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チェスの神様 【第一章~エピローグ】

(2021. 5.9 加筆修正の上、再投稿)


第一章

 今年の春は珍しく入学式まで桜が保った。
 昨日まで肌寒い日が続いていたが、今日は澄み切った青空が広がり、気持ちのいい陽気だ。

 真新しい制服に身を包んだ新一年生が、桜の下で写真に納まっている姿があちこちで見られる。初々しい、と感じてしまうあたり、僕もすっかりこの学校に慣れ切ったということか。

 二年前を思い出す。あの日の桜はとうに散ってしまっていたが、わずかに花の残った桜の木の下で記念撮影をした。中学の同級生は一人もおらず、僕は本当に一人の状態から高校生活をスタートしたのだ。

 不安はなかった。やりたいことがあった。それに打ち込んでいれば僕は僕でいられる。


 放課後、僕は部室に向かった。三階にある西側の小さな一室。九名の部員で構成される「チェス部」の副部長をしているのが僕だ。

 ドアは開け放たれていた。中をのぞくと、一番に来た部長が風を通そうと部屋の窓を開けているところだった。

 吉川映璃(よしかわえり)。僕はエリーと呼んでいるが、鍵開けは部長である彼女の仕事だ。僕は責任も少なくて気楽。足を向ければたいてい彼女はもう部屋を開けてくれている。しっかり者だから部長に適任なのだ。

「いい風だね」
 エリーの背中に向かって言った。

彼女は振り向かずに、
「アキもここにおいでよ。みんなが来るまでここで日向ぼっこしよ」
 と言った。

「いいね」

 陽だまりが好きだから、僕は迷わずエリーの隣に立ち、窓の外を眺めた。
 温かさが気持ちいい。不意にあくびがしたくなる。

「……ねぇ、一戦付き合ってくれない? 後輩たちが来る前に」
 急にそんなことを言われたので、あくびが中途半端になる。

「エリーがそんなことを言い出すなんて珍しいね。雨が降らなきゃいいけど」

「そういう日もあるんだって。いいでしょ? どっちが先手?」
 エリーが白と黒の駒を一つずつ持って差し出す。

「選んでいいなら、僕は白。先手で。エリーは強いから」

 部長にふさわしく、チェスの腕も確かだ。高校に入ってから始めたとは思えないほど強い。小さいころからチェス漬けだった僕が手ほどきしたっていうのもあるとは思うけど、エリーにはチェスの素質がもともと備わっていたと思っている。

「よろしくお願いします」
 一礼をして、さっそく駒を動かし始める。

「ねぇ、あの話、本当なの?」
 二手進めたところで、エリーが不意に問うた。

「あの話って、なんのこと?」

「すごく聞きにくいんだけど、そのぉ、『いけこま』が結婚したって話。アキのお兄さんと」

 持っていたチェスの駒を落とす。

「……な、何、その話。どこで聞いたの? 誰情報? 僕、知らないんだけど」
 次の手を考えるどころじゃない。頭の中が真っ白になる。

 いけこまっていうのは、保健室の先生をしている池村駒(いけむらこま)先生のこと。都内で会社員をしている兄貴と接点があるはずがない。

 エリーは続ける。
「さっき、鍵を取りに行ったときにね、職員室で聞いちゃったの。今日から野上家でお世話になるって話してるのを」

「だけど、どうしてそれで僕の兄貴と結婚ってことになるわけ? いけこまが『野上』って言ったとしても、そんな苗字の人はどこにでもいる」

「私もそう思ったんだけどさ、一緒に話してた先生が『野上君とうまくやれるといいわね』って。これはもう、アキのうちの話でしょ?」

「いや、だから僕は聞いてないよ、そんな話。だって結婚だなんて話になったらふつう、事前にあいさつに来たり、顔合わせしたりするんじゃないの?」

「私に聞かれてもわかんないよ。じゃあ、アキは知らないんだ」

 知らない、というより知らされてないといったほうが正確だろう。もしその話が事実なら、僕は家族から隠し事をされていることになる。

「……いけこまに聞いてくる」
 頭が大混乱している。チェスをしている場合ではない。気づけば走っていた。

「私も行くよ!」
 後からエリーもついてきた。

 しかし、職員室にいけこまの姿はなかった。保健室にもいない。聞けばすでに帰宅したという。

「ますます怪しいね」

「ごめん、僕も帰るよ。今日はチェスをやれる頭じゃない」

「わかった。真偽のほどがわかったら教えてよね。情報つかんだの、私なんだから」

「はいはい。明日はちゃんと出るから」

「うん、それじゃまた明日ね」


 教室を出て自転車にまたがった僕は全力疾走で漕いだ。家まで二十五分。その間もずっと混乱が続いた。

 僕だけが知らされなかったこと。兄貴がなぜいけこまと知り合ったのか。そもそも、順調な社会人生活を送り始めたばかりの兄が、なぜ突然結婚する道を選んだのか……。

 いつもと同じルートのはずなのに、なかなか家につかない。
 もっと早く、もっと早く……!
 自転車を漕げば漕ぐほど、頭の中は空回りしていく。


 自転車を放り捨てるように停めた僕は、すぐに家の中に入った。
 見慣れない男女の靴。兄といけこまのものか。
 エリーの言葉が正しかったことを悟る。

「ただいま」
 意図せず、やや怒りのこもった声が出た。

居間から男女の会話が聞こえる。
両親のものでないことはすぐにわかる。
ほどなくして顔を見せたのはやはり兄だった。

「おう、彰博(あきひろ)。相変わらずチェスやってんのか?」

「なんだよ、それ。突然帰ってきてさ。最初の挨拶がそれなの?」

「おいおい、何怒ってんだよ。急に帰ってきちゃ悪いのか? ここはおれの実家でもあるんだぜ?」

「そこじゃない。いるんでしょ、いけこま」

「あれ? 何で知ってんだ? 驚かせようと思ったのに。さては母さんが口を滑らせたな? じゃあ話は早いや」
 兄はそう言ったかと思うと、自慢げに語り始める。

「駒(こま)っちゃんは大学の先輩の友達なんだ。
ほら、学校なんて若い先生少ないし、出会いないだろ? 
だから合コン開くって聞いて参加してきたんだよ。んで、おれが一目惚れ。
六つ上だって聞いてびっくりしたけど、年の差は感じないし、好きになっちゃったもんは仕方ないよな」

「ふぅーん。出会いは分かった。でも、結婚だなんて急すぎない? だって兄貴は、社会人二年目になったばっかじゃなかった?」

「まあ、そうなんだけど、しゃーないじゃんか。子供が出来ちゃったんだから」

「子供……。でき婚なの?」
 兄貴の後ろに隠れるように立ついけこまを見る。
 彼女が恥ずかしそうに目を伏せたのが分かった。

「へぇ、兄貴がそんなにだらしない奴だったなんて知らなかったな」

「おいおい、そういう言い方はやめてくれよ。責任はおれがとる。ちゃんと育てる。親の面倒だって見る。何も考えてないお前と一緒にするな」

「ちょっと、みっちゃん! そんないい方しなくても」

「彰博、帰ったか」

 その時、ドライブを終えて帰宅した父さんが居間にやってきた。
 兄たちがいるというのに何も言わない。

「もう挨拶は済んだってわけ? いつから知ってたの、結婚するって話」

「ああ、一か月くらい前に連絡があってな。四月になったらうちに来るから、いろいろ準備しといてくれって」

「準備って? 心の?」

「それもあるが、家具とか部屋の片付けとか、いろいろだ」

「ちょっと待って……。うちに来るって、同居するって意味? 挨拶じゃなくて?」

「そうだよ。路教(みちたか)や母さんから聞いてないか? てっきり話が言ってるもんだと思ってたがなぁ」

「今、初めて聞いた」

 こういうことに関しては、父さんはいつだって母さん任せだ。そして誰が家にいようが対応は変わらないといわんばかりに、

「まあ、そういうわけだから、仲良くやってくれ。駒さんとは初対面じゃないんだろう?」
 そんなことを言う。

「しってるけど、やりにくいな。……じゃあ、母さんは知ってるんだね? 二人が今日からここで暮らすこと」

「そりゃそうだよ。そういえば、今日の夕飯の食材は冷蔵庫に入っているから、人数分作ってくれって伝言だ」

「人数分……。五人分、か。分かったよ」

「え? 彰博君が作るの? あの、あたし、やるよ? お客じゃないんだし」
 いけこまが慌てた様子で前に出た。

「大丈夫です。母さんが英会話教室のレッスン日で僕の帰りが早い時は、僕が夕食を作る決まりになってるんで。それに作るの、慣れてますから」

 それに、初めてやって来たいけこまに家のことを切り盛りされるのは嫌だった。

「でも……」

 まだ何か言いたげないけこまに、兄貴が「いいの、いいの」という。
「うちはみんな、役割分担なんだから。そうだろ?」

 年が六つ離れているせいもあって、兄貴はいつだって偉そうに振る舞う。家を出て行ってからはそれがなくなってせいせいしていたのに、またこの生活が始まるのか。


 かばんを片付け、着替えを済ませた僕は早めに支度を始めるべく台所に立った。やれやれ、三人分ならすぐなのに、大人五人ともなると途端に面倒だ。

「夕食、なあに? どんなのがよく出るの?」
 いけこまがそばにきて話しかけてきた。いつもの台所のはずなのに、香水の匂いのせいか、自分のうちじゃないみたいに感じる。

「えーと今日の夕食は、肉じゃがと菜の花のおひたし、ナスの漬け物、きんぴらごぼうにご飯と味噌汁。まぁ、いつもこんな感じですね」

「へえ、そうなの。健康的な献立ね」

 いけこまはこんな調子でその後もずっと僕に話し続けた。
 晩ご飯を作るのにこんなに緊張したことは未だかつてない。
 家庭科の調理実習の方がまだ気楽だ。

 やっとの思いで夕食を作り終えたとき母さんが戻ってきた。
「ありがとう、彰博。もうお腹ぺこぺこよー。駒さんに手伝ってもらってないでしょうね?」

「ちゃんと僕一人で作ったし」

「そう? さあ、駒さん。ご飯にしましょう。席に着いてー!」
 母さんはわざわざ確認した。

「はいはい、僕が運びますよ。えーとこれは……」

「あ、あたし運ぶよ。そのくらいはやらせて」
 横から急に手が伸びてきた。

「やれやれ。じっとしていられないんだね、いけこまは」

「うん、そうなの。動いている方が性に合ってるから」

「じゃあお願いします」
 茶碗の乗ったお盆を手渡した時だった。

「彰博! 駒っちゃんにやらせるなって言ったろ! 身重なんだから、彼女は」
 兄貴が叫んだ。思わずいけこまと顔を見合わせる。

「やらせてちょうだい。みっちゃん、心配しすぎ」

「だけどさ」

「彰博君、これ持ってくね。次に運ぶものも用意しておいて」

「わかりました……」
 いきなり夫婦げんかはやめてほしい。
 この先もずっとこんなふうなんだろうか。

 兄夫婦が僕の居場所を押しのけ、居座ったような気がした。
 小さな家に五人で暮らすのは窮屈すぎる。


 今日の晩御飯はひどい味がした。作った僕が言うんだから間違いない。

 いつも面白いと思って見ているはずのバラエティー番組さえ、今日は一つも笑えない。笑っているのは兄貴だけだ。時の経過もやけに遅く感じられる。

「ちょっと、外に出てくる」
 おもむろに席を立つ。

「どこまで行くの?」
 背後からいけこまの声が聞こえた。

「どうせ駅だよ、きっと。あいつ、電車眺めるのが好きなんだ。いつでもふらっと出かけるんだよ」
 兄貴が僕の代わりに返事をしたのが聞こえた。


 月曜の七時過ぎ。ちょうど電車が到着したらしい駅は、新学期が始まったばかりとあって、中高生が多かった。だが、乗客が散ってしまうと途端に人気がなくなった。

 小さな駅だ。駅員すらいない。だけどこの小ぢんまりとした雰囲気が好きだ。

 次の電車が来るまで二十分ばかりある。それまでの間、駅のベンチに座ってぼんやり過ごそう。

 屋根すらないホーム。外灯と月だけが僕を見ている。

 兄貴が未だに僕のことを、幼稚でグズでひとりじゃ何も出来ないやつだと思っているのは発言を聞けば分かる。

 確かに僕はチェス以外はからっきしダメだ。先のことは本当に何も考えてないから、そう言われれば反論も出来ない。

 だけど僕はどうしても兄貴のような人生を歩む自分を想像することが出来ないんだ。
 大学、就職、結婚……。

 兄貴の、絵に描いたような順調な人生をなぞるように歩くことに何の意味がある?
 比較され、落ち込むのは目に見えてるのに。

「いたいた。彰博君!」
 誰かが僕を呼んだ。ゆっくりと顔を向ける。

「いけこま……じゃなくて、えーと」
 とっさに何て名前を呼べばいいかわからなくて戸惑う。あえて離れたのに、また現れた兄貴の奥さん。僕のことは放っておいてほしいんだけどな。

「いいよ、いけこまで。呼ばれ慣れてるしねえ」
 迎えに来たのか、すぐに帰りそうもない。仕方なく話を続ける。

「あの。先生って、つけた方がいいですか?」

「身内なんだから、いらないでしょ。学校ではなるべくつけて欲しいけど」

「それもそうですね」

「緊張してる?」

「少し」

「うん。あたしも」
 なんだ、いけこまもか。お互いさま、と思ったら少しほっとする。

「隣、座っていい?」
 そう言っていけこまはベンチの端にちょこんと腰掛けた。

「どうしてここに来たんですか?」
 僕の問いかけに、いけこまは即答する。

「彰博君と話したかったから。……というのもあるけど、ご両親との会話が保たなかったのと、場の空気に耐えられなくて。慣れなきゃいけないのにね」

「逃げてきた?」

「うん。駄目だね、あたし。こんなことで同居だなんて」

「……もしかして、兄貴に言ってないんじゃないですか? 本当の気持ちを」

「…………」
 いけこまは目を伏せ、胸を押さえた。

 兄貴は自分の決めたことは貫き通す人間だ。こっちの考えをしっかり言わないと、すべてが兄貴の考え通りに進んでしまう。

 僕は何度となくそれを経験しているから分かる。
 幼い頃は言いくるめられることも多く、それが嫌で仕方がなかった。

「なら、僕から言いましょうか?」
 口が勝手に動き、言葉を発していた。

 いけこまが「え?」と返すのと同じ気持ちを僕自身が抱く。
 けれども僕の口は止まらない。

「いけこまが悩んでることにも気が付かない、どうしょうもない兄貴には僕から一言いってやりますよ。大丈夫。人付き合いは苦手だけど、兄貴にならちゃんと言えます」

「彰博君……」

「僕ら、今日から家族じゃないですか。困った時は力になりますよ」
 いけこまが弱々しく微笑んだ。

「ありがとう。彰博君の気持ちはすごく嬉しい。でも……。でも自分で言うわ。すぐには無理かもしれないけれど、ちゃんと自分で言わなくちゃ意味がないと思うの」

「いけこまは強いんですね。でも、我慢しちゃだめですよ。今回は、僕から言いますよ」

「でも」

「僕だって、変わりたいって気持ちはおんなじですから」
 そこまで言い切ってようやく自分の本心を知った。
 さっきまでの不満や劣等感が闘志に変わる。

「おんなじ、か。ふふ。彰博君とはなんだか仲良くできそう」
 いけこまは笑い、息を吐き出しながらベンチの背にもたれた。

 それを合図とするかのように電車がホームに滑り込んできた。

 JR川越線の電車は単線なので、上りか下りのどちらかしかホームに停車できない。そのうえ、四両編成。本当にローカルな路線だ。

「乗ったこと、あります?」

「ううん。まだ」
 僕の問いにいけこまは首を振った。

「一度乗ってみてほしいです。
 そりゃあ、車を運転できる人が川越や大宮行くのにわざわざ乗るのもなぁって思うかもしれないけど、人っ気のなさと適度な揺れがいいんですよね。
 必要としているわずかな人のために走るこいつが好きです。
 僕もそういう人間になりたいって思います」

 座席の数を減らしても多くの人間を乗せ、都心まで運行するのが当たり前の時代。
 そんななか、少ない本数ながらも郊外に住む人のために運航しているこの路線が僕をほっとさせるのだ。

「なんか、彰博君と話していると、自分の生き方を考えさせられるっていうか。
 ……もっと気楽に生きていいんだなって思える。この路線って、急行はないの?」

「各駅停車です。終点までね」

「そっか。いいわね。今度、これで終点まで行ってみようかしら」

「いいと思います。初めて乗るときは僕が案内しますよ」

「優しいのね。ありがとう。でも、電車くらい一人で乗れ……」

「まず、自動ドアじゃないんで、この車両。そこから覚えないと」

「え?!」

「ほら、知らなかったでしょ」

「……はは、初めての時はいろいろ教えてもらわないとダメそうだね」
 一緒に笑う。もう、ほんの数十分前まで感じていた嫌な気持ちはなくなっていた。

「駅、誰もいなくなっちゃったね」

「うん。乗降客掃けたらしばらくはこんな感じ。なんせ、次の電車が来るまで時間がある
んで」

「そっか。ほんと、ローカルだね。……そろそろ帰ろうか」

「うん」
 僕は自然と返事をしていた。

 楽しげに帰宅した姿を見たら兄はなんて言うだろう。
 「仲良くするなよ、おれの奥さんだぞ」って不満げな顔をするのが目に浮かぶ。
 とことん笑顔で帰ってやろうと決めた。


 翌日、学校に行くと、いけこまが僕のうちにやってきたことが知れ渡っていた。

「お前の兄貴、なかなかやるなぁ。いけこまとどこで知り合ったんだって?
 今度、野上んちに遊びに行かせてくれよ。
 美人でスタイル抜群の義姉(ねえ)ちゃんが家にいるなんて、いいよなぁ」

 おそらく、情報の発信源であろう、鈴宮悠斗(すずみやゆうと)がなれなれしく話しかけてきた。

「美人を見つけるセンサーは相変わらずだね。でも、いけこまは兄貴の奥さんだから、僕は関係ない」

「同じ家に暮らしてて、関係ないわけないだろ。飯だって作ってくれるんだろ? いいよなぁ」

「でも、うちは僕が料理番だから」

「わかってねぇなぁ、野上は! 俺だったら絶対作ってもらうね」

「はぁ」

「ったく、お前のその、気の抜けた返事を聞いて嫌になるぜ。お前の義姉さんがいけこまだなんて、もったいなさすぎる」

 そんなことをぐちぐち言われても、僕だって困る。
 大体、僕からすれば突然やってきて迷惑だとさえ思っているんだから。

「そんなに手料理が食べたいなら、エリーに作ってもらえば? 料理得意だって言ってたよ」

 僕は話題を変えた。鈴宮はエリーと付き合っている。
 だからいけこまのことで羨ましがるのはそもそもおかしいのだ。

 だが鈴宮は「ふんっ」と鼻を鳴らした。
「映璃の料理? あいつはかわいいけどそれだけだ。
 ったく、生理が来ないんならヤらせてくれって言ってんだけど、ちっともさせてくれねぇ。
 何のために付き合ってんだかわかりゃしねぇよ。
 おっぱいも尻もないし、目の保養にもならねぇ」

「はぁ」

「まぁ、お前にゃわかんないだろうぜ。せいぜい、映璃とはチェスごっこでもやってな」

「ごっこって……」

「おっと、怒るなよ。冗談だぜ」
 僕が眉を顰めると、鈴宮はさっさとどこかへ行ってしまった。

「あいつとは関わりたくないな……」

 同じクラスだから嫌でも顔を合わせなければいけないが、それ以外では話したくもない。
 エリーはあいつのどこに惹かれて付き合っているんだろう。

 顔立ちが整っていてスポーツマンだから、女子の人気が高いのは知っている。
 だけど、頭の中はいつだって女の子のことでいっぱい。不潔だとさえ思う。


 放課後、「ごっこ」と言われた部活に向かう。
 ただ駒を動かしているわけではない。
 いかにして勝つか、常に戦略を練っている。
 相手の動きを考えている。いつだって真剣そのものだ。

「今日も早いね」
 やはり一番はエリーだった。

「だって部長だから。鍵、開けておかないと誰も入れないでしょ」

「そうだけど」

「……どうかした? 顔色が優れないみたい」

「僕? うーん、そうかもしれない」

 僕は今朝の出来事を正直に話した。
 エリーは「しょうがないやつ」とため息をついた。

「ごめんね。あいつ、いつでもそんなことしか言えなくて。サルみたいよね」

「……エリーは鈴宮のどこが好きなの?」

「どこって……顔かな」

「そう」
 平凡な答えにがっかりした。
 もっと聡明だと思っていたのに、顔で付き合う人間を判断していたとは。

「ごめん、今日は部活やすむ」

「……わかった。顔色悪いもんね。お大事に」
 昨日から僕の調子は崩されっぱなしだ。
 人に何かを言われただけで怒ったり落ち込んだりしている。
 今までこんなことはなかったのに。


 家に着くと、いけこまがちょうど車を車庫に入れるところだった。
 妊婦は仕事を早めに切り上げられるんだろうか。

「おかえり、彰博君。今日は部活休み?」

「なんか、調子でなくて」

「そっか。うん、そういう日もあるよね。
 あたしもなんだか体調がすぐれなくて早退しちゃった」

「どおりで早いと思った」
 二人して帰宅すると、さっそく母が出迎えた。

「あらあら、おかえりなさい。
 もう、晩御飯の下準備は済ませてあるからね。
 おなかがすいたらすぐ食べられるわよ」

「えっ」
 確かにきょうは母さんの教えている英語教室は休みの日だけど、僕が帰宅する時間に下ごしらえが済んでいるとは。
 いったいどういう風の吹き回しだろうか。

 僕が戸惑っていると、母さんが早口でたたみかける。
「あ、これからは母さんが食事の支度をするからね。
 駒さん、元気な赤ちゃんを産むまでは私に任せてちょうだい。
 路教の分もわたしがやるから」

「そんな……。路教さんの食事は私が用意しますよ?
 帰宅が遅いのは知っていますし、慣れていますから」

「そうは言っても、夜更かしは体に悪いわ。お仕事もしてるし。
 ね、夜は早く寝て、少しでも体に障らないようにしなさいな」

「…………」
 明らかに戸惑っているのが分かった。

 母さん、と言いかけてやめる。
 僕が母さんにいけこまの考えを伝えるのは簡単だ。
 でも昨日いけこまは、自分の問題は自分で解決したいと言っていた。
 ここで余計な発言をするべきではないだろう。

 僕は少し考えて、
「いけこま。チェス、出来る?」
 と提案した。

「チェス? ルールは知ってるけど」

「やることないなら、一戦、どうですか?」

「彰博君、チェスが好きなの?」

「こう見えて、チェス部の副部長」

「副部長さん!」
 いけこまは目を見張った。僕は肩をすくめる。

「といっても、三年生が二人しかいないから、部長と副部長の二択しかなかったんですけどね」

「そんな経緯があったとしても、何だか強そう。副部長ってだけで」

「まあ、手加減はしますよ」

「そう? なら、やってみようかな」

 自室はお世辞にも片付いているとは言えないから、僕は部屋からチェス盤と駒を持ってくると、居間のテーブルに置いた。

「彰博、駒さんに迷惑かけちゃだめよ」
 母さんの声が聞こえたが気にしない。

「白、どうぞ。先手の方が勝率高いんで」

「ではでは、お願いします」
 いけこまが畏まって挨拶をする。最初のポーンが動かされる。

「はい、そう来ましたか。なら僕は……」
 すぐに動かして次の手を読む。

「えーと、それじゃあ次は……」
 いけこまはずいぶんゆっくりと、悩んだり迷ったりしながら駒を動かしている。

「そういえば昨日、兄貴に言えました?」
 無言でやるのもなんだから、互いに三手進めたところで問うた。
 いけこまは静かに答える。

「ううん。結局言えなかった」

「どうして?」

「はは。我ながら情けないけど、やっぱり勇気が出なかったの。自分でいうって、言ったのにね」

 その後は沈黙が続いた。
 わざと不利になる場所に置いてみたり、ちょっとアドバイスしてみたり。
 まるで一年生に指導しているみたいでついつい夢中になる。

「参りました……」
 手詰まりしたと感じたのか、いけこまは降参した。
 初心者でここまでやれるんだから、なかなか筋がある。
 もしかしたら、兄貴とやったことがあるのかもしれない。

「途中、いい線行ってたんですけど、惜しかったですね」

「ちゃんと勉強しないとね。基礎を学べる本があったら貸して欲しいかな」

 案外真剣そうな顔つきだったので、チェス部副部長の血が騒ぐ。
「じゃあ、ちょっと待っててくれますか?
 僕の部屋にたくさんあるんですよ、基礎の本っていっても」

 立ち上がると、いけこまがくすっと笑った。

「ねえ。ひょっとしてチェス部って彰博君が作ったの?」

「違いますよ。もとからありましたよ」

「ごめん、気に障ったなら謝るね。
 でも、チェスにまっすぐな彰博君みてたら、部を立ち上げて引っ張っていく力もあるなって思ったのよ」
 そんなふうに言われたのは初めてだった。

 チェスは陰気な人間の集まり。日の当たらない部活。
 落ちこぼれの行くところとさえ言われている。
 でもいけこまはそうは言わず、僕の誘いにも乗って一戦してくれた。

 先生だから? 一瞬そう思ったけど、そうじゃないとすぐにわかる。
 いけこまがそういう人間なのだ。
 自分の意見を飲み込んでしまうほどに優しすぎる人。

 ひょっとしたら兄貴は、自分をまるごと肯定してくれるいけこまの優しさに甘えているのかもしれない。
 だからって、いけこまの意見を聞かない理由にはならないだろう。
 兄貴のことを思いだしたら、これまで受けてきた数々の仕打ちがよみがえり、無性に腹が立ってきた。

「いけこま。ちょっとこっち来て」
 僕は母さんに声が聞こえない場所まで移動した。

 いけこまはきょとんとした顔でついてくる。
「なぁに? 改まった顔で」

「無理しないでくださいね」

「えっ?」

「結婚したからって、我慢しなきゃいけないってこと、ないと思うから」

「ありがとう、やさしいのね。でも、大丈夫よ」
 嘘だとすぐにわかる。

 ――なんとかしてあげたい……。
 そう思った瞬間、面白い考えが頭に浮かんだ。

 僕は声を低くして言う。
「あのさ、いけこま。……僕と家出してみる?」

「ええっ?!」

「しっ! 声が大きいってば!」

「あっ、ごめん!」
 彼女は自分の口を押さえて母さんのいるほうに目をやった。
 こちらに来る様子がないのを確かめてから、

「でも、家出って急にどうしたの?」

「兄貴を一泡吹かせてやりたいなぁって思って。不満なんでしょ、いろいろ」

「あぁ、二人で出かけるって意味ね」
 彼女は安堵の表情を浮かべた。でも僕は本気だ。

「いけこまはおなかに赤ちゃんいるし、無理はしませんよ。でも、兄貴が心配して探し回るくらいには家を空けてもいいんじゃないですか?」

「んー、でも、そんなことしたら彰博君が怒られちゃうんじゃ」

「僕は大丈夫ですって。慣れっこなんで。心配なのが僕のことだけだったら、やりませんか? そうだなぁ、次の週末にでも」

「週末かぁ」
 いけこまはしばらくの間考え込んだ。僕は何も言わず答えを待つ。

「うん、わかった。この先、ずっとこれじゃ駄目よね。あたしもここらで覚悟を決めなきゃね。やりましょう」

「何も話してないですよね?」

「うん、大丈夫。こういうの、結構得意なのよ」

「なら、OK」

 土曜日の早朝。僕たちの計画はスタートした。
 両親には、二人で学校に行くと言ってある。
 同じ学校の先生と生徒だからつける嘘だ。

 結局いけこまは自分の想いを伝えることが出来なかったようだ。
 兄貴の帰宅後は、母さんが尽きっきりで世話やらおしゃべりやらをしていたと言うから無理もない。

 それでいて兄貴の方も「全部母さんにやってもらえばいい。駒っちゃんは休んでて」なんて言うから余計に言い出せなかったのだとか。

「みっちゃんにとってあたしって何なんだろう。
 いなくてもいい存在なのかなって、夕べはずいぶん落ち込んじゃったんだよねぇ。
 きょう彰博君と出かける予定があって良かったわ」
 いけこまは苦笑いした。

