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【創作大賞2025応募作品・オールカテゴリ部門】長編小説「僕は君に恋してる」圭二郎×舞編

あらすじ

現役のプロ野球選手、本郷圭二郎ほんごうけいじろうは、意に反してスポンサー企業令嬢と婚約した。しかしそれが原因で、自分を思ってくれていた幼なじみの野上舞のがみまいを傷つけてしまった。彼女から「さようなら」を告げられて自分の行いを恥じた圭二郎は婚約を解消し、自分の名を利用しようとした球界から去る決意を固めた。頼れるのは舞だけだった。圭二郎は思い悩んだあげく、舞に接触する。そして自分と共に野球以外の人生を歩もうと提案する。

しかし舞には既に別の思い人がいた。ミュージシャンである彼は、圭二郎の立場と心情を知り、圭二郎には内緒で応援歌を作ることを提案する。舞自身も圭二郎のファンクラブを作ることを思いつき、自暴自棄になる彼を立ち直らせようとする。

野球を辞めると言い張る圭二郎に対し、先輩野球人たちが優しく、時に厳しく寄り添う。その中で彼は少しずつ心を取り戻していく。

人生の壁にぶち当たった男が周りに支えられながら再起する、心温まる物語。


1.<圭二郎>

 小さな街の住宅地をウロウロし、ようやく見つけた。「ワライバ」と書かれた看板を掲げた喫茶店を。

(ここに、いるのか……。)

 女の子ながら、幼い頃から俺と一緒に野球をしてきたあいつが……。社会人になっても野球部のある企業で働いていたあいつが、今はこんなところでウエートレスをしているなんて……。にわかには信じれなかった。

 しかし、ここまで来たからには中に入って確かめるしかない。意を決し、重たいドアを押し開ける。

「いらっしゃいませ!」

 暇にしていたのか、店員の女の子が――あいつが――待ってましたとばかりに笑顔で挨拶をしてきた。しかし、俺を見た瞬間、笑顔が凍り付く。

「ん?」

 彼女の異変に氣付いた店主マスターも、俺の顔を見るなり表情を変え、読んでいた雑誌を放り投げた。

「ここは、あんたみたいな人間が来る場所じゃない。悪いけど帰ってくれ」

「……親からは、誰でもウェルカムな店だって聞いたんですが?」

「それは建前。おれにだって客を選ぶ権利はある。店員みうちのためなら尚更だ」

 やはり歓迎はされなかったか。しかし、ここまでは想定済み。
「これを見せても断りますか?」

 俺は堂々と、元プロ野球捕手・永江孝太郎ながえこうたろう氏のファンクラブ会員証をみせた。ここは喫茶店だが、店の一角に彼の使用したユニフォームなどが展示してある。ずいぶん前に親と話したとき、とりあえず入会しておけと言われて会員になっておいたのが今頃役に立つ。

 店主マスターは会員証を見て、渋々俺を展示スペースに案内した。しかし、俺の目的はここの見学ではない。

「……あの、店員さん、、、、に展示品の説明をお願いしたいんですが」
 視線を投げると、彼女はうつむいた。彼女を助けるかのようにマスターが俺を睨む。

「説明なんて必要ないだろう? 永江センパイは現役時代、同じくプロ野球投手だったあんたの父親と同じチームだったんだから。あんたはただ、マイマイと話したいだけ。違う?」

「……そうですね。おっしゃるとおり、俺は野上舞のがみまいさんと話したくてここを訪れました。だから、話せるまでは帰りません」

「マイマイが話したくないと言っても?」

「話したくないかどうかは本人に聞きます」

 どれだけ俺を突っぱねたって無駄だ。舞はそこにいるんだ。会うために来たんだ。俺はてこでも動かない。そういうつもりで立っていると、舞がすっと前に出た。

理人りひとさん、わたし、話します。それで、どうしても無理ってなったらそのときはお願いします」

「マイマイ……。だけど、大丈夫なの?」
 マスターの問いに舞は小さく頷き、俺を正面から見つめた。

「……久しぶりね。現役のプロ野球選手、本郷圭二郎ほんごうけいじろうくん。シーズンオフだからって、こんなところに来る余裕があるなんて。もしかして、干されちゃったの?」

 その物言いから、彼女が俺を完全に軽蔑していることが分かった。当然だろう。結果的に、俺のとった行動で彼女を傷つけてしまったのだから。しかしながら、残念。皮肉ったつもりだろうが、舞の予想は当たってしまっている。

「まぁ、似たようなものかな。実は……婚約を解消したことで、今ちょっとばかり揉めてるところ。お陰で練習にも参加させてもらえない」

「はぁ?! 破談になったってこと?! 何よ、それ。いったいどういうことなの?!」
 あまりにも衝撃的だったのか、舞は大声で言った。

「まぁ……。元々うまくいく道理はなかったんだ。向こうの親の政略結婚的な意味合いが強くて。あー、婚約者の親はスポンサー企業の社長でね……。圧力がすごかったからお互いに一度は意向に従ったんだけど、やっぱり氣が合わなくて……。結婚してからじゃ取り返しがつかなくなるから、その前にけじめを付けようってことになったんだ」

 そう。俺は一年前、とある企業の令嬢と婚約し、それを大々的に発表した。半ば強引に進められた話だったこともあり、幼なじみの舞に打ち明けることもなく……。

 彼女が俺に好意を抱いていることは薄々氣付いていた。俺も舞が好きだった。でも、言えなかった。結局、振られた側の舞が先に立ち直り、「好きだった。さようなら」と俺に告げて関係はおしまいになった。

「……その報告をするためにわざわざここへ?」

 お前のことはもう忘れるつもりだったのに、なんで自分の前に姿を現したのか……。舞の言葉からはそんな思いが伝わってきた。

 もちろん、今のは本題を告げる前の小話に過ぎない。本当に言いたいことは別にある。俺は舞に詰め寄り、その顔をじっと見つめた。

「……俺と付き合ってほしい。今日はそれを言いに来た」

「…………!!」
「ええっ!!」
 舞は息を呑み、マスターは大声を発した。

「舞に想いを告げられてはっきり分かったんだ。やっぱり俺も舞のことが好きだって。あの時はまだ婚約中だったから舞の次の恋を応援するって言ったけど、今は晴れて自由の身になった。だからこれからは自分の氣持ちに正直に生きていく」

「……わたしの方から想いを打ち明けさせておいて、今更告白? あれから半年以上が経ってるっていうのに、わたしがまだあの時と同じ氣持ちでいると思ってるの? あり得ないんだけど。それだけじゃない。舞には野球は向いていない、だから俺とは一緒にいない方がいい……。そう言ってわたしを振ったのは、どこのどいつ?」

「舞の氣持ちが変わってしまったように、俺の氣持ちもあの時から変わった。つまりはお互い様ってことだよ」

 舞は憤っているようだが、俺だってずっとずっと悩んでいたんだ。自分の本音、婚約者の思い、舞の氣持ち……。考えすぎて頭がパンクしそうで、眠れない日々が続いてた。そんな中、ようやく意を決してここまで来たというのに……。

「……俺は舞と一緒にいたい。そのためなら親の期待に応えることもやめるし、転職だってする。……俺のマジな氣持ちを聞いても突っぱねる?」

 半ば懇願するように言った。

「……それってもしかして、野球をやめるってこと?」

「舞と付き合えるなら……いや、結婚も考えてくれるならそうする覚悟はある」

「…………!! あのさ、いくら好きだからって、そこまでする? って言うか、現実的じゃないよ、そんなの」

「現実的かどうか……。問題はそれだけ?」

「…………」

「舞は俺のこと、完全に嫌いになっちゃったの? 顔も見たくない、声を聞くのも嫌になったって言うなら、今すぐここで平手打ちを食らわせてくれ。それができないっていうなら考え直してくれないかな」

 叩かれてもいいつもりで頬を差し出す。が、舞はうつむいてしまう。

「考え直すも何も……」

「……もしかして、今ほかに好きな人が?」

「…………」
 黙り込むのを見て、氣になる人がいるんだと知る。

「まぁ、俺が舞の背中を押したんだから、誰かに恋心を抱いていたっておかしくはないだろう。でも、その様子じゃまだ恋仲ってわけでもなさそうだ。なら、俺にもチャンスはある」

「今更そんなことを言われたって困るよ……」

 そこへ、マスターが割って入る。

「あのさぁ、マイマイを困らせるような発言、やめてくんない? っていうか、そうやって自分の乱れた心を恋愛で埋めようとするの、良くないと思うぜ。さっきは帰れって言ったけど、悩みがあるなら話は別だ。おれが聞いてやる」

 さっきと違い、今のマスターの目は俺を哀れんでいるように見えた。親から、ここは誰でもウェルカムな憩いの場だと聞いていたが、その言葉に間違いはなさそうだ。

「……お心遣い、感謝いたします。ですが、マスターに聞いてもらうのはもう少し後にします。……舞、仕事が終わってから会えるかな。その頃にまたここへ来る」

「仕事が終わるのは、七時ごろだけど……」

「じゃあ、七時に迎えに来るから」
 結局、永江氏の用品展示スペースは見学せず、コーヒーも飲まずに店を出た。

 しかし、顔が知れている俺に行く当てなどなかった。野球帽を目深にかぶり、マスクとマフラーで口元を覆って公園のベンチを温める以外、することがなかった。ただ幸いなことに、ベンチに数時間腰掛けることには慣れていた。

 ぼうっと過ごしているうちに日が暮れてきたので公園から引き上げ、約束の七時ちょうどに店に入った。




2.<舞>

 彼は七時きっかりに戻ってきた。相変わらずまめな性格だと、半ば感心する。
「話は聞いてあげる。だけど、場所はここがいいわ。どっちみち、話す場所は必要でしょ?」
 CLOSEDの札と内鍵を掛けたわたしは、そう提案した。

「……それは、マスターも俺たちの話を聞くってこと?」

「理人さんがわたしのことを心配してるの。圭二郎に妙なことをされないか、ってね」

「俺は何もしないよ」

「本当にぃ?」
 そこへ理人さんも加わる。
「好意を持ってる男と二人きりにしたらどうなるか、誰でも想像がつくってもんだろう?」

「なるほど……。マスターも舞のことが好きなんですね。でなければそんなこと、言うはずがない」

「お生憎様。俺がマイマイを擁護する一番の理由は、野上大センパイ、、、、、の娘だからだよ。万が一のことがあったら、おれの身が危うい」

「あー、そっちですか……。確かに、舞のお父さんに知れたら厄介ですね」
 わたしの父と理人さんとは高校野球部時代からの付き合いだ。

 圭二郎はしばし、考え込んだ。
「うーん……。やっぱりマスターには聞かれたくないな。……じゃあさ、次の休みに二人で会えないかな。日帰りでどこかに行こうよ」

 どうしても一対一いったいいちで話がしたいらしい。「日帰りで出かけたい」という提案を聞いて、誰一人自分のことを知らない場所に行きたいと言う意味ではないかと、直感的に思う。理人さんの見立てでは、何らかの悩みを抱えているのではないかと言うことだったが、もしかすると彼は相当に病んでいるのかもしれない。

「……分かった。実は次の休みは明日なんだけど、空いてる?」

「ああ……。さっきも言ったとおり、練習に参加させてもらえないからここんとこ、ずっと暇にしてる」

「…………」
 せっかく一緒に出かけることが決まったというのに、その声には全く覇氣がなかった。ますます心配になる。

「じゃあ、決まりね。うーんと……。どこか、行きたいところはある? 集合場所とか時間とか、擦り合わせないと」

「自然の多いところがいいな。あー、最寄りのK駅に集合して、そこから電車で移動できた方が舞は楽? そっちに合わせるよ」

「……って言うか、今夜はどこに帰るつもり? まさか帰る場所もない、なんて言わないよね?」

「どうかな……」

 わたしの冗談に真顔で返す圭二郎。さすがの理人さんも「ホントに寝るとこがないなら、うち、来る……?」と声を掛けた。

「いや、今夜は実家に泊めてもらうことにしてるんで……。ここに来てることは内緒ですが……」

「なら、実家まで見送るよ。マイマイの方も。なんか、心配だし」
 理人さんはそう言うと、店の奥にいたもう一人の店主、隼人はやとさんにその旨を伝え、上着を羽織った。わたしも帰り支度を済ませ、一緒に店を出る。



 三人で歩く帰路は全く会話がなかった。気まずさを感じながらも結局、一言も話さないまま圭二郎の両親が住む駅前のマンションが見える場所まで来てしまう。人の多さに、圭二郎はキャップを目深にかぶり、マフラーで顔の下半分を覆った。

「送ってくれてありがとう。ええと……。明日の待ち合わせ場所はそこのK駅改札前でOK?」

「改札前……。そこは都合が悪いんじゃない……?」
 長身と言うだけでも目立つのに、人目を氣にするように顔を隠した人間をそんな場所に立たせる趣味はない。

「あたしがマンションのエントランスまで行くよ。その方がずっと安全のはず」

「……氣ぃ遣ってくれてありがとう。そうしてくれると助かる。時間はどうする? 俺的には早いほうが有り難いんだけど」

「んー……。通勤通学時間帯は混雑するから、それより早くとなるとメチャクチャ早くなっちゃうけど」

「それでもいい。俺は大丈夫」

「じゃあ……。六時、でどう?」

「ああ、それでいいよ」
 実家にも居場所がないのだろうか。少しでも早く会いたいという、焦りのようなものを感じずにはいられなかった。

「了解。それじゃあ、明日の朝六時に、マンションのエントランスで」

「うん。……それじゃ、また明日」
 圭二郎はわたしと理人さんに一礼すると、ジャケットのポケットに手を突っ込み、背中を丸めるようにして去って行った。

 姿が見えなくなったところで理人さんがぽつりと言う。
「……おれには、あいつが心を亡くしてるように見えた」

「そうですね……」

「マイマイ。明日はあいつのこと、頼むよ」

「はい。……だけど、どうして今日初めて会った圭二郎をこんなにも想ってくれるんですか? 圭二郎が、理人さんの野球部時代の先輩である本郷祐輔ほんごうゆうすけさんの息子だからですか?」

 さっきの理人さんの言葉を引用して問うた。しかし予想とは違う答えが返ってくる。

「似てるから……かな。かつてのおれに。だから、あいつの氣持ちがなんとなく分かるし、放っておけないんだと思う」

「それって、父に救われたころの……?」

「そうそう! 野上センパイ――マイマイのお父さん――は、荒んでいたおれに寄り添い、理解し、すべてを受け容れてくれた。お陰で改心したんだけど、その恩返しをおれは、お客さんを救うことで果たしたいんだよね」

 力強く言い切った理人さんが格好良く見えた。
「わたしもその父の遺伝子を受け継いでいるといいんですが……」

「大丈夫、大丈夫。何しろ、センパイの野球の能力は兄さんの方じゃなくて妹のマイマイが受け継いだんだから、きっと救う力だってあるさ」

「本当に父のこと、尊敬してるんですね」

「ったり前よ。何しろ『神様、仏様、野上様』だからな!」
 そう言っていつものように、パンパンッと顔の前で手を叩いた。
「ううっ……! 立ち話してたら寒くなってきたな。さて、次はマイマイを部屋まで送ろう」

「……いろいろと、ありがとうございます」
 深々と頭を下げると、理人さんは「早く行こうぜ」と言って先を歩き出した。




3.<圭二郎>

 舞たちと別れたら急に寂しさに襲われた。

(早く明日にならないかな……。)

 今別れたばかりだというのに、俺の頭はこれから会う親のことではなく、明日のこと……舞のことしか考えていない。

 実家に一晩泊まるといっても、老後に両親が居を移したここはもはや俺の知る場所ではない。例の縁談を進めた親とは正直、話すことなどないが、かといって今の俺には帰るべき場所もない。それを知っているから、親も俺に寝床を提供してくれるのだろう。何を言われるか分かったものではないが、泊めてくれるだけ有り難いと思うべきなのかもしれない。

 マンションのエントランスで部屋番号を押し、インターフォンを鳴らす。応じた親に名前を告げると、オートロックの自動ドアが開いた。中に入ってエレベーターに乗り、親が住む部屋に向かう。

「お帰り、圭二郎」
 迎えてくれたのは父親だった。
「飯は食ったの? 少しなら用意があるけど」

「まだ食ってない。食えると嬉しいかも」

「オーケー。とりあえず、入れよ」

「うん」
 短い会話をし、室内に入る。

「母さんは……?」

「会いたくないって。部屋に籠もってる」

「良かった。俺も会いたくないから」

「……勘弁してくれよ」
 父はうんざりした様子でため息を吐いた。

「……っていうかさ、なんで断っちゃったんだよ? いい話だったのに」

「……脅されて決めたことが、いい話な訳ないだろ。俺は間違った選択はしてないと思ってる」

「間違った選択はしてない、か。……ったく、詩乃しのみたいなことを言いやがる。喧嘩してても親子は親子だな」

「……っるさい。で、なに食わしてくれるの? それ食ったらもう、寝るから」
 こういう会話になることは分かっていたが、これ以上続ける氣もないので用件だけ伝える。

「……お前が来るって言うから、お前の好きな唐揚げを買ってあるんだ。おれたちじゃ食べきれないから、好きなだけ食ってって」

「温めて食えばいい?」

「ああ。適当にレンチンして」
 本当に適当だな、と思いつつも腹は減っているので言われたとおりにする。

「おれも食おうかな。多めにあっためて」
 横から父が自分の分も皿にのせ始めた。なんだかノリが野球部みたいで嫌だったが、反発して喧嘩になる方がもっと嫌だからそのまま受け容れる。

 その唐揚げとパックご飯、インスタントの味噌汁とで簡単な晩飯を済ませる。
「……普段からこんなの食べてるわけ? 元プロ野球選手が聞いて呆れるな」

「馬鹿。これは非常食だよ。普段はほとんど外で済ませてる。いい店はたくさんあるからな。お前にも紹介してやりたかったけど、いろいろと都合が悪いだろ?」

「まぁ……。そうだけど……」
 父なりに俺のことを考えてくれてるのかと思うと、少しだけ感謝の氣持ちが湧いた。

「そういえば、会えたの? 舞ちゃんに」
 続きを食べようとしたとき、父が妙なことを聞いてきた。
「今、ワライバで働いてるって教えてやったろう? だから、会ったのかなって」

 確かに、今日泊まりたい旨を伝えるついでに舞の所在を聞いたには聞いた。しかし、会ったことを正直に言えば、それもそれで厄介なことになりかねない。何しろ、父とワライバのマスターは高校野球部で先輩後輩の関係だからだ。

「いや……。まだ会ってない」

「そうか……。まぁ、会いづらいよな。お前はあの子を振り回しちゃったんだから」

「…………」
 返事をしないで飯の続きを食い始めると、父が勝手に話を振ってくる。

「……明日の予定は?」

「……ない」

「じゃあ、明日の寝るとこは?」

「……どこだっていいだろ」
 心配したいのは分かる。だけど、今の俺には親の発言のすべてがうざかった。

「……ごちそうさま。もう寝るわ」
 出された食事への感謝は伝える。が、これ以上話をしたくなかった。

「……そっちの部屋を使って。一応、布団だけは敷いてある」

「わかった」
 さみしそうな父を振り切るように、あてがわれた部屋に入った。




4.<舞>

 六時きっかりに到着したのに、圭二郎はマンションのエントランスで既に待っていた。その様子から想像するに、かなり前からここにいたのだろう。既にくたびれた顔をしている。

「会いたかった」

「……いったい何時からここにいたの?」

「……いこう」
 圭二郎はわたしの問いには答えず、マスクとマフラー、キャップで顔を覆い隠すとすぐに歩き出した。



 早朝の駅周辺は思いのほか混んでいた。改札に吸い込まれていく人は皆、こんなに朝早くから電車に揺られて出勤するのかと思うと頭が下がる。

「意外と人、多いな……」
 圭二郎もぽつりとつぶやき、ますます顔を隠した。

「どうする? もう少し時間をずらす? あるいは、タクシー使うって手もあるけど」

「……大丈夫。多分」
 わたしの提案を圭二郎は拒否した。
「東京方面はともかく、反対方面なら少しは空いてるんじゃないかな。……ああ、そうだ。子供の頃、俺たちきょうだいとそっちの家族とで何度か行った県営の自然公園。あの辺は人が少ないから、そこに行きたい」

 圭二郎が行きたいと言った場所は、確かにこの駅から出ている私鉄に乗れば行き着くことが出来る。公園の区域は開放されているから、早めについてしまってもすぐに散策できるはず。園内は広いので、人目を氣にすることもないだろう。

「分かった。じゃあ、自然公園に行こう」
 目的地が決まったところで改札を抜け、ホームに向かう。

 圭二郎の読み通り、確かに下り線のホームは東京方面行きよりは空いていた。それでも多くの人が、次に来る電車に乗るため並んで待っている。

 程なくして電車が到着する。が、既にそれなりの人数が乗っていて、K駅からの乗客が乗り込むと、満員とまでは行かないまでもかなり窮屈になってしまった。

「……満員電車に乗ったこと、ある?」

「ない」

 圭二郎は父親がプロ野球選手だったので、移動は基本的に親か、お手伝いさんの運転する車。ひょっとすると、電車にはほとんど乗ったことがないんじゃないだろうか。

「初めての満員電車で、大丈夫……? 無理、してない……?」

「舞がいてくれれば、大丈夫……」
 満員に近い車内と揺れに乗じて圭二郎がわたしの背に腕を回す。しかし、力の入れ方が少し、おかしかった。なんだか、苦しそうな……。

「……次の駅で、一旦降りよう」

 隙間のない車内。ドアが開いた瞬間に圭二郎の腕を取り、人をかき分けるようにしてなんとか降りる。乗車する人がわたしたちを不審な目で見たが、構わず人の波を逆行し、空いているベンチに圭二郎を座らせる。

「……なんで降りたんだよ。大丈夫だって、言っただろう?」
 睨んできた目に力はなかった。

「良く言うわ。全然大丈夫なんかじゃないくせに」

「…………」

「言いたいことがあるなら、包み隠さず話してよ。場所はどこだって構わないでしょう?」

 急にわたしの前に現れたり、乗ったことのない電車に乗って出かけたいと言ったり……。昨日会ったときから、わたしの知る圭二郎の行動ではないと感じていた。わたしにしか言えない悩みがあるのだとしたら、早くそれを打ち明けて欲しい。隠されている方がこちらとしては辛い。

 圭二郎は顔を伏せて言う。
「満員電車をナメてたのは確かだ。でも、少し休めば多分、大丈夫」

「そうは思えないけど」

「……舞。話したいことはたくさんあるよ。だけど、ただ言えばいいって問題でもないんだ。……分かってくれ。俺は、これまでしてきたことの逆がしたい。今はそういう氣持ち。だから、電車にも乗りたいし、自然の多いところにも行きたいんだ」

「あぁ、そういうこと……」
 今の発言で、圭二郎が奇行に出た理由がなんとなくわかった。だが、もしわたしの想像の通りだとすれば、圭二郎は相当、心を病んでいることになる。

「……とにかく、ゆっくり行こう。今日はまだ始まったばかりだもの。……もう、そんな姿勢しないの! らしくないよ!」
 丸まった背中をビシッと叩く。

「いってぇ……。でも、これぞ、舞って感じ。今日、会う約束を取り付けられて良かったって、改めて思うよ」
 相変わらず背中を丸めたまま、圭二郎はくすくすと笑った。



 何本かやり過ごし、比較的空いている電車に乗り込む。それでも頻繁に人が乗ったり降りたりして車内が混雑するので、そのたびに圭二郎の調子が悪くなった。何度も乗降を繰り返し、休みながら移動する。

「実はわたしもあまり電車は利用しないんだよね……。もう少し調べてから会う時間を決めれば良かった。ごめんね」

「いや、構わないよ。俺が電車に乗りたいって我が儘を言ったんだ。舞は悪くない」

「そう言われても、罪悪感はあるよ」

「……一度こう言うの、経験してみたかったんだ。だから、これでいい」

「……もしかして、『普通』に憧れてるの?」

「そうかもしれないし、違うかもしれない」

「はっきりしないなぁ……」

「……まぁ、あとで話すよ」



 結局、県営の自然公園の最寄り駅に着いたのは九時ちょうど。ずいぶん時間がかかってしまったが、乗客が減りだしてからは圭二郎も落ち着きを取り戻し、顔色も良くなった。これには誰よりも圭二郎自身がホッとしている様子だ。

 下車した駅の人氣ひとけはまばらだった。余裕が出てきたからか、はたまた人の少なさに安心したからか、圭二郎はマスクを外した。

「ふぅっ……。こいつをつけてると息苦しいんだよな。でも、俺と氣付かれるのも面倒だし……」

「有名人も楽じゃないんだね」

「そう……。本当に自由がない。おちおち電車にも乗れない」

「なのに、今日は電車に乗るのにこだわった、と。『普通』を体験したくて?」

「ああ……。だけど、あれはキツいな。毎日乗ってる人の氣が知れない」

「通勤通学に電車を利用してる人はきっと慣れっこだから、キツいとも思ってないんじゃないかな?」

「それはそれですごいことだ」
 圭二郎は肩をすくめたあとで、わたしに右手を差し出した。
「……寒くないか? 俺と手、繋がない?」

「……大丈夫。ちゃんと手袋もってきてるし」

「そっか……。それは残念だ」
 彼はもう一度肩をすくめ、わたしの一歩先を歩き出す。



 県営S丘陵エスきゅうりょう自然公園は珍しい野鳥が飛来することで有名な場所だ。また、年間を通して季節の花々が見られるため、老若を問わずカップルや夫婦、家族連れが多く訪れる。

「わあ、懐かしいなぁ!」

 ほとんど変わっていない景観を見て、幼少期の記憶がよみがえる。子供の頃に連れてきてもらったときは、遊具が設置された広場で駆けずり回ったり、それこそキャッチボールをしたりして遊んだものだ。

「忙しいうちの親に代わって、舞のお父さんが俺たちきょうだいと舞をよくここに連れて来てくれたんだよな」

「そうだね。もっとも、子供の中で最年長だったお兄ちゃんはついてきた例しがなかったけど。……それもそっか。わたしが小一の時、お兄ちゃんはもう中一だったんだもんなぁ」

「そんなに離れてるんだっけ?」

「うちのお兄ちゃんは圭二郎の兄そうたさんの二個上。圭二郎からすると、四個上かな」

「……そっか。でも、あんときゃ創太も俺たちと一緒に遊んでたけどなぁ」

「まぁ、お兄ちゃんはわたしたちと違って芸術肌だから」

「翼はそうだよなぁ……」
 圭二郎は兄の顔を思い浮かべているのか、空を見やった。
「……俺も翼みたいに、親の期待を裏切ることが出来てたら人生、違ってたのかな」

「え……?」
 思いがけない発言に戸惑う。
「プロにまでなっといて……。実は野球が好きじゃなかったって言うの?」

「好きは好きだよ。でも……親のプレッシャーなしにここまでやってきたかと聞かれれば、俺ははっきりNOという。それに、好きなだけじゃ出来ないのがプロの世界だ。俺はそれを、実際に入ってみて痛感した。婚約もその一つ」

「…………」
 あまりにも衝撃的な話に言葉も出ない。圭二郎は続ける。

「ほかは知らないけど、野球界には特殊なルールが存在する。それに従ってるやつは、自分を失う代わりに生き残ることが出来るが、反発するやつは、野球界から放り出される。そしてそのルールの中にはスポンサーの意向が多分に含まれる。……俺は今回の婚約のことで、そのルールに従うことがとことん嫌になったんだ。これ以上従っていたら俺は病んでしまう。だから、自分が操り人形と化す前になんとしたかった」

「それで婚約を取りやめたの……?」

「そういうこと……。後悔はしてない。むしろ、こう言う時間を持てることに喜びすら感じてる」

「だけど、それじゃあ本当に球界を追われることになるんじゃ……?」

「なるかもしれないけど、俺はそれでも構わない。……言っただろう? 舞が結婚してくれるなら転職する覚悟もあるって」

「……わたしを圭二郎の家のことに巻き込みたくないから?」

 婚約中の圭二郎に好きだったことを告白したとき、圭二郎もまたわたしを好いていたことを聞かされた。が、想いを告げなかったのは、わたしを野球一家の一員にしたくなかったからだと……。

「ああ。前にも言ったとおり、舞には野球漬けの生活をさせたくない。俺だってこれからは野球と関係ない人生を送りたいと思ってる。俺の人生は俺が決める。そういうつもりで話してる」

「野球しかしてこなかった人に何が出来るって言うの?」

「……それは舞だって同じだろう? 二人で探していこうよ。野球以外に出来ることを」

 その誘いはとても魅力的だった。しかし、わたしと圭二郎とでは、野球を離れようと決意するに至った原因がまるで違う。立場も違う。簡単に返事などできるはずがなかった。

 そのとき、スマホが振動した。誰かからのメールを受信したようだ。

(こんなに朝早く、いったい誰だろう……?)

