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短編小説『変態倶楽部』~翅の記憶~

 変わることで、何かを得た。
変わることで、何かを失った。
蝶になった私たちは、夜の記憶になった。

_______________________________


 会社帰りの道は、いつもよりひっそりとしていた。
雨上がりのアスファルトがまだ湿っていて、街灯の光をぼんやり跳ね返している。

 そのとき、舞衣はふと足を止めた。
細い路地の入口、剥がれかけた木製の壁に、釘で無理やり留めたような看板がある。

ー変態倶楽部ー

 赤いマジックで書かれたその文字は、最初、いかがわしい何かを想像させたが、看板の下に小さく添えられた説明に舞衣は思わず眉をひそめた。

“変態とは、成虫と幼虫を持つ生命の神秘です
ここでは1時間だけ、あなたもその神秘の一部になれます”

 けれど、それと同時に、どこか惹かれている自分がいた。
退屈なルーティン、分厚いファンデーション、形だけの「お疲れさま」。
 森野舞衣、社会人3年生。大人ってこんな?
何かが破裂しそうだった日々の中で、これはたしかに異物だった。
気づけば、舞衣は扉を開けていた。

 中は薄暗く、薬局のような、でもどこか理科室のような匂いがした。
奥から現れたのは、翅の模様の古びた着物を着た老婆。
だが、その目はまるで蝶の複眼のように、光を反射していた。

「あんた、何になりたいの?」

そう聞かれ、舞衣は答えた。

「えっ、あ、あの・・・翅のあるものがいいです。夜の街を上から見たい」

 老婆はうなずき、ガラスの小瓶を一つ差し出した。
中にはエメラルドグリーンの液体がゆっくりと揺れていた。

「死んだりしないから・・・ほら、飲んでごらん」

 生ぬるい液体の匂い。液体は思ったよりも甘かった。
それが喉を通った瞬間、世界がぐにゃりとねじれた。
足の感覚が消え、視界が広がっていく。
髪が抜け落ち、代わりに翅音が鼓膜の奥で響いた。

 舞衣は、蝶になっていた。

(ひゃっ・・・)

驚いた舞衣は、変態倶楽部の窓から飛び出してしまった。
ビルの間を抜ける風に乗って、ぎこちなく光る翅をひらひらと動かしながら、夜の街へと舞い上がる、舞い上がる。

 夜の空気は、ひんやりと、翅を撫でるように冷たかった。
湿ったアスファルトの匂い、電線の上にたまった夜霧、遠くで響くクラクションの音。すべてが、翅の感覚を通して、鮮やかに胸に押し寄せた。

 ネオンが滲む地上を見下ろすと、ビル群の街はまるで光る川だった。
赤、青、緑、紫、黄色。街の灯りが、水に溶けた絵の具のように、ゆっくりと混じりあっている。

 人々が米粒のように歩いていた。
その中に、ひときわゆっくり歩いている、ひとりの人影があった。
見覚えのある後ろ姿。
舞衣は、惹かれるように、その後ろ姿に向かって降りて行った。

(川崎さん?)

 同じ部署の先輩。
誰にでも優しくて、気が利いて、でも舞衣には、少しだけ距離を置いているような人。

 彼は、細い路地に入ると、ふと足を止め、空を見上げた。
蝶の舞衣の姿を見つけたのだろうか?
その瞳が、まっすぐこちらを見ているような気がした。
胸が、翅の奥でひときわ強く鳴った。

 と、彼は胸のポケットから何かを取り出した。
それは、ガラスの小瓶。
中にエメラルドグリーンの液体が揺れていた。
川崎さんの手元で、ガラスの小瓶がきらりと光る。
あの液体の色は・・・間違いない、舞衣が飲んだものと同じ。

(彼も・・・知っている?)

