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【完結小説】「好きが言えない 2」後編

前編のお話:


幼なじみから恋人同士になった祐輔と詩乃。しかし祐輔は、想いが膨らみすぎて野球にも勉強にも身が入らない状態に。見かねた詩乃は祐輔に別れを持ちかけ、なんとか野球に集中してもらうべく画策する。

一方、チームメイトの野上は祐輔の成績が芳しくないのを見て自分がピッチャーになると宣言。また、詩乃にも告白めいた発言をし、祐輔を揺さぶる。追い詰められた祐輔は信用を取り戻すため、ピッチング練習に打ち込む。

部長の計らいで全員がポジションの適性テストを受けることになる。
結果、祐輔、野上の二人はピッチャーを務めることとなる。どちらがレギュラーになるかは、チーム内対決で決めることになった。

チーム内対決は両者の好投で長引くかと思われたが、後輩からホームランを打たれたのを機に野上の投球は乱れてしまう。野上は実力差を思い知り、自らマウンドを降りる。

なんとか面目を保った祐輔の胸に詩乃が飛び込む。
どんなに成績が振るわなくても関係ない。私はどんな祐輔も好きなのだと胸の内を明かす。祐輔は詩乃を悲しませまいと、ますますいいピッチングをしようと誓う。

そこへ永江部長が現れる。二人は別れるべきだと提言したのは部長だったのだ。
甲子園を目指すためにも、恋愛脳で野球をされては困ると言い放つ。
冷徹な部長に不信感と嫌悪感を抱く祐輔。バッテリーを組まなければならないと思うと気分が落ち込むのであった。

   1

 七月上旬から夏の大会が始まる。
 永江が新しいレギュラーを発表してからと言うもの、部内にはますます緊張感が走るようになった。誰も、何も言い返せない雰囲気が漂い、みな、肩に力が入っていた。
 あいつの、甲子園への情熱は我が部では異常に映る。なぜあんなにも鼻息が荒いのか、理由を知るものは俺しかいない。もしこの空気を変えることが出来る人間がいるとしたら俺だけだろう。でも、その俺でさえ口出しすることは許されない感じだ。

 普段は不在だが、大会中だけは好成績を残すため、外部から監督を呼ぶ。これまでの大会では、監督とは名ばかりの野球部OBに依頼し、なんとか体裁を保っていた。春の大会ではなんとかいいところまで進出したが、監督のお陰とは言いがたい。永江のように「甲子園」のことしか頭にないような人間を本気でそこへ連れて行こうとするなら、まともな実績を残している監督が必要になるだろう。
 きょうはその、監督と初対面する日だ。どんな「若い監督」がやってくるだろう。先日のポジション決めで審判をしてくれたOBの先輩かもしれないな、などと想像する。
「みんな、集まってくれ」
 部活が始まり、部室に顧問がやってくる。みなが一斉にそちらを向く。
 一瞬にして空気が変わる。顧問とともに現れた初老の男性に俺ははっとし、頭を下げた。永江も同じようにした。
 顧問がいう。
「今日から監督として就任してもらうことになった、星野さんだ。永江の希望を聞き入れて引き受けてくださるそうだ。中学生の野球チームを優勝に導いた実績もあると聞いている。甲子園出場も夢ではないぞ。みんなにはますます練習に励んでもらいたい」
 そうか。これは永江が演出したことだったか、と納得する。
 星野監督は、俺と永江が中学の時所属していた野球チームの監督をしていた人だ。地区大会で優勝したこともある。とても信頼していたが、持病の治療を理由に監督業を引退していた。
「このたび、K高の野球部監督を任された星野だ。春の大会の成績は聞き及んでいる。夏の大会はすぐ目の前だが、鍛え方次第ではさらに上を目指すことも十分可能だ。わしは厳しい指導はしない。その代わり、どんな攻撃をすればいいか、どんな守りをすればいいかという指示はする。ほかの監督とは違うだろうが、まぁ、こういうやり方でもよければよろしく」
 懐かしい口調の挨拶。以前と変わらず元気そうにみえる。俺は監督に声をかけるため歩み寄った。
「監督、お久しぶりです。水沢です。覚えていますか?」
「水沢庸平(ようへい)か。もちろん覚えているさ。どうだ、永江のお守(も)りはちゃんと出来てるか?」
「いやぁ、むずかしいっすね……。監督が来てくれて、助かります」
「水沢でも手こずっているなら仕方がない。やはりわしが矯正してやらんとダメみたいだな」
「そうですね。あの、お体の具合は大丈夫なんですか?」
「うむ。順調に回復しているよ。ただ、延長戦にもつれ込んだら体力が保たんだろうから、できるだけ早く試合が決着するようにしてくれよ」
「じゃあ、永江には打たせないようなリードをしてもらわないといけませんね」
 俺がそう言うと背後から咳払いが聞こえた。振り向くと永江が立っていた。
「昔話に花を咲かせるのは結構ですが、人の悪口を言うのは感心しませんね」
「悪口なものか。わしらはお前の心配をしているだけだよ」
「心配される理由がありません」
「そういう態度を心配しているんだよ。さあ、時間も限られているし、すぐに練習を始めてくれ。君たちの野球をまずは観察しないと」
 監督はそう指示を出した。

「永江ー。帰るぞー」
「ああ」
 練習を終え、俺らは帰宅の途につく。
 川越駅から下り電車に乗り込んでも、会話はほとんどない。永江の頭の中はきっと、夏の大会のことでいっぱいなんだろう。
 中三のある時から、永江孝太郎って人間はがらりと変わった。
 変わる以前のあいつは気性も穏やかで付き合いやすかった。が、その後のあいつは、ひとたび怒りの感情が噴出すると手をつけられなくなる。まさか、あの優等生の永江が、あんなふうにキレちゃうなんて誰も思ってなかったもんな。あのとき止めてなかったらどうなっていたのか。時々想像しては恐ろしくなるんだ。


   2


 人前であれほどの怒りの感情を顕わにしたのはあのときだけだ。
 自分でも、まるで自分ではない何者かに心も体も支配されてしまったかのように感じた。我ながら恐ろしい体験をしたと思っている。
 きっかけは分かっている。野球を熱心に教えてくれた父が病死したせいだ。三年前の春、僕は心の支えをなくしてしまった。
 僕に出来るのは野球を続けること。それだけが僕の不安定な心を落ち着かせる唯一のことだった。
 なのに。
 母がそれを否定した。
 それだけじゃない。
 僕の努力してきたことすべてを踏みにじる発言をした。
 しかも、担任との三者面談で。
 許せなかった。
 暴力、なんて次元じゃなかった、と思う。
 気づけば母の顔は真っ赤になっていた。高揚していたのではない。鮮血で、だ。
 覚えているのはその場面だけで前後のことは周りに聞いた話だが、今思い返してみても、悪いことをしたとは思っていない。ただあの場で、次の面談者だった水沢が止めてくれなかったら、僕は今ごろ犯罪者になっていたに違いない。
 今でも水沢は僕に親切にしてくれる。でもそれはきっと、あんなふうにならないために監視しているんだと思う。
 それでもいい。そっちの方が何倍も気が楽だ。

 今日も水沢の家でやっかいになる。まるで合宿しているようなものだ。
 中学の頃から、水沢家で食事をしたり泊まったりしたことはあった。冷めた料理を一人で食べているという話を伝え聞いた水沢の母親が僕を不憫に思い、一緒に食べようと誘ってくれたのがきっかけだった。当時、父の看病で母は留守がちで、一人っ子の僕はそういう生活を余儀なくされていたから、「家族」で食事をする時間は特別だった。
 水沢の家族と過ごすのは、僕にとっても心地がいい。
 父がいて母がいてきょうだいがいて。喧嘩もするが、そこにはちゃんと「愛」がある。僕は彼らを見るといつもそう感じるし、もし父が生きていたら僕も家族の愛を感じられたのだろうかと、少しばかりうらやましく思うこともある。

「なぁ、孝太郎。いつから監督と交渉してたの? 俺に内緒でさぁ」
 食事が済んでリラックスしたのか、水沢はそう言った。家にいるときの水沢は僕のことを「孝太郎」と呼ぶ。本当は親を思い出すからあまり好きではないが、家にいるときだけという条件付きで許している。
「ひと月程前から。君を驚かせようと思って黙ってたんだ」
 実を言うと、僕自身オファーを受けてくれるとは思っていなかったので、あの場に顧問とともに現れたときは正直、驚いた。そのくらい、音沙汰がなかったのだ。水沢に伝えられなかった理由もそこにある。
「孝太郎がサプライズプレゼントをくれるとは意外だね」
「君だって、星野監督ならやりやすいだろう?」
「まぁ、そうだけど。ずいぶんと無茶なお願いをしたもんだ。持病のある老人に、もう一度指揮を執ってくれ、だなんて」
「どうしても……」
「……甲子園、か?」
「ああ。父と夢見た場所だ。行きたいんだ、どうしても」
 行けばそこに父がいる気がして。だから、勝って、勝ち進んで、甲子園に行きたいのだ。
 ただ、父の亡霊に会えたとしても、そこでどうしたいのかまでは分からない。けれど今の僕は、そうすることでしか生きる意味を見いだせないでいる。
「孝太郎一人が頑張っても、行ける場所じゃないんだぜ? それは分かってるよな?」
 息巻く僕を、水沢は冷静に諭した。僕はうなずく。
「だからこそ、実績を残している監督が必要なんじゃないか。星野監督は信頼できる」
「まぁ……そうだな……」
 水沢の曖昧な返答に不安になった。
「……僕は変なことを言っているだろうか」
 時々、自分が分からなくなる。自分では当たり前のことを言ったりしたりしているだけなのに、周りの目が僕を「変わり者」のように見ている気がしてならない。
 水沢は言いにくそうに頭を上下に動かしたあと、意を決したように言う。
「お前さ、その先のこと、考えてる? 夏の大会が終わったあとのこと。今のお前見てるとさ、お前の人生って夏の大会で終わるみたいに感じるんだよ。だから、ちょっと怖いんだよ」
「……怖いって、何が?」
「……ほんとに分かってないんだなぁ。……死ぬんじゃねぇぞ? お父さんは死んじゃったかも知れないけど、孝太郎の人生はまだまだ続くんだから」
 彼の言うことは至極もっともである。あとひと月ほどで僕の高校野球人生は幕を閉じる。勝っても負けても、だ。甲子園という目標がなくなったら、僕はその先どうすればいいのだろう。
「これから、考えるよ」
 僕は彼を心配させたくなくてそう答えた。彼は疑っているようだったが、今はそれ以上追及してこなかった。


   *


 星野監督の指導の下、僕たちは「考える野球」をする日々を送っている。一死一塁の時はどう投げさせるか? 先制を許した次の回の攻撃はどうするか? など。
 一球ごとに頭と体を使うから、終わる頃には誰もがヘトヘトになっていた。
 それでも僕は満足できなかった。この程度で根を上げていては、優勝決定戦まで保ちやしない。もっと体力をつけ、技術力を向上させなければ一勝さえ遠い。部活動が終わって帰宅したあとでも、素振りやランニング、今日指導を受けた内容の復習をしなければ落ち着かない。
 いつもはそんな僕に水沢も付き合ってくれる。が、今日だけは違った。
「永江、きょうは先にうち、帰っててくれる? ちょっと……用事があるんだわぁ」
 部活中から何だかそわそわしていると思っていた。今だって、早くこの場から離れたいという空気が伝わってくる。
「用事、か」
「そう。用事。じゃ、そういうことで」
 水沢はそう言うなりスマホを取り出し、誰かに連絡をし始めた。
 彼の隠し事は実にわかりやすい。いや、男なんてみな同じように嘘をつく。
 薄々気づいてはいたが、たぶん水沢には彼女がいる。きょうはその「用事」があるんだろう。
 彼なりに気を遣ってはいるようだが、僕としてはやり不満がある。気の知れた仲とはいえ、こんなときに「女」とは。

 ため息をつき一人、川越駅に向かう。帰宅ラッシュ時の駅は混み合っている。いや、どうやらそれだけではない。電車が止まっていて駅に人があふれているようだった。駅員がしきりに客の対応をしていたり、アナウンスをしたりしている。
 急いでいるわけではないが、面倒なことになった。僕はどうしたらいいか分からず、改札の前でしばらくのあいだ呆然としていた。
 すると、
「あっ、部長。どうしたんですか?」
 背後から明るい女の声が聞こえた。春山クンだった。
「やぁ。電車が止まっているらしくてね。帰るに帰れないんだ。それはそうと、君は電車通学ではなかったはず。なぜ駅に?」
「家族に買い物を頼まれたので。うち、川越駅からすぐのマンションなんです」
「なるほど」
 彼女は自宅マンションがあるらしい方角を指さした。と、そのとき、どこからかギターの音と歌声が聞こえてきた。ちょうど、彼女が指さした方からだ。
「あっ、きょうは来てるんだ!」
 彼女は突然はしゃぎ始めた。
「来てるって、誰が?」
「ストリートミュージシャンの『サザンクロス』ってグループです。このあたりで活動してる三人組なんですけど、私、結構気に入ってて時々お金入れてあげるんです。ほんのちょっとですけど」
 素人のバンドにお金を投じる感覚が全く理解できなかったが、彼女は「部長も聞いてみたら分かりますよ。行きましょうよ」と腕を引っぱった。電車が止まっている状況では、断る理由が見当たらなかった。

 三人組のうち、ボーカルは女性、残りが男性でギターを弾いている。
 春山クンはなんだか嬉しそうに彼らの曲に耳を傾けている。思えば、はやりの曲どころか野球以外のことは何一つ関心を持てないでいる。改めて自分は、馬鹿がつくほど野球一筋なのだと認識する。
「もしかして、コウちゃん……?」
 歌が終わると、ボーカルの女性が僕の名を呼んだ。そんなふうに呼ぶ人は少ない。僕は化粧をした女性の顔をしばらく見たあとでようやく思い出した。
「麗華(れいか)さん……? こんなところで何やってるんですか」
 水沢の、四つ上の姉だった。僕が中学生の時にはまだ家にいて顔を合わせることもあったが、彼女が大学進学を理由に家を出てからは会うこともなくなっていた。
 お互い、すっかり容貌は変わっている。それでも向こうは僕だと気づき、僕も麗華さんだと分かった。不思議だった。
「あれ? 部長の知り合いですか?」
 春山クンは僕と彼女の顔を交互に見た。
「水沢のお姉さんだ。僕と彼は中学の頃からの付き合いでね……。麗華さんにも何度か会ったことがあるんだ」
「そうなんですか?!」
 春山クンは妙に興奮していた。その隣で、僕と麗華さんはどう振る舞えばいいか分からず、互いに見合ったままだった。
 彼女は僕のことをじっと観察していた。が、そのうちにぽつりと言う。
「コウちゃんの顔を見ていたら、この歌が歌いたくなったわ。きっと気に入ると思う」
 次はこれで行きましょう、麗華さんはメンバーにそう声をかけ、楽譜を広げ始めた。
 僕の顔を見て選曲? 一体何を歌おうというのだろう?
 麗華さんは深呼吸を一つすると、ゆっくり歌い始めた。


