純さん、先に行く?」
行く手に広がる闇を前に彼女は振り向き、おれの顔を見た。
「かおりさんが先でいいよ。おれはあとからついていく」
「……真っ暗闇は苦手だけど、じゃあ、先に行くわね」
胎内を再現したとあって、中は暗いらしい。本当は手を繋いであげたいところだが、ここは彼女にも怖さを克服してもらって、一人で進んでもらう。かおりさんは恐る恐る前へと歩き出し、闇に消えていった。
たった一つの、どうしても叶えたい願いがある。他のことはどうでもいい。唯一、これさえ叶えばいい。たいそうな思いを胸に抱き、かおりさんが消えていった闇の中へ足を踏み入れる。
一筋の光も差さない、真の闇が迫る。なるほど、これが胎内だと言われればそうに違いない。壁を頼りに、どのくらい続くのかも分からない、何も見えない道をひたすらに進む。
進むにつれ、とても不思議な感覚に包まれる。まるで、母親の胎内に還ったような安らぎと温かさ。とうに忘れているはずなのに、なぜだか懐かしいとさえ感じる。
母親の胎内をイメージした瞬間、閃光が脳内を横切った。何が起きたか考える間もなく、そのわずかな時間に大量の過去の記憶が駆け巡る……。
『決めた。この子の名前は純にする。純粋の純。純白の純。清らかな心の持ち主に育って欲しいもの』
それは確かに母の声だった。顔は見えない。どうやらおれは胎内から聞いているようだ。続いて父の声も聞こえる。
『えー? 俺はやっぱり球児とか塁とか、いかにも男っぽい名前にしたいんだけど。野球やらせたいし』
『だーめ。一人目は私に決めさせてくれるって言ったでしょう?』
『……まあ、いっか。橋本純。ああ、いいかもしれないな』
『決まりね! はーい、今日からあなたは純よ。早く会いたいなあ』
『すぐに会えるさ。な、純?』
二人が腹を撫でているのが分かった。愛おしそうに、愛を込めて、本心からおれに会いたいと願っているのが伝わってきた。
二人の間に生まれてよかった、とはじめて思った。愛し合う二人がいたから……そう、おれはひと組の男女の交わりがあったから今、ここに居るのだと改めて実感する。
その男女の営みが、生命を生み出す行為が、おれには出来ない……。ずっとそう思っていた。かおりさんと親密になればなるほど、自分の無能さに苦しんできた。精神的な繋がりだけを求めていると口では確認し合っても、身体の芯の部分、魂レベルではやっぱり、かおりさんの求めに応えたいと願うおれがいる。
だからおれは、生まれ変わりたいと思った。もちろん、今のおれを全否定するつもりはない。こんなおれもいていい、とは思う。だけど、今のままでは絶対にかおりさんを真の意味で幸せにすることは出来ないし、それはおれも同じだ。
幸せになりたい。かおりさんと一緒に。おれを一番理解してくれる彼女とともに。
歩みを進めると、照らし出された石に出会った。これが……。
おれは目をつぶり、石に触れながら真剣に祈った。男の身体に生まれたおれが、男としての役割を全うできるように。かおりさんと愛し合える身体になれるように……。
今度はまぶた越しに強烈な光を感じた。その光が誰かの大きな手になっておれを包み込む。おれの直感が神の降臨を告げる。にわかには信じがたい。けれど、そうとしか言いようのない温かさと力強さを感じるのだ。
おれは祈り続けた。生まれ変わりを望んだ。そのとき、おれの中の根っこの部分に強い力が入り込んできた。同時に、今までに感じたことのない、身体の奥底からみなぎる何かが、抑えつけようのない何かが湧いてくる。
我慢できずに目を開けた。が、開けたかどうかも分からないほど周囲は暗い。後ろの人にせっつかれて、ようやく意識がここに戻ってくる。
一瞬だけでも夢を見ていたのだろうか。そうは思いたくない。おれは確かに神に触れた。神から力を授かったのだ。
(神様。ありがとうございます……。)
何度も礼を言い、光る石をあとにする。出口が見え、光の世界に舞い戻ったら、あまりの明るさに目が眩んだ。一瞬どこに居るのか分からなくなり、心細くなる。
「純さん」
かおりさんの声が聞こえ、同時にその手がおれの腕を取る。不安は一瞬で消え去り、安心感がおれを包み込んだ。
「なかなか出てこないから心配したわ。……長い間、祈っていたの?」
「うん。これだけはどうしても叶えたいから」
「純さんの願い事って何かしら?」
「かおりさんが教えてくれたら、おれも教える」