「あー……。ちょっと喉が渇いちゃったな。あそこの自販機で飲み物買ってくるね」
 わたしは前方に見えた自動販売機まで走り、飲み物を選びがてら彼に背を向ける格好でメールをチェックした。

(あ、ユージンさんからだ……!)

 彼はわたしが好意を寄せているエレキギタリスト。彼の演奏する姿は本当に格好よく、ほとんど一目惚れ状態だった。忙しい彼からはめったに連絡もないのだけれど、今日はどうしたのだろうか。

 中身を見てみると、今晩の食事のお誘いだった。レッスンも出来るという。
(食事にレッスンつき?! もう……! 絶対行くし!)

 しかし今は圭二郎と一緒にいる。わたしは素早く『OKです』とだけ入力し、返信した。

「……誰かにメール? もしかして、男?」
 圭二郎の声が聞こえた瞬間、背筋が凍った。さっきまで向こうにいたはずなのに、わたしがスマホに意識を向けていた数十秒の間に移動してきたのか……。平静を装おうとしたがうまくいかない。

「誤魔化そうったって無駄だよ。舞は感情がすぐ顔に出るからな」

 今日ほど自分のクセを呪ったことはない。
「……そうよ」
 素直に白状することしか出来なかった。




5.<圭二郎>

「いま、メールを送った相手について教えてよ」
 興味本位で尋ねると、舞はスマホを抱きかかえるように隠した。

「わたしのプライベートに干渉しないで」

「だけど、知りたい。もし舞がその男に好意を持ってるんだとしたら俺のライバルになるわけだからな」

「…………」

 舞は少しの間考えているようだったが、やがて正直に話し始める。

「……音村祐仁おとむらゆうじんさんは、わたしが好きなサザン×BBのギタリストよ。ライブを聴きに行ったときに惚れ込んで、ギターを教えて欲しいと頼んだらレッスンしてくれることになったんで、不定期で教えてもらってるのよ。でも、それだけ」

「ファン、ってこと?」

「そ。で、今日も時間が出来たからどう? って言うメールが入ったからそれに対してオーケーって返信したの。……問題、ある?」

「へぇ、舞がギターを始めたとは知らなかった」

「元々お兄ちゃんが弾いてるのを見て興味があったからね」

「あぁ、なるほど。この前もそんなこと、言ってたよな」

 この前というのは、舞が俺に自身の想いを伝えてくれた時のこと。なるほど。俺への思いを断ち切ることが出来たのは、そのライブとギタリストがきっかけに違いない。

「……でも、今は俺と一緒にいるんだぜ? よそ見はしないでもらいたいな」
 一対一で会っているときに、ほかの人間に興味を示して欲しくなかった。しかし舞は不満げだ。

「……わたしは圭二郎の恋人じゃないわ」

「だけど、好きでいてくれたのは事実だろう? 俺だって舞が好きだ。お互いに好き同士なら、恋人と言ってもいいんじゃない?」
 大袈裟に言ってやると、舞は音がしそうなくらい激しく首を横に振った。

「……ねえ、圭二郎。どうしてそんなにわたしにこだわるの? わたしの新しい人生を応援してくれるって言ったのに」

「……舞しかいないんだよ。俺のことを理解してくれる人は」

「そんなこと、ないと思うけど」

「いいや。舞だけだ。俺の家のことや立場を理解した上で『好きだ』と言ってくれた人は」

「……そういう相談ならうってつけの人がいる。圭二郎も尊敬する永江孝太郎さん。あの人に話してみるといいよ」

「えっ、あの鬼の永江に?」

 意外な人物の登場に驚きを隠せなかった。永江孝太郎と言えば、野球好きなら誰もが知る名捕手。その手腕から球界には欠かせない存在として扱われていた。しかし、四十歳を過ぎた頃から打撃面で衰えが見え始め、やがて補欠に。それでも代打で打席に入ったときはいい球が来るまでファールで粘り、高確率で塁に出るというプレイスタイルで最後まで人氣を博した。

 一方で、その厳しさと非情さから「鬼の永江」とも呼ばれていた。野球ファンの間でも意見は分かれ、特に若い女性や子供には人氣がなかった。かく言う俺も、子供心に彼の仏頂面は苦手だった記憶がある。

「いや、相談って言うけど、そんなの絶対無理だろ……」

 全力で否定するも、「それがそうでも無いのよ」と舞は言う。

「わたし、あの人のお陰で圭二郎との失恋を乗り越えられたんだから。その圭二郎と今一緒にいるってのはなんだか妙な感覚なんだけどね……」

「理解できない……」

「まぁ、そうだろうね。わたしだって永江さんのことはずっと鬼だと思ってたもの。でも、引退後にいろいろあって今じゃ、すっかり丸くなっちゃった。あー、どうやら永江さんを変えるきっかけを作ったのはうちのお父さんとお兄ちゃんらしいんだけどね……」

「はぁ……? ますます意味がわかんない。舞のお父さんはともかく、どうして翼が永江さんを変えるんだ……?」
 翼は根っからの野球嫌いだったはず。永江さんとの共通点なんてあろうはずがない。

「本当にね……」
 舞もその点については同意しつつ、こう続ける。

「わたしも半信半疑だったんだけど、一年近く一緒に暮らしてみて分かった。あんなにも非常識で、あんなにも真っ正直に生きてる人たちのそばにいたら誰だって変わる……。圭二郎も、永江さんじゃなくてもお兄ちゃんや同居する悠斗さんと交流するようになったら絶対に生き方が変わるよ」

「永江さん……か。そういえばうちの親が永江さんと同じマンションに越した理由、ちゃんと聞いてなかったな。てっきり、何も出来ない永江さんをサポートするためについてったんだと思ってたけど」

 実は両親は、現役時代からずっと永江さんと同じマンションに住んでいる。現在はK市に移り住んだが、ここでも、階こそ違えど同じマンションだ。現役時代、永江さんは身の回りのことをすべて母親にしてもらっていたが、その母親が亡くなったため、俺の母が代わりに彼の世話をするようになったと聞いたことがある。

「最初はそうだったんだと思うよ。だけど、最終的に永江さんは自立して、圭二郎の両親とは違う道を歩み出した。……永江さんはいま、完全に野球と関わりのない生活をしてるから」

「え、そうなんだ……。意外」
 野球をしていない永江さんの姿が全く想像できなかった。

「実家に泊まったのに、聞かなかったの? そういう話」

「聞くわけないだろ……。俺が婚約を解消したもんで、結構怒ってるんだよな。一応昨日は泊めてもらえたけど、いい顔はされなかった」

「どうして?」
 舞の質問攻めに少々うんざりしながらも、聞かれたことに正直に答える。

「そりゃあ、一大スポンサーの令嬢との縁談を拒んだんだから、親としてはいろいろ考えるんだろう。今日は顔を合わさないうちに出てきちゃったし、今頃呆れてるんじゃないかな」

「え、黙って出てきたの……?」

「舞と出かける、なんて言えないだろう?」

「そりゃあそうかもしれないけど、急にいなくなっちゃったら心配して……」

「舞。親は俺の氣持ちなんてこれっぽっちも理解してないんだよ!」
 込み上げる怒りのままに、これまで溜め込んできた不満を爆発させる。

「親は俺個人の幸せなんてどうでもいいんだよ。事実、婚約の話を進めたのは親だったし、それが出世のためだ、なんて言うんだから、本当に腹が立つ」

「…………」

「婚約者だって困ってたよ。親が勝手に進めた縁談に。そりゃあお互い、悪い印象は持たなかったし、少しの間一緒に暮らしてみていい人だってことは分かったけど、二人とも親の操り人形として生涯生きてくのは嫌だと思った。だから、お互いのためにも親に反抗し、結婚という契約を交わす前にこの関係を解消しようと決めたんだ」

「…………」

「創太にもグチグチ言われたよ。お前は馬鹿か。あんなにいい縁談を断るなんてどうかしてる、って。知ったことか。創太はただ俺に嫉妬してるだけ。そんなに羨ましかったなら、自分が離婚して縁談を受ければいいんだ。……って言うか、どいつもこいつも自分の保身ばっかり。それがやばいなって思う。こんな野球界はもう終わりだと思ってる。……ちょっとしゃべりすぎたかな。ごめん」

 怒りのままに口を開いたことを後悔した。しかし舞は、驚きながらも冷静に返す。

「……ううん。圭二郎を取り巻く環境がそんなことになってたなんて知らなかった。婚約発表の裏にそんな事情があったなんて。……確かにこんなこと、わたしくらいにしか話せないかもね」

「だろう?」

「だけど、それを聞いたところでわたしなんかじゃ、圭二郎を助けられないよ。相手がでかすぎる」

「そうかな……。舞には力があると思ってるけど。そりゃあ組織を相手にしようと思ったら一人の力じゃどうにもならないよ。でも、俺一人を助けるだけならなんとかなりそうじゃない? 翼が永江さんを変えたように」

「………圭二郎の事情は分かった。でも今日はユージンさんと食事の約束をしちゃったから、夕方までにはK市に戻る」

「じゃあ俺も同席する」

「は? そういう話をしてるんじゃ……」

「俺の大好きな舞がどんな男にギターの手ほどきを受けてるのか氣になる。それに、舞に影響を与えるような人だ、きっとすごい人物に違いない。だから、会ってみたい」

「いやぁ、だけど圭二郎って音楽好きだったっけ……? 一緒にいてもつまらないと思うな……」
 遠回しに「来るな」と言っているのが分かった。しかし、こんなことで引き下がる俺ではない。

「音楽くらい聴くよ。レイカは昔っから好きだし。ほら、小父さんがカーステレオでよく流してくれてたじゃん? だから、大丈夫」

「大丈夫って……。その使い方、間違ってると思う……」

 舞は呆れるばかりで真意をくみ取ってくれそうになかった。どうやら、婉曲な言い方じゃ伝わらないらしい。弱音は吐きたくなかったが、仕方がない……。

「舞、この際だからはっきり言うよ。夕方に舞と別れてしまったら、俺は本当にひとりぼっちになってしまうんだよ。帰る場所すらない。どうしたらいいか、分からないんだ。俺を一人にしないでくれ。頼むよ……」

 拝むようにして頼み込んだ。ようやく理解してくれたのか、舞は「しょうがないわね」と言って頷く。

「分かった……。そういうことなら、理人さんに相談してみましょ。昨日会ったワライバの店主。あの人ならきっとなんとかしてくれるはず」

「マスターに俺の内情を話すってのか……?」

「言っておくけど、わたしなんかよりずーっと、顔も心も広いんだから。大丈夫、あの人の口は本当に堅いから。……わたしの言うことが信じられない?」

 まっすぐに見つめられては、嘘でも「信じられない」などと返事をすることはできなかった。

「……オーケー。舞の言葉を信じる」

「よかった」
 俺の言葉を聞いた舞はホッとした様子だった。
「……と言っても、約束の時間まで何時間もある。とりあえずはここの散策を楽しみましょう」
 そう言って舞はさっさと先に歩き始めた。

「待ってよ。……やっぱり手を繋ごう。今だけ、恋人みたいに隣を歩きたい」
 さっきは拒まれたが、もう一度申し出てみる。しかし、差し出した手が握られることはなかった。




6.<舞>

 約束の時間にはだいぶ早かったが、理人さんに事情を説明する時間を確保するため、わたしたちは六時にワライバに到着した。訳を話すと理人さんはすぐに永江さんとコンタクトを取ってくれた。

「連絡がついたよ。大丈夫。行けばすぐに受け容れてくれるはずだよ」

「ありがとうございます」

「それにしても、マイマイも大変な役を負っちゃったね。失恋相手の面倒を見る羽目になるなんてさ。常識じゃあり得ないよ」

「……確かに。だけど、奇しくも圭二郎のお陰でこの一年、常識外れの行動を取ることにも慣れたので、このくらいはなんてことありませんよ」

「なんという皮肉!」
 理人さんは大笑いした。



 そうこうしているうちに約束の時間が近づいてきた。閉店間際。店にほかの客がいなくなった七時少し前に、ユージンさんはやってきた。

「こんばんは……。あっ……!」

 彼は圭二郎を見るなり、見てはいけないものを見てしまったような顔をした。直後に圭二郎が席を立ち、彼の眼前まで近づく。どうやらガンを飛ばしているようだ。

 とがめようとしたところで理人さんが動く。

「役者が揃ったな。……まぁまぁ、聞きたいことは山ほどあるだろうけど、とりあえずここに座りな」
 理人さんは言いながらドアに「CLOSED」の札を掛け、内鍵を閉めた。

「……ユージンさん、ごめんなさい。本当は二人で食事して、そのあとでゆっくりレッスンを受けたかったんだけど……」
 圭二郎が言うことを聞かなくて、本当に申し訳ない……。最後の言葉は敢えて言わなかった。だけど、ユージンさんには何も言わずとも伝わったようだ。彼は落ち着いた様子で圭二郎と対峙する。

「……確かそっちの人、テレビで見たことがあります。本郷圭二郎さん、ですよね。プロ野球選手で舞さんの幼なじみの。……あぁ、分かりましたよ。あなたはオレのファンで、舞さんが今晩会うと聞いてついてきたんですね? それならここにいる理由も分かります」

「残念ながら違います。舞が若い子と二人きりで食事に行く約束をしたと聞いたんで、どんなやつか見てみたいと思った。だからここにいるんです」

「どうしてそんなことを? あなたには既に婚約者がいて、舞さんとはただの幼なじみのはずでしょう?」

「俺は舞のことがずっとずっと好きでした。だけど、周囲の圧力が強く、理不尽な婚約話を受け容れざるを得なかったんです……。しかし、その婚約も解消しました。だから俺は、元々の想いを成就させるために舞の元に戻った、と……。こういうわけです」

 圭二郎も圭二郎で、初対面だからか、年下のユージンさんに対して丁寧な口調で問いに答えた。しかし、あまりにも馬鹿正直に言うのでこっちが恥ずかしくなってしまった。ユージンさんも面食らった様子だったが、怯まずに応じる。

「圧力、ですか……。それが避けられないものだったのだとしても、そのことで舞さんを傷つけたのは事実です。なのに、何事もなかったかのように再び舞さんに近づくなんて、虫が良すぎるとは思いませんか? 舞さんだって迷惑してるんじゃないですか?」

「……どうにもあなたの発言は、自分の好きな女性にちょっかいを出されてやっかんでいるように聞こえる。どうでしょう? 俺の読みは間違っていますか?」

 丁寧口調ではあるものの、圭二郎は明らかに挑発していた。さすがのユージンさんもカチンときたのだろう。圭二郎をキッと睨み返す。

「いいえ、間違ってはいませんよ。今度の恋はじっくり暖めていこうと思ってたけど、あなたの登場でそうも言っていられなくなりました。……あなたの読み通り、オレは舞さんが好きです。舞さんとあなたは幼なじみのようですが、だからといって退くつもりは一切ありません。あなたがオレの前に立ち塞がるというなら、闘うまでです」

(ええっ……?! 今、ユージンさん、わたしのこと、す、好きって……?!)

 そうだったら嬉しいな、と思っていたけど、まさかこんな形で告白されることになるとは……! みるみるうちに赤くなる顔を慌てて隠す。しかし、時既に遅し。圭二郎に鼻で笑われてしまった。

「なるほど。舞が俺の目を盗んででもあなたのメールに返信した理由が分かりました。自信が感じられる人というのは魅力的に映る。きっと、ミュージシャンであることに誇りを持っているのでしょうね」

「じゃあ、諦めてくれますか?」

「そうはいきません。こっちだって人生がかかってるんです、舞のことは絶対に諦めない!」

「人生……?」
 ユージンさんが戸惑っていると、理人さんが間に入って冷静になるよう促す。

「まぁまぁ、圭二郎くん。そうアツくなるなよ。そりゃあマイマイはいい子だし、好きな女を横取りされたと思いたくなるのも分かるけど、一旦落ち着こうぜ、なぁ? ……ああ、イライラしてるってことは腹が減ってんだろう? しゃーない。今日はマイマイの顔を立てて特別に三人分の飯を用意してやろう。で、飯を食ったらマイマイ、さっきの話の通り、あの人のところへ……」

「はい。……すみません、理人さん。ご迷惑をおかけします」

「いいって、いいって。この店は人助けのためにやってるようなもんだから」



 とても和やかとは言いがたい食事を取ったわたしたちは、理人さんとともに店を出た。

「……あの、先にスタジオに行っててください。後で合流しますから」
 これから向かうのは永江さん宅。ユージンさんが一緒に来る必要はない。しかし、仲間はずれにされたと思ったのか、彼は「一緒に行かせてください」と食い下がった。

「一秒でも長く舞さんと一緒にいたいんです。お願いします」
 圭二郎と理人さんがそばにいるにもかかわらず、彼はわたしをまっすぐに見て言った。

「一緒に来てもらったら? おれは構わないけど?」
 理人さんは恥ずかしがるわたしを見てニヤニヤしながら言い、先を歩き出す。わたしは顔を火照らせながらついて行く。



 駅前にそびえ立つマンションまでやってきた。厳重なセキュリティーを解除してもらい、エレベーターで最上階にたどり着くと、部屋の前で永江さんが待っていてくれた。

「ああ、センパイ。突然の連絡にもかかわらず、対応してもらってすんません」

「構わないよ。普段は僕の方が世話になっているしね。それより……」
 謝る理人さんにそう答えた永江さんは、すぐに圭二郎を見た。

「よく来たな、圭二郎。大まかな事情は大津クンから聞いたよ。大丈夫、君のことは僕が引き受ける。万が一、君の両親が訪ねてきても売り渡すようなことはしないから安心したまえ。もっとも、うちには僕のほかにもう一人、面倒くさい男が同居してるが、何を言われても氣にしないで欲しい」

「……その言葉、本当に信じてもいいんですか?」
 圭二郎は永江さんを睨んだ。
「だってあなたは、『鬼』と言われるほど冷徹非情なことで有名だった人ですよ? あなたのしごきで何人辞めていったことか……。そんなあなたが、現役の選手である俺に、マスターや舞と同じように接するとは考えにくいのです」

 永江さんが変わったことは事前に説明していたが、本人を前にしたら昔の記憶がよみがえったのだろう。しかし永江さんは落ち着いた様子で答える。

「さすがは現役選手。誰も信じないという姿勢。立ち塞がる者はすべて敵。そうやって闘志をむき出しにしていなければ生きていけない世界に身を置いている人間なら誰しもがそう言うだろう。考え方としては実に正しい。しかし、ずっとその考え方でいるのは危険だ。最後には完全に孤独になり、自分を見失い、最悪、自死を考えるようになる。……僕と違って君は賢い。良く立ち止まった。今ならまだいくらでも出直すチャンスがある。僕程度の人間に助言できるかは分からないが、わずかでも君のサポートが出来るなら協力させて欲しい」

「あなたは俺の知る永江さんじゃない……。あの、、、永江孝太郎がこんなに優しい言葉を掛けてくるはずがない……」

「……人は、変われる。いくつからでも。引退して久しかった僕ですら変われたんだ。まだ若い君ならいくらでも変われる。君の話を聞く。一緒に将来について考えていこう」

「…………!!」
 優しい言葉を掛けられた圭二郎は、野球帽のツバを目深にかぶり直して目を伏せた。肩をふるわせる彼の背中を永江さんが優しく叩く。

「大津クン。舞クン。後は任せてくれ。彼の様子は追って連絡する」

「よろしくお願いします」
 わたしたちは深々と頭を下げ、圭二郎を引き渡した。




7.<圭二郎>

「入りたまえ」

 背中を押され、玄関内に入る。部屋のドアが閉められ、奥に案内されると、リビングのソファにさっき話していた同居人とおぼしき人物がいた。その人が珍獣を見るかのように俺を見てくる。

「うわぁ、本当に本郷の息子の圭二郎だ……」

「…………」

庸平ようへい、席を外してくれないか。彼のことは僕が面倒を見る約束なんだ」

「そう言われても、氣になるだろ。だって下の階には……」

「庸平」
 同居人の名を呼んだ永江さんの声は、冷徹非情な頃のそれだった。さすがの同居人も恐れを成したのか、「分かった、分かった。俺はこの件には関わらないよ」といって別室に行ってしまった。

「……氣に障っただろうか。すまない。彼は僕の古い友人でね。悪いやつじゃないんだ」

「……いえ。お邪魔してるのはこっちなので」

「……まぁ、座りたまえ。何か飲むか? 酒ならいくらでもあるが」

「……結構です。お構いなく」

「遠慮するなよ」
 断ったにもかかわらず、永江さんはコップと瓶ビールを持ってくると、栓を抜いて勝手に二人分注いだ。

「さぁ、乾杯しよう」

「…………」
 とてもじゃないが、乾杯という氣分にはなれなかった。

「毒なんて入ってないよ」

「…………」

「……ふーむ。舞クンにも同席してもらえば良かったかな。まぁ、いい」

 頑なな俺に呆れたのか、永江さんは一人でビールを飲み始めた。

「……ゴールデングラブ賞を取った圭二郎とは思えないしょぼくれぶりだな。まだ三十代だろう? 衰えを感じるには早いと思うが、そんなふうになってしまった一番の原因はやはり、あの件かな?」

「…………」

「確か、婚約者は大手ハウスメーカーのご令嬢だったね」

「元、です」

「ああ、失礼……。まぁ、君の活躍を見れば、そして親きょうだいの人氣を考えればそれにあやかろうとする人間がいても不思議ではない。僕にもたくさんの話があったよ。本当に嫌になるくらいたくさん……。それが人氣者の定めだ、とも言われた。何度も何度もね……。僕がスポーツ用品メーカーのCM出演以外すべて断ったのは、言わずもがな、君と同じ理由だ。100パーセント断れば球界にいられなくなるのは分かっていたから、最低限の依頼は受けたが、それで通せたのは、僕が普段から無感情かつ冷徹に振るまい続けたからだろう。そうそう、縁談もあったんだが、ぶっきらぼうに睨み返してやったらすぐに引っ込めたよ。君もそうするべきだったね」

「……とてもじゃないけど、そんな雰囲氣ではありませんでしたよ。恫喝されたら誰だって萎縮してしまいます」

「……しかし、一度受けた話を君は蹴った。なぜ?」

「……舞からの告白を受けて目が覚めたんです。自分のしたことで幼なじみの心を傷つけてしまったのもショックだったし、この先もずっと自分の氣持ちを偽って生きられるのかと自問したときの答えも『ノー』でしたから」

「心に従って行動した君の勇氣を称えよう。おそらく話を受けずに最初から断っていても君の球界での立場は悪化していたことだろう。それほどまでにスポンサー企業というのは横柄に振る舞うものだ。自分たちが球界を牛耳っていると思ってふんぞり返っているからね。氣にいらない人間は簡単に切るのさ。そうでなくても僕らはただの駒。役に立たないと判断されれば二軍落ちや移籍を余儀なくされる。こっちの生活なんてお構いなしだ」

「ですね……」

「球団職員としてやっていく決断が出来る人はまだいい。しかし多くはプライドが邪魔をして身動きがとれない。何しろ野球しかしてこなかった人間だ。今更ほかのことをやるにしても時間がかかるからね。かく言う僕もそうだった。引退後は解説の仕事をしてはいたが、それすらも出来なくなったら死のうと思ってた。本氣でね」

「死……ですか」

「でも止められた、野上クンに。こんなふうにされて」
 永江さんは空になったグラスを勢いよく俺に向けた。わずかに残っていたビールが少しこぼれ、カーペットに染みを作る。

「舞のお父さんがそんなことを……? 大先輩に向かって……?」

「そのくらい、僕の発言や考え方が許せなかったんだろう。君も知っての通り、僕はずっと人を信じられなかったし、野球のない生活なんて考えられなかったからね……」

「でも今は野球をしていないと聞きました……。いったい何が……?」

「僕のことを、野球選手としてではなく、何者でもない永江孝太郎として認めてくれる人たちと出会ったからだ。僕は彼らとの交流を通して初めて本当の自分を取り戻すことが出来た。そして、そんな彼らと共に生きる上で僕に出来ることは何か。懸命に考えた結果、幼い子供たち、そしてその親や祖父母たちに身体を動かすことの楽しさを教えるのはどうかという考えに至った。結局のところ、僕は野球が好きという以前に、身体を動かすことが好きなんだ。だから、楽しければ野球にこだわる必要もない。今ではそう思えるようになった。……君も自問自答してみるといい。なぜ野球をしてきたのか。そしてもし辞めると決めたなら何をしたいのか、とね」

「…………」
 いつかは真剣に考えなければ、と思っていた問題。それを今、目の前の人から言われて頭がフル回転する。
「いつまでに結論を出せばいいですか? 期日を……」

「期日なんてもうけないよ。……と言うか、そういう問いが飛び出すあたり、君の頭は固いと言わざるを得ないな。年長者から『やれ』と言われたらすぐに実行、結果を出さねばならないと思い込んでいる。まずはその発想をやめなければね」

「別に、そんなことを思っていたわけでは……」

「いいや、無意識のうちにそう思っているよ。無論、現役の選手であるうちは仕方がない部分もあるだろう。しかし、本当に野球界を抜け出して新しい人生を歩むつもりがあるなら変えなければならない。何を言われようとも、自分がこうすると決めたことを実行できるようにならなければいけない」

「決定権はすべて自分にある、と言うことですか……」

「ああ、そうだ」

「ええと……。誰かと一緒に決めるのではダメですか……?」
 俺は舞と一緒に生きていきたい。だから、これからのことは舞と話し合って決めたい。質問にはそういう意図があったのだが、永江さんには理解してもらえなかったようだ。

「相談するのはいいだろう。しかし、最終決定権はいつでも自分にある。相談相手と意見が一致した場合でもそれは同じだ。相手に依存してはいけない」

「…………」
 俺がやろうとしていることは依存、なのだろうか……。しかし今し方、永江さんは、すべての決定権は「自分」にあると言った。だったら、舞と生きていきたいという願望は、俺が決めたことして扱ってもいいのではないか?