 果てしない夢 いつか叶えたいと
 語り合った 幼い頃

 見るものすべてが 美しかった
 夕日のオレンジ 空の青
 木々の緑 桜色

 心揺れた景色は いまも 色鮮やかに

 強く生きていくと 誓ったあの日
 僕は僕を超えたんだ

 まっすぐな どこまでも続く道をゆく
 立ち止まっちゃいけないと
 いつでも全力なんだ マイウェイ

   ♯

 ひとりでは夢 叶えられないと
 落ち込んだ 春の夜

 見るものすべてが にじんで見えた
 雨空の下 傘も差さずに
 冷たい雨に 打たれてた

 傘を差してくれたのは ともに歩んだ仲間

 ひとりで生きていくと 誓ったあの日
 僕は僕を超えれなかった

 まっすぐな想いだけじゃ ダメなんだって
 仲間がいるから強くなれる
 もっと全力なんだ ずっと

     ♯

 ひとりじゃ届かない歌声も 届く みんなとなら

 まっすぐな どこまでも続く道をゆく
 立ち止まってもいいんだと
 教えてくれた ありがとう 友よ

 歩いて行ける 僕はもう ひとりじゃないから


 目の前で誰かの歌を聴いたのは初めてだった。そして、不覚にも聴き入っていた。
 なぜか、胸が痛んだ。こんな感覚は味わったことがない。これが歌の力というやつなのか。にわかには信じたくなかった。
 麗華さんは歌い終わると微笑んだ。
「最後まで聴いてくれてありがとう。私たちの想い、届いたかな?」
 どう答えていいか分からなかった。春山クンを見る。察しのいい彼女が僕の代わりに口を開く。
「とっても良かったです! 麗華さんの歌声も素敵でした!」
「ありがとう。良かったらもっと聴いていって」
「あ、そういえば私、お遣い頼まれてたんだった! すみません、また来ますので、きょうはこの辺で」
 彼女は財布から小銭を何枚か取り出すと、置かれている小さな箱に入れた。なんとなく気が引けたので、僕も彼女に習って小銭を投じた。
「また来てね。いつでも待ってるから」
 それは僕に向けられた言葉のように思えた。

「すみません、部長。急に誘ってしまって。迷惑でしたか……?」
 駅に戻りながら、春山クンが言った。
「いや、時間を潰すにはちょうど良かったよ」
「あはは……」
 僕の返事に彼女は苦笑いをした。
 ただの時間つぶしに聴いただけ。それ以上のことはないはずだった。なのに僕は妙なことを口走る。
「……あの三人組は、いつもあそこでやっているのかい?」
「え? ……三日に一回くらい、夜になるとあの場所で歌ってますけど」
「そう……」
「……ひょっとして、気に入ってくれたんですか? っていうか、ボーカルが水沢先輩のお姉さんなんですもんね。知り合いだったなら、興味もわきますよね!」
 春山クンはますますテンションを高くして満面の笑みを浮かべている。一方の僕は、なぜそんなことを知りたいと思ったのか考えていた。相手が麗華さんだったからなのか、純粋にあの歌に惹かれたのか。答えを探そうとするが、見つからなかった。
 本当に急いでいるらしい春山クンは、そんな僕には気づいていないようだ。
「また誘いますね。今日はこれで失礼します。お疲れさまでした」
 といって、本来の目的を果たすため、足早に去って行った。


   *


 春山クンと別れて駅に戻ると、折しも電車が運転を再開したところだった。駅にいた人間が一斉に動き出した。ホームはきっとごった返しているだろう。
 僕は人がはけるまで、しばし改札の前で待つことにした。そこへ、水沢がやってきた。
「あっ……」
 彼はばつが悪そうに立ち止まった。まさか僕がここにいるとは思っていなかったのだろう。隣には思った通り、「彼女」がいる。
「先に帰ってろって言ったじゃん」
「電車が動いてなかったんだ、仕方がない」
「……あのさ、永江」
 彼はそう言ったきりしばらく黙った。
 さっき聴いた歌詞がにわかによみがえり、再び胸が痛む。
 とっさに言いかけた、彼を非難する言葉を僕はぐっと飲み込んだ。
 分かってる。僕は僕の正義を振りかざし、水沢を裁きたいだけ。言っても互いに傷つくのは目に見えている。冷静になれ、と自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせる。
 やがて彼は口を開く。
「大会が終わったらちゃんと伝えるつもりだったんだ。ごめん。
 ……彼女には、大会中は会えないって、そう伝えたところ。それまで我慢してもらうつもりで、今日会ったんだ」
「ああ。そんなことだろうと思ってたさ。けど、そう言うんならちゃんと気持ちを切り替えてもらわないと困るよ。本郷クンのことがあったばかりなんだからね」
「うん、分かってるよ俺だって」
「なら、いい。僕からはこれ以上言うことはない」
 どんなに癇(かん)に障ることがあっても、怒りが噴出することはまずない。母親を殴りつけたあの日にすべての怒りを出し尽くしてしまったのかも知れない。
 それから僕らは帰宅の途についたが、その間、一言も口を利かなかった。

 たった一度聴いただけの曲が、頭の中で何度も繰り返し流れている。その間は、野球のことも、隣にいる水沢のことも、ましてやその彼女のことなど少しも考えなかった。
 野球から離れることは、僕にとって「死」にも匹敵するほどの怖さを持つはずだった。だからこそ、ずっと野球にしがみついてきたのだ。
 なのに、大会を目の前に控えたときに限って、僕の脳内は初めて聴いた曲に占領されてしまっている。追い出そうとすればするほどダメだ。
 水沢の家に着き、夕食を済ませたあとで僕はいつものようにバットを持ち、外に出た。けれども、やはり振り続けることが出来なかった。一緒に素振りをしていた水沢も手を止めた。
「どうした? 調子が出ないのか? それとも……。俺のこと、怒ってんの?」
「いや、何でもない。……水沢、きょうはバッティングに付き合ってくれないかな。無心になりたい」
「いいけど……」
 釈然としない様子の水沢だったが、僕の言った通りにしてくれた。
 水沢が投げた球を、庭の一角に置かれたバッティング用のネットに向かってひたすら打つ。白球を捉えることに集中することで、頭の中はしだいに空っぽになる。
 50球などあっという間に打ち終え、それを拾っては繰り返す。
「おい、もう勘弁してくれよ……」
 球拾いを五回させても僕の気は晴れなかった。
「やっぱり何かあったろう?」
「…………」
 僕が黙していると、水沢のスマホが大音量で鳴り出した。
「おっと、電話電話ー」
 僕のバッティングから逃れる口実が出来たとばかりに、彼はいそいそとその場を離れた。しかし話しぶりから、相手が誰かを知ることになる。


   3


 彼女からの電話かも、と慌てて出る。しかし聞こえてきたのは馴染みのある声だった。
『庸平(ようへい)? あたし、麗華。まだ、起きてた?』
 大学生活をエンジョイしている姉からだった。この頃は年始にしか帰ってこないから、今は何をしているのかさえ知らない。その姉が、一体何の用だって言うんだ?
「起きてるも何も、まだ九時だろう? いつまでも子供扱いすんなよ。もう、高三だぜ? 今、バッティング練習してたとこ。大会が近いからな」
『そうよね……。コウちゃん、近くにいるの?』
「ああ。今、庭にいる。俺はちょっと離れたとこに移動したけど、それがどうした?」
 永江が、大会の前や大会中、うちに泊まり込んで遅くまで一緒に練習しているのを姉も知っている。もう、四、五年続いている恒例行事みたいなものだ。
 俺の返答を聞いて、姉は少し声を抑えて言う。
『実はきょう、久しぶりに再会したのよ。川越駅で。あたし今、大学の友人とストリートミュージシャンしてるんだけど、そうしたら……』
「は? 姉ちゃん、何してんだよ。歌、歌ってるって……」
 変わり者の姉だとは思っていたが、また妙なことを始めたものだ。しかもその歌を永江が聴いた?
「あー、なるほど。それで様子がおかしいのか」
 つついても口を閉ざすばっかりだった理由も、姉が絡んでいるならうなずける。
『様子がおかしいって……。やっぱりそうなんだ』
 姉はため息を一つ吐き、こう続ける。
『なんか、元気なかったのよね、コウちゃん。でもすぐに帰っちゃったから、あの後どうしたかなって心配で』
「大会の前だからピリピリしてるだけじゃないか?」
『……あの子、前々から野球のことしか頭にないって感じで、放っておけないところがあるじゃない? 今日会ったとき、ますますそれに磨きがかかってるように見えてちょっと怖かったんだよね』
「姉ちゃんもそう思う? 実はさ……」
 永江に聞こえないよう声を絞り、先日あいつとした会話をかいつまんで伝えた。姉はそれを、電話の向こうで静かに聞いていた。
『……甲子園には行けそうなの?』
「そんなの、やってみないと分からない。大体、あんなのは運もあるし」
『そうよね。……頑張ってよ、庸平。コウちゃんを救うためにも。あたしもできる限り協力するから』
 協力って、一体何をしてくれるんだろう? と思ったが、聞くに聞けなかった。
 納得したのか、姉は『じゃあね、おやすみ』と言ってあっさりと電話を切った。
 まったく、俺のことは気にかけてくれない当たり、姉らしい。姉にとって永江は、実の弟の俺よりも世話を焼きたい存在のようだ。ひょっとしたら好きなのかもしれない。
 無口で勉強もスポーツも出来る男は人気がある。クラスの中にも、永江のことが好きだと言っている女子がいる。あいつだけはやめとけって感じだけど。


   *


 七月十日。大会初戦は一対零で辛くも勝利した。監督の采配が功を奏したから良かったものの、この試合は、本当の意味では負けたと言ってもいいくらいにひどかった。
 チームが一つにまとまらなかったのは、永江が一人で空回りしてたせいだ。みんな、永江のやることなすことすべてについて行けない。そんなんじゃ、次の試合は本当に負けてしまうだろう。
「何、あの叱り方。ショートが内野ゴロを取り損なったからって、みんなの前で言うことなかったじゃん。あんなふうに言われたら誰だって緊張して動けなくなるに決まってるよ」
 試合が終わったあとのミーティングの場で、俺は思わず永江に言ってしまった。
 副部長として、いや、永江に苦言出来る唯一の人間として口を開かなければならないと思ったのだ。
 しかし相手は永江だ。言われっぱなしにはならない。
「気が緩んでいたからミスをした、とも考えられるだろう。僕はただ、同じミスをしてほしくないから注意したに過ぎない」
「あのなぁ、チームでやってんだぞ? 一人プレイのスポーツじゃねぇんだ。前にも言ったよな? 永江が一人で頑張ったってどうにかなるもんじゃないって」
「だから全員に、僕と同じかそれ以上のレベルを求めているんじゃないか」
「違う! みんなが『お前』になったら、野球として、チームとして成り立たない!」
「なぜ? 冷静かつ頭脳プレイの出来る人間が多ければ多いほどミスの少ない、堅実なプレイが出来るってもんじゃないのか?」
 自分で自分のこと、冷静かつ頭脳プレイの出来る人間って言ってんじゃねえよ。とツッコミを入れようとしたときだ。
「もういいだろう、水沢。永江にはわしから話してやる」
 監督はおれたちのやりとりをじっと見守っていたが、ついに沈黙を破った。監督が言えば永江だっておとなしくなるだろう。
「よろしくお願いします」
 俺はまだまだいい足りないことを全部飲み込んで監督に託した。
「永江だけ残るように。あとは水沢の指示を仰いで帰る支度を済ませておきなさい。10分後に球場の前で合流しよう」
 水沢、後は頼む。と言って監督はチームの統括を俺に任せた。
「よしみんな、初戦突破だ。この調子で次も頑張ろう。きょうはお疲れさん」
 俺は部員に声をかけ、ベンチをあとにする。
「僕は何も間違っていません」
「その考えが間違っていると言っているんだ。この際、お前のことはきちんと教育しないといけないな」
 後ろで永江が抵抗する声が聞こえた。あいつ、キレたりしないだろうな……?
 ちょっと心配になったけど、あとはもう星野監督を信じるしかない。


   4


「僕は何も間違っていません」
 これは紛れもない真実だ。なぜみんなは、あんなふうにミスをするのか。人間だから仕方ないとか、緊張しているときは誰だってミスくらいするとか言うけれど、全部いいわけだ。全神経を飛んでくる球に意識を集中させれば絶対に捕れるはずなのに。
 しかし監督は、そんな僕の考えをへし折るかのようにため息交じりに言った。その考えが間違っている、と。
「永江は昔っから真面目すぎるんだよ。それから頭が固い。自分の意見を持つことは大事だが、柔軟に対処することはもっと大事だ。それこそ、『生きた』野球をしているわしらにとってはな」
「…………」
「話は変わるが、永江は誰かを好きになったことはあるか?」
「……は?」
 唐突に何を言い出すのかと思えば。監督は気が狂ってしまったのだろうか。それとも僕の聞き違いだろうか。
「今、なんておっしゃいましたか?」
「恋愛したことあるか、と聞いたんだ」
「……ありません。だって、そんなことに時間を割くのは無意味でしょう? 恋愛している時間があるなら僕は、1分でも長くバットを振ります」
「あー、これだからお前は頭でっかちだと言っているんだ」
 監督は手で顔を覆った。
「人は、愛する者のためなら頑張れるものなんだよ。それが恋人でなくてもいい。家族のためであっても、勝利をプレゼントしたいと思えば自然と本領を発揮できる。もちろん日々の努力あってこそだが、そういう心の支えというのは人を強くするものだよ。わしのいうことが分かるか?」
「……よく、分かりません」
「そうだろうな。今のままでは分かるまい。……宿題を出そう。次の試合までに一つ、野球以外で夢中になれるものを見つけてこい。何でもいい、小説を読むのでも、絵を描くのでも、音楽を聴くのでも、ほかのスポーツ観戦でもかまわない」
「そんな……。練習が優先ではないんですか?」
「永江はもう、十分すぎるほど練習に打ち込んでいる。君に足りないものは『情熱』だよ。いや、『愛』と言ってもいいかもしれないな。とにかくそれを持つことだ」
 僕が最も嫌っている「愛」を監督が語っているだなんて信じられなかったし、受け入れられなかった。
「宿題は監督命令ですか」
「そうだ。最低でも、見つける努力はするように」
 冷静沈着で厳しいイメージしかなかった星野監督。だからこそ、最後の夏の大会で指揮を執ってもらおうと思ったのだ。それなのに、なんということだろう。病気の療養生活が、監督を変えてしまったのだろうか。
 僕は混乱していた。そして、そんな頭のままみんなの元に戻らなければならなかった。
「お疲れさん……」
 待っていた水沢が僕に声をかけてきた。続けて何かを言おうとしたようだが、その前に監督から耳打ちされて彼は口を閉ざした。

