『ヤエル49』 第八章
◆まだ、森下が生存していた21時ごろ
時は少し遡り――。
森下の隠れ家にて、大きな音。それはタモタンが落下した時の音であり、地響きが隠れ家を揺らす。
森下はその時、今日あったことを文章にまとめていた。
「大きな音がした、いったい何だろう」とその場で書き……やや沈黙したのち、ゆっくりと立ちあがる。
半裸だった体に狩猟用のジャケットを纏わせると、奥の武器庫……あさみが見て驚愕した、違法罠が陳列された壁に向き合う。
さまざまな罠や武器を手に取り、触り、時にさわった指を舐める。
味で今宵の武器を決めているのだ。
巨大斧か琉球山刀か迷い、匂いをクンクン嗅ぎ、悩んだ末、ライフルと琉球山刀を手に取る。
そして、今かけていたメガネを外し、戦闘を想定した時にだけかける黒縁メガネ(といってもデザインはほぼ変わりはないのだが)を丁寧に両手でかけ直し、普段使いのメガネをメガネケースにしまう。
そして、天井部に飾ってある骨。
これは祖父の遺骨だ。
焼き場で焼かれたものを密かに盗みだした。
自分の隠れ家の天井につるして飾ってあるそれに鋭い角度で礼をすると、森下は隠れ家から出た。
◆そして、森下は出会った。
清水が湧く岩の近くだった。
森下は藪の中、大木に隠れてそれを見ていた。
「……?」
後に「タモタン」と名付けられる120cmほどの小さく白い怪物は、月光に照らされて、ひょこひょこと歩いていた。
「……なんだ、あれは?」
タモタンの動きは、不器用だった。
白い巨大なウナギに、小さな手足がついたかのような外観。
鰐のように突き出た口に、目は左右で六つ。
翡翠色で透明感のある目は、月の光を反射して輝いているようにも見える。
ともすれば、可愛いぬいぐるみにも見えなくもないタモタンは、不器用に身体を動かしていたが……。
不意に、タモタンは足に力を込め、ジャンプした。
すさまじい勢いだった。
タモタンの脚力は、この地上の生物では考えられない瞬発力を生んでいた。
自分でも力がまだ制御出来ないのか、とんでもない速さで木に激突する。
こうやってさっきから歩いていたのだろう。その動きは不器用で、不自由そうだ。
「ひっ……!」
激突した木はなぎ倒され、倒れた木が、森下のすぐ近くに寄りかってくる。
「……あいつじゃない。ヌシじゃない……!」
森下は背中に冷や汗をかく。
その時タモタンの足元で、森下がヌシ用に仕掛けたトラバサミが作動した。
だが、トラバサミの鋭利な歯は、タモタンの足に食い込んだものの……するりと抜けてしまった。
◆気づき、切りつけ、絶句した
一方のタモタンも、森下に気付く。
森下の存在に、というよりは、その森下のしていたメガネに、タモタンは異様な興味を抱いた。
構造の違う目を持つタモタンにとって最も縁が遠く、理解しがたい器具だったからだ。
タモタンは、じりじりと、森下の隠れている木に近づく。
森下もまた、自分がタモタンに気づかれた事を知る。
「なんだよ……何するんだよ……」
タモタンの外見はまったくの無害に見える。
だが、森下は気づいている。
「来るな、来るな……」
タモタンが、とてつもなく危険な生き物だという事に。
タモタンは、ゆっくりと、ただ、森下のそのメガネに向かって、距離を縮めてくる。
「うわぁっ……う、うわぁぁぁぁああああっ!」
接近したタモタンに、森下は琉球山刀を十字に切りつけた。
だが、タモタンの白い皮膚がゴムのようにしなるばかりで、とてもダメージがあったとは思えない。
判断早く、森下は刀を捨て、背中に背負っていたライフルを手にしようとした、瞬間、森下は絶句した。
タモタンは口を開けながら、飛びかかって来たのだ。
ただ、口が開いたのではない。
巨大な南国の花が開花したかのように、顎が三つに割れ、グロテスクな口は森下を頭から脛まで丸飲みにしたのだった。