 考えていると、永江さんが口を開く。
「君に見せたいものがある。明日の午後、僕と一緒にクラブに来たまえ。仲間のことも紹介しよう。もっとも、そのうちの一人はよく知る人物だろうが」

「舞のお父さん、ですか?」

「ああ。彼なら力になってくれるはずだ」

 まだ完全に永江さんを信じ切ることは出来なかったが、優しく迎え入れてくれた人に反論することも出来なかった。


◇◇◇


 体操クラブの会場は、永江さんの住むマンションからほど近いビルの最上階フロア。午後の早い時間、主に幼稚園から帰った子供を対象に体操の指導をしているのだという。室内をぐるりと見回すと、すぐあとで二人の男性が入室する。

「おはようございま……。って、圭二郎……! なんでお前がここに?!」

「…………」
 小父さん、つまりは舞のお父さんが俺を見つけるなり指をさした。興奮氣味の小父さんを永江さんがなだめる。

「まぁまぁ、野上クン。落ち着きたまえ。訳あって、昨日から僕の部屋で預かっている」

「訳あって、って……。え、もしかしてそれって、婚約のことと関係あるんですか?」

「僕から詳細は話せない。しかし、現役の選手がこんなところにいるという時点で察しはつくだろう。心が病んでる彼を、君の力で救って欲しい。それで今日はここに連れてきたんだ」

「救うって言っても……。そういうことならユウユウの方が得意なんじゃないですか?」
 ユウユウと呼ばれた男性は表情を曇らせた。

「また、おれんちっすか……。だけど、舞のあとで圭二郎さんってのは……」

「じゃあ翼。あいつなら圭二郎のことも知ってるし、年も近いから訳を聞けば理解も早いんじゃないか?」

「どうですかねぇ……? ああ見えて妹思いですからね、今回のことでは結構……圭二郎さんのことを悪く言ってましたよ」

「そうなのか……」

 会話から察するに、「ユウユウさん」は舞や翼と近しい間柄らしい。そういえば、舞と二人で会ったときにチラリとそれらしき名前が出ていた氣がする。きっと彼が傷心した舞を癒やしてくれた人物の一人なのだろう。

 俺の目の前で、俺の引受先を押しつけ合う様を見てか、今度は永江さんが眉を顰める。
「君たち。圭二郎を荷物扱いするのはやめたまえ。君たちなら救ってくれると言ってなんとかここへ連れてきたんだ、僕の立場も考えてくれ」

「そんなに病んでるのか……。いったい何があったってんだ?」

 永江さんの真剣なまなざしを見て深刻だと受け取った小父さんは一転、寄り添うような態度に変わった。しかし、問われたからといってすぐに話せるような内容ではない。見知った相手とは言え、会うのは久しぶりなので緊張もしている。

「……小父さん。野球は今でもやりますか?」
 仕方なく、野球を持ち出す。

「まぁ、子供に教える程度には」

「じゃあ、これが終わったらキャッチボール、どうですか? 子供の頃によくやりましたよね? あんな感じで」

 キャッチボールをしながらだったら、深刻な話もボールと一緒に投げられるはず。しかし小父さんは困惑している。

「おれが相手でいいの? せっかくだから、ここは永江先輩にも来てもらった方が」

「圭二郎が嫌でなければ僕も付き添うことにしよう」

「かまいません、それで」
 互いに納得したところで話は一旦終了し、彼らはクラブの準備に取りかかった。



 ユウユウさんは野球はしないらしいが、話の流れからも彼も同行することになった。場所は近隣の公園。最近は子供が少ないのか、平日の夕方にもかかわらず遊んでいる子はほとんどいなかった。人がいないことにひとまず安堵し、互いに距離を取る。

「……野球は好きです。でも……あの世界が嫌いです」
 キャッチボールが始まって数分が経ったとき、俺の口が勝手にそんなことを言った。子供の頃、小父さんとキャッチボールをしたときの感じを思いだしたからかもしれない。

「なるほど。プロの世界は厳しい、って訳だな」
 小父さんは俺の言葉を否定しなかった。
「祐輔は……親は何か言ってる?」

「なんであんないい話を断ったんだ、とそればっかりです」

「まぁ、そう言うだろうな、親なら」

「選手として野球の技を磨け、向上心を持ち続けろ、と言われるならまだ分かります。だけど、生き残るために私生活をも捧げろというのは違うと思ったんです。俺は、野球は仕事でやってるんです。プライベートまで仕事で固められたら息が詰まってしまう」

「それは分かる氣がする」

「親がそうだったから分かるんです。両親とも野球漬けで、家でも外でも、どこでもかしこでも見張られてる感覚があった。唯一、小父さんや舞と出かけるときだけが本当に自由な時間だった。俺はその自由を取り戻したいんです」

「なるほどな」

「今の若者は忍耐力が足りない、なんて言うけどそうじゃないんです。世の中が失敗を許さなくなった。だから俺たち世代は子供の頃からずっと失敗しないように生きてきた。そうすることでしか生きられなかったから。失敗するくらいならほかの世界に行く。忍耐力云々じゃない、それが俺ら世代の生き延びる術なんです」

「まぁなぁ……。少し前までは会社や組織が個人を守ってくれたけど、今は逆で、個人が失敗しようものなら会社はそいつをすぐに切って組織のほうを守ろうとする。入社当初からそういう環境にいる若者が会社に不信感を抱くのは当然だし、ましてや尽くそうなどとは思わないだろうな」

「それを親は、実力主義の世界では当たり前のことだと言って理解してくれないんです。スポーツでは至極当然のことなんだ、と」

「……今の話聞いて、ユウユウはどう思う?」
 俺の長い話を肯定的に受け止めてくれた小父さんは、手を止めて言葉のボールをユウユウさんに投げた。

「うーん……。スポーツ選手は、何もなくてもある程度の年齢に達すれば引退を余儀なくされる短命の職業。ゆえに引退後、あるいは退職後の就職先をサポートする仕組みは整っているのでしょうが、今の業界を見る限り、おそらくその就職先ってのには芸能界や同業が多いんでしょう……。圭二郎さんはそれが嫌だ、って思ってる。そういうふうに感じたんですが?」

 ユウユウさんに投げられた言葉のボールを受け止める。

「そのとおりです。言い方は悪いですが、業界全体が体育会系のノリで頭が悪い。頭が悪いから煽てに弱く、最後にはイイ氣になって、何でもはいはいって返事しちゃう。操り人形の完成です。俺はそうなりたくなかった……」

「君は冷静に物事を見る力がある。君のような人間にこそ、球界に残って改革してもらいたいものだが」
 小父さんと交代した永江さんがボールを俺によこした。球界に残って……という言葉に強く反論する。

「それなら永江さんの方がよほど向いてると思いますが」

「いやいや、僕は単なる野球馬鹿だから改革なんて出来ないよ。一人が頑張ったところであの世界が簡単に変わるとは思えないし」

「諦めてるってことですか」

「君と同じだよ。それに氣付かせてもらったからこそ、僕はいま野上クンたちとここにいるんだ」

「なるほど……」
 やはり今後のことを考えるならあの業界から抜け出すしかないのか。すると小父さんが一つの提案をする。

「野球が好きだけど組織が嫌だ、と言うならおれや水沢みずさわ先輩と一緒に……あぁ、圭二郎の親も含まれてるけど少年野球チームでコーチをしないか? 薄給だけど、結構楽しいぜ?」

「……親が主宰って時点で氣が乗りません」

 昨日永江さんから聞いた話では、最初こそ永江さんの体操クラブ立ち上げに協力していたものの、途中で考えが変わり、親にとっては先輩にあたる水沢庸平みずさわようへいさんとともに少年野球チームを作るに至った、とのこと。そんな組織に、小父さんの誘いとは言え、婚約のことでやいのやいの言われた俺が加われるとは思えない。

「……じゃあいっそのこと、全く新しい組織を立ち上げるってのは?」
 今度はユウユウさんに提案された。

「新しい組織?」

「それこそ、『みんながまんなか体操クラブ』みたいなものを、圭二郎さんが作るんだ。中身については、おれは野球音痴だから何も提案できないけど」

「……新しい組織、ですか」
 これまで俺は、どこかに属することしか考えていなかったから、その提案は新鮮だった。体操クラブみたいなもの、と言う発言を受けて、さっき見てきたクラブの様子を思い浮かべる。

「……永江さんに質問があるのですが、いつからあんなにも子供たちと楽しくふれあえるようになったのですか? 現役時代も人氣はあったけど、ボールにサインするときも、ファン感謝デーで子供たちに指導するときも、あれほどの笑顔は見せなかった。いつもどこか作ったような顔で、言い方は悪いですが、心ここにあらずに見えたのを覚えています」

「その話をすると長くなるが、質問にだけ答えるならば野上クンの孫、まなちゃんと出会ったことがきっかけで僕は、幼い子供と関わる仕事をしようと思うようになったんだ」

「小父さんの孫?」

「翼の娘だよ」
 小父さんが補足してくれた。

「そんなにすごいんですか、翼の子供は」

「うーん。それを言ったら、まなちゃんの母親のめぐちゃんの方がある意味、すごいかもしれない。なにしろ、永江先輩が一目惚れした相手だから。ちなみにその子はおれの姪っ子な」

「……家族構成も含めて、なんだか信じられないような話ですね」

「だからこそ、先輩は変われたんだよ。なぁ、ユウユウ?」
 話題を振られたユウユウさんは肩をすくめた。

「そうなんですかねぇ? おれたちは『普通』に、おれたちの信念に従って行動してるだけですよ」

「変人に限って自分のことを『普通』だと言い張るもんだよ」

「おれたちのことを変人呼ばわりするの、やめてくださいよ。そういうニイニイだっておれたちに感化されてずいぶん変わったじゃないですか。そこんとこ、お忘れなく!」

「……あぁ、まぁ、それは言うなって」

 会話を聞いて、振り返れば確かに小父さんも変わったかもしれない、と思った。あの頃も優しかったが、やはり当時は厳しさの方が勝っていたように思う。それに比べて今はとにかく棘がない。何かにつけてユウユウさんに意見を求める姿を見るにつけ、彼への信頼が厚いこともうかがえる。

 急に、ユウユウさんに興味が湧いた。
「……あの、ユウユウさん。いつかお宅にお邪魔してもよろしいでしょうか。翼もいるんですよね? 一度、どのような暮らしをしているのか、拝見してみたいのですが」

「ユウユウさんって……。そういえば自己紹介してなかったっけ。おれは鈴宮悠斗すずみやゆうと。ユウユウって呼んでいいのはこの人、、、だけな……」

 彼は名乗ったあとで、苦笑しながら小父さんを指さした。

「失礼しました、それでは鈴宮さんとお呼びしますね……」

「それで頼むよ。……あぁ、うちに来るって話だけど、それについてはいつでも来てくれて構わないから。あぁ、だけど最初は孝太郎さんと一緒に来た方がいいかも。いきなり一人で訪ねてきたら翼がビックリしちゃうだろうから。……今は孝太郎さんのとこで厄介になってるんだろう?」

「ええ……。と言うことでどうでしょうか?」
 鈴宮さんとの話を受けて永江さんに目配せをする。

「ああ、悠斗クンがいいというなら僕はいつでも連れて行くよ。もっとも、いま彼の家は乳児の世話で忙しいはずだから、折を見て伺うことにするよ」

「え、乳児? 鈴宮さん、お子さんが……?」

「違う違う。翼の二番目の子供の話。まだ生後四ヶ月なんだ」

「あぁ、そうなんですか……」

 家族構成が把握できていないから、てっきり鈴宮さんの子供だと勘違いしてしまった。しかし、よくわからない。鈴宮さんは、翼とその奥さんと子供二人の五人で暮らしているのか……? それとも鈴宮さん自身の家族も一緒に……? 小父さんが「変人」呼ばわりしていたが、いずれにしても「普通」じゃないのは間違いなさそうだ。

「では、そのうちに伺います。訪問した際はお世話になります」

「……お手柔らかに」
 普通にアイコンタクトを取ったつもりなのに、なぜかそんなふうに言われた。

「圭二郎、ユウユウのうちに行ったときはもうちょっと優しい目つきをしろよ? それじゃあ赤ちゃんを泣かすことになる」
 小父さんに指摘され、自分が鈴宮さんを威嚇していたことを知った。

「大丈夫さ。冷徹非情だった僕でも変われたんだ。君だって彼らと過ごせば優しくなれる。僕が保証する」
 困惑していた俺を、永江さんが優しくフォローしてくれた。




8.<舞>

 圭二郎と再会した週末の晩、わたしは近所に住む兄夫婦の家を訪れた。つい先日まで居候させてもらっていたこともあり、急な訪問でも彼らは氣持ち良くわたしを迎えてくれた。しかし今日は、顔を見せるために来たのではない。歓迎してくれた彼らに申し訳ない思いを抱きながら、いつ話を切り出したものかと思案する。

「舞ちゃん、遠慮しないで。知ってると思うけど、急な来客にも対応できるように、普段から料理は多めに作ってあるんだから。今日はその分を舞ちゃんが食べていいんだよ」

「あ、うん。ありがとう……」

 久しぶりに食べるこの家の手料理。おいしいのは分かっているが、なかなか箸が進まない。さすがに見かねた悠斗さんが声をかけてくれる。

「いつもの食欲はどうした? もしかして、また何か悩みを抱えてるのか?」
 実は悠斗さんは、わたしが失恋のショックで落ち込んでいた際、いろいろと面倒を見てくれた人だ。悠斗さんには、今のわたしがそのときと同じ顔に見えるのかもしれない。

 話題を振られた今が話すタイミングだと直感したわたしは、全員が食卓に着くのを待って話し始める。

「……先日、圭二郎がお店に来たの。婚約は解消したから俺と付き合ってくれって……」

「はぁっ?! あいつ、何考えてんだ?!」
 一番先に声を荒らげたのは兄だった。
「まさか、オッケーするはずはないよな?!」

「するわけないでしょ。一年かけて、やっとやっと、あいつから受けた傷を治したんだよ? なのに今更付き合ってくれ、なんて……。受け容れられるわけがない」

「なら、放っておけばいいじゃん」

「落ち着け、翼。それが出来ないからこうしておれたちを頼ってきたんじゃないのか?」

 さすがは悠斗さん。感情的になることなく、わたしの状況を正確に言い当てた。彼は続ける。

「実は圭二郎さん、訳あって今は孝太郎さん宅で厄介になってるらしいんだけど、先日体操クラブに来てさ。おれ、そこで本人に会ってる」

「えっ」

 対面したと聞き、驚きのあまり、腰を浮かせた。悠斗さんは元水泳コーチだが、孝太郎さん主宰の体操クラブの理念に共感し、子供たちに身体を動かすことの楽しさを教えている。まさかそこに圭二郎が足を運んだなんて。

「圭二郎は何か言っていましたか?」

「いろいろ……」
 悠斗さんは言いにくそうにわたしたちを見回したが、最後にはゆっくりと口を開く。

「……また揉めると思って翼やめぐにも言ってなかったことだけど、圭二郎さん、うちに来たいって言ってた。我が家のことを聞いて興味が出たようだ。もっとも、同行する予定の孝太郎さんが珍しく空氣を読んで、訪ねる時期は考えるって言ってくれたから、すぐに来るってことはなさそうだけど」

「げげっ……! また問題児がうちに来るってか? よりによって圭二郎かよ? 俺、あいつ苦手なんだよなぁ……。あの目つきが怖くって」

「それはニイニイも指摘してた。その目つきは、赤ちゃん泣かすからやめろって」

「そうだよ! 俺はお断りだね!」

「まぁまぁ、翼くん」
 興奮する兄を、奥さんであるめぐちゃんがなだめる。
「その、圭二郎さんって人、一度は振った舞ちゃんのところに戻ってきたってことはきっと、よほどの事情があるんだと思うな。うちに来たいって言うなら受け容れてあげようよ。舞ちゃんと同じく、翼くんも幼なじみなんでしょう?」

「幼なじみってほど馴染んでないよ、俺は。本郷家のきょうだいは全員、俺より年下な上に身体を動かすのが好き。俺とはそもそもタイプが違うから」

「でも、知らない仲じゃないでしょ?」

「そりゃあそうだけど、プロ野球界のことを知り尽くしてる孝太郎さんが間に入ってるなら任せた方がいいと俺は思うけど。俺ら、一般人には分からない世界なんだろうし……。悠斗はどう思う?」

 難色を示す兄は、同居人の悠斗さんに意見を求めた。

「……もし訪ねてくるようなことがあれば、おれは受け容れてもいい。ただし、舞のように同居という形は取らないよ、絶対に。そらもいるし、翼が言うように、あの人に見られるとドキッとするって言うか、なんか居心地が悪かったからな」

「だろう?」

 ここに来る前から、兄に話せばこう言う反応があることは予想していた。やはりこれはわたしだけで解決するべき問題だったのかもしれないと、訪ねたことを後悔しかけたとき、

「ファンクラブ……」
 めぐちゃんがぽつりと言った。

「え、いま、ファンクラブって……」

「孝太郎さんがそうだったんだよね。もしかしたら、理人さんから聞いてるかもしれないけど、孝太郎さんは、野球が出来なくなったら自分に存在価値はないと思って人生を終わらせようとしていたの。だけど、たくさんのファンがいるんだってことが分かったら、その人たちのためにもうちょっと生きてみようか、って思えるようになったらしいんだよね……。圭二郎さんだって、たくさんのファンがいるんでしょう? もしかしたら既にファンクラブくらいあるのかもしれないけど、勝手に『応援団』的なものを作って応援するのもアリなんじゃないかなぁって」

「応援と言えば……。サザン×BBのユージンさんが圭二郎のために『応援歌』を作りたいって言ってくれてるんだよね……」

 実は、一緒に圭二郎をマンションまで送り届けたあと、当初の予定通りようやく二人きりになれたわたしたちはしかし、ギターレッスンという氣分になれず、結局夜の街に繰り出した。だが、そこで話題になったのはやはり圭二郎のこと。一緒にいたのはまだ好きだから? と問われたわたしは、疑いを晴らすため、今好きなのはユージンさんであることを正直に告白したのだった。

 そう。わたしたちは両思いになったのだ。なのに、圭二郎のことが気掛かりで素直に喜ぶことができない……。そんなわたしを見かねたユージンさんが提案してくれたのが「応援歌」というわけだ。

 せっかく付き合うなら心配事は解消してからの方がいい……。そう考えたわたしたちは、応援歌を聴いた圭二郎が再び球界に戻り、ライバルの座を降りたら正式に交際を始めようと約束している。すぐに仲良くしたいのは山々だけど、この恋は失敗したくない、成就させたいとの思いも強かった。

「へぇ! いいじゃん、それ! もしかして舞ちゃん、弾き語りしちゃうの?!」

「まさか! わたしが協力したとしても、せいぜい歌詞になりそうなエピソードを話すくらいかなぁってぼんやり思ってたくらい」

「えー、歌っちゃったらいいのに!」

「同じ弾き語りするなら、お兄ちゃんの方が……」

「…………! 頼まれても俺は歌わないからな!」

「まぁまぁ、落ち着けってみんな」
 場が盛り上がったところで悠斗さんが冷静になるよう促す。

「ファンクラブって案だけど、おれもいいと思う。舞は嫌かもしれないけど、彼が一番信頼しているのはきっと舞だろうし、舞だって圭二郎さんのことを放っておけないと思うからこそ悩んでるんだろう? だったらここは、過去のことを水に流して、幼なじみの再起のために一肌脱いでもらうのが一番じゃないかと思うんだけど、どうだろう?」

 悠斗さんの発言を受けてしばし考える。

 喫茶店で働き始めて数ヶ月。その間に何人もの永江孝太郎ファンがファン専用スペースを訪れ、感激しながら帰って行くのを目の当たりにしてきた。中には折良く食事に来た永江さんに会えたファンもいるが、そういう人に限って話しかけるのも畏れ多いからと、遠巻きに眺めては満足そうにしている。永江さん自身も彼らに支えられているという自覚があるのか、普段通りに食事をしながらも喜んでいるのが表情から見て取れる。実に、ファンとの距離感がうまくとれているなと感心していたところだった。

 しかし、おそらくこれは永江さんだから出来る芸当。圭二郎の性格上、同様の接し方が出来るとは思えない。加えて、ファンクラブを作って応援したいなどと言ったら、調子に乗ってますますわたしにラブコールしてくる可能性も充分有り得る。

「……すぐに返事をすることは出来ません」
 正直に答えた。

「即答出来るなら、最初からここには来てないだろうしな。うん、それでいいと思う」
 悠斗さんはわたしの言葉に頷く。
「ま、ゆっくり考えればいいさ。大事な決断ほど時間をかけた方がいい。熟考の末に出した結論なら、そのあと想定外のことが起きても狼狽えることはないからな」

「やっぱり悠斗さんの考えを聞くと安心します。思い切って訪ねて正解でした」

「うん。自分の直感を、思いを信じて行動することが何よりも大切。迷ったときはいつでも力になってやるから、第二の我が家と思って氣軽に遊びに来てくれよな」
 悠斗さんはそう言うと、まるで幼い子にするかのようにわたしの頭をなでた。



 夕食を終え、めぐちゃんが赤ちゃんそらとお風呂に入る間、わたしは姪っ子のまなちゃんと手遊びやカードゲームをして過ごした。その脇では兄がリラックスした様子でギターをつま弾き、そんなわたしたちを悠斗さんが微笑みながら見ている……。

 この、何でもない時間こそが幸せなんだと悟ったのはつい最近のこと。このうちで居候になる前は世間ずれした彼らのことを「変人」だと思っていたのに、実際、中に入ってみたら、わたしやわたしを取り巻く環境の方が「変」だったことに氣付いてしまった。

 それ以来、自分の心身、そして自分のための時間を大切にしようと決めて今に至っている。おかげさまでこの頃は本当に調子がよく、朝、起きるのがしんどいと感じることもなくなった。ここでの暮らしがわたしを180度変えた。彼らと過ごした日々は最早もはや、わたしの財産と言ってもいいだろう。

 めぐちゃんとそらが風呂から上がり、まなちゃんとの遊びもちょうど一段落したところでわたしのスマホが鳴った。発信者名をみて思わず「あっ!」と声を上げる。

「舞ちゃんったら、わかりやすいなぁ。電話の相手はあの人、、、でしょ?」
 慌てて玄関に向かうわたしを見ためぐちゃんが、抱っこしているそらの背中をギターに見立てて弾く仕草をした。

「ち、違うってばー!」

 恥ずかしさのあまり否定するも、めぐちゃんには通用しなかったようだ。彼女は「ごゆっくりー」と言ってわたしを玄関に一人、残していった。

 わたしは誰もいない場所で通話ボタンを押し、火照る頬にスマホを当てる。
「も、もしもし。出るのが遅くなってごめんなさい……」

 しかし、反応がなかった。切れてしまったのだろうか。耳から離して見ると画面は「通話中」になっている。
「もしもし……?」
 もう一度問いかけると、声ではなくピアノとギターの音が聞こえてきた。


右手も つなげないまま
君のとなり、歩く
澄み切った夜の空
輝く星は、まるで君の瞳

そっけない返事に
あぁ……。ため息、ひとつ、ふたつ
こんなにも恋してるってのに!
君は氣づいているかな?

君がスキ!
前の恋さえ忘れるほどに
触れたい、笑顔がいとしい、あぁ……
ドキ、ドキ!
マジで夢中なんだよ
僕の、僕の愛するMy Dear

##

横顔、見つめられずに
君のとなり、歩く
冬の寒空の下
君の右手、あっためたげたいよ

そっけない態度に
あぁ……。いらだち、ひとつ、ふたつ
こんなにも、溢れてるってのに!
なんで、好きって言えねぇんだ!

君がスキ!
怒った顔さえ天使に見える
カワイイ、素直な君に、あぁ……
ドキ、ドキ!
マジで恋してんだよ
僕の、僕の愛するMy sweet

###

本氣なんだ、この恋
誓ってこの胸に
次こそ、叶えるんだ
聞いてくれ、僕の歌声を……!

君がスキ!
前の恋さえ忘れるほどに
触れたい、笑顔がいとしい、あぁ……

君がスキ!
怒った顔さえ天使に見える
カワイイ、素直な君に、あぁ……

ドキドキ!
そう、ずっとずっとそばに
僕の、僕の大好きなMy lady


 まさか電話越しに歌を聴くことになるとは思ってもみなかった。驚きと戸惑いを感じていると、雑音のあとでユージンさんの普段の声が聞こえる。

『……舞さーん。今の歌、聞いてくれましたか?』

「え、ええ。もちろん……。だけど、驚いちゃった。ユージンさんがしゃべると思ったらいきなり音楽と歌が聞こえたから……」

『いやぁ……。急に舞さんのことを思い出しちゃって……。ちょうど職場の音楽スタジオにいるので、出来たばかりの曲を披露しようかなって……。迷惑でしたか……?』

「とんでもない……! ええと……。一応聞くけど今の歌詞の『きみ』って、わ、わ、わたしのこと……?」

『もちろんですよ』
 自信たっぷりの発言に再び顔が熱くなる。

「あ、ありがとう。すごく嬉しい……!」

『良かったー、喜んでくれて』
 ユージンさんはホッと息を吐き出した。

「いま職場にいるって言ってたけど、こんな時間までお仕事? お疲れ様です。えーと……メンバーも近くに?」

『あー……。すみません、先に帰ってもらおうと思ったんっすけど』

『ねぇねぇ、舞さん! お兄ちゃんの思い、ちゃんと受け取った?! 受け取ってくれたよね?! なんならこのあとお兄ちゃんをそっちに向かわせるから今夜はデートしなよー。ね?』
 ユージンさんの妹、セナちゃんらしき声が受話器から響き渡った。
『アタシたちにも二人の恋を応援させて。バックで演奏したのはそういう理由』

 どうりで豪華な演奏だと思ったらそういうことか……。セナちゃんのほかにも仲間らしき笑い声が電話の向こう側から聞こえる。揶揄わないでくださいよ、と、ユージンさんの照れる声も聞こえた。

『えぇと……。セナはああ言ってたけど、そんなに氣にしないで下さい。舞さんだって今日はお仕事だったんでしょう? いまから会うんじゃ遅くなっちゃいますもんね……?』

「そうだね……」
 返事はしたものの、ユージンさんの口ぶりから、本当は会いたいと思ってくれているのが伝わってきた。わたしだってあんな歌を聴かされたら、会いたい……。しかし、我が儘を言えばせっかくの彼の氣遣いを台無しにしかねない……。そのとき。

「舞……」
 背後から悠斗さんの声がした。振り向くと同時に鞄を手渡される。
「ユージンからの電話なんだろう? そんなところに突っ立ってないで早く会ってこいよ。会いたいって、顔に書いてある」

「え? いやぁ、そういう内容の電話じゃ……」

「隠しても無駄。電話の内容、ダダ漏れだぜ? それに舞のこれまでの様子見てたらユージンに恋してるってことくらい分かるし」

「で、でも……」
 言うか言うまいか、一瞬悩む。が、悠斗さんに隠し事は出来ないと諦め、素直に事情を話す。
「わたしたち、圭二郎のことが解決するまでは交際を保留にすると決めたばかりで……」

「ふぅん……。それじゃあお互いに、いまの自分の氣持ちに蓋をしてしまおうと? 本当にそれでいいと思う? おれはお勧めしないな……」

「…………」
 黙り込むと悠斗さんがわたしのスマホを取り上げて話し始める。

「ユージン? 鈴宮だけど、舞が会いたがってんだ。悪いけど、ちょっくらうちまで来てくんないかな。場所、分かるだろ? 帰りはそうだな……。しゃーない。おれは男は後ろに乗せないって決めてんだけど、特別に途中までバイクで送ってやる。……うん。好きな女のためなら夜中だって会いに来れるだろ? ……そりゃあ、心配だからに決まってんだろ? 仮にも一年、一緒に暮らしてたんだ。舞のことはもう娘みたいなもんだよ。……父親で結構。それで、来るの? ……ああ、何時でもいいよ。待ってる。それじゃ、またあとで。……ってことで、来てもらうことにしたからここでしばらく待ってな」

 悠斗さんはわたしにスマホを返しながら言った。

「……鞄を持たせたくせに、どうしてここを待ち合わせ場所にしたんですか? わたしのこと、娘みたいなものって言ってましたけど、もう守ってもらうような子供じゃないですよ?」

 実の父親を相手にしているかのように反論する。しかし悠斗さんは、想定内だと言わんばかりの表情で返す。

「ユージンと同じ質問してくるのな……。じゃあ聞くけど、どこなら良かったんだ? 圭二郎さんのことが引っかかってるって言ってる奴らがラブホに行くわけないし、そこら辺で立ち話ってのも変だろ? まぁ、おれの行きつけのバーを紹介しても良かったんだけど、飲んだくれたらそのあとどうなるか分かったもんじゃないし……。って、おれなりに考えた末の『我が家で待ち合わせ』だよ」

「そこまで考えて……?」

「言っただろ? 舞のことが心配だって。……安心しろ、ユージンが来る頃にはおれ以外全員、二階で就寝してるはず。居間は解放してやるから、そこで話すといい。……不満?」

「いいえ……」

「舞。ここで過ごした一年の間にお前は何を学んだ? 自分の氣持ちは大事にした方がいいぜ?」

 悠斗さんに言われてハッとする。そうだ。わたしは自分の想いを伝えずにいたことで失恋した失敗を繰り返すまいと決めたのではなかったか? だからこそ、ユージンさんの告白を受けてではあったけど、自分の素直な想いをちゃんと伝えたし、結果的にユージンさんと思いを確かめ合うことが出来たのではなかったか? 電話がかかってくる直前だってそう。自分のための時間を取るのはやっぱり大事だと再認識していたじゃないか。なのにわたしは、これまでのクセもあり、妙に大人ぶってせっかく湧いてきた「会いたい」という氣持ちをなかったことにしようとしていた……。

「そうですよね……。わたしってば、緊張するとすぐに元に戻っちゃう。どんなときでも自分の氣持ちに従えるようにならないといけませんよね……」

「従うって言うか、湧いてきた感情のままに動くことで本当の自分が喜ぶんだよ。今の舞なら分かるだろ?」

「はい」

「それでいい」

「悠斗さん。いつもありがとうございます」
 深々と頭を下げる。

「礼なんていらないよ。お前は充分よくやってると思う。だからおれはそんな舞を応援したい。ただそれだけ」

 微笑んだ悠斗さんは、五十代とは思えないほどに格好良かった。




9.<圭二郎>

 それからしばらくの間、永江さんの部屋でほとんどの時間を彼と一緒に過ごした。はじめは俺に関わらないと言っていた同居人の水沢さんも、一日一回程度食事を共にするうちに少しずつ話すようになった。永江さんの変化には水沢さんも驚いたと聞き、どのようにして「new永江」を受け容れたのかと尋ねたら、「俺も野上に説得された口でなぁ」と笑いながら話してくれた。

「そんなにすごいんですか、小父さんは……」

「おぅ。野上は言ったよ。孝太郎が希死念慮を手放し、生きてここにいてくれるなら野球から離れたっていいじゃないか、と。最初は受け容れがたかった。孝太郎には野球が絶対に必要だと思い込んでいたからな。でも、そんなことはなかった。野球という殻を脱いで無防備になった孝太郎を、野上や野上の息子夫婦、それから鈴宮さんが受け容れたことで孝太郎は『何者でもない孝太郎』として生きる道を獲得できたというわけだ。……見ての通り、今の孝太郎は昔と比べてずっと元氣だろう? それはこいつが自分らしく生きているから。それが分かったとき、生まれ変わったこいつを受け容れることが出来たんだ」

「何者でもない……。それは何の肩書きも持たない、ただ生きているだけの状態という意味ですか? 怖くは……ないんですか?」

 永江さんに問いかけると、彼はニコニコしながら言う。
「信じられないかもしれないが、肩書きに依存している人間の方が恐怖や不安を抱えているんだよ。でも、僕はその肩書きに依存しない。ここにいる自分、身体も魂もすべて、存在しているだけで価値があると知っているからね。その証拠に、庸平も野上クンも大津クンも僕が生きていることに喜びを感じてくれている。すごいと思わないか? ここに存在しているだけで喜んでくれる人がいるんだ」

「……よく、分かりません」

「だろうな。こういうことは誰かの死に立ち会ったり命の危機にさらされたりしなければ理解し難い。しかし、安心したまえ。僕らといればいずれ分かるようになる」

「…………」

「そうは思えない、と言いたげだな。君は肩書きを失うのが怖いのかい? 怖いと思っているならやはり、球界に残る努力をした方がいい。それを捨てて生きるには相応の覚悟が必要だからね。若いなら尚更だ」

 永江さんは、俺が野球界を去って舞と一緒に生きることなど不可能だと言っているのか。俺にはその覚悟がないと……?