「それで、どこまで行こうか?」
 彼女がそういうのを待っていた。

「川越の街、歩いたことある?」

「実は、ないんだよね。城南高校に赴任してから川越のことを知って、それからは学校とアパートとの往復だったから」

「まじめだねぇ」

「そうかなぁ?」

「じゃあ、案内しますよ。この街を」

「本当? 一回、見てみたかったんだ」

「よかった、決まり。でも、辛くなったらいつでも言ってください」

「うん、ありがとうね。あ、もしかして、あの電車に乗れる?」

「もちろん」

「わーい、楽しみにしてたんだぁ!」
 いけこまは子供みたいに両手を挙げた。


 最寄りの西川越駅まで歩き、電車で一駅。
 この街の中心地に降り立つ。
 土曜日とはいえ、早朝の川越駅は人が多い。
 駅舎から、あらゆる方面へ人の流れがのびていく。

「本当は歩いたほうがいろいろ案内できるんですけど、今日はバスに乗りましょう。
 観光名所まで一気に行けますよ」

「気を遣ってくれてありがとう。じゃあお言葉に甘えてそうさせてもらうわ」

 市街地はバス網が充実している。
 メインの観光名所は、巡回バスに乗れば一通り見て回れるようになっている。
 初めて観光する人にはもってこいだ。
 バスはほどなくしてやってきた。

「へぇ、このバス、可愛い」

「この、クラシカルなボンネットバスが川越らしいでしょ」
 僕はいけこまと並んで腰かけた。
 動き出すと、車内アナウンスが川越の名所について丁寧に説明を始めた。
 しかし、いけこまはそれを聞かないで僕に話しかける。

「彰博君が一番おすすめしたい場所ってどこなの?」

「そりゃあ喜多院(きたいん)ですよ」

「へぇ」

「もちろん、そこに案内するつもり」

「楽しみだわ」

「じゃあ、着くまでに少しうんちく話」
 僕はこれでも歴史は得意だ。

「川越が江戸時代にどんな位置づけにあったかっていうと、徳川家康が川越を重要な拠点とみなしていて、家臣の酒井重忠を置いたんです。
 三代将軍の家光誕生の間っていうのも、実は喜多院にあるんですよ。
 川越が大火に見舞われた時、喜多院のほとんどの建物が消失してしまったんですが、それを知った家光が江戸城の別殿を移築させたほど」

「そうなんだ! すごいんだね、川越って。
 家光なんて、歴史の授業で習ったことくらいしか知らなかったよ」

「でしょう? それだけじゃないですよ。
 その、家光誕生の間は見ることができるんです」

「え?! 重要文化財なんじゃ……?」

「拝観料を払えば、だれでも見られます。
 ほかにも、春日局の化粧の間や五百羅漢(ごひゃくらかん)っていう、お地蔵様みたいな石像も面白いから見てみるといいですよ。
いろんな表情があって結構楽しめます」

「京都にある、三十三間堂の観音様みたいな?」

「そうそう、そんなイメージ」

「へぇ。行ってみたいなぁ」

「行きましょ、行きましょ」
 知識を披露できて大満足の僕は、その高揚した気分のままいけこまを喜多院の各名所に案内した。

 久しぶりに足を運んだ境内の荘厳な空気に身が引き締まったり、五百羅漢像のユーモラスな表情に思わず笑ったり。

 なんだかんだで、いけこまが身重だってことをつかの間忘れるくらいには楽しい時間を過ごした。いけこま自身もそうだったみたいだ。

「ねぇ、ほかにも回ろうよ。すっごく楽しくなってきた」

「ほんと? それじゃあね……」
 いけこまがワクワクしている様子だったから、僕もうれしくなって「次は時の鐘だな」なんて考えていた。

 そんな時、いけこまのスマホが鳴った。
 彼女は、はっとした表情で慌てて電話に出る。
 僕はすぐ、電話の主が誰だかわかった。
 観光案内の続きは後日になりそうだ。

「もしもし、みっちゃん……。ごめん、いま喜多院にいる……。
 ううん、彰博君と一緒」

 ――彰博と一緒?!
 スピーカーから荒々しい声が聞こえた。
 兄貴が眉をつり上げている様が目に浮かぶ。
 しかし、いけこまは動じなかった。

「すぐには帰らない。
 あたし、もう少しこの街のことを知りたいの。
 彰博君、とっても詳しいのよ、川越のこと。知ってた?
 話も上手だし、一緒にいてすごく楽しいの。
 そう、今のみっちゃんといるよりずっと。
 だから、もう少しだけ二人でいさせて」

 ――何言ってんだよ! 彰博と代わってくれ。直接話がしたい。
 電話の向こうの兄貴が、今にも掴みかかって来るんじゃないかと思わせるほどの声量で訴えている。

「代わろうか?」

「ううん、いい。あたしが何とかする」
 たまりかねてそう言ったが、いけこまは拒んだ。

 そして、
「みっちゃん、あたし、ここで待ってる。喜多院で待ってるから」
 兄の返事も待たずに電話を切ってしまった。

「いけこま、やるね」

「……こんなふうに言ったの、初めて。なんだか怖い」
 いけこまの手は震えていた。

「大丈夫。口は悪いけど、いいやつだから。
 いけこまだって、そう思ったから結婚したんでしょ?」

「そうだね。うん、きっとわかり合えるよね。
 ……みっちゃんが来るまで、一緒にいてくれる?」

「もちろん。
 あっ、そこの和菓子屋さんで和菓子買って食べませんか?
 兄貴が来るまで三十分くらい待つだろうから」

「……そうね」
 和菓子を買った僕らは、境内にあるベンチに座った。

「いただきます」

 小さな和菓子を一つだけ静かに頬張るいけこまは今、何を思っているんだろう。
 そして、ここにいる僕にいったい何が出来るだろう?
 僕には、いけこまにかける言葉すら見つけられない。
 一緒にいることしか出来ない僕は、あまりにも無力だった。


 長い沈黙の時が流れた。

「あっ、兄貴」
 遠くに、僕の自転車に乗った兄の姿が見えた。必死の形相だ。

「僕、外したほうがいいかな」
 二人だけのほうが話しやすいかもしれないと思って立ち上がる。

「いかないで。一緒にいてくれないかな」
 だが、いけこまに服の端をつかまれたので、座りなおした。

 本音を言えば、逃げたかった。
 が、どうやら僕も覚悟を決めなければいけないようだ。

「駒っちゃん! 駒っちゃん!」
 自転車を放り投げ、兄貴はいけこまの前で平謝りした。
 僕が隣にいることに気づかない様子で、いけこまだけを見ている。

「ごめん。いろいろ、ごめんなさい!」

「いろいろって?」

「いや、だからその、かまってあげられなくて」

「他には?」

「おればっかり仕事の愚痴言ってることとか」

「他には?」

「休日、早起きできないこととか」

「他には?」

「え、まだある?」

 兄貴は少し考えて、
「ごめん。おれ鈍いから、気付いてないことがきっと一杯あると思う。
 だから、ちゃんと教えて。
 言ってくれたら、今度から直すようにするから」

「……じゃあ、言います」
 いけこまはまっすぐに兄貴を見る。

「あたし、みっちゃんと過ごす時間を大切にしたいの。
 だって結婚したんですもの。
 一緒にいるときは、いつも同じものを見ていたい。
 それが、あたしの本音」

「うん……」

「……お義母さんがみっちゃんのこと、大事に思ってるのは分かる。
 だから何でもやってあげたいって気持ちも理解できる。
 でも、でもね……。
 あたしだってそれは同じなのよ。みっちゃんの力になりたいって気持ちは。
 だから……妊娠していることを理由にあたしの存在を無視しないで欲しいの。
 ……なんてね。今のはあたしのわがまま。
 ごめん、やっぱり、今のは忘れて」

 いけこまの消え入りそうな声を、兄貴は黙って聞いていた。そして小さく息を吐く。

「駒っちゃんがそんなふうに思ってたなんて知らなかった……。
 おれ、無視してるどころか、むしろ大事にしてるつもりだったんだよ。
 ……母さんに食事の支度や身の回りの世話をやって欲しいって頼んだのはおれなんだ。
 そのことで駒っちゃんを傷つけてしまったのなら謝るよ。本当に、ごめんなさい」

 兄貴は深々と頭を下げた。そして肩を落とし、ため息をついた。

「……おれ、駒っちゃんからの信頼度ゼロになっちゃったかな。
 たった一週間同居しただけの弟といる方が楽しいって言われちゃうくらいだもんな」

「彰博君、とっても気遣ってくれるのよ」
 いけこまが答える。

「先日もね、彰博君がチェス一緒にやろうって誘ってくれたの。
 晩御飯のしたくはお義母さんがしてくれちゃって……。
 あたし、出番がなくて落ち込んでたのよね」

「彰博とチェスを? 駒っちゃん、チェスできるの?」

「ううん。ルールを知ってるくらいで全然。
 だけど、彰博君が手加減してくれたから、何とか形にはなったかな」

「なるほど。
 そうやって駒っちゃんの気を引いたってわけか……」
 面白くないと思ってるのが伝わってくる返事だった。

「僕はいけこまに好かれたくてチェスに誘ったんじゃない。
 いけこまがどんな気持ちでこの家に来たかを知ろうともしない兄貴と一緒にしないで欲しいね」
 心の声が表に出ていた。マズイと思ったがもう遅い。
 僕はもちろん、兄貴も口をあんぐりと開けている。

「お前も言うようになったな。いつまでもちび助だと思ってたのに」

「僕だってもうすぐ十八になる。人並みに意見くらい言える」

 兄貴がこぶしを握ったのが分かった。
 殴られるかもしれない。一瞬、体がこわばった。
 だが、こぶしは飛んでこなかった。

「気に入らないんだよ。何にも考えてないくせに。
 おれは毎日働いて稼いでる。
 チェスばっかしてるお前が、遊び惚けてるやつが、わかったような口利くなよ!」

 遊び惚けている……。ぐうの音も出なかった。
 でも……。でも……。

 いけこまとの家出を決行した時から僕の闘いは始まっている。
 ここで逃げたらいつもと同じ。
 いけこまだって勇気を出したんだ、僕も今更引けない。

「あぁ、確かにチェスばっかりしてるさ。
 この先の人生なんてろくに考えてないのも事実だ。
 でも僕は、いけこまの気持ちに気づくことが出来た。
 笑顔にすることが出来た。
 自分の価値観を押しつけることしか出来ない兄貴より、よっぽど役に立てたと思ってる」

「おれだって役に立ってる……!
 おれが実家に戻ったことで、母さんは喜んでくれてるんだ……!」

「へぇ。じゃあいけこまが悩んでても、母さんさえ喜んでくれればいいってわけ。
 それでもいけこまの夫だって言える?
 子どもだって無計画に作っといてさ、無責任だと思わないの?」

「こいつ……!」

「ちょっと、みっちゃんやめて!」
 今度こそ手が出かかって、いけこまが慌てて止めに入る。

「反論したくなるってことは、暗にそれを認めてるってことよ」

「けどこいつ、子供のこと無計画だって……」

「仕方がないよ。本当のことだもの」

「……じゃあ、おれはどうすればいいんだよ?」

 兄貴はいけこまの両腕をつかみ、真正面から見据えて答えを求めている。
 いけこまは年上らしく、落ち着いた声で言う。

「見栄なんか張らなくたっていいのよ。
 少なくともあたしの前では、男らしくとか、父親にならなきゃとか、そんなに気負わなくっていい。
 ずっとそんなんじゃ、疲れちゃうもん。

 あたしたち、よく見せあうために結婚したんじゃないでしょ?
 心から安心したいから一緒に暮らすんでしょう?」

「駒っちゃん……」

「あたしだって、結婚したからには野上家の一員として認められたいと思ってる。
 だけど、婚姻届を出したからって、あたしと野上家の距離が一気に縮まったりはしない。
 あたしにもあたしのペースがあることを、みっちゃんには知ってもらいたいの。

 だから同居のことはもう一度、あたしたちだけじゃなくて野上家全員できちんと話し合って決めた方がいいとあたしは思う。……どうかな?」

 兄貴は何度もうなずきながら聞いていた。

「……ごめん。本音を言えば、おれは親に認めて欲しかっただけなんだ。
 子どもが出来ちゃったこと、心のどこかではやっぱり恥じてて、同居して親の面倒を見るってことにしちゃえば許してもらえるんじゃないかって、安直な考えでいたんだ。

 駒っちゃんの考えも聞かずに突っ走っちゃって本当に悪かったと思う。これからはちゃんと、駒っちゃんの意見も聞くようにする。だから……嫌いにならないで。おれには駒っちゃんが必要なんだ……」

 うつむく兄貴をいけこまはそっと抱きしめた。

「みっちゃんがあたしのことをずっと守ろうとしてくれてるの、知ってるよ。
 でもね、もっと甘えてほしいな。
みっちゃんはとっても頑張り屋さんだから、ときどき心配になるんだ」

「ううっ……」
 兄貴がいけこまの肩に目を押し当てたのが分かった。

「おれ、もう充分甘えちゃってるよ。
 甘えていいのは駒っちゃんの方。
 これからは何でもすぐに言って。
 おれだって、駒っちゃんの力になりたいんだ」

「うん。そうするね」

「……一件落着、かな?」
 あんまり僕が蚊帳の外なので、ちょっとだけ口をはさむ。
 二人ともばつが悪そうに僕の顔を見た。

「ちぇっ、おまえの前ではかっこいい兄貴でいようっていつも思ってたんだけどなぁ」

「べつに。兄貴にも弱みが見つかって、僕は嬉しいね」

「はっ、おまえらしいな。
 ……ここでこうして話してると、思い出すよ」
 兄貴は天を仰いだ。

「思い出の場所なの?」
 いけこまが問い、兄貴はうなずく。

「おれが中一で彰博が小一の時から毎年、正月に二人でだるま市に来ててさ。
 ちょっと多めにお金持たされるから、前回と同じ大きさで、できるだけ安いだるまを探すんだ」

「どうして?」

「そりゃあ、残ったお金で買い食いするからさ」

「なるほど」

「でさ、決まってそこの亀屋の和菓子。
 彰博に至っては、毎度いちご大福三個と甘酒っていう組み合わせな。
 一回、餅をのどに詰まらせて大変な目にあったってのに、やめないんだぜ?
 懲りないやつだよなぁ」

「冬限定で、しかもおいしいんだからいいじゃん」

「彰博君、可愛い!」
 いけこまにからかわれて居たたまれない。
 いけこまはすぐに謝った。

「やっぱり兄弟っていいなぁ。あたし、一人っ子だから羨ましい。
 そりゃあ喧嘩もするんでしょうけど、子どものころはきっと、毎日楽しかったでしょうね。
 ねぇ、みっちゃん。
 あたしたちの子供もきょうだい作ってあげましょうね」

「ちょっと、駒っちゃん。彰博の前でそんな話……」

「あら、いけなかったかしら?」

「保健室の先生はこれだもんなぁ」

 僕は子供だから大人の会話に入れないらしい。
 もっとも、僕が恋愛に無頓着だからそう扱われても仕方がないけれど。

「……あのさぁ、駒っちゃん。やっぱやろうか、結婚パーティ」
 唐突に兄貴が言った。

「せめて親族ぐらいにはきちんと披露宴で挨拶しとこうかなって。
 おれ自身、一人前になったって、証明したいし。
 ……特に母さんには」

「本当に? だってそう言うのには興味ないって……」

「友人や同僚に冷たい視線を向けられるのが怖かっただけなんだ。
 でもおれは駒っちゃんが好きで結婚したんだから、年の差とか、子どもが先とか関係ない。

 ……彰博に言われて、分かった。
 そして駒っちゃんの気持ちを聞いて吹っ切れた。
 やろうよ、おれたちの門出はおれたちで祝おう」

「うれしい……。ありがと、みっちゃん」
 いけこまは目の端をそっと拭った。

 ただし、と兄貴は頭をかきながら言う。
「やるなら今月中にやりたいんだ。
 来月から新規プロジェクトが立ち上がる関係で休日出勤とか夜勤とかが増えるから」

「なら、パーティーどころじゃ……」

「今月なら大丈夫。
 急だけどさ、都合がつく人だけ募ってパーティできないかな。
 人数集まらなかったら家族だけでもいいし」

「そうね。
 本当に心からお祝いしてくれる人だけに来てもらえたほうが、あたしもうれしいな」
 二人は言って、それぞれスマホを取り出すとスケジュールを確認し始める。

「次の土、日くらいしか、日がないけどどうかなぁ?」

「あたしは平気。後は来客集めね。……まず一人、確保ね」
 いけこまの両手が僕の肩に置かれた。

「はいはい、行きますよ」

「おまえ、すっかり気に入られたなぁ」
 兄貴が笑いながら言った。


 僕といけこまは最寄りの停留所からバスで、兄貴は僕の自転車でそれぞれ帰った。
 が、バスの待ち時間の関係でほぼ同時に家に着いた。

 ドアを開けると母さんが勢いよく出迎えた。

「二人してどこ行ってたの?
 学校行くだなんていうから安心してたのに、表に出てみたら自転車も車も置きっぱなしで。
 あとで、路教(みちたか)も出て行っちゃうし」

『ごめんなさい』

 僕たちは三人同時に謝った。
 ぽかんと口を開ける母さんに、兄貴が代表して言う。

「母さん。無茶なお願いしちゃってごめん。
 おれが帰ってくるまで起きて待っててくれてありがとう。
 だけど、もうしなくていいよ。

 結局おれのせいで二人が辛い思いをしてしまったんだって分かったから。
 彰博にも迷惑かけたし、もう一度同居のこと、ちゃんとみんなで話し合う時間を作りたいんだ」

「あたしからもお願いします」
 二人は頭を下げた。

「ちょっと、ちょっと。わたしはちっとも辛い思いなんかしてないわよ。
 むしろ、嬉しくって舞い上がってたくらいなんだから。
 ……そりゃあちょっぴり寝不足気味だけどね。
 まあ、あなたたちがそう言うんなら、納得できるまでみんなで話し合いましょうか。
 さっそく今夜でもいいわよ?」

「ありがとう。母さんは話が早くて助かるよ。それでさ……」
 兄貴は続けて、お披露目パーティーの話を切り出した。
 急だけど、家族が増えたことを報告したいと。
 母さんは「まあ!」と言って目を輝かせた。

「とりあえず親戚には片っ端から連絡してみる。
 母さんに任せなさい。こういうことは得意だから」
 電話、電話! といいながら、母さんは居間に戻っていった。

「……お義母さん、無理してないかな?」

「心配しすぎだって。
 二十四年おれの母さんやってんだから、おれが何を言い出すかくらい分かってるはずだよ」

「ならいいけれど」
 いけこまはまだ緊張した様子で母さんの後ろ姿を見ていたが、やがてふっと息をついた。

「……あたしもちゃんと、同居のこと、考えるね。
 今すぐは無理かもしれないけれど、時の経過とともにあたしの考え方だってきっと変わると思うの」

「駒っちゃんが両親のことを受け容れてくれたらおれは嬉しいよ。
 おれは待ってるよ。駒っちゃんが自然と受け容れてくれるときまで。
 その頃には彰博だって家を出てるだろう」

「ん?」
 急に話を振られ、とっさに言葉が出なかった。もちろん、怒られる。

「ったく、そんな反応するから、何も考えてねぇって言うんだよ。
 おまえ、さっき自分で言ったよな? もうすぐ十八だって。
 少なくとも、何をしたいか、方向性だけでも決めろ。
 んで、一度家を出ろ。世界が広がるから」

 この家を出て自分だけで暮らす。考えたこともなかった。
 僕が口を開きかけると兄貴が先に言う。

「できないっていうなよ? やるんだ。
 ……おまえは頭がいいんだから、絶対できる」

「え、いま、なんて……?」
 頭がいいから絶対できる。
 そう聞こえたが、聞き間違いだろうか?

 兄貴は面倒くさそうに言う。
「おれは二度もほめねぇぞ。南高受かったんだろ?
 チェスの大会でも県大準優勝してんだろ?
 おまえなら、本気出せばもっとできるんだから、やれ」

「え、何で知ってんの? 大会の成績」

「ばか、父さんが自慢しないわけないだろ。
 実家に電話かけるたびに大会の結果を教えてくれるよ」

「しかも父さんなの?」

「何も言わない父さんだけど、ちゃんと見守ってくれてんだぜ。
 ……おまえが最後に手抜きして二番手に甘んじてるんじゃないかとまで言ってたぞ?」

 すべてを見透かされていて怖かった。
 県大会で優勝すれば、個人戦で全国に行ける。
 だけど、一人で全国の強者と勝負するだけの度胸が僕にはなかった。
 本当は勝てた試合だったのに、わざと相手に有利な手を指してチェックメイトを誘い、準優勝になったのだ。
 もちろんそんなことは誰にも言っていない。

「どうやら図星らしいな」
 兄貴はやれやれとため息をつく。

「いいか? おまえにはチェスしかないって言うなら最後まで全力で戦えよ。
 手抜きなんかしたら、本気出してる相手に失礼だろ?
 戦いを挑んだら絶対に引いちゃいけねぇ。
 おれ相手にはできたんだから最後まで食らいつけ。
 負けるときは全力出してから負けろ」

「……今日の兄貴、なんか変だ」

「おいおい、おまえがおれを変にしたんだろうが」

「ふふふふ」
 僕らの会話を聞いていたいけこまが笑いだした。

「やっぱ、二人って仲良しなんだねぇ」

「おれにしてみりゃ、世話の焼ける弟だよ。
 っていうか、そこ、笑うとこじゃないだろ?」

「はは。ごめん、ごめん。
 ほほえましいなぁって思ったらつい」

「ったく、今日は調子崩されっぱなしでくたくただぜ。
 ……そういやぁ、昼飯まだだったなぁ。
 いっそ、外食するか。たまには家族全員でさ。いいだろ?」

 玄関の掛け時計を見ると一時を回っている。
 さっき和菓子は食べたけど、言われたら急にお腹が空いてきた。

「異議なし」
 僕は手をあげて答える。

「あたしもそれでいいけど、ご両親は?」

「おれが説得する。彰博、近くの回転寿司でいいよな?」

「おっ、いいね」

「じゃあ先に行って、席の確保、よろしく」

「了解。行こう、いけこま。すぐそこなんだ」
 そう言って歩き出す。

 自分でも驚くほどに足取りが軽かった。
 ほめられていい気になるなんて単純だな、僕は。

「ありがとう、家に来てくれて」
 いけこまにお礼を言った。
 いけこまは「ううん」と首を振る。

「家にいるだけじゃ、あたしは何の役にも立たない女だったわ。
 それを彰博君が変えてくれた。一歩踏み出す勇気をくれた。
 だから、お礼を言うのはこっちのほう」

「じゃ、お互いさまってことで」

「ええ。これからもよろしくね」

「はいはい」

 ずっと、慣れ親しんだチェス以外の世界を知るのが怖かった。
 だけど、初めの一歩を踏み出してしまえば、案外新しい世界も楽しめそうだ。

 チェス一筋で恋愛には全く興味がなかったけど、いつか兄貴たちのように家庭を築くのも悪くない。
 そんな気持ちさえ芽生え始めている。


第二章

 兄貴たちの結婚パーティーは、本川越駅に隣接するホテルの一室で行われることになった。
 運良く、次の日曜の夜に空きが出たというので即決したらしかった。

 早速、母さんやいけこまの両親から親戚に連絡がいって、今のところ十人ほどは了承を得たようだ。
 それでも会場を埋めるには程遠いという。

「あたしたち、友達誘ってるところなんだけど、何せ急だから思うように集まらなくて。
 できれば彰博君も連れて来てくれない? 何人でもオッケーだから」

 火曜日の晩になって、いけこまからこんな打診をされた。

「でも、友達いないんで」

「そうなの? チェス部の子は?」

「あー、それだったら一人いますけど」
 僕はエリーの顔を思い浮かべながら返事した。

「じゃあその子とおいでよ。予定、聞いといてね。おねがーい!」
 甘えるような口調のいけこまに少し戸惑うけれど、それだけ楽しみにしているのだろう。

 さて、一方的にお願いされたが、これは連れて行かないと後で文句を言われかねない雰囲気だ。
 頼まれ仕事はどうも苦手である。
 それがいけこまの頼みであっても、だ。

 パーティーまで日はなかったが、会って直接言うのは気が進まなかったので、次の日の昼休みにメールで簡単に説明して返事を待つことにした。返事はすぐに来た。

 ――空いているからOK。駅の改札前で九時に待ち合わせよう――

 それを見てほっとした。これでいけこまをがっかりさせなくて済む。

 いけこまにも友達を誘えた旨を連絡してしまうと、僕の頭はそのことを完全に消去してしまった。
 放課後、部活の時間になりエリーの顔を見ても思い出すことはなかった。

「ねぇ、何着ていくか、決めた?」

「着るって、何を?」

「もう。メールくれたでしょ? いけこまの、パーティーの話」

「あぁ……」

 記憶の引き出しから再び情報が取り出される。
 仕方がないから適当に話を続ける。

「僕は制服でもいいかと思ってるんだけどねぇ。……エリーは?」

「え? 制服はダメでしょ! 私は土曜にでも買いに行こうかなって。
 お呼ばれは初めてだから、ドレス、持ってないんだよね」

 どうやら女の子は皆、パーティーに憧れるもののようだ。

「一緒に行くんだからさぁ、少しはキメて来てよね? わかった?」
 まだ後輩は来ていなかったが、エリーは顔を寄せ、小声で言った。

「……わかんないな、僕には」
 僕の返事を聞いたエリーは大げさにため息をついた。

「この制服をよーく見て。そしてパーティーで着ている自分を想像してみて」

「よーく見てって言われても……」

 とりあえず言われた通りにしてみる。
 しばらく眺めてようやく悟る。

「このダサい制服を着ている僕と一緒にいたくないってこと? なら納得」

 南高は県下でも偏差値の高い学校だから、知っている人が制服を見れば一目置かれるかもしれない。
 しかし知らない人に対しては、あか抜けない田舎の高校生という印象を与えるだろう。
 エリーはうなずいた。

「だってさ、アキが制服着てったら、私も制服着てないと釣り合わないじゃない?
  かわいい制服ならともかく、これじゃあねぇ」

「へぇ、意外」

「何が?」

「エリーが僕と釣り合いのとれる格好したいって思ってること。
 てっきりそういう場でも、一人浮いてる僕を変人扱いするもんだと思ってた」

「あのねぇ、一緒にパーティー行く相手のことをそんなふうに言うわけないでしょ?」

 それもそうだな、と妙に納得する。
 エリーは少々言い方がきついけど、さげすむようなことは言わない人だ。

「アキは友達いないだけで、いいところもある」

「いいところって、例えば?」

「話を真剣に聞いてくれるところ……かな」

「鈴宮は?」

「まさか。悠はいつも自分のことばっかりで、私の話には興味のかけらもないみたい」

「わかる気がする」
 僕は先日の鈴宮との会話を思い出した。
 話は自然と、エリーと鈴宮の話に移行する。

「だって体の話しかしてこないんだよ? 私が……フツーの体じゃないって言っても聞かないし」

「具体的に話したの?」

「ううん。言えないよ」

「でも、僕には話してくれたじゃん?」

「アキは……いい人だから。
 ちゃんとわかってくれるって思ったし、実際分かってくれてる」

「わかったといっても、この年まで生理が来ないってことだけだけどね」

 エリーはいまだに月経がないらしい。
 保健体育の授業で習ったことくらいの知識しかないが、それが女の子から大人の女性になるために必要な変化の一つであるなら「来ない」というのは不自然ということになる。
 薄々病気を疑っているみたいだけど、本人はそれでも自然に来る日をいまだに待っているようだ。
 遅い人でも十八歳までには来る、とどこかから仕入れた情報を信じているらしい。
 エリーはため息をつく。

「いけこま先生みたいに、ぽんと子供ができる体の人がいれば、いまだに生理の来ない体の人間もいる。
 ……このまま生理が来なかったら、私は結婚できないかもしれないね」

「エリーらしくないな。
 そんなふうに言うなら一度、病院に行ってみたら?
 そう、鈴宮と一緒に行けばいい」

「はっ、冗談キツイ。
 それで健康な体になれたら、それこそ悠は体を求めてくるでしょうよ。
 私は悠とセックスするために付き合ってるわけじゃないんだから」

「じゃあ、なんで付き合ってんの?」

 セックスを求められても、自分の体のことを打ち明けられずにただ拒み続ける。
 そんな日々に嫌気がさしているのなら、エリーは彼とどんなふうに交際したいと望んでいるのだろう?