 いや、それどころか・・・舞衣の小さな翅が、ざわめくように震えた。
彼は、もう何度も“変態”しているかのように見える。

 川崎さんは空を見つめたまま、ほんの少しだけ微笑んだ。
その笑みは、いつもの職場で見せる穏やかな表情とは、どこか違っていた。
それは、仲間に向けられたような笑みだった。
自分と同じ、ここではない場所を求める者に。

 そして、彼は瓶の蓋を、ゆっくりと開けた。
舞衣は一瞬、風の流れに逆らって舞い降りた。
近づく。彼の顔が、はっきり見えるほどに。

 次の瞬間、川崎さんの体が淡い光に包まれた。
その輪郭がぼやけ、腕が、足が、形を変えていく。
翅音が、ふたつになった。
舞衣の隣に舞い上がったのは、漆黒と金の模様をまとった蝶。
オオゴマダラだった。

 ふたりは無言のまま、並んで夜の街を飛んだ。
言葉はない。でも風が距離を測ってくれている。
見下ろす街の灯りが、夢のように滲んでいた。
翅ばたきと、心臓の鼓動だけが、微かなリズムで響いている。
たった1時間の、ふたりの密かな逃避行。

 変態が解け、舞衣は人間に戻った。
でも、蝶だったときに感じた・・・風の感覚、川崎さんとの距離、世界の見え方が、いつまでも忘れられなかった。

 人間の姿で出勤した川崎さんとは、変わらず微妙な距離感のままで、
「あのときのこと・・・覚えてますか?」
と聞いても
「え?どの?・・・ときの話?」
と川崎さんは笑う。でも、あの笑顔には含みがある。

 再び、「変態倶楽部」の扉を開けた夜。
雨がしとしとと降り、細い路地はまるで川底のようだった。
あの日と同じ、古びた木の看板。
変態倶楽部というその文字は、雨に濡れても、なお赤々と滲んでいる。

 舞衣は、わずかに震える指でノブを回した。
薄暗い店内。薬品と乾いた葉の匂い。
そして奥のカウンターには、やはりあの老婆がいた。

 老婆は舞衣の顔を一瞥し、ゆっくりとうなずいた。
「戻ってきたね」
舞衣は小さくうなずいた。

 すると老婆は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「ここでは好きな虫に“変態”できる。でもね、変態には“代償”があるのさ」
老婆は棚の奥から、黄ばんだ紙束を取り出した。そこには無数の名前と、変態した虫の種類、そして異変の記録が書かれていた。

「副作用は、ただ回数だけじゃない。変態する虫によって、”失うもの”が違う」
老婆の目がぎらりと光る。
「飛ぶ虫は、記憶を失いやすい。潜る虫は、時間の感覚を失う。刺す虫は、怒りを抑えられなくなる。光る虫は、現実が偽物に見えるようになる」
そう言って、老婆は重たい視線で舞衣を見た。
「あんたが選んだのは蝶。翅を広げる代わりに、記憶の翅が少しずつ剥がれていくのさ」

 ぞっとした。
舞衣は蝶だったときの自由な感覚を思い出そうとしたが、そこに何か薄い霧がかかったように、ぼやけていた。

「見せてあげようか」
老婆が囁いた。舞衣は圧倒されながらも、うなずいた。
老婆は重いカーテンを一枚めくり、奥へと案内する。
そこには無数の古びたベッドが並んでいた。
その上には変わり果てた人たちが横たわっていた。

 身体は人間だが、目だけが虫のように黒く、濡れていた。
時折、かすかに翅を震わせるような仕草をする者もいる。
老婆が言った。
「彼らは、戻りたくなかったんだよ。変態を重ねすぎて、“人間のふり”をするのに疲れ果てた者たちさ」
舞衣は声が出なかった。ただ、冷たい汗が背筋をつたった。

 老婆はそっと、出口の方向を指差した。
「まだ、間に合う。今夜は帰りなさい」
舞衣は、ただ無言で頭を下げると店を飛び出した。
雨が頬を刺すように冷たかった。
振り返ると、変態倶楽部の看板は闇に溶けるように消えていた。

(私は・・・どうしたい?)