 僕だけに課された宿題。これは僕がこれまで出されたものの中で最も難易度の高いものだ。数字でも形でもない、目に見えない「愛」というものを自分の中に見つけろ、だなんて。
 帰りしなの電車の中で、僕は何も考えることが出来なかった。思考停止、とでも言えばいいだろうか。水沢が「降りるぞ」というまで、下車駅に着いたことすら気がつかないほど頭の中は真っ白だった。
 さすがにおかしいと思ったのだろう。駅の改札口を出たところで水沢が怪訝な顔で言う。
「いったい何を吹き込まれたんだ? 監督は上手く説得できたって言ってたけど、お前の様子見てたらとてもそうは思えない」
「んー……」
 水沢に言うか、言うまいか。激しく葛藤する。しかし、一週間で監督命令と言われた宿題の答えを見つけられる自信がなかった。
「ああーっ……!!」
 僕は空に向かって吠えた。
「何だよ、急に大声出したりして」
「……笑わずに聞いてほしい。もし、彼女が君に『次の試合でホームランを打ってほしい』と頼んできたら打てるか?」
 水沢は目を丸くしたが、しばらく考えたあとで、
「……そうだなぁ。たぶん、ものすごい集中力を発揮して狙いに行くだろうな。彼女の姿が見えたら、そこに打つかもしれない」
「そうか。やはりそういうものなのか……」
「……監督に、何を言われたんだよ? まさか、彼女作れって言われたわけじゃないだろう?」
「似たようなもんだ」
「うへぇ! あの監督がそんなことを! 変わったなぁ」
 驚く水沢に、僕は監督の言った「宿題」について話した。
「やっとつじつまが合ったぜ。なるほど、そういうことか。よりによって『愛』とはね。お前も大変な宿題を出されちまったな」
「僕はどうしたらいい? 愛の『あ』の字も分からないんだぞ?」
「そう言われてもな。まずは、身近な女の子と話してみれば? そうだなぁ、例えば春山とか。あの子なら話しかけやすいだろう? それに春山は、本郷のことが好きでずっと野球続けてきたって噂もあるくらいだ。何かヒントが得られるかも知れないぜ?」
「春山クン、か」
 つぶやいてはみたものの、このときは彼女に対して特別な思いは抱かなかった。


   *


「部長から誘ってくれるなんて嬉しいです。でも、今日はいるのかなぁ?」
「いなかったらまた別の日に来ればいいだけの話さ」
「そうですね」
 翌日の放課後。僕はさっそく春山クンを誘って川越駅にやってきた。個人的に春山クンを誘える材料が「サザンクロス」しかなかった。
 彼女に会って何か得られる保証はないし、ましてや麗華さんの歌を聴いて悟れるとも思えない。だが、監督命令と言われたからには何もしないわけにもいかなかった。
 サザンクロスの三人組を探す。前回は駅の東口を出たところにいたが、きょうは見当たらない。
「いませんね。きょうは来ないのかな?」
「なら、日を改めるしかないな。せっかく一緒に来てもらったのに悪かったね」
「いえ、気にしないでください。それより部長……。監督と何かあったんですか?」
 どきりとした。思わず見つめ返す。
「……誰かから聞いたのかい?」
「そうじゃないですけど、練習の鬼の部長が、きょうは練習もそこそこに『サザンクロス』に会いに行かないか、だなんて……。確かにあの歌には私も心を揺さぶられましたけど、それだけが理由じゃない気がして、何だか心配になってしまって……」
 春山クンは相変わらず察しがいい。もしかすると、この察しの良さと優しさが男たちを魅了するのではないか、と思い至る。
 確かに。こんなふうに身を案じられれば、彼女の優しさに報いようとする本郷クンの気持ちも分かる気がする。人はそれを「愛」と表現するのだろうか。
「……君はなぜ野球を始めたんだい? 本郷クンがやっていたから?」
 僕はつぶやくように問いかけた。
「いえ、きっかけは父です。でも、そのうちに楽しくなってきて、気づけば今まで続けてきたって感じですね。もちろん、祐輔の存在は大きいですが」
「へぇ、君もお父さんから教わったんだね。僕もそうだった。……三年前に亡くなったけど」
「…………」
「甲子園に連れて行くのが僕の夢だった。なのに父は亡くなった。……そのときから僕はどう生きていけばいいか、分からなくなってしまったんだ」
「…………」
「すまない、こんな話をしてしまって。今のは、忘れてくれていい」
 自分でもなぜ彼女に父の話をしてしまったのか分からなかった。しかし彼女は顔をぶんぶん振った。
「部長がご自分のことを話してくれて、ちょっと嬉しくなりました。お父さんのこと、好きだったんだなって分かって親近感がわきましたし、甲子園に連れて行ってあげたいっていう気持ちも、ものすごく分かります」
「じゃあ君も、今は甲子園を目指して野球を?」
「いえ、今は……」
 彼女はちょっと恥ずかしそうにうつむいた。
「一年の時、一度辞めるまではそうでした。でも今は、恥ずかしい話ですけど祐輔と一緒に野球が出来ればそれでいいって気持ちなんです。野球を楽しもうって、そういう気持ちなんです。もちろん、日々の練習には全力で取り組んでいますが、甲子園は楽しんで野球をしたその先にあるものじゃないかって、今はそう思っています」
「野球を、楽しむ……」
「部長だって、お父さんと野球をしていた頃は楽しくて仕方がなかったんじゃありませんか? 勝ち負けは関係なくて、ただ打ったり捕ったり。そういうのが楽しかったからやっていたんじゃないですか? そういう気持ち、忘れちゃいけないなって、最近思うんです」
 はっきり言ったあとで、彼女は「あっ」と口を押さえた。
「すみません、甲子園を目指しているこんなときに私、よりによって部長に向かって失礼なことを……」
「いや……」
 もし監督からの話がなかったら、相手が春山クンだとはいえキツく当たっていただろう。けれども今はむしろ、彼女の意見を聞くことが出来て良かったとさえ思っている。
「……そうだな。初心に返るというのは大事なことかもしれない。僕は甲子園という目標しか頭になかったから、昨日はミスをしたショートの服部を責めてしまった。……僕がこんな気持ちではダメだといった監督や水沢の言葉が分かってきた気がする」
「部長……」
「……君にも謝らなくてはいけないな。本郷クンとのこと。別れるべきだ、などと説教してしまったが、本来僕にそんなことを言う資格はない。むしろ、モチベーションを上げられるならこれまで通りの振る舞いをしてもらってもかまわない」
「……ありがとうございます。でも、夏の大会が終わるまでは私も頑張りたいので、部長のいう通り、部活中は練習に集中します」
「……君も真面目だな」
「部長ほどではありません」
 退部騒動や春山クンを巡っての愛の争奪戦を乗り越えたからだろうか。彼女は以前よりはつらつと、自由に生きているように見えた。
 愛。それはきっと、人の心だけでなく行動をも変えてしまう力があるのだろう。頭では理解できる。けれど、実感は出来ない。
「今日はもう帰ろう。本郷クンも君に会いたがっているだろう」
 思い切って春山クンを誘い出して正解だった。監督命令の宿題提出に一歩近づいた気がした。
 春山クンはクスッと笑った。
「帰ったら、祐輔と練習する約束なんです。彼も、どうせやるなら甲子園目指したいって張り切ってますから」
「そうか。頼もしいな」
「みんな、部長が本気だから頑張ろうって気持ちなんです。甲子園目指して明日も練習、頑張りましょう」
 お疲れさまでした。失礼します。
 そう言って春山クンは、駅から続く陸橋を走っていった。
 春山クンの最後の言葉が、妙に胸の中で温かく染み入った。
 僕が本気だからみんなが頑張れる……。
 もしかしたら、自分で思っているよりもみんなは僕を信頼してくれているのかもしれない。
 僕も早く水沢と合流し、練習に励もう。
 僕は時刻表を確認すると、急いで改札を抜けた。


   *


「おいおい、本当にそれが君の導き出した答えなのか? ちゃんと探す努力をしたのか?」
「はい。真面目に答えを探す努力をし、僕なりに結論を出しました」
「それならどうして、野球以外に夢中になれるものの答えが『野球』になるんだ?」
 監督命令で出された宿題の提出日。僕は部活動の前に部室に呼び出され、導き出した答えを伝えた。が、この反応である。
 呆れる監督に、僕は持論を語る。
「後輩に言われて思い出したんです。心から野球が好きだった頃のことを。その頃には抱いていた『情熱』を。甲子園に行きたくて野球をしていたのではなく、ただただ野球が好きだからやっていたのだと。そしてやはり、僕が熱中できるものは野球だけだと改めて気がついたのです。ここであえて『野球』と答えたのはそういうことです」
「ほう……」
 監督は顎をさすりながら言う。
「確かにわしは、『君に足りないものは情熱だ』と言った。その情熱を思い出したというわけだな? ならばよろしい。宿題は受理しよう」
「ありがとうございます」
「では次の宿題だ」
 監督は間髪を入れずにそう言った。
「この大会が終わるまでに愛する人を見つけること。勝ち進めば勝ち進むだけ猶予が与えられるわけだが、果たしてこの宿題を出すことが出来るかな」
 突飛な宿題だったが、驚きは少なかった。そしてなぜか、自分はそれを見つけられるだろうという妙な自信すらあった。
「分かりました。必ず『見つかった』とご報告します」
「ずいぶんな自信だな。では楽しみにしておくよ」
 よし、練習開始だ。監督はそう言って僕を校庭に送り出した。


   5


 自分でアドバイスしたこととはいえ、春山と話をしたあとくらいから永江の様子が如実に変わったのには正直、驚いている。まさか、ちょっと話した程度で感化されて帰ってくるとは。
 ただ、永江は最初から彼女の才能を見抜いていた節はある。それが野球のセンスだけではなかった、と言うことなのだろう。
 永江の何が変わったって、仲間への接し方だ。これまでみたいに威圧するのではなく、「今みたいな球が来たときはこう対処した方がいい」などとアドバイスをするようになったのだ。それが的確だから、みんなも永江に従う。何だかいい循環ができはじめていた。
 その甲斐あってか、夏休み初日の二回戦もその後の三回戦も、初戦とはまるで違うモチベーションで望むことができ、結果も上々。遠のいたかと思われた甲子園も少しずつ近づいてきた印象である。日々ハードな練習になっていくにもかかわらず、みんなが「永江のリード」についていこうと頑張っている姿には感動すら覚え始めていた。

「最近、いい顔してるじゃん。何かいいことあった?」
 俺がそう言いたくなるほど、永江は調子が良さそうに見えた。しかし永江は首を振る。
「特別なことは何も。もしあったとしても、野球を楽しむ気持ちを思いだしたくらいだよ」
「おれはてっきり、春山とイイ関係になったのかと」
「春山クンには本郷クンがいるじゃないか」
 永江が真面目に返事をするのでかえってこちらが戸惑ってしまった。
「あー、そうそう。明日、駅で待ってるって」
 話題を変えようと、俺は忘れないうちに例のことを伝えておこうと思った。
「待ってるって誰が?」
「俺の姉貴だよ。ずっと試験やら何やらで行けなかったけど、めどがついたからって」
「……そうか」
 永江はぽつりと言った。
 この頃、音楽活動をしているらしい姉は、どうやら自分の「歌の力」で永江を励ましてやろうと考えているようだ。姉が作詞したり人前で歌ったりしていると聞いても想像がつかないけれど、何せ、ここにいる永江の気持ちをぐらつかせたくらいだ。何かしら魅力的なところがあるのだろう。
「あともうひとつ。一人で来てくれってさ」
「…………」
「心配すんな。別に姉貴はお前を取って食いやしないから」
 俺の冗談を聞いても永江は一つも笑わなかった。
 姉は永江一人に用があるっぽいけど、この調子じゃ俺もついていった方がいいんじゃないかと思ってしまう。あるいはやっぱり、春山の力が必要なんじゃないか、と。
「まぁ、一人で来いって話だけど、別に姉貴の言う通りにする必要はないと思うぜ。好きにすればいい」
「いや、大丈夫。一人で行くよ」
 硬い表情のまま永江は答えた。


   6


 また聴きたい、と思っていたはずなのにいざ会えるとなったら戸惑う自分がいた。一人で来てほしいと言われたからだろうか。それとも別の理由からか。たぶん、聴けばまた心がざわつくと確信しているせいだ。
 あの日を境に、僕を取り巻く環境は激変した。周囲の人々の言葉に影響され、これまでとは明らかに違う自分になってきているのも実感している。
 良い変化であるのは分かる、が、恐怖心もある。自分がどんな人間になってしまうのか想像もつかないからだ。
 それでも僕はこのまま進む道を選ぼうとしている。自分が変わるなら今をおいてほかにないということも分かっているからだ。周囲の目を気にしてのことではない。これは僕自身のためだ。
 
 水沢の気遣いもあって少し早く部活を抜けた。水沢と麗華さんとで時間も調整していたのだろうか。駅に着くとすぐに三人組を見つけることができた。
「コウちゃん。来てくれてありがとう。忙しいのにごめんね」
「いえ……」
「実はね、きょうはどうしても聴いてほしい歌があってきてもらったのよ」
「聴いてほしい歌……」
「そう。コウちゃんがここで聴く最初のお客さん。コウちゃんの反応が悪かったら、もう一度歌詞を書き直すつもり」
「えっ、僕の反応次第なんですか」
 麗華さんはなぜそんな大役を僕にさせようとしているのだろう。
 戸惑っていると、麗華さんは微笑んだ。
「あの後、ずっと元気なさそうに見えたコウちゃんのことが気になっていたの。これから歌うのは、コウちゃんに元気になってもらいたいって思っていたときにできた曲なのよ」
「水沢から……いや、庸平から何か聞かされたんですか」
 数年ぶりに一目会っただけで、元気かそうでないかが分かるだろうか。疑っていると麗華さんはすぐに、
「あたしたち、もう家族みたいなものじゃない。元気がなかったらすぐに分かるわよ」
 と言って笑った。
 家族、という言葉の響きが僕の心を揺さぶった。返事に困っていると、麗華さんはさっそく歌い始めた。