 エリーは口をつぐんだ。少しの間考えていたようだがやがて、
「じゃあ、別れる」
 と返ってきた。

「じゃあ、っておかしいでしょ。僕が言ったから別れるって言うのは……」

「しっ! 後輩たち来てるから、この話はおしまいにして。部活、始めるよ」
 部屋を見回すと確かに後輩たちがいて、部屋の隅から遠巻きに僕らのことを見ていた。

 後輩の一人が、
「先輩たち、やっぱり付き合ってたんですか?」
 と目を輝かせて言った。

「やっぱりって……。私たち、そんな関係じゃないから」

「うんうん」

「でも、すっごくいい雰囲気でしたよ。顔と顔をこんなに近づけちゃって。ねー?」
 後輩たちはにやにやと顔を見合わせて楽しそうにしている。

「もう! そんなんじゃないってば!」
 エリーは怒って部屋を出て行ってしまった。
 残された僕の居心地の悪さといったらない。

「副部長。あたしたち、応援してますから!
 二人なら絶対素敵な恋人になれますって!」

「いや、エリーには彼……」
 言いかけてやめた。
 エリーに鈴宮を想う気持ちがないことは、今しがた確認したばかりじゃないか。

 どれだけ待ってもエリーは戻ってこなかった。
 ひょっとしたら鈴宮と最後の話をしているのかもしれない。
 僕の一言がきっかけで一組のカップルを別れさせたかと思うとチェスに集中できなかった。

 結局、兄貴たちのパーティーの日までエリーとは顔を合せなかった。
 クラスが違うということもあるけど、どうやら学校を休んでいたらしかった。

 約束は約束だから、先日メールでやり取りした待ち合わせ場所に行くと、それらしき人が立っていた。

 ブルーのテントドレスにハイヒール姿。
 初めは別人かと思ったが、眼鏡をかけ直して近づいてみると、やっぱりエリーだった。 
「ごめん、待たせた?」

「えっ、アキ? 驚かせないでよ。
 どこのイケメンが声をかけてきたのかと思った」

「なに、それ。褒めてるの?」
 らしくない発言に思わず笑う。

「だって、スーツ姿のアキなんて初めて見るんだもん。
 へぇ、ピンクのネクタイかぁ。新調したの?」

「まさか。兄貴のを借りたんだ。
 エリーがキメろって言うから、その通りにしただけだよ」

「うん。案外似合ってるよ」

「その、案外ってのが余計。
 だけど、下手に褒められるよりよっぽどいいや」

「褒められたくなかったの? まぁ、いっか。いこ」
 エリーはスカートをひらりとさせて、さっと前を歩きだす。
 僕は後からついていく。

「……休んでたの?」
 沈黙は耐えられなかったので、僕から話しかける。

「うん。ドレス買いに行ってた」

「ふうん」

「……心配してたの?」

「まぁ。あの時、余計なことを言ったかなと思って」

「へぇ。気にしてたわけだ。
 そりゃあ、あんなふうに言われたら私もいろいろ考えるよ。
 そのために休んだの」

「……ごめん」

「どうしてアキが謝るの」

「だって」

「別れたって思ってるの?
 そんなにすぐに別れを切り出せると思う?
 もしそれができるのならとっくにしてるし、そもそも悩んだりしてないでしょう?」

「あっ……」

 どうやらまだ別れるには至っていないようだ。
 だけど、ほっとしていいやらどうしていいやらわからない。
 エリーは微笑んだ。

「今日は結婚披露宴でしょう?
 その前に別れるなんて縁起悪いじゃない?
 どうせ別れるならそのあとにしようっていうのが、昨日出した結論」

「そっか。でも、別れるの?」

「それを決めるのは今日が終わってから。
 ねぇ、この話はもうやめよう。
 私、今日のパーティー、本当に楽しみにしてるんだから」

「うん、ごめん」
 ちょうど会場の入り口に到着した。
 エリーのいうように、ここからはパーティーに集中しよう。

 中に入ると、すぐに見知った顔がいくつも見つかる。皆、親戚だ。

「あらまぁ、あきちゃん? 大きくなってぇ。見違えちゃったわぁ!」
 受付をしているのは母さんのお姉さんだった。
 母さんに似て声が大きく、思ったことをはっきりと言う。

 よりによって……。すごく苦手な人だ。
 それが証拠に「お隣にいるのは恋人? まぁ、可愛い子ね。おいくつ?」なんていうから困る。

「おばさん、こちらは同級生の吉川さん。
 いけこまのお祝いに駆けつけてくれたんですよ」

「吉川です。
 彰博さんとは同じチェス部なんです。
 この度は、お兄さんと先生がご結婚と伺い、まいりました。
 会費はこちらでお支払いすればよろしいですか?」

「まぁ、しっかりした方ですこと。
 えぇ、こちらで受け取りましょう。七千円ね。
 確かに頂戴しました。
 みっちゃんといい、あきちゃんといい、いつの間にかいい男になってぇ。
 うちの真美とイイ関係になれたらって思ってたのに、残念。おほほほ」

「あの……失礼します。行こう、エリー」

 僕はとっさにエリーの手を取ると、逃げるように会場の奥に向かった。
 おばさんと話していると、どんどん調子を崩される。

 僕は自分の名前が書かれているはずのテーブルを探した。
「アキ……あの……」

「ん?」
 もじもじしているエリーを見て、手を握ったままだったことに気づく。

「ごめん」

「ううん、そうじゃないの……。
 びっくりしただけ……。
 さっきの人、アキのおばさん?」

「うん、苦手なんだ。だから逃げたくて」

「そっか、そっか。私もああいうタイプはダメ。
 ……あっ、私たちの席、ここみたい」
 エリーが先に席札を見つけた。
 僕たちは指定席に腰掛ける。

「やっと来たわね。もう間に合わないかと心配したわよ」

 同じテーブルについていた母さんが大げさに言った。
 開始まではあと十五分ある。
 相変わらずせっかちな人だ。そして、

「あなたが例の部長さんね?
 彰博がいつもお世話になっています。
 こんな子ですけど、仲良くしてやってくださいね」
 そういってにやにや笑った。

「ごめん、野上家の席で。居心地悪いかもだけど」

「大丈夫。私は私で、初のパーティーを楽しむから」
 ほどなくして、パーティーが始まった。

 入口から兄貴たちが現れ、会場が拍手に包まれる。

「司会進行は、駒さんの大学のご友人に頼んだんですって。
 ナレーターのお仕事をしてるそうよ」
 聞きもしないのに母さんが言った。

「おい、静かにしろ」
 珍しく父さんが口をはさむ。
 母さんは「わかってますよ」と返事して黙り込んだ。

 二人が着席すると、一般的と思われる、新郎、新婦を祝福する言葉やなれそめなどが語られた。
 二人とも恥ずかしそうにうつむいているが、内心はやはりうれしいのだろう。
 時々目配せしては、微笑む姿が見られた。

 やがて食事の時間になると、両親はさっそく席を立ち、いけこまの両親の席に向かった。

「僕らも行こうか」
 席を立ちながら言う。

「行くって?」

「主役のとこ」

 親戚や兄貴たちの友人が互いに遠慮しているので、二人の前にはまだ誰もいない。
 もう知れた仲だけど、この場を借りて招待してもらった礼をしておいたほうがいいだろう。

「改めて、おめでとう。
 それから、このたびはご招待ありがとう。
 ……お酒は注がなくていいよね? この後たくさん来るんだろうし」

「あぁ、酒はいらねぇ。
 それより、お前もやればできるじゃねぇか。見直したぜ」
 兄貴がエリーに目配せする。

「いけこまに頼まれたからさ、一人で来るわけにもいかなくて」

「……ってことは、付き合ってるわけじゃねぇの?」

「友達」

「ふうーん。この際、付き合っちまえよ」

「何言ってんだよ。聞こえるじゃんか……」

 エリーは隣でいけこまとしゃべっている。
 話が盛り上がっているようで、笑い声が響く。
 僕らの会話は聞こえていないようだ。

「そっちの話は済んだ? なら、席に戻ろうか」
 話し終えたエリーに促され、着席する。
 まだ両親は戻ってきていない。

「いけこま先生、ホント、幸せそう……」
 エリーはふっと息を吐き、視線を落とした。

「どうしたの?」

「……私ね。結婚っていいイメージなかったの。
 両親、離婚してるから」
 その話は初めて聞いたので、どう反応していいか戸惑う。

「今日ここへ来た理由もね、本当は不純なの。
 子どもができたから結婚しただなんていう先生が、いったいどんな顔で座っているのか、見てやろうと思ったの。
 本当に、心から幸せな気持ちで結婚したのか、見たかったのよ」

「エリー……」
 返す言葉が見つからない。しかし彼女は続けて、

「でもね、あの二人を見てたらそんな卑屈な考えも吹き飛んじゃった。
 だって全身から幸せオーラがにじみ出てるんだもの。まいっちゃうよ」

 新郎新婦の席には続々と親せきや友人らがあいさつしにやってきている。
 それを見ながら僕らはテーブルの食事に手を付け始めた。

「悠とは別れるよ。ここにきて、気持ちが固まった」
 エリーが、新郎新婦をまっすぐに見つめながら言った。

「このまま付き合っていても、待っているのは悲しい未来だけだと思う。
 私の両親がそうであったように。
 付き合うなら、その先にあるのはやっぱり明るい未来であってほしいと思うから」

「うん」

「言っとくけど、アキは責任感じなくていいからね。
 これは私が自分で決めたことだから」

 自分で決めたこと。そう言いながらも声はどことなく震えていた。
 鈴宮とは描けないという未来。
 じゃあ、誰とだったらいいというのだろう? 

「……一つ、聞いてもいいかな?」

「うん?」

「エリーの思い描く未来ってどんな未来?」

「それは……」
 その時、両親が席に戻ってきた。

「池村さん、とってもいい方たちだったわよ。
 お義父さんも学校の先生されてたんですって。
 しかもお母さんと同い年で大宮出身っていうのも一緒でねぇ。
 つい盛り上がってしまったわ」
 おしゃべりな母さんに押され、僕らは押し黙った。

「母さんはしゃべりすぎなんだよ。
 俺が酒を注ぐすきすら与えてくれないんだからなぁ」

「だってぇ。嬉しくなっちゃったんだもの」
 二人はそう言い合いながらも陽気に笑った。

 エリーの顔を盗み見ると、彼女もまたそんな両親をじっと見つめている。
 さっき言いかけた言葉の続きが知りたかった。


 式は滞りなく進み、お開きの時間が近づいたようだ。
 最後になって新婦からのサプライズプレゼントがあると司会からアナウンスされる。
 いけこまが立ち上がり、しずしずと前へ進み出る。
 いったい何が始まるのかと思ったら、プルズブーケだという。

「未婚の女性はどうぞ前へお進みください」

 いけこまが誘った友人と親戚の女の子を指してのことだろう。
 四人ほどが前へ出る。

 すると、「吉川さんもおいでよ!」といけこまが手招きした。

「え、私は……」

「いいから、こっち!」

 半ば強引に手を引かれ、ひときわ小さなエリーは未婚女性の輪に加えられた。
 そしてそれぞれにリボンが配られる。

「この中の一本が新婦の持つブーケとつながっています。
 さぁ、幸せのおすそ分けはいったい誰が手にするのでしょうか。
 早速引いていただきましょう!」

 五人は互いに様子をうかがいながらゆっくりとリボンを引いていく。
 みなが見守る中、一本のリボンの端がぴんと張り、いけこまの持つブーケとつながった。

「おめでとうございます。幸せを受け取ったのはこちらの女性でーす!」

「うそ……」
 それはエリーだった。
 人の幸せをけなしに来たはずの彼女がブーケを手にすることになるとは、皮肉なものだ。

「私、受け取れません……。
 だって、もっとふさわしい人がいるはずですから」

 エリーの本心がそのまま表に出ていた。
 しかし周りから見ればただの謙遜にしか見えない。
 誰もがエリーの手にブーケを渡そうと「おめでとう」のシャワーを浴びせる。
 ブーケを受け取ったその顔は引きつっていた。

「ねぇ、一緒に写真撮ろうよ!」
 積極的ないけこまの言葉で誰かが二人にカメラを向ける。
 一応は写真に納まっていたエリーだが、目は全く笑っていなかった。

「参加してくださった女性の方々、席へお戻りください。
 さぁ、宴もたけなわではございますが、そろそろお開きの時間となりました……」

 司会のアナウンスで、エリーは席に戻ってきた。
 何も言えなかった。
 励ましも慰めも、今の彼女にとっては何の意味も持たないだろう。

「吉川さん、こういう時はもっと喜んでいいのよ?
 スマイル、スマイル!」
 僕の遠慮など知る由もなく、母さんはずけずけと言ってエリーの顔を覗き込んだ。

「母さん、エリーが困ってるじゃんか」

「え? なんで?」

「アキ、私は、大丈夫だから。
 ……おかあさんのいうことは正しいわ」

「だけど……!」

「おかあさん、私、とっても嬉しいですよ。
 でも、すごく緊張しちゃって、うまく笑えないんです」

「そりゃあそうよねぇ。
 みんなに注目されたら、だれでも緊張するわよ。
 わかるわぁ。
 それに高校生じゃ、結婚もまだ先の話だしねぇ。
 幸せのおすそ分けって言われてもピンとこないかもねぇ」

「本当に、そう思います」

 エリーはいつもそうだ。
 人の顔色を窺って話すのが本当に上手。
 あっちでもこっちでもいい顔をする。
 敵を作らない代わりに、深い付き合いをしている様子もない。
 実際のところ、僕といるときだって僕用にあつらえた「吉川映璃」を演じているに違いない。
 そう思ったら妙な寂しさに襲われた。

 その時、会場の照明が暗くなり、高砂席にライトが当たった。

「最後に、新郎からお集りの皆様へご挨拶があります」
 司会の言葉で、和やかだった会場の空気が張り詰め、しんと静まり返る。
 マイクを手渡された兄貴が堂々と胸を張る。

「本日は急なお誘いにもかかわらず、これだけの方々にお集まりいただき誠に感謝いたします。

 私たちはまだまだ未熟者です。
 早すぎる結婚や準備不足、子供のことなどおっしゃりたいことが山ほどあると思いますし、私たちもお叱りの言葉は甘んじて受け入れるつもりです。

 でも、一つだけ言っておきたいことがあります。
 私は、高校時代の恩師が言っていた言葉をとても大切にしています。

 それが、『しないで後悔するくらいなら、して後悔しろ』です。

 どちらも同じように思えますが、前者は一歩も進む勇気が持てない人、後者は一歩でも前進する勇気を出した人。その差は大きいのだと。

 その言葉を聞いて以来、『する、しない』の選択を迫られた時には必ず『する』を選ぶようになりました。
 だから結婚したし、子供も育てていこうと決めたのです。

 この決断で失うものもあると思います。
 でも、一歩踏み出した行動力があるから、たとえ困難にぶち当たったとしても取り返せると思っています。また……」

 頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
 兄貴の行動力の秘密はそこにあったのか。

 先日、母さんを喜ばせたいだけなどと言った自分が恥ずかしくなる。

 兄貴はずっと、自分の信念に従って行動していたのだ。
 同居のことは、いけこまや僕のこともあって再考することになったものの、最初の一歩があったからこそ問題点も分かったし、僕自身受けた影響は大きい。
 しかもそれはプラスの影響だ。

 兄貴のような人になりたい。初めてそう思った。
 

 パーティーが終了し、一同は散開した。
 野上家だけはこの後、池村家との顔合わせがあるらしく、残るように言われている。
 何もかも順番が逆だと思うのだが、いまさら言っても仕方がない。
 これが兄貴たちのやり方なのだ。

 顔合わせまでは少し時間があったから、僕はエリーをホテルの外まで見送ることにした。

「今日はパーティーに来てくれてありがとう。それから……」

「それ以上言わないで!」
 エリーは強い口調で僕の言葉を遮った。

「きっと罰が当たったんだよ。人の幸せにケチつけようとした報い。
 アキだってそう思ったでしょ?」

「エリー。自分を責めるのはよそう。
 せっかくの結婚披露パーティーだったんだ、弟の僕としては、楽しい気持ちで帰ってほしいんだけどなぁ」

「…………」
 エリーはブーケに目を落とし、ぽつりと言う。

「これもらったから、私にも少しは幸せが訪れるようになるかな?」

「うん、きっと」

「もう、アキはやっさしいなぁ……。今日はありがとう。いろいろ勉強になったわ」

 じゃあね。エリーは最後にそう言って、さっそうと歩きだした。その後ろ姿を、僕はいつまでも見つめていた。

   *

 遠くでスマホの目覚ましアラームが鳴っている。
 ――早く止めなきゃ……。

 おもむろに手を伸ばし、画面を見てみると電話マークが表示されていた。
 着信音で目覚めたのだと知る。

 ――誰だ、こんな朝イチで電話をかけてくるのは……?
 眠い目をこすってよく見てみると、「吉川映璃」の名が見えた。

 その瞬間、昨日の出来事が、――去り際のエリーの言葉や後ろ姿が――よみがえる。
 僕はすぐに飛び起きて電話に出た。

「もしもし……」

『おはよう。起こしちゃった?』

「そりゃあね」
 部屋の時計を見ると、六時を少し回ったところだった。

「それで、何の要件かな?」
 起き上がり、布団の上で胡坐をかく。

 エリーは、うーん……とためらってから、
『会える? 今から』
 と言った。

「今から、か……」

 何を言われても驚かないつもりだったが、こんなに朝早くに呼び出しされるとさすがに気が滅入る。
 幸いにして頭はクリアだ。冷静に一つずつ確認する。

「今日は学校ある日だよね? 学校で話せない?」

『行きたくないな。誰にも会いたくないの』

「でも、僕には会いたいと?」

『……アキしかいないの、頼れる人が』

「……家の人は?」

『……自分の体のことで心配かけたくないから』
 ここまで聞いて、エリーの話したいことが見えてくる。

「行く気になったの? 病院に」

『うん』

「だけど、僕でいいの?」

『うん』

「今日じゃなきゃダメ?」

『先延ばしにしたら、一生行かない気がするの。……今日しか、ないの』
 これだけ念を押しても引く気がないところを見ると、決意は本物のようだ。

「わかった。一緒に行くよ」
 考えるより先にそう答えていた。「しない」より「する」だ。

「で、今どこからかけてるの? 自宅?」

『ううん。中央図書館の近く。
 家から歩いて二、三分のところにいる。
 家ではこんな話、できないよ』

「了解。じゃあ、本川越駅まで歩ける?
 昨日みたいに、改札前で待ち合わせよう。
 ただし、こっちは今すぐ出ても三十分はかかるけど、それでもよければ」

『大丈夫。先についても待ってるから』
 返事を聞き、僕は電話を切った。

 一息つき、まずは身支度をしなくちゃ、と自分の服をひっつかんで立ち止まる。

 首元がよれよれでみすぼらしいTシャツ。
 Gパンも後ろのポケットや裾が破けている。

 ――何でいつもこんなものを着ているんだ?
 ……っていうか、何で今日に限って、そんなことを気にしているんだろう?
 
 だけど、一度気になってしまったら着ていく気にはなれなかった。
 兄貴はもう起きているだろうか?
  怒られるのを覚悟で部屋の戸を叩く。

「僕だけど、起きてる?」

「あぁ」
 幸いにしてすぐ返事があり、中に入る。
 一緒にいるいけこまはすでに着替えを済ませていて、僕の姿を見るとにっこり微笑んだ。

「今日はやけに早起きじゃん。いったいどうした?」

「あー……。すっごく頼みにくいんだけど、また服貸してくれないかなぁ。
 今日は普段着でいいんだ」

「はぁ? でもお前、今日は学校だろ? それとも放課後に着るのか?」

「いや……。今すぐ必要なんだ」

「今すぐ? 学校さぼってデートでも行く気か?」
 あっ! 兄貴といけこまが同時に声をあげ、うなずきあった。

「わかったぜ、昨日の子だろう?
 お前もやっとその気になったってわけか。
 そういうことなら喜んで貸すよ」
 兄貴はやけにニヤニヤしながら、クローゼットから服をチョイスしてくれた。

「これならキマるだろう。
 あっ、駒っちゃん。ちょっと外してくれない?
 男同士、大事な話があるから」

「大事な話ねぇ……。
 保健室の先生としては一言いいたいところだけど、いいわ。
 ここはみっちゃんにお任せする。
 彰博君、頑張ってね。応援してるから。
 た・だ・し! うまくいったら学校においでよ。ね?」

 化粧道具を抱え、いけこまは部屋を出ていった。

「やれやれ、真面目なんだから」
 兄貴は階下に行く足音を確認してからゆっくり口を開いた。

「さて、初めてのことだろうから助言しておく。
 デートってのは、いかに男を魅せるかが大事だ。
 服装はもちろん、話し方、しぐさ、食べ方ひとつとっても、女の子をがっかりさせちゃいけねぇ。

 で、だ。これが一番大事なことだが、こいつはどんな時でも必ず持っておくこと。
 そしていつでも使えるようにしておくこと。
 それが、紳士のたしなみってやつさ」

 そういって、部屋の隅の小さな引き出しから何かを取り出した。
 それは避妊具だった。

「いや、僕は……いらない。っていうか、必要ないから」
 とっさに突っ返したが、兄貴は聞かない。

「いつか使う日が来る。女の子と付き合ったら必ずな。
 お守りだと思って一つ持っとけ」

「よく言うよ。子供作っといて」

「まぁ……。それとこれは別!
 デート服貸してやってんだから、おとなしく兄貴のいうことは聞いとくもんだぜ?」

 デートしに行くわけじゃないと否定したって、服を借りている時点で説得力ゼロだ。
 時間もないし、ここは言うとおりにしておくのがよさそうだ。

「っていうか、もう行くのか?」

「あー、うん。その……駅で待たせてるから」

「ほぉ! おまえも隅に置けねぇな。いい結果報告を期待してるよ」

「……行ってきます」

 こんな時に限って一つも嘘がつけないなんて、これじゃあばか丸出しだ。
 戸惑っているつもりはないのに、クリアだった頭が一気に雑念で埋め尽くされたみたいで正常に働いてくれない。

 今、六時三十分。
 自転車で全力疾走しても本川越駅に着くのは七時ごろになる。
 エリーはもう着いた頃だろうか。
 エリーの沈んだ声を思い出す。僕は力いっぱいペダルをこぎだした。


 駅に着くと、エリーは昨日と同じ場所で空をぼんやり見あげ、立っていた。
 まるで心をどこかに置いてきたかのように、遠くを見ている。
 どう声を掛けたらいいものか一瞬ためらったが、これ以上長く待たせるのも悪いと思い、そっと声をかける。

「エリー。エリー」
 目の前で手を振ると、目に生気が戻り、焦点が定まった。

「待たせてごめん」

「ううん、平気。こっちこそごめんね。
 朝早くに呼び出した上にサボらせて。
 なかなか来ないから、先生に叱られてるんじゃないかって思ってたとこ」

「先生って、いけこまに?
 まぁ、なんとなく当たってるけど、大したことないから心配ご無用」

「ほんとに……?」

「あのさ、エリー。
 呼びつけておいて悔やむような発言はやめてほしいな」

「ごめん……」

「……とにかく、まだ早いからどこかで朝ご飯にでもしようよ。
 腹ペコなんだ」

「そうだよね……。
 この時間はスタバしか空いてないから、そこでいいかな?」

「座って食べれるならどこでも」

 改札わきのスタバはこんな時間にもかかわらず、通勤前の社会人たちがレジに列をなしていた。
 テーブル席は空いていたので、それぞれ注文した後で一番奥の席に腰掛けた。

「食べながらでいいから聞いてくれる……?」
 座ると、さっそくエリーが口を開いた。
 エリーの言葉に甘える形で僕はサンドイッチをほおばり、耳を傾ける。

「悠にも電話したんだ。でも出てくれなかったの」
 鈴宮の名を聞いて僕は眉をひそめた。
 すぐに口の中のサンドイッチをアイスコーヒーで流し込む。

「まぁ、朝の六時じゃねぇ。僕だって寝てたよ」

「でも電話に出てくれたし、こうして来てもくれたじゃない。恋人でもないのに」
 そこまで言って突然、エリーがわっと泣き始めた。

「エ、エリー?」

 何か悪いことを言ってしまっただろうか。
 それとも「恋人でもない」僕が来てはいけなかったのだろうか?

 激しく泣きじゃくるエリーの顔はぐちゃぐちゃだったが、ぬぐう気配はない。
 無意識にポケットに手を突っ込むと、幸いなことにティッシュとハンカチが入っていた。
 おそらく兄貴が気を利かせてくれたのだろう。ありがたい。

「これ、使って」

「……ありがとう」
 エリーはようやく鼻をかみ、涙を拭いた。
 出ていたものを拭い去った後の表情は、いくらかすっきりして見えた。

「泣くなんて、どうかしてるよね。
 別れたいって思ってるのに、来てくれないからって泣くなんて馬鹿よね」

「……やっぱり、僕じゃダメだった?」

「ううん、うれしいよ。アキに会えて。それにその服装……」

「ああ、これ? 兄貴の」

「だと思った。……私に会うために選んでくれたの?」

「選んだのは兄貴だけどね」

「似合ってる。とっても」

「あれ? 今日は『案外』って言わないんだ?」

「あはは、意地悪い言葉も思いつかないや」

「やけに素直じゃん」

「アキこそ、やけに格好つけちゃって」

「……昨日の出来事のせいかな」

「……そうだね」

 エリーもまた、昨日の兄貴たちの影響を強く受けたらしい。
 パーティーに出る前と後でこんなにも考え方や行動が変化するとは、僕自身も想像していなかったけれど。

「私、幸せになりたい」
 エリーはぽつりと言った。

「不純な気持ちで行ったパーティーだったけど、昨日の二人を見ていたら、あんなふうになりたいって思ったの。
 そのためには今のままじゃダメだって気づいたわ」

「うん」

「……アキはさ、このごろ変わってきたよね。
 ずっと変わらないと思っていたのに」

「そう?」

「お兄さんたちが結婚して家に戻ってきてから、アキは変わった。
 何も考えてなかった人から、ずっと考え込んでる人になってる」

「エリーにまで何も考えてないって言われるとへこむなぁ」
 残ったサンドイッチをほおばり、飲み下してから僕は話を続ける。

「同居が始まってからいろいろ考えるようになったのは確か。
 価値観の違う人間が二人も増えたからね。

 そりゃあ、これまで何も考えてこなかった僕だって、どうやったらうまく付き合っていけるかとか、口うるさい兄貴に何て言ってやろうかとか考えるけど、そこまで変わったつもりはないよ」

「ううん、変わった。
 その証拠に、いつも早起きは苦手って言ってる人が、私の個人的な悩みのためにこうして来てくれたわ」

「それは、だって……友達だから」

「友達って……。普通はね、女友達のためにここまでする奴いないよ?」
 エリーはあきれたように言った。

 そして、ふぅっと息を吐いてから、
「私、舞い上がってただけなんだろうな」
 と言って視線を落とした。

「悠に告白されてすごくうれしかったの。
 だって、今まで誰にも『好き』だなんて言われたことなかったんだもの。

 あぁ、やさしくしてあげたらこんなにハッピーなことが起きるんだ!
 しかも、学年一のイケメンって言われてる鈴宮悠斗!