「永江さんはなぜそんなにも自信があるのですか? ただ生きているだけの自分にそれほどの価値を見いだせるのですか? 確固たる理由がなければそんなにも堂々としていられるはずがない」

 知りたかった。この人が、存在しているだけでこんなにも強くいられる理由を。しかし孝太郎さんは、何が可笑しいのか急に笑い出した。

「理由。そんなものはないが、そうだな……。君が理解しやすい例を挙げるとするなら、麗華さんの歌だと言っておこうか。聞いたことはあるかな?」

「知ってますよ。翼と舞が好きな歌手ですから。その方の歌が永江さんを強くしているという話ですか?」

「彼女の歌に支えられた、が正しいな。現役時代は本当に世話になった……。ちなみに麗華さんは庸平の実の姉に当たる。もし会いたければいつでも会うことが出来るよ」

「え……」

「ついでにいうと、今はサザン×BBというバンドでボーカルをしている。こっちの名前の方が君には馴染みがあるかもしれないね」

(サザン×BB……!!)

 驚いた。それは舞のギター講師が属しているバンドじゃないか。出てくる人が次々に繋がっていく……。これを運命と言わずしてなんという?

 動揺する俺を見て永江さんは笑った。
「もし興味が湧いたならここに『サザンクロス』のCDがあるから一度聞いてみるといい。麗華さんが『サザン×BB』の前に三人で活動していた頃の歌が収録されている。野心的な歌詞の曲が多いから氣にいると思う」

 本棚から取り出された一枚のCD。ジャケット写真は、レイカとおぼしき女性と二人の男性がギターを持って立っているものだった。

「さて……。僕はそろそろ仕事に行かないと」
 CDをじっと見つめていると永江さんは時計を見やった。

「……出来れば圭二郎にも付き合って欲しいが、それを聞いて待ってるというならそれでも構わないよ」

 正直な話、クラブの手伝いはあまり面白くない。俺自身コーチをするわけじゃないし、素性がバレないよう控え室にいなきゃいけないから息が詰まって仕方がないのだ。

「……CDを聴いています。ここにいる方が氣が楽なので」

「分かった。……庸平。彼にCDプレイヤーを用意してやってくれ。それと、ここから出て行かないように監視を」

「りょーかい」
 水沢さんはすぐに動き始め、部屋の隅にあったCDプレイヤーをリビングテーブルに移動させてくれた。それを見て安心したのか、永江さんは支度をするなり出かけてしまった。

 重たいドアが閉まる。と、動き回っていた水沢さんが俺を見て停止した。
「……孝太郎にはああ言ったけど、聴く氣なんかないんだろ?」

「…………」
 心中を見抜かれて今度は俺が停止する。水沢さんはにやりと笑った。

「行きたいんだろう? ワライバ。ウエートレスのあの子に会いたいんだろう? 顔に書いてあるぜ」

「…………!」
 そう思っていることは知られないよう氣を遣っていたつもりなのに、なぜ分かってしまったのだろうか。思わず顔触ると水沢さんはますます笑った。

「まぁ、行って会える保証はないけど、まぁ、ここにいたってどうせ暇だし、とりあえず行ってみようぜ」

「だけど、水沢さんの今日の仕事は……?」

「俺は孝太郎よりスタートが一時間遅い。今から走ってけば充分行って帰ってこれる」
 で、行くの? 尋ねられた俺はすぐに首を縦に振った。



「よぉ。来たぜ」
 水沢さんが先に店に入り、軽いノリで挨拶をした。

 初めて訪れたとき同様、ワライバにはなぜかひとりの客もいなかった。ここの客はよほど察しがいいのか。俺が来るのを事前に知って来店を控えているとしか思えなかった。

「あ、センパイ。いらっしゃい……」
 顔を上げた店主は最初、笑顔を見せたが、俺の姿を見た瞬間に表情を変えた。

「……マイマイに用があるならお生憎様。今は昼休憩でいないよ」

「なぁんだ、いねえの? せっかく会いに来たのに。なぁ?」

「…………」
 水沢さんは俺の心中を知ってか知らずかそう言った後で「まぁいいや。とりあえずコーヒー二つ」と言ってカウンター席に座った。

「コーヒー二つ、ねぇ……。っていうか、どうして水沢みずさわセンパイなの? おれが託したのは永江センパイなのに」

「んだよぉ。俺じゃダメな理由でもあるのかよ?」

「そりゃあ……」
 店主は無言で頭を指さした。

「…………! 頭の出来が違うとでも言いたいのか?! ……あいっかわらず口が悪いな、大津は!」

「だけど、事実でしょう?」

「この野郎……!」

「ほらほら、そういうところですよ……」
 水沢さんは振り上げた拳を指摘され、舌打ちをしながら引っ込めた。

「……まぁいい。お前でも圭二郎の話し相手にはなるだろう。知ってんだろう? こいつを孝太郎に託したってことは、大まかな経緯くらい」

「そりゃあもう、最初から全部把握してますよ。だからこそ永江センパイに引き合わせたんじゃないですか。おれじゃあ圭二郎くんの背負ってるものを半分も請け負えませんから」

 店主はコーヒーを淹れながら答えた。

 少しの間、沈黙の時が流れる。その瞬間、店のスピーカーからうっすらと音楽が流れているのに氣付く。

「……今かかっている曲は?」

「あぁ、これ? 直接頼み込まれちゃってねぇ。仕方なく野球がシーズンオフの時限定でサザン×BBの曲を流すことにしてんの。ええと……。今流れてるのは確か『羅針盤コンパス』って曲かな。ひょっとして圭二郎くん、彼らに興味が?」

「…………」

「あー、ちょうどさっき、孝太郎から彼らの曲でも聴いたらどうかって勧められたところだったんだ。でもそれを聞き入れたふりしてこっそりここへ来ちまった。なもんで、あんまり長居は出来ねえんだ」
 黙した俺の代わりに水沢さんが説明してくれた。

♪ 「頑張れ、やれば出来る」ったって
  俺たちゃ限界、やれねえぞ
  心が折れちまう前に
  捨ててしまえ、常識を……

 歌詞に耳を傾ける。なるほど、永江さんの言っていたとおり野心的かつ心にしみるフレーズである。

「この歌を歌っている方とはお知り合いですか?」

「一応。まぁ、歌詞の通りのことを普段から口にしてるような人だよ。この、腐りきった国を変えたいんだって言って奔走してる。それで目の敵にされたこともあったっぽいけど、めげずに自分を貫いてやってる。その精神に感動したもんで、こうして微力ながら協力してるって訳。圭二郎くんも一度、会って話してみたら? なかなか面白い人たちだよ。……って言うか、レイカはセンパイのお姉さんじゃん! 紹介してやってくださいよ」
 興奮気味に語る店主を見た水沢さんはため息を吐く。

「それ、さっき孝太郎も同じことを言ってた。まぁ、紹介すんのは構わないけど、会わせたところで姉貴がなんて言うか……」

「会ってみたいです、その、サザン×BBさんに」
 身を乗り出すようにして言うと、二人は驚いた顔で互いを見合った。が、店主の方は何かを察したのか、直後に腕を組んで唸った。

「ちょっと待て。その発言の裏に何があるか、おれには分かっちゃったよ。サザン×BBといえば、圭二郎くんはこの前会ってるもんな? そのうちの一人に。だから会いたいって言ってんじゃねえの?」

「それは理由の一つです」

「ひとつ……? ってことはほかにも理由が?」

「さっき、永江さんの現役時代を支えたのは麗華さんの歌だったと伺いました。それでCDに収録されている曲を聴いてみたら? と勧められたのですが、せっかくなら直接会って歌声を聴いてみたい。話をしてみたい。そうすればきっと、永江さんが今もなお自信を持って生きている理由が分かると思うんです」

 ただ、知りたい。それだけの理由で会いたいと願うのはおかしなことなのだろうか。店主がコーヒーを提供しながらため息を吐く。

「……いま、持ってる? 永江センパイのファンクラブ会員証」

「え? あ、はい。持ってますが……」

「ちょっと見せて」
 言われたとおり差し出すと、店主は俺の腕を引っ張って永江孝太郎のファンクラブ会員専用スペースに導いた。

「この前は、ここを見たいと言いながら見ていかなかったっしょ。永江孝太郎のことが知りたいって言うなら、まずはここを見て勉強した方がいいよ」

「…………」

「確かに大津の言うとおりだな」
 水沢さんも、コーヒーカップを持ちながらこちらにやってきて言う。
「あいつは天才だったから長く活躍できたわけでも、人柄が好まれて人氣だったわけでもない。中学の頃からずっと、誰よりも遅くまで居残って練習してるような努力家だったからこそ見る人に感動を与えたし、技巧が認められたし、その名を借りて一儲けしてやろうとすり寄ってくる輩をも一蹴できたんだと思う。……姉貴の歌はそんなあいつをちょっとだけ支えたに過ぎないんじゃないか? 俺はそう思うぜ」

「……永江さんが努力家だったことは知っています。しかし一方で自分を追い込みすぎて、最終的には死ぬことばかりを考えていたのではありませんか? 唯一、レイカの曲に支えられて生きてきたけど、それが無かったら今頃は……」

「おい……!」
 話の途中で水沢さんが怒りを露わにした。しかしそれを店主が制する。

水沢みずさわセンパイは永江孝太郎のファンだからさ、ちょっとでもあの人を否定されるのが嫌なんだよ。何しろ、一緒に暮らしたくなるくらい特別な存在だからな。そうでしょう、センパイ?」

「…………!! お前、俺をなんだと……」

「永江孝太郎の大親友、でしょ?」

「………あぁ、そうだよ。ずっとそばで見てきたから分かる。あいつは……死んでもいいつもりで寝食も忘れて練習してたし、それで死んだとしても構わないと思ってた節がある。一応、結果は残せたし今も生きてるからいいけど、一歩間違えればもうこの世にはいなかったかもしれない……。うん、それはその通りだと思う。だけどな、あいつが今もしっかり自分の足で立っていられるのは間違いなくここに残ってるような過去の活躍があったからだ。努力の軌跡があったからだ……と俺は思いたい。……圭二郎にはこんなふうに誇れるものがあるか? 孝太郎のように自分が価値ある存在だと胸を張って言えるか?」

「……俺はそんなに立派な人間じゃありません。だからこそ、永江さんの強さの秘密が知りたいんです」

「……知ったからといって孝太郎のようになれるわけじゃない。俺だってあいつにはずっと憧れてたし、同じように努力もしてきた。でも、あいつのようにはなれなかった」

 不躾だと思いながらも問うてみる。
「……その理由が、水沢さんには分かっているんですか?」

「…………」
 水沢さんは答えなかった。代わりに店主が言う。

「おれには分かるよ。その差はずばり、ファンがいるかどうか、だ」

「ああ、そうか。それなら俺があいつに追いつけなかった理由も分かる」
 店主の回答を聞いて水沢さんはうなずいた。

「あいつは自分のことを孤独だと思っていたようだが、現役時代はもちろんのこと、引退した今でも根強いファンに支えられている。俺らも含めて。それが生きる上でどれだけ励みになっているかを知ったとき、あいつは真の強さ手に入れたんだと思う」

「ファン……」

 そう言われ、改めて目の前のショーケースに目をやる。そこに並んでいるのは俺も見たことがあるユニフォームやグラブなどの用品。一点の曇りもないガラスケースや手作りのパネルを見るにつけ、店主が永江さんを崇敬しているのが分かる。

 だが、なぜそんなにもあの人が愛されるのか、俺には分からなかった。だって現役時代の永江さんは本当に冷たい人だったのだから……。

「教えてください。永江さんの一番の魅力ってなんなんです? 彼が努力家だという意外にもあるんでしょう?」

 氣付けば懇願していた。が、こっちは真剣なのになぜか笑われる。
「……何が可笑しいんですか」

「お前は選手としての永江孝太郎しか知らないからそう言うんだ。俺たちはいまや『何者でもない永江孝太郎』を知っている。この、真っ裸なあいつを知れば嫌でも好きに……ファンになるよ」
 水沢さんはニヤニヤしながら言った。

「……どうしたら知ることが出来ますか? やっぱりその鍵はレイカの歌ですか?」

「それはだなぁ……」

「センパイ、ストップ……! 簡単に教えちゃダメでしょう。ここは本人に考えさせなきゃ」

 店主は水沢さんの言葉を遮り、俺に正対した。

「本当に永江センパイのことを知りたいなら自分で探るんだね。そうすりゃ、マイマイとの関係も少しは変わるかもしれないし」

「え、舞との関係……?」

「心配してるよ、あんたのこと。多分、そのクソ真面目な性格のままじゃダメ。男から見たってあんたは魅力に欠ける。いずれにしても自分磨きしないと」

「…………」

 自分磨き……? そんなことを言われたってどうやったらそんなことが出来るのか、さっぱり分からない……。困惑していると、水沢さんが時計を見やり、慌て始める。

「……おっと、そろそろ戻らないと。孝太郎が戻る前に帰宅しておかないとヤバい」

 ここを訪れてから二十分が経とうとしている。マンションの一室まで走って十五分。確かにそろそろお暇した方が良さそうだ。

 舞には会えなかったが、なかなか有意義な話が出来た。やはりここ、ワライバは面白いところだ。

「マスター。次にここを訪れるときには魅力的なやつだと言ってもらえるよう、この後からでも自分磨きをしておきます。今日はいいアドバイスをありがとうございました」

 脱帽して深々と頭を下げると、またしても笑われた。
「……それそれ、そういうところが真面目だってーの」

「……それでは、また」
 もう一度頭を下げようとして止め、水沢さんと店を出た。




10.<舞>

 圭二郎と理人さんのやりとりを、わたしは店の控え室でしっかり耳にしていた。昼休憩のため店の奥に下がった直後だったが、彼らの会話が氣になってしまい、昼食を摂るどころではなくなってしまったのだ。そのうちに、永江さんが長く活躍できたのはファンに支えられてきたからだ、と言う理人さんの言葉が聞こえ、いても立ってもいられなくなった。

(圭二郎にだってファンはいる。そう、ここに……! 応援歌だって作るんだから……!)

 お弁当もそこそこに、箸を置いて店の方に足を向けようとした。が、その瞬間に肩を掴まれる。

「出て行かない方がいい。それがお互いのためだよ」

 わたしを引き留めたのは理人さんの双子の兄、隼人さんだった。顔は理人さんと瓜二つなのに考え方や行動は正反対、という人だ。

「理人の氣持ちも察してやって欲しい。あいつは、舞さんを守ろうとしてる。双子のぼくには手に取るように分かる」

 隼人さんはわたしが飛び出していかないよう、正面に回った。
「幼なじみを応援したいという、舞さんの思いも分かるよ。でもね、男ってのは甘やかしたらダメになっちゃう生き物なんだよ。だからここは、心を鬼にして我慢しよう。そうでなくても舞さんが好きなのはあの人じゃなくてユージンさんなんでしょう? 氣持ちをごちゃ混ぜにしちゃいけないよ」

「隼人さん……」

「……なんてね。ろくすっぽ恋愛したことがないぼくが言っても説得力はないけれど」
 彼は肩をすくめ、店の方に身体を向けた。
「……どうやら話は終わったようだ」

 同じ方に目をやると理人さんがこちらにやってくるところだった。彼はわたしと目が合うなりため息を吐いた。

「……話、聞いてたよね? マイマイがこっちにいて良かったよ。直接顔を合わせてたらまた面倒くさいことになってたはずだもん」

「隼人さんが止めてくれたんです……。それがお互いのためだからって……」

「あー……。さすがは兄貴。こういう時は機転が利くな。サンキュ」

「氣にするな」

「ところで……」
 面倒くさいと言われたやつの話はおしまいにすべきと分かっているが、ちょうどいい機会なので「あのこと」を打ち明ける。

「さっき、永江さんが長く活躍できたのはファンに支えられてきたからだ、って話してましたよね? 実はめぐちゃんの提案で、圭二郎のファンクラブを作るのはどうかってことになりまして……。もし良かったら、ファンクラブ作りのノウハウを教えてもらえないでしょうか?」

「へぇ。めぐっちがそんなことを……。いいじゃん、絶対やるべきだよ。なんならおれが全面的に協力してもいい。やろう」
 理人さんは腕まくりをしてやる氣をアピールした。

「永江センパイのファンクラブを作ろうって言ったときのことを思い出すよ。なんだかんだ言って、第一線で活躍してる人は憧れられる存在。なのに当人はそのことに氣付いてないんだよなぁ。自分がどれだけ見る人に影響を与えてるかが分かってない。そういう意味で、ファンクラブってのは自分の応援団がどれだけいるかを可視化できるからいい。ファンクラブを作ってやれば、圭二郎くんにも自分の価値が分かるだろう」

「……理人さんって、実は圭二郎のファンだったりします?」
 あまりにも熱を入れて語るのでつい、そんなことを思ってしまったが、答えはどうやら違うようだ。

「前にも言ったっしょ? あの人は昔のおれに似てるって。……おれにもさ、自分が生きてる意味とか、価値とか、そういうのが分からなくなった時期があるんだよ。野球を辞めちまおうとも思ってた。でも、出来なかった。やっぱりおれは野球が好きで、それが無いと生きていけないと再認識できたのは……野上センパイの言葉があったから」

 理人さんは少し恥ずかしそうに鼻の下をこすった。

「あの人……あぁ、マイマイのお父さんのことだけど、前にも言ったかな? 野上センパイは口の悪い後輩のおれを頼ってくれた唯一の人。お陰で自信を取り戻せたし、野球も続けようと思い直すことができたんだ。だからって訳じゃないけど、圭二郎くんも踏ん張るためのきっかけがあれば持ち直せるんじゃないかな? そしてそれはファンクラブだとおれは思う」

「つまり、誰しもが支えを必要としているってこと。それがあるから頑張れるってことさ」
 隼人さんが補足をする。
「その当時のぼくと理人なんて、互いのことを『消えて欲しい』と思ってたんだぜ? なのに今じゃ、かけがえのないパートナーだ。信じられないだろう? でも、そういうものさ。もし一人だったら今頃何をしているか分かったもんじゃない。ぼくらは支え合っている。互いに尊敬もしている。だからここで喫茶店を続けられるんだよ」

 二人の話を聞いて思う。わたし自身も両親の応援のお陰でここまで自分の好きなことを――少し前までは野球を――続けることができた、と。普段は意識しないけど、立ち止まって人生を振り返れば必ず誰かが自分を支えてくれていたことに氣付くものだ。それに感謝できたとき人は成長する。

「自分にはファンがたくさんいると知ったら、圭二郎は心を取り戻せるのかな……」

「大丈夫。信じようぜ」
 理人さんの言葉は力強かった。



11.<圭二郎>

 俺を引き連れてワライバから戻った水沢さんは、すぐに仕事に行く準備を始めた。時間にして五分。

「それじゃあ、しっかり留守番を頼むぜ」

 俺に対して何の疑いも持っていない様子の彼は、下のきょうだいに言いつけるかのような口調でそう言った。頷いた俺は、彼の後ろ姿を見送って内鍵を閉めた。足音が遠のいていくのを確認し、まずはリビングのソファに腰掛ける。

(悪いけど、今日はこのまま引きこもるつもりはないんだ……。)

 さっきのワライバでの話を聞いていても立ってもいられなくなった。永江さんを変えたという、鈴宮悠斗さんとその家族にどうしても会いたい。会って、どんなふうにして永江さんを変えたのか、その理由を確かめたいのだ。

しかし、これは俺が今、唐突に思いついたこと。永江さんや水沢さんに聞けば彼らの自宅はすぐに分かったのだろうが、彼らは今不在。かといって、今からクラブに顔を出すのも氣が引ける。では、どうするか。

(……翼は幼稚園の先生をしているんだったよな。)

 ここは一か八か、翼が勤める幼稚園を突き止めて訪ねてみよう。翼とは幼なじみと言えるほど馴染んではいなかったが、親世代よりずっと話しやすい。

 インターネットで「野上翼」を検索する。すると、市内のとある幼稚園がヒットした。幸いにしてここから歩いてもいける距離。

「よし……!」
 永江さんが帰ってこないうちにと、急ぎ靴を履いた俺は部屋を飛び出し、非常階段を駆け下りたのだった。



 幼稚園の場所はすぐに分かった。しかし、防犯対策がしっかりしているために部外者は簡単に入れそうもなかった。加えて、迎えの親らしき女性たちがひっきりなしに出入りしており、男の俺は近づき難い雰囲氣だった。

 それでもなんとか中に入れないものかと、ガラス張りの自動ドア越しに中を覗く。と、俺に氣付いた園の先生がこちらに近づいてきた。しかし、なぜか怖い顔で傘を持っている。

(……俺を不審者だと思っている?)

 そう思われても仕方がなかった。しかし、向こうからドアを開けて出てきてくれるなら好都合。訳を話して翼と面会させてもらおう。そう思っていたが、よくよく見ればその先生は翼その人だった。なんという幸運。

 翼は恐る恐る俺に尋ねる。
「どちら様ですか? ここは大事な子供たちを預かる場所。あなたのような人が来るところじゃ……」

 言葉の途中で俺に氣付いたのだろう。恐れていた顔が困惑に変わる。

「……おい、何しに来たんだよ? お前はコータローさんのところで厄介になってるはずだろう? それとも何? 舞を探してここまで来たとか? 生憎だけど妹はこんなとこにはいないぜ」

「舞を探しに来たわけじゃない。翼と話がしたくてわざわざ足を運んだんだ。厳重なロックの掛かった玄関を見て諦めかけたけど、ちょうど良かったよ」

「は? 何がちょうど良かった、だよ? って言うか、何で俺なんかに用事が? 舞から何か聞いたの?」

「いや、聞いたのは永江さんからだよ。翼があの、、鬼の永江を変えた人物だということ、それから歌手のレイカと付き合いがあることも。……俺は、冷徹非情だった永江さんがなぜ今のように変わることが出来たのか、その理由が知りたい。でも、親世代は誰も教えてくれないんだ。自分で探せって、そればっかり……。年の近い翼ならその答えを教えてくれるんじゃないかと思って」

「はぁ……」
 何か変なことを言っただろうか。翼はため息を吐いた。

「この件に関して言えば、舞が良識ある人間で良かったと思うよ。お前、人生なめきってる。お前がホントに他人なら突き放してるところだ。でも、残念ながらそれは出来ない。俺の家族がお前を助けたいと言ってるんでね。癪だけど、ちょっとだけ力になってやろう」

「翼……」

「……中に入れ。ただし、顔はしっかり隠しとけ。俺から離れず、口も開くな」
 受け容れられた嬉しさから、俺は素直に言われたとおり顔を隠し、口を閉じた。



「……万が一、誰かに尋ねられたら、お前のことは変な友達って紹介する。間違っちゃいないんだから、いいよな?」
 俺は黙ったまま頷いた。翼について行くと、とある部屋に通された。おそらくここが翼の担当するクラスなのだろう。彼は俺が入ったあとで部屋の鍵を閉めた。

「この中でならしゃべっても良いぜ。ただし、小声でな」

 しゃべっていいと言われても何を話せばいいのやら。とりあえず、部屋を見回す。

「……どうして俺をここへ連れてきたんだ? まさか、自分の職場を見せたかったわけじゃないだろうな?」

「その、まさか、、、だけど?」

「…………」
 黙り込むと、翼が壁の方に歩み寄って「ほら、見てみろよ」と指を差した。

「子供たちが俺宛てに描いてくれた絵や手紙だよ。上手だろう? 四月から毎日のように誰かがプレゼントしてくれるんで、今じゃ壁が一面、埋まってしまった。これは俺の宝物なんだ」

「……宝物自慢かよ?」
 うんざりした。こんなものを見せるために俺をここへ連れてきたのか。しかし、俺を見た翼の方もうんざりした様子でため息を吐いた。

「自慢と受け取るのは勝手だけど、そうじゃない。これは、俺が子供たちに好かれてる証。それをここに掲示してるのは互いの絆を示すためだ。勘違いして欲しくないんだけど、俺の方からこういう物を書いて欲しいと要求したことはない。子供たちは純粋な想いでこれらを渡してくれる。なぜだか分かるか?」

「……お前のことが好きなんだろ。今、自分でそう言ったんじゃないか」

「その通り。今のを別の言葉で言おう。子供たちは俺のファンなんだ。だから、自分の思いをどうにかして伝えたくて手紙を書く。俺はそれをもらって喜び、ここに掲示する。すると、子供たちはさらに嬉しくなってますます俺が好きになる……。こうして互いの絆を深め合っているのさ」

「……翼まで『ファン』という言葉を使うのか」
 これは偶然なのだろうか。いや、彼らが繋がっていて、敢えて「ファン」という言葉を使っているとしか思えなかった。そのキーワードの意味を知りたくて壁の手紙や絵を食い入るように見つめる。

 五歳前後の子供の絵だから、お世辞にも上手いとは言えない。だが、そこには翼への思いが凝縮されていると感じた。

「……愛されてるんだな、翼は」
 羨ましくなった。これほどの数のファンレターを受け取れる翼が。しかし翼は俺を持ち上げてくれる。

「……お前だってこの年まで活躍してきたじゃん。愛されてるよ、きっと」

「そんなことはないよ。所詮俺は二世だからな……。あの、、本郷祐輔の息子の……が必ずついてくる。それが俺の人生。創太も、あさみも、同じだ。そりゃあ努力はしてきたつもり。でも、それだけでここまで上れたとは一ミリも思ってない。そんな俺にファンがいる……? んなわけ、ねえだろ……」

 つい、愚痴っぽくなってしまったが、話を聞いてくれそうな雰囲氣だったのでそのまま続ける。

「だいたい、俺に大企業のお偉いさんから結婚話が舞い込むこと自体、おかしな話なんだよ。始めから俺を利用するだけ利用してやろうって腹が見え透いてた。俺に人権はないのか? って言ってやりたかったけど、あの顔で凄まれたときは断る勇氣が出なくて仕方なく一度は話を呑んだ。でも、時間が経てば立つほど消化不良を起こして苦しくて……。でも誰にも相談できなくて……」

「最終的に、あんな形で婚約を解消するに至った、と……」

「……ダサいよな、俺。こんなことなら始めから断っときゃ良かったのに」

 そう。俺はとんでもなくダサいことをした。あの時はあらがえなかったとしても、こんなふうに後悔すると分かっていたら……。

「大きな存在に刃向かうのは簡単なことじゃない。お前はよく決断した方だと思うけど」

「永江さんも同じことを言ってくれたよ。でも、どうしたって悔いは残るよ」
 話を聞いてくれた翼はなおもフォローしてくれたが、結婚話を受け容れた俺も、それを蹴った俺も格好悪くて受け容れられないのだ。だから、こんなところでくすぶってる……。

 うつむいていると、翼が俺の顔をのぞき込んだ。
「……お前、この後の予定、ある?」

「……予定なんかないよ。今は自宅待機中の身。……って言ったって、婚約者と住む予定だった家も、寮も出た俺に住む場所なんてないんだけどさ」

「なら、今夜はうちで飯食ってけよ。コータローさんにも来てもらおう。みんなでわいわい言いながら食事しようぜ」

 渡りに船とはこのことを言うのだろう。翼の家に行きたいとは思っていたが、まさかあちらから誘ってくれるとは。しかし、本当にいいのだろうか……?