◆こうして森下さんは脛だけになった
一瞬だった。
タモタンの体内では強力な分解酸が分泌しており、飲み込まれた森下はタモタンの内部で、徐々に自分が自分であることを保てなくなる。
タモタンの身体は伸縮自在のゴムのような構造なのだろう。
170cmの森下を飲みこんだタモタンは、上を向くと、その身体に合わせ縦に伸びていた。
そしてその後、消化のためか、タモタンは森下を飲みこんだ後、直立したまま同じ姿勢を保っていた。
◆森下タモタンの誕生
やがて――。
その身体は、徐々に人間の姿に近くなっていった。

タモタン――「多目眼外宇宙生物」は、この地上で動きやすい身体をもっているであろう生物を取りこみ、行動しやすくするという性質がある。
飲みこんだ動物の大きさや複雑さにもよるが、今、タモタンが飲みこんだ者――森下に擬態しきるには、3時間を必要とした。
月光に照らされ3時間、直立を保つタモタン。
タモタンの身体から、しだいにダランと手足が伸び、頭髪を模したふさふさした皮膚が頭頂部に生える。
大きく裂けた鰐のような口を完全に閉じ切るには、もう少し時間がかかるが、擬態しきれたならばその口やあごに相当した箇所が、森下の顔面となるだろう。
やがて……森下と化したタモタンは、欠伸をするようにうめき声をあげた。
「ぐぁぁぁあああああぁぁぁあ……」
大きく、咆哮をするタモタン。それは、あさみが壊れた配電盤を見た時に聞いた咆哮であった。
擬態は、ほぼ完了した。森下を取り込んだ170cmの体は、まだ手足がふらつき、身体の関節も、どこに力を入れれば身体が曲がるのか、おぼつかない。
が……。
この世界の重力と大気に、非常にフィットしていて、気持ちがいい。
タモタンは、大きく息を吸い込む。
空気がさわやかである。
そういう情緒すら、タモタンは持ち合わせていた。森下の意識も取り込んでいるからだろう。
「……?」
タモタンは、しかし、何か足りないと感じていた。
何か、頭の部分が、物足りない……。
その欠落感は、すぐに解消された。
森下が食べられる瞬間、落ちた眼鏡をタモタンは見つけたのである。
かすかに混ざる森下の意志と、タモタンの興味が、それを拾わせ、森下の目を模した黒い痣のある所に、それをつける。
非常に、いい。
タモタンは、さわやかだ、と感じている。

そこからタモタンの体は、ゆっくりと収縮する。
エネルギー消費を抑えるために、元の体に戻っていく。
森下を取り込んだ170cmの体は、ここぞという時に発揮されることとなる。
◆スープラの夢
スープラは、夢を見ていた。自分が生まれた時の事だ。
とはいえ夢であるので、どこかで現実離れしている――。
100年前、肉の塊(人工子宮)を突き破り泣きながら外に出ると、そこは美しい石造りの建築物に囲まれた場所だった。
「ようこそ、スープラ。」
周囲には、12人の同じ顔をした――しかし髪の色や肌が少しづつ違う――自分の姉たちが手を叩きながら自分の誕生を祝う言葉を口にしている。
そしてその中心には3人の賢者が、落ちくぼんだ眼でスープラを見つめていた。
スープラは生まれながらにして12歳程度の肉体を持っていた。
戸惑いながらも、スープラの脳は自分の置かれた状況を瞬時に理解していく。
「私は、作られた」
「12人の姉の姉がいる、末っ子」
「私は祝福されている」
……0歳児から15歳程度の知能や知識、情緒を得るのに、20分とかからなかった。
彼女はネバー・ダイ・ガールズ。
不死人間であり、人類に英知を与えた先進的始祖生命のクローンでもある。
あらゆることを瞬時に理解し、思考し、そして結果を出す。
そうしなければならない。
スープラの、戸惑いながら落ち着いた様子を見て、3賢者たちは本を与える。
「スープラよ。13番目の子よ……」