 一緒にいるだけで、周りの女の子が羨ましがってるのが分かったから、しばらくの間は優越感に浸ってたわ」

「エリーがそんなふうに思ってたなんて、ちょっとショックだなぁ」

「……アキはきっと、こんな私が嫌いでしょうね」
 エリーはあっさり認めた。

 鈴宮が前の彼女と別れた時、慰めてあげたのがきっかけで付き合うことになったという話は、以前聞いたことがあった。
 美人やかわいい子が好みと公言していた彼だが、次の彼女にエリーを選ぶとはだれも予想していなかったから、一時大ニュースになったほどだ。

「でもね……」
 エリーは続ける。

「結局、愛し方も愛され方もわからなかった。
 自然にわかるものだと思っていたけど、違うのね。

 そのうちに……悠のどこが好きなのかもわからなくなっちゃった。
 考えれば考えるほど、こんな自分に嫌気がさした。
 好きだって言ってくれる人を受け入れられない自分も、変われない自分も」

「変わるのは怖いよ。
 僕もチェス以外の世界で生きてく勇気が持てなくて、目の前のチェスに没頭していた。
 でも……やっぱり変わらなきゃって、思い始めてる」

「私も同じ。『一生このままなの?』って思ったらものすごく惨めな気持ちになった。
 ……そう、変わり始めてるアキを見て、アキならきっと、私の背中を押してくれる。
 そんな気がして。
 ごめんね、男のアキに、女の体のことで助けを求めたりして」

「ううん。エリーの体のことはずっと前から聞いていたし、心配もしていたんだ。
 病院に行くって聞いて、正直ほっとしてる」

「ホント? 実はね、待っている間にずっと思ってたの。
 やっぱり同性に相談すべきだったかなって。
 お世辞でもそう言ってくれたら気が楽になるわ」

「お世辞なんかじゃないよ……」
 エリーは僕を頼っていながらも迷惑をかけていると思っている。
 それがすごく嫌だった。

 もっと素直に頼ってほしい。
 そんな気持ちが沸き上がる。

 でも、それを言葉にするにはどうしたらいいだろうか。
 ありふれた言葉じゃ伝わらない。

 もっと、僕らしい言葉で伝えなきゃだめだ。
 僕らしい言葉……か。僕は少し前のめりになる。

「……エリー。仲間同士、助け合うのがチェスだよね?
 チェスではクイーンだけが女性だけど、クイーンがピンチの時はナイトが犠牲になっても守る。
 僕らの関係も同じじゃないかな?」

「ふふふ……! あっははは……!」

 真面目に言ったつもりなのに笑われる。
 いや、笑ってくれたのだからいいのか?
  エリーは笑いながら謝罪する。

「ごめん……。アキがナイトかぁって思ったら、笑いがこみあげてきちゃって……」

「そんなに変なこと言ったかなぁ?」

「ううん、変じゃなくってね、すごくアキらしい台詞だなぁって思って。
 クイーンを守るナイトかぁ。ふふふふ……」

「だからさ、何で笑うの」

 エリーはしばらくの間、おそらくは僕の台詞を思い出して笑っていた。
 ようやく笑いが引いた頃、エリーはすっかり氷の解けたアイスティーを一口飲んだ。

「ねぇ、アキ。もう一度聞くけど、一緒に病院に行ってくれる?」

「うん」

「そうしたらきっと、変な目で見られると思うけど、それでもいいの?」

「今更気にしないよ。慣れてるから」

「そっか……」

「っていうかさ、変な目で見られたくないのは、エリーのほうでしょ?」

 僕は何度目ともわからない問いに、少々うんざりし始めていた。

「エリーは人の目を気にしすぎだ。
 隣を歩く人は鈴宮みたいにかっこいい人がいい、
 パーティーではダサい格好の人といたら白目で見られるから嫌、
 恋人でもない異性と病院に行ったら子供を堕ろしに来ただらしないカップルに見られるかもしれない……」

「私はそこまで……」

「思ってるよ! 口に出さなくてもわかる」

 つい、口調が荒くなる。
 こんなふうに言ったのははじめてだが、僕は思いの丈を一気にぶちまける。

「でもさ、それって全部エリーの妄想じゃない?
 誰もがみんな、エリーを見てそんなふうに思ってなんかいないし、下手すると、見てすらいないことだってあると思う」

「妄想……」

「ごめん。僕は語彙力ないから遠回しに言えないけど、エリーはもっと、素の自分を出してもいいと思う」

「素の自分って……?」

「さっきみたいに、ぐちゃぐちゃの顔になるまで泣いたりすること……かな」

「えー? 忘れてよぉ……」
 エリーは恥ずかしそうに顔を覆った。

「もっとさ、自信を持ちなよ、エリー。
 自分の悪いところばっかり見ないでさ、いいところを見ようよ。
 ……鈴宮もきっと、エリーのいいところを見つけて好きになったんだと思うしさ」

「アキ……」
 なぜ、嫌いなはずの鈴宮を持ち上げるようなことを言ったのか分からなかった。
 でもこの際、そんなことはどうでもよかった。
 エリーにはもっと、自分自身のいいところを認めてほしかった。

「ありがとう。やっぱり、アキと一緒に行きたい。
 ううん、アキじゃなきゃダメ。……どうか、お願いします」
 エリーは顔を赤らめ、深々と頭を下げた。


 市街地にある総合病院へは歩いて行くことにした。
 時間にして二十分ほどだが、通勤通学時間帯のバスに乗る気分じゃなかった。
 僕らは無言で歩き続ける。

 その間何度も、さっきは言いすぎてしまったかもしれないと心配になった。
 そのたびに昨日の兄貴の言葉――しないで後悔するくらいなら、して後悔しろ――がよみがえり、これでいいんだと言い聞かせた。

 院内に入ると広い受付があり、「婦人科」を受診する旨を伝えて手続きする。
 朝早くにもかかわらず、たくさんの人が椅子に腰かけていた。

 婦人科の待合所にはお腹の大きい人、具合の悪そうな顔で点滴しながら歩いている人の姿があった。
 いずれも二十~三十代の女性ばかり。
 そんな中、僕らは確かに浮いていた。

 チラチラ見られている感じもした。
 だけどそれ以上に干渉されることはなかったし、当人たちだって何かしら体の悪いところを見てもらうためにここにいるのだから、立場上は同じはずだ。
 なら、こっちは呼ばれるまで座って待っていればいい。

 とはいえ、壁を眺めているのには五分で飽きてしまった。

 エリーも同じらしく、
「予約もしないで来ちゃった上に、初診だからかなり待たされると思うけど、ただ待ってるのって暇だよね。どうする?」

 時計をちらりと見てそう言った。
「どうって言われても……。あぁ、僕、いいの持ってる」

 本当は服に合わせて変えてきたほうがよかったのかもしれないが、慌てていたので通学用に使っているリュックをひっつかんできてしまったのだった。

「ほら、これ」

「……なんでチェスセット持ち歩いてるの?」

 当然と言えば当然の反応だが、あきれているような、笑っているような、なんとも中途半端な表情をされた。

「そりゃあ、どこでもできるように」

「一人で?」

「まぁ、そうだけど」

「やっぱ、アキって変わってるね」

「で、やるの? やらないの?」

「やる、やる。暇つぶしには最適」
 エリーも開き直ることを覚えたようだ。
 
 長椅子の上にチェスボードを出した僕らは明らかに場違いな連中だった。
 でも、ぺちゃくちゃとおしゃべりに興じているよりよほどましなはずだ。

「どっち?」

「じゃあ、右手……。あー、僕はいつも黒だなぁ」

「そうね。じゃあ始めるね」
 僕とエリーが対戦するとき、たいていエリーが白駒、先手である。

 チェスは横軸がaからh、縦軸が白のほうから1~8と数え、それぞれが交差したマスをa1、a2と呼ぶ。

 まずエリーが、白ポーンをe4へ、僕が黒ポーンをe5へ、次に白ポーンをd4、そして黒ポーンで敵ポーンを取ってd4へ……。と順に動かしていく。

 次に白はクイーンを使ってさっきの仕返しとばかりにd4へ動かした。
 僕は黒のナイトをc6へ動かす。

「うーん……」
 ちょっと迷ってから、エリーはクイーンをe3に動かした。

 センター・ゲーム……。
 古い定跡の一つであるそれを仕掛けてきているようだ。

 やはりチェスはキャスリング(入城。条件が整った時、ルークとキングを入れ替えることができるルール)がゲームを面白くしてくれる。

 思った通り、そこから白熱したゲームが展開された。
 僕らは特別な言葉を交わすことなく駒を動かし続けた。

   *

 一時間ほど経ったころだろうか。
 ちょうど白が辛勝し、片付け終えたところでエリーの姓が呼ばれた。

「ここで待ってる」
 僕が言うと、

「一緒に来て。中で待ってて」
 エリーは僕の手を引っ張って診察室に連れ込んだ。

 中に入ると、男性の医師と女性看護師がいた。
 婦人科だが、女性の身体を診るのは男なのか。

「吉川さんですね。問診票、拝見しました。
 詳しいことを知りたいので、いくつか質問させてもらえますか?」

「はい」

「身長が止まったのはいつごろ?」

「小三ぐらいだったと思います」

「生理は一度も来たことがない?」

「はい……」

 医師に促されるまま、エリーは自分の身に起きていることを事細かに話した。
 話を聞きながら、医師はカルテに記入していく。

「分かりました。では、精密検査をしましょう。
 奥の部屋へ移動してください。彼女だけね」

 歩きかけた僕を医師が制した。
 身体検査のようなことをするのかもしれない。
 僕は再び椅子に腰掛け、検査が済むのを待つ。

「お兄さんですか?」
 室内を見回していると、看護師の方から声をかけてきた。

「いいえ」

「恋人?」

「友達です」

「へえ、友達……」

「いけませんか、友達でこんなところに来ちゃ」

「ううん。感心してるのよ、むしろ。
 今時の高校生は、彼氏さんでも彼女の病気に向き合えない子が多いから」

 奥の部屋に移った医師が看護師を呼んだ。
 看護師は話すのをやめて奥に引っ込んだ。
 ドアが閉まってしまうと会話は全く聞き取れなかったが、二人がああだこうだと話している様子はわかる。
 その雰囲気から察するに、あまりいい話ではなさそうだ。

 十分ほどして、医師とエリーが戻ってきた。
 彼女の顔には血の気が一切なかった。

「じゃあね、吉川さん。
 血液検査の結果がでるまで一週間ほどかかりますから、来週また来てください。
 おそらくは、ターナー症候群だと思いますが」

「ターナー症候群」

「本当に、今まで一度も言われたことがありませんか?
 普通、遅くとも中学生になるころには親御さんが異常に気付くものですが」

「……親は離婚しているので」

「あぁ……」
 医者は妙に納得した様子だった。

「こういうことは一度、育ての親御さんにもきちんと話さないと。
 恋人に相談したい気持ちもわかりますがね」

「……ありがとうございました。また来週、お目にかかります」
 小さな声でそういうと、エリーは診察室を後にした。

 待合所へ戻った僕らは、空いている椅子に並んで腰掛けた。
 エリーは診察室を出てからずっと僕の手を握っていた。

 僕らの前を二十代前半のカップルが通り過ぎる。
「よかった、順調に育ってるって。子供の名前、考えなきゃ」
 僕らは二人を目で追った。

「私の体、治るのかな……」

「大丈夫。きっと大丈夫だから」
 僕にはそう言ってやることしか出来ない。

「結果が出たら、また一緒に来てくれる?」

「もちろん。僕も知りたいから」

「ありがとう」
 エリーが僕の手を強く握る。僕も握り返した。

「ねぇ。この後、私と川越めぐりしない?」

「川越めぐり?」

「気晴らししたいから。学校行くなんて、言わないよね?」
 訴えるように見つめられたら断れない。

「いいよ、今日はとことん付き合うよ」
 いけこまには、用事が済んだら学校に来てと言われたけど、ごめん。
 今日はいけそうにない。それよりも大事なことがある。

「途中でおなかがすいたらどうする? 僕、あんまりお金持ってないんだ」

「菓子屋横丁で買えばいいよ。アキはお菓子好き?」

「好きだけど、お腹いっぱいになれるかなぁ?」

「あの麩菓子買えば、絶対お腹いっぱいになれるって」

「あぁ、あれね。確かにそうだ」

 「あれ」というのは、菓子屋横丁名物、日本一長い麩菓子のことだ。
 その長さは一メートルほど。持っているだけで観光客だなと分かってしまう、存在感である。

 支払いを済ませると、エリーの顔色は元の通りに戻っていた。表情もいい。

「菓子屋横丁に行く前に、時の鐘に行こうよ」
 僕は提案した。

「時の鐘? いいけど、行ってどうするの?」

 それは川越の象徴。
 観光するなら絶対に外せない名所だが、エリーのいうように、市民にとっては改めて見るほどのものではないかもしれない。

「正確にはその奥にある薬師神社に行きたいんだ。
 ……病気に効くって言われてるからどうかなって」

「アキ……。ありがとう」

 背が高くて目立つ時の鐘の奥にひっそりとたたずむ神社だが、五穀豊穣、家運隆昌、病気平癒のご利益があるという。
 僕自身、知識としては知っているけど実際に行ってみたことはなかった。

 時の鐘には病院から歩いて十五分ほどで着いた。
 一番の名所ということもあり、平日ながらもにぎわっていた。

 改めてしみじみ見上げてみると、ここだけ時間が戻ってしまったかのような錯覚に陥る。
 百年前の人もこうして、時が告げられるたびに見上げたに違いない。

 神社に一歩踏み入ると、そこにはほとんど人がいなかった。
 静かに祈りをささげるのにちょうどいい。
 運よく小銭があったので賽銭箱に入れ、エリーの体がよくなるよう祈った。

「……実はね、ずいぶん前から知ってたの、病気だってこと」
 祈りながらエリーはつぶやいた。

「病名までは知らないよ?
 でもきっとそうだって思った。
 だけど病院にはいかなかった。
 周りの同級生がこんな私の容姿をかわいがってくれたから、何不自由なくやってこれたのも幸いしてね。
 生理が来ないのも、楽だわぁなんてずーっと思ってた。それなのに……」

「鈴宮と付き合って、そうも言っていられなくなった……?」
 エリーはうなずいた。

「……恋人同士って、本当に体を見せ合ったり重ねあったりするものなのね。
 テレビドラマの中の話とばかり思っていたのに。
 悠もそうしたがった。
 すぐ体を押し付けてきたし、触ろうともした。
 そして実際触ってみて、ぺしゃんこの体に驚いた……。
 あの時の顔は今でも脳裏に焼き付いているわ。

 変わりたい、変わらなきゃ……。
 そう思えば思うほど、私の体は一歩も動けなくなった。
 そして迫られては嫌になり、自分を責めることの繰り返し。
 ……もしアキが助け舟を出してくれなかったら今頃、私は泥沼でおぼれていたかもしれないね」

「溺れる前に助け出せてよかったよ」

 ゴーン……。
 ちょうどその時、時の鐘が正午を告げた。

「この鐘の音(ね)ってさ、地味だけど、川越らしい感じがして僕は好きなんだ」

「私もそう思うよ。なんでだか、落ち着くんだよね」
 話しているとまた一つ、鐘が鳴った。

「日本の音風景百選の一つに含まれてるらしいよ」

「へぇ。アキって、川越のことよく知ってるよね。歴史も得意だもんね」

「まぁね。だけど、実際に見たり聞いたりしたことがないものも多いんだ。ずっと川越で暮らしてるのにね」

「そうね。私も何となく暮らしてるだけで、寺院を巡ったり、歴史を知ろうとしたことはないなぁ」

 住んでいる街のことだけじゃない。
 僕らは毎日与えられた環境で、与えられたことだけを淡々とこなすのに一生懸命で、自分のことさえちゃんと理解していないんじゃないだろうか。そんなふうに思う。

 一番街通りを行く人の波をかき分け、菓子屋横丁に向かう。
 うっかりすると見過ごしてしまいそうな路地。
 狭く、短い通りではあるが昔ながらの商店がずらりと並んでいる。

「おなか、空いたね。……麩菓子、買う?」

「うーん……。じゃあ、一本」
 ここは思い切って、一メートル近い麩菓子を購入する。
 値段はたったの四百五十円だ。

「わぁ、本当に買ったね。食べきれる?」

「残ったらあげるよ」

「えー、私は遠慮しとくー」

「買わせといてひどいなぁ」

 そこのお兄ちゃん、お姉ちゃん!
 大きな声で呼び止められ、見てみると僕の好きな甘酒ののぼりが目に飛び込んできた。

「あっ、甘酒! 飲みたい!」

「私も好き!」

 麩菓子を持ったまま、僕らは店先の赤い敷物がかけてあるベンチに腰掛け、甘酒を飲んだ。

「あったまるね」

「うん」
 曇天で少し肌寒い、今日みたいな日にはうってつけの飲み物だ。

「麩菓子食べながらでいいよ! ゆっくりしてってね!」

 お店のおばちゃんがニコニコしながら言った。
 言われた通り食べていると、何を食べているのかと人が集まり、甘酒が売れていく……。
 僕はいい宣伝役になっているらしい。

 結局、同じ味のものを食べるのに飽きてしまったので、通りにある団子やソフトクリームなどに手を出し、結局ここで腹を満たしてしまった。

「食べすぎたぁ。……お金も使ったぁ」

「アキってば、甘いもの好きなんだね」

「エリーだって、結構食べたじゃん」

「だって女子だもん。甘いものだーい好き」

「はいはい。……で、このあとどうする? まだ昼過ぎだけど」

「じゃあ、氷川神社」

「疲れてない? バス、乗る?」

「ううん。近いから歩いて行けるよ」


 エリ―の発案で次は川越氷川神社に足を向ける。
 大宮にある氷川神社から分祀されたものだが、約千五百年の歴史があるとされる。
 高さ十五メートルの木造鳥居はやはり目を見張るものがある。
 縁結びのお守りが人気で、時々チェス部の後輩たちの間でも話題になる。

「うちはいつも、初詣はここでするの。
 ものすごく混むから、三が日は外すけど」

「へぇ」

「老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪」

「……何?」

「太田道灌(おおたどうかん)が読んだ和歌だよ。
 ここ、氷川神社に奉納したの。
 ……歴史は得意でも、和歌までは知らないんだ?」

「古典は苦手で……」

「じゃあ、今の和歌も覚えておくといいよ。予備知識として」

「……えーと、なんて言ったっけ?」

「もう! チェスの定跡は一発で覚えるのに、こういうのはダメなんだから!」
 エリーは持っていたバッグからメモ帳を取り出すと、そこに和歌を書いてくれた。

「はい。これでいいでしょう」

「ありがとう」

「太田道灌っていえば、うちのおばあちゃんが神様みたいにあがめていてね。
 市役所前の道灌像の前に来るといつも手を合わせるのよね」

「道灌が神様かぁ。川越城を築いた人だものねぇ。
 っていうか、おばあちゃんと暮らしてるんだ?」

「父方のね。
 捨てられて不憫に思ったおじいちゃんおばあちゃんが引き取ってくれたの」

「そうだったのか……」

「二人には感謝してるの。
 ただでさえ、親がいないことで手を掛けさせているから、あまり心配かけたくないんだよね」

「なるほど。
 それを聞いて今日、僕を頼ってきたのもしっくり来たよ。
 だけど……」
 僕は改まって言う。

「今日のことはちゃんと話したほうがいいと思うな。
 僕も人のこと言えないけど、朝早くから、おそらく何も言わずに出てきたんでしょ? 
 心配してると思うよ」

「……そうね。家に帰ったらちゃんと話す。
 でも、もう少し一緒にいさせて」

 そこから寺院を歩き回り、本川越駅に戻ってきたころには夕方になっていた。
 制服姿の中高生が目に付く。

「ありがとう。アキのおかげで、今日はずいぶん気持ちの整理ができたよ」
 そういったエリーの顔は朗らかだった。

 僕自身も、川越の寺院めぐりができて楽しかったし、何よりエリーの役に立てたのがうれしかった。

「よかったらさ、家の前まで送るよ。自転車の後ろに立てば乗れるから」
 突然、今日一日、行動を共にしたんだから家まで送ってやれ! って声が頭の中で響いた。

「じゃあ、お願いしようかな。ほんのちょっとの距離だけど」
 エリーは、ちょっと申し訳なさそうに言ってほほ笑んだ。

「でも、家までじゃなくていいよ。
 中央図書館の前で降ろして。そこからすぐだからさ」
 やはり、同居している祖父母のことが気になるのかもしれない。

「わかった」
 エリーの気持ちを汲み取って、中央図書館に向け自転車を漕ぎだす。

 曇天ということもあり、夕方になったら急に肌寒く感じる。
 特に、今日の服装は兄貴の借り物のシャツだから、風を切ると余計に涼しさが身に染みる。

 だけど。
 顔や体の深いところは燃えるように熱い。

 背中から腕を回しているエリーの体温や息づかいが気になって仕方ない。
 おかげで「エリーを目的地まで送り届ける」という任務すら果たせない。
 熟知しているはずの道を間違える始末だ。

「ちょっと、アキってば! 一つ手前で曲がるって、三回は言ったよ!」

「うん、ごめん。聞いてなかった」

「もう……。またチェスのこと考えてたんでしょう!」
 エリーはそういったが違う。
 今日に限って言えば、チェスのことは一つも頭に浮かばないんだ。
 考えようとしてもダメなんだ。

 明らかに今、僕はこれまで感じたことのない気持ちを抱いている。
 チェスをしているときには決して感じられない、胸の奥から突き上げる痛み。
 押し殺すことのできない何か。
 十分足らずの道のりをもう一度間違える。
 おかしい、絶対におかしい。どうかしている。

「アキも疲れてるんじゃない? ここでいいよ、降ろして」

 僕らしくない行動に、さすがのエリーも心配になったようだ。
 だけど、ここで降ろしたくはなかった。約束は果たしたい。

 結局、一本通りを戻ったらちょうど図書館のところに出た。

「いいって、ここで」
 エリーが強い口調で言うので、ようやく僕は自転車を止めた。

「今日は歩かせすぎちゃったかな? ごめんね」
 自転車から降りたエリーがまず謝った。
 謝るのは道を間違えた僕のほうなのに。

「送ってくれてありがとう。明日は学校に行くから。それじゃまた」
 別れの挨拶を告げ、エリーはさっと背を向けて歩き出す。

 とっさに返事ができなかった。
 言いたいことが頭の中で渦巻いて声にならない。
 声より先に体が動く。

 気づけばその体を抱きしめていた。
 言葉はそのあとでようやく出る。

「……いかないで」

「……アキ?」

「自分でも何をしているのか分からない。
 変だよね。僕らしくないって分かってる。
 でも、体が言うことを聞かないんだ」

「……ばかね。本当にわからないの?
  それ、私に恋してるってことだよ」

 そういってエリーは振り向き、僕の目を見る。
 そして背伸びをして顔を近づける。

 そんなにじっと見ないで。
 心臓が破裂しそうだ。
 なのにエリーはからかうように言う。

「……キスしたい?」

「……しない。できないよ」

「……私が悠と別れていないから?」

「うん」

「なら、別れる。今度こそ、ちゃんと」

「えっ」

「……私も、アキのことが好きになっちゃったから」

 心臓の音が聞こえているんじゃないかっていうくらいに鳴っている。
 僕は今、夢を見ているんじゃないだろうか。

「エリー、それ、ほんと……?」

「今日、一日中一緒にいて分からないの?」
 エリーは苦笑した。
 それを見て、僕も自分のことが可笑しく思えた。

 笑いながら、ちょっと情けない気持ちになる。
 あー、エリーに先に言わせちゃって、格好悪いなぁ僕は。
 今ならまだ、挽回できるかな……。
 ちゃんと告白しよう。僕も、自分の気持ちを言葉で伝えよう。

「エリー」
 正面に見据え、ひざを折って目線を合わせる。

「エリ―のことが好きだ。鈴宮と別れたらその時は……付き合ってくれるかな」

「うん。私でよければ」

「エリーがいいんだ」

「ふふ……。私のどこが好き?」

「そりゃあもう……全部だよ」

「さっそく、盲目になってる」
 エリーは笑いを必死にこらえようとしたが、こらえきれずにやっぱり笑った。

「……今日、着飾った姿を見て、アキの気持ちに変化があったんだなってすぐにわかったよ。
 急な呼び出しだったのに、わざわざお兄さんの服を借りてくるってよっぽどだもの」

「言われてみればそうだね。
 でも、よく見せたかった訳じゃなくて、なんて言うのかな……。
 自分に自信がないから、兄貴の服の力を借りたかっただけなんじゃないかって、今はそう思う。
 昨日の兄貴はそれだけ、自信に満ち溢れて見えたからね」

「服の力、か……」

「実際、僕はこの服を着て堂々とエリーに会うことができたと思ってる。
 だけどもし……もし、エリーが今日の服装を見て好きだと言ってくれたのなら、僕はエリーに好かれるように中身を変えてかなきゃならない。
 兄貴の服に恋されたんじゃ、情けないからね」

「ばかね。アキの今日のやさしさに惹かれたに決まってるじゃない。
 わかりきったこと、言わせないでよ……」
 エリーは恥ずかしそうに、小声で言ってうつむいた。

 今の言葉、もっともっと言ってほしい。
 ああ、この時間がずっと続けばいいのに。
 どうして今日は終わってしまうんだろう。
 明日も学校で会えるはずなのに、寝るために別れる時間さえ惜しいと思える、この気持ちが恋なのか。

 兄貴たちが新婚らしく、見つめあって「行ってきます」のキスを交わす姿を見てしまった時は嫌悪感しかなかったけど、今だったらきっと受け入れられるだろう。

「そうだ。ひとつ条件つけてもいい?」
 エリーが恥ずかしさをはぐらかすみたいに付け加える。

「私とのキス。
 アキも私も、自分のやりたいことを見つけて頑張ったら、ご褒美にキスできる、っていうのはどう?」

 その提案はいいと思った。
 少なくとも僕はまだ、進むべき道を全く決めていない。
 変わりたいと思っているなら行動で示す必要があるし、何より報酬が用意されているならモチベーションも上がる。

「わかった。お互い、夢といえるものを見つけて頑張ろう」

「うん。がんばろうね。……今日はありがとう。楽しかったわ」
 またあしたね。
 そう言ってエリーは、家のあるほうへ走り出した。


 エリーの体を抱きしめ、互いの気持ちを確かめ合った幸福感に包まれる。
 なんて気持ちのいい目覚めだろう。
 なのに直後、母さんに対する不満が湧いてきて一気に気持ちがしぼんだ。

 はぁ……。いったい、僕が何をしたというのだろう?
 なんであんなふうに言われなきゃならないんだ? 釈然としない。

「彰博、起きたかぁ?」
 ちょうどその時、兄貴がドアの向こうから声を掛けてきた。
 昨日とは逆だ。

「入っていいよ」
 僕は返事をした。

「昨日はありがとう。おかげさまで、服は役に立ったよ」

 夜遅くに帰宅する兄貴だから、昨日のうちに礼が言えなかった。
 いけこまから聞いているんだろうけど、自分の口で報告するのが義務というものだろう。
 それを聞かずとも、兄貴は笑顔だった。

「聞いたぜ、おまえもやるじゃないか。
 しかも、母さんと喧嘩したんだって?」

「そりゃあ喧嘩にもなるっしょ」

 夕べ、帰宅するや否や、僕はすぐに謝ったが、予想外にこっぴどく叱られた。
 そして、よくもまあ、こんなにもまくしたてられるもんだと感心するくらい、長い説教をされた。

 僕はもちろん、その場にいたいけこまも途中で口をはさむ隙はなかったし、怒りを出し尽くした母さんは、その後から一言も口を利いてくれない有様だった。

「話せばわかってくれると思ったんだけどね。
 今度ばかりは簡単じゃないらしい」

「そのことなんだけど……。
 実はさぁ、昨日の朝、おまえが出て行ったあとで母さんに、『彰博は恋に目覚めたから邪魔するな』って言っちゃったんだよなぁ。
 やっぱ、さっすがに言い方悪かったかなぁ?」

「なにそれ、最悪」
 どおりで、帰宅するなり母さんがものすごく不機嫌だったわけだ。

「あのさぁ、応援してくれるんならもうちょっとマシな言い方できなかったわけ?」

「だから悪かったって言ってんだろ。
 母さんにはおれからも謝っておくからさ。
 彰博は悪くないって」

「まぁ、別にいいんだけどさ」

 病院に行ったあとは正直、半日デートしていたし、告白までしてるんだから全く間違ってもいないのだ。

 兄貴は小さく息を吐いた。

「母さんはたぶん、お前が急に変わりだしたから心配してんだよ。
 おれは現場にいなかったから想像するしかないけど、どうせ母さんの持論が炸裂したんだろ?」

「うん……」

「そんなのは言わせとけばいい。
 お前にも守りたい人が出来たんだろ?
 だったら、母さんが何を言っても抵抗しなきゃだめだぜ。
 まぁ、さすがに高校生で子供作ったらマズいと思うけど、おまえに限ってそれはねぇよな?」

「ないね。僕は兄貴とは違うんだ」

「けっ、まだ言うか!
 ンなこと言ってると、本能むき出しのやつに負けるぜ?」

「なにそれ?」

「奪い取られるってこと。お前は優しすぎるからな。気をつけな」

 悔しまぎれの反論かと思ったが、奪い取られると聞いてあいつの、鈴宮悠斗の顔が脳裏をよぎった。

「僕だって、やるときゃやるさ」
 自分にも言い聞かせるように言った。

 それを聞いてか、兄貴は嬉しそうに笑った。
「まぁ、人の恋愛、しかも初恋の行く末を見守ることほど面白いことはないからな。
 お前がどんなドラマを見せてくれるか、楽しみにしてらぁ」
 兄貴はそういって立ち上がった。

「朝飯、どうする?
 母さんに顔合わせるの面倒だったら、ここに持って来てやろうか?」

「どういう風の吹き回し?」

「昨日、余計なことを言った罪滅ぼし」

「ああ、それなら今日は持ってきてもらおうか」

「OK。ただし、今日だけな」

「はいはい」

 兄貴が部屋を出るとドアの前でいけこまが待っていたようだ。
 階下に降りながら二人で何やら話をしているのが聞こえてくる。

 ――どうだった?