「……だけど、翼んとこには赤ちゃんがいるって聞いたよ。俺が睨んだら赤ちゃんを泣かすから行くなって、小父さんに止められてる」

「小父さんって、父さんのこと? そんなの、氣にすんなよ。家主の俺が良いって言ってんだぜ? 悠斗もめぐちゃんも歓迎するって言ってる。だから遠慮すんな」

「翼……。ありがとう……」
 彼の優しさに感動した俺は、脱帽して深々と頭を下げた。

「おい、さっさと帽子をかぶれ。身バレしたらヤバいんじゃないの?」

「大丈夫……。翼と話してたら、なんだかそう言うの、どうでも良くなってきた」
 急に心が軽くなった氣がした。帽子をかぶり直しながら言う。
「確かに、永江さんの言っていたとおり、翼には特別な力を感じるよ。……仕事が終わるまで俺はどうしてれば良い? ここで待機していればいいか?」

「馬鹿。こんなとこにいてどうする? 話はまとまったんだ、今日はもう上がるよ。子供が出来てからは残業しない主義でね。……って言うかお前、ここまで何で来たの? 電車……なわけないよな?」

「運動がてら歩いてここまで。……実は、野上翼が勤務してる幼稚園を探し当てて勝手に部屋を抜け出して来たんだ」

「げげっ……。もしかしてネットで検索したの? 確かに幼稚園のホームページには教師の一人として俺が紹介されてるけど、そこまでして会いたかったわけ?」

「本当は鈴宮さんの家を訪ねたかったんだけど住所を知らないし、かといって永江さんに聞けば理由を尋ねられてしまう。内緒で訪問するには翼の職場に突撃するしかなかった」

 呆れているのが分かった。翼は手のひらを天に向けた後で時計を見やった。
「……っていうか、もうコータローさんは仕事を終えてる頃じゃね? 部屋に戻っていなかったんじゃ、絶対心配するだろ。まずは連絡を入れないと。……内緒で出てくるなんて。コータローさんのことが怖いの?」

「……何しろ相手は球界の大御所だからな。そんな人が世話してくれるってるだけでも恐縮なのに、あれがしたいこれがしたいなんて言えないよ」

「……だけど、言われたとおり部屋に引きこもるつもりもないわけだろ? やってることが子供とおんなじだ。幼稚」

「幼稚、か……」
 その通りだと思ったら笑えてきた。
「だったら尚更、翼の世話になった方がいい氣がしてきた。だって翼は幼稚園の先生。その道のプロだもんな」

「悪いけど、ひげの生えた子供は専門外だよ」

「え……」
 思わずマスク越しに無精ひげを触る。が、またしても翼に呆れられた。
「ったく。冗談も通じないなんて。まずはここから鍛えないといけないみたいだな……」



 俺が徒歩で園までいってしまったので、バイク通勤の翼には悪いが電車を利用して彼の自宅に向かうことにした。

 家に着くと既に永江さんが到着しており、俺たちを迎えてくれた。留守を預かっていた俺が勝手に部屋を抜け出したのだから、さぞかし怒っているだろうと思ったのに、その表情は非常に穏やかだった。彼はにこやかに言う。

「僕もそうだが、これで君はもう、翼クンに頭が上がらなくなったよ。ここに来たら最後、まとってきた鎧や仮面はすべて剥がされてしまう。そして何者でもない自分を嫌でも見ざるを得なくなる。最初は苦しく感じるかもしれないが、千本ノックを受けてると思って乗り越えて欲しい」

「千本ノック……」
 それを聞いて、やはりこの人は鬼だと思いかけたが、この家の主、鈴宮さんがフォローを入れる。

「孝太郎さん、そんなふうに脅しちゃ可哀想ですよ。……ほら、突っ立ってないで上がれよ。飯は用意してあるからさ」
 彼が場をとりまとめ、俺を居間に通してくれる。

 食卓一杯に並んだ食事とビールジョッキを見て、幼少期に翼一家と食卓を囲んだ頃のことを思い出す。

(なんか、懐かしいな。この感じ……。)

 ちょろちょろと走り回る女の子が、幼い頃の舞と重なる。思わず手を差し出したら「イヤッ!」と避けられてしまった。

「まな。圭二郎さんはパパのお友達なんだから、大丈夫よ?」

 翼の奥さんが子供に声をかけるが、まなと呼ばれた女の子は遠く離れたところから俺をじっと見つめて言う。

「ホントにパパのお友だち……? その人、何考えてるかわかんないから怖い。心がくもってて何にも見えないんだもん」

「…………」
 俺をはじめ、その場に居た全員が言葉を失った。数秒の沈黙ののち、翼が女の子に歩み寄って抱き上げる。

「まなには誰も嘘がつけないな。ああ、その通り。圭二郎はちょっとばっかし心が病氣でさ。それで、みんなして元氣づけてやろうってことでご飯に招待したんだよ」

「病氣だから心がくもって見えたのかぁ。それならナットク! でも、やっぱりちょっと怖いから、パパのおひざでご飯食べてもいい?」

「もちろん、いいよ」
 安心したらしい女の子はようやく笑顔を見せ、翼と一緒に食卓に着いた。

「いただきます」
 全員で手を合わせる。ここまでは普段と変わらないが、男ばかりの環境で何も考えず食事を摂ってきた俺にとって、会話をしながら和気藹々と摂る食事風景はあまりにも新鮮だった。

「……よく、食べながら会話が出来るな。俺には無理だ」
 隣に座っている翼に耳打ちをしたら笑われた。

「いやいや、耳の穴はいつでも空いてるんだから、聞こえた会話に応答すりゃいいだけのことだろ」

「食うのに集中してんだぜ? それでどうして返事が出来るんだよ?」

「……お前、案外不器用なのなー」

「集中力があると言って欲しいな。このくらいの集中力がないと球の動きに対応できない」

「……だからって、飯くらいもっとリラックスして食えよ。誰も横取りなんかしないんだからさー」

 こんなやりとりをしていたら、今度は永江さんが大口を開けて笑いはじめた。しかも、ツボにはまったのかいつまでも笑っている……。

「あの、鬼の永江が……」
 驚きのあまり、俺の方は違う意味で開いた口が塞がらなかった。すると、いきなり横からビールジョッキが現れる。差し出したのは同居人の鈴宮さんだった。俺と目が合うなり、にやりと笑う。

「酒、飲めるだろ? 乾杯しようぜ、乾杯」

「あ、はい……」

「おい、つまんない顔で乾杯は無しだぜ。ほら、孝太郎さんみたいに笑えよ。ヘーイ、圭二郎くん、我が家へようこそ。ってことで、カンパーイ」

 鈴宮さんが音頭を取ると、翼と永江さんもジョッキを掲げ、杯を交わした。男性陣が揃ってうまそうにビールを口にする姿を見てようやく実感が湧く。

(……もしかして俺、歓迎されてる?)

 ビールに口をつけず、感極まっていると案の定、鈴宮さんに突かれる。
「酒、飲めないの? それならそうと言ってくれよ。ジュースもあるぜ?」

「いえ、飲めます……」
 込み上げるものを押し戻すようにビールを一氣飲みする。ビールが胸につかえていたものをも胃に流し込んでくれた氣がした。

「……うまい。マジで旨いっす。お替わり、もらえますか?」
 空いたグラスを差し出すと、大人たちは笑みを浮かべながら互いに顔を見合わせた。

「ふっ……。どうやら君の分厚い仮面が一枚、剥がれたようだな。うん、それでいい」
 永江さんが嬉しそうに頷いた。
「どうだ? 千本ノックを受けている氣分は?」

「……まだまだ、いけます。続けてください。お願いします」

「相変わらず真面目だな、君は。それでは望み通り、しごきを続けることにしよう」
 永江さんはそう言うと、逃がさないぞとばかりに俺の肩を力強く掴んだのだった。



 翼たちの歓迎を受け、しこたま酒を飲んだ帰り道。俺は永江さんと一緒にふらつきながら歩いていた。かなり冷え込んでいたが、酒が回っているせいか寒いとは感じず、途中までマフラーとキャップを忘れてきたことに氣がつかなかったほどだ。町中をうろつく時はそれらとマスクで顔を隠さなければ落ち着かない性分だったのに、一度彼らと食事をしただけでこうも感覚が変わってしまうとは。

「僕は最初から君の忘れ物に氣付いていたけどね」
 マフラーのことを話すと、永江さんは意地悪そうに笑いながら言った。

「氣付いていたなら教えてくださいよ」

「いいじゃないか。これでまた彼らの家に行く口実が出来たんだから。君の様子を見る限り、彼らとの交流を楽しんでいるように見えた。今だって、苦手意識を抱いていたであろう僕と氣楽に話している。何度も通って、彼らからいい影響を受ければいい。いや、既にずいぶん影響されているか。素顔で歩いているんだもんな。どうだい? 仮面を外した氣分は」

「……すがすがしいです」

「だろう?」
 彼は俺の返答に満足したのか、陽氣に笑った。
「君は真面目すぎたよ。故にここまで上り詰めてきたとも言えるわけだが、それに疲れてしまったのならそろそろ真面目人間の仮面を外してもいいだろう。君が新しいことを成そうと声を上げ、協力を求めれば、多くの人が君の元に集う。それだけの力が君にはあるのだから」

「……そうでしょうか。自信がありません」

 昼間に「ワライバ」の店主と水沢さんから言われことを思い出す。

「俺、ワライバのマスターに言われたんです。お前は魅力に欠ける、自分磨きをしろと。しかし、肝心の磨き方が分からない。それで鈴宮さんを頼ろうと思ったんです」

「大津クンがそんなことを……。なるほど、彼らしいアドバイスだな。そしてよく君のことを見ている」

「……それじゃあやっぱり俺には魅力がないんですね。そんな俺に、永江さんが言うような人望なんてないですよ」

 否定を繰り返す俺に呆れたのか、永江さんは少し考えた後でポケットからスマホを取り出し、誰かに電話をかけ始めた。

「……ああ、すまない。明日の午前中なんだが、僕に付き合ってくれないかな。圭二郎を救うために一肌脱いでもらいたいんだ。……実はさっきまで翼クンたちと一緒に夕食を共にしていてね。そのときは良かったんだが、彼らの家から離れれば離れるほどに以前の彼に戻ってしまう。こうなったら次は君に力を借りるしかないなと……。場所は例の運動公園がいいと思う。そこで落ち合おう。……うん、早ければ早いほどいいね。持ち物はボールとグラブがあれば十分。バットは僕が持って行く。……ああ、頼りにしているよ。それじゃあ、また明日」

「……あのー。一体誰に電話を?」

「舞クンのお父さんだよ。今日はもう遅いし、僕らは飲んでしまっているから、明日の朝に会えるよう頼んでおいた」

「……野球をするんですか? だけど、俺……」

「僕の千本ノックはまだ終わっていないよ。まだまだいけると言ったのは君ではなかったかな?」

「…………」
 酔った勢いで放った自分の言葉を呪った。


◇◇◇


 まだ寝ていたかったのに、いきなり部屋のドアとカーテンが開けられた。慌てて飛び起きて時計を見ると、七時少し前だった。

「いつまで寝ている? 昨日の言葉を忘れたわけではあるまいな?」

「昨日……」

「千本ノックの続きをするという話だ」
 永江さんの、ドスの利いた声を聞いてゾクッとする。

「あ、はい。すぐに支度します……」
 恐れを成して行動を開始した俺を見た永江さんは笑った。

「ゆっくりで構わないよ。野上クンには、君の身支度が調い次第、集合時間を伝えるつもりだからね」

 永江さんが俺を揶揄うためにわざと怖い顔で入室したのだと知る。

「……いえ、すぐに支度します」

「相変わらず真面目だな、君は。もっと肩の力を抜きたまえ」
 永江さんはもう一度笑って俺の両肩に手を置いた。
 



 簡単な朝食を済ませ、ランニングをしながら小父さんと落ち合う予定の運動公園に向かう。小父さんは、俺たちが近くまで行くと駐車場に停めてあった車から出てきて手を挙げた。

「ったく……。翼のところに行くのは早いって言ったのに」
 いきなり愚痴をこぼされた。しかし永江さんがフォローする。

「鈴宮家に行った経緯は追々話すが、結果的には何も問題はなかったよ。翼クンや悠斗クンが上手くいなしてくれた。やっぱり彼らはさすがだね」

「そうでしたか……。しかし効果は一時的だったようですね」

「ああ。夕べ電話して帰宅した後なんて、部屋に引きこもったきり出てこなかったからな。朝になってもそんなだから無理やり引っ張り出してきたんだよ」

「それでこんなにも不機嫌そうなのか……。しっかし、一肌脱いで欲しいと言われてやることが野球なんだから、先輩も意地悪だよなぁ」

「意地悪なものか。僕は圭二郎のことを思って、敢えて野球という対話法を選んだまでだよ」

「あー……。水沢みずさわ先輩の時もそうでしたよね。野球で対話。なるほど確かに、そういうことなら理解できます」

 詳しいことは分からないが、どうやら今から野球を通しての対話が始まるらしい。

「……本当に千本ノックをするつもりなんですか?」

「それは比喩だよ。今から僕と野上クンとでバッテリーを組み、君は来た球を打つ。それを、僕がいいと言うまで繰り返すんだ」

「え? 小父さんがピッチャー?」

「その反応から察するに、初耳かな? 実は彼は君のお父さんとピッチャーのポジション争いをしたことがあるんだよ。最終的にピッチャーにはならなかったが素質は充分。庸平がごちゃごちゃ言ってきたときも、彼の見事な投球であいつを三振に打ち取っている」

「いやー、あれは相手が同年代の水沢みずさわ先輩だったから三振に打ち取れたのであって、現役の圭二郎相手じゃさすがに……」

「やってみなければ分からないだろう? さぁ、始めよう」



 言われるがままバッターボックスに立ち、小父さんと向き合う。キャッチボールをしたことは何度もあるが、こういう形で向き合うのは初めてかもしれない。ピッチャーマウンドに立つ小父さんの表情がいつもよりキリリとして見えた。

 投げられた球に照準を合わせる。プロの速い球に目が慣れているせいか、小父さんの投げるスローボールに初球はタイミングを崩される。が、一球見送った後の三球目。球筋を読み切ってあわやホームランという球を打ち返すことができた。

「うわぁ、さっすが……」

「野上クン、感心している場合じゃないぞ。どんどん投げてくれ」

「はい!」
 一球打ち返したくらいじゃ、永江さんは認めてくれないようだ。結局永江さんが持参した球がすべてなくなるまでバッティング練習は繰り返された。

「ひえ~、もう無理!」
 小父さんはヘロヘロっとその場に腰を下ろした。そこへ永江さんが歩み寄る。

「ご苦労。君のお陰でいい汗を流すことができたよ」

「え~? 汗~?」

「見たまえ、圭二郎のすがすがしい顔を」
 言われた小父さんがピッチャーマウンドから俺を見る。

「ああ、本当だ。確かにいい顔をしてる。なるほど、先輩の目的がようやく分かりましたよ」

「あのー……。俺の顔、そんなに変わりましたか?」
 あまりにもじっと見られるので顔をそらしたが、逸らした先に永江さんが回ってきて目を合わせようとした。

「今、どんな氣分だ?」

「……ほどよく身体を動かせた氣持ちよさと、初めて小父さんとやり合えた満足感とで心は穏やかです」

「だろう? 勝負事から降りて、ただ野球を楽しむことができたときは決まってそういう感想になる。君は野球が嫌いなわけじゃない。今日はそれを実感できたんじゃないか?」

「……そうですね」

「いま君はプロ野球選手ではなく、何者でもない本郷圭二郎としてここにいる。そして純粋に野球を楽しんだ。その感覚を忘れないことだ」

「……それは、どういう?」

「今の心の軽さを感じるんだ。そのニュートラルな心の状態を覚えておくこと。……今、一番やってみたいことは何かな? なんでもいい、思いつくままに言ってみたまえ」

「急にそんなことを言われても……」
 しかし黙っていることは許されない雰囲氣だったので一生懸命考える。その時、不覚にも腹の虫が鳴いた。

「……ああ、そうだ。小母さんが握ったおむすびが食べたい。昔、よく作ってもらったやつ」
 言ってて子供じみているなと思ったが、二人は顔を見合わせて微笑んだ。

「それでいい。野上クン、頼めるかな?」

「そういうことなら早速連絡して、準備しておいてもらいます」

「え、でも……。いいんですか?」

「何言ってんだよ。今も昔も、飯が食いたいって言えばこまっちゃんはいつだってすぐに炊いてくれる。野球人が大飯食らいなのはよーく知ってるからな」




 その足で小父さんの家に向かう。到着して中に入るなり、米の炊けるいい匂いがした。

「お久しぶりね、けいちゃん。会うのは何年ぶりかしら?」
 玄関に顔を出した小母さんは、最後に会ったときよりもずっとぽっちゃりしていたが、おっとりした口調と笑顔は昔のままだった。

「あたしのご飯が食べたいって言ってくれて本当に嬉しい。もう少しで炊き上がるから待っていてね。座っている間に、『何結なにむすび』がいいか考えておいてちょうだいな」

「あ、はい……」

「えー? 本当に圭ちゃん? 昔はもっと元氣よく返事をしてくれたのに!」

「駒っちゃんの飯食ったら多分、元氣になるよ。大丈夫だよ、なぁ?」

「あ、はい……」

 同じ返事を繰り返したのがいけなかったのか、小父さんも小母さんも声を上げて笑った。



 程なくして炊飯が終わり、頼んでおいた梅干しおにぎりが食卓に並ぶ。
「圭ちゃんは確か、爆弾みたいにノリを全体に巻くのが好きだったわね?」

「よく、覚えていますね……」

「さぁ、召し上がれ。オジさんたちもどうぞ」
 大皿に並んだおにぎりの一つを手に取り、口に運ぶ。その味は昔と全く変わらなかった。自家製の塩分たっぷりの梅干しが懐かしい。

 梅干しの果肉と米を噛んでいるうちに、どういうわけか左目から一筋の涙がこぼれ落ちた。戸惑っていると今度は反対からも雫が落ちる。慌てて顔を伏せるが涙は止まらない。

 そこへ小父さんからティッシュ箱が差し出される。
「す、すみません……」

「謝ることはないよ。泣きたいときは泣けばいいんだってさ。カウンセラーやってるおれの弟が言ってたぜ」

「でも、こんなことで泣くなんて……」

「こんなこと……と君は言うが、僕だってうまい飯に心を動かされたことはあるよ。泣くほど旨かったなら素直に泣くといい。大丈夫。ここには君の涙を笑ったりさげすんだりする人間はいないよ」

「…………!」
 永江さんの言葉が刺激となったのか、我慢しようにも涙が止めどなくあふれ出てきた。

「どうして……。どうしてこんなにも良くしてくれるんですか。こんな俺に優しくしてくれるんですか……」

「それはね、みんなあなたのことが好きだからよ」

「そうそう。放っておけないんだよなぁ」
 声を絞り出すように問うと、小母さんと小父さんが優しく答えてくれた。

「うあぁぁっ……!」
 溜め込んできた感情を抑えることができず、声を上げて泣いた。




12.<舞>

 兄から、「圭二郎を自宅に招いて夕食を共にした」と連絡を受けたのは昨晩のこと。電話口の兄の声から察するに、圭二郎の調子は上向いているようだったが、昨日に引き続き店にやってきた圭二郎は、とてもじゃないが元氣そうには見えなかった。

 今日の同伴者は父と永江さん。これは何かあると思ったら案の定、永江さんが理人さんを手招きし、事情を話し始める。

「体操クラブの時間だけ、彼を預かって欲しい。今日は一人にしておける状態じゃなさそうなんでね……」

「それはいいっすけど、何があったんです?」

「おれの奥さんの手料理を食っただけなんだけど、感情の堰が切れちまってさ。今、精神が不安定なんだ」
 父の言葉が耳に入り、思わず圭二郎の顔を見る。

 今日はいつものように顔を隠してはいない。だが、背中を丸めてうつむいたその姿を見て本郷圭二郎だと氣付く人はおそらくいないだろう。全く覇氣が感じられなかった。

 母は料理が得意で、わたしたちが子供の頃は良くおにぎりをこしらえてくれたものだ。もしかしたら父の言う「奥さんの手料理」とはそのことではないだろうか。

「そういうことなら、おれが引き受けましょう」

 理人さんは圭二郎の顔をのぞき込んで諸々のことを察したのか、もう一人の店主で双子の兄の隼人さんとわたしに店の仕事を任せ、圭二郎と共に店の奥に下がっていった。

「……悪いな、舞。圭二郎あいつとはできるだけ会わせないようにしたかったんだけど、状況が変わっちまってな」

 二人の姿が完全に見えなくなったところで父が言った。

「……一人にしておけないくらい病んでるってことだよね? 大丈夫なの……? いっそのこと、アキ兄さんにカウンセリングしてもらった方が……」

 アキ兄さんはわたしの叔父に当たる人物で、職業はカウンセラーだ。失恋のショックで落ち込んでいた際にはわたしも世話になった。しかし父は首を横に振る。

「この状態が続くようならそれも考えた方がいいだろうけど、今のところは様子見だな。おっと、だからって舞はあいつに関わらなくていいからな? あいつのことはもう恋愛対象じゃないんだろう?」

「それは、そうだけど……。一応、幼なじみだし……」

「舞クンは優しいな……」
 永江さんがぽつりと言った。
「うん、野上家の人はみんな優しい。だからだろうね。僕も圭二郎も君たちの優しさに触れて病んだ心を回復させることができる」

「…………」

「安心したまえ。圭二郎はちゃんと回復してきているよ。彼のことは僕らに任せてくれ」

「……ありがとうございます。お父さんも、ありがとう。だけど……」
 言うかどうか迷ったが、やはりわたしの氣持ちは伝えた方がいいと思い、正直に話す。

「……実は彼のファンクラブを作ることを検討しておりまして、理人さんにも動いてもらう予定になってるんです。昨日、食卓を囲んだときにお兄ちゃんから聞きませんでしたか?」

「ほう? それは初めて聞いた。……当然ながら本人の耳には入っていないね?」

「ええ……。なので、お気遣いは有り難いのですが、わたしはわたしなりのやり方であいつと関わっていこうと思ってます」

「なるほど。僕のファンクラブを運営している大津クンの入れ知恵という訳か」

「いいえ……。言い出したのはめぐちゃんなんです。永江さんを救ったときのように、自分には多くのファンがいるんだと分かれば、もう一度球界に戻ろうと思えるんじゃないかって」

「……さすがは、めぐさん。やはり着眼点が違うな」
 実は永江さんを真に救ったのはわたしの従妹、めぐちゃんだと聞いている。故に、その笑顔に一目惚れした永江さんは、二児の母になっためぐちゃんのことを今でも女神のように崇めている。

 父が腕を組みながら言う。
「確かに、あいつはどうも自分が孤独で、誰からも愛されていないと思い込んでる節がある。さっきもおれらに優しくされて号泣してたし」

「それでここへ連れてきたって訳ね?」

「ああ……。そういうわけだから、少しの間あいつのことを頼む。クラブが終わったら迎えに来るから」

「分かった」

 その時ちょうど二人組のお客さんが入ってきた。父たちはその人たちと入れ替わるように出て行った。




13.<圭二郎>

 俺が取り乱したのを見て心配になった永江さんたちは、自分たちが体操クラブで不在の間、ワライバに俺を預けることを決めた。

 ワライバに着くと、昨日は会うことの出来なかった舞の姿が目に飛び込んできた。しかし、今はとてもじゃないが目を合わせることも、話すこともできそうになかった。うつむく俺の隣で永江さんがマスターに訳を話すと、すぐに店の奥に案内された。

「テキトーに座って。今、コーヒーを淹れてやるから」

 二人分のコーヒーがテーブルに置かれ、マスターも椅子に腰掛けたところで話が始まる。

「……きっとあんたも、野上センパイの優しさに触れて我慢してきたものが溢れ出たんだろう。本当にあの人は、弱ってる人の心を抱きしめるような言葉がけがうまいよな。おれも、高校生のときはやられたもん。それ以来、センパイのことは神様のごとく尊敬してる」

「……分かる氣がします」

「でも、あの人はただ優しいだけじゃないんだ。そこにはちゃんと厳しさもある。こっちが自分で氣付き、成長できるようにもしてくれるっていうのかな? おれみたいな、ただの野球馬鹿じゃなくてホントに頭がいい人。人のために行動できる人。そんなセンパイへの憧れが今のおれを作り上げたと言っても過言じゃないよ」

「……マスターが小父さんのことを尊敬しているように、小父さんもマスターを信頼しているのが伝わってきます」

「まぁ、長い付き合いだからなぁ。ここ数年でもいろいろあったし」

 そこで一旦話は途切れ、互いにコーヒーをすする。

「……すみません。次に会うときは自信を持った状態で会いたかったのですが、情けない姿を見せることになってしまって……」

 言ってしまってから、これはマスターに対する謝罪ではなく単なる言い訳だと氣付き、激しく後悔する。しかしマスターはニコニコしている。

「昨日の今日だろう? 一日で自信満々になれるんだったら最初から悩んでないって。今は落ちるとこまで落ちて、そこから復活すりゃあいいさ」

「……俺を罵倒しないんですか?」

「まぁ、おれ個人の意見としてはもうちょっとシャキッとしろよって氣持ちはあるよ。でも、野上センパイならこういうだろうなって考えてから発言すると今みたいな言葉が出てくる。……あの人は、荒れ狂ってたおれを最後まで信じてくれたし、暴れて部活動停止になったときでも許してくれた。おれが自分の力で立ち上がれるまで見守ってくれたって言うのかな。だから、圭二郎くんが自信喪失して何の輝きもない状態で目の前にいたとしても、いまは、、、尻を叩いてまで動かそうとしたり声を荒らげたりはしない。だって、当の本人はちゃんと自分が情けない姿でいることが分かってるんだもん。だったら敢えてそれを指摘する必要はない。おれはただ話を聞いて、本人が今どういう氣持ちでいるか、そして今後どうしていきたいと思っているのか、自分で氣づけるようにサポートするだけだよ」

「……さっき小父さんと小母さんにも聞きましたが、どうしてこんなにも良くしてくれるんですか? こんな俺に、なぜ……?」

「……高校時代のおれに似てるから救ってやりたいってのもあるけど、一番は期待してるから、かな」

「えっ……」

「おれ、好きなんだぜ? 圭二郎くんのバッティングとかセンターからまっすぐに投げれる肩の強さとか。ヒーローインタビューでの、自信たっぷりのしゃべりも好きだし」

「…………」

「おれが捕手だったら……って、時々想像するんだ。ワクワクするだろうなって。だから、ちょっと業界のお偉いさんから目をつけられたくらいでやめちゃうなんて、メチャクチャもったいない」

「…………」

「もちろん、続けるかやめるかは本人の自由だ。マイマイを説得してこの先一緒に生きるのも一つの人生だと思う。だけど、野球が好きならさ、もうちょっと続けてみてもいいんじゃね? っておれは思っちゃうわけ」

「……よく、わかりません。それはつまり、どういうことですか?」

 期待してるとか、好きだからとか、そんなふうに言われても俺にはいまいちピンとこない。もっと俺の心を揺さぶる別の言葉を待つ。

「昨日も言ったじゃん」
 マスターは俺の健忘ぶりに呆れているようだ。笑いながら言う。
「なら、こう言えば分かる? 要するに、おれはあんたのファンなの! だから復帰して欲しい。そう言ってるの!」

「ファン……? 俺個人の……? 父ではなく……?」

「おいおい、どんだけ父親の陰に自分を隠せば氣が済むんだよ? おれは、本郷圭二郎のファンだって今言ったばっかりだろ? 自信がないの?」

 そう問われて少し考え、ゆっくり答える。
「……俺が野球選手になった理由は消極的で、親や兄がやっていたから。あるいは幼少期からやってきたから。やりたい職業がほかになかった、と言った方がより正確かもしれません。だから今回のことを機にやめたって、なんの未練もないんです」

「ホントにぃ?」
 マスターは疑いのまなざしを向け、その後で思い切りよく立ち上がった。

「外に出よう。ちょっと付き合って」

「え……?」
 俺は目を疑った。マスターが、店の隅に置いてあったグラブとボールを手に取ったからだ。

「……あのー、午前中も小父さんたちと野球をしてきたところなのですが」

「そんなの知るかよ。おれはしてないもん。ほら、行くぜ」

「…………」
 開け放たれた裏口。先に出るよう促されては断ることもできなかった。



 連れて行かれたのはすぐ近くの公園。マスターは少年のように笑顔を振りまきながらストレッチをし、それから俺に向かって軽くボールを投げた。

「あんたがマイマイを訪ねてきた日からずっと、一度はキャッチボールしてみたいと思ってたんだよねぇ」

 返球しながら尋ねる。
「……なぜですか? 俺の……ファンだから?」

「もちろんそれもあるけど、あの日のあんたの言葉がずっと引っかかっててさ。マイマイが結婚してくれるなら野球を辞める覚悟があるってやつ。その覚悟がホンモノかどうか、確かめてみたいって氣持ちがずっとあってね」

「俺はいつでも辞められます」

「なら、逃げ回ってないでさっさと退職願いを出せばいいじゃん。でも、そうしないのはなんで?」

「それは……」
 痛いところを突かれ、視線を落とす。と、速い球が飛んでくる氣配がした。慌てて顔を上げ、捕球する。

「その、うじうじした感じ、おれは嫌いだね。マイマイがあんたを見限ったのはそういうところだと思うよ。そんなんじゃ、野球以外の職に就いたところでどうせうまくいきっこない」

「……今は頑張ろうにも、かつてのようなエネルギーが湧いてこないんです。でも、それさえ湧いてくれば……」

「そりゃあそうだろう。湧いてくるはずがない」
 マスターには俺のエネルギー源が何なのか、分かっているようだった。
「……あんたはずいぶん頭でっかちのようだ。今からおれが、あんたの頭を空っぽにしてやろう。そうしたらきっと、今言ったことの意味も分かるはずだよ」

 よっしゃ、投げてこい! マスターがグラブを構える。そこからしばらくの間、俺とマスターとの投げ合いが続いた。



 十五分ほどキャッチボールをしたところでマスターの息が上がり、一度中断することになった。「もう、やめちゃうんですか」と聞くと、「うっせぇ、休んだら続けるよ!」と返された。