「内緒に決まっているでしょう? ……でも、二人に関係すること。それだけは教えてあげる」
「そうなんだ。おれも同じ」
「……叶うといいわね」
「ここまで来たんだ、叶ってもらわなきゃ困る」
意地になって言うと、かおりさんは少し心配そうな顔をした。こんな顔を見るために京都まで来た訳じゃない。おれは「よぉーし!」と気合いを入れた。
「ホテルのチェックインにはまだ早いし、このまま市内の寺院めぐりだ。行きたいところ、ある?」
「ええ、たくさん」
かおりさんは、待ってましたとばかりに持参した旅程表を取り出した。そこには訪れたい寺院名と、バスの時刻がびっしりと書き込まれていた。
***
有名どころの寺院を中心に巡り、夕食を済ませてホテルに着くころには九時近くになっていた。部屋に入って荷物を置き、一息つく。窓からはかろうじて京都タワーが見えた。が、期待していた景観にはほど遠い。
「……夜景でも見に行かない?」
おれはちょっとかしこまって、かおりさんを展望ラウンジに誘った。あと数ヶ月で二十歳になるのをいいことに、年齢を偽ってカクテルを注文する。バーテンダーがシェーカーを振り、三角形のグラスに液体が注がれると、急に大人びた気持ちになった。かおりさんも同様にショートカクテルを頼み、二人揃ったところで乾杯をする。
一口飲む。カクテルは、レモンがきいているのか、酸っぱかった。喉を焼くアルコールに目の覚める思いがする。
「おいしいわね」
かおりさんは満足そうに言うと、続けて何度か口をつけた。彼女の方は赤くて甘そうだ。
ラウンジから見る京都の夜景は格別だった。かおりさんといるから余計にそう感じるのかもしれない。いつか二人で見た、黄金色のイチョウの葉をちりばめたように美しい。
「今日はありがとう。素敵な一日だったわ」
かおりさんはグラスを見つめながら言った。
「わたしの願い事はもう叶ったようなものね。……この先もずっと、あなたと一緒にいたい。こんなふうに語り合って、穏やかに過ごしていきたい。そう願ったの」
「かおりさん……」
「純さんの願いはもっと壮大なのかな……。例えば、二人で世界中を旅したい、とか」
「その前におれは、かおりさんを知る旅がしたい。それも出来ないで、世界中を旅することなんて出来ないよ」
「えっ……」
おれはかおりさんの手に自分のそれを重ねた。そしてまっすぐに見つめる。
「おれの願いは、かおりさんと……身体ごと繋がること……。出来るかどうか分からない。でも……そうしたいって思ってる。心の底から」
「……それは、わたしのために?」
「二人のために」
おれはすぐに答えた。
「本当のおれは、目に見える世界のどこかじゃなくて、おれの身体の深いところにいたんだ。それをかおりさんが見つけ出してくれた。
……現実世界に、ありのままの自分が住める場所を求めて始めたのがブログだった。確かに、ネット上の広い世界には、こんなおれでも受け容れてくれる人がたくさんいる。居心地もいい。だけど、いつまでもそこにいちゃいけないんだ。おれには、現状を乗り越えていく力がある。かおりさんがそのことに気づかせてくれたんだ。
今抱いているこの感情は、もしかしたら尊敬から来ているものなのかもしれない。もっと知りたいという、単なる知識欲なのかもしれない。それでも、それを含めて愛と呼ぶなら、おれはかおりさんを愛してる……。
……教えて欲しい。かおりさんが、おれなしでは生きられないといった、あの言葉の真意を」
「……言葉通りの意味よ」
かおりさんは困ったような顔をしてうつむいた。
「……わたしはあなたの虜。その声、その笑顔、その知的さ、そして……」
チラリと上げた目がおれを見つめる。直後、彼女の唇がおれのそれに重なった。
「愛しています。深く深く。あなたのすべてを、わたしに下さい」
全身を、雷に打たれたような電撃が走った。
もっとこの身体に触れたい。
中心に踏み入りたい。
そんな衝動が津波のように押し寄せる。
夜景が目の端に映る。どんなに美しい夜の街並みも、今となってはかすんで見える。おれは彼女の手を取り、部屋に戻った。
何も語らなくても彼女の気持ちが手に取るように分かる。今はもう、彼女しか目に入らない。
服を脱ぎ去り、はじめて互いの素肌を見せ合う。恥じらいと高揚と深奥に触れたいという欲求とが入り交じる中、手探りながらも心と体の赴くままに二人の仲を深め合う。