夢中でボールを追いかける その背中は小さく
ころんでばかり いつでも傷だらけ
守れる強さがほしかった
だけど 会えばけんかになって
互いに 意地っ張りでね

「君が好き」素直な気持ち
伝えられないまま 流れゆく時間(とき)
忘れないで ずっと
ともに過ごした日々を 家族の愛を

   ♯

夢中でボールを追いかける その背中は大きく
いつの間にか 私を追い越した
重なる 君の父の姿
似てる けれども同じじゃない
君は 大人になったんだ

「ごめんね」と「ありがとう」を言うよ
ごまかしてた気持ち 立ち止まって今
忘れないよ ずっと
ともに過ごした日々は いつまでも鮮やかに

愛をくれた人は いつでも心の中
君は生きていいんだよ 今を

   ♯

「君が好き」素直な気持ち
今なら伝えられるかな あふれる想い
歌に乗せて そっと
共に生きよう これからずっと……


 歌の途中だったが、僕は鞄をひっつかんでその場をあとにした。罪悪感はあったものの、頬を伝う温かいものを見られたくはなかった。
 ちょうどホームに滑り込んできた電車に飛び乗る。息を弾ませながら、僕はドアにもたれ窓の外に顔を向けた。
 あの歌詞のせいだ。こんなにも動揺しているのは。
 しばらく車窓を見、二駅ほど過ぎたところでようやく僕は落ち着きを取り戻した。
 春山クンに指摘されて以来、僕は僕なりにかつて抱いていた野球への情熱を思い出しつつあった。その思いの裏にはいつでも亡き父がいる。受けたアドバイス、褒められたエピソード、受けた球の重み。どれも鮮明に思い出せる。
 そんな折にあの歌詞を聴いた。
 麗華さんは最初から僕に聴かせるつもりであの歌詞を書いたに違いない。でなければ、こんなにも僕の心が揺さぶられるはずがない。
 再び動揺が襲う。
 僕は鞄の奥にしまい込んだスマホに手を伸ばした。掴んだまま、取り出すべきか悩みやっとの思いで引っ張り出す。
 ディスプレイをオンにする。表示される、貯まりに貯まった未読メッセージ。僕はこのメッセージを長い間放置してきた。相手は母。三年前に僕が殴りつけた人である。
 ことが起きてからというもの、僕と母とはほとんど口を利かなくなった。朝から晩まで外回りの仕事をしている母と、野球漬けの僕とはそうでなくても顔を合わせる機会はすくなかったが、会話は皆無になったといっても差し支えない。
 それでも母には僕を養育する責任があるから、水沢の家で厄介になると一言メモを残しておけば食費を置いておいてくれるし、学校に提出する書類があれば期限内に記述しておいてもくれる。
 けれども僕は許せないのだ。父を失った直後の僕から野球を奪おうとした母を。

 ――野球を辞めて勉強に打ち込みなさい。もうお父さんはいないんだから……。

 その言葉が頭にあるからだろう。時折送られてくるメールを、僕はどうしても開封することができないでいた。また僕を苦しめるような言葉が書かれているのではないか。そう思うだけで腹立たしい気持ちになるからだ。
 未読メールは30件ほど貯まっている。もはやいつから放置しているのかさえ分からない。開封するには勇気がいる。見てみようか、という気持ちがある一方で、怒りや拒絶の気持ちもなお強かった。
 やがて電車が下車駅に到着する。僕はスマホを握りしめたままホームに降り立った。


   7


 永江と別行動の間、彼女とつかの間のおしゃべりを楽しもうと思ったのに、なぜか姉から長電話がかかってきて連絡係を引き受ける羽目になってしまった。こんなことなら、永江の電話番号を姉に教えておくべきだった。なぜ俺が間に入ってやらなきゃならないのか。
 家についてほっとしたのもつかの間、姉から二度目の電話が入る。またか、と思ってイライラしながらでたが、内容を聞いておれは思わず飛び上がりそうになった。
『……コウちゃん、帰ってきた?』
「いや、まだだ。っていうか、姉ちゃんと一緒だったんだろう?」
『それが、歌を最後まで聴かずに帰っちゃって……。怒らせちゃったかなぁと』
「怒る? どうして?」
『コウちゃんをイメージした歌詞を書いたの。……ほら、この前庸平が言ってたじゃない? コウちゃん、甲子園に行けなかったら死んじゃうんじゃないかって。だから……』
 思わず舌打ちをする。どんな歌詞か詳細は分からないけど「やってくれたな」と思った。永江に同行しなかったことを後悔する。
「分かった、分かった。とにかくあいつに連絡とってみる。まぁ、歌聴いたくらいでどうにかなっちゃうような、柔な男じゃないと思うけど」
『ごめんね、庸平』
「いったん切るぜ。居所が分かったら連絡する」
 通話を終え、俺はふうっと息を吐き出した。
 永江のやつ、いったいどこに行ったんだか。思い当たる節はない。頼る人だっていないはず。俺はともかくあいつに電話をかけてみることにした。
 ところが、コール音が一回鳴ってすぐに繋がる。あまりにもあっさり繋がったもんで拍子抜けしてしまう。
「孝太郎、お前今、どこにいるんだ? 姉貴が心配して俺に電話かけてきたぞ?」
『……ああ、もうすぐ君の家につくよ。麗華さんには、急にいなくなって悪かったと伝えてほしい』
「んなもん、自分で言え」
 ほっとして俺はいつもの調子でそう返した。が、永江の声は低く、重苦しく続く。 
『……庸平。君の家に着いたら一つ、頼みがあるんだ。付き合ってくれるか?』
 あいつに庸平と呼ばれてドキリとする。名前で呼ばれなくなって久しい。これは何かある、と直感する。電話越しだが、思わず身構えた。
「何でも付き合うけど、やばい頼み事じゃないだろうな? 本当にもうすぐここに着くのか? こっちから迎えに行くよ」
『いま、三角公園のそばだ。君が来てくれるなら、ここで待ってる』
「おう。すぐ行くわー」
 三角公園は、ここから徒歩1分ほどの小さな公園だ。俺は走ってそこへ向かった。

 街灯の下のベンチに永江は座っていた。手を組み、うつむくその姿はやはり悲愴感に満ちていた。知らない人が見たら声をかけるのも怖いくらいのオーラを放っている。
「孝太郎ー」
 俺はできるだけ明るく声をかけた。
「あんまり心配かけさせんな」
「すまない」
「で、頼み事って何だ?」
 俺の問いに永江は数秒黙ったあとで、
「一緒に見てほしいんだ。一人ではとても耐えられない」
 そう言ってスマホの画面を俺に見せた。そこには永江の母親の名前と、未読のメッセージが表示されていた。その数、なんと30件。上手くいっていないのは知っているが、これほどまでとは。
「いいのか? 俺が一緒に見ちゃっても。何が書いてあるか、わかんないんだろう?」
「だからだよ。もしもあのときのような文言が書かれていたら、僕はまた気が狂ってしまうかもしれない。そして今度こそ……」
「それ以上言うな」
 思わず言葉を遮る。
「なら、見ない方がいいと思う。そう思ってるからこそ、ずっと見ずにいるんだろう? 何で急に見てみようだなんて……。あっ」
 問いかけようとしてはっとする。姉だ。姉が妙な歌を聴かせたからに違いない。困った姉ちゃんだ。しかし今姉を責めたところで状況は好転しない。俺は少し考えたあとでこう提案する。
「よし。わかった。なら、俺だけが見る。お前を傷つけるようなことが書いてあったら、そのときはお前の目に触れる前に俺が消去する。それでどうだ?」
「……ああ、そうだな。君の言う通りにしよう」
 永江は納得し、俺にスマホを手渡した。そして全権を俺に託したと言わんばかりに顔を背ける。
「じゃあ、見るぜ」
「ああ」
 改めて許可を取り、いよいよメールを開封する。
 未読メッセージにはどれも件名がなかった。一番古いもので一年前。そこから半月くらいの間隔で送信されていた。
 一年前の夏に送られてきたメールを開く。そこにはこう書かれていた。

 ――コウがキャプテンになったと風の噂に聞きました。おめでとう。

 次のメールはそれから一ヶ月後。

 ――秋の大会、頑張っていますか? もし、部活で使うもので買い足すのがあったら言ってね。お金は用意します。

 そんな調子で、当たり障りのない文章が続く。
 こんな内容なら俺も言われる。ごく普通の、母親からの言葉。永江はそれすら拒んでいたのか。
 最近送られてきたメールを開く。二回戦で勝利を挙げた日だ。それを読んだ瞬間、俺は思わず「あっ」と声を上げた。

 ――ホームランを打ったんだってね。さすがキャプテン! お父さんにも見せたかったね。次の試合の活躍も期待しています。

 試合の結果は新聞に掲載されているはずだが、永江の母親はそれをチェックしている。でなければ書けないことだ。
 野球を辞めろと言われたことが原因で、ろくに顔も合わせていないと聞いている。だがこのメールを読む限り、永江の母親が今でもそう思っているとはどうしても思えなかった。むしろ応援してくれている。
 永江が恐れていたようなことは何一つ書かれていなかった。それが、真実だ。
「全部、読んだ」
「……ああ」
「全部、残しとく。全部、読め。いますぐ」
 俺はスマホを突っ返した。永江は驚いた顔で受け取った。
「大丈夫。お前が発狂しても、俺はここにいる。だから安心して読め」
 読むのをためらう永江にそう告げた。俺の言葉を受け、永江はようやくスマホに目を落とした。


   8


 すべて消してくれることを願っていたのに、既読になったメールがまるごと返ってきた。想定外だ。しかし頼み事を引き受けてくれた水沢の前で、「やっぱり見ない」という選択肢は残されていなかった。
 彼の力強い言葉に後押しされ、僕はようやくメールの文章と向き合う決心をする。
 水沢が表示してくれた、未読だった一番古いメールの中身が目に飛び込んでくる。映し出された文章を読んだとき、僕は目を疑った。
 それは、キャプテンになったことを祝福するものだった。信じられない。あれほど僕の野球継続を反対していた母が、キャプテン就任を知って「おめでとう」だなんて。
 続くメールを読む。ここでも野球に関する内容だ。どんどん読んでいく。そのどれもが野球、野球、野球……。
 胸が苦しくなる。どうして……? いつから母は僕の野球継続を受け入れ、認めたのだ? 僕はこの三年間、ずっと母を拒み続けてきたというのに? 母は拒まれてもなお、僕にメールを送り続けてきたというのか?
「嘘だ、嘘だ、嘘だ……! こんなの、嘘だ……!」
 僕はスマホを地面にたたきつけて叫んだ。僕の中の母とメールの中の母とが一致しない。その差をどうしても受け入れられなかった。
 こんなにも僕の野球を応援してくれるなら、なぜあのときあんなふうに言ったんだ? 父の死の直後。僕が一番落ち込み、野球を必要としていたあのときに。
 今ではない、僕はあのときそうしてほしかったんだ……。
「うああああっ……!」
 内側にため込んできた想いが涙とともに吹き出した。もはや自分の気持ちをコントロールすることができない。わき上がる感情のままに泣き叫ぶ。
 どのくらいそうしていたか分からない。声も涙も涸れたとき、ようやく我に返ることができた。急に羞恥心がわく。僕は頭を抱えてベンチに座り込んだ。
「……気が済んだか?」
 水沢は静かにそう言った。素の僕を見ても何も言わず、ただそこで見守ってくれたことが何よりもありがたかった。
「やっと、落ち着いた。君のお陰だ。ありがとう」
「お前が苦しむ姿をずっと見てきたからな。別になんてことはないよ。……それより、叫んだら腹減ったろう? 家に帰って飯にしようぜ」
 公園の時計を見ると、普段の夕食どきはとっくに過ぎていた。彼には空腹を我慢させてしまった。本来なら僕が配慮すべきなのに、彼は相も変わらずさりげなく振る舞ってくれる。その優しさが僕を余計に罪の意識を強くさせた。
 僕は家までの道すがら、独り言のようにつぶやく。
「君は恵まれているな。最初からずっとお母さんに野球やることを認めてもらえて」
「……孝太郎だって同じだと思うよ。さっきのメール、見ただろう?」
「……僕は三年間、まともに親と話してない。もう忘れたよ。話し方も接し方も」
 僕の言葉に、水沢は少し間を空けてから続ける。
「話すったって、俺だってまともに話しちゃいないけど。ただ……そうだな。親はいつも、俺のこと気にかけてくれてんだなぁとは思う。だから、好きなことさせてもらってる以上は本気で頑張ろうって気持ちで野球やってるよ」
「そうか……」
「でもさ。世話焼きすぎだろうって思うことはあるぜ。俺たちもう、守ってもらわなきゃ生きていけないような子供じゃないんだし、ちょっとは放っておいてくれって思うよ」
 守ってもらう、と言う言葉を聞いて麗華さんの歌の歌詞を思い出した。そして再び胸が熱くなる。
 あんな歌詞を書く麗華さんもまた、両親の愛情をたっぷり受けて育ってきたと分かる。あれは麗華さん自身と言うより、母親視点の歌詞だ。だから僕は苦しくなって逃げ出したのだ。母親からそう言われているような気がして。
 水沢の家に着くと、彼の母親が出迎えてくれた。何かを言いかけたようだったが、僕の顔を見るなり表情を変えた。そして何度かうなずいた。
「……さぁ、お腹すいたでしょう? すぐに食べられるから、手洗いを済ませていらっしゃい」
「あー、腹減ったー」
 水沢は先に靴を脱ぎ、さっさと洗面所に向かった。
「……いつも、ありがとうございます」
 残された僕は玄関先でそう言い、一礼した。
 当たり前のように迎えてくれること。何も言わずにいてくれること。他人なのによくしてくれることに感謝の気持ちがわいてきたのだった。それを聞いてもやはり彼の母は、
「お礼なんていいのよ。だって家族みたいなものでしょう?」
 と言って靴を脱ぐよう促した。
 家族。麗華さんも同じことを言った。血のつながりがなくても、僕らはそういう関係なのだろうか。
「何も考えなくていいの。疲れたときはね、とにかくおいしいものを食べるのが一番!」
 立ち尽くす僕を見て、水沢の母はそう言った。急に肩の力が抜け、空腹を感じる。母親とはこういう存在だったかもしれない、とぼんやり思い出した。