 ――昨日朝のことは謝ったし、アドバイスもしといた。
 あいつ、優しいから心配でさ。

 ――ん? それって、お義母さんと同じじゃない?

 ――あー、そう言われればそうだな。
 いっけねぇ、またやらかしたかぁ?

 兄貴もいけこまも、そして母さんも、僕のことを気にしてくれているんだ。
 僕が傷つかないように、先輩として助言してくれる。
 そのことは本当にありがたいと思う。

 でも。

 今度のことは自分から傷を負う覚悟で前に進まなきゃいけないと思っている。
 傷つかないに越したことはないけど、きっと無傷では済まないだろう。

 怖い。そりゃあ怖い。
 でも僕は一人じゃない。
 エリーがいる。
 エリ―のためなら、傷つくことだってやってみせる。


 土砂降りの雨だった。
 そんな中でも、僕の頭の中はエリーでいっぱいで、合羽で隠れない顔がびしょぬれになっていてもにこにこと、いや、にやにやしていた。
 傍から見たらキモイと思われるだろうなっていうくらいに、だ。

 学校に着いたら真っ先にエリーのところに行く。
 昨日のことを思い出しながら話をする。
 想像するだけでわくわくした。

 駐輪場に自転車を止めて合羽を脱ぎ、三階の教室まで一気に駆け上がった。
 エリーと僕とは三クラス離れている。
 荷物を置いたらエリ―のいる教室に行こう。
 ぼんやりと考えていた時、突然視界がぐらりと揺れた。

 一瞬、何が起きたかわからなかった。
 数秒して、殴られて倒れたんだとわかった。
 僕の前には鈴宮が立っていた。

「ひっどい挨拶だなぁ……」
 顔がじんじんして熱い。
 吹っ飛んだ眼鏡をかけなおして立ち上がると、鈴宮は僕に詰め寄った。

「なんで殴られたか分かるか?」
 どうやらかなりご立腹のようだ。
 情報通の鈴宮だ、どこかから昨日のことをかぎつけたのかもしれない。

「さぁ」

「しらばっくれんなよ。
 ……お前、映璃に何言った?
 おまえら、昨日学校休んだろ?
 一緒にいたんだろ?」

「何って別に。
 チェスして、いつもと変わらないことしか言ってないよ」

「ならどうして映璃から別れ話が出る?」

 はっとした。
 エリーはついに言ったんだ。
 うれしくて飛び上がりそうになる。
 でもそれは胸の内にすぐしまって、いつもの僕らしく、冷静にかつ冷淡に返す。

「自分の胸に聞けばいいじゃん」

「なんだと?」
 今度は胸ぐらをつかまれた。

「前から思ってたが、やっぱりお前、映璃のことが好きだったんだな?」

「……だったら何?」

「気に入らねえって言ってんだよ。
 お前みたいな、不細工で運動音痴なやつが俺から映璃を奪い取ろうなんて。
 絶対に渡さねぇ。なにがなんでも」

「エリーは鈴宮のものじゃない」

「言い方が気に入らねえなら言い直そうか?
 映璃は俺と付き合う契約をしている。
 つまり、俺が別れを切り出さない限り、俺たちはずっと恋人同士ってわけだ」

「エリーは別れたいって言ったんだろ?
 引き留めようったって無駄だよ」

「引き留めてやる。必ず。
 そしてお前を、ここで、土下座させる」

 もはや自尊心を満たしたいがためにエリーを利用しているとしか思えなかった。
 彼にはもう愛はないはず。なのにそういうことを言う。許せなかった。

 戦いを挑まれた。受けて立つしかない。覚悟はできている。
 戦って敵を、キングをチェックメイトする。
 にらみつけると、鈴宮はひるんだ。

「な、何だよその眼は」

「じゃあこうしよう。
 次の学力テストで、全教科の得点が高かったほうがエリーと付き合う権利を得る。
 どう?」

「勉強で勝負?
 おまえ、本気で言ってんのか?
 今まで底辺の成績でやってきてることくらい知ってるぜ?」

「だからやろうって言ってんじゃん。
 底辺の成績なのはそっちもだろ?
 それとも、チェスで勝負する?」

「いや……。わかった。
 テストの成績で勝負しようじゃねぇか。
 ただし、自分で言ったこと、後悔することになるかもしれないぜ?」

「やってみなけりゃわからない」

「けっ、野上のくせに言いやがる」
 くそっ!
 腹立たしげにドアを蹴飛ばし、教室に戻っていく鈴宮。
 あぁ、なんだってそのあとを追っかけるみたいに、僕も同じ教室に入らなきゃならないんだ。

 教室に入るなり、クラスメイトが一斉に僕を見た。
 明らかに、今までと違うまなざしを向けられているのが分かった。

 ――野上が鈴宮に決闘を申し込んだぞ!
 ――野上君、吉川さんのこと好きだったんだ。
 ――バカ対バカの対決、おもしろそうだな。
 ――吉川さんの趣味も変わってるね。
 鈴宮君を捨てるなんて、もったいないことするよね。

 いろんな声が聞こえてくる。
 あーあ、言っちゃったんだな、僕が。
 争いは嫌いだ。
 平和に、のんびり暮らしたいのに、ケンカ売られて乗っかって……。

 でも。

 ここで引いたらメッチャ格好悪い。
 これまでも格好悪いやつだったのに、エリーに告白までしたのに、今更引き下がれない。

 それに、兄貴の言葉が引っ掛かっているんだ。
 遠慮したら負ける。それがはっきりと分かった。
 だからこっちから戦いを挑んだ。
 僕だって攻められる。
 チェスボードの上でできるんだ。できないはずがない。

 鈴宮が殴ったことはすぐ先生に伝わり、一時間目の休み時間になるや、二人そろって進路指導の先生に呼びつけられた。

 僕は騒ぎを大きくしたくなかったから「けがは大丈夫」の一点張りをした。
 一方の鈴宮は「野上が悪い」と自己の正当性を主張。
 結局、今回は大目に見るが、こういうことは進路に大きく影響するから「絶対に」慎むようにといわれて解放された。

 そんなことがあったから、教室のどこにいても鈴宮が鬼の形相でにらみつけてくるし、周りの人間も僕の行動を監視しているように思えて、とてもエリーに会える雰囲気じゃなかった。

 どうしてこんなにも僕は遠慮してるんだろう?
 また鈴宮にやられるのが怖いから?

 違う。

 エリーに危害が及ぶのが怖いんだ、きっと。
 鈴宮なら、今日のことをきっかけに、エリーを組み伏せたり脅したりするかもしれない。
 それが怖いんだ。

 放課になり、部活動の時間がやってくると、僕はわき目も降らずに部室へ向かった。
 部活だけは僕らが唯一、公然と会える時間だ。
 誰にも文句は言わせない。

 部室の前でエリーが来るのを待った。
 鍵を持ったエリーはほどなくしてやってきた。

「あぁ……。アキ、ごめんね。私、こんなことになると思ってなくて……。痛い思いさせて、ごめんね」

 僕を見るなり、エリーはそういって僕の顔に触れた。
 今朝殴られたところが青あざになっているのは、トイレに行ったとき鏡で確認済みだ。
 放っておけば痛みは感じないけど、触られたら鈍痛がした。
 でも、エリーの柔らかくて温かい指が触れているというだけで痛みなんてどうでもよくなった。
 むしろ、殴ってくれたことに感謝の気持ちすら湧いてきたほどだ。

 鍵を開け、部室に入る。
 後輩が来るまでわずかな時間しかないが、今は二人きりで話ができる。

「今朝の出来事は耳に入ってるってことだよね?」

「うん……」

「鈴宮に別れるって言ってくれて、僕は嬉しいよ」

「でも、悠があんなふうにアキに突っかかると知っていたら私……」

「鈴宮って前からそういうやつだったから気にしてないよ」

「そうかもしれないけど……。
 ゴールデンウイーク明けの学力テストの点数、競い合うんでしょ?
 私、アキの成績、知ってるよ? もう、気が気じゃなくて」

「はは……。
 そりゃあ、十日くらい猛勉強しないと無理かもね。
 でも、昨日言ったでしょ。
 お互いに自分のやりたいことを見つけたら……ご褒美くれるって。
 そのためのいい練習だと思ってる。
 ライバルいたほうがやる気も出るっていうじゃん?」

「へぇ……。アキってば、いつからそんなに前向きになったの?」

「多分、兄貴の影響かな」

「もし……。もしアキが負けちゃったら私、どうしたら……」
 その手が僕の手に触れる。
 僕は優しく握り返す。温かさが愛おしい。

「大丈夫。がんばるからさ。
 ……でも二つだけ、お願いしていいかな」

「なに?」

「英語と古典、教えて……。
 ほんと、苦手なんだ……」

「OK。それなら私に任せてよ。
 いつもクラスで三位以内の成績、キープしてるからね」

「助かるー」

 今まで誰かと勉強したことなんてなかったけど、今度ばかりは一人でやるには限界があるとわかっていた。
 自分で仕掛けた勝負でもある。
 絶対に高得点を取らなければいけない、大事なテスト。
 エリーのためでもあり、僕のためでもある。

「もう一つのお願い事は?」
 エリ―の問いに、僕は定跡本とチェスセットを手渡した。

「預かっていてほしい。
 テストの日までは勉強に集中したいから」

「……本気ってわけね。
 わかった。大切に預からせてもらうわ。
 で、勉強はどこでやろうか?」

「図書室はどう?」

「ゴールデンウィーク中って開いてたっけ?」

「あー、そうか」

「中央図書館は? 静かでいいよ」
 なるほど、あそこなら勉強するのにはうってつけの場所だ。

「OK。きまり」

 話がまとまったところで後輩たちが一気に部室になだれ込んできた。
 入ってくるなり僕らに駆け寄り、拍手を浴びせる。

「副部長! 部長との恋、成就したんですね! おめでとうございます!」

「部長も、副部長のこと、やっぱり好きだったんですね。
 この前はあんなこと言ってたくせに! このこのぉ!」

 どうやら二年生にも話が伝わっているらしい。

「あんたたちって面倒くさいわね! 私たちのことは放っておいてくれない?」

 エリーが顔を真っ赤にして反論するが、その姿は、僕からすればもう、ただかわいいだけだ。
 僕自身、表情を保つのが難しくなったから、顔をそむけて窓を開け、外を見た。
 三階なら、僕がどんなににやにやしていてもバレないはず。

「こんなに嬉しいことを放っておけるわけないじゃないですかぁ!」

「そうそう! で、どんなふうに告白されたんですか? 教えてくださいよぉ!」

 後輩たちはエリーを取り囲んでまだ盛り上がっている。
 今日はしばらく、部活どころじゃない雰囲気だ。

 そういう僕もきっと、チェスに専念はできないんだろう。
 エリーといれば、エリーのことしか見えないし考えられない。
 で、家に帰れば勉強だ。
 ……あれ? 勉強嫌だなぁって思ってない、僕。
 相変わらず、単純でちょろいやつだ。

「アキ! 部活、始めるよっ!」
 エリーが僕のすぐ横にやってきて背伸びをし、顔を覗き込むように言った。

「……あのさぁ、照れるからそんなに顔を見ないでくれる?」

「後輩たちに根掘り葉掘り聞かれるくらいなら、アキの顔を見てたほうがマシ」

「僕だって、エリーだけを見ていたい。でもそんなことしてたら、やっぱり冷やかされる」

「もう、今更なにをしてたってあの子たちはそういう目で見て、そういう反応してくる」

「そうだろうね。でもさ、ここで見世物になるくらいなら、部活サボって二人で市内をぶらぶらしてるほうがいいと僕は思うね」

「うーん、それもそうね……。どうする?」
 エリーの顔が本気で、部活か、サボるかを聞いている。
 その眼が僕をじっと見つめる。
 あぁ、ダメ。息が止まりそう。

「お前ら。まだ準備もしてないのか? ちゃんとチェスをしろ、チェスを!」

 突然、顧問がずかずか入ってきて、僕とエリーをキッと睨みつけた。
 何を隠そう、この顧問こそ、今朝僕をしかりつけた進路指導の先生である。
 いつもは部活が終わるころに顔を出すか出さないかなのに、騒ぎが起きたとたんにこれだ。

「ここにいる間、吉川と野上は、チェス部長と副部長なんだから、役職通りのふるまいをしてくれないと困るな」
 これを言うために顔を見せたに違いなかった。

 だけどエリーはきっぱりと、
「これは私たちの問題です。先生は口を出さないでください」
 と言った。

 さすがの顧問も驚いている。
「こりゃあ、吉川の担任の先生にも相談したほうがいいかもしれないなぁ……」
 顧問はボソッとつぶやいた。


第三章


 アキの私への想いは、私のゆがんだ性格をも治してしまいそうなほどにまっすぐ。
 ちょっとくすぐったくて、恥ずかしくて、うれしくて。
 一秒ごとに、私の気持ちもどんどん「アキ色」に染まっていく。
 悠に染められた色を塗りつぶすかのように。

 二年間も一緒に部活動を通して接してきたのに、今までアキの何を見てきたのだろうと思わされるほどに新しい発見がある。

 恋の魔法のせいに違いないけれど、ぼさぼさの髪の毛や眠そうな顔、剃り残しのヒゲでさえ、今では許せてしまう。自分でもびっくりしている。

 たぶん、チェスをしているときの鋭いまなざしと真剣な表情を知っているからだろう。
 駒を動かすときの丁寧な所作、細くて長い指も美しい。
 そのギャップもまた、私をときめかせているに違いなかった。

 雨は上がっていた。
 部活を終え、私たちはようやく訪れた二人だけの時間に酔いしれていた。
 自転車を転がしながらゆっくりと歩く。
 こんなに楽しい帰路に就いたのはいつぶりだろう。

 会話の最中、互いの顔を見ては微笑み、信号で立ち止まってはまた見つめ合う。
 常に笑顔が絶えなかった。

 長い道のりもアキといたらあっという間。
 気づけば自宅についてしまった。

「ありがとう。反対方向なのに、家まで送ってくれて」

「少しでも長くエリーといたいから」
 自転車を家の前に止め、私たちは抱擁を交わした。

 時間にしてわずかだったはずだが、時が止まってしまったかのような錯覚に陥った。
 家の前を通り過ぎる人の話し声が聞こえ、ようやく我にかえる。

「離れたくないけど、そろそろ」

「また明日も会えるから」

「そうだね」

 見つめあう。
 いつもはチェスの駒を動かす長い指が、今は私の指に絡んでいる。
 何度も握り返す。
 まるでキスをしているみたいに気持ちが高ぶってくる。

 けれどもアキが唐突に絡んだ指をほどいた。
 その唇は固く結ばれている。

「どうしたの?」

「いや……。ほら、家に入って。中に入るのを見届けるところまでが僕の仕事」

「もう、アキったら。それじゃ、また明日」

「また明日」
 自転車を片付け、私は高揚したまま玄関のドアを開けた。


 ただいま、と言いかけて私は眉をひそめた。
 おじいちゃんが吸っているものとは違うたばこのにおいがする。
 慌てて靴を脱ぎ、居間に駆け込む。

「なんで帰ってきたのよ……!」

 煙草をふかし、我が物顔で居間に座る男の姿をみてとっさに持っていたバッグを投げつけた。
 男は避けるふうでもなく、教科書の入った固いそれを背中で受け止め「いってぇ……」とつぶやいた。

 幸福な気分が台無し。
 いつもそう。連絡もなしにふらりとやってくる。
 今度はいったい何をしに来たというのだろうか。

「映璃ちゃん、落ち着いて」

「なんで……。なんでお父さんがここに……!」

 おばあちゃんに詰め寄る。
 息が苦しい。
 頭に血が上っているのが自分でもわかる。
 私の問いに、男自身が答える。

「明日からゴールデンウィークだろう? たまの長い休みくらい、孫の顔でも見せとこうと思ってな」

「はぁ……? 孫……?」

 訳が分からず戸惑っていると、目の端に小さく動くものが見えた。

 三歳くらいの女の子。垂れた目が父によく似ている。
 が、まっすぐ伸びたつやつやの黒髪は、くせ毛の父のものではないとすぐにわかる。
 私が怒りを爆発させる姿を見ていたせいか、おびえているふうだった。

「孫ってその子のこと? ……別の女の、子供ってこと?」

「ユリって言うんだ。えーと、映璃の妹になるのかな? 二、三日はいるつもりだから、仲良くしてやってくれ」

「ばかなこと言わないで! なんで私が子守をしなくちゃならないのよ!」

「映璃ちゃん、こっちへおいで……」

 興奮する私を、おばあちゃんが台所から手招きした。
 向かい合うとおばあちゃんは私の手を取った。

「今度ばかりはおばあちゃんも呆れてる。だけど、小さい子の手前、出て行けとも言えなくてねぇ」

「なら、私が言う。なにがなんでも追い出してやるわ」

「そうできればいいんだけど。おじいちゃんが言ってもあの態度だから」
 今回はいつもと違うということか。

 この前帰ってきたのが二年前。
 ちょうど、高校に入学したころで、入学祝と称していくらかお金を包んで持ってきたのだけど、その時は一時間ほどで出て行ったのだった。

 養育権は祖父母にあるから、時々しか顔を合わせることのない男のことは、実のところ近所のおじさん以下の認識だ。
 それでも「父」と呼んでいるのは、ほかに呼びようがないからで、一種のあだ名みたいなものである。

「おい、映璃。妹ができたんだ、遊んでやってくれよ」
 居間で父がのんきなことを言っている。
 あんたの子供でしょう?
 それはあんたの役目でしょう?
 腹の底から怒りがこみあげてくる。

「達彦(たつひこ)。おもちゃは持ってきてないの? わたしが遊んでやるから」
 おばちゃんが、やれやれとため息を吐きながら居間に足を向ける。

「なんで相手するの? 勝手にやってきたのはあっちでしょ?」

 おばあちゃんに抗議する。
 おばあちゃんは首を横に振った。

「子供に罪はないんだよ。
 それに、あの子にとってわたしは『川越のおばあちゃん』なんだから」
 そういって子供の相手を始めた。

 私は感情を整理しきれず、訳が分からなくなって家を飛び出した。
 勝手に涙があふれてくる。
 うつむいたまま駆け出そうとした時、誰かにぶつかった。

「……アキ? 帰ったんじゃなかったの?」
 彼は頭をポリポリと掻いた。

「帰るつもりだったんだけど、家の中からエリーの怒鳴り声が聞こえてきたから何事かと思って、帰るに帰れなかった。
 まさか、飛び出してくるとは思ってなかったけど、ここにいてよかった」

「アキ……」
 しがみついてその体に顔をうずめる。
 アキはしゃがみこんで私の背中に腕を回し抱きしめてくれた。

「大丈夫。なにがあったかわからないけど、僕がいてあげるから」

「うん……」

 ひとしきり泣いてから、すぐ近くの公園のベンチに座り、ことの経緯を話した。

 私が一歳半の時に両親が離婚したこと。
 どちらも育てる気がなかったから父方の祖父母の養子として育てられたこと。
 その父が今日になって突然、「妹」を連れて戻ってきたこと……。
 アキはただ静かに話を聞いてくれた。

「一度話し合ってみたらどうかな?
 一人じゃ無理って言うなら、ぼくが一緒にいてあげてもいいし」

 私のことを一番に想ってくれるアキならきっとそういうと思った。
 だからこそ、家の問題にはあまりかかわらせたくない、という思いもあった。
 やっぱりこれは私の問題なのだ。

「……大丈夫。一人で何とかする」

「本当に? さっきあんなに泣いていたのに?」

「……アキに話したら少し落ち着いた。
 それに、万が一うまく話せなかったとしても、お父さんは二、三日したら出ていくはずだから。
 そうしたら元の生活に戻るよ」

「そう? 無理しないでよ?」

「うん。ありがとう」
 私はできるだけ笑おうと努めた。
 目にたまっていた涙が笑った拍子に零れ落ちる。
 アキはそれをやさしく拭ってくれた。

「僕はいつでもエリーの助けになる。いつでも」

「ありがとう」

「大好きだよ」

「うん。私も」

「それじゃあ……。そろそろ帰るね」

「うん。明日、図書館に、十時に待ち合わせで」

「わかった。それじゃ」

「バイバイ……」
 アキは名残惜しそうに私の髪をひと撫でし、今度こそ自転車に乗って帰っていった。


 日はすっかり暮れていた。
 家の前まで来たとき、玄関の前でしゃがみ込む人影を見つけた。
 暗かったせいですぐに誰かは判別できなかったが、煙草の火が見えた。

 父だった。私に気が付くと、
「よお、帰ったか」
 と言って煙草を捨て、立ち上がりながら踏み消した。

「話がある」
 どうやら向こうから話し合いの機会を用意してくれるようだ。

 父は一歩だけ私に近づいた。下がりかけてとどまる。
 一人で何とかすると言った以上は、そして血のつながった親子であるからには、ちゃんと話しあわなければならない。
 これまで避けてきたけれど、これ以上避けられないところまで来たのだと覚悟を決める。

 「話」はなかなか始まらなかった。固唾をのんで待つ。
 少しの沈黙の後で父は深く息を吸い込み、話し出した。

「この前、加奈子に会った。……乳がんなんだと。
 まだ初期の段階らしいけど、長い治療が必要になるだろうって」

 加奈子というのは実母の名だ。別れて久しいはずだが、まだ連絡を取り合っていることに驚いた。

「……それで?」
 できるだけ冷たく言い放つ。

「加奈子がお前に会いたがってる。一度でいいから会ってやってくれないか」

「いまさら何を……」

「加奈子もそう思ってる。今更って。
 でも、もしかしたら死ぬかもしれないと思ったら会いたくなったんだと。
 ……住所と電話番号はここだ。気が向いたら連絡してやってほしい」

「どうして私から? 会いたいのは向こうでしょ?」

「のこのこと、離婚した男の実家に来られると思うか?
 映璃の電話番号を知ってたら教えてやったんだが、あいにくとそれもできなかったからな」

「たとえ教えてあったとしても、母親からの電話なんて出たくもない。
 一度だって顔を見せない女なんて、親でも何でもない」

「気持ちはわかる。
 だけど俺と加奈子がいなけりゃお前は存在してないんだ。
 俺たちが親なんだ」

「じゃあどうして捨てたの?」
 私は長年感じていたことを初めて吐露する。

「離婚した挙句、養育することを放棄したのに、どうして加奈子と会ってるのよ?
 おかしいじゃない。
 再婚相手も迷惑してるでしょうに。あの子だって可哀そうよ」

「ユリに加奈子のことを話すつもりはないし、会ってるといっても、おまえに会ったことの報告をしてるだけだから、数年に一度だよ。
 向こうから連絡があったのも今回が初めてだ」

「……どうして私に会ったことを教えてるのよ?」

「そりゃあ、親だから」

「育ててないくせに」
 私の言葉を聞くと、父は煙草を一本取り出そうした。
 が、迷った末にやめ、代わりに箱をもてあそび始めた。

「……育て方が分からなかったんだ。
 あの頃は俺も加奈子も二十そこそこで、やりたいことがたくさんあった。
 そんな中でおまえの存在が……重かったんだ」

「無責任」

「そう。分ってる。……だからもう一度、やり直したいと思って今、ユリを育ててる。
 もし、やり直せるなら……。
 お前が嫌じゃなけりゃ、一緒に暮らしてもいいと思ってる」

 父が今回、一番話したかったのはこれだ、と直感する。
 あまりにも自分勝手な内容に、怒りよりむしろ呆れてしまう。

「あんたたちの家庭に突然、私が入っていけるわけないじゃない。
 あの子が大事に育てられてるのを知っただけで十分。
 それ以上かかわる気はないわ」

「まっ、そういうだろうな、普通は。
 でも、こっちは割とマジで誘ってんだよ。
 嫁さんにも映璃のことは話してある。会いたいとも言ってる。
 ちょっと考えてみてくれないか?」

「映璃は渡さん!」
 上空から低い声が降ってきた。

「親父……」
 ベランダからおじいちゃんが一部始終を見聞きしていたらしかった。

「渡さんぞ」
 おじいちゃんはもう一度言った。

「黙って聞いてりゃ都合のいいことばかり言って。
 誰が十七年間も映璃を育てて来たと思ってる?
 若い時に子育ての苦労を知ろうとしなかった野郎に、今になって横取りされてたまるか。
 どうせ今度も、育てきれずに育児放棄するにきまってる!
 さっさと自分で育てるのはあきらめてここへ置いて行け」

「俺はもう子供じゃねぇ!
 あれから人生経験も積んだ。今回はちゃんと育ててく!」

「一度失った信用は簡単には取り戻せないぞ! 親子であってもな!」
 すごみのあるその声に、私も父もたじろいだ。

「映璃。安心しなさい。
 お前はじいちゃんの子だよ。ずっといていいからな」
 父には厳しい口調のおじいちゃんが、私にはいつもの温かい声で語った。
 思わず涙腺が緩む。

「もちろんよ」

「そういえば、映璃をここまで送ってくれた青年は優しそうだな」

「えっ。その時から見てたの?」

「ここはじいちゃんの特等席だからなぁ。
 川越の町並みが見える、最高の場所だ」
 そう言って街灯のともる市街を見つめた。

 抱き合っているところもしっかり見られていたに違いない。
 思い出しただけで顔がかあっと熱くなる。

「ふぅーん。映璃にも男ができたのか。
 家の前まで来てたのに見物しそびれたとは、残念だ」
 面白くなさそうに父は言い、今度は煙草に火をつけた。

「で、どんなやつ? インテリ? スポーツマン?」

「ウザイ。あんたには教えない」

「いつの間にか、加奈子そっくりの口ぶりだな」
 たびたび登場する加奈子という名前に、いい加減うんざりする。

「冷えてきたな。映璃、中に入りなさい。
 じいちゃんと一緒に夕ご飯にしよう」
 そういっておじいちゃん自身も室内に入った。

「俺のことは誘ってくれねぇのかよ。ひでぇ親父だ」

「……ここはもうあんたの家じゃない。
 私と、おじいちゃんおばあちゃんの家よ」
 父の脇をすり抜け、私は玄関のドアを開けた。

   *

 夜が更けるにつれ、罪悪感と自己嫌悪に襲われる。
 鈴宮悠斗という、だれもがうらやむ男を手に入れておきながら、平凡な、野上彰博という男を好きになって乗り換えようとしている私。

 ――あんたは最低な女よ……。
 もう一人の自分が頭上からずっとささやき続けている。

 明日はアキと会って、英語と古典を教えるんだから。もう寝なきゃ……。

 無理やり自分に言い聞かせ、寝る支度を済ませる。
 気づけば二十三時になろうとしている。

 と、スマホから、着信を知らせる振動音がした。
 アキかもしれない……。私は慌てて電話に出た。

「もしもし……」

『おっ、まだ起きてたか』

「……悠」

『なんだよ、そのがっかりした声は』
 単純に、ばつが悪かった。
 今日一日、面と向かって話し合う機会をあえて作らなかったのだから、きっと抗議の電話に違いないと身構える。

『野上からの電話だと思ったんだろ。
 ったく、だいたいなんでよりによって野上なわけ?
 せめて理由、聞かしてくんねぇかなぁ?』

 悠は怒らなかった。
 意外なほど、普段通りのしゃべり方。
 それが逆に罪の意識を強くさせた。

「その前に……。夕べは突然『別れよう』だなんて言ってごめん。
 ちゃんと話し合いもしないで、気を悪くしたわよね?
 本当にごめんなさい」

『まったくだ。掛け直しても出ねぇし。
 俺、なんかしたか? って、昨日の夜は全然寝れなかったぜ』

 ごめんなさい、ともう一度謝る。
「だけど、ほかに言葉が思いつかなかったの。
 何を言っても言い訳にしかならないと思って」

『それもひでぇなぁ。
 一応確認するけど、本当に野上のことが好きなの?』

「……好きよ」
 悠が深く息を吐いたのが聞こえた。

『俺、今日だけは遅刻しないで学校行って、手当たり次第聞き込みしたんだぜ?
 そしたら野上と映璃が一緒にいるのを見たっていう話を入手してよぉ。
 もう頭がパニックになってさ』

「だからって、殴ることなかったじゃない」

『今朝はとにかくむしゃくしゃしてたんだ。
 寝不足だったし。
 映璃は悪くない。きっと、野上にそそのかされたに違いないって自分に言い聞かせてたら、ああなった。
 ……まぁ、野上に手ぇ出した時点で嫌われたかもしれねぇけど』

「……そうね。暴力をふるう人は嫌い」

『けどさぁ、別れる理由くらい言ってくれなきゃ、こっちも引くに引けねぇじゃねぇか』

「……理由があれば別れてくれるの?」
 悠の言葉を逆手に取ると、

『た・と・え・ばの話!
 俺、野上に負けてるところがあるだなんて思ってねぇから』
 とすぐに否定された。

 この、自信たっぷりの口調。誰かに似ている。
 ちょっと考えて、父のことを思い出した。

 ジョークで人を笑わせるのが好きな人気者。
 周囲には多くの人が集まるが、少しでも意見が食い違うと、自分は間違っていないと言い張り何としても押し通す。
 そして自然体で惚れやすい。そう、悠も父も。

 この瞬間、私は気づいてはいけない事実に気づく。
 もしかして、私は悠に、不在の実父の姿を重ねていたのではないか、と。

 年に一度でも顔を見せることによって、あの男はあの男なりに私の父であり続けようとした。
 そして作戦通り、私の中で父は父として認識されていった。

 ある期間を除いて、ほとんど「訪問」程度の時間しか顔を見せなかった父。
 だが会った時は必ずと言っていいほど、「どうして突然帰ってきたの?」という怒りと「どうしてすぐに帰ってしまうの?」という矛盾した気持ちを抱いては混乱した。
 捨てられたはずなのに、やっぱり父にはそばにいてほしいという子供心が常にあったのだ。

 もっと一緒にいてほしい。
 認めてほしい。
 愛情を注いでほしい。
 その思いが形を変え、父に似ている悠を好きになることで心の穴を埋めようとしたのではないか?