 胸の奥で、かすかな翅音が、まだ鳴り続けていた。
雨がやんだ街は、どこか違う世界のようだった。
アスファルトに滲む光、濡れた歩道を行き交う無数の足音。
すべてが、遠い国の風景みたいだった。

 変態倶楽部から飛び出して以来、舞衣の胸には冷たい空白が広がっていた。
一度は誓ったはずだった。もう、二度と変態などしない、と。

 けれど、職場に戻った舞衣を待っていたのは、容赦ない日常だった。
早すぎる足音、無意味な会話、無表情なパソコンの画面。
それらすべてが、透明な檻のように舞衣を締めつけた。

 蝶になって空を舞ったあの感覚。冷たい風に翅をふるわせた夜。
川崎さんと並んで、何も言わずに飛んだ、あの夜。

(あれこそが、本物だった)

気づけば、舞衣はそう思い込んでいた。
現実よりも、あの一時間のほうが、ずっと生きている気がした。

 そんな夜だった。
定時を過ぎ、ひとり静かな道を歩いていた舞衣は、ふと空を見上げた。
高層ビルの谷間、ネオンが滲む空に、ふわりと浮かぶ影を見つける。

(蝶・・・)

それも、ただの蝶ではない。
翅の中心に、エメラルドグリーンの光を宿した、美しい蝶。

(もしかして・・・川崎さん?)

 なぜそう思ったのかはわからない。でも川崎さんに見えた。
蝶は、ひらひらと舞いながら、近くの古い雑居ビルの屋上へと消えていった。まるで私をこっちにおいでよと誘うように。
迷う暇もなかった。舞衣は吸い寄せられるように、その建物へと向かった。

 古びた階段を駆け上がる。
錆びた手すりを握りしめ、最後の扉を押し開けた。
夜風が、ぶわりと吹き抜ける。

 屋上の隅に、川崎さんが立っていた。
スーツのジャケットを脱ぎ、シャツ一枚で、じっと空を見上げている。
その顔は、普段の彼とは違って見えた。
もっと遠くを、もっと深くを見つめる、誰にも見せたことのない横顔だった。

 舞衣が声をかけようと一歩踏み出したときだった。
川崎さんが、ふと微笑んだが、その目線が微妙に宙を彷徨った。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、川崎さんは舞衣を見ずに、彼方の何もない空間を見つめていた。

 不自然な間。
でもすぐに、彼は何事もなかったように舞衣に視線を戻す。
「気づいてくれてよかった。見えた?」
舞衣は戸惑いながら、うなずいた。
「死んだ弟が好きだった種類なんだ。エメラルドアゲハ。弟は、蝶のように優雅に空を飛びたいって言ってたんだ・・・人間のままじゃさ、あいつが見たかった世界を知れないと思って」

 彼の声は、どこか遠いところから響いてくるようだった。
わずかに、言葉の調子もリズムも違って聞こえる。
ポケットから取り出した小瓶の蓋を外すときも、川崎さんの指先はかすかに震えていた。

 しかし、彼は微笑みながら、何事もないふうに言った。
「・・・もう一度、一緒に飛ばないか?」
屋上に立つ川崎さんの背中は、どこか違って見えた。
夜風に揺れるシャツの下、肩甲骨のあたりがわずかに膨らんでいる。
そこが、時折、小さく脈打っていた。

(まるで、・・・翅の、芽・・・?)