「知りなさい。すぐに知りなさい。そなたには無限の時間がある。だが、そなたが守るべき者たちには時間がない」
スープラは戸惑う。自分はまだ生まれたばかりで、何も知らない。わからない。
だが賢者と12人の姉たちは、有無を言わさずスープラに知識を与えんと、本をちぎりスープラに食べさせようとしている……
「知った後、救うのです。お前が救うべきは、英知に優しさをかねそなえる生き物」
「お前はそのために作られた」
「人類は2049年に一人残らず死ぬ」
「なぜなら弱いからだ。悪いからだ。醜いからだ。」
「その運命に抗うために、私たちは抗わなくてはならない。愚かな人間どもは我が子孫たちでもある」
「弱きものを強く、悪きもの正しく、醜いものを美しく……」
「お前が導いてやらねばならない」
「優しくあれ、強くあれ。正しくあれ、ネバーダイガール・13番目の子スープラよ……」
◆井上とスープラ
スープラが目をパチリと見開き、目を覚ます。そして瞬時に起き上がり、周囲を見渡す。スープラは大きく平たい岩の上に寝かされていた。
ここは森の中だ。近くに小川もあるのか、せせらぎの音も聞こえる。
スープラがタモタンに両断された時、重要な器官の一部にまで傷ついたようで、井上に背負われている時は断続的に意識があったものの、今の今までスープラは眠るように意識を失っていた。
大きな岩を中心にした簡単な休憩スペース。
岩のすぐそばで井上は、プロテクターに内蔵されたカメラで録画していた映像を、端末に繋げ何度か再生していたが、スープラの目覚めに気付くと端末を閉じた。
「さすが死なないね。」
井上は静かに言う。
「ていうか、夢、みるんだ。」
「……」
「うなされてた」
「……目標は」
「現在も稼働中。バドとカナンには先に撤退命令を出しておいた」
スープラは無言で唇を噛んでいた。
戦う前は見せた事のない表情だった。
その表情に、井上はおやっと思う。
「資料にあった情報とは、やっぱちょっとちがうね」
「……【白ウサギ】(タモタン)の情報は極めて例が少ない。……事前の少ない情報を過信し、錯覚していた。私は」
「ん、そうじゃなくてさ。……NDGがさ」
「え?」
「『NDGは寿命のある人間とは異なり、高度な精神修養と冷静さを持っており、作戦時においては何よりも優秀な兵士であり、兵器である』ってあったけどさ。……うん、ちょっと違う」
「優秀なんかじゃない」
「いや、そうじゃなくてさ……。すごいよスープラは。君が居なかったら普通に俺ら死んでたかもな。逃げられてよかったよ」
今、目の前のスープラは、死の淵から生還した安堵と、その安堵している自分を嫌悪する悔しさ、悲しさ、苛立ち、その他さまざまな感情が宿っている一人の人間のようだと、井上には思えた。
「……戦う。あれをそのままにしては、地球の危機だ」
「装備もないのにどうやって」
「私なら装備がなくてもやれる!」
「君が優秀なのは知っているよ。けど、通用しなかったじゃない」
けっして井上は、先ほど無様な敗北を喫したスープラを見下してはいない。そもそも、井上をかばってスープラは敗北したのだ。
ただ、事前に予想していた敵の動きが何もかもこちらを上回っており、用意していた武装や作戦のほとんどが通用しなかったのだ。
「バドもカナンも帰しちゃったしさ。俺のプロテクターは後始末専門だから武装はない。肩も痛いしさあ。……今の俺達に出来る事は、この戦いの記録を転送し、情報をヤエル本部に伝える事。そして、人類の宝であるNDGのあんたを、無事ヤエルに帰す事だよ。」
井上はそう、静かに言う。
「それは」
「うん。負けたよ。でも負けを本部に伝えるのも大事な仕事。誰も死んでないし良かったよ。今の所。あとは、ヤエルから日本政府に伝えてもらって島民の避難を急いでもらって」
「みんな死ぬ」
「……え?」
スープラは、うめくように言葉を発する。