 もしそうだとするなら、私が悠に対して抱いていた感情は「恋」ではなく「慕情」のようなものだったのではないか……。

 自分の気持ちを知った瞬間、壊れた水道のように、涙が出てきて止まらなくなった。
 静かな沈黙の時が流れた。

『……泣いてんの? 野上のこと、悪くいったくらいで泣くなんて。
 ……それとも、そのくらいやつのことが好きなのか?』

 泣き出した理由が分かるはずもなく、悠は見当はずれなことを言った。

「そうじゃないの……」
 そんな気持ちで付き合っていた自分が情けなく、また申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「悠のこと、好きになろうとしたのよ。
 だけど、好きになりきれなかった。
 やっぱり、これ以上悠とは付き合えない」

 涙声ではあったが、きっぱりと告げた。
 悠は戸惑っている様子だった。

『どうしてだよ?
 部活とスイミングスクールの掛け持ちしてて、なかなか会えないから?
 バカなことしか言わないから?
 それとも……体を求めすぎるから?』

 そう。父との共通点の一つとして、悠は会いたいときに会えなかった。
 向こうの都合で会いに来ては一方的にしゃべり、体を求め、拒めば怒った。
 そのことが不満だったし、孤独を感じさせた。

「正直、すぐに会えないのはつらい。
 付き合ってるのに、全然付き合ってる感じがしないの。
 電話を掛けられるのも遅い時間しかないし。
 今日はたまたま起きていたからいいけれど、普段ならとっくに寝ている時間よ」

『それは悪いと思ってる。
 でも、大会が終わるまでの辛抱だ』

「悠は大学もスポーツ推薦、狙ってるんでしょう?
 部活を引退してもスイミングスクール通いが続くなら今とあまり変わらないと思う」

『……寂しいの?』

「そうよ。寂しいわよ。いつだって、会いたいときに会えないなんて寂しすぎるわ」

『そっか。そりゃあ、俺が悪かったよ。ごめんな』

 悠は素直に謝った。
 そうあっさりと非を認められたら、怒っている私のほうがばかみたいじゃない。
 なんだか惨めだった。

「……ねぇ、聞いてもいい? 私のどこが好き?」
 こんな私のどこが好きなのか。改めて聞いてみたくなった。

『笑った顔が好きだから!』
 わかりきったことを言わせるな、と言った口調だった。

『映璃にはいつでも笑っててほしい。
 だから、とっておきの笑い話は映璃に最初に話したくて、いくつもとってあるんだぜ』

「悠……」

『……んでも、ちょっとしゃべりすぎかなぁって、いつも反省するんだ。
 映璃の話、聞いてやれなかったなぁって。
 でも俺、バカだからさぁ。
 泳ぐとすぐにそんなことも忘れて同じことを繰り返しちゃってる。
 頭のいい映璃のことだから、俺のこういう部分が嫌いなのかなって。
 別れようって言われて、必死に考えてようやく気付いたんだ。
 ……ってまた俺ばっか、しゃべってるし!』

 自分突っ込みを入れる悠がおかしくて少しだけ笑う。
 悠も『おっ、笑った』と嬉しそうに言った。

『そうそう。何で俺ばっかしゃべるかってぇと、映璃がしゃべんないからだよ。
 自分のことは何も教えてくれない。
 だから、もし人には言えない何かを抱えてるんなら、俺が笑わせて心を開かせてやろうっていう思いもあるんだぜ。
 まぁ、結局俺の力じゃ無理だったってことなんだろうけど。

 野上のやつ、どうやってお前の心を開いたの?
 ひょっとして、チェスを通して人の心を読む力でも持ってるのか?』

「まさか」

『じゃあ、どうやって……』
 悠は本当にわからないようだった。

「一番困っているときそばにいてくれたから、かな」

『……昨日の朝ってこと?』

「そう」

『そりゃないぜ。
 日曜も一日中、スイミングスクールで泳いでたんだ。
 翌朝、五時台になんか起きらんねぇっつーの』

「アキも早起きは大の苦手よ。でも電話に出て、話を聞いてくれた」

『……俺が力になれなかったから、別れてほしいってことなのか』

「アキは私に生理が来ないことを心配してくれた。
 そして体に自信がないなら、本当のことを知って治せばいいって後押ししてくれたの」

『生理が来ないのは俺だって聞いてたけど、そんなに深刻な病気ならどうして相談してくれなかったんだ?』

「私だって、深刻なものだと知ったのは昨日よ。
 アキと病院に行って医師の診察と検査を受けてね」

『……そうだったのか』

「悠はいい人だって心から思ってる。本当よ。
 もし出会うときが今じゃなかったらきっと、ちゃんと愛し合えただろうなって思う。
 でも、今の私には寄り添ってくれる人が必要なの」

 それは悠じゃなくて、アキ。そう続けようとした。
 しかしその前に悠が口を開く。

『……俺だって、寄り添えるよ』

「えっ……」

『俺だって映璃の助けになりたい。
 病気って、治療すれば治るんだろ?
 どんな病気か分かってんなら、俺にもサポートできる。
 今すぐってわけにはいかないけど、できるだけ映璃の都合も聞いて合わせるようにするから』

「気持ちは嬉しいけど、いつ治るか、そもそも、今更治療をはじめて治るものなのかもわからないんだよ?
 それでも……私のことをずっと好きでいてくれる?
 一生、セックスできないとしても」

『一生って、そんな大げさな』

「たぶん、そのくらい深刻」

 悠は押し黙った。
 しんと静まり返った室内で、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。
 やがて悠は声を発した。

『少し時間をくれないか。
 野上が条件つけてきたあのテストの結果が出るまで。
 しばらく、真剣に考えてみる』

「……そう」

『ちなみに聞くけど、野上のやつ、なんて言ってるの?』

「私たち、昨日そういう関係になったばかりよ。
 まだ将来の話なんて何もしてないよ」

『それでも映璃は野上が好きなんだろう?
 野上を選ぼうとしてるんだろう?』

「…………」

『まぁいい。
 今日はもう遅いから、お互いまともに選択ができる頭じゃねぇ。
 映璃もさ、少し考えてみてくんねぇ?
 俺と野上、どっちと正式に付き合っていくか』

「……うん」

 答えはすでに決まっているはずだった。
 なのに悠が、私の体のことを、将来を考えるだなんていうから、私の心はまた少し揺れ動いてしまっている。
 数時間前、アキと強く抱き合い、いまにもキスしてしまいたくなるほど気持ちが高まっていたというのに。

 電話を切り、布団に体を沈めて考える。

 私の体と向き合い、心の底からサポートしてくれるアキと、笑いで私を楽しませ、元気にしようとしてくれる悠と。
 二人の男から求愛され、どちらを選ぶか悩んでいるなんて、私はなんてぜいたくなのだろう。そしてなんて罪な女なのだろう。

 昨晩、悠と電話で話したことを何とか忘れようと、私は朝からせっせとおめかしにいそしんだ。

 とっておきの白のワンピースの胸には、おばあちゃんが手作りしてくれたコサージュをつけた。
 鏡の前で念入りに髪の毛に櫛を入れ、前髪の角度を調節する。
 買ったばかりのイヤリングと口紅を塗ったら、こんな私でも大人びて見えた。

 アキは喜んでくれるかしら?

 でも今日の目的は勉強すること。
 デートではないし、見た目にはこだわらないとも言われたが、めかしこまずにいられないのが女心というものだ。

 約束の十時ちょうどにつくと、アキはすでに図書館の前で待っていた。
 ストライプのシャツに、前回と同じくお兄さんのブルージーンズをはいている。

「お待たせ。早かったんだね」

「今着いたところ。……えーっと、今日ってデートだったっけ?」

「勉強会だよ。……この格好じゃダメだったかな?」

「ううん。……勉強に区切りがついたらそのまま街に繰り出したいくらい」

「アキがそうしたいなら」

「ホントに? やっぱ、兄貴の服を借りてきて正解だったなぁ」

 アキはさっと私の手を握った。温かくて、しなやかな指。
 触れ合っているだけでドキドキする。
 この時間がずっと続けばどんなにいいだろう。
 けれど、そう思えば思うほど、私の心に刺さった「悠」というトゲの痛みが大きくなっていくのだった。


 勉強を教える、といってもわからないところを尋ねられなければ手持ち無沙汰である。
 適当な本を棚から取り出して読む。
 しかし五分もしないうちに飽きてしまったので、代わりにアキの顔を見つめることにした。

 集中しているときのアキはこちらの視線には全く気付かない。私はそれを知っている。
 教科書とノートを行ったり来たり。
 その真剣なまなざしはチェスをしているときと同じだ。

 ノートに目を落とすと、意外に整った字を書いていることに気づく。
 おとなしいアキの性格を物語っていた。

「うーん……。ここの解説、お願いできるかな……。
 やっぱり古語が難しくて」

 アキが指さした箇所を見ると、源氏物語「夕顔」で、夕顔と源氏がたがいに和歌を贈りあっている場面だった。

 (夕顔)心あてにとぞ見る白露の光そへたる夕かほの花
 (源氏)よりてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔

「夕顔は、お忍びで乳母の家へ見舞に来ていた光源氏の姿を垣間見てその人だと察し、この和歌を贈ったの。
 源氏はこの、身分の低い素性の知れない女にどんどん惹かれていく。その最初の場面よ。
 『たそがれ』は、『黄昏』と『誰そ彼』が掛け言葉になっているのがわかる?」

「あ、そうか。エリーの解説、わかりやすいから助かるよ」

「どういたしまして」
 そのあといくつか躓いた問題を教えたが、そのうちに質問されなくなった。

 気づけば、私の頭は悠のことを考えていた。
 悠は私の病気について本当に理解しようとしているのだろうか。
 もちろん、検査結果が出たわけじゃないから、私自身、医者の推測をうのみにして悲観的になるつもりはない。
 それでも、生理が来ないのは事実であり、正常でないことだけは確かなのだ。

「生理が来ないならやらせてくれてもいいだろう?」

 いつだったか、悠が言ったことがある。
 その言葉に私はひどく嫌悪感を抱いたものだ。
 自分を粗末に扱われているように感じたからだ。
 おそらくその言葉がきっかけとなって、体を触れられることが嫌になったのである。
 悠は気づいていないだろうけれど。

 体のつくりはいまだ少女のままかもしれない。
 でも心は十八であり、女として見られたい。

 実は、その差に自分でも戸惑っている。
 恋人を受け入れる用意がないのに、本能が欲してしまう。
 いっそのこと、ブスだったら男に好かれることもなかったかもしれないと思うことさえある……。

「エリー?」

「え? ああ、ごめん。なに?」

「どうしたの? ぼんやりして。……考え事?」

「ううん、何でもない。それで? 勉強ははかどってるの?」

「気になってそれどころじゃないんだけどなぁ……」

 今度はアキが私を見つめる。
 自分の妄想が恥ずかしくなって思わず目をそらす。
 せっかくアキと二人きりで会っているというのに、私はいったい何を考えているのか。

「……ごめん。ちょっと外の空気を吸ってきていいかな」

「うん。そうしたほうがいい。本当に調子が悪いなら帰ってもいいんだよ」

「ありがとう。落ち着いたら必ず戻ってくるから」

 その証に荷物をアキのそばに置いておく。
 彼の心配そうな表情に、かえって申し訳ない気持ちになった。


 図書館の外は初夏を思わせる日差しだった。
 まだ四月とは思えない陽光のまぶしさに目を細める。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 悠とはきっぱり別れてしまうつもりだったのに、引き留められ、別れを保留することになってしまった。

 優柔不断な自分が情けない。
 優しい言葉を掛けられ、自分の気持ちを貫くことができなかったのだから。
 悠にも変な期待を持たせてしまっただろう。
 悪いのはみんな私。私の気持ちが揺らいでいるせい……。

 そんなことを考えているうちに、本当にめまいがしてきた。
 玄関の日陰に腰を下ろそうとした時、正面から姿勢のいい女性がやってくるのが見えた。

 ウエーブのかかった長い茶髪にサングラスをかけている。
 黒地のワンピースから伸びる足は引き締まっていて、かかとの高いハイヒールがよく似合っていた。

 その人が、私の前で立ち止まった。
 顔をあげると彼女はサングラスを外した。

 目の下にはややたるみが見え始めるものの、整った顔立ちがそれを目立たなくさせている。
 エクステなのか、やたらと長いまつ毛とカラーコンタクトのせいで外国人にもみえる。

「吉川映璃ちゃんね?」

 彼女は開口一番、私の名前を呼んだ。
 返事をしようか迷った。
 その目をじっと睨みつける。
 相手も同じようにこちらを睨んだような気がした。

「……加奈子なの?」

「母親を呼び捨てにするなんてひどい娘ね」

 いやな予感は的中した。

 この女が私の実母。
 父とは、新人舞台女優だったときに出会い結婚したと聞いている。
 おそらくは今も現役なのだろう、表面上は美しい。
 が、腹の中では何を考えているか分かったものではない。
 何しろ、父と違い、この女は私を本当に見捨てたのだから。
 父に、私から連絡するよう伝言したはずだが、待っていられなくなったのだろうか。

「どうしてここにいることが分かったの?」

「達彦に聞いたの。今日は図書館にいるって」

「家に行ったの?」

「行ったわよ。
 そりゃあもう口論になったけど、死ぬかもしれないってなったら何でもできちゃうものでね」

「…………」

「映璃ちゃんこそ、どうして私が母親だって分かったのかしら?
 私は何度も写真を見せてもらっているから分かったとして、こうして会うのは十七年ぶりのはず」

「……におい」

 私が唯一記憶している母は、花のにおいの香水をまとっていた。
 もちろん、それだけでこの人を母親だと決めつけることはできないはずだが、女の勘、とでもいえばいいだろうか。加奈子は笑った。

「へぇ。分かるものなのね。
 達彦と会うときはいつもこの香水をつけることにしているのよ」

「……本当に、乳がんなの?」
 会って早々、ぶしつけな質問だと思った。でも加奈子はまじめに答える。

「ええ。
 ……達彦には話してないんだけど、本当は来週、手術する予定になっていてね。
 会いたいって言われた時に会えなかったら悔いが残ると思って、こっちから来ちゃった」

「とても病人には見えないけど」

「どんなに体調不良でも顔に出さないのが役者というものよ」
 プロとしての意地を感じた。
 悔しいけれど、かっこいいと思ってしまった。

「病気になったからって、いまさら会いたいだなんて虫が良すぎるよ……」
 こっちも意地になって冷たい娘を貫く。

「分かってる。だけど、どうしても直接会って聞きたかったの」
 その目がまっすぐこちらを見つめる。

「……映璃ちゃんには夢がある?」

「夢?」
「そう、将来やってみたいこと。
 私はね、子供のころからずっと女優になろうって決めてたの。
 だから演劇部に入ったり、舞台を見に行ったりして演技の勉強をしたものよ。
 映璃ちゃんにはそういう夢があるかしら?」

 力強いまなざし、自信に満ちた表情。
 私はそれに気圧されそうになった。

 子供のころからずっと憧れている職業があるわけではなかった。
 ただ漫然と毎日を過ごしてきただけの私には、加奈子の「夢」がまぶしすぎた。

「……幸せになりたい、と言ったら?」
 私の口から出たのはそんな言葉だった。

 加奈子は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「好きな人がいるのね? その人と、幸せになりたい。そういうことよね?」

「……うん」

「……素敵な夢ね。
 映璃ちゃん、美人さんだからきっとモテモテでしょうね。
 お相手はどんな方かしら? 一度会ってみたいな」

「……笑わないの? 私の夢を。
 加奈子みたいに立派な夢でもないのに」

「幸せな家庭を築きたいって、立派な夢じゃない?
 私が叶えられなかった夢を映璃ちゃんが叶えてくれるならこんなに嬉しいことはないわ」

「叶えられなかった夢……」

「舞台女優になって温かい家庭を築く。
 両立できたらどんなによかったでしょうね。
 でも、私にはできなかった。……努力が足りなかったのかな」

 実母のことはずっと憎むべき存在だと教えられてきた。
 だが、寂しそうに話す加奈子を見ていたら、本当に「育児放棄」をしたのだろうかと疑念がわいてきた。

「……幸せじゃないの?」
 思わず聞いていた。加奈子はくすっと笑う。

「もちろん幸せよ。だって、夢をかなえて女優やってるんですもの。
 ただ、別の幸せを選ぶこともできたなって思うだけ。
 人生、一度きりだもの。あの頃に戻って選びなおすことはできないけれど」

「女優として成功してから再婚しようとは思わなかったの?」

「再婚に何の意味があるというの?
 達彦には恋人がいたし、あなただって吉川家の子供として育てられて久しいというのに」

「なら、そもそもどうしてお父さんと結婚したの?」

 一度も聞くことのなかった、出生の話。
 産みの母親が目の前にいる今だからこそ、私はそれを聞きたいと思った。

 加奈子は少し間をおいて、
「映璃ちゃんと同じ。幸せになりたかったから」
 と答えた。

「でも、私は結局家族の幸せを考えることができなかったの。
 夢を追い、自分が幸せになることだけしか考えられなかった。
 だから、離婚は必然だったし、それでよかったと思ってる。
 あなたたちのためにも」

「家族がバラバラになったというのに?」

「家族だって他人よ。その関係を維持するのには相当の努力がいるわ。
 さっき、努力が足りなかったって言ったのはそういうこと」

「…………」

「達彦はね、当時新人だった私のファンになってくれた最初の人だったの。
 毎日のように公演を見に来てくれたわ。
 出番がちょっとしかないときだったのに、『君ならきっと大物になれる』なんて言ってくれてね。
 嬉しくて嬉しくて、ずっと一緒にいようねって、毎日言ってたっけ。

 本当は、夢を応援してくれる達彦に甘えていたかった。
 でもある時、気づいてしまったの。
 ずっと一緒にいたら、彼は彼の人生ではなく、私の人生を生きることになってしまう。
 そして、映璃ちゃんのことも巻き込んでしまうって。
 だから、離れて暮らす道を選んだの」

 父も加奈子も互いを想いあっていた。
 だからこそ、別れた。互いの人生をより豊かにするために。

 そんな愛の形があるだなんて思ってもみなかった。
 そして自分がちゃんと母親から愛されていたのだと知り、戸惑いを隠せなかった。

「ひどい女よね、私って」
 加奈子は自分を笑い飛ばすように言った。

「恋をして、結婚して、愛し合って子供を産んで、夢をかなえるために家族を捨てて。
 乳がんになったのはその報いじゃないかって思ってる。
 もう十分、好き勝手やったんだから悔いはないでしょって、神様が病気の種を植え付けたのよ、きっと」

「……手術するんでしょう? まだ、死ぬって決まってないんでしょう?」

「死んでくれたらせいせいするって言われると思っていたのに」

「そこまで性根は腐ってないわ」

 そういうと加奈子はほっとしたように笑った。
「映璃ちゃんの夢が聞けて良かった。これで安心して手術に臨める。
 ……素敵な男性と素敵な家庭が築けるといいわね」

「それを聞くためにわざわざここまで……?」

「私が達彦と出会ったのが十八歳だったから。
 同じ年になったあなたがどんな夢を持ち、どんな人生を歩んでいくつもりなのか、知りたかったの。
 ……これでも、あなたを産んだんだもの。娘の幸せを願うのは当然でしょう?」

「いまさら、母親ぶって」

「大病したときくらいいいじゃない。
 神様だって、そのくらいは許してくれると信じたいわ」

「加奈子……」
 その声に彼女が振り向くと、父が立っていた。

「来ないって約束じゃなかったの……?」
 その声にはとげがあった。
 しかし父は少しためらってから言う。

「映璃のことが心配で……。連れてっちゃうんじゃないかって」

「私のこと、信用してないのね」

「死ぬと思ったら何でもできるなんて言うからさ……」

「……そうね。でも安心して。そんなつもりはないから」

 父は「本当に大丈夫か?」といった目を向けた。私は小さくうなずいた。

「……三人で会えたのね、私たち」
 加奈子はしみじみ言った。

 父と私と加奈子と。
 本来ならば十八年間、一つ屋根の下で暮らしていたはずの家族が、ただ若かったというだけではない、さまざまな要因が重なって別々の場所で暮らさなければならなかった。

 再会する機会などなかったかもしれない私たちがこうして集うことができたのは、父が、それぞれの運命の糸を放さずにいてくれたからだろう。

 加奈子も同じことを思ったようだ。
「達彦のおかげね。感謝するわ」

「十七年かかっちまったけどな」
 加奈子の言葉に、父は少し照れたように鼻の下をこすった。

 もしかしたらこの二人は、私が聞いた以上に頻繁に会っていたのかもしれない。
 三人で会うタイミングを探りながら。

「だけど、これっきりね。きっと」
 加奈子はうつむき、胸を押さえた。
 私と父は顔を見合わせた。

「バカ言うなよ。加奈子はいっつもそうだ。
 すぐに自分から終わりにしようとする」
 父はさっと歩み寄り、加奈子を抱きしめた。

「死ぬなよ、絶対に。
 俺と……映璃を置いて先に行くなよ……」

「やーね。達彦にはすてきな奥さんがいるじゃない」

「加奈子以上に愛せる人はいないよ」

「……バカはそっち。もっと自分と、奥さんを大事にしなさい。
 ……でも、そう言ってくれてうれしいわ。ありがとう」
 加奈子は父の唇にそっとキスをした。そして父の体を突き放した。

「おい、加奈子……!」

「会いたくなったらまた来てよね。
 一人のファンとして。私はずっと舞台にいるから」
 そういって歩き出す。

「……お母さん!」
 呼び止めたくて出た言葉がそれだった。
 加奈子は振り返った。

「……ありがとう、映璃ちゃん。また、会ってくれる?」

「会えるよ。生きていれば必ず」

「……そうね。会えるわね」
 その眼には涙が光っているように見えた。
 それを隠すように加奈子はサングラスをかけ、歩き出した。

 姿が見えなくなってようやく父が口を開く。
「……加奈子と何を話した?」

「別に」

「じゃあなんで『お母さん』だなんて呼んだんだ?
 母親って認めてなかったはずだ」

「わからない、私にも」

「そうか……」

「でも……聞いていたより悪い人じゃなかった」

 父は「うん」と深くうなずいた。

「加奈子は自分のやりたいことを貫いただけ。
 それを、俺の親が勝手に悪く言っただけだ」

 やりたいことを貫いただけ……。
 その言葉が私の胸に深く突き刺さる。

 父は続けて、
「まぁ、俺もやりたいことをしてきたつもりだよ。
 映璃を見守ってきたのも、再婚してユリを育て始めたのも、みんな俺がしたいと思ったからしてることだ」
 と言った。

「じゃあ、お父さんの『夢』って……」

「自分の好きなことをやって生きる。これが俺の夢」

「加奈子の夢を応援したことも?」

「ああ。ただ、加奈子にとって俺たちはちょっとお荷物だったようだ。
 だから、残念だけど俺は加奈子の一ファンに戻って別の人生を歩みつつ、陰ながら応援してたんだ。
 ま、結果としてそれでよかったと思ってるよ」

 本当に加奈子のことを愛しているんだな、加奈子は幸せ者だな。

「……来週、手術だって」
 やはり父も知るべきだと思った。

「えっ、何日? どこの病院?」

「さぁ、そこまでは。連絡先、知ってるんでしょう? 自分できいて」

「ああ、そうする」

「……普通じゃないよね、あんたたちの生き方って」
 私の言葉を聞いて父は苦笑した。

「普通って、誰を基準に言ってんだ?
 自分の人生なんだから、どう生きようが勝手じゃないか。
 誰かにとやかく言われる筋合いはないし、一度決めたことを変えちゃいけないってこともない。
 生きてりゃ、状況や気持ちなんて絶対に変わるからな」

「……そっか」
 そういう考えの父だから、加奈子との付き合いも続いているし、再婚にも至ったのだろう。

 恋人がいながら、別の男に心変わりする。
 そんなことは「普通じゃない」と決めつけ、思い悩んでいる私の心に、父の言葉が乾いた地面を潤す雨のようにゆっくりゆっくり染みこんでいく。

 どうしたらもっと自由に生きられるだろう?
 どうしたら自分らしく愛し合うことができるだろう……?