「……っていうかさー。やっぱり野球やめる氣、ないっしょ。投げ合ってるときの顔見たら分かる。すんげーワクワクしてたもん。好きなのが伝わってきたよ」

「……そんなこと、ないです」

「あのさ、理由なんて要らねえんだよ。好きだからやってる。それでいいんじゃね? おれが高校の時、野球部にいたい理由がまさにそれだったぜ?」

「高校生ならそれでもいいと思いますよ。でも……」
 マスターの言葉に反論する。
「プロはそれじゃダメなんです。憧れられる存在であること、成績を残すこと、チームの勝利に貢献することが求められる。それが満たせない人間はあの世界にはいられない」

「だったら、その原則ごと変えちまえよ」

「え……」
 あまりにも突飛な提案に思考が停止した。

「ルールを変えちまえ」
 マスターはもう一度言った。

「業界の裏側は永江センパイから聞いてよく知ってるよ。昔はそれで良かったのかもしれないけど、今の時代とはマッチしてないとおれも思う。若い人は耐えられないだろうなとも。きっと、黙っちゃいるが圭二郎くんと同じような考えを持ってる若いのはいっぱいいると思う。おそらく圭二郎くんが先頭に立って改革を促せばみんなついてくる。そうしたら、中の仕組みもがらりと変わる。で、選手たちがこれまで以上に活き活きと活躍できる野球界が出来上がる、と。……うん、いいことずくめだよ」

「俺が……改革を……」

 この話は以前、永江さんにもされた。球界に残って改革するのはどうか、と。その時はとんでもないと反論したが、今はなぜかそういう氣持ちは湧いてこなかった。

「マスターは、俺にはそれを成し遂げるだけの力があるとお思いですか?」

「思ってるから言ってるんだろう?」
 何度も言わせるな、とでも言うかのように彼は眉を顰めた。

「それは本心からですか? それとも、敬愛する『野上センパイ』ならこう言うだろうなと思っての発言ですか?」

 あんまりしつこく聞いたからか、マスターはついにしびれを切らし、グラブで俺の尻を叩いた。

「いい加減にしろよ。いくらおれが野上センパイに憧れてるからって、いつまでもニコニコ話を聞いてもらえると思うな。あの人なら……。ひょっとしたら仏の顔も三度と言わず、五度くらいは許してくれるかもしれないけど、おれはもう我慢できねえ。そのねじ曲がった根性をたたき直してやる!」

 マスターは怖面で俺を睨むと、いきなり遠投した。慌てて追いかけて捕球を試みるが、あと一歩のところで捕り逃す。

「遅いっ!」

 怒られながら一つしかない球を返球する。

「次は捕れっ!」
 再び遠投される。今度は間に合ったと思ったが、油断したのがいけなかったのか、捕りこぼしてしまった。

「馬鹿野郎! 集中しろ! ……返事は?!」

「はい……」

「聞こえねえぞ!」

「……はいっ!!」

「ちゃんと返事できるじゃん。よし、次こそ捕れよ!」

 野球に対するまっすぐな想い。妥協しない姿勢。そして俺を威嚇するような目はかつて見た鬼の永江を彷彿とさせた。

 怖かった。まともに目を見ることができなかった。ちゃんと捕れ、と言われたのに、何度も捕り損なう。

 マスターはいったい何を考えているのか……。なぜ、こんなにも熱くなって俺をしごこうとしているのか……。

 分からない。
 分からない。
 分からない……。

 そのうちにマスターが肩で息をし始め、ふらふらっと膝をついた。

(俺のことは放っておいてくれればいいのに……。こんなことをして、何の意味があるというのか……。)

「……マスター。もう終わりにしましょう」
 苦しそうに呼吸を繰り返す彼に向かって言った。

「まだだ……! まだ、終わるわけにはいかない……!」
 しかしマスターは眉をつり上げ、俺を睨み付けた。

「どうしてですか? こんなにも息が上がってるというのに?」

「おれじゃなくて自分の心配をしろっ……! いつまでも逃げるな……! あんたの中にいる『鬼』と対峙するんだよっ……!」

(俺の中にいる『鬼』……!!)
 胸の奥がざわついた。動揺と興奮とが同時に沸き起こる。
(そうか……。そういう、ことだったのか……。)

 睨む目をまっすぐ見つめ返す。
「マスターが急に『鬼の永江』に見えたと思ったら……。あなたは……あなたは俺の中の『鬼』と向き合えと……。そうおっしゃいたいのですね?」

「いつまでもかくれんぼするな、って言ってんだよ……。みんなに優しくされたことでへたれ、、、ちまったなら、おれの中に残ってる『鬼の永江』を使ってあんたをしごく。やる氣を取り戻すまでな!」

「そこまでして、俺にもう一度野球を……」

「苦しいだろう? 逃げ出したいだろう? ……いや、もうあんたは充分逃げてるよな。だけど、その逃げ道の前に今おれが立ち塞がっている。もし、おれを前にしてもなお逃げる道に進みたいというなら完膚なきまでにおれを倒せ。だけど、ちょっとでも迷いがあるなら立ち止まって『鬼』と向き合え」

「…………」

 返す言葉が見つからなかった。それはすなわち、俺の中に迷いがあることを意味していた。

 舞を訪ねてこの地にやってきてから数週間。氣付けばたくさんの人と出会い、そのたびに慰めの言葉をもらった。会う人会う人、皆優しくて、何度涙したか知れない。俺の選択は間違っていなかった。そう確信しながらも、マスターの指摘通り、すぐに辞職願いを出すに至っていないのは、野球を辞めた後の未来が思い描けていないから。舞さえ首を縦に振ってくれたなら、俺はいつでも辞めるつもりでいるのに、それが叶わない。だから宙ぶらりんの状態でいる……。

 そう。俺はずっと、舞の決断に自分の人生を委ねようとしてきた。でもきっと、それじゃあだめだとマスターは言いたいのだ。本当はお前自身にも内なる思いがある。それを掘り起こして正面から向き合い、その上でどうしたいのか自問自答しろと……。そう言いたいのだろう。

 マスターが身震いし、腰を浮かせた。引き上げる合図だろうか……と思ったその時、公園に一組の親子がやってきた。小学生になるかならないかくらいの男の子と父親らしき男性は、向かい合うなりキャッチボールを始める。何球か投げ合ううち、球が逸れて俺の足下へ転がってきた。

 拾うかどうか、迷った。が、氣付いたときには球を拾い上げていた。少年が俺を見つめている。

「……はい、どうぞ」
 目を見つめ返しながら言った。すると、少年がにわかに興奮し始めた。

「えっ、えっ……! も、もしかしてお兄ちゃん、本郷圭二郎……?」

「ええっと……」
 やはりバレてしまった……。しかし、顔を隠すものは持っていない。助けを求めるようにマスターを見る。

「えっとー……じゃねえよ、馬鹿!」
 助けてもらえるどころか、蹴りを入れられた。
「あんたは名無しか? そんなに自分の名前に自信がないならおれがその名を名乗ってやってもいいんだぜ?」

「…………」

 やりとりをしているうちに、父親の方も近寄ってきた。

「ね、ね、お父さん! この人、本郷圭二郎に似てるよね?!」
 少年に尋ねられた父親は遠慮がちに俺の顔を見たが、にわかには信じられないといった様子で首をかしげる。

「……確かに似てるけど、こんなところにプロ野球選手がいるわけないよ。……すみません、子供が変なことを」
 父親が子供の頭を下げさせようとした。

(子供の前で、嘘はつきたくない……。)

「……いえ。お子さんの見る目は正しいです。今は訳あって田舎で静養中なんです」
 慌ててそう告げた。親子は揃って目を見開いた。

「じゃあ、本当に本郷圭二郎……さんなんですか」
 頷くと、父親はにわかに目を輝かせた。
「実は親子揃って東京ブルースカイの……とりわけ圭二郎さんのファンでして……。いつか間近で見てみたいと思っていたんです! まさかこんな形でお目にかかれるなんて……。あの、握手をしてもらっても……?」

「あ、はい……」

「うわぁ、嬉しいなぁ! ……ほら、コウタロウも」

「え、僕もいいの?」

「いいよ。ほら握手しよう」
 手を差し出すと、コウタロウと呼ばれた少年は飛び上がって喜んだ。

(俺と握手をしただけで、こんなにも喜んでくれるのか……。)
 少し緊張が解けた。

「もしかして息子さんのお名前はあの人、、、から取ったんですか?」
 父親に問うと、彼は大きく頷いた。

「ええ。永江孝太郎さんみたいな野球選手になって欲しいと思ってつけました。自分が捕手の時に憧れていた人です。引退されたときはとても寂しかったのを覚えています」

「永江さんのファンだったんですね?」

「プレイングはもちろんのこと、理知的で、はっきりと物を言うところが好きでした。普段は仏頂面なのに、チームが優勝したときには満面の笑みで仲間と喜ぶ。あのギャップもたまらなかったですね」

「そうですか……」

 俺は永江さんの「鬼」の部分、冷徹な部分にしか目がいかなかったが、ファンはそんなふうにみていたことを知る。そういえば、水沢さんも似たようなことを言っていた。永江さんの素の部分を知れば誰でも彼を好きになる、と。もしかしたら、チームが優勝したときに見せた笑顔や行動こそが本来の彼であり、冷徹な部分はそれを隠すための仮面だったのかもしれない。その二面性が彼の魅力、ということなのか……。

 考え込んでいると、横からマスターが店の宣伝をし始める。

「あー、そうだ。もし良かったら、うちの喫茶店に来ませんか。もうちょっとしたら今話していた永江孝太郎が店に来ますよ。実は永江さんは、自分が高校野球部時代にキャプテンだった人で、今も親交があるんっすよ」

「ええっ!! それは本当ですかっ?! でもそんな大物と一般人である私たちが会ってもいいんでしょうか……」

「ぜんっぜん、大丈夫っす。ファンクラブ会員限定ではありますが、店には永江さんが現役時代に着ていたユニフォームなどを展示したスペースもあります。良かったらこれを機にファンクラブに入会して、見学してってください」

「喫茶店にそんなスペースが……? そういうことなら是非伺います!」
 父親は息子以上に胸を高鳴らせている様子だった。



 店に戻るとちょうど永江さんたちが俺を迎えに来たところだった。マスターがことの経緯を話すと永江さんは快く写真やサインに応じた。笑顔や言葉は少なかったが、父親は大喜び。その場でファンクラブにも入会し、用品が展示してあるスペースを見学し始めた。

「本郷圭二郎さん。僕にもサイン、してくれる? このボールとグローブに」
 父親が永江さんに夢中になっているあいだ、少年の方は俺にサインを求めた。

「……俺で、いいのかな?」

「僕は本郷圭二郎のファンだから」

「ファン、か……。分かった」

 永江センパイが使ったペンで圭二郎もサインをした。少年は満足そうにそれを眺め「一生大事にする!」と、すきっ歯を見せて笑ったのだった。




14.<舞>

 圭二郎が理人さん始め、男性陣の世話によって少しずつ回復しはじめてきた頃。わたしは静かにユージンとの距離を縮めていた。

 忙しくて会えない、寂しい、って我慢するくらいなら、いっそのこと同棲したい――。

 ユージンからそう提案された時にはびっくりした。けれど、飛び上がりたいほど嬉しかった。わたしたちはまだ付き合って日が浅い。互いのことをよく知らないうちから同棲は早すぎる、と周りは言うかもしれない。しかしそれを逆手にとって、よく知るために同棲しようというのがわたしたちの考えである。

 以前のわたしならきっと、世間体を氣にして拒んでいたことだろう。でも、兄夫婦や悠斗さんたちと暮らす中で常識という殻を破ることを覚えたわたしは、心の声に従って「イエス」と答えることが出来た。失恋を乗り越え、新たな一歩を踏み出せたのは大きい。とても自信がつく出来事でもあった。


◇◇◇



 ユージンと同棲の約束をした報告がてら、顔を見せておこうと久しぶりに鈴宮家を訪問する。皆、仕事を終えた時間ということもあり、家族総出で出迎えられる。

「こんばんは。先日は圭二郎がお世話になりました」
 面倒は見たくないと言っていた兄が自宅に招いてまで世話をしたというので、まずはそのお礼を言う。
「ありがとね、お兄ちゃん。圭二郎、覆面をやめれるくらいには回復したっぽいよ」

「あー、それはどうだろう? やめたって言うより、出来ないんじゃねえかな? 実はこれ、忘れていったんだ」

 玄関先に置かれた紙袋には、圭二郎の帽子とマフラーが入っていた。

「忘れていったって……。あれから何日も経っているよね? 取りに来ないの?」

「今のところは連絡もない。まぁ、舞の言うとおり、もう覆面はいいやってなったから取りに来ないだけかもしれない。俺と話しているときも、そういうのどうでも良くなったって言ってたし」

「なら、わたしが届けるよ。時々お店に来る永江さんに渡すことも出来るし」

「余計なことはするな」
 二人で話しているところへ悠斗さんが加わる。

「渡してしまえばまた覆面したくなるかもしれない。それに、舞が渡しに行ったら圭二郎が勘違いをする恐れもある。あいつのことはおれたちに任せて、舞は自分の恋愛に集中するんだな」

「あ、自分の恋愛と言えば……」
 ここへ来た目的を思い出したので、居間に足を向けながら言う。
「悠斗さんのアドバイスのお陰でわたしたち、近々一緒に暮らすことになりそうです。ユージンって忙しいでしょう? だから、共同生活をしながらお互いのことを知っていこうって話になって」

「へぇ! もうそこまで話が進んだのか。舞、やるじゃん」

「あ、でもこの話はまだお父さんには言わないでください。言えば絶対に、早すぎる! って文句を言ってくると思うので」

「確かにニイニイなら言いそうだなぁ……。ま、万が一そんなふうに言ってきたときはおれがひとこと言ってやるよ。ユージンほどの男はそうそういない、ってな」

「よろしくお願いします」

 頭を下げると、兄が疑問を投げかける。
「そういえばこの前、舞の恋人をバイクに乗せてやったんだよな? 男は乗せないって公言してる悠斗が。そんなにいい男なの?」

「ああ。翼も今度話してみ? 圭二郎よりよっぽどしっかりしてる」

「悠斗がそう言うんじゃ、期待できるな。次に会う時にはしっかり話させてもらおう」

「ねえねえ、舞ちゃん、晩ご飯食べていくでしょ? 今すぐ準備するから、待っててね」
 台所からめぐちゃんの声がした。

「いつもありがとう。じゃあ、その間に子供たちの面倒を……」
 見ておく、と言いかけたところでインターフォンが鳴る。
「あ、わたしが出るよ」
 立っていたついでに玄関に舞い戻り、返事をしながら引き戸をがらりと開ける。が、戸の前に立っていた人物と目が合い、青ざめる。

(圭二郎……!!)
 インターフォンの室内モニターを見ずに応対したことを後悔した。

 向こうも驚いた様子で目を見開いている。
「来てたのか……」

「……何しに来たのよ?」

「忘れ物を取りに」

「ああ……」
 事前に話を聞いていたので、玄関先に置いてあった紙袋を手渡す。
「キャップとマフラーはこれよ。用が済んだなら帰って」

「舞に会っちゃったら、すぐに帰るわけにもいかないな……。ちょっと話せる?」

「嫌よ」

「どうして? 俺のこと、今度こそ嫌いになったの?」

「…………」

「話したいんだ。どうしても」
 わたしをまっすぐに見つめる圭二郎は、少し前とは違い自信を感じさせる目だった。

 迷っていると家主である悠斗さんがふらりと現れる。そして圭二郎を見るなり「よりによって舞がいるときに……」とため息をついた。

 悠斗さんの考えでは、圭二郎にはなるべく会わせないようにしたいとの思いがあったんだろう。しかし、向こうからやってきたのではどうしようもない。

「圭二郎が話したいというので少しだけ……。構いませんか?」

 恐る恐る尋ねると、悠斗さんは圭二郎の顔をじっと見つめた。圭二郎が目を背けないのを確認すると「余計なことをしたらすぐにつまみ出すからな」と言いつつも、許可してくれた。



 話す、と言ってもここは人のうち。しかも大家族が住んでいるので室内に二人きりで話せる場所などない。仕方なく庭先で話すことにする。

「……話って、何よ?」

「……俺さ、自分がどうしてプロ野球選手やってんのか、分からなかったんだ。周りに流されてここまでやってきたって意識が強くて。だから、舞への告白を渋っていたし、婚約を破棄したことで自宅待機になってもそこまで危機感はなく、いざとなれば簡単に辞めることだって出来ると思ってた。でも、マスターにしごかれてからいろいろ考えて、ようやく答えが出た」

 一週間ほど前。心が不安定になっている圭二郎を数時間だけ預かって欲しいと頼まれたワライバの店主マスター・理人さんは、圭二郎のあまりのふがいなさにしびれを切らし、店の近くの公園で部活動さながらの指導をしたと聞いた。

 圭二郎は続ける。

「俺は、親や周りの超一流選手と自分とを比べては、自分にゃ能力がないと勝手に落ち込んでいた。そればかりか、どうせ俺なんて……と卑屈になって野球を辞めようとすらしていた。要は、逃げてたんだ。腐りきった体制の野球界を悪者にすることによって、自分の弱さを正当化しようとしていたんだ。
 でも、マスターがそれじゃあダメだと教えてくれた。自分の中にある『鬼』と向き合えと言って、俺の目の前に、姿見の鏡ごとく立ち塞がってくれた。その鏡に映っている自分を見て、やっと分かった。
 俺は、怖かったんだ。自分が先頭に立ってこれまでの伝統を壊していくことが。みんな、このままじゃダメだと思ってるなら誰かやってくれよ、と……。でも、その氣持ちを押さえ込めば押さえ込むほど、内側でどんどん腐っていくのが分かった。自分が病んでいくのが分かった。

 マスターは、俺の内側の『鬼』が暴れたがっているのを見抜き、刺激してくれた。お陰で今はずいぶんとやる氣が湧いてきてる。……今日は忘れ物を取りに来たという体でここを訪れたけど、本当はこの話をしようと思ってきたんだ。翼や鈴宮さんにもずいぶん世話になったから、礼を言おうと思ってね」

「じゃあ、球界に残ると決めたのね……?」

「どうやら俺は……こう言っちゃあなんだけど、思っているよりずっと力があるし、努力してきたし、頑張ってきたらしい。それを見て評価してくれてる人もたくさんいると知った今、応援してくれるファンのためにも俺が前に出る必要があるんじゃないか……。今はそういう氣持ちになってる」

「そうよ! わたしだって圭二郎のファン。もっともっと頑張って欲しいと思ってるわ!」

「そう言ってくれて嬉しいよ。……こんな俺の隣に舞がいてくれたらもっと頑張れると思うんだけど、どうかな。氣持ちはまだ、変わらない……?」

 圭二郎はすっと前へ歩み出ると、わたしの両肩を掴み顔を寄せた。慌てて横を向く。

「……わたしを球界に巻き込みたくないから告白しなかったんじゃないの? 球界に残ると決めたなら尚更、圭二郎の思いは受け容れられないわ」

「既存の野球界には巻き込みたくなかった。けど、俺が新しい風を吹かせた野球界なら話は別だ。舞が再び野球をやりたくなるような球界にしたっていい。……舞、俺の思いを受け取ってくれないか」

「…………」
 圭二郎が再び顔を寄せてきた。唇が頬に触れるかもしれないと目を固く閉じたとき、急に氣配が遠のいた。

「余計なことはするな、と言ったはずだ」
 悠斗さんの声が聞こえ、目を開ける。彼が圭二郎の首根っこを掴んで引き離してくれたのだった。

 助けを求めるように悠斗さんの背後に回る。
「舞は部屋に戻ってろ」

「でも……」

「安心しろ。こいつはおれが責任を持って孝太郎さんに引き渡す」

「……分かりました。お願いします」
 圭二郎の視線を感じつつも、後のことは悠斗さんに任せようと決め、その場を後にした。




15.<圭二郎>

 鈴宮さんは舞が部屋に入るのを確認したあとで大きなため息をついた。

「……ったく。また孝太郎さんを困らせるような真似をして。今度こそ、どうなるか知らないぜ? とりあえず、いま連絡入れるから先を歩いてろ。おれは後からついてくから」

 逃げられそうもなかったので渋々言われたとおりに歩き出す。後ろでは鈴宮さんが永江さんに電話を掛けている。電話を終えた彼はもう一度ため息をつき、俺にまっすぐ歩くよう指示した。

「これ以上、舞を困らせるなよ」
 しばらく無言で歩いていると、鈴宮さんが釘を刺すように言った。

「困らせる氣はさらさらありません。俺はただ、好きだから一緒にいようと言っているだけです。それのどこがいけないのですか?」

「いけないっていうか……。強引な男は嫌われるぜ?」

 俺の行動のどこが強引だったのか分からず、首をかしげる。

「前の失敗を繰り返したくないんです。今度こそ、自分の思いを受け容れてもらうために積極的に行動する。そして舞の心を自分に向けさせる。たとえほかに好きな人がいたとしても」

「無理やりキスしたって女は振り向かないぜ?」

「そうでしょうか。今回は拒まれましたが、次こそは受け容れさせます」

「……どこから来るんだよ、その自信は」
 鈴宮さんが、何度目とも分からないため息をついた。分からないなら説明するしかないと思い、正直な氣持ちを話す。

「あなた方に、長年つけてきた仮面を剥がされた直後は不安な氣持ちもありました。しかし、今はかつての自信を取り戻しつつあります。自分には力がある。ファンもいる。それが分かったから。あとはここに舞がいてくれさえすれば……。俺の人生は一氣に輝きを取り戻すはずなんです」

「そうやってお前の人生に舞を巻き込むな。って言うかお前自身が舞に、野球から離れて生きろと言ったと聞いてるぜ?」

「考えが変わったんです。やっぱり俺の人生を支えてくれる人は舞しかいない」

「執念深い野郎だ。舞にはなぁ……」

 鈴宮さんの説教が始まりそうなところで、道の向こうから永江さんが走ってくるのが見えた。普段は穏やかな表情の彼だが、今は厳しい顔つきをしている。

「迎えに来てもらわなくても、ちゃんと連れて行きますよ」
 鈴宮さんが言うと、彼の眼鏡がギラリと光った。

「悠斗クンの厚意には心底感謝している。僕が憤っているのは圭二郎の行動だ。一度ならず、二度も無断で部屋を抜け出すとは……。しかも舞さんに交際を再度迫った? ここまで圭二郎の復活を願って協力してきたが、さすがの僕も堪忍袋の緒が切れそうだ」

「え……」
 息を呑む。無意識のうちに怒られると感じ、身を固くする。丸めた背中に案の定、厳しい言葉が振ってくる。

「本郷クンに……君のお父さんに連絡を入れた。僕のところではもう面倒を見ることが出来ない。今後は、親である君が責任を持って圭二郎を説得してくれと」

「そんな……!! それだけは勘弁してください……!!」
 思わず懇願すると永江さんに突き飛ばされた。

「いつまでも親から逃げるな……」

「ひぃっ……!」
 塀に身体を押しつけられた。永江さんが、これまで一度も見たことのない形相で譴怒けんどする。

「この先も野球を続けるつもりがあるなら、自分を苦しめてきた親を殴りつけてでも自分の意志を知らしめせ。思いをすべて吐き出せ。それが出来ないなら今すぐ野球界を去れ。今、すぐに、だ!」

「親を……殴る……? でも、そんなことをしたら……」

「守りに徹するというなら、所詮お前はその程度の人間と言うことだ。お前には考える頭はないのか? どうすればいいか、自分の頭で……この頭で、、、、しっかり考えろ!」
 脳天に人差し指が押しつけられた。穴が空くんじゃないかと言うくらい、力強く。

「……悠斗クンはここで帰れ。あとは僕が引き受ける」
 げんなりしている俺を一瞥した永江さんは、鈴宮さんに対してはいつものトーンでそう言った。

「……さっき舞に、圭二郎のことは任せろって言っちゃったんで、親御さんに引き渡すところまで見届けます。約束は守らないと」

「そうか……。すまないね、余計な心配をかけさせてしまって」



 こうして俺は、犯罪者のように両脇を固められた状態で実家へ連れて行かれた。前回と違い、今度は両親揃って部屋の前にいた。俺の到着をずっと待っていたようだった。

「ご面倒をおかけしました」
 父が頭を下げると、永江さんは俺の背中をドンッと押して突き放した。そのまま立ち去る彼に向かい、父はもう一度頭を下げた。姿が見えなくなったところで母親が口を開く。

「永江さんを怒らせるなんて。正氣の沙汰じゃないわ」

「俺は何もしてない」

「嘘おっしゃい。ここ数年はずっと穏やかだったあの人が、昔のような目つきであなたを突き放したのよ? 何もないわけ、ないじゃない」

「……とにかく、部屋に入ろう。話はそれからだ」

 父に促されて室内に入り、ローテーブルを挟む形でリビングのソファにそれぞれ腰掛ける。

 俺から話すことは何もないと、だんまりを決め込む。それが分かったのか、父が口火を切る。

路教みちたかに……野上小父さんに話を聞いたよ。お前がまだ野球をしたがってることを。愛情に飢え、過去にしがみついてることを。……路教から話を聞いて、氣付いたんだ。お前が婚約の件でおれたちに反発したのは間違いなく、おれたちへの恨みがあったからだと。それについて、おれたちは大いに反省しなければいけないと、話し合っていたところだった」

 申し訳なかった、と父は頭を下げ、遅れて母もそれに倣った。

「……詩乃しのからも謝罪の言葉を」
 父に小突かれた母は、戸惑いながらも口を開く。

「……忙しいことを理由に、あなたたちきょうだいの面倒を野上に託したのは紛れもない事実。ちゃんと話す時間すらとれず、申し訳なかったと思うわ。特にあなたのことは、物わかりのいい子だと思っていたから、こちらから何か言う必要もないと、安心すらしていた。でも、そうじゃなかったのよね……? あなたに反発されるまで氣付くことが出来なくてごめんなさい。もうあの頃に戻ることは出来ないけれど、もし赦されるなら、今からでも良好な関係を築きたいと思ってる。どうかしら?」

「…………」

 何を今更! と反発したい氣持ちと、譲歩してくれた親に対する赦しの氣持ちが同時に湧いてきて戸惑う。しかし、沸々とわき上がる怒りを静めることは難しかった。

「……謝れば赦されるとでも思ってるのかよ? 俺が子供の頃に受けた傷は……感じた寂しさは……そう簡単には癒やされないぞ」
 この際、これまで溜め込んできた思いをすべてぶつけてやろうと決める。

「俺がどれだけ愛されたかったか、知ってるか? 認められたくて始めた野球でも、褒められるのはいつも創太だった。それならばと甘えてみても受け容れられるのは妹ばかり。俺に掛けられる言葉はいつも『お兄ちゃんでしょう? 我慢しなさい』だった。唯一、親の氣を引くことが出来たのは、言われたとおりに行動したとき。だからこの年まで俺は、あんたらの言葉を『はいはい』と聞いてきたんだ。でも……。でもそのせいで俺は、大好きだった舞を傷つけ、一緒になる機会を逃してしまった。どんなに猛アタックしても、舞の心はもう戻らない……。この悔しさがあんたらに分かるか?! こんな俺が、あんたらを赦すと思っているのか?!」

 氣付けばソファから立ち上がり、ツバを飛ばしながら怒り散らしていた。両親はただただうつむき、俺の言葉を聞いている。

「どれだけ謝ったって俺は……俺はあんたらを赦さないからな!!」

「赦してもらえるなんて思っちゃいないよ……。おれたちが犯した罪は重い。自覚している。だけど、これだけは言わせてくれないか。……お前にはまだ先がある。だから、過去に囚われることなく、未来を見つめて歩んで欲しい。でないと、残りの人生すべてが台無しになってしまうよ」

「過去を忘れろって言うのか?!」

「ちがう……。囚われるなと言いたいんだ……。おれたちのことは恨んだままでもいい。だけど、お前には後ろではなく前を見て歩いてほしいんだ」

「そんな言葉で俺の考えが変わるとでも思っているのか?! ふざけるのも大概にしろ!」

 ちょうど、視線の先に俺たちきょうだいの写真が掛けてあった。自分が心にもない笑顔を向けているのが腹立たしくなり、怒りのままに壁から引っぺがす。そして床にたたきつけ、踏みつける。

「ちょっと、圭二郎……!!」

 母親が慌て出すも、構わず踏み続ける。やめさせようとする母を、父が止める。

「……圭二郎。しばらく頭を冷やせ。この前と同じ部屋を開放してやる。氣が済むまでそこで過ごせ。いいな?」

 父の手は震えていた。今にも俺に殴りかかりたいに違いなかった。受けて立っても良かったが、これ以上争うことに意味はないと判断し、言われたとおり部屋に引き籠もった。



 静かな部屋に籠もったときに感じたのは虚しさだった。愛されたいと願った俺の末路がこれか、と。

 殺風景な部屋にはしかし、前回泊めてもらったとき同様、片隅に布団が畳んであった。俺が再び戻ってくると思っていたのだろうか……。まさかこんな形で口論になり、閉じ込めるためにこの部屋を使わせることになるとは思ってもみなかったことだろう。