   *


 よく眠れたからだろうか。目が覚めると僕を取り巻く空気が軽くなったような気がした。窓から差し込む真夏の日差しさえ心地よく感じられる。住む世界が変わったように思えた。
 電車に揺られ、学校に向かう。今日も半日、炎天下での猛練習がある。
 「甲子園出場」は僕が野球をする動機だった。けれども昨日の出来事のせいか、今はそこまでの憧れを感じない。あんなに行きたいと切望していたのに。

 キャッチボールが始まる。球がミットに収まる音が気持ちよく青空の下に響く。僕と本郷クンは互いに調子の良さを実感した。
「ナイスピッチング! 最高に球が走ってるよ」
「さ、最高って……。まだ一球しか投げてないのに褒めすぎですよ、部長。そんなふうに言われたらおれ、調子に乗っちゃいますって」
「調子に乗ればいいじゃないか。君はその方がいい投球ができる」
「えーっ!」
 本郷クンは驚いている様子だったが、はにかみながらも嬉しそうだった。こんなふうに声をかけたのは初めてだから無理もない。僕でさえびっくりしている。
 続く野上クンとの投球練習でも彼の力強いピッチングに満足できたし、大津クンのリードの仕方を見ていても、やはり才能があると感じられて嬉しくなった。
「グラウンド全体が見えるようになってきたね。キャッチャーは広い視野が大事だ。次の試合では最初にマスクをかぶってもいいくらいだよ」
「部長、本気っすか! おれ、試合に出たいっす!」
「野上クンにも試合を経験させたいから、二人を先発で起用できないか監督に打診してみよう」
「ありがとうございます!」
 大津クンが喜んでいるのが分かった。本郷クンには褒めすぎだと言われたが、僕は心から彼らの技に満足している。
 今した話を、僕はさっそく監督に伝えた。
「永江がそう判断したならそうすればいい。わしも、今のチームなら誰を試合に出しても問題ないと思っている」
「では、彼らにはそのように伝えておきます」
「……ところで、例の宿題の進捗はどうかな?」
 まるで明日の天気を尋ねるかのように監督は言った。
 目に見える形で進められるものではないから、ここまでできましたと見せることもできない。僕は少し考えてから、
「僕なりの答えを出せそうな気がしています」
 とだけ答えた。監督はこんな返答でも嬉しそうにうなずいた。
「そうか。最近の君は調子が良さそうだから、きっとすぐに答えを見いだせると期待しているよ」
 本当にすぐに答えが出せるだろうか……。期待が重く肩にのしかかった。


   9


「監督。最近の永江の様子を見てどう思いますか?」
 永江がチームに合流したのを見て、今度は俺が監督の元を訪れた。きっと例の「愛の宿題」について話していたのだろうと想像する。だからこそ、聞いてみたいと思ったのだ。
 監督は終始笑顔で、
「永江がいい顔をしているからチームがまとまっている。いい傾向じゃないか」
 と答えた。
「それほどまでにキャプテンの影響力は大きいってことですか」
「いや、キャプテンと言うよりは永江の影響力だ。彼にはそういう力が備わっている。聡明かつ発言力もあるからな。……中学生の頃の永江は快活で、よく笑う子だったよ。その、本来の彼に戻っただけだとわしは理解しているよ」
 監督の言葉にはっとする。
 三年間、心の壊れたあいつを見てきたからすっかり忘れていたが、確かにそれ以前の永江はもっと「いいやつ」だった。誰からも愛される、心根の優しい人間だった。そうか。あいつは元の自分に戻ったのか。
「水沢。もうちょっとだけ永江の心を支えてやってくれよ」
「はい。そのつもりです」
「彼が自分で自分を支えられるようになったらそのときは、君も『愛』のために生きればいい。君はもう、知っているんだろう?」
「えっ……」
 一瞬ドキリとしたが、直後に監督の言ったことが理解できた。
 そうか。キーワードは「愛」。今の永江に必要なもの。

 その日の晩、永江と一緒に帰宅するとなぜか母ではなく、姉が出迎えた。俺も永江も玄関先で固まってしまった。
「……何でここにいるんだよ?」
 俺はかろうじてそれだけを口にした。
「何でって、夏休みだもん。実家に帰ってきたっていいじゃない」
「これまで夏休みだからって帰ってきたこと、なかったろうが。絶対なんかある」
 なんか、とぼやかしたがおそらく永江に会うためだろうと直感する。永江もそう感じているからか、目を伏せ、姉を見ようともしない。
 そうと知ってか知らずか、姉は単刀直入に言う。
「あたし、コウちゃんにどうしても直接謝りたくて。昨日のこと、ごめんなさい。呼び出した上に、コウちゃんのことをイメージした歌詞を書いて歌ったりして気を悪くさせてしまったわよね。ほんとうにごめんなさい」
 永江はしばらく黙っていた。沈黙に耐えかねてフォローしようとしたとき、
「……いえ。あの歌があったから僕は前に進めたんだと思います」
 と永江は自らの言葉で伝えた。
「正直言って、最後まで聴くのは辛かったです。それだけ僕の心は揺さぶられた……。感想も伝えずに立ち去ってしまった僕の方こそ謝らなければいけないですよね。すみませんでした」
 永江は冷静に語った。俺なら間違いなく姉を非難しているところだが、永江は違った。いや。夕べ、内側に閉じ込めていた感情をすべて吐き出したからこそ、こういう対応が出来たのかもしれない。そしてそのきっかけを作ったのが姉の歌……。
 永江の言葉を聞き、姉は少しほっとした表情を見せた。
「あたし、コウちゃんのこと、本当に家族の一員だと思ってるのよ。だから、困っているなら力になりたいって、そう思っただけなの。今の言葉が本心なら嬉しいな」
「麗華さんの歌には、家族のことを考えるきっかけを与えてもらいました。まだちゃんとは向き合えませんが、自分の中の答えが見つかったらそのときはまた歌を聴かせてください」
「分かったわ。そのときまで待ってる」
 永江の表情はどこかさっぱりしていたし、それを見た姉もまた満足そうにうなずいた。そして、
「じゃあ、あたしは帰るわね。近くに彼氏を待たせてるの」
 そう言って少ない荷物を手に持つと、風のように表へ行ってしまった。それに引きずられるようにして母が奥から顔を出す。
「まったく、忙しい子ねぇ。突然帰ってきたかと思えば、用が済んだらすぐに出て行っちゃうんだから」
 ごめんなさいねぇ、孝太郎君。母は困った顔で謝った。永江はそれには答えず、少し口角を上げただけだった。

 部屋に上がり、食事を待つ間永江に問いかける。
「……本当に、迷惑じゃなかった? 姉貴のこと」
 いきなり目の前に現れて場をかき乱していったのだから、俺でも心配になる。永江は相変わらず落ち着いた声で言う。
「……正直に言えば、金槌で殴られたような衝撃だったよ、昨日の歌は。でも、今の僕にはそのくらい強い衝撃が必要だったんじゃないかって思う。自分一人じゃ、絶対に方向転換できそうもないから」
「……無理してねぇか?」
「庸平は心配性だな」
「だってお前……」
「僕はもう、三年前とは違う。……そう、あれからみんな、変わってるんだ。僕も君も……麗華さんも、親も」
 その言葉を聞いて、永江はもう大丈夫だと悟った。見張るようなこともしなくていいんだと。
 安堵している自分がいた。永江が自分を取り戻したことに対して。それと、俺自身が自由を取り戻したことに対して。
 母がよく作るカツ丼が食卓に上る。いつもと変わらないはずなのに、どこかの店で出てきてもおかしくない盛り付け方に見え、自然と箸がのびた。母がにこやかに言う。
「明日は大事な試合でしょう? しっかり食べなさいね。そうそう、きょうはお母さん、お料理の雑誌で紹介されてたトンカツの揚げ方を試してみたのよ。どう? きれいに揚がってるでしょう?」
 なるほど。どうりで旨そうに見えたわけだ。
 あれからみんな、変わってる。
 永江の言葉がよみがえる。
 そうか。みんな、成長してるんだな。ってことは、俺も成長してんのかな……。
 自分のことほど見えにくい。けど、きっと成長してるって思いたい。だってこの三年間、俺だって必死に野球に打ち込んできたんだから。野球の鬼の永江に負けないように。永江を諭すとき、お前にだけは言われたくないって反論されないように。
「大丈夫。あなたたちならきっとやれる。ずっと頑張ってる姿を見てきたんだもの」
 俺の心配を見抜いたかのように母が言った。
 そうだ。俺なら、俺たちならやれる。母の言葉がここぞというときに俺を後押ししてくれる。
「ありがとうございます。最高の試合が出来るよう、全力で頑張ります」
 永江が箸を置き、かしこまって言った。なかなか顔を上げなかった。数秒、時が止まったかのように思えた。
「冷めないうちに食おうぜ。力つけて、きょうは早く寝とこう。明日のためにも。なっ?」
 永江の肩を叩く。俺にはそう言ってやることしか出来なかった。


   10


 長い間忘れかけていた、いや、今まで感じたことすらなかった温かさが僕の胸を包み込んでいる。この心地よさが消えないうちに、僕はメールを送ろうと思った。
 僕から母にメールを送ったことなんて今まで一度もなかったんじゃないか。あったとしても忘れてしまうくらいにはずっと昔のことだろう。
 打ち込む文章はもう考えてある。たった一言。けれど、僕の気持ちのすべてを込めて送信すると決めている。

 水沢がシャワーを浴びている間、僕はスマホを取り出してメールの送信画面を開いた。
 文章を打ち込む。ややためらったが、打った勢いで送信ボタンを押す。メールはあっという間に「送信完了」になってしまった。
 ふぅっと長く息を吐き出す。
 いい加減、僕も前に進まなきゃいけない。父の死を乗り越えなければならない。そのためのメールだ。
 先にシャワーを済ませている僕は、水沢が戻ってくる前に布団に横になった。返信があろうがなかろうが、僕は僕に出来ることをした。あとは明日の試合に全力で臨む、それだけのことだ。


   11


 母は今日の試合のために休みを取ったという。俺たちより早く起き、俺たちよりそわそわしている。
 県営大宮球場で行われる第1試合。俺たちにとっては四回戦目となる試合だ。ここで勝てばベスト8入りできる。緊張するのは毎度のことだけど、対戦校にどんな奴らがいるのか考えただけで俺はわくわくしてしまう。
「S高のレギュラーには今年入ったばかりの一年生エースがいるって話だ。打つ方の素質もあるらしいな」
「相手が誰であれ、うちは全員ベストコンディションで臨むんだ、何も心配はしていないさ」
「とはいえ、ほんとに大津に捕らせるの?」
「彼にだって十分素質はある。次の世代を育てるのも大切なことじゃないか?」
 永江の意外な台詞に驚く。永江は続けて、
「たとえ打たれたとしても、二塁には君がいるだろう?」
 と言った。思わず笑う。
「おう。二塁に俺がいる限り、外野にボールは運ばせない」

 午前九時。我がK高とS高の第1試合は雲一つない晴天のもと、スタートする。
 永江の指示通り先発投手は野上、捕手は大津のバッテリーが起用された。二人は初めてそれぞれのポジションで公式戦に出られるとあって、喜びと不安の表情を見せている。
「大丈夫。君たちなら最高のプレイが出来る」
 緊張する二人に、永江がそう声をかけた。肩を叩かれ、二人は力強くうなずく。9人が一斉にグラウンドに飛び出し、それぞれの守備位置につく。
「締まっていこうぜ!」
 ベンチに残る永江の代わりに副部長の俺が内外野陣を鼓舞する。
「おう!」
 自信に満ちあふれた声が返ってくる。よし、これならいけそうだ。プレイボールのかけ声とともに試合ははじまった。

 野上の立ち上がりは思った以上に良かった。これまでの永江のアドバイスや励ましが彼の自信に繋がっている、そう感じられるピッチングだった。
 その自信をなくさせないために、俺も二塁手として必死に球を追う。絶対に進塁させない。守備範囲に飛んできた球は全身で飛び込んででも捕って一塁に返した。

 毎回ランナーを背負いながらも、野上と大津のバッテリーは五回まで零点に抑え込んでいる。それはいい。だが相手チームにも同様に抑え込まれている。点が取れないのは四番のせい。そう思われないためにも、そろそろヒット一本くらいは打ちたいところだ。
 普段は永江が四番を打っている。ところがやつが引っ込んだことで打順が変わった。ほかにも長打者はいるはずだが、
「四番を任せられるのは水沢しかいない。この試合、僕の代わりにきっちり仕事してくれないか」
 と、俺を指名したのだ。
「きっちりだなんて、プレッシャーかけてくれるなぁ」
「四番だからって気負う必要はないさ。いつもの君らしく、内野安打でも何でも、とにかく塁に出られればそれでいい」
「そうかぁ? それなら出来るだろうけど」
「打線が繋がることが大事だ。ホームランを打って得点すればいいってもんじゃない。分かってるだろう?」
「まぁな」
「じゃあ頼むよ」
 昨日、そんな会話をしたのを思い出す。
 内野安打、内野安打……。
 心の中で唱えながら狙いを定める。ピッチャーのここまでの投球を見て、どんな球を投げるかなんとなく見当がついてきている。タイミングさえ合えば打てるはずだ。
 狙い球が来るまでファウルで粘る。相手投手も抑え込もうとしているのが分かる。フルカウント。次で、決める……!
 ピッチャーが投げる。外角ストレート。バットを思いきり振る。
 芯で捉えた感覚。その瞬間にバットを放り、全力で一塁を目指す。球はレフト方向に飛び、三塁手の頭を越えて落ちる。よし、ひとまず四番の仕事はしたぞ。永江に見せつけるように右手の拳を突き上げる。
 続く五番も、俺のヒットで奮起したのかツーベースヒット、六番もセンター前にヒットを打ち、K高が先制点を取ることに成功した。
 得点を挙げてベンチに戻ると大歓迎を受けた。冷静沈着な監督でさえ笑顔で迎えてくれた。
「さすがは四番。よく粘った」
「ありがとうございます」
 そういった脇から永江に背中を叩かれる。
「君の本気を見せてもらったよ」
「なーに。まだまだ。浮かれるのは早いぜ?」
「ああ」
 俺の言葉に永江はさっと表情を引き締める。
「一点取ったことでみんなの気が緩んでいる。これではすぐに取り返されてしまう」
「気合いを入れ直さねぇとな。よし、みんな。一点取った勢いで守りもきっちり頼むぜ!」
 俺はそう言ったが、みんなはまだ「一点」の余韻に浸っているように見えた。