 しかし誰に問うても答えは返ってこないだろう。
 分かっている、自分で見つけるしかないってことは。
 でも、すぐに見つけることができるかどうか、自信はない。

 胸が苦しくなる。急にアキに寄り添いたくなった。
「お父さん、用が済んだなら帰ってくれる? 中で私を待ってる人がいるから」

「……例の恋人か?」

「そうよ」

「中にいるなら、ちょっと顔でも拝んでいこうかな?」

「やめてよ」

「冗談だって。映璃ももう、そういう年になったんだもんな。
 俺はおとなしく帰るとするよ」

 ゆっくりと帰っていく後姿は少し寂しげに見えた。
 ちょっと冷たく言いすぎただろうか。
 でも、きっとわかってくれたはず。
 私はその父に背を向け、アキのもとへ急いだ。

   *

 翌日、父は朝早くに家を出て行った。
 祖母に聞くと、休みの後半は奥さんの実家に行く予定になっていたから帰ったということだった。

「映璃ちゃんを連れて帰りたかったみたいだけど、おじいちゃんがビシッと言ってやったから大丈夫よ」

 私がこれから先もずっとこの家にいるのだと信じて疑わない笑顔を向けられ、私は少し居たたまれない気持ちになった。

 私はいずれ、二人を残してこの家を出る。
 その日が来たら、おばあちゃんは今みたいな笑顔で送り出してくれるだろうか。


 あの晩以来、夜が更けると決まって悠が訪ねてくるようになった。
 寂しいなら私に会えるよう都合をつける、と言ったのは本当だったのだ。

「今日も野上に会ってたのか。
 ……こんな短いスカートはいて。
 あいつに何かされてないだろうな?」

 そう言いながら、彼自身が私の太ももをいやらしくなで、吸いつくようにキスをした。
 抵抗したい。
 だけど、拒むこともできないほど力強く抱きしめられ、次第にキスの魔力に支配されていく。
 本能が私の脳を麻痺させていく……。

 この瞬間だけ、私の心は悠の色に染まる。
 いや、染められる。
 アキへの想いを追い出そうとするように、根を張るように染み込んでいく。

「お前は俺のもんだ。野上になんか渡さない……」

 時間にしてわずか。
 だが、次に会うまで私が寂しい思いをしないよう、愛をささやき、体温を残そうとした。

「また明日の晩に来るから。おやすみ、映璃」

 悠は引き際を心得ている。
 私が拒絶するギリギリのところで切り上げ、さっと帰っていくのだった。

 悠が帰ってしまった後は毎回、放心状態。
 愛されていることを素直に受け入れるべきだと思う一方で、アキを裏切るような行為を毎晩繰り返していることに罪悪感を抱いた。

 本能と理性と欲望と……。
 私の中のあらゆる欲が混ざり合い、処理できなくなっている。

 ――ごめんね、アキ。ごめんね、悠。
 いくら胸の内で謝っても、彼らには伝わらない。

 ――神様がいるならどうか、私に愛し方を教えてください。
 もうこれ以上、彼らを苦しめたくないんです。

 深夜の星空に向かって私はそう祈ることしかできなかった。 

 ゴールデンウィークが終わってすぐの平日。
 検査結果が出たと電話をもらった。
 その日は学校があったので、いったん帰宅し、そのあと病院へ行こうと決めた。

「アキも……一緒に来てくれる?」

「もちろん。一緒に行くって言ったでしょ?」

「そうだね。ありがとう。
 ……実は、今日はおばあちゃんにも来てもらおうと思ってるの」

 前回、医師から家族にもきちんと話したほうがいいと言われたので、詳しい説明がされるであろうこのタイミングで同行してもらおうと思っていた。

「おばあちゃん、あまり長い距離は歩けないから、一緒に自宅からタクシーで行こうと思ってるんだけど、いいかな?」

「うん。僕は構わないよ」

 病院へ行く時間が近づくにつれ、いよいよ真実を聞かされるのかと思うと緊張した。
 もし、手術が必要な病気だったら?
  いや、手術で治るのだとしたらそうしたほうがいいのでは?
  はたまた、大量の薬を飲み続ける人生になるかもしれない……。

 いらぬ妄想が膨らんでは消えていく。
 私があれこれ思い悩んでいることはアキにはどうやらお見通しのようで、タクシーの中ではずっと右手を握りしめてくれた。


 病院は相変わらず混んでいた。
 今日もたくさんの「具合の悪い人」がここに集まっている。
 私もその一人。健康を害している人のなんと多いことか、と思ってしまう。

「あっ、ごめん。今日はチェスセットを持ってきてないわ」
 前回、暇つぶしにチェスをしたことを思い出した。
 アキから預かっているそれを持ってくればよかった、と後悔する。
 アキは首を横に振る。

「今日は、いい。テストが終わるまで預けるって言ったものをやるつもりはないよ」

「でも、それじゃあ手持ち無沙汰ね」

「いいじゃないの。何もしていなくたって」
 おばあちゃんが口をはさんだ。
「人間観察をするのも楽しいわよ」

 そういって周囲にいる人に目をやった。
 私たちは顔を見合わせた。
 おばあちゃんにそう言われては何も言い返せない。

 私たちはしばらくの間、おばあちゃんのいう「人間観察」をまじめにやった。
 けれど、やはりそう長くは続けられない。
 本を一冊持っては来ていたが、それも落ち着かなくて読む気になれなかった。

「……チェスの神様って知ってる?」
 読むともなく本のページをめくっていると、アキが突然そんなことを言った。

「次にどう指したらいいか、全部教えてくれる神様だっけ?
 チェスプレイヤーが負け知らずになれるっていう」

「うん。エリーはそんな神様が本当にいると思う?」

「そうねぇ、いたらいいなと思うけど」

「僕はね、最近その神の夢を見るんだ。
 姿ははっきりとは見えないんだけど、確かにチェスの神様なんだ」

 にわかには信じがたい話だった。
 けれど、アキの真剣な語り口にしばし耳を傾ける。

「その神が、僕のこの先の人生をも教えようと道を指し示すんだ。
 目の前には二本の道。右へ行けば思いのままの人生を歩める。
 何にも困らず、安心して進んでいける。
 選ばれたおまえにはその道を行く権利がある、そう言うんだ」

「……それで、右に進むの?」

「行けないんだ。左の道が気になって。
 でも神は、左に行くと何が待っているのか教えてはくれない。
 何度見ても、夢はそこで終わるんだ」

「左の道に進みたい?」

「でも、なんだか怖くて。だから結局、夢の中では動けないんだ」

「確かに、怖いね」

「案ずるより産むがやすし、ということわざがあるよ」
 祖母が会話に加わった。

「進まなければ、怖い思いをせずに済むかもしれないね。
 でも、その道の先にある、今よりもっといいことを知らずに過ごすことになる可能性もあるんだよ」

「あっ……」
 アキは何かを悟ったようだった。

「そうですね。しないより、する……。
 怖がっていても仕方ないですよね。
 次に同じ夢を見たら、左の道に進んでみます。
 意識してできるかどうか、わからないけど」

「それがいい、それがいい」
 祖母は嬉しそうにうなずいた。

「チェスの神様、か……」
 アキの夢の話に思いをはせる。

 神のいうとおり、すべての出来事がすでに決められていて、なおかつ安全であることが分かっているなら、安心して進むことはできるだろう。
 けれど、アキはその道を選ぶのをためらっている。
 もう一方の道は、足元の状態も、その先に待っていることもわからないというのに。
 神の言葉を信じきれないのだろうか、あるいは別の理由があるのだろうか。

 誰にだって一度や二度、人生の分岐点があり、どちらに進むか選択を迫られる時が訪れる。
 数日前、加奈子からの話を聞いて思い知った。

 もし、私の前にもチェスの神様が現れたとしたら、私は示された道のどちらかを選ぶことができるのだろうか。
 それとも、道なき道を進もうとするのだろうか……。

「吉川さん、中へどうぞ」
 名前を呼ばれ、我に返る。

 急に体がこわばった。果たして正気でいられるのだろうか。
 私自身が今まさに人生の大きな節目にいるのだと強く実感する。
 結果次第では、大きな決断をすることになるかもしれない。

 緊張が伝わったのか、アキがそっと後ろから肩を包み込んだ。
 すっと、体の力が抜ける。私は意を決して診察室に足を踏み入れる。


 椅子に腰かけるとさっそく医師が一枚の紙をくれた。
「前回、採取させてもらった血液から染色体に異常があるかどうかを検査しました。
 結果は陰性でした」

「えっ……。つまり……?」

「染色体に異常は見られなかったということです。
 月経がないのは、原発性無月経によるもの、つまりは卵巣に異常があるためです。
 これは手術や薬による治療で改善するものではありません」

「治せないってことですか?」

「そうです。残念ながら、妊娠は不可能といっていいでしょう」
 しばし呆然とした。

 予想通りとはいえ、妊娠できない体なのだと告げられ、やはりショックだった。
 隣にいるアキが、ぎゅっと手を握ったことが余計にショックを大きくさせた。

 まだ高校生だから、結婚や子供のことをリアルに想像しているわけではない。
 ただ、ずっとずっと先、人生のパートナーになった人との間に子供を作ることができないということは、私の中では女としての役目を果たせないのと同義であり、つらいことだった。

 声も出なかった。ただただ涙が零れ落ちた。医師は続ける。

「通常、原発性無月経の場合は染色体異常、つまり女性ならターナー症候群の可能性が高いのですが、吉川さんはそうではありませんでした。
 また、低身長なのはターナーのせいではないかと疑ったのですが、どうやら別の原因がありそうです。
 思春期のころに何か強いストレスを感じる出来事がありましたか?
 ああ、そういえばご両親が離婚されているんでしたね?」

 医師の問いにしばらく答えられなかった。
 涙が止まるのを待って静かに口を開く。

「両親の離婚はそれよりずっと前でしたが……。
 小五の時、父がしばらく自宅で生活していたことがあるんです。
 二か月くらいだったと思います。
 それまでは二年に一度くらいの頻度だったのに、それが突然毎日顔を合わせるようになって。

 最初は、一緒にいられることに多少の嬉しさも感じていましたが、父のいる生活になじめず、かなりのストレスになっていました。
 そのうちに顔を合わせること自体が嫌になり、家に帰りたくなくて遅くまで友達の家にいたり、休みの日も部屋に引きこもったりしていました」

「実はあの時も、達彦は映璃ちゃんを引き取りたいといっていたんだよ」
 おばあちゃんがため息交じりに言った。

「当時はまだ再婚していなかったから、寂しかったんじゃないかねぇ。
 もちろん、おじいちゃんと二人で大反対したよ。
 でも達彦はなかなか聞き入れなくて、引き取れないならこっちが居座る! って言いだしたんだよ。
 あの子はどうしてああも頑固なんだろう。まったく、息子ながら理解できないよ」

 おそらく三十代になり、精神的にも経済的にも余裕ができたことでようやく「父」になる準備ができたからだろう。
 もちろん、一度養育を放棄しておいて都合のいいことを言うのだから祖父母が怒るのも当然だし、私だってそう思う。

 その時の父にはまだ、私が病気の時も落ち込んでいる時も面倒をみるという強い意志が感じられなかった。
 子供心に父の覚悟のなさを感じ取っていたからこそ、反発心も強かったんだと思う。

「強いストレスがホルモンバランスを乱すひとつの要因となります。
 低身長であることがご自身にとってコンプレックスになる場合はありますが、必ずしも異常な低さではありませんし、先ほども言いましたが、無月経の原因となる卵巣以外の問題点は見当たりませんでしたから、これまで同様の生活を送ってください。
 性交渉も問題ありません。ただし、吉川さんの体について説明し、理解を得てからのほうがいいでしょう」

 治療のしようがない。それが医師の下した診断だった。
 つまり私はこの体と一生付き合っていかなきゃならないってことだ。


 診察室を出てからは誰も口を開かなかった。
 私が二人の笑顔を奪ったのは間違いない。
 だからと言って、私が無理に笑顔をつくることもできなかった。

 ただ、アキはずっと私の右手を握っていた。
 私が手の力を緩めるとなおさら強く握った。
 病院の前でタクシーを待っているとき、ようやく祖母が口を開く。

「同じ女でもいろんな生き方がある。
 子供を産まない女として生きる人も、産んで手放す人も、いい年の息子に文句ばかり言ってる人もいる。男もまた同じ」

 祖母の言葉には、長い人生を重ねてきたからこその重みがあった。

「……行ってみようか。このまま」
 突然の提案に、私もアキもぽかんとする。

「行くって、どこへ?」

「お寺」
 そういうなり、おばあちゃんは病院についたタクシーに乗り込み、寺院の名を告げた。


 制服姿の私たちと祖母を乗せ、タクシーは市内の小道を走っていく。
「お寺に行ってどうするの?」

 アキもいるし、私はまずそこへ行く目的を聞いておかなければ、と思った。
 祖母はいつの間にやらにこにこしている。

「おばあちゃんのお友達がいるの。ふふ、男の人」

「お寺の住職さん?」

「そう。まぁ、本当に小さなお寺さんだけどね」

「おばあちゃんがその人に会いたいの?」

「映璃ちゃんたちを会わせたいの」
 祖母は「たち」を強調した。
 いったいどんな人で、どんなことを言われるのだろう。


 ほどなくしてタクシーは停まった。
 祖母はお金を払うと、一番に降りてさっさと歩いて行った。
 その足取りは軽い。足が悪いのがつかの間治ってしまったみたいに。
 そのあとを私たちはゆっくりついていく。


 昔ながらのお屋敷を流用したらしい、小ぢんまりとしたお寺だった。
 玄関には「月光寺」と書いてある。
 呼び鈴はないらしく、祖母は直接、玄関のドアを数回に分けて叩いた。

 春の夕日が庭の木々をやんわりと照らす。
 その美しいこと。思わず見とれる。
 すると中から音がしてドアが開いた。

「錬さん、お久しぶり。突然の訪問、失礼します」

「やぁ、ハルさん。お久しぶりです。今日はお連れさんがいらっしゃるんですね」

 出てきたのは白髪のおじいちゃん。祖母より年上に見えるから八十くらいだろうか。
 それでも背中は丸まっていないし、受け答えもしっかりしている。

「お元気でしたか?
 足がお悪くなったと聞いていたから、訪ねて来てくれるなんて嬉しいですよ。
 二年ぶりかな?」

「あら、そんなに経ったかしら?
 本当はもっと頻繁に会いに来たいのだけど、どうしても出かけるのが億劫で。
 でも今日は孫に付き合ってタクシーで出てきたから、ちょっと足を延ばしちゃった」
 二人は微笑みあった。

「実はね、錬さん。
 この二人に説法を聞かせてやってほしいと思って。
 悩める高校生に、人生のイロハをね」

「お二人に?」

「仏様の前に座るといろいろなことが分かるって、いつだったかおっしゃったでしょう?」
 それを聞いて「そういうことですか」と彼はうなずいた。

「わかりました。
 ハルさんの顔を立てて特別講義をするといたしましょう」

「お願いしますね」
 そういうなり、祖母は私たちを「錬さん」の前に押しやった。

「わたしは後ろで見守っているからね。
 しっかり、お話をお聞きなさいな」

「おばあちゃんってば……」

「ハルさんらしい。
 まぁ、こんなところで立ち話もなんですから、どうぞ上がってください」
 白髪のおじいちゃんはそういって促した。

 玄関から長い廊下が伸びている。
 どうやら奥の部屋へ案内してくれるようだ。
 私たちは歩きながら簡単な自己紹介をした。

「ぼくのことは月岡のおじいちゃん、とでも呼んでもらいましょうかね」

「じゃあ私たち、月岡さんって呼ばせてもらいます」

「ぼくが言っても若い人はみんなそう呼びますよ。
 おじいちゃんでいいんですがねぇ」

 室内はひんやりしていた。
 いや、空気が緊張している、と表現したほうがいいかもしれない。
 線香の匂いが鼻をくすぐる。
 身近ではないのに、なぜか落ち着いてしまう香りだ。

「そこの座布団へどうぞ。
 今、お茶を入れてまいりますので」

 月岡さんは指示を出して、いったん見えなくなった。
 あたりはしんと静まり、物音一つしない。

「……なんか、喋るのもためらっちゃうね」

「そうだね……」
 私もアキも緊張していた。
 少しでも落ち着くために話題を振る。

「ところでおばあちゃん。
 月岡さんとはどういう関係なの?」
 祖母は本当に、少し離れたところから私たちを見守っている。

「ふふ。当ててごらん」
 その嬉しそうな顔を見るにつけ、これは単なる友人ではないと直感する。
 おばあちゃんにもそういう時期があったんだ。
 そして今でもこんなふうに、会えば若い子のようにときめいた顔になるんだ。

「お待たせしました」
 月岡さんがそろりそろりとお茶を運んできた。
 手元が震え、わずかな段差を乗り越えるのもやっとの様子だ。

「あっ、手伝います」
 アキがさっと手を差し伸べた。

「ありがとう。助かりました。
 八十を過ぎると、足元がおぼつかなくなりますねぇ」

 どうぞ、座って。
 立ったままの私たちに改めてそう促す。
 月岡さんは仏像を背に座る。
 私たちは彼と向き合うように並んで座った。

「……説法といっても、そんなに肩ひじを張らなくていいんですよ。
 もっと、楽にしてください」

 そう言われても、楽にする方法が分からない。
 困っていると、「じゃあ、まずは目を閉じましょうか」と彼は言う。

「数回、深呼吸をしましょう」
 その通りにする。
 少しずつ体のこわばりが取れていくのが分かる。

 月岡さんはそこから話し始める。
「お二人が恋仲にある、という話は先ほどお名前を伺った際に聞きました。
 素敵ですね、恋愛というものは。
 きっと、すがすがしい空の下や、あたたかな光の中にいるような感覚でしょう。
 どこで何をしていても、相手のことを思い出しては胸が高鳴る。それが恋です。

 しかし、それは同時に相手を束縛したいという欲求が表れるときでもあります。
 愛してほしい、そばにいてほしい、話を聞いてほしい……。
 そう。ぼくたちは誰かに自分を受け入れてほしいと常に望んでいるのです。

 与えもしないでただ欲する。
 あるいは、与えたら与えた以上のことを返してほしいと望んでいる。

 人は欲求の塊、といっても過言ではありません。
 睡眠欲、食欲、性欲。
 これらは生きるために必要な欲であり、なくすことはできない。
 けれど、欲のままに生きたらどうなるでしょう。
 そう、最終的に身を亡ぼすことになります。
 ぼくはそういう経験をしているからよくわかります」

「どういう、経験をされたのですか?」
 気になって質問すると、月岡さんは視線を落とし、うつむいた。

「結婚を約束していた人が肺を病み、余命いくばくかの状態になりました。
 東京の大きな病院に移ればもっといい治療が受けられると聞き、転院させようと親たちが話す中、彼女はぼくと一緒にいることを選びました。

 自分の命がどのくらい続くか、わかっていたのかもしれません。
 それでいい気になって、ぼくもそうしたいと彼女の親を説得しました。
 けれども当然受け入れてもらえず、二人でしばし逃避行をしたのです。
 今でもその時のことはありありと思い出せます。
 彼女はひどい咳をしていましたけれども、健康な人と同じように愛を確かめ合いもしました。

 数日が経ったころ、彼女は呼吸困難に陥り病院に担ぎ込まれました。
 その後どうなったのかはもうお分かりになるでしょう。
 ぼくが無理をさせたから、彼女は命を縮めたのです。
 彼女の両親は激怒し、ぼくを葬儀に参列させてはくれませんでした。

 ぼくはその地を離れ、放浪の末にたどり着いたのが川越でした。
 心の故郷に出会ったような心地がしましたね。
 ぼくはここで第二の人生を歩もうと和菓子屋の門をたたき、修行に励みました。

 しかし心の傷を癒しきることがどうしてもできなかった。
 その時、店の常連さんから出家の話をいただいたのです。
 ぼくは出家することを決め、自分の罪と向き合いながら今日まで生きてきたのです」

 好きな人とずっと一緒にいたい。
 その当たり前の感情に支配され、最愛の人を亡くした彼の話には重みがあった。

 ちらりとアキのほうを見ると、彼は次の一手を考える時のようにじっと一点を見つめている。

「なぜつらい過去を私たちに話してくださったのですか?」
 私は話の続きを促した。
 月岡さんは変わらぬ調子で語りだす。

「仏門に入り、長い月日が経つうちに悟ったからです。
 過去にとらわれて生きていくべきではないのだと。

 それは、罪をなかったことにする、という意味ではありません。
 罪を犯したあの時のぼくだけを消すことができたとして、じゃあここにいるぼくは本当にぼくだと言えるのでしょうか。
 違いますよね。全部含めてぼくなのです。

 ぼくは自分の存在を否定することができなかったのです。
 必死に生にしがみついたのです。
 これはある意味、彼女の分まで生きようという贖罪から来ているのかもしれませんが、とにかく生きたいと願った。
 そしてお釈迦様の前ですべてお話ししました。
 そして座禅を組み、瞑想しました。

 すると、お釈迦様はおっしゃったのです。
 ありのままでいいと。
 煩悩に苦しみ、悩み、抗いきれなくて傷ついてもいい。
 それに気づき、それでも生きていくのが真の人間であると。

 お釈迦様に許していただき、それまで抱えていた重荷を誰かと分かち合ってもいいのだと気づきました。
 しかし、そのころには私も老齢になり、友人の幾人かは天に召されていました。

 それが、ちょうど十年前。
 そう。そんな時、ハルさんがここへやってきたのです。
 ハルさんが結婚して、勤めていた和菓子屋をやめてからはずっと会っていませんでした。もう会うこともないとさえ思っていましたのに。

 聞けば、ハルさんはかつて私を想ってくれていたけれど、伝えられずに結婚したと。
 でもぼくがここにいると人づてに聞き、意を決して訪ねてきたのだといいました。

 ハルさんにだけは胸の内を話しました。お釈迦様にお許しをいただいたことが影響していたのでしょう。
 それからハルさんとはよき友になりました」

「わたしにも若い頃があったという、昔話」
 祖母が恥ずかしそうに付け加えた。

 少しの間、沈黙の時が流れる。
 目を開き正面を見ると、仏像が薄目を開けている。
 まるで私の心の中を見透かそうとしているみたいに見えた。

「聞いてもよろしいでしょうか」
 熟考していたであろうアキが口を開く。

「人は傷つかなければ生きていけないのでしょうか。
 それをすべて受け入れるのが人生なのでしょうか」

「おっしゃる通りです。けれども、何も恐れることはありません。
 傷は必ず癒える。そして傷の数だけ強くなれる。

 むしろ、傷つかない人生があるとしたら無価値以外の何物でもないのですよ。
 傷の場所もその数も、人それぞれ。だから個性があり、皆価値があるのです」

 煩悩に苦しみながらもそれが「人間らしさ」だと受け入れて生きていく……。
 もしそうならば、悟りの境地に達するまで、人はずっと苦しまなければ生きていけないのだろうか……。

「はい、ここでもう一度深呼吸。お二人とも、呼吸が浅くなっていますよ」
 月岡さんは私たちを穏やかな表情で見守っている。
 幾度か深呼吸したのを確かめてから続けて語る。

「お二人がぼくの話を真剣に聞き、悩み考えているのが分かります。
 でもね、本当は何も考えなくていいんですよ」

「えっ?」
 私たちは同時に声を出した。月岡さんは微笑む。

「悩むのでも考えるのでもなく、感じるです。自分の内なる声を。
 そして、その声の通りに行動すればいいだけなんです」

「本当に、何も考えなくていいんですか?
  ……将来のこととか、どう生きたらいいかとか」
 私が問うと、月岡さんはまっすぐに私を見据えた。

「では尋ねます。あなたは今、何をしていますか?」

「えっと……。月岡さんの話を聞いています」

「誰と一緒に?」

「彼と……アキと一緒に」

「なら、それで十分じゃありませんか。
 大好きな人と同じ時間を共有しているのでしょう?
 まだ来ていない先のことや、過ぎ去ったことにいつまでもこだわっていてどうなるというのですか?」

「あっ……」

「ぼくが恋人のために罪滅ぼしをした時間というのは、実のところぼく自身にとっては空白の時間だったのです。

 ぼくはぼくのために時間を使えなかった。
 もうこの世にいない人のために費やしてしまった。
 ぼくは生きているというのに。

 若い人にはぼくのような生き方をしてほしくありません。
 今こんなにも瑞々しいあなたたちなのですから、若い今を満喫したらいいじゃないですか。

 誰一人として同じ人は存在しません。
 そして同じ毎日もきません。
 だからたった一度しかない今を、一瞬一瞬を楽しみながら生きればいいのです」
 話を聞きながら、涙がはらはらとこぼれ落ちた。

 十八年間、私はいったい何をして生きてきたのだろう。
 他人の言葉に流され、自分では何一つ決められず、過去と未来ばかり見ては悩んだり落ち込んだり……。

 アキを見る。アキも私を見ていた。
 今まで見たことのない、強いまなざし。
 彼もまた気づきを得たに違いなかった。

「あなたたちはもう気づいているはずです。
 ただそれを実行に移す勇気がないだけ。
 ほんのちょっと、勇気を出してみてください。
 そうすれば、悩みはおのずと消えていくでしょう。
 悩みというのは、何もしていない人の中で生まれ続けるものですから」


 何度も何度も礼を言い、私たちは月光寺を出た。
 空が夕闇に包まれようとしていた。

「わたしは先に帰っているから、ゆっくり話しておいで」
 こちらから何も言わずとも、祖母はそういって一人、タクシーを呼びつけて帰っていった。
 残された私たちは、タクシーが完全に見えなくなるまで立ち尽くしていた。

 無言で歩き出す。アキは後からついてくる。
 住宅街の一角にある公園の前を通る。
 もうすぐ日が暮れようとするその場所で、まだ遊び足りない様子の子供に、母親らしき女性が帰宅を促している姿が目に入った。
 子供は友達に別れの挨拶をし、母親のもとへ行くと手をつないで帰っていった。
 私は彼女たちが見えなくなるまで目で追った。

 私は子供が産めない。私の中に、命を生み出す元がないのだから。

「実の両親に見放されて、あんな親にはなるものかってずっと思ってきた。
 親を恨んできた私だから、子供を産む資格がない、ってことなのかな……」

「僕はそうは思わない」
 アキは間髪を入れずに言った。

「病院で結果を聞いた時からずっと考えてた。
 エリーが生まれつきそういう体だと知ったうえで、僕にかけられる言葉は何かって。
 ……エリーはきっと、子供を産む以外のことを運命づけられてるんじゃないかな」

「アキ……」

「僕はエリーのそばで病気のことを聞いてしまった。
 だから、エリーが自分らしく生きられるようにサポートするのが僕の役目なんじゃないかなって、今は思ってる。
 できないことにこだわるんじゃなくて、できることに目を向けるべきだって」

「……病気のことを知ったうえで、私と付き合い続けるってこと?」

「うん。だって、僕はここにいるエリーが好きだから。
 病気でも何でも、それは変わらない」

 私が私らしく生きられるようにサポートする。
 それは、父が加奈子を陰ながら見守り続けてきた姿と重なった。

「アキはそれでいいの?」
 私は詰め寄る。

「だって……。だってそれじゃあ、アキのしたいことができないじゃない。
 私に尽くすなんて、そんなのだめだよ」

「そうじゃないんだ」
 アキは大きく首を横に振った。

「僕は見つけたんだ、やりたいことを。
 それはエリーがいたから見つけられたし、エリーと一緒にいられたらきっと頑張れる。
 だから、そばにいさせてほしい。これは僕のためでもあるんだ」

「やりたいことって……?」

「んー、心理学の勉強」
 アキは照れを隠すように空を仰いだ。

「エリーみたいに病気で悩んでる人って結構いると思うんだ。
 相談したくてもなかなかできない。
 そういう人の手助けができたらいいなって」

「……そっか。見つけたんだ、やりたいことを」

 アキはちゃんと成長している。なのに、私ときたら……。
 いつまでも、立ち止まっている自分が恥ずかしい。
 迷ってばかり、落ち込んでばかり。

「焦ること、ないと思うよ」
 そんな私の心を見抜いたかのようにアキは言った。

「僕たちにはまだたっぷり時間がある。
 ゆっくり探せばいいんじゃないかな」

「アキはいつでも優しいね……。
 泣きたくなっちゃうくらいに、優しい……」

「泣いてもいいんだよ」

「そんなふうに言われたら、私……」

 堪えきれなくなって、涙にぬれた顔をアキの体に押し当てる。
 アキはそっと髪をなでてくれた。

 私はずっと、こんなふうに愛されたかったんだ。
 大丈夫、泣いてもいいんだよって、言ってほしかったんだ。
 どうしようもなく情けない私でも、すべてを受け入れ愛してくれる人を、ずっと求めていた。
 それは、親でも悠でもなくて、アキなのだ。

「ずっと一緒にいたい……。
 ずっと愛してほしい……。
 わがままだって分かってる、でも……!」

「僕もずっと一緒にいたい。
 僕だってわがままだよ。
 エリーがそんなふうに言ってくれてむしろうれしい」

 アキの言葉のすべてが私の心を癒していく。

「ごめんね。迷惑ばかりかけて……」

「違う違う。こんな時はね、ありがとうって言うんだよ」

「うぅっ……!」

 自分の気持ちの伝え方も、私は知らない。
 でも、アキが一つひとつ、教えてくれる。
 そのことが、こんなにもうれしい。

「ありがとう、アキ。ほんとに、ありがとう……」
 私もアキのために何かしてあげたい。
 はじめてそんなふうに思えた。

 これがきっと、愛するってことなんだ。
 私もようやく、心からアキを愛せる。

 ――「こんな私」でも役に立とうという気持ちが持てたわね。
 ちゃんと成長できたじゃない。

 ずっと蔑んできたもう一人の自分が褒めてくれた。
 ――もうあんたは大丈夫ね。
 ちゃんと、この心と体に向き合えたんだから。
 自分を好きになれたんだから。

 ああ、そうか。私は自分が嫌いだった。
 だから愛し方も知らなかったんだ。
 でも、今こうして分かった。
 誰かを愛するって、自分を愛することでもあるんだ。

 ――ごめんね、悠。
 あなたからもらった愛でそのことに気づけなくて。

 悠は私を認め、包み込んでくれた最初の人だった。
 けれど、級友から恋人になった彼との、心や体の距離の縮め方が分からなかった。
 悠に合わせて見よう見まねで恋人らしく振舞ってはみたものの、背伸びをして付き合い続けることが苦しくなってしまったのだった。

 ――あなたの気持ちに応えられなくてごめんなさい。
 あなたにはもっとふさわしい人がいるはず。
 だから、これでおしまい。さよなら……。

 ようやく、悠への気持ちに決着(けり)をつけられた……。
 すっと、気持ちが落ち着く。
 同時に、これまでの罪悪を告白する時が訪れたのだと覚悟を決める。

「アキに、謝らなきゃいけないことがあるの……」
 言えばきっと傷つけてしまうだろう。
 でも、こんな気持ちを抱えたまま付き合えるほど私は強くない。

 夜な夜な、悠に抱きしめられ、キスを繰り返していること。
 それを拒めず、何一つ言い返すことができないでいること。
 そして、想いを断ち切った今、懺悔の気持ちでいっぱいだということ……。