 暖房もない部屋で布団にくるまって過ごした。冬眠に近い状態になっていたのか、空腹も感じなかった。


◇◇◇


 ふっと顔を上げ、布団から出たときには夜になっていた。睡眠と覚醒を繰り返しながら、本当に丸一日をこの部屋で過ごしてしまったらしい。

 さすがに身体がだるかった。相変わらず空腹感はなかったが、その代わり、心にぽっかりと大きな穴が空いていてどうしようもなく苦しかった。

 耐えきれなくなった俺は、両親が寝付いたであろうことを確認し、重い身体を引きずりながらこっそり部屋を抜け出した。





16.<舞>

 圭二郎のその後が氣になったものの、その日は用意してもらった料理を食べ、悠斗さんの帰宅を待たずに自分の部屋に戻った。


◇◇◇


 翌朝、いつものように職場に向かい、エプロンを着けて店主に挨拶をする。
「おはようございます」

 ところが、今日は挨拶ではなくチラリと視線を向けられただけだった。何か、氣に障ることでもしただろうか、と不安になる。

「あのー……」
 問いかけようとすると、向こうから「話がある」と言われ、椅子に座るよう指示された。理人さんは静かに語り始める。

「……もう聞いてるかもしれないけど、四月からめぐっちが仕事復帰することになったんだ。最初はフルタイムじゃなくて、忙しい昼の時間からの再開になると思うんだけど、めぐっちが入る分、マイマイには少しずつ仕事を減らしてもらおうと思ってる。最終的には契約終了も視野に入れてる」

「え……」
 突然の話に言葉を失った。

 確かに、わたしは「めぐちゃんが産休・育休の間、彼女の代わりに働かせて欲しい」と言って雇ってもらった。だから、めぐちゃんの復帰と同時に解雇されるのは至極当然の流れだった。しかし、あまりにも突然すぎる。

「今初めて聞いた、って顔してるね。まぁ、めぐっちも言いにくかったんだろう。マイマイがここで活き活きと働いてるのは知ってるからね」

「…………」

「まぁ、四月までひと月以上ある。それまではマイマイに来てもらうつもりだし、その間に氣持ちの整理をしてもらえればいいから」

「はい……」

 理人さんとはすっかり懇意になっていたから、まさかこんなにもドライな対応をされるなんて思ってもみなかった。とはいえ、この店の経営状況を思えば、店員を二人抱えるのが難しいのも分かる。わたしが理人さんの立場でもきっと、途中から入った方を切るだろう。

 うつむいていると、もう一人の店主である隼人さんに声をかけられる。
「理人も苦渋の決断を迫られてる。あいつの心情も察してやってね」

「隼人さん……」

「舞さんが一生懸命働いてくれてるのは、ぼくも理人もよく分かってる。なんとか残ってもらえる方法はないかと模索してもいる。だから、解雇の話を聞いて氣落ちし、残りの期間の仕事が手につかないと言うことがないようにして欲しい」

「……無理を言って雇っていただいたのはこちらの方ですから、そんな失礼なことはしません。最後の日まで一生懸命働かせていただきます」

「よろしくね」



 笑顔で返事をしたものの、平常心を保ったまま一日を過ごすことは出来なかった。所詮わたしはめぐちゃんの代わりであり、彼女以上の存在にはなれなかったという思いが何度も首を持ち上げてはわたしを苦しめた。

 そのたびによぎる、圭二郎の顔。彼は言った。新しい野球界を作る。そのためには舞の力が必要だ、と。

 結局、わたしも彼も野球以外に出来ることはなく、今更別の道を歩むことは不可能なのか。カフェエプロンを脱いだあとのわたしは、再び野球のユニフォームを着なければいけないということなのか……。悩みは尽きない。

 さらに言えば、こんな重要な話を直接会ったタイミングでしてくれなかっためぐちゃんにも憤りを感じた。理人さんは、言いにくかったんだろうと言って彼女をかばったが、間接的に話を聞かされるわたしの身にもなってほしいものだ。

 信頼していた二人の人から同時に裏切られた氣分だった。

 定時までは仕事をこなしたものの、頭はぼんやりしていたし、氣力も既になくなっていた。

「大丈夫? 調子が悪ければ明日、休んでも構わないから」
 普段なら優しさと捉えられる理人さんの何氣ない一言も、今日は嫌みに聞こえた。小さく会釈だけ返したわたしは、夕食の材料も買わずに帰宅した。

 電氣の消えた部屋に入った瞬間、涙がこぼれた。ベッドに倒れ込み、布団を抱えてしばらくの間、じっとすることしか出来なかった。

 なぜこんなことになってしまったのだろう?
 頑張ってきたつもりだけど、実は全く努力が足りなかったのだろうか?
 わたしの選択は間違っていたのだろうか……?

 涙が止まったあとに浮かぶのは、自分を責める言葉ばかり。一人反省会が止まらず、氣付けば何度も涙し、悲しみに暮れた。

 そんな折、突然部屋のインターフォンが鳴った。

(こんな時間に尋ねてくる人がいるとすれば、ユージンしかいない……!)

 慌てて涙を拭き、精一杯の笑顔で部屋のドアを開ける。が、そこにいたのは……。

「……圭二郎」
 よりによって、彼なのか……。期待は一瞬のうちに打ち砕かれ、消沈した。
「……また、永江さんのところから抜け出してきたの?」

「……もう、永江さんには見限られてしまった。両親とも喧嘩して、俺はまたひとりぼっちになってしまった。頼れるのはもう、本当に舞しかいないんだ……」

 昨日別れたあと、いったい何があったというのか。その顔は酷くやつれていた。

「……どうしてわたしの居場所が分かったの? 教えたことはないはずだけど?」

「この前、小父さんちにあげてもらったとき偶然、舞の住むアパート名と部屋番号の書かれたメモを見ちゃったんだ。だからすぐにここだと分かった」

 引っ越したばかりだから、忘れないようにと、両親が住所の控えを壁掛けボードに貼っていたに違いなかった。

 それにしても、あまりにも元氣がないのが氣になった。
「……ちゃんと、食べてる?」

「……食欲がなくて、丸一日食べてない」

「……実はわたしも」

「え、舞も……? 何か、あったの……?」

 問われて、一瞬ためらう。これ以上は関わるな、と言われている人物だ。ただでさえ問題を抱えている人に、自分の悩みを打ち明けても仕方がない。そう思う一方で、圭二郎はわたしにとっても氣を許せる数少ない人。落ち込んでいるときにはやはり胸の内を聞いて欲しいとの思いもあった。

「……もし良かったら、今からでも食事に行かない? まだやってるお店、あると思うんだ」

「舞と一緒にいられるならどこでも行くよ」
 そう言った顔はとても嬉しそうだった。



 結局、日付が変わりそうな時間に開いている店はバーくらいしかなかった。軽食とジンサワーを頼み、遅めの夕食を取る。

「それで……。どうして永江さんを怒らせ、両親と喧嘩することになっちゃったの?」

「まぁ……。主な原因は、俺が舞のことを想いすぎてるところ、かな」
 圭二郎は恥ずかしげもなく言い、対面に座るわたしの左手を握った。

「舞がユージンって人を想ってるのは知ってる。だけど、俺は舞を諦めたくない。何度拒まれたって、舞が首を縦に振ってくれるまでは退くつもり、ないから」

 わたしに会って落ち着いたのか、はたまた空腹が収まったからか、自信を取り戻したらしい圭二郎はまっすぐにわたしを見つめて言った。

「……そういう舞は、どうして食欲をなくしていたの? なんか、泣いた形跡があったけど、もしかして恋人との間に何か……?」

「ユージンは全く関係ない」
 全否定するも、そう言ったからには本当の理由を告げなければならない。圭二郎の前では絶対に嘘はつけないと分かっている。

「実は……」
 仕方なく今朝、理人さんに言われた契約終了のことを話す。すると予想通りの反応が返ってくる。

「それなら尚のこと、俺と一緒に新しいことを始めようよ。カフェ店員を辞めたあとどうするか、まだ決めていないんだろう?」

「決めてはいないけど、野球に戻る氣は……」

「舞」
 圭二郎は、今度は両手でわたしの手を包み込む。
「俺は今、神様からチャンスをもらったと思ってる。一度は氣持ちがすれ違った俺たちだけど、このタイミングで舞が職を追われ、俺が球界に戻ろうとしているのには意味があるとしか思えない。天がもう一度俺たちを結びつけようとしているから起きている出来事だとしか……」

「そんなの、こじつけよ……」

「そうかな……?」

「……圭二郎はわたしが好きなんじゃない。わたしとの思い出に執着しているだけ。そろそろそのことに氣付かなきゃ」

「…………」

 何氣なく放った一言。だが、圭二郎を黙らせるのには効果的だったようだ。説き伏せるなら今しかない、と間髪を入れずに言う。

「圭二郎は多分、わたしだけが自分を愛してくれた人だと思い込んでいる。でも、おそらくそれは違う。両親も、おじいちゃんおばあちゃんも、そして友人やファンもあなたを愛してくれた。だから決して孤独じゃなかったはずよ」

「……そんな……そんなはずはない……!」

「なら、どうして圭二郎は今日まで野球をして来れたの? どんなに実力があっても、自分の力だけでは決して成し得なかったはずよ」

「…………」

「もしかしたら圭二郎は、野球しか能がないわたしの心配をして誘ってくれてるのかもしれない。でもね、わたしの人生はわたしが決める。だから圭二郎も、自分の人生は自分で決めて。わたしに頼らず、自分の力を信じて突き進んで」

「……俺は……俺はただ、舞と一緒にいたいだけなんだ……」

「恋人や夫婦じゃなくても……。友達でも支え合うことは出来る。わたしたちの関係は決して終わらないわ」

「そんな言葉で……俺が納得するとでも思ってんのかよ……」

 酷く落ち込む圭二郎。こんな顔を見るたびに、応援歌のことを話してしまおうかと何度も心が揺らいだ。だが、今こそがそのタイミングに思えた。

「……一緒に行こうよ、ライブに。そしたらきっと、わたしが言ったことの意味も分かるから」

「何だよ、ライブって……。舞の好きな男の歌や演奏を聴けって言うのかよ?」

「そういう目で彼らを見ないで。純粋に、頭を空っぽにして音楽に身を委ねて欲しいの。歌詞に耳を傾けて欲しいの。……実は、圭二郎の心を揺さぶる一曲を用意してもらっていてね。ホントは直前まで黙っていようと思ったんだけど、ちょうどいい機会だから今、話そうと思って」

「……音楽なんかで、俺の心が揺さぶられるものか」

「聞いてもいないのに決めつけるのはやめて。わたしもそばで一緒に聞くから。……ね? ライブに行ってみようよ」

「…………」
 不満そうだった。なぜ興味のない場所へ連れて行かれ、興味のない音楽を聴かなければいけないのか、と思っているのがひしひしと伝わってきた。

「わたしと一緒にいられるならどこにでも行くって言ったのは、圭二郎じゃなかったっけ?」

「……分かったよ。行けばいいんだろ。その代わり、その日は恋人のつもりで振る舞わせてもらう。手を繋いだり、肩を抱いたりさせてほしい」

「……酷い交換条件ね」

 まるで、ユージンに見せつけてやろうと目論んでいるかのような発言に嫌氣が差す。挙げ句の果てに「キスしたいって言わなかっただけ褒めてもらいたいな」などと言い出す始末だ。

「もしそんなことを言ってたら引っ叩いてるところよ」

「冗談だよ、冗談……」

「昨日の今日じゃ、冗談に聞こえないってば」

「……で、どうするの? 俺の条件を呑むつもり、ある?」
 その目は挑戦的だった。条件はあまりにも酷い。が、圭二郎にはどうしても応援歌を聴かせたい。

「……分かったわ。だけど、わたしはあくまでも幼なじみとして振る舞うから」

「……振り向かせてみせるよ。絶対に」
 圭二郎はにやりと笑い、飲みかけの酒をあおった。


◇◇◇


 その晩。一緒に食事をして安心したのか、彼は意外にもすんなり実家に帰っていった。ところが、わたしの居所が分かったからか、はたまた口説き落としてやろうと思ってのことか、彼は翌日も訪ねてきた。今度はわたしが仕事から帰ってくるのを待つかのように、部屋のドアの真ん前でしゃがみ込んでいたのだった。

(店ならまだしも、部屋に直接くるのは勘弁して欲しいな……。)

「話すことなんてないわ。今日はもう帰って」
 うんざりしながら言った。

「連れねえなぁ。俺たち、幼なじみだろう? 昨日みたいに食事くらい一緒にしたっていいじゃん」

「だけど、恋人じゃないんだし、毎日会う必要はないでしょう?」

「俺が会いたいんだ」

「…………」
 本当は突っぱねたかった。でも、今部屋のドアを開けたら強引に押し入ってきそうな氣がした。それだけは絶対に阻止しなければ。

「……分かった。じゃあ、ご飯に行こう。ただし、食事が終わったら昨日のようにおとなしく家に帰りなさい」

「オーケー。それでいいよ」
 微笑んだ顔はまるで子供のようだった。


◇◇◇


 さすがに氣が滅入ったわたしは翌日、店主の理人さんに相談をした。
「なんかそわそわしてると思ったらそういうこと……。ったくあいつ、おれがしごいてやってもまだ懲りねえのか……」

 理人さんは憤った。

「オッケー。そんじゃあ、今日はおれがマイマイを部屋まで送る。で、圭二郎が訪ねてきたらぶん殴ってやる」

「あ、いや……。殴らなくてもいいんですが……」

「その位の氣持ちで話すってことだよ。……まさか、部屋にあげてないよな?」

「もちろんですよ。ドアを開けたら居座られそうな氣がして。これが毎日続くことを考えたら部屋に帰る氣も失せてしまいます……」

「……分かってねえな、あいつは」
 そう言った理人さんの顔は、「鬼」と呼ばれた頃の永江さんを彷彿とさせた。



 少し早めに仕事を切り上げ、約束通り理人さんとともに自室に戻った。簡単なもてなしをしていると、一度だけ力強くインターフォンが鳴らされた。

「多分、圭二郎です」

「よし。おれが出てやる」
 理人さんは立ち上がり、のぞき穴から外を確認すると勢いよくドアを開けた。そして圭二郎の胸ぐらを掴んで自身へ引きつけた。

「毎晩毎晩……。いい度胸じゃねえか。もういっぺん、おれのしごきを受けたいようだな!」

「ま、マスターがなぜここに……?」

「そりゃあ、おれはマイマイの上司だからな。身内が困ってると聞けば助けるのが筋ってもんだろ?」

「…………」

「あんた、居場所がねえんだろ。だから毎晩、ここに訪ねてくるんだろ。違うか?」

「…………」
 圭二郎は答えなかった。が、無言でいること自体が「そうだ」と言っているようなものだった。

「マイマイには恋人がいる。これ以上、つきまとうのは止せ」

「でも、舞に見捨てられたら本当に……」

「馬鹿が! そういうときはワライバに来い。おれを頼れ! あんた一人の面倒くらい、おれが見てやるよ」

「え……」
 圭二郎も、端で聞いているわたしも驚きの声を発した。
「それはどういう……?」

「どうもこうもない。おれが、寝るところくらい提供してやるって言ってんだよ!」

「理人さん……」
 思わず呟くと、彼は一瞬だけ笑顔に戻り、わたしに微笑んだ。

「……この前は善人になりきれなかったからさ。その代わりだよ」
 この前というのは、店で預かった圭二郎があまりにも情けないので、部活動のごとく野球の指導をした日のことを言っているのだろう。彼は続ける。
「……って言っても、寝床を用意してやるだけだぜ。それ以外はおれ流、、、でやらせてもらう」

「おれ流……とは?」

「明日になれば分かる」
 理人さんはそう言って、ようやく圭二郎の胸ぐらから手を離した。そして、わたしが出したお茶を飲むことなく、圭二郎と共に自宅へ帰っていった。


◇◇◇


 次の日。いつも通り出勤すると、なぜか圭二郎も店にいた。驚いていると、理人さんから理由が告げられる。

「家に監禁しとくのもなんだしな。しばらくの間、こいつにも働いてもらうことにしたよ。ただで寝泊まりさせてやるんだから当然、こっちで働いた分の給料は出さない。そういう条件でやってもらう」

「働いてもらうって……。圭二郎に接客が出来るんでしょうか……」

「ああ、大丈夫。こいつにはまず、掃除とか片付けとかから始めてもらって、人の役に立つとはどういうことか、を徹底的にたたき込む。接客までいければ御の字。とにかく、世の中のこと何も分かってねえからな。おれたちが誇りを持って働いてる姿をまずは見せてやろうと思ってさ」

「なるほど」

「だから、マイマイは普段通りに仕事してくれりゃあいいよ」

「わかりました」

「ああ、それと一つ提案なんだけど、おれが預かったとは言え、こいつはいつ何時、部屋を抜け出すか分からない。念のため、マイマイの方もしばらくは一人暮らしの部屋じゃなくて兄貴の家とかを頼るのはどうかと思って」

「俺は抜け出したりはしませんよ」
 圭二郎はしれっと答えた。

「その台詞、全く信用できねえんだよなぁ。男は有言実行! それをあっさり破ればどんどん人が離れていく。もしおれが見限ったらどうなるか、教えてやってもいいけど?」

「…………」
 さすがの圭二郎も、これが本当に最後の温情だと分かっているのだろう。反論することはなかった。



 お世辞にも圭二郎は仕事が出来るとは言えなかった。集中力もなかった。それを見るたび、理人さんが厳しく指導する。

「マイマイの仕事ぶりをよく見て学べ!」

 その言葉に身が引き締まる思いだったが、半年近くにわたってほぼ毎日、出来ないなりに店に立ち、なんとか人並みの接客能力を身につけたつもりである。いつだったか圭二郎には、舞も俺と一緒で野球しか出来ないだろう? と言われたけれど今日は、野球以外の事も出来るのだというところを見せる絶好の機会。そう思って普段以上に仕事に励む。

 理人さんが逐次「メモをとれ」と指示し、圭二郎はその通りにペンを走らせる。最初こそ面倒くさそうにしていたが、そのうちに何かを感じ取ったのか、一日が終わる頃にはその表情も真剣なものに変わっていた。


◇◇◇


 理人さんの『圭二郎教育』は徹底していた。朝の挨拶からはじまり、店内の床掃除、テーブル拭き、コップ磨きを順にさせる。理人さんが納得するまで綺麗にさせる様を見て、完全に野球部の後輩指導そのものだと感じたが、これは元キャプテンだった理人さんなりの、圭二郎への愛情表現なのかもしれない。

「何で俺がこんなことを……」

 最初のうち、圭二郎は愚痴ばかりをこぼしていた。しかし一週間ほどでそれも無くなり、取ったメモを見ながら自主的に行動できるようになっていった。余裕が出てきてからは、忙しく動き回るわたしに対して「何か手伝おうか」と声を掛けるまでになった。

 わたしへの接触を最低限にしたい理人さんは決して圭二郎が表に出る仕事を与えなかったが、個人的にはここでの仕事を通して圭二郎がどんどん変化していくのを見るのが嬉しかった。


◇◇◇


 そんな日が何日か続いたあるお昼時、永江さんがふらりと店にやってきた。圭二郎は彼を見るなり隠れようとしたが、理人さんに首根っこを掴まれてしまい、対面させられることとなった。

 少し前、圭二郎は親切にしてくれた永江さんを裏切るような行動を取り、以降見限られている。そんな二人が相見あいまみえたらどうなるか……。氣になって固唾を呑む。

「……大津クンがうまくやっているようだな。この様子なら心配なさそうだ」

 しかし、懸念していたような反応は見られず、永江さんはいつものとおりお氣に入りの席に座って定食を注文した。

(どうなってるの……?)

 混乱しつつも定食を用意し、席に運ぶ。と、永江さんは「ありがとう」と言ってにこやかに笑った。

「……その顔を見る限り、まだ機嫌を損ねているんじゃないかと心配しているね?」

「ええ、まぁ……」
 遠慮がちに答えると、永江さんは声量を絞って言う。

「安心したまえ。彼に冷たく当たったのは演技だよ。彼と、親である本郷クンたちを成長させるためのね。もっとも、大津クンには尻拭いをさせることになってしまったが、これもまた宿命というやつだろう。圭二郎が真に心を取り戻すためには舞さんと再会する必要があったし、大津クンや僕が冷徹になる必要があった。そう考えて欲しい」

「そう、ですか……」
 そこまで考えての行動だったとは。さすがは永江さんである。

「なんか、すみません……。圭二郎のことでいろいろ動いてくださって」

「君が謝ることはないし、僕だって礼を言われるほどのことはしていないよ。僕はただ、圭二郎なら今の球界を変えられると信じ、復活の手助けをしているだけだ。舞さんだって心の底ではそれを願っているんだろう?」

「そうですね。実は……」
 ユージン経由で圭二郎の応援歌を作成してもらっていることを、本人に聞こえないようこっそり伝える。話を聞いた永江さんは大いに喜んだ。

「それは素晴らしい。機会があれば僕も聞いてみたいものだ」

「タイミングが合えば、是非一緒に聞きましょう」

「うん、楽しみだ」
 永江さんは満面の笑みを浮かべて頷き、圭二郎に視線を送ったのだった。

 

◇◇◇

 三月も残すところあとわずか。めぐちゃんの仕事復帰が間近に迫ったある日。急にお客さんの流れが途絶え、店内にはわたしたち従業員だけ、と言う時間が生まれた。それは、圭二郎が初めてここを訪れた時の状況によく似ていた。

 急ぎの仕事もなく、ただゆっくりと時間が過ぎていく。初春の日差しはうとうとしたくなるような暖かさで店内に降り注ぐ。とても穏やかな氣持ちでいると、理人さんが特別にコーヒーを淹れてくれた。

「二人で話す時間をあげるよ。あと二、三日もしたら、マイマイの代わりにめぐっちが戻ってくるからな。店でゆっくり話せるのはおそらく最後になるはずだ」

「理人さん……」

「ただし! 二人の話はおれも聞く。これは圭二郎が成長しているか、のテストでもある」

「なるほど。俺は試されてるということですね?」

「そゆこと」
 理人さんはにやりと笑い、カウンターに肘をついてわたしたちをまじまじと見つめ始めた。

 じっと監視されている中で話すのは緊張する。氣を紛らわせるためにコーヒーを一口飲むと、圭二郎が先に話し始める。

「……ここに初めて来た日。舞は俺を笑顔で迎え入れてくれたね。少し前まで俺は、あれが俺だけに向けられた特別なものだと信じていたんだ。けど、ここで一緒に働いてみて分かった。舞は誰に対してもあの笑顔を向け、接客していたんだって。……その瞬間、自惚れてたんだって分かった。俺は特別な存在。だから丁寧に扱われる必要がある。なのに周りは俺を利用し、ぞんざいに扱ってくる。今までそれが許せなくてイライラしていたんだと氣付いたんだ」

「うん……」

「……俺は、俺が好きだと思う周りの人――親やきょうだい、そして舞――に愛して欲しかった。だけど、身近な人ほど遠く感じた。愛されていないように感じていた。肉体の距離が近ければ近いほど親密な関係を築けると信じていた俺にとって、遠くから見守るという愛情表現は全く理解できなかったんだよ。でも実際には、多くの人から見守られていたことを……そういう形で愛を受け取っていたことを知った。……俺が野球選手だから、じゃない。自分で言うのも変だけど、俺が俺だからみんな慕ってくれてるんだよな、きっと」

「そうよ、圭二郎。その通りよ」
 力強く頷くと、圭二郎は嬉しそうに笑った。

「ここへ来てからというもの、欲していながら今まで受け取れなかった愛情をくれる人、それから俺の氣持ちを理解してくれる多くの人と出会った。あんまりにもいっぺんに受け取ったもんで、ちょっぴり有頂天になってたのは事実。お陰でマスターにはずいぶんしごかれる羽目になったわけだけど、それも俺の成長のためには必要なことだったのかなって今では思うよ」

「有頂天も、あそこまで行くともはやストーカーの域よ?」

「悪かったと思ってるよ……」
 圭二郎はばつが悪そうに頭を掻いた。

「言い訳に聞こえるかもしれないけど、俺は何も舞を組み伏せてやろうとか、そんなふうに思って部屋を訪ねたわけじゃない。何度も言うけど、ただ単に舞が好きで、そばにいたかった。それだけのことなんだよ……」

「ぷっ……! 誰が聞いても言い訳だな」
 理人さんが笑いながらツッコミを入れた。
「もっとも、ちょっとの期間だけど圭二郎を雇ってみて思うのは、本当にピュアハートなんだなってこと。だからそこに付け入ろうとする連中もいるんだろうけど、そのピュアさに惚れ込んでファンになる人も多いんじゃないかな? 少なくともおれは、改めてファンになった人間の一人」

「わかります、それ」
 だから永江さんも父も兄も悠斗さんも……それからユージンでさえも、圭二郎のために動いてくれたのだろう。圭二郎は、今度は照れくさそうに笑った。

「それとさ、ずーっと店で流れてるサザンクロスさんの曲があるだろう? 最初は全く興味もなかったんだけど、だんだんギターや歌が耳に入るようになって、今では歌詞を口ずさめるまでになった。永江さんが現役時代、歌手のレイカに支えてもらっていた理由が今ならよく分かる。レイカの歌声には人の心を揺さぶる何かがある。俺にもそれが分かったんだ。だから今は、舞と彼らのライブに行くのを楽しみにしてる。ホントだよ」

「それは嬉しい! ライブでは多分サザン×BBになってからの曲もあると思う。智篤さんはもちろんのこと、セナちゃんも歌うだろうし、ギターの生演奏を聞いたらきっと圭二郎だって惚れちゃうんだから!」

「ったく……。自分が好きなギタリスト自慢はやめてほしいなぁ。俺はまだ舞のこと、諦めちゃいないぜ?」

 そう言った顔に以前ほどの威圧感はなかったが、勘違いさせるわけにもいかないのでここはきっちり伝えておく。

「ユージンがどれほどのギタリストか。そしてどれほどわたしを想ってくれているか。ライブが終わる頃にはきっと圭二郎にも分かるはずよ」

「ふーん……。それも含めて楽しみにしてるよ」




17.<圭二郎>

 氣付いたときには桜も散り、新緑が鮮やかな季節になっていた。野球以外には何も出来ないと思っていた俺もいつの間にやら、マスターに言われずとも、喫茶店員としてやるべき最低限の仕事は出来るようになっていた。

 そのころには舞の従妹のめぐさんもホールスタッフに復帰し、舞がしていた仕事を彼女がやるようになっていた。俺が言うのもおこがましいが、約半年、育児のために休んでいたとは思えない働きぶりには思わず感心してしまうほど。彼女の微笑みひとつで誰もが癒やされ、何でも打ち明けてしまう……。舞の接客でもすごいと思っていたのに、めぐさんの方はもはや才能としか言いようがなかった。

(こりゃあ確かに、舞よりめぐさんを残すわけだ……。)

 何度もマスターに、本当に舞の首を切ってしまうのか尋ねようと思った。しかし、相変わらず雑用しかさせてもらえない俺にはそれを問う資格はなかった。


◇◇◇


 職場で会ってもほとんど私的な話をすることがないまま、ライブ当日を迎えた。ワライバの前で待ち合わせた俺たち。仕事以外のことを話すのは本当に久しぶりだ。

「もう、すっかり普通の人になっちゃったね」
 舞は俺の素顔を見ながら言った。

「そうだな……。初めてここを訪ねてきたときの俺は、キャップとマスクとマフラーで顔のほとんどを覆い隠していたっけ……」

 そんな俺が今や、無防備に顔をさらけ出している。あの頃と違い、今は俺が本郷圭二郎だとバレても自信を持って対応することが出来るからだ。

「……ねぇ、舞。約束通り、手を繋いでくれる?」

 氣乗りしなかった当初は、恋人のように振る舞わせてくれるならライブに行く、と言う条件をつけていた。今となってはもうどうでもいいことだが、一応手を差し出してみる。

「えー? ヤダよー」
 予想通りの反応が返ってきた。
「でも……」
 
 舞は少しためらったあとでこう言う。
「会場に着いたら、繋いでやってもいいかも。迷子になられたら困るからねー」

「……俺は幼児か?」

「そうよ。わたしとずっと一緒にいたい、甘えん坊の幼児。……でしょう?」

 以前翼にも、行動が幼稚だと言われたことを思い出す。

「あぁ、そうだよ……。俺は大人になりきれない子供。だから誰かに面倒を見てもらわないと生きていけない。そう、思ってた……」

「思ってた……?」

「でも……。それもきっと、今日までだろう。ライブに行ったら俺は変われる氣がするんだ。何の確証もないけど」

「そうだね。わたしも変われる氣がする。前のライブがそうだったからね。きっと今度も何かしらの化学反応が起きると信じてる」

 行こう。そう言って舞は俺の服の端を引っ張った。



 都内某所のライブハウス。そこは、これまでにもたくさんの大物アーティストがライブを開催してきた場所だという。

 全席指定で、ざっと二千人は入れそうな会場は既に人でいっぱいだ。冗談抜きで迷子になりそうな雰囲氣。舞もそれを察したのか、約束通り手を繋いでくれた。しかし今は恋人と言うより、本当に子供に戻った氣分だ。

 着席する。普段は見られる側の俺がこうやって誰かのステージを見る側に回るのは、それこそ学生時代の校外学習以来だ。これはこれでなんとも落ち着かない。

「なんで圭二郎が緊張してるのよ?」
 そわそわしていたら舞に笑われた。

「こんなふうにじっとしてるの、慣れないからさ……」

「始まったら自然と身体が動いちゃうと思うよ。多分、ほとんどの人が立ち上がるんじゃないかな? 彼らのライブはまだ一度しか体験してないけど、前回の時はみんな、曲にあわせて歌って踊って、って感じだったよ」

 音楽とは無縁の生き方をしてきた俺がそんなふうに振る舞えるか自信がなかったが、ここは自分の感性を信じることにしよう。



 開始の時刻をむかえた。暗闇の中でギタリストたちが演奏を始めると、脇から一人の男性が歌いながら登場する。直後、暗かったステージが照らし出され、ライブが始まる。

 会場がわぁっと盛り上がり、耳をつんざくような音であふれかえる。中央で歌っているのはサザン×BBのメインボーカル、智篤さん。親と同世代だと聞くが、全く年齢を感じさせない声量に、ただただ驚く。

 二曲歌ったあとで智篤さんが挨拶をする。
「サザン×BB結成後初の単独ライブに来てくれてありがとう! 今日は最後まで楽しんでいってくれ! 眠れない夜を一緒に過ごそうぜ!」

 一層盛り上がる聴衆。俺も自然と身体が動き、氣付けばリズムに乗っていた。途中までは俺の知っている曲だったから歌も歌った。自分の身体がこんなにも音楽に反応するなんて思ってもみなかったが、とても気持ちが良かった。

「次は、ライブに合わせて発売したCDに収録されてるこの曲。『ハ・ン・キ!』。みんな、ユージンのエレキに合わせて手拍子してくれっ!」

 最新曲と聞いて困惑した。予習していなかったからだ。
「俺、次の曲知らないかも……」
 思わず呟いたが、舞は「大丈夫、ノリでなんとかなる!」と、前方を見ながら答えた。

(ま、いっか……。さっきみたいに、身体の反応に任せときゃ、きっとなんとかなる……!)