   12


 反撃はすぐに始まった。どうやら相手チームは力を温存していたらしい。メンバー構成を変えてきたのだ。その途端、打線が一気に爆発。これまでにはなかった熱量でまったく抑え込めなくなった。
 ノーアウトのまま同点のランナーが戻ってくる。順調に投げていた野上クンに焦りが見え、大津クンもどうリードしていいか分からない様子だった。
「永江。交代しろ」
 一点取られた直後、監督はそう言った。
「本郷もだ。野上と代わってやれ」
「はい!」
 本郷クンは待ってましたとばかりに腕を回し、キャップを深くかぶり直した。僕もミットを持ち、グラウンドに向かう。
「やる気満々だね、本郷クン」
「そりゃあそうですよ。詩乃の前でいい格好できるチャンスがめぐってきたんですから」
 彼は恥ずかしげもなく言ってのけた。
 やはり春山クンが、彼に勇気と強さを与えている。そう感じずにはいられなかった。
 彼女との強いつながりが彼を支えている。だからこそ彼は今、これほどまでの自信を持ってマウンドに向かおうとしているのだ。
「覚えているかい? ノーアウト満塁の状況下で強打者を迎えたときこそピッチャーの真価が発揮されると言ったことを」
 一年前、春山クンをチームに呼び戻してもらう際、彼に言い放った言葉だ。本郷クンはうなずく。
「冷静に、かつ頭を使えってことでしたよね? おれ、今ならどんな打者でも打ち取れるって気持ちなんです。だって部長もいるし、詩乃も見てくれてるし、スタンドにだって応援してくれる人がいっぱいいる。だからすごく守られてる感じがして、すごく落ち着いてるんです。負ける気なんて、しないですよ」
 彼は誰よりも「自分自身」を信じている、と感じた。今度は僕がうなずく。
「そうだな。君と僕ならどんなピンチも乗り越えられる。この回は必ず一点で抑えよう」
「はい!」
 彼をマウンドに送る。自然と、引き上げてくる大津クン、野上クンと目が合った。
「五回まで無失点でよく頑張った。後は僕たちに任せろ」
「はい……」
「君たちの役目はまだ終わっていないよ。声援で後押しを頼む。特に野上クンの大きな声は外野まで響く。しっかり守備隊を鼓舞してくれよ」
 うつむく二人に新たな役目を与える。落ち込んだ気持ちをチーム内に蔓延させてはならない。
「はい!」
 二人は顔を見合わせ、大きな声で返事をした。

 バッテリーが代わり、再び試合が動き出す。するとすぐに、
「祐輔ー、一人ずつ確実に抑えろ! お前なら出来るぞー!」
 ベンチから、降板した野上クンの元気な声が聞こえてきた。その声に応えるように本郷クンが「オーケー!」と発声する。
 迎えるバッターは奇しくも四番。バッテリーとしては最も嫌な状況ではある。だが力でねじ伏せてきた野上クンと違い、本郷クンにはテクニックがある。
 僕は迎えたバッターに対し、あらゆる球種で揺さぶりをかけた。四番打者は三球であっさりアウトになり、続く五番、六番もバットに弾を当てることが出来ないまま終わった。
 三者連続三振。誰が見ても本郷クンが絶好調なのが分かる投球だった。
「……やっぱ、祐輔はうちのエースだな。今の見て、実力の差を思い知ったわ」
 ベンチに戻ると野上クンが悟ったように言った。本郷クンはそれには触れず、「さっきの声援、良かったぜ。ナイス、路教(みちたか)! 次も頼むわー」と笑顔で返しただけだった。
 この回、同点に追いつかれながらもチーム内は笑いに満ちている。追加点を許さなかったことだけが理由ではない。おそらく、みんながみんな、野球を楽しんでいるからだ。互いを信じ、助け合い、認め合っている。それがひしひしと伝わってくる。
 にわかに、父とキャッチボールをした記憶がよみがえる。
 父がいれば何も恐れるものはないと本気で思っていたあの頃。どんな球でも受けられる自信に満ちあふれ、実際に四つも五つも年上のピッチャーの剛速球だって捕ることが出来た。父が病に倒れるまでは。
 父を失ってから僕は恐れを感じるようになった。仲間と一緒にいても常に孤独を感じていたし、怪物と呼ばれるようなピッチャーの球を受けるのもやはり怖かった。
 その頃からだろう、野球が楽しくなくなったのは。ただひたすら「甲子園」を目標に掲げて練習に打ち込む日々。そうすることでしか、父と繋がっていられないと思い込んでいたのだ。
 けれど。
「部長の配球はさすがっす。勉強させてもらいました。次の回も期待してます」
 大津クンがかしこまって言った。そこへ本郷クンがやってくる。
「おれも同感。覚え立てのフォークボールを投げろって言われたときにはドキッとしたけど、部長ならぜったい捕ってくれるって思ったから投げれたんです。思い切った甲斐がありました」
 二人だけじゃない。周りを見れば春山クンも、水沢も、ほかの仲間も僕を見てうなずいている。
 僕は決して一人じゃない。そのことを今、改めて実感する。そしてチームで戦っているという気持ちも強く抱いている。
「なぁ? 仲間っていいもんだろう?」
 監督がにやりと笑った。
 不覚にも僕は歯を見せて笑ってしまう。麗華さんの歌の歌詞を思い出したせいだ。
 そう。僕はとっくに気づいていたんだ。仲間の大切さやありがたさを。だけど無視し続けてきた。己を鍛え抜いた者が真の強者であり、馴れ合いなど不要だと思い込もうとしてきた。
 なぜなら僕が「愛」を拒んでいたからだ。父を失い、母から野球を否定されたとき、誰からも愛されていないのだと感じた。二度と、愛されることもないのだと。
 それが間違いだったことは自明のことだ。
 時が流れれば状況は変わり、人の心も変わる。いや、変わったのは僕の感じ方だけなのかもしれない。母はずっと僕や僕のすることを認めてくれていたし、仲間だってずっと信じ続けてくれていた。僕が勝手に拒み、離れ、再び歩み寄っただけ。そうだとするなら、この三年という月日はいったい何だったのか。
「永江。考えにふけっている暇はないぞ。勝負はまだまだこれからだ」
 監督の一言で我に返る。そうだ、今はまだ、結論を出すときじゃない。
「打順は変わるが、普段の四番としての実力を見せてもらうよ」
「はい!」
「ぜひ、観客席に一発放ってほしいもんだ」
「頑張ります」

 大津クンの代わりに九番で打席に入る。マウンドに立つのは一年生エース。打撃メンバーは入れ替わったが、彼は続投している。一点失っても立て直せるだけの力を持っているのだろう。
 しかし、彼がどんな球を投げるかはベンチから見て知っている。この打席、何が何でも打たせてもらう。チームのためであり、僕自身のためであり、両親のためでもある。
 そう。これまでとは明らかに違う想いで僕はここに立っている。ただ「勝ちたい」から得点したいのではない。僕の活躍が「生きている証」であると同時に、僕を取り巻くすべての人の「歓び」にも繋がるのだ。
 僕を必要としてくれる人がたくさんいる。その人たちの想いに応えるために僕は野球で恩返ししていく。それでいいんだと気づいたのだ。何も悩むことはなかった。誰の言葉にも惑わされず、「今」をひた走ればそれで良かったのだ。
 絶対に打てる自信がある。だからだろうか、対峙するピッチャーの表情が曇ったように見えた。
 ピッチャーが構え、第一球を投げる。球はストライクゾーンから大きくはずれ、ボールになった。動揺が見て取れる。ピッチャーは落ち着きを取り戻そうと、肩を回したりキャップをかぶり直したりしている。僕はもう一度睨むようにピッチャーを見た。直後に彼は再びおびえたような顔をした。
 ピッチャーが構える。一呼吸置いて腕が振り下ろされる。が、球に勢いはない。
 ど真ん中の絶好球。僕は見逃さなかった。
 全神経を集中させて振り抜く。カーンといい音が球場に響き、球はライトスタンドに向かってまっすぐ飛んでいく。
 まるで、仲間が球を押すかのように声援を送っている。その声に僕自身も背中を押されるように走る。一塁を蹴り、二塁を目指す。そのときにはもう確信していた。
「ホームラン、ホームラン!」
 仲間の声が耳に届いた。僕は気づけば力強く拳を握りしめ、高く突き上げていた。
 これまで何度か本戦でホームランを放ったことはあったが、これほどまでに喜ばしい気持ちでベースを踏んだことはなかった。
 ベンチに戻ると仲間が笑顔で出迎える。
「さすがは部長だな、永江! お前はやっぱり本物の四番だぜ」
「部長、かっこいいです!」
「部長、最高です!」
 まだ試合が終わったわけでもないのに、みな僕を取り囲んで大喜びしている。
「みんな、喜びすぎだろう?」
 そうは言ったけれど、僕はそれでいいとも思った。こうやって素直に得点したことを喜び合える。それはつまり「今、この瞬間」を楽しんでるってこと。
 たとえ、先ほどのように次の回で追いつかれてもまた取り返せばいい。取って取られてを繰り返し、最終回で1点多く取ればそれでいいじゃないか。
 仲間の歓迎に僕もうれしさを表現するため、全員とハイタッチする。今までにはなかったことだ。
「永江も感じてるだろう? チームの士気の高さを。お前が作り出したんだよ」
 水沢は高揚していた。ハイタッチのあとで肩まで組まれる。
 僕は長い間、こんなにも大事なことを見失っていたのか。仲間と、一瞬一瞬を分かち合う。その気持ちが、共感が、チームを一つにする。
 僕はみんなを見回すようにして言う。
「そう。一点でも得点の多い方が勝つ。それが野球だ。僕らは高い技術力を持ったチームじゃないかもしれないけど、少ないメンバーだからこそ全員が強い絆で繋がってる。一人一人を信じる力が、僕らを強くする。そう信じてる」
 今まさに、チームがひとつになった気がした。今の勢いがあればこの試合の流れをK高が作っていけるだろう。
 一番バッターが打席に立っていてすでにピッチャーと対峙している。
「よし、みんな。このままどんどん攻めるぞ!」
「おう!」
 力強い声が返ってくる。野球が面白くなってきた。


   13


 永江のホームランが完全に起爆剤となった。続く一番、二番も着実にヒットを放って塁を埋め、結局この回は計3点を挙げることが出来た。
 永江の目つきがまるで違うことに、俺だけでなくチームの誰もが驚いている。が、誰ひとり、永江に何があったかなんて聞かない。厳しい態度で接し続けた永江だが、それにはちゃんと理由があったし、あいつなりに苦しんでいたことをみんなも察していたのかもしれない。
 六回裏が終わり、攻守交代となる。そのタイミングで監督が俺の肩を叩いた。
「八回表で春山と代わってやってくれないか。本郷の底力を引き出す」
「八回表、ですか」
 永江も後輩を育てる必要があると言っていたし、リードしている今なら一点くらい失ってもそのまま勝てる可能性は高い。
「春山には伝えたんですか?」
「水沢がいいと言ったら出てくれ、と伝えてある。緊張はしているが、春山ならやってくれるはずだ。何より、君がマンツーマンで指導してきたんだ、実力はお墨付きだろう?」
 監督らしい言い方だ。俺の推薦で春山を試合に出させてやれというわけか。
「分かりました。この試合で使いましょう」
「君の英断に感謝するよ。七回裏ではもう一度君の打席が回ってくるから、そこで恋人にいいところを見せてやるといい。見に来ているんだろう?」
 監督は何でもお見通しだ。そう言われては頑張らないわけにはいかない。照れていると監督はにんまりと笑った。

 春山には自分の口から交代を伝えることにした。監督から事前に話がいってるはずだから、すんなり受け入れてもらえるだろう。
「春山。練習の成果を見せるときが来たぞ」
 そう声をかけると、彼女は表情を引き締めてうなずいた。
「本郷にもうちょっと頑張ってもらうためにもな。一緒に試合に出たかったんだろう?」
「はい。水沢先輩、ありがとうございます。きょうは家族も見に来ているんです。こんな日に私が試合に出たら父は泣いちゃうかもしれません」
「親父さんも来てるのか。そりゃあぜひ活躍を見てもらわないとなぁ」
「先輩に教わったセカンドでの動き方、しっかり実践します。……球は飛んでこないかもしれませんが」
 そう言って春山は本郷と永江を見た。話を振られた二人はにたりと笑う。
「おれたち、野手のみんなのこと全面的に信頼してますから。この回もお願いしますよ、水沢先輩」
 さあ、行きましょう!
 本郷が気合いを入れる。七回表の守備が始まる。野上が言ったように、彼は本当にうちのエースだなと、俺も思う。

 本郷は打たせる気が全くないらしい。野手を信頼していると言いながらも、自身は完璧な投球で相手打線を封じ込め、この回も無安打に抑え込んだ。そのうえ、その裏の最初の打席で初球からライト前にヒットも放った。まさに「絶好調」である。
 そんな後輩の活躍を見せられて黙っていられる俺じゃない。それにこの試合、これが最後の打席になるんだ、最高の結果を残したい。これまで以上に気合いを入れる。
 一年生エースは前の回の失点で降板し、マウンドには二番手投手が立っている。落ち着き払った表情。今本郷に打たれたばかりだというのに動揺しているふうには見えない。
 ピッチャーを見据える。
 初球は明らかなボール球だった。互いに間を置き、再び構える。
 第二球が来る。速い。バットを振ったが完全に振り遅れて空を切る。審判のストライクを告げる声がやけに大きく聞こえた。
 くそっ、本郷に打てたんだ、俺だって……!
「水沢、一発を狙うな!」
 そのとき、永江の声が聞こえた。はっとする。全身に力が入っていたことに気づき、脱力する。
 サンキュー、永江。俺はお前みたいな四番にはなれないけど、俺なりにやってやるぜ……!
 気持ちを切り替える。すると、監督からのサインが目に入った。
 ……本郷を走らせるつもりか。よし。それなら意地でも外野まで球を運んでやる!
 自分の呼吸音だけが聞こえる。全神経をピッチャーのモーションに集中させる。
 ピッチャーの手から球が離れた。まっすぐ。バットを振り抜く。
 金属音が響き、球は三遊間へ。すかさず俺は本郷とともに走り出す。
 どうだ、四番だってヒットエンドランをやるんだ。本郷が無事二塁にたどり着いたのを見届けた俺はガッツポーズをとった。
 ベンチとライトスタンドが再び盛り上がりを見せる。
「ナイス、庸平くーん!」
 どこからともなく彼女の声が聞こえた気がした。スタンドの彼女のもとに球を飛ばすことは出来なかったけど、そう、応援してくれる人がいれば必ず結果は出せる。俺はそれを今、ここで証明したんだ。