 アキは黙って聞いていた。
 唇は真一文字に結ばれている。少しの間、沈黙の時が流れる。

「……歩こう。エリーのうちまでもう少しだ」
 アキは私の手を握った。痛いほど、強く。

 外灯があちらこちらでともり始める。夜が迫っている。
 今夜も悠は来るだろう。
 そうしたら、今度こそちゃんと別れを告げよう……。
 これ以上、アキを傷つけないためにも。


 家が見える角を曲がる。
 ほっとしたのもつかの間、家の門の前でしゃがみ込む男の姿に気づき、足を止める。
 やけに静まり返った通りに、私の靴の音が響いた。
 男は私たちに気づいて立ち上がり、足早に近づいてくる。

「早く終わったから会いに来てやったのに。
 何で電話に出ねぇんだよ、映璃」

 悠だった。きっと部活が終わってすぐやってきたのだろう。
 外灯の陰になった顔はよく見えなかったけれど、彼はいらだった様子で手に持ったスマホをポケットにしまった。

「病院に行ってて電源を切ったままだったの。ごめんなさい」
 スマホの存在を忘れるほどの出来事があったのだから無理もない。
 追撃されると覚悟したが、どうやら納得してくれたようだ。

「病院……。
 ってことは、結果が出たのか。それで?」

「先天的な病気で、治療のしようがないって。
 ……子供は産めないって言われたわ」

「治療できないんじゃ、俺に手伝えることもないってことか……」

「……ねぇ、悠。もうこれ以上、こんな関係はやめよう。
 前にも言ったとおり、私はアキが好きなの。だから別れよう」

 ひと思いに言った。
 今の言葉に、私の気持ちのすべてが集約されている。

 悠は私の両肩をつかんだ。

「会えないのが寂しいって言うからこうして毎晩、会いに来てやってるんだ。
 それなのに別れようって、どうしてだよ? わっかんねぇよ!」 

「じゃあ、こう言ったら分かる?」

 頭に血が上った悠のペースにはまってはいけない。
 私はあえて冷淡な口調で言う。

「悠のまっすぐな愛情を、私の小さくてゆがんだ器では受け容れきれなかった。
 最後には溢れ、それでもなお注がれて苦しかったの……。

 悠は私との距離を一気に縮めようとしすぎた。
 強引に、快楽で私を惹きつけようとした。
 でも……。そんなやり方で心を開くことはできないわ……」

「野上はそうじゃないって言いたいのかよ?」

「そうよ」

「はぁ……? なんだよ、それ……」

「見栄っ張りよね、私たちって。
 美男美女カップルだなんて言われていい気になって、周囲に見せつけることに心地よさを感じていたんだもの。
 だけど、疲れちゃった。それに……」

「それに、なんだよ……?」

「アキに私を奪われるなんて格好悪いから、強がって必死につなぎとめようとしてたでしょう?
  それが一番、嫌だった」

「それは……」
 悠は続きを言うことができなかった。

「悠のこと、嫌いになったわけじゃないの。
 恋人として付き合うことはできないってだけ。
 だからこれからは友達として、しゃべったり笑ったり。
 そういう関係じゃダメかな?」

「……俺と映璃とじゃ、恋愛観が違った。
 結局は分かり合えなかった、ってことか」
 悠はふうっと長い息を吐いた。

「映璃のこと、もっと知りたかった。
 もっと心を許してほしかったな」

「ごめん……」
「まぁ、焦りすぎたのは認める。
 それでたくさん傷つけちゃったんだとしたら謝るよ」

「私もたくさん傷つけた……。ごめんね……」

「おっと、泣くなよ?
 おまえは笑ってるほうがずっとかわいいんだから」
 いつもの強引さで、悠は私の髪をくしゃくしゃっと撫でまわし、顔を覗き込んだ。

「って言うか、泣いた跡があるし。
 野上、映璃のこと泣かせただろう?」

「ああ、泣かせた」
 私が勝手に泣いたのに、アキはそう言った。
 そして、何も言うなというように手で制し、悠の前に進み出た。
 悠も一歩前へ出る。

「女を泣かせるやつは大嫌いなんだよ。
 映璃との別れは納得したけど、おまえとは付き合わせたくねぇな」

「なら、僕とエリーが付き合ってもいいって思えるまで話し合おうよ。
 鈴宮に認めてもらえないうちは、僕だって堂々と付き合えないからね」

「へぇ。そんな度胸がついたか。オーケー、話そうじゃねぇか」

「ちょっと、二人とも……」

「映璃は家に入ってな。ここからは俺たちの闘いだ」

 行こうぜ。
 悠が促し、アキはそのあとに続く。
 自転車に乗った二人の姿はあっという間に見えなくなった。
 宵闇が、一人きりになった私を包む。

 男の子たちが最後の闘いをするなら、残された私にできるのは自分自身と闘うことだ。
 二人に愛されたことで得たものがある。
 だったらここで立ち止まってはいけない。
 それを糧に、私は私の足で前に進んでいくのだ。
 与えられた生を、今を生きるために。


 ***

 どこへ向かっているのか。まるで見当もつかなかった。
 人通りの多い商店街を、危なっかしげに走り抜ける。

 自転車を止めたのは、川越駅東口前。
 そこから歩道橋を駆け上がり、駅通路を通り抜け……。
 どうやら西口のデッキに向かっているようだ。

 商店街から離れる方向のため、東口の高架橋と違って人通りはそれほど多くない。
 だが、通路は広くて開放感があり、ちょっと話し込んだり、ギターの弾き語りをしたりするのにはちょうどいい場所だ。鈴宮はそこで足を止めた。

「なぁ……」
 デッキの手すりにもたれ、彼はあか抜けない西口の景色に目をやる。

「どうして映璃を好きになったんだよ。俺が先だったのにさ……」

「好きになるのに理由なんていらないだろ」
 僕もその隣に立ち、鈴宮の横顔に向かってきっぱりという。
「鈴宮と付き合っていようが、泣き虫だろうが、体に問題があろうがそんなのは関係ない。
 僕はこの世にたった一人しかいない『吉川映璃』を好きになった。
 エリーだから好きになったんだ」

「……そっか。お前はそんな映璃が好きなんだな?
  ほかの女じゃダメなんだな?」

「ああ」

「……付き合ってたのに、俺は映璃の体の問題に真剣に向き合おうとしなかった。
 笑顔の裏に隠れた悩みに気づけなかった。
 そして強引すぎた。勝敗を分けたのはそこなんだろうな、きっと」

 彼はそういうと何度かうなずいた。

「野上。明日のテストだけどさ……。
 こんなことになったけど、それでも勝負するか?」

「テスト……」

 僕が駆け引きに使おうとしたあのテストが明日ある……。
 正直な話、勉強なんて大してできてない……。

「鈴宮が僕らの交際を認めてくれるならやる必要はないよ。
 ……大体、勝負したってどっちの結果も散々なのは目に見えてるし」

「だよなぁ」
 鈴宮はやけにほっとした様子で言った。
「よかった、そこだけは意見が一致して」

「ってことは、認めてくれるの?」

「さっきの時点で認めてるよ、ちゃんと。
 ただ……聞きたかったんだ。映璃を好きになった理由を。
 一対一のほうが、言いやすかっただろう?」

 エリーに対する想いを打ち明けた一分ほど前のことを思い出し、僕は顔が熱くなった。

「真面目なやつだなぁ」
 鈴宮はそう言って笑った。

 三年間、同じクラスになるという腐れ縁でつながった僕ら。
 まさか好きになる人まで同じになって争うことになるとは想像もしていなかった。

 鈴宮をキングに見立て、ナイトに扮した僕がチェックメイトするつもりだった。
 クイーンのエリーを守りきるつもりだった。
 でもそれ自体が、奪い合う行為自体がばかな発想だったと今頃理解する。
 恋愛は、ルールとゴールの決められたゲームじゃないのだと。

「さて、話は済んだ。映璃のところに戻ってやれよ。
 きっと待ってると思うぜ」
 さっきまでの執念深さが嘘のように彼は言った。

「気持ちの切り替えが早いんだな。
 もっと突っかかってくるもんだと思ってた」

「終わったことはいつまでも引きずらねぇ男だ。
 それに、映璃の笑顔が見られるなら、もう相手がお前でもいい。そう思えてきた。
 だから、行ってやれよ。そんでもって笑わせてやれよ」

 振られて、かつ目の前にいる恋敵に向かってそんなふうに言えるものなのか。
 今まで女たらしの嫌な奴としか思っていなかったから、新鮮な感覚だった。

「鈴宮って……いいやつだね」

「野上も、単なるチェスオタクじゃなかったな、見直したよ。
 ただし、ちょっとだけな」

 互いに穏やかな表情になる。
 初めて分かり合えた気がした。

「そうだ。映璃のところに行くなら、これやるよ」
 鈴宮がポケットから小さな包み紙を出した。
 どこにでも売っているガム。だけど苦手なミント味だった。
 ちょっと考え、その真意を汲み取った。

「親切はありがたいけど、自分で買うよ。味が苦手で」

「うまいんだけどな。
 まぁ、おまえの好きな味のガムを買えばいいと思うよ」
 そんじゃ、俺はここで。

 引きずらない性格だと言った通り、彼はさわやかな笑みさえ浮かべて帰っていった。
 僕はすぐ近くのコンビニでさんざん悩んだ末にレモンキャンディーを買い、三つ口の中へ放り込んだ。そしてエリーの家へ向け自転車を走らせる。
 

 夜の住宅街は静まり返っている。
 自分の呼吸や鼓動、自転車を漕ぐ音がやけに大きく聞こえる。

 家の前でブレーキをかけると、整備不良のせいで大きな音がしてしまった。
 家の中にまで聞こえたかもしれない。
 案の定窓が開き、エリーが顔をのぞかせた。

「アキ……!」
 彼女は慌てて窓を閉め、外に出てきてくれた。
 そしてすぐに僕の体に飛びつき、腕を回した。

「大丈夫だった? 心配してたんだよ?
 この前みたいに殴られてるんじゃないかって」

「うん、もう大丈夫。鈴宮はちゃんとわかってくれたよ」

「よかった……」

 ぴったりと体を寄せるエリー。
 制服の下のぬくもりがはっきりと伝わってくる。
 緊張が最高潮に達する。

「エリー……」

「うん?」
 彼女が顔をあげたその時、僕はそっと唇を重ねた。
 ずっとずっと求めていたこの柔らかな感触を僕はついに確かめてしまった。

 時間が止まったように感じた。
 いや、このまま止まってくれたらいいのにと思った。

 長い長い口づけをし、ゆっくりと唇を離す。
 エリーの瞳に映っているのは僕。
 これまで何度も見つめあってきたはずなのに、今はこうしているだけで呼吸が止まりそうになる。

 僕は「ごめんね」と小さな声で告げた。

「どうして謝るの?」

「お互いに夢を見つけて頑張ったらキスしてくれるって約束だったのに……。
 これ以上、気持ちを抑えられなかった。だから、ごめん……」

 そう。僕はまだ、夢と呼べそうなものを見つけたに過ぎない。
 エリーのそれも聞いていない。
 にもかかわらず自分の気持ちを優先させてしまった。

 約束を守れなかった僕をエリーはずっと見つめている。
 何を言われても言い訳できないと覚悟を決める。
 しかし、エリーは微笑んだ。

「それだったら、心配ないよ」

「えっ……」

「私は悠と別れた。アキはやりたいことを見つけた。
 私も……見つけた。見つける努力をした。
 だから、キスはそのご褒美よ」

 今度はエリーから。
 ためらいながらも、求めるような、ちょっと大人なキス。
 鈴宮が教えたかもしれないキス。
 だとしても、そんなことは、どうでもいい……。

 長い抱擁とキスは僕たちの心の距離を一層縮めた。
 春の優しい夜風がほてった頬をなでていく。
 夢か現実か区別がつかないほどに、僕たちは二人の世界に浸っていた。

「……エリーの見つけた夢ってなに?」
 心と体が満たされた時、僕は耳元でささやいた。
 彼女も僕の耳に唇を寄せて答える。

「……子どもを育てる仕事。
 産めなくても、子供に携わることはできる。
 それが私の役目なんじゃないかって。
 ……アキの言葉が、また私の背中を押してくれたおかげよ」

「素敵な夢だね。エリーならきっとなれる」

 ずっと自分を否定し続けてきた彼女が、己を見つめ、未来への一歩を踏み出すことができたのだと思うと嬉しくなった。
 ところが、エリーはすっと体を離し、うつむいた。

「どうしたの……?」

「私ね、ずっといい子でやってきたの。
 周りの大人や、先生の言うとおりに生きていれば幸せになれるんだって信じてた。
 だから、自分では何も考えてこなかった」

「何も考えてなかったところは僕と一緒だ」
 エリーは、くすりと笑った。

「信念がなかったの、私の場合。
 ただ漠然と、将来は幸せになりたいって思ってただけ。
 でもね。私はずっと、『幸せじゃない自分』を盾に逃げてただけだった。
 空っぽの自分を隠すために。

 南高を選んだのも、中三の時の担任が薦めたから。
 学びたいことも特別なかったし、部活動にも興味がなかった」

「えっ、じゃあなんでチェス部に?」

「同じクラスに、チェス部に入るために入学したって豪語してるオタクがいたから」

「それって、僕のこと……」
 エリーは微笑み、うなずいた。

「正直な話、チェスなんて日本じゃ将棋よりマイナーなボードゲームでしょって高をくくってたの。
 将棋はおじいちゃんとやってたからルールはだいたい知ってたし、そんな動機で高校に入った野上彰博を馬鹿にしてやろうと思ったのが最初」

「なに、それ。ひどい……」

「でもね。実際にやってみてアキの本気度を知ったの。
 何度やっても勝てない。悔しくて仕方がなくて必死に勉強して……。
 そのうちにチェスの魅力にどっぷりはまってしまったってわけ」

「そうだったんだ……」

「チェスは私の居場所を作ってくれた。
 そして、それはアキがいてくれたから。
 私にとってチェスは……。そう、神様みたいなものね」

 神様、と聞いて何度も見た夢を思い出す。
 チェスの神様は、「私のいうとおりの道に進めばずっと好きなチェスをしていられるよ」と言う。
 けれど、僕は迷い立ち止まった。
 そしてエリーの病気と向き合い、人生の大先輩の話を聞いて結論を出した。

 未来を見通せる「チェスの神様」は所詮、ボード上と夢の中だけの存在。
 夢で見た二本の道のどちらを選ぼうが、歩くのは僕。
 そしてその道が満足するに足るものかどうか判断するのも僕。
 ならば僕は、今日を一生懸命生きて自分の足で道を作っていくだけだ。

「僕は自分のことをナイトだなんて言ったけれど、本当はポーンだと思ってる。
 一歩ずつ、着実に前にだけ進む。
 弱い駒だけど、戦略次第では昇格して強くなれる。
 いかにも僕らしい駒だってね」

 エリーはどう? 尋ねるとすぐに答えが返ってくる。
「クイーン……だなんていうわけないでしょう?
 私もポーン。臆病者で、目の前に敵がいても立ち向かえないんですもの」

「でも、斜め前の敵をとれる。弱くてもちゃんと戦う力を持ってる」

「……そうね。ポーンが進まなきゃ、ほとんどの駒は前進することができない。
 そしてすべてのゲームはポーンを動かすことから始まる。
 ちっぽけで役立たずだなんて、言っちゃいけないね」

 エリーは顔をあげた。その顔はどこか自信に満ちているように見えた。

 僕らの人生はチェスに似ている。
 戦略通りにはいかないこともある。
 ドローに終わることもある。
 そしてまた一からやり直して違う攻め方、生き方をすることもできる。

 答えはない。ただ、「今」がずっと続いていく。そうやって僕らは生きていくのだ。


エピローグ

 街中がおはやしの音であふれかえっている。
 川越っ子が待ちに待った日。
 十月の第三土曜、日曜に行われる、川越まつりの初日だ。
 普段から観光客の多い街だが、祭りほど賑わうときはない。

 今日は久々に二人して川越に戻ってきた。
 高校を卒業してから、都内の大学に通うため、二人で暮らし始めて今年で六年目になる。
 それでも毎年必ず、お祭りの時だけは帰郷している。

 市内のメインストリートは大混雑。とてもじゃないけどまっすぐ歩けない。
 そんなことはわかっているけど、「曳っかわせ」が見たくて、夜の街を練り歩く。

 町ごとに山車を一台持っていて、その数はおよそ三十台。
 そのうちの二十台ほどが市街地を巡行する。
 山車と山車とが路上で出会うと、山車に設置された舞台でひょっとこや天狐の面をつけた人が舞を競い合う。これが「曳っかわせ」だ。
 いつ見ても心と体が踊り、「ああ、生きている」と感じずにはいられない。

 いけこまたちも祭りを見に来ているらしいが、見つけ出すのは無理だろう。
 彼女たちはあれから程なくして野上家を離れ、実家近くの一戸建てを購入し親子三人で暮らしている。
 互いに頻繁に行き来していて、同居していた時よりもずっと仲良くやっているようだ。

 やはり孫の存在は大きく、母もなんだかんだで丸くなった。
 家を出てエリーと暮らす話を打ち明けたときも「彰博が決めたんなら好きにしなさい。何かあったらいつでも力になるからね」と寛容な気持ちで送り出してもらった。

 もっとも、何もなくてもしょっちゅう電話してきたり、お裾分けと称してあれやこれやの食べ物を送ってきたりと、世話を焼きたがる性分は変わらない。

 母がそうしてくるのも、僕がまだ大学院に在籍していることが大きいと思う。
 市内の高校のスクールカウンセラーとして就職することが決まっているが、社会に出ていない末息子の心配をしたくなるのが親心というものなのだろう。

「アキ、もうちょっとゆっくり行こう」
 いつの間にか少し早足になっていた僕をエリーが呼び止めた。
 再び歩き出すと、エリーは僕から離れないよう、ぴったりとくっついて歩き始めた。

 きょうの彼女は、オリーブグリーンのブラウスに、マスタードカラーのスカートという秋色の装い。
 通勤着が動きやすいパンツスタイルだから、休みの日はスカートでおしゃれをしたいんだとか。

 エリーは大学卒業後、市内の幼稚園に就職して毎日子供たちに囲まれて暮らしている。
 帰宅後、苦手なピアノを必死に練習している姿にはずいぶん影響を受けていて、僕の頑張りの原動力になっている。

 本川越駅前の通りにやってくると、細道で詰まっていた人たちが分散して歩きやすくなった。
 歩行者天国になっている路上では、おそらく今日最後であろう、曳っかわせが始まろうとしている。僕らは広い通りをゆっくり横断する。

「そうそう、今度、加奈子主演の舞台を見に行かない?
 チケット、二人分もらってるの。
 修士論文を書くのに忙しいとは思うけど、もしよかったら」
 にぎやかな音にかき消されないよう、エリーは声を張り上げた。

「もちろん、行くよ。
 それに、エリーほど忙しくはないから、そんなに気を遣わなくて平気だよ」

「よかった。
 加奈子ったら、病気を克服してからものすごく元気で、四十代とは思えないくらいよ。
 人生を謳歌してる姿を見ると、私も元気になれるの」

「うん。あの演技力には僕も毎回元気をもらうよ」

 都内の劇場で時々、エリーの母親が出演するお芝居があり何度か見に行った。
 息づかい、衣擦れの音、光る汗や迫真の演技で見せる涙。
 間近で感じられるそれは、まさに「今」を生きている人の姿だ、と僕は思う。

「ねぇ、覚えてる?
 高校生の時、よくここの駅前で待ち合わせしたよね」
 エリーの言葉に、帰宅する人たちが増えてきた駅の改札口に目をやる。

「うん。エリーはよく、泣いてたよね」

「そうだね。あの時はたくさん泣いた。
 でももう泣かないよ。今が一番幸せだもの。
 ……この六年でいろんなことがあったね」

「うん。本当に、いろんなことがあった」
 付き合い始めたころからの記憶がよみがえる。

 順調なことばかりじゃなかった。
 大学受験の勉強をしなければならない時期に、エリーと会う時間を優先しすぎて勉強がおろそかになり、死に物狂いで追い込みをかけた高三の冬休み。
 なんとか大学には合格したものの、入ったら入ったで、家を出た経験のない二人の新しい暮らしになかなかなじめず、ケンカが絶えなかったこと。数え上げたらきりがない。

 それでも僕はエリーとこうして一緒にいるのが好きだ。
 同じ景色を見られるのがうれしくて仕方がないんだ。

「ねぇ、ちょっと飲んでいかない? ゆっくり、話がしたいんだ」
 曳っかわせを見ながら提案した。
 エリーはちらりと腕時計に目をやった。

「でも電車の時間が……。
 池袋行きの最終は何時だったかな?」

「東上線は二十三時四十四分、西武新宿線は所沢乗り換えが二十三時二十七分だけど……今日はここ、予約してるから」
 僕は言いながら、プリンスホテルを指さした。

「へ?」とエリーは小首をかしげ、きょとんとしている。
「……分かった。そういうことなら飲みに行こうか。
 明日は休みだし、たまにはそういう日もありかもね」


***

 アキから飲みのお誘いなんて珍しいこともあるものだ。
 とはいえ、今日はお祭りを堪能できて私も気分がいい。
 ちょっとグラスを傾けながら話すのもいいだろう。

 アキは駅からほど近いバーを選んだ。
 普段はワインばかりだから、カクテルの飲めるお店ははじめてだ。

「話がしたい」と言ったアキはテーブル席を選んだ。

「メニューを見ただけじゃ、どんなカクテルかわからないわ」

「エリーはワイン派だよね。なら、ワインベースに『ビショップ』っていうのがあるよ」

「へぇ。じゃあそれにしてみようかな。アキは?」

「僕はこれ」
 そういってアキは、軽食とともに注文した。

「……カクテルが飲めるなんて、知らなかった」

「んー。実は少し前、鈴宮と会った時にカクテルの飲み方を教えてもらってね。
 それ以来、川越に来るときはバーに足を運んでるんだ」

「へぇ。悠に教えてもらったの」

「酒癖が悪くて、あとが面倒だけどね。
 いつも部屋まで連れてかなきゃならない」

「アキと悠がそんな付き合いをするようになるとはね」

「なんせ、大学まで一緒だったからねぇ。いいやつだよ、鈴宮は」
 一緒に暮らしていても、私の知らないアキもいる。なんだか新鮮だ。

 ほどなくして、「ビショップ」という名の赤いカクテルが私の前に置かれた。

 高校を卒業してからというもの、チェスをやる頻度は格段に減ってしまった。
 あれほど打ち込んでいたアキでさえ。
 だから、チェスの駒と同名のこのカクテルには懐かしい響きがあった。
 きっとアキもそう感じているし、だからこそ私に提案してくれたのだろう。
 アキのさりげないやさしさにはいつも感謝している。

「じゃあ、乾杯」
 グラスを傾け軽くぶつける。澄んだガラスの音が鳴った。

「おいしい……。初めて飲んだけど、カクテルもいいね。
 私も覚えてみようかな」

「うん。甘いのも多いから、自分の口に合う一杯を探してみるのも楽しいと思うよ」

「アキも甘いの好きだもんね。そっちのカクテルも甘いの?」

「ううん。これはね……」
 アキはそういうなり一気に飲み干した。

 そんな飲み方をして大丈夫?
 少し心配になったが、アキは一呼吸おいてゆっくりグラスを下ろすと私に向き直った。

「……XYZ。
 このカクテルに込められた意味は……『永遠にあなたのもの』」

「えっ……」

「エリー……。結婚しよう。
 次の四月には僕も社会人になる。
 そうしたら……野上映璃になってくれるかな……」

「アキったら……。もう、格好つけちゃって……」

 驚きと喜びとが混ざり合ってどんな顔をしていいかわからない。
 気づけば一筋の涙が零れ落ちていた。
 幸い、店内は暗い。
 すぐにうつむいたから、泣き顔は見られていないはず。

 私はこっそり涙をぬぐって笑顔を作った。
「ありがとう。答えはイエス。私は『永遠にあなたのもの』よ」

「よかった……。ほんっと、よかったぁ……」
 アキはテーブルに突っ伏した。

「ふふ。いつものアキに戻った。返事を聞いて安心した?」

「そりゃあ。だって、結婚することにはこだわらないって言ってたから。
 半分、賭けだった」

 そう。実は、両親の離婚のことがずっと頭の隅にあったし、アキと一緒にいられるならあえて「婚姻届」を出す必要はないとの考えは伝えてあった。
 だから、まさかこんなふうに言ってもらえるなんて思ってもいなかったのだ。

「でも……プロポーズされたら嬉しくて。
 アキのまっすぐな気持ちに応えたくて。
 ……やっぱり、家族になりたい。アキの、奥さんになりたい。
 ……自分でもこんな気持ちになるなんて驚いているけれど」

「ありがとう。
 ……いい返事がもらえたのは、川越祭りのおかげかな。
 氏神様が僕たちのところに降りて来てくれたのかも」

「きっとそうだね。……私は子供が産めないけれど」

「うん。僕はエリーと二人で生きていくよ。
 それに、子供に会いたくなったら兄貴たちのところに行くさ。
 翼君と、もうすぐ生まれる赤ちゃんがいる」

「そうだね……」
 アキが無理をしているとは思っていない。
 だけど、甥っ子の翼君を見守るときの目は優しく、とてもかわいがっているのが分かる。
 全く望んでいないはずがなかった。

 私自身、幼稚園で子供と接するうち、子供が大好きになった。
 産めない体だと宣告された時にはあきらめていた「子育て」だけど、私がそうであったように、「養子」を迎えることで産めなくても自分の手で子育てができるのでは、とつい最近考え始めたところだった。

 アキのプロポーズは、私にその可能性を示してくれた。
 もちろん、今すぐというわけにはいかないけれど、いつか、時が来たら相談してみよう。
 きっと、アキなら受け入れてくれるはずだ。


 それからアキは、メニュー表にある「ショートカクテル」の中から三杯追加で飲んだ。
 どれも色がきれいで、私も「ヨコハマ」というカクテルを一緒に頼んだ。
 そこまではよかったのだけど、だんだんアキの様子がおかしくなってきた。

「エリーちゃん。絶対どこにもいかないでねぇ。
 絶対だよぉ。僕を一人にしないでよぉ」

「うん、わかってる。だから、もう、帰ろ」

「えー、帰るなんて言わないでよぉ。もっと飲んでいこうよぉ」
「だーめ!」

 子供みたいに駄々をこねるアキをいったんわきに置き、私は会計を済ませた。
 店内にいたほかの客が、「若いなぁ」なんて言いながら私たちを見て笑っているのが分かった。赤面したのはお酒のせいだけではなかった。


 店を出る。信号を渡ればホテルはすぐだ。
 不幸中の幸い。この距離なら何とかなる。

「少しは歩ける?」

「歩けるよぉ。子供じゃないんだからぁ……」
 その様子はまるで子供。思わず笑いそうになる。
 飲み過ぎた悠を部屋まで送っていくのだと言っていたけれど、あれは実はアキの話だったのかもしれない。

「プロポーズはあんなに格好よく決まったのに、これじゃあ台無しね」

「……こんな僕じゃ嫌いになっちゃう? 結婚したくなくなっちゃう?」
 冗談めかして言ったのに、ここだけ真面目に返されてドキリとする。

 アキだって分かってるんだ、羽目を外しすぎたってことくらい。
 今日が終わるまで、完璧な自分を演じたかったのにできなかった悔しさをかみしめているに違いない。だけど……。

「しょうもないこと言わないの!」
 子供をしかりつけるように言う。

「むしろ、もっと好きになったわよ。
 こっちのアキのほうが、人間臭くて私は好きよ」

 お酒の力を借りてプロポーズして、そのお酒に飲まれたんだから情けないったらありゃしない。
 バカだなぁって思うけど、なぜかそんなアキを愛おしく思う。
 一緒に暮らしていて、彼のいろんな顔を見てきたけれど、やっぱりちょっと抜けたところが好き。

 アキがありのままの私を受け入れてくれたように、私もアキのすべてを受け入れる。
 共に生きるって、きっとそういうこと。

「ありがとー。やっぱり僕にはエリーが必要だ。ずっと一緒にいようね……」

「うん。ずぅーっと、一緒だよ!」

 明日帰ったら、アキのために料理の腕を振るおう。
 そして、久しぶりにチェスをしよう。
 彼と向き合い、笑顔を見ることが私の何よりの幸せだから。

   完


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