 舞衣は思わず息をのんだ。
声をかけようとするが、言葉が喉でつかえた。
川崎さんはそんな舞衣の動揺に気づくことなく、微笑んだ。
「・・・こわいか?」
その声は、少しだけかすれていた。

舞衣は小さく首を振る。
「いえ、こわいのは・・・飛べないこと、です」
自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。

 川崎さんは、かすかに目を細めた。
それは、どこか安堵にも、哀しみにも似た表情だった。
「俺、・・・これで5回目なんだ」
ぽつりと、川崎さんが言った。
「5回目?」
「そう。3回目くらいから、ちょっとおかしいなって思ってた。だんだんいろんなことが思い出せなくなってきて。でも、どうしても……飛びたくて。あのときの夜空の感じが忘れられないんだ。いや、忘れたくないんだ」

 川崎さんの指先が震えていた。
その手で、ポケットからエメラルドグリーンの液体が入ったガラスの小瓶を出した。
「舞衣ちゃん、もし俺が途中で、違う場所に行きたくなったら止めてくれる?」

(違う場所?止める? )

そう聞き返そうとしたとき、川崎さんはやわらかく笑った。
「・・・いや・・・やっぱり、一緒に飛ぼう」
瓶の蓋が、静かに外れる音。甘い匂いが、ふたりを包んだ。

 舞衣は覚悟を決めた。
たとえこの先、何が起こっても。今夜だけは、この人と空を飛びたい。
瓶の中のエメラルドグリーンの液体を飲み干した瞬間、世界がまたぐにゃりとねじれた。
舞衣の身体は、ふわりと軽くなる。
骨が溶け、髪が翅に変わり、皮膚が光の粒に砕ける感覚。

 目の前で、川崎さんも同じように変わっていた。
黒と金の光をまとった、大きな蝶、オオゴマダラ。
そして舞衣自身は、翅の中心にエメラルドグリーンを宿した美しい蝶、エメラルドアゲハ。

 ふたりは、夜の屋上からふわりと飛び立った。
雨上がりの都市が、眼下に広がる。
ビル群のガラスは雨で濡れ、ネオンの光を滲ませていた。
街全体が水面のようにゆらめいている。
光る電車が川のように流れ、車のテールランプは、赤い星座を描いていた。

 舞衣は翅ばたきながら、川崎さんの蝶の影を追った。
風にのって、ふたりはビルとビルの間をすり抜けていった。
風がふわりと翅を押し上げた。

 見上げれば、滲んだ月が、ビルの影の向こうに浮かんでいた。
ネオンの川を渡り、やがて、街の端にある静かな川沿いへとたどり着いた。
川の水面は黒く、そこに白く濁った月が映っている。
ふたりの翅が、その月にふわりと重なる。
水の音、かすかな翅音。この世界には、それだけしかなかった。

 舞衣は、胸の奥から溢れてくるものを感じていた。
ふたりの翅は、静かにそっと重なり、夜の海を渡るように、漂い始めた。
ここには、もう言葉も痛みもない。ただ、ふたりの翅の震えだけがあった。

(ああ、これだ。これが、生きているっていうことだ)

 だが、そのときだった。
隣を飛ぶ川崎さんの蝶が、ふと、飛び方を乱した。ぐらり、と。
重力に引かれるように、ひと呼吸、落ちかけた。
すぐに持ち直したが、川崎さんの翅の色がわずかに黒ずんでいる。

舞衣は驚いて、川崎さんの蝶に近づいた。
だが、川崎さんはなにもなかったかのように、また静かに翅ばたき始めた。

(・・・いまの、なに?)

 不安が胸をかすめたが、舞衣は翅を動かし続けた。
今は、まだ。今だけは、ただただ、飛びたかった。
ふたりの蝶は、黒い川の上を、ゆっくりと流れるように進んでいった。
夜空は静かで、遠くの方で、どこか別の世界から、かすかに翅の音が聞こえている気がした。それは、祝福か。それとも、呼び声か。まだ、舞衣にはわからなかった。

 黒い川の上を、ふたりの蝶はしばらく漂っていた。
しかし、やがて、翅の動きが重くなってくる。
甘やかな自由な時間、それが、静かに終わろうとしていた。

 舞衣は、川崎さんの蝶が、また小さくふらつくのを見た。
さっきより、もっと顕著だった。
まるで、風をつかむ感覚を失っているかのように。

(もう、戻らないと)