   14


 本郷クンが生還し、ツーアウト満塁の場面で僕の打席が回ってきた。
 水沢は三塁にいる。僕がヒットを一本打てば彼はホームに還れる。なんとかして還したい。
 バッターボックスに立つ。ライトスタンドから今日一番の声援が届く。
 K高の生徒、保護者、OB……。たくさんの人が、何百という目が、僕一人に向けられている。
 ここでもう一発放てば一気に突き放せる。期待がかかっているのが分かる。
 一度、深呼吸。僕は声援を力に変えようとライトスタンドに目をやった。
 そのとき、僕の目はある一点で止まった。じっと目を凝らす。見間違いではない。確かに、そこにいる……。
 瞬間、時が止まったかのように思えた。母が、来ている。しかも、父の遺影を手に持って……。
 目の前がかすむ。僕は眼鏡を直すふりをして目の端の水滴を拭った。それでも動揺を抑えることが出来ない。
 いつから? いつから見ていた……? さっき打ったホームランを母は父とともに見守ってくれたというのか……?
 僕の心中など知るよしもなく、ピッチャーは構えの姿勢に入る。バットを握りしめるが繰り出される速球に対応できず、空振りする。結局僕は一度もバットに球を当てることが出来ないまま三振に終わった。
「どうした、永江。何か、あったのか?」
 ベンチに引き上げると、水沢が僕の異変に気づいて声をかけてきた。ひた隠しにすることも出来た。が、彼の前でそんなことをしても無意味であることは分かっている。
「親が……来ていたんだ……」
「えっ……。そうか……」
 事情を知っている水沢はそれだけ言って黙り込んだ。先ほどまで活気に満ちていたベンチが静まりかえる。
「……部長、いけますか? 次の守備」
 本郷クンが言いにくそうに告げた。
「ああ、大丈夫。行こう」
 まだ八、九回が残っている。気持ちを切り替えなければならない。
 マスクをかぶり、いざグラウンドに出て行こうとした、そのときだ。
「行きましょう!」
 本郷クンが僕の背を叩いて真っ先に飛び出していった。続いて守備陣が一人ひとり同じように、時にひとこと声をかけ、走り出ていく。
「部長。何があっても私たちが、仲間がいます」
 最後に春山クンがそう言い、僕の背をそっと押した。
「……よし、行こう!」
 そう。僕はもう、振り返らないと決めたのだ。きっと、母も。
 試合に集中しよう。そして勝利を手にしよう。それが僕の、いま成すべきことだ。


   15


 春山と交代し、ベンチから試合の行方を見守る。が、その前にやはりライトスタンドが気になって思わず目をやる。
 高校に上がってからただの一度も見に来たことがなかった永江の母親が、今日になってやってきた。おそらく、永江がメールを開封したことと無関係ではないだろう。
 もしかしたら、顔を合わせなかっただけで何度も見に来ていたのかもしれない。あのメールの文章を見る限り、永江の母親は決してあいつを見捨てたり嫌ったりしてはいなかった。
 ストライクの声が耳に入り、視線をグラウンドに戻す。
「永江なら大丈夫さ」
 監督が隣で静かに言った。
「そうですね」
 俺がうなずくと、
「彼はもう、宿題の答えを見つけたよ」
 監督がつぶやいた。
 宿題の答え……。監督が永江に出した、「例」の宿題のことか。
「監督。永江が見つけた『答え』が何か、教えてくれませんか?」
「教える? 君はもう、その『答え』を知ってるはずだよ。永江は忘れていた『それ』を思い出したというだけのことだ」
「……誰かを愛する、ってことですか?」
「そう。ただし、愛にもいろんな形がある」
 試合中だ、仲間の応援をしなさい。質問攻めの俺を監督が諭す。
 ミットを構える永江の表情はうかがい知ることが出来ない。けれど、本郷の投球を見れば分かる。
「ストライク! バッターアウト!」
 一人目がアウトになった。野手のみんなが本郷の投球をたたえる。特に春山の高い声がよく通る。本郷が見るからに嬉しそうに笑う。
 そうか、「愛」か。本郷を強くしているのは。俺自身、彼女が見ていると思えばこそ、ここぞという場面で打つことが出来た。なら、永江も……?

 春山の言った通り、球は一度も二塁に転がることなくチェンジとなった。それでも春山は嬉しそうに駆けて戻り、恋人とハイタッチを交わした。本郷の方は今にも抱きつきそうな勢いで春山に近寄る。
「やっぱ、詩乃が後ろで守ってるだけで違うな。……あっ、水沢先輩が信頼できないって意味じゃないですよ?」
「いいよ。俺だって認めるよ、おまえらの仲の良さは。ったく、うらやましい限りだ。その調子で、最終回の守りも頼むぜ」
「はい!」
 元気のいい二人の脇をすり抜け、静かにマスクを取る永江のそばに立つ。
「あと、アウト三つだな」
「ああ」
「最後は空振り三振だと気持ちいいな」
「……そうだな、それは最高だろうな」
「本郷にそう言っておくよ。永江がそれを望んでるって」
「いや、僕から言うさ。一つも打たせるなってね」
「そりゃあ頼もしいぜ」

 八回裏は一番から始まる好打順だったが、交代したピッチャー相手に三者凡退に打ち取られ、あっけなくチェンジとなった。
 いよいよ九回表。ここで抑えれば試合は終わる。本郷と永江。ふたりの技量が試されるときだ。


   16


 あとアウト三つ。水沢はそう言ったが最終回でのそれは重みが違う。誰よりも本郷クンが一番感じているはずだ。僕の口から伝える、と返事はしたがプレッシャーはかけたくなかった。だからあえて反対のことを言う。
「気負うことはないさ。打たれたって裏で取り返せばいい。そうすればサヨナラ勝ちだ。そういう勝ち方もドラマチックでいいじゃないか」
「あはは、部長が言うとなんか格好いいですね。分かりました、気楽に行きます」
「そう、それでいい。大丈夫。君の後ろにはなんたって……」
「詩乃がいますからね」
「ああ。君の雄姿をぜひ見せてくれよ」
「はい!」
 ここまで勝ってきた試合はすべて本郷クンがひとりで投げてきた。勝てる投げ方も彼なりに分かってきていると思う。だから心配はしていない。
 むしろ心配するのは僕の方。ここへ来てなぜか緊張している。
 おそらくは勝ちを意識しているせいだろう。親の姿を認識したとたん、絶対に勝ちたいという気持ちがにわかに湧いてきて打ち消すことが出来ないでいる。
 僕がここまで積み重ねてきた努力の結果を見せつけたい。僕を強くしたのは野球なのだと声を大にして言いたい。どこか怒りにも似た感情が今の僕を支配している。
 こんなことではダメだ。本郷クンには「気負うな」と言ったのに。
 ひとりで思案していると、本郷クンに強く肩をつかまれた。
「部長、その顔、ダメですよ。前に戻ってる。その、怖い顔の部長、おれ、正直言って嫌いです」
 はっとさせられる。彼は続ける。
「詩乃と別れろって念を押されたとき、部長とバッテリー組むの、やだなって思いました。一緒にやってて全然楽しくなかったからです。だから大津と組みたかった」
「…………」
「そのころの部長は、なんだか必死すぎて怖かったんです。けど、監督がやってきてから部長は変わりました。笑顔が増えたし、褒めてくれるようにもなったし。そっちの方が、おれはずっとやりやすいです」
「そうか、僕はそんなに変わったか」
「……一つ、聞いてもいいですか? 部長はあのとき、恋は人を腐らせるって言いましたよね? 今でもそう思ってるんですか?」
 聞き方は違えど、それは監督が僕に与えた宿題の答えを問うのと同義だった。僕はゆっくりと息を吐き出して言う。
「いいや。……恋だけじゃない。人は何かに夢中になっているときにこそ真の力を発揮する。今はそう思ってる。春山クンがセカンドに入ってから君の球は明らかに速く、正確になった。それが何よりの証拠だよ」
「じゃあ……部長は? 部長に真の力を発揮させてるものって何ですか?」
「野球に決まってる」
「なら、そんな顔してる場合じゃないですよ。最高に楽しんでる顔してください。そしたらそこに、最高の球を投げますから」
 そう言って彼は先に笑った。
「君とバッテリーを組めたこと、僕は誇りに思うよ」
 彼の助言がなければ、僕は絶好調の彼の球を取り損なったかもしれない。自分で自分を責め、また以前の僕に戻っていたかもしれない。
 以前の僕が嫌いだったと、正直にかつ面と向かって言ってくれた彼には感謝の言葉しかない。今、彼に放った言葉は嘘偽りのない、本心だ。
「アウト三つじゃない、三人で決めよう。どんな速球も変化球も、僕が必ず捕ってみせる」
 今の彼はプレッシャーをもバネに出来ると確信した。僕の言葉に彼は力強くうなずく。
「それそれ、その顔です。最終回もわくわくしながら野球、楽しみましょう!」
「了解」
 彼の笑顔に、笑顔で答える。
 本当に、僕は変わったな……。いや、変えさせられたと言うべきかもしれない。
 ほんの少し前まで、僕の進む道は途中で途切れていた。死に神がすぐそこに立っていて、僕がいいと言えば首をはねられるよう、いつでも鎌を振り上げていた。
 死ねば父に会える。だから恐れてはいなかった。「甲子園」という目的がなくなった先の人生には正直、何の魅力も感じていなかった。
 だけど。
 水沢、本郷クン、春山クン、そして麗華さん……。彼らの言葉、そして優しさが僕の凍った心を一気に溶かしてくれた。僕を必要とし、勇気を与えてくれた。
 そう。僕は無価値ではなかったのだ。それどころか常に誰かに愛されていた。
 それは友であり、家族であり、仲間であった。
 その仲間が今、僕の眼前にいる。ベンチにもいる。スタンドにも……。
「あと三人だ! 絶対に勝つぞ!」
 僕は声を張り上げた。
「おう!」
 仲間の返事がフィールドから、そしてベンチから聞こえた。

 歓声が一段と大きくなったように感じる。そこに母の声も混じっているのだろうか……。
 僕は昨日の夜、母宛にメールを送った。たった一言、文章とも言えないそれを見たからこそ、母はここへやってきた、きっとそうなのだろう。
 拒絶し続けてきた僕からの返信。それだけでも母にとっては大きな変化だったに違いない。僕だってそうだ。きっかけをもらわないままだったら、ここまで勝ち上がることすら叶わなかったかもしれない。母との対面は息をしていない状態だったかもしれない。
 僕はきっと、このあと母に会うだろう。自分でも何を言うかは分からないけれど、とにかく会う。向こうが歩み寄ってきたのなら、僕ももう一歩前へ出なければ、進まなければならない。

 昼前だというのに夏の日差しが容赦なく照りつけ、本郷クンの立つ辺りには陽炎が揺らめいている。
 この暑さを感じられるのも、僕が生きているという証だ。この、焦げ付くほどの暑さは夏の大会でしか味わえないと言ってもいい。
「どーんと来い! 君の絶好球を、どこにでも投げてくれ!」
 腕を大きく広げ、それからミットを構える。本郷クンは大きくうなずき、すぐに振りかぶる。
 初球は剛速球のストレート。バッターは手を出すことも出来ずにワンストライクとなる。
「まだ球速が上がるのかよ……」
 電光掲示板に表示された速度を見てバッターがぽつりとつぶやいた。
「彼の球はこんなもんじゃないさ」
 僕は揺さぶりをかけるように言った。
「ふん、そんな自信、へし折ってやる」
「残念ながら、今日の彼を止めることは不可能だ。この僕でさえもね」
 バッターは眉間にしわを寄せて本郷クンを睨み付けた。それを見ても彼は表情を崩さず次の投球をする。
 わずかにバットが球に当たる。完全に振り遅れている。球は空高く上がった。
「任せて!」
 春山クンが手を広げ、ファウルボールをキャッチした。
「ワンアウト! ナイス、詩乃!」
 本郷クンが吠えるように言うと、春山クンはニコニコしながら返球した。
「ちっ、女のくせに野球なんかしやがって」
 倒れたバッターが捨て台詞を吐いた。
「女性が野球をしちゃいけない理由なんてない。彼女は野球を心から愛している。そんなふうにしか言えない君とは違うんだよ」
 バッターは今にも僕に掴みかかろうとしたが、次のバッターがそれを制した。
「打ち取られたやつはなぜ打てなかったかを考えろ。負け惜しみは見苦しいだけだ」
 よく見ればそれは相手チームのキャプテンだった。なぜか、少し前までの自分の姿を見ているような気分になる。それは実際、正論ではあるが非情な感じがした。
「仲間に厳しいな」
「この状況下で情なんかいらないだろ。オレたちの夏が続くかどうかが懸かってんだから」
「僕もそう思ってたよ。けど、大会で勝つことだけがすべてじゃないよ」
「ふーん、なら負けてくれる?」
「あいにく、今日だけは負けるわけにはいかないんだ。君にもアウトになってもらう」
「なにをふざけたことを。ごちゃごちゃ言ってないで早くあいつに投げさせろ」
 さすがのキャプテンもいらいらした様子で本郷クンを見た。
「そんなに早くアウトになりたいなら、望み通りにしてあげるよ」
 僕はそう言ってすぐ本郷クンにサインを送った。彼はうなずき振りかぶる。
 バッターが動く。この球を狙っている。が、そうはさせない。
 球はバッターの目の前でぐんと落ちる。バットが球を切る。僕は変化したその球をしっかり掴んだ。
「ストライク!」
 彼のシンカーはよく落ちる。これを打てるバッターはなかなかいないだろう。目を白黒させるバッターにその後も次々決め球を投じ、あっという間に抑え込んでしまった。
「なぜ打てなかったか、ベンチで考えておくといい」
 僕は去って行く彼に向かってそう言った。彼は無言で戻っていく。ベンチに入っても誰も彼を慰めはしなかった。一人、ベンチの隅に座る彼は頭を抱え込み、動かなくなった。
「あと一人だ!」
 本郷クンが仲間を鼓舞する。天に掲げた一本指が頼もしく映る。
「最後のバッターにはならねぇぞ」
 次に出てきたバッターが言った。誰だって最後の一人にはなりたくない。けれど、僕らは三人で抑えると決めている。
「悪いけど、最後のバッターは君だ」
「嫌だね。なにが何でも塁に出てやる!」
 その顔は勝ちへの執着心で満ち満ちていた。全身に力が入っているのが分かる。
 そんなんじゃ打てないよ。心の中でつぶやき、僕は本郷クンにサインを送る。
 スライダーでいこう。しかし彼は首を振る。
 では、シンカー? それも違うという。
 ならば、ストレートか。彼はようやく首を縦に振った。
 最後は得意のストレートで攻めようというのか。この鼻息の荒さなら力で運ばれる可能性もある。
「タイム!」
 僕はこの試合、初めてのタイムを取って本郷クンのもとへ走った。
「ここで敢えてまっすぐなのか? あのバッターはたぶん、打ってくるよ」
「わがまま言ってすみません。でも、勝負してみたいんです」
「どうしても?」
「どうしても」
「分かった。初球はそれで行こう。ただし、初球だけだ。後は変化球で頼む。そして必ず抑える。いいね?」
「……部長もやっぱ、勝ちたいんですね」
「何を今更」
「おれは今この瞬間をめっちゃ楽しんでますよ」
 その一言で分かった。一回だろうが九回だろうが、彼は常に自分の持ち玉が通用するかどうか試したいのだ。幾度となく勝ち星を挙げてきたからこその台詞とも言えるだろう。思わず笑ってしまう。
「なんか、おかしなこと言いましたか?」
「いや……。君らしいと思ってね。よし、分かった。前言撤回。君の好きなように投げればいい。さっき約束したからね。どこに投げても僕はすべて受け止める。その方が僕も心から野球を楽しめる気がするよ」
「でしょう? いまの部長なら分かってくれると思ってました」
 わくわくしている自分がいた。たとえここで逆転されても僕は後悔しないだろう。それが、本郷クンを信じ、勝負した結果なら甘んじて受け入れる。
 僕が野球をしているのはもう、甲子園に行くためじゃない。「今、この瞬間を生きている」と感じるためだ。
 定位置に戻る。待たされたバッターはいらついている様子だった。
「話は済んだか? じらすのも大概にしろよ」
「最後の一人に投げる球だ、こちらも作戦を立てる必要がある」
「最後最後、ってうるさいやつだな」
「事実だから仕方がない」
「…………! 絶対に打つ……!」
 バッターは目を三角にして僕を睨んだ。果たして怒りは長打のエネルギーになるだろうか。それとも調子を狂わせるだろうか。
 もはやどちらでもかまわない。僕らバッテリーを楽しませてくれるなら。
 本郷クンが力強くうなずき振りかぶった。ミットを構え、待つ。
 打ち合わせ通りのストレート。バットが動く。が、球はミットの中に収まった。パシッといい音が響く。
 155キロの表示に球場がどよめく。
「155キロ……? くそっ、次こそは打つ……!」
 バッターは自らに暗示をかけるようにつぶやいた。
 本郷クンはすぐさま次の投球フォームに入る。一気に決めるつもりのようだ。
 次もまっすぐ。内角ストレート。あまりに速いからか、バットは出ない。
「ストライク!」
 ストライクゾーンぎりぎりのところに投げられるのが今の本郷クンだ。僕は大きくうなずきながら返球する。
 ツーストライク。追い込んだ。バッターに焦りの色が見え隠れする。
 いよいよ、最後か。こちらも思わず固唾を呑む。
 次のピッチング。繰り出された球はまたしてもストレート。
「来たっ!」
 バッターは待ってましたとばかりにバットを力強く振った。
 カンッ!
 球が、僕の真上にあがった。マスクを取り、両手を広げる。
 逆光になる。真夏の太陽がまぶしい。一瞬、球を見失う。
「あっ……」
 そのとき、父の姿がはっきりと見えた。