 舞は俺をこのライブに誘うとき、頭を空っぽにして音楽に身を委ねろ、と言った。だから、今はそうしてみよう……。


見んなよ、日曜の昼だってのに、
一体なにしたってんだ、俺が?
挙動不審? 迷惑行為?
そんなことするオトナじゃねえのに!!

我慢するから、はじけんだってば
んなことすらも知らねえの?
閲覧制限? たばこもNG?
俺らの楽しみ、取んじゃねえ!

今こそ俺らのフェスティバル
歌えよ歌え、反旗の歌を!
始まり告げるメロディーが
たしかに聞こえてくるだろう?
靴を鳴らして突き進め
歌えよ歌え、反旗の歌を!
ホントの闘いが今、はじまる……

##

そんなことして、なんになるって
やるだけ無駄だ、刃向かうなって
言論統制 デモ行進も
潰してくるのが「セ・イ・ギ」?

お前ら、俺らが怖えんだろう?
だから、抑えつけんだろう?
止めらんないぜ、俺たち、だって
今こそ反旗を翻せ!

ギターの音が聞こえるか?
リズムに乗って乗りまくれ!
みんなの想いをひとつに
こんな世界を変えてこう
波が来るの、怖いなら
俺らで起こそう、ビックなウェーブ
心からの声、響き渡る……!

###

誰のために生きてるって
自分のために生きてんだよ
守りたいから立ち上がるのが
分からないなら、お前らにゃあ
飽き飽きするほど聴かせてやるぜ
魂の歌声を……!!

今こそ俺らのフェスティバル
歌えよ歌え、反旗の歌を!

ギターの音が聞こえるか?
リズムに乗って乗りまくれ!

生きてるって素晴らしいって
何度だって叫び続ける
強く、強く……!
愛する人のために……!!
俺たちは、歌う!!



 隣で聴いている舞のはしゃぎ方が半端じゃなかった。野球をしているときに見せる表情や行動とは全く別物。こういう一面もあるのかと驚かされた。

「少しは落ち着いたらどうだ……?」

「落ち着いてなんかいられないわよ。あぁ……。ホントに格好いい……!」

「……まぁな。さすがに今のは俺もすごいと思ったよ。プロの本氣を見たって言うか」

「でしょう!」
 興奮を抑えることなく言うので、思わず笑ってしまう。

「……本当に好きなんだな、あの人のこと。あの人だから、そんなふうに笑うんだよな、きっと」

「それもあるよ。だけど、圭二郎だって『今ここ』を楽しめば笑えるようになる。ほら、次の曲が始まるよ。耳を傾けてみて」

 突如、舞が手を握ってきた。興奮しているとは言え、嫌がっていた手つなぎを自らしてきたことに、嬉しさよりも驚きが先に立つ。

(これも、彼らの歌や演奏の効果なのか……。)

 舞の手を握り返す。余計なことは今は考えないことにしよう。正面を向き、彼らの歌と演奏に耳を傾ける。



 レイカの歌声が心地よい。切ない歌詞だが、それでいて心が軽くなるような、不思議な感覚になる。真の癒やしを知った氣がした。

 隣で音楽を聴いている舞の姿は美しかった。俺が恋い焦がれていた頃の舞、そのもの。ああ、やっぱり舞には音楽が必要なんだ。そう、確信した。

 ホントは最初から分かっていたんだ。俺はもう振り向いちゃもらえないって。だけど、簡単には認められなくてずっと抵抗してきた。一方で、抵抗すればするほど空回りしているのも分かっていた。

 そして今。目の前のミュージシャンたちを見て、その格好良さに惚れかけている俺がいる。容姿にではなく、彼らの生き様に。

 間違いなく今の俺には彼らのような勢いや情熱はない。俺はいつからそれらを失ってしまったんだろう。思い出そうにも、思い出せない……。

 もちろん、最初からではない。入団当初はやってやるぞと言う氣持ちでいっぱいだった。でも、活躍すればするほど、契約金の額が上がれば上がるほど、俺の周りに集まる人間が変わっていって、氣付けば「金さえ積めば出世できる」世界の一員になっていた。

 多分、そこからだ。やる気も情熱も失ってしまったのは。

 所詮、努力より金なのだ。俺が憧れた世界の裏側はこんなに汚れていたのかと氣付いた瞬間、何もかもが嫌になった。

 そんなタイミングで持ち上がった婚約話。もし舞が電話をくれなかったら俺は今頃、愛情のない結婚生活をし、選手としてもたいした活躍が出来ないまま萎んでいたことだろう。

 舞を救ったのは音楽だった。そして、その舞に救われた俺もまた、今の今、音楽に身を委ねている。

(俺が舞に、音楽の世界を勧めたんだよな……。)

 俺はただ、舞には幸せになって欲しいと……。それだけを願ってそう言ったんだ。なのにその幸せが今になって俺に戻ってきている氣がする。いったい、どういうことだ……?

「音楽になんて、全然興味がなかった俺が……。なんで今頃になってこんなにも感動してるんだろう……? 三十半ばにもなって、なんで……」

「それは、心の内側が磨かれたからだよ。音楽は、まっさらな心で聴かないと感動できないんだから」
 舞の言葉の意味が分からずに、オウム返しする。

「心の内側が磨かれた……? いつ……? 誰の手で……?」

「あれ? 氣付いてないの? お店でずっとやらされてた拭き掃除やガラス磨き、あれは圭二郎の内面の掃除でもあったんだよ。……って、わたしも働き始めた頃に理人さんからそう聞いて、実践してきたことなんだけどね。目の前に見えるゴミやガラスの曇りは心の状態そのもの。だから、それを掃き清め、磨き上げると心も綺麗になるんだと教わったわ。それを聞いてからは掃除が好きになった。だって自分の心を綺麗にしているのと同じなんだもの」

「なるほど……。つまり、内面のゴミが片付けられたことで、彼らのまっすぐな音楽が入り込む余地が生まれた、ってこと? だから最初は音楽が耳に入らなかったのかな?」

「ええ、多分そう言うことだと思う。わたしだって同じよ。圭二郎に振られちゃって、落ち込んでたときには何も受け容れられなかった。でも、少しずつ悠斗さんやお兄ちゃんの言葉、そして彼らの音楽を受け容れられるようになった。それは、ぐちゃぐちゃになっていたわたしの心が整理されたから。受け容れる準備が整っていないうちは、どんなに素晴らしい教えも届かないし、響かないものなのよ」

「そっか……」

 以前マスターから、お前は自分磨きをしないとダメ。今のままでは何の魅力もないと言われたことを思い出した。その時は、自分でその方法を見つけ出せと言われて終わってしまったが、いつまで経っても成長の兆しが見えない俺を見るのが耐えられなかったんだろう。最後には俺が自分磨きできる環境を自ら用意してくれた……。

(ごめんなさい。そしてありがとう、マスター。最大限の愛を俺に向けてくれて。マスターの飴と鞭のお陰で俺はようやく本質に氣づくことが出来ました。自分がやるべきことも見えてきました。このご恩は決して忘れません……。)

 胸に手を当て、心の中で礼を言った。その瞬間、周りに見える景色が急に輝いて見えだした。俺の中で、何かが、変わったのが分かった。



 そこから先は時間が飛ぶように過ぎた。いや、時間の感覚すら忘れるほどライブに夢中になっていた。

 そんな、夢の中にいるような感覚だった俺の手を、舞がぎゅっと握りしめたことで現実に引き戻された。チラリと顔を見ると、ステージの一点を見つめている。その瞬間に察した。舞が待っている「何か」が始まるのだと。

 ボーカルのセナさんがマイクを持つ。
「みんな、ここまで楽しんでくれたかな? アタシはすっごく楽しかった。もう二時間経ったなんて信じられないよ。……次が最後の曲って聞いたらみんな、どう思う?」

 えー?!
 やだー!
 もっと聴きたい!

 あちらこちらからそんな声が聞こえた。彼女は笑っている。

「ありがとう。だけど、今日は次の曲で最後。また新しい曲を作ってみんなに披露するから、その時にまた会いましょ!」

 拍手が鳴り、会場が聴くモードに変わる。それを感じたのか、彼女は一度仲間の方を向いて頷き、それから正面を向いた。

「これから歌うのは、まだどこにも発表していない歌。頑張って生きてるすべての人に捧げます……。聴いてください。『キミに送るメッセージ』」


誰にも言えず 涙したあの日
支えてくれる人さえいない
孤独だけが友達だったんだね……

頑張るほどに空回り
うまくいかない……
自分のせいだと 何度も叫んだけれど
報われない世界でキミは

悔やんでみても
出ることない答えを抱えながら
生きてきたんだね……
ここにあるのは、確かに歩んできた軌跡

泣きじゃくったって
強くなくたって
見てる、誰よりキミのことを
ありのままでいいんだよ
逃げたくなったら逃げていいんだ
最後は戻っておいでよ、ここに
忘れないで、待ってる人がいるから

##

弱さを見せてはいけないのだと
偽り続けてきた日々は
キミをキミで無くしてしまった……

アタシに見せる笑顔さえ
ぎこちなくて……
そばにもいれずに、ずっと苦しかったよ……
すれ違う毎日で

言えば良かった
さよならした背中に「大好き」って
もう戻らない日々
同じ道、歩むことは無いかもしれないけど……

見たくないんだって
泣いた顔なんて
だって、笑った顔のキミが
アタシは大好きだから
逃げたくなったら逃げていいんだ
最後は、いつでも戻っておいで
忘れないで、アタシがここにいることを

###

裏切られても、信じれなくても
アタシだけは知っている
世界イチ、素敵な人なんだって
だから立ち上がって、もう一度……!

涙の仮面、捨てさって、
笑って欲しくって、
見てる、誰よりキミのことを
ありのままのキミが好き
逃げたくなったら逃げていいんだ
最後は、いつでも戻っておいで
忘れないで、アタシがここにいることを
キミに送るメッセージ……



 目をつぶり、その歌声を聴いた。まるで舞が俺に語りかけているかのような歌詞に胸が熱くなる。歌が終わったところで舞が呟く。

「……実は今聴いた歌。圭二郎をイメージして特別に書き下ろしてもらったものなのよ」

「えっ……。それって、俺のために……? まさか……」

「歌詞作りにはわたしも少しだけ協力してるんだけどね……。歌詞を完成形に持っていったのも、曲をつけたのも彼らよ」

「そうか……。舞の想いが入っていたなら心に響いたのもうなずける」

 ここへ来てからずっと驚きっぱなしだが、今の話はとりわけ衝撃的だった。ライバルであるはずのユージンさんが俺のために歌を作ってくれたなんて、信じられる訳がない。でも、もしそれが真実なら、俺はとんでもない人をライバル視していたことになる……。

「舞が彼に頼んだの? 俺を励ます歌を作って欲しいって」

「ううん。言い出したのは彼の方。落ち込んでいる圭二郎を見て、応援歌を作りたいと言ってくれたのよ」

「あっはっは……」

 それを聞いて思わず笑ってしまった。負けた。完全に。これ以上悪あがきをしても無駄だとようやく悟った。

「初めて出会った日。あの人は、ライバルであるはずの俺の面前で舞が好きだと言ったよね。正直、あのときは何を言っているんだ……? と馬鹿にしていた。俺の方が遙かに舞を愛する資格があると思っていたから。でも、今の話を聞いて……。そして歌や演奏を聴いて確信したよ。あの自信は、心の底から音楽で人を助けたい、楽しませたいという強い信念から来ていたんだ、ってね」

「ええ……。彼だけじゃないわ。目の前のステージにいる全員が真のミュージシャン。自分たちの音楽で世界を変えてやろうと本氣で考えている人たちよ」

「うん。それがすごく伝わってきた。……たった数人が力を合わせて何になる? って思ってたけど、そんなこと、ないんだな……。俺は、一人の力を軽んじていた。俺自身の力も含めて……」

 ステージ上で彼らが手を振っている。俺は自然と彼らに手を振り返した。

「……舞からのメッセージ。確かに受け取ったよ。俺はもう一人じゃない。舞はいつでも俺のそばにいてくれることが分かったし、応援してくれてる人がたくさんいることも分かった。だから……立ち上がるよ。たとえ一人からでも」

「圭二郎……!」

「舞。このライブが終わったら彼らに会うんでしょう? 俺にも挨拶させてもらえる? 直接、お礼が言いたいんだ」

「もちろんよ」

 その後、アンコールの手拍子がなり、聴衆が彼らの再登場を促すと、数分経ってユージンさんが一人でステージに飛び出してきた。彼はマイクを持っている。

「みんな、アンコールをありがとう! 最後はオレに歌わせてもらえるかな。会場に来ている大切な……。そう、愛するみんなのためにオリジナル曲を歌わせてください。では、行きます。……『僕は君に恋してる』」

「えっ……!」
 舞が小さな声を上げた。それに氣付いた俺は直感的に、ああ、これはきっと舞のための曲だと思った。歌を聴き、それは確信に変わる。


右手も つなげないまま
君のとなり、歩く
澄み切った夜の空
輝く星は、まるで君の瞳

そっけない返事に
あぁ……。ため息、ひとつ、ふたつ
こんなにも恋してるってのに!
君は氣づいているかな?

君がスキ!
前の恋さえ忘れるほどに
触れたい、笑顔がいとしい、あぁ……
ドキ、ドキ!
マジで夢中なんだよ
僕の、僕の愛するMy Dear

…………


「愛してるよー、みんなー。今日はありがとー!」
 歌が終わると、ユージンさんが会場に向かって投げキッスをした。女性ファンたちが「きゃーっ♡」と喜びの声を上げる。

「……そうか。ああやってファンサービスすりゃあいいんだな? 俺も真似させてもらおうっと」
 見よう見まねで舞に向かって投げキッスをしてみる。ところが反応はいまいちどころか、それは受け取れない、とすら言われた。

「じゃあ、練習しとく」
 真面目に言うと、なぜか笑われた。

「なんで笑うんだよぉ……」

「ごめんごめん。圭二郎はそんなことしなくたって充分ファンを獲得できてるよ。そのままで、大丈夫」

「そうかな……」

「そうだよ。……さて、ライブが終わったから、挨拶に行こっか」
 舞がまた俺の手を握ってくれる。そこに恋情がなかったとしても俺は嬉しかった。



 楽屋を訪れると、すぐに中に通された。だが、二人とも手を繋いだままだったことに氣付かなかった。ユージンさんに鋭い目つきで手元を見られ、舞が慌てて振りほどく。

「あ、こ、これは……! あの、圭二郎が迷子にならないようにと思って……。何しろ本当にこういうところは慣れてない子だから……」

「本当にそれだけの理由、ですか……?」

「舞の言っていることは本当です。……って認めるのも恥ずかしいけど、自分は人混みの中を移動するのが苦手で……。不快な思いをさせてしまったなら申し訳ない」

 正直に答え、深々と頭を下げた。舞も俺に続く。納得してもらえたのか、ユージンさんはそれ以上追及しなかった。

「……この件に関しては、今はおいておきましょう。それより、二人でここを訪ねてきた理由は……?」

「もちろん、お礼を言うためです」
 舞がまごまごしているので、俺が理由を説明する。
「このたびは、情けない俺のために応援歌を作り、歌ってくださってありがとうございました。とても感動しました。同時に、あなたの懐の広さを知り、舞に相応しいのがあなただという確信に至りました。完全に俺の負けです。参りました」

「え……?」
 俺が負けを認めたからか、ユージンさんは驚きの声を発した。
「ってことは、応援歌はちゃんとあなたの心に響いたってことですか?」

「応援歌はもちろんのこと、最後の歌もちゃんと。……あれ、舞のことを想って作った曲なんでしょう? 宣言しなくても、俺には分かっちゃいましたよ」

「あー……」
 知られたくなかったのだろうか。俺が指摘したもんで、ユージンさんは急に顔を真っ赤にし、黙りこくってしまった。

 せっかくこっちが折れたんだから堂々としてもらいたいものだ。舞の背中を押し、彼の隣に並ばせる。

「今、舞の隣にいるべきはあなたです。舞をよろしくお願いします」

「圭二郎さん……」

「あー、だけど『今は』ですよ? あの歌の通り、これから俺は立ち上がるつもりなので、そしたらまた舞を口説きに来ます。復活した俺は多分、舞に相応しい男になってるはずなんで」

 現状は負けを認める。しかしそれは未来永劫変わらない氣持ちではない。当たり前のことを言っただけなのに、なぜか周囲にいたバンドメンバーに笑われた。少々苛立ったが、ユージンさんだけは俺の思いをくみ取ってくれたようだ。

「いつでも受けて立ちますよ。だけどオレたち、圭二郎さんが完全復活する前にイイ感じになっちゃうかも」

「だとしても、俺はこれからも舞との関係を続けていきます。会いたいときには会いに行くし、電話だって掛ける。だって舞は、友達のままでも俺を支えてくれると言ったから。まさか、俺たちの友情を壊そうなんて、意地悪なことは言いませんよね?」

「そんな無粋な真似はしません。あなたが舞さんと友達でいるうちはね……。万が一、本氣で口説きに来たら……。そのときはまた新しい曲を作ってあなたと舞さんに聞かせますよ。今度こそ諦めてもらえるように」

「いいでしょう。楽しみにしています」
 手を差し出すと、ユージンさんは力強く握り返してくれた。

「良かった。これでしばらくは争い事も無しね。……ああ、ユージン。もっとたくさんお話ししたいけど、今日は圭二郎もいるし、ライブを終えて疲れてるでしょうから、例の話は明日以降にでも」

「うん。それじゃあそうだな……。明日、ワライバで落ち合おう。時間は行く前に連絡する」

「……明日はわたしも休みだから、何時になっても大丈夫。連絡を待ってるわ」

「オーケー。それじゃ、また明日。今日はありがとう」

「こちらこそ、素敵な時間をありがとう。皆さんにもお礼を言います。ありがとうございました」

 舞が、お暇する前の挨拶をする。俺も続いて頭を下げ、二人揃って部屋を出た。



「このあとは、どうするつもり?」
 会場を出たところで舞が言う。
「理人さんのところに帰るの?」

「ああ……。だけど、今日で最後になると思う。ワライバでの仕事も」

「え?」

「俺も舞と一緒さ。このライブが終わったら身の振り方を考えるよう言われてる」
 楽しい時間を過ごしたあとで急にそんなことを言ったからか、舞は驚くと同時にさみしそうな顔をした。

 マスターに言われずとも、近いうちに自分から切り出すつもりだった。でも、昨日の仕事の終わりに向こうからはっきりと言われてしまった。いつまでおれの世話になるつもりなんだ? と。それは、遠回しに「いい加減自立しろ」と言っているに等しかった。

「ここに来る前はまだ迷いもあったけど、実際に歌や演奏を聴き、ユージンさんと対面したら覚悟が決まった。帰りながら自分なりの言葉に落とし込んで、それをマスターに伝えようと思う。上手く言えたら舞にも報告するよ」

「そう……」

「舞の方はどうするの? めぐさん、鈍っていた仕事の感覚を順調に取り戻しつつあるみたいだけど」

「うん……」
 舞は少し間を空けてから言う。
「わたしの方も、考えが少しずつまとまってきたところよ。自分にはやっぱりこれしかないって思いが強くなってきてる。方向性が決まったら、こっちも圭二郎にちゃんと報告するわ」

「そっか……。ひょっとして最後のは、舞にとっても応援歌だったのかな?」
 とっさに閃いて言うと、舞は大きく頷いた。

「実は事前にユージンが歌ってくれたから聴くのは二回目だったんだけど、ライブ会場で聴くと全然違うね。圭二郎と一緒に聴いたから、ってのもあると思う。感動のレベルが段違いだった」

「……ミュージシャンって、すごいんだな。舞があの人を好きになったのも分かるよ。だってこの俺でさえ、彼らの音楽には惚れ込んでしまったもの」

「ほら、言ったとおりでしょう?」
 舞は嬉しそうに笑った。
「彼らの音楽が聴きたくなったらいつでも話をつけてあげる。次に会うときはもう、圭二郎も新たな道を歩き出しているかな?」

「ああ。すぐにでも歩き出してみせるさ。見てろよ、俺の進化を」

「それでこそ圭二郎! どんな活躍を見せるのか、楽しみにしてるね!」
 向けられたその笑顔を目に焼き付けようと思った。舞の笑顔は俺の原動力。それを守るために俺は闘いの場に舞い戻る……。



 マスター宅に着くと、そこにはなぜか永江さんがいた。不思議がっていると、永江さんの方から話しかけてくる。

「その顔を見るにつけ、彼らの音楽が心に響いたようだな。かく言う僕もいい影響を受けた。それでここに来ているんだよ」

「どういうことでしょうか……?」

「僕もサザン×BBのライブに行ってきたんだ。舞さんから、圭二郎の応援歌が聴けるかもしれないと教えてもらっていたからね」

「あの会場に永江さんも?」

「ああ」
 頷いた永江さんは腕を組み、正面から俺を見つめた。

「応援歌を聴いた今、君がどのような考えに至ったのかを教えて欲しい。答えを出すのに期日はもうけないと言ったが、そろそろ出てもいい頃じゃないか?」

 威圧するでもなく、その目は純粋に俺の考えを知りたがっているように見えた。

「少し前に答えは出ています。でも、応援歌を聴いてより覚悟が決まりました」

「ほう?」

「……俺は、球界に戻ります。ただし、シーズンが始まっても俺をけが人扱いして表舞台から抹消しようとする今の球界に戻るつもりはさらさらありません。俺は、自分と同じような境遇に立たされている人を募り、決起し、新しい組織を作ります。なにも、プロ野球組織が一つである必要はない。年寄りの硬直的な組織ではなく、若い俺たちが時代に合ったプロ野球組織を作り、リードする。今はそういう思いです」

「良く言った。それが聞きたかったんだ」
 永江さんは大きく頷き、マスターも手を叩いて喜んだ。

「実は僕も『キミに送るメッセージ』を聴いて覚悟を決めたんだよ。もう一度立ち上がろうってね」

「えっ! それって、もしかして……?」

「うん。一度離れた身だが、君がそこまでやる氣に満ちているなら、過去に売った名前を武器に、野球界に新しい風を吹かせる手伝いをしてもいいんじゃないかと思ってね。……これで、僕の球界復帰を望んでいた君のお母さんも喜んでくれると思う。無論、彼女のためにそうするわけではないが、数年前にそのことで責められたのが頭から離れなくてね……」

水沢みずさわセンパイも、でしょう?」
 マスターに言われ、永江さんは苦笑いした。

「僕はあくまでも、圭二郎では動かすのが難しいであろう球界のお偉いさん方に口利きするだけだよ。だいたいのことは圭二郎にやってもらうつもりでいる」

「もちろんそのつもりです。やれます」

「実に頼もしいな。期待しているよ」

「はい!」
 返事をすると、二人は満足そうに頷いたのだった。


◇◇◇


 そこからは怒濤の日々だった。永江さんと同じマンションの一室に居を構えたのを皮切りに、両親との和解、両親や仲間の協力、球団を辞める手続きに資金調達と……。やったことのないことの連続だったが、不思議と縁がつながって氣付けばあっという間に新生野球組織が出来上がった。期間にしてわずか三ヶ月。

 これは既存の十二球団を束ねる組織とは全く別に動く。選手自身が楽しみながら試合をするのが特徴で、優勝争いもなければ、決まったシーズンもない。そして、なんと言ってもファンとの交流を密に行うところが最大の売り。これは、永江さん主宰の体操クラブに倣った。

 選手とファンが新風を巻き起こすこの組織を、俺は「舞風組まいかぜぐみ」と名付けた。舞風まいかぜとはつむじ風のこと。もちろん、俺が大好きな舞の名に掛けてある。よどみきった球界に新しい風を。そういう思いを込めた。

 もちろん、全く問題がないわけではない。俺にとっては嬉しいことだが、新生野球組織への入団を希望する人が続出したため、既存球団の一軍選手が不足。現在、シーズン真っ盛りだというのに、試合が成り立たないという異常事態が発生してしまっている。それに危機感を覚えた球団やオーナー企業の役員が、俺に責任を取るよう騒ぎ立てていて、面倒な状況になっているわけだが、ここに関しては年長の永江さんや父に場を取り持ってもらっている。

 世間的には、俺たちのやっていることは全く歓迎されていない。反逆行為、恩知らずとすら言われている。それでも賛同してくれた仲間は俺を支え、励ましてくれる。

「例の件のあと、一軍から登録抹消されたばかりか、行方不明になったと聞いたときにはみんなで心配してたんだぜ? ひょっとしたら殺されたんじゃねえかって噂すらしてた。でも、こうして復活する機会を窺ってたと知ってホッとしたよ。しかも、あの鬼の永江と実父の協力まで得て……。こうなったらとことん見返してやろうぜ」

 同僚の一人はそう言って俺を立ててくれた。しかし、同意は出来なかった。

「見返す、ってのは違うかな……」

「え、どうして? 散々いじめられてきたってのに?」

「そりゃあ、過去には利用されたり、存在を消されかけたりしたけど、なんだかんだ言って俺たちは……。いや、永江さんも父親も、あの世界で力をつけ、活躍してきたわけだろう? そのことには少なくとも感謝しようと思ってさ。だからこその、共存だよ」

「見返すのでも、叩き潰すのでもなくて?」

「そう。共存だ」

「……深いな。一度どん底を味わった人間の言うことはやっぱり違うぜ」

 彼は俺を褒めてくれたが、共存の道を選ぶ理由はほかにもある。それは若い子たちが憧れてまない既存の野球チームを自分の手で潰したくないから。そしてそこに、ともに歩んできた兄がいるから。

 創太のことが好きだから擁護する、と言うことではない。俺のやろうとしていることに異議を唱えるつもりなら、そしていま属している球界に残るつもりなら、問題だらけの組織を改革してほしい。その思いゆえの選択だ。

 そもそも、古い価値観を持っているからとか、氣にいらないからといった理由で相手を消すやり方を採用したのでは先方と同じ。それでは何の解決にもならないし、進歩もない。どうせやるなら俺たちらしい、新しいやり方で改革しなければ意味がない。

 この話をしたときの永江さんと父の反応は良かった。母だけは複雑な面持ちで、俺にも創太にもつかないという中立的な立場を取ったが、そこに母の、我が子への愛を感じたのだった。

 協力者はたくさんいる。うまくいってる実感もある。それでも時々、本当にこれで良かったのかと悩むことがある。そんなとき、俺を励ましてくれるのはいつだってあの曲、「キミに送るメッセージ」だ。

(舞、ユージンさん、ありがとう……。俺、頑張ってるよ……。)

 曲を聴き終えた俺は心の中でそう呟き、決意を新たに今日も動き出す。



――END――

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