「……ヤエル49は、あと62分後、この島全域に「プロメテウスの火」……純粋水爆を使用する。この島を、タモタンと位相断面の環ごと分子分解させるめに……」
絞り出すように、スープラは言葉を発した。
井上はポカンと聞く。
「それ、俺に聞かせちゃいけない種類の情報なんじゃねぇの」
聞きながら、たしかに、それはヤエルのやり方だなと井上は妙に納得していた。
「あー、でもそうか。ヤエルならやるかもなあ。雑だけど、離島だし、5年前のアラスカみたいになるよりはマシかあ……」
井上は失敗する時の事を考えていなかった。
失敗したら当然、誰かが後始末をするだろう。だがその後始末のやり方が、ここまで大胆だった事は予想外であり、それでも、この程度はやるだろうという納得が井上に妙な感心をさせた。
「というか、そうか。いやね、聞いてよ。俺もともとは先行調査ってだけしか聞いてなかったんだよ……。そうか本来のヤエル的には、最初から水爆を使うつもりだったんでしょ。そうでしょ? 俺を調査に行かせて情報とったあと、即、島ごと吹き飛ばすつもりで、ああ……それで、あんたが声を上げてくれたんだ」
「別に井上の生死を気にしたわけではない。爆弾を使うより、私が行った方が合理的と判断したからだ」
「なんか巻き添えにしちゃったみたいだね」
井上は申し訳ない、という顔をするが、スープラは首を振る。
「私は、生き残れる。純粋水爆程度の熱量なら、対ショック姿勢をとりその後安静にしていれば 21日間以内に再生できる。でも……」
「それもすごい話だ」
井上は他人事のように思う。
「でも、あなた方は死ぬ。この島に住んでいる、森の生命も皆……」
スープラはうつむき、悔し涙を浮かべている。井上は思った。
「(……N DGについて、ある噂を聞いた事がある。不死人間のクローンとして生まれれたNDGは、人類を救済するために作られた。その過程で、戦闘訓練と同時に、人間とは何か、救うべき生命とは何かを徹底的に叩きこまれるという。
人類が築き上げた哲学、芸術、歴史、文学のありとあらゆるものを、不死と言う無限時間の中で叩きこまれていくうちに、NDGはまるで天使に近い感受性と、悪魔のような戦闘能力を持つと――)」
今、目の前で目に涙を浮かべるスープラは、まるで天使が人間を憐れむかのような、美しい表情をしていた。
人類の救済が、彼女らの使命なのだから。
「……そっか」
井上はため息をつく。そして、外して脇に置いていた肩のプロテクターを、もう一度装着する。
「俺の仕事は、ヤエル49から指定を受けた特殊外来生物を駆除するのが仕事……。仕事だったら、今しがた終えたばかりだ。失敗という形だけど……失敗したとしたらその失敗を資料に残して、始末書書いて、「次」の仕事のために、しっかりと報告をする」
スープラは不思議そうにその言葉を聞いている。
「たが、そんな憂鬱な仕事も終わり。これからやるのは、仕事じゃなくて……俺が『生きのびる』ためにする事。仕事じゃない」
「井上……」
「ミス・スープラ。NDGとして、俺の命、救ってくれないか?」
「……ヤエルはもう決定している。あと62分以内に対象を処分できなければ……」
「だから、今から処分しに行くんだよ。もう一度、あの怪物を……」
「――?!」
「可能性が、ないわけじゃない。これが仕事だったら、成功確率があまりに低くいし危険だからやるワケにはいかないけど……生きるためだったら、どんな低い可能性にだって懸けられる。あんたの力が必要だ、スープラ。手、貸してくれる?」
井上は立ちあがろうとする。
スープラは、肩を怪我しているらしい井上の手をとり、立たせる。
スープラの目に、光が宿っている――。
◆生きるために動く
そのころ、あさみは、島の山頂に居た。
雨が、また降り始めた。
小降りとはいえ、あさみの顔に振り続ける。