 ――成長したな、コウ。もう、大丈夫だな。
 ――うん。父さんに会いに行くのはもう少し先になりそうだ。
 ――それでいい。
 ――見ていてくれたんだよね、僕のホームランを。
 ――ああ。甲子園に連れて行ってくれるよりもずっと嬉しかったよ。
   ……コウ。母さんを頼むよ。
   あのとき、母さんはコウを否定したんじゃない。
   母さんなりにお前を心配していただけなんだ。
 ――……分かってたよ、はじめから。
   ……お互い、慰め合う言葉を知らなかった、それだけのことだったんだって。
 ――コウは賢いな。お前がどこにいても父さんは見守っているからね……。

 球はミットにしっかりと収まった。試合が、終わった。
 僕は膝を折り、その場から動けなくなった。そこへ仲間が次々集まってくる。
「部長! おれたち、勝ったんですよ! ベスト8進出ですよ!」
「最後の球をキャプテン自らキャッチとは、さすがだな、永江!」
「部長、涙はもうちょっと後にとっておきましょう。私だって我慢してるんですから」
 僕の意思とは無関係に温かいものが目を濡らし、頬を伝った。春山クンに指摘され、そっと拭う。

 K高対S高の試合は我が校の勝利で終わった。互いに礼をし、ベンチに引き上げる。と、監督が僕らを出迎えてくれた。
「いい試合だったよ。わしが引退する日がまた延びてしまったな」
「もう少しの間ご指導ください」
「もちろんだよ。なぁ、永江。今の君は最高に素晴らしい選手だよ。自分でも分かるだろう? 少し前までの自分とはまるで別人だ」
「はい。監督のお陰です」
「いいや。わしはただ、ほんのちょっときっかけを作ったに過ぎない。永江自身が自分と向き合い、答えを見いだしたからだよ」
「答え……」
 僕はつぶやき、仲間の顔を見た。みんなが僕の言葉を待っている、と感じた。
「みんな、今日は最高の試合だったよ。打たれた野上クン、大津クンもいい経験になったと思う。僕らの夏はまだまだ終わらない。最後の最後まで、僕たちの野球を楽しもう」
「はい!」
「お疲れさま。今日はありがとう」
 僕が労ったもんで、みんながざわついた。そして何だか嬉しそうだった。


   *


 帰り支度を済ませ球場をあとにする。するといつものように、保護者が表で僕らが出てくるのを待っていた。良かったよ! 頑張った! そんな声と拍手が聞こえる。
 僕はキャプテンとして、先頭でその賛辞を受けながら前へと進んでいく。そして、列の最後尾に、見つけた。母の姿を。
 普段ならば誰しもが、自分の親を見つけても笑みだけを浮かべ通り過ぎていく。が、僕は立ち止まった。対話するなら、今をおいてほかにない。
 後ろで、何事かと声を立てる仲間の気配を感じる。が、すぐ後ろにいた水沢がそれを制してくれたようだ。
 僕は数歩進み出て母の前に立った。
 少しの間、互いに何も言わない時間が流れた。僕が言いよどんでいると母が先に口を開く。
「……ベスト8進出おめでとう。最後に捕球する姿、格好良かったよ。お父さんも、見ていたと思う」
「父さんになら、会ったよ。その瞬間に」
「……そう」
 会話が続かない。再び沈黙する。
 僕は待った。母は父の遺影を何度も持ち直し、言葉を探しているようだった。そしてようやく、
「……許してくれて、ありがとう」
 と、小さな声で言い、涙を流した。

 許す。

 僕はたったそれだけの単語をメールで送った。しかしそれだけで、三年間止まっていた時は進み始めた。
 僕はようやく言葉を紡ぐ。
「許すよ。だけど、今すぐ元通りの暮らしには戻れない。長い間、別々に過ごしてきたんだから」
「いいよ、それで。傷がきれいに治るまでには時間がかかるもの」

 ありがとう、見守っていてくれて。

 その想いはまだ、声に出しては言えない。けれど、母だって分かってくれているはずだ。僕の不器用な性格を知っているから。


   17


 永江が見つけた「愛」が何か、やっと分かった。それは誰しも自然に受け取り、与えているもの。当たり前すぎて気がつかないような「親子の愛情」。それが監督の出した宿題に対する永江の答えだったのだ。
 遠巻きに永江を見守っていると姉がそばにやってきた。
「コウちゃん、お母さんと和解できたみたいだね」
「うん? ひょっとして、孝太郎の母さんに連絡したのは姉ちゃんか?」
「まさか。私はただ歌を歌っただけ。でもね、歌の力って強いと思った。だからこれからも歌手活動していこうって思ってる」
「……俺、姉ちゃんは孝太郎のこと、好きなんだと思ってた」
「んー、コウちゃんはいい子だし、好きといえば好きよ。でも、家族の一員として、かな」
「なるほど。いろんな『愛』の形がある、か」
「え、何それ? 庸平が言うと気持ち悪い」
「俺が愛を語って何が悪い? 言っとくけど、俺にも彼女、いるんだからな」
「嘘! いつの間に?! ……ってもう高三だもんね。いても不思議じゃないか」
 姉は妙に納得した様子でうなずいた。
「ねぇ、庸平はこのまま野球続けるの?」
「ああ。それしか夢中になれるものもないし、今しかやれないことでもあるしな」
「そうだよね……」
「なんで急にそんなことを?」
「あたしたちって、好き勝手やらせてもらえて恵まれてるなあと思って。親には感謝しないと」
「……だな」
 そうは返事をしたものの、自分の口から「ありがとう」だの「感謝してる」だのと言うのはなんか違うと思った。言えばきっと親も喜ぶ。だけどそういうのって、言わなくても伝わるもんじゃないのか。それが本当の「愛」ってもんじゃないのか。
 そのとき、背後にいた春山の声が聞こえた。気になってそっちに意識を向ける。
「あれ、お父さんは? 来てるんでしょ?」
「あー。トイレに行って泣いてんのよ。もう、ばっかみたい」
「えー? 本当に泣いちゃったの? 信じらんない……」
「お父さんのことは放っておけばいいよ。それよりさ……」
「うん?」
「あんたの努力、認めるよ。本当に試合に出ちゃうなんてね。ただ立ってただけなのになんか……格好良かった」
「奈々ちゃん……」
「あたしも、グチグチ言ってないで今やれることをやろうかなって、ちょっと思ったよ。きょうは詩乃の好きな特大バーガー食べに行こう。おごるよ。あたしは食べないけど」
「やったー!」
 ああやってはしゃぐ春山を見ると、ユニフォームを着ていても普通の女子なんだな、と思わされる。その春山がこちらを見るなり「あ!」と声を上げた。
「麗華さんも来てたんですか! わー、嬉しいな!」
「一応、弟の雄姿を見てやろうと思ってね。途中で代わった詩乃さんの活躍も良かったわよ」
「なんか恥ずかしいけど、嬉しいです。……きょうは歌わないんですか?」
「うふふ。また駅前で歌うわ。そのときに会いましょう」
「楽しみにしてます」
 姉は「歌の力」と言ったが、人生を変えるほどの影響を与えるって正直すごいと思う。俺にも、そういう力が備わっているのかな……。
 まぁいい。今はまだ、勝利の余韻に浸りたい。考えるのは、夏の大会が終わってからでも十分間に合うはずだ。


   18


 帰りの電車の中で、僕は監督の隣に座った。監督は腕を組んだまま前を見据えている。
「僕なりの『愛する人』を見つけました。互いの距離はこれから縮めていこうと思っています」
「ああ。わしにも分かったよ。君が見つけたその人が誰なのか。宿題は受理した。もう君は、わしからの助言がなくてもやっていけるだろう」
「……病気の前とあとで、監督は変わりましたね」
「なあに、君だって変わったじゃないか」
「そうですが……」
 不満げな僕に監督はいう。
「病気をすると殊更に分かるものだよ。家族の大切さを。いかに自分が周囲に支えられ、必要とされているかを。そして自分の小ささを、これでもかというほど思い知らされるのさ。
 わしはこの年まで、野球さえあれば自分は一人でも生きていけると信じていた。しかし違った。ともに野球に励む仲間たち、指導する子どもたち、そして家族。彼らがいるからこそ好きな野球をやってこられた。その事実に気がついたんだよ。今の君なら分かるだろう?」
「……はい、よく分かります」
「再び君とこうして話をし、『愛』について語り合えて嬉しいよ。三年間、君のことだけはずっと気がかりだったからな。もう一度まみえるまでは死ねん、とも思っていた」
「監督……」
「いい友に恵まれて良かったな。水沢にはよく礼を言っておきなさい」
「はい」
 その水沢は、向かいの席で本郷クンや春山クンと談笑している。
 礼、か。
 たぶん、彼はそんな言葉を求めてはいないだろう。相手が僕なら、なおさら聞きたくないに違いない。感謝の気持ちを伝えるなら、これからも共に野球を続ける仲間であり続けること。それしかないだろう。
 じっと見つめていると、水沢は席を離れ、僕の前にやってきた。
「きょうはどうする? うち、くる?」
 問われて、僕は少しの間思考をめぐらせた。しかし答えは変わらなかった。
「行くよ。でも一度、家に帰る。……父さんに線香をあげたいから」
「……お袋さん、待ってるんじゃないのか?」
「……まだ何を話せばいいか分からないし、同じ食卓で食べるのも難しそうだから、実家にはちょっと顔を出すだけにするよ」
「そういうことならうちの親には、夕食の材料はいつも通りの分量で、って頼んどくわ。お前とお袋さんのやりとり見て気になったのか、メールが送られてきてたからさ」
「大会が終わるまでは厄介になるつもりだから、そう伝えておいてくれるか?」
「オーケー」
 彼と彼の母親の優しさが再び僕の心をじんわりと温めた。
 僕には帰る家が二つある。帰宅時に「お帰り」と声をかけ迎えてくれる人がいる。それこそが、僕の生を繋いできたのだと知る。
 生きられなかった父の分まで生きよう。そしてあの世に行ったら、経験した様々なことを話してあげよう。
 一つ、生きる目的が出来た。一人で満足していると水沢が顔をのぞき込む。
「なんか、嬉しそうだな。機嫌がいいなら、今日の自主練は免除してくんない?」
「それは出来ないな。……その代わり、彼女と長電話していいことにしよう。どうだ?」
「えっ!? まじで!! 今言ったこと、忘れるなよ!」
 水沢はさっそくスマホを取り出していじり始めた。隣にいる監督は笑っている。
「はっはっは! 永江の制限がようやく解けたか。これで水沢も堂々と電話が出来るな」
「僕としては、その情熱を次の試合のエネルギーにしてもらいたいのですが」
「大丈夫だ、水沢ならきっとやってくれる。なぁ、そうだろう?」
「もちろんですよ! 次こそはホームランぶっ放ちますから!」
 その顔は今日一番の笑顔だった。今なら言っても大丈夫そうだ。
「僕からも頼みがある」
「おう、何でも言えよ」
 僕は少しためらってから、
「……今日の晩ご飯、生姜焼き丼が食べたいって伝えてもらえる?」
 と言った。水沢は「おっ?」と声を発し目を丸くした。
「晩飯のリクエストだな、オーケー」
 そう言うと、彼は何度も何度もうなずいた。
「……もう、外でも孝太郎って呼んでいいよな? 正直、使い分けるの面倒くさくてよぉ」
「……そうだな。いいよ、それで」
 名前で呼ぶことを認めたとき、肩に乗っていた何かがストンと落ちた気がした。
 僕は拳を前に突き出す。
「これからも頼むよ、庸平」
「おう、任せろ、孝太郎」
 彼も拳を突き出した。その様子を監督が静かに見守っていた。


   ー 完 ー

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