聞きかじった知識を寄せ集め、かおりさんをひたすらに求めた。おれ自身も彼女に与えようと努力した。
激しくもつれ合ったが結局、思ったような最後を迎えることは出来ずに終わった。なのに、なぜか満足感でいっぱいだった。
互いをよく知れた。自信を取り戻せた。そして何より、おれを見つめるかおりさんの顔が笑みで満ちている。この身を差し出すことで彼女を幸福にすることが出来る。そして彼女の微笑みがおれを幸せにする。
かおりさんが言う。
「肉体の繋がりなんて必要ないと思っていた。けれど、こうしてあなたと触れあってみて悟ったわ。わたしたちは互いに生きる力を与え合っているんだって。そうやって人は命を繋ぎ、生きていくことが出来るんだって」
それを聞いておれも思う。与え合うことで男と女は、人として完全な存在になれるのだ、と。人はこれが知りたくて相手を求め、愛を知り、命を繋いでいくのだ、と。
「生まれてきてくれてありがとう。生きることを選んでくれてありがとう。かおりさんの命はおれの命だ。そして、おれの命もかおりさんに委ねる。おれたちは一つだ」
おれの言葉に、かおりさんは深くうなずく。
「ええ。たとえ命を生み出すことが出来なくても、わたしはずっとあなたのそばにいるわ」
「好きだ。かおりさんが大好きだ」
「わたしも。純さんが大好き」
おれたちは再び抱き合った。互いの肌の温もりを強く感じながら。
かおり
純さんに抱かれて、彼の心の海の深さと広さを知った。どこまでも透明で、どこまでも美しく……。それでいてわたしを飲み込むことはせず、波打ち際までそっと運んでくれる優しさを持っている。
彼という海を泳ぐうち、わたしの中に残っていた最後の淀みもきれいに洗濯されて真っ白になった。今では世界中がキラキラと輝いて見える。世界は思っていたよりずっと優しく、温かく、愛に満ちあふれている。純さんがそのことを教えてくれたのだった。
*
春休みも終わりに近づいた頃、わたしたちは久しぶりに後藤さんの生家である春日部神社を訪れた。後藤さんから「ご神木が芽吹いた」と連絡をもらったからだ。
春日部神社にはご神木があったが、数年前に落雷を受けて焼失していた。その神木からつい先日、新たな命が芽生えたのだという。
兄の魂を感じたり、純さんの身に起きたことを聞いていなければ、この木に宿る神の存在を信じることはなかっただろう。わたしたちは見えない存在や力に支えられて生きている。今のわたしはそのことを身にしみて感じている。
神木の前に後藤さんと高野君、そしてわたしたちが立つ。
「ご神木さまは、神様は、今も昔も変わらず、私たちのことをここで見守ってくださってる。私には分かる」
後藤さんは焼け落ちた大樹を見上げ、力強く言った。その脇で純さんも、「神様の命って、永遠なんだなあ」と呟く。
二人を見ていて思う。彼らは生まれながらにして心が清らか。だから一緒にいても高野君を奪い合うことはなかったのだと。きっと、高野君もそれを感じているから上手くいっているに違いない。最初は不思議に思えた三人の関係も、今ならすっと理解出来る。
「そうそう。こっちに遊びに来てくれるって言うんで、ケーキを焼いたんだ。おれが今、一番力入れてるやつ。どうしても感想が聞きたくてさ。ぜひここで食べていってくれよ」
高野君は、ずっとその手に持っていた紙箱を純さんに手渡した。
「わあ、斗和君のお菓子だ。ひさしぶりー。ありがとう」
純さんが紙箱を開いたので、一緒にのぞいてみる。そこには、まるでどこかの洋菓子店で売っているような、すべてが完璧な出来映えのショートケーキが入っていた。親切にも使い捨てのフォークまで添えてある。
「……これ、斗和君が? さっすが、料理学校で学んでるだけあって、なんていうか……すげえや」
境内の一角にあるベンチに腰掛け、膝の上にケーキを載せて食べる。おいしい、の一言に尽きる。見た目だけでなく、味もプロ顔負けだ。……でも、純さんは何か思うところがありそうだ。さっきから黙したまま食べている。
「どうかしたの?」
「……昔の方が好きだな。斗和君の菓子の味」
その一言には妙に重みがあった。
「これはおれのフィルターがかかってるせいだと思うけどね。あの頃が懐かしい、的な?……そうか。おれも斗和君も変わったんだな」
「えー、いまいちだった? 純に褒めてもらえないのは結構ショックだなあ」
高野君は肩を落とした。