山頂に石造りでできた3メートルを超す鳥居と、祭りを執り行うための20メートルほどの開けた場所があり、そこに倉庫代わりにもなっている神社の社がある。
一見平らかな場所に見えるが、神社の裏手は反り立つ崖になっており、その崖にもし足を滑らせでもしたら、ひとたまりもない。
神社の社の脇の電柱に設置されていた緊急連絡用の非常電話は、案の定破壊されてた。
ユビナガは念入りに、この場所にも先に訪れて連絡手段を絶っていたのだ。
「……あいつはこのブルーシートを見た」
その一角の地面は、土砂崩れの影響で一部崩落しかねない状況になっており、工事中のブルーシートがかけられている。
地盤が緩み、脚をすべらせれば崖に真っ逆さまだろう。
「ここだ――」
比較的ひらけたこの場所ならユビナガの居場所が分かり、また囮となる自分の位置も晒しやすいと判断した。作業中、もし見つかったとしたら……
「泣いてたら終わらない。終わるのを待ってたら、終わらない……」
夜の闇の中で、あさみはつぶやく。
そしてあさみは、森下の所から仕入れてきた違法な罠を組み立て始めた。
(※ユビナガが一度この場所に来ている事から、がけ崩れの危険性のある地面を保護しているブルーシートの上に誘導して落とし穴を作り、その下に跳ね上げ式の罠を作ってユビナガの動きを封じようとする罠を作るというプランである。
一度山頂に来たときに見たブルーシートがそのままその場に引いてあってもユビナガは不自然に思わないだろうという狙いがある)
作業中、山の下の森の方で何度か、激しく打ち付ける衝撃を感じた。
そのたびに鳥が飛び立っている。
あさみはそのたびに、身体をすくませる。
ユビナガが、自分を脅すために、森の中で暴れているのだろう。
だがあさみは冷静に深呼吸をし、気持ちを落ち着かせて罠を作る。
いつの間にか喘息の発作が消えている事に気づいていた。
◆ヌシvsユビナガ
そのころ、森――。
ヌシ熊はユビナガを「敵」と認識すると、咆哮したのち、一直線にユビナガに襲い掛かってくる。
2メートルはあろうかという巨体は、まるでトラックのようにユビナガに突進する。
ユビナガは左足を噛み付かれながら、そのままヌシ熊に押し倒される。
だが、ユビナガは倒れながら熊の顔面に、その巨大な指のある手で掴むと、そこに力を加えていく。
ヌシ熊を握力で左足から引きはがそうとしているのだ。
ヌシ熊はユビナガ左足のモモに食らいついて離さないが、ユビナガがさらに力を加えてヌシ熊を強引に押し返すと、体勢が入れ替わり、ユビナガが上にかぶさる。
ヌシ熊は咥えていたユビナガのモモを離し、すぐにユビナガを両手で薙ぎ払いって体勢を整え、四つん這いの姿勢に。
ユビナガはその間、体勢を崩しながらナタを手にし、ヌシ熊の顔面にナタを振りかざす。
だが、体勢が整わず力が入りきらなかったのか、ナタはヌシ熊の硬い頭蓋骨に鈍い音を立てたものの、ヌシ熊の勢いは止まらない。
ヌシ熊はなおも頭から突進し、ユビナガの腹に食らいつこうとする。ギャン、という金属音。ヌシ熊の歯と、ユビナガが着こんでいる服の内側の鎖帷子が激しく擦れる音。
ヌシ熊は臓物を食いちぎるつもりで牙を立て頭を振るが、食いちぎったのはユビナガの着ていた鎖帷子の一部だった。
ユビナガはそれを見、突然ヌシ熊に背をむけて逃げ出す。
ヌシ熊は逃げるユビナガを追いかける。
森の中の熊の恐るべきスピード。
だがユビナガは周囲の木々をその長い腕を利用して飛び移っていく。ヌシ熊も負けじと木にスルスルと登りユビナガを追うが、ヌシ熊の自重で木は次から次へと折れていく。
ユビナガは木から転げ落ちながらも、ヌシ熊のしつこい攻撃を間一髪でかわしながら、移動し続けている……。
◆自衛隊員・タケナカの決断
「撤退、ですか?」
自衛隊員・タケナカはトランシーバーを片手に、本来であればしてはいけない「命令を聞き返す」受け答えをしていた。