 そう思った瞬間、世界が、ふたたびぐにゃりとねじれた。
気がつくと、舞衣は屋上に戻っていた。
雨に濡れたコンクリートの匂い、遠くの車の音。
人間の姿に戻った自分が、膝をついて呼吸を整えていた。
隣には、川崎さんもいた。だが、川崎さんの様子がおかしかった。
彼はうずくまり、背中を押さえていた。

「川崎さん・・・」

呼びかけると、彼はゆっくり顔を上げた。
その瞳が、かすかに黒く、光を呑みこんでいた。
まるで、人間の目ではないように。
昆虫の複眼のように、すべてを反射して、しかもなにも映していない。

「・・・ごめん。ちょっと、ふらついただけ」

そう言って、川崎さんは無理に笑った。
けれどその笑顔は、ほんのわずか、ずれていた。
音のない隙間に、翅の震えるような音が重なった気がした。
舞衣は背筋に冷たいものを感じた。

(・・・もう川崎さんは、もう半分あっち側にいるんだ)

でも、口には出せなかった。夜空を見上げると、月が滲み、かげっていた。

川崎さんは、月を見上げながら言った。

「・・・なぁ、舞衣ちゃん」
「はい」
「また・・・飛ぼうな」

その声は、とても優しかった。
でもその奥に、どこか、帰れない場所を見ているような響きがあった。
舞衣は小さく、でもはっきりとうなずいた。

(私も3回目を、迎える)

 副作用が待っているとわかっていても。
川崎さんが待っているなら、あの空が、まだあるなら。翅を、また広げる。
それが、たとえ人間ではなくなっていく道だとしても。

 変態が解け、屋上に降り立った夜から、何日かが過ぎた。
街はいつも通り、忙しなく、無表情に回っていた。
通勤電車の揺れ、オフィスの乾いた空気、誰かの作り笑い。
それらすべてが、どこか遠い国の出来事のように感じられる。
舞衣自身も、少しずつ何かが変わり始めていた。
けれど、もっと明確に変わったのは川崎さんだった。

 ある昼休み、川崎さんは珍しく舞衣を食堂に誘った。
席に着くと、いつものように冗談を交わす。
けれど、その笑い方がどこか空虚だった。
まるで、正しいタイミングを機械的に再現しているだけのような。

「最近さ、変わったよな、いろいろ」
ふいに川崎さんが言った。
「まあ・・・そうですね」
舞衣は答えながらも、どこか居心地の悪さを感じていた。

 彼の目が、どこか焦点を結んでいない。
舞衣を見ているはずなのに、その奥では、まったく別の景色を見ている。
「舞衣ちゃんさ、また飛びたいって思う?」
唐突に、聞かれた。
「もちろん・・・思います」
舞衣は素直に答えた。

 飛びたい。けれど、同時に怖い。
現実からどんどん遠ざかっていく感覚が、確かにある。
だけど、川崎さんは違った。
彼はまるで、現実をすでに捨てた人みたいだった。

「そっか・・・よかった」

川崎さんは、心から安心したように微笑んだ。
まるで、飛ぶこと以外に、何も大切なものがないかのように。

(私は・・・まだ、人間として生きたい気持ちも、残ってる・・・)

けれど、その想いを言葉にはできなかった。
言ったところで、川崎さんにはもう届かない気がした。

 昼休みが終わった。
ふたりは、何事もなかったように席を立つ。
けれど、背を向けた川崎さんの後ろ姿は、以前よりも、ひとまわり小さく、そして、どこか透明になっているように見えた。
まるで、この現実世界から少しずつ翅を広げて離れかけている蝶のように。舞衣は胸を押さえた。

(もうすぐ、私も・・・)

昼の喧騒の中、小さな翅音だけが耳の奥で鳴り続けていた。

 翌朝、会社に出勤すると、空気がわずかにざわついていた