「いや、うまいよ。むしろ完璧だ、って思う。ただ、以前ほどの感動がなかったっていうか」
「…………」
「どうやら、おれの味覚が変わっちゃったみたいだ。斗和君のことは今でも……友だち以上恋人未満のつもり。だけど、今のおれには斗和君よりも心を許せる人が、感動を共有できる人がいる。……そのせいなのかな」
「……そうだよな。お前にはおれよりもずっと似合いの相手がいる。なんか不思議だけど……お前がちゃんと幸せを見つけられてよかったよ」
高野君はそう言って、わたしの肩に手を置いた。言葉はなかったが、「純をよろしくな」と伝えようとしているのが分かった。わたしは力強くうなずいてそれに応えた。
人の命には限りがある。わたしと純さんの関係も、どれだけ永遠を望んでみても必ず別れのときが来る。それはどちらかの心変わりかもしれないし、死によってかもしれない。
いつかそのときが来ると分かっているからこそ、わたしは今、自分の感じたままに純さんを愛し、支えていきたいと切に思う。
「また来るわ。ここに、必ず。神木の生長を見に。そしてわたし自身も成長したと報告するために。……負けないわよ、たとえ相手が神様だってね」
「あっ、強気のかおりさんが顔を出した」
わたしの言葉に純さんがすぐに反応した。
「わたしの本質は変わらないわ。これもわたしの一部分。この脳と身体から逃れられないのなら、一生付き合っていこうって、今は思ってる」
「うん、そうだね。おれもこの心と体のアンバランスを感じながら生きてく。……だから時々、いい男を目で追いかけちゃっても許してね」
「…………! 気移りされないように頑張るわ……!」
「うわっ、鶴見のやつ、架空の男にライバル心燃やしてるよ……。やっぱ、純とうまくやっていける女は違うなぁ」
高野君が妙に納得する横で、後藤さんがわたしと純さんを交互に見て言う。
「……えっ? もしかして、二人って付き合ってるの? だって橋本は同性愛者で……。えっ、いつからいつから?」
「はぁー、これだから凜は……。勘がいいんだか悪いんだか、分かりゃしない……」
そういえば、後藤さんにはわたしたちの関係をちゃんと伝えていなかった。相変わらずの天然キャラぶりに、思わず純さんと顔を見合わせて笑う。そして、こんな穏やかなひとときを大切にしたいと思う。当たり前ほどもろく、壊れやすいものだから。
「あれっ、鶴見さん。お日様に照らされて、まるで神様に祝福されてるみたい!」
後藤さんに言われてみてみると、確かにわたしにだけ木漏れ日が当たっていた。わたしはまぶたを閉じた。そして春の陽を、木々を、神や精霊の存在を感じた。
わたしは、わたしに関わるすべての存在に生かされていると知る。もし、兄の分も生きる定めなのだとすれば、わたしにはたっぷり時間がある。世界中を旅したり、純さんと思う存分語り合ったり……。やりたいことがたくさんある。一度きりしかない人生。やり残しのないよう、悔いなく生きようと改めて誓う。
「あー、なんか腹減らねえ? 昼飯食いに行こうぜ」
高野君がお腹を押さえながら言った。
「それなら私は斗和に作って欲しいな。せっかく鶴見さんたちが来てるんだし」
後藤さんが手を挙げて提案した。
「えっ?!」
高野君は声を裏返した。
「おれもそっちがいいな。なんたって、プロを目指してる斗和君だもん。お手並み拝見っと」
「わたしも賛成だわ」
「……ぅええっ?! なんでそうなるっ?! って言うか、何食べるよ?!」
「シェフに、お・ま・か・せ♡」
困惑する高野君をさらに困らせるかのように純さんが言う。後藤さんとわたしも首を縦に振ってうなずく。
「……わかったよ! 作るって! その前に材料調達してこないと……。えー、何作ろっかなあ……」
高野君は弱り顔だが、どうやらスイッチが入ったようだ。真剣にメニューと材料を考え始めている。それを見てわたしたちも自然と笑顔になる。
(透。見ている? 生きていれば辛いこともあるけれど、楽しいことも同じだけあるのよ。……わたし、今とっても幸せ。わたしに命を託したのなら、この幸せが長く続くように見守っていてね。)
天を仰ぐと、神社の木々の葉がそよそよと揺れた。まるで透が「見守っているよ」と語りかけているかのように。
――end――
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