タケナカが受けた指示は、「1時間以内に島から撤退する」という指令。
「まだ島内にいる住民の避難は?」
と尋ねるが、トランシーバーの向こうからの返答に、タケナカは天を仰ぐ。その様子を見た小隊長がタケナカの背中に手をやる。
「仕事だ。こういうこともある。上が考えに考えた結果、こういう判断になった」
「予測されていた地滑りは、起きない、という解釈でいいんでしょうか」
「わからん」
「それとも、地滑りよりも決定的にして不可避の大災害が起こる、とでも?」
小隊長は首を振る。
「……このたびの自衛隊出動は勇み足で、この島では、何も起きなかった。何事もなく日常が過ぎた、と?」
「ああ。それで問題ない……上が、そういう事にしたのだ。何かは起きた。だが、われわれは 何もしない事で、人々の平穏を護ったんだ……これでいいんだ」
タケナカは力なく、非常線の向こう側に目をやる。
あの異様な姿をした四人組も、まだ帰ってきてはいない。
しかし――。
「……タケナカ班、これより残された島民への避難を今一度うながします」「タケナカ君――」
「非常線はいまだ解除の指示は出ていません。1時間以内の撤退であれば、タケナカ班は15分ですべての作業を終わらせられます。残りの時間で残された島の住民はいないか、見てまいります」
「……いいだろう。君の業務の範囲だ。上には私が言っておく」
「よろしくお願いします」
そういうとタケナカは部下に指示する。
部下たちは南の集落にやらせ最後の避難勧告を、そしてタケナカ自身は、タクシーの運転手の情報をもとに、急ぎ山小屋方面へ向かった。
◆その時、タモタンは
現在のタモタン……。
タモタンは、ピンク色の気体(強化ペプチターゼ)を肌に受けて、しばらくもだえていた。
人間でいえば「かゆみ」に相当する感覚で、痛くはないが、ムズムズする。不愉快な感覚。
タモタンはしばらくその「かゆみ」と格闘しているうちに、先ほど出没した不愉快な人間たちの事を忘れていた。
タモタンにとってみれば、人間など、不意に自分たちの周囲にあらわれるゴキブリや蛾のような存在だった。
地面に転がり、かゆみを乗り越えたタモタン。
そのまま地面をころがり続け、土の中に埋まりかけると、不意に自分が森や星と一体になったような感覚をタモタンは味わった。
これは、森下が願いつづけていた「森の王となる」という感覚だった。
タモタンは、静かに感動していた。
その時、タモタンは感じた。
何か、山の上の方から衝撃を感じる。
タモタンは上体を起こすと、山の上を見た。
「おおおおおぉぉぉぉぉぉ……」
という、生き物のうめき声を感じた。
その声は、タモタンが取り込んだ森下がずっと追い求めていた「森のヌシ」の熊の鳴き声だった。
と同時に、そのタモタンの六つの目に見えたのは、巨大な光の柱だ。(※位相断面の環)
それが、タモタンの意志なのか、本能なのか。
タモタンは、呼ばれていると思った。
あの山頂に、自分が求めていたものがある、と……。
タモタンは、体をゆっくりと起き上がらせ、立ち上がる。
そして 少しずつ、大地を踏みしめるように、ふらふらの身体を動かし……山頂へ向かっていくのだった。
◆死闘……!
ヌシ熊は、背を向けて逃げるユビナガに追いつき、その左腕に食いつく――だが、ユビナガの左腕には、千切れていた鎖帷子の断片が巻かれていた。
逃げるさ中にユビナガが仕込んでいたのだ。
そのまま、左腕を噛ませたままユビナガは熊の背後に回り込み抱きつく。
ユビナガの左腕はありえない方向に曲がっているように見えるが、関節は特異体質なのか異様に柔らかい。
ヌシ熊はそれでもユビナガの左腕に食らいつき続けるが、ユビナガはヌシ熊の首に巻き付きながら、右手でナタを逆手に持ち、ヌシ熊の右目へナタを突き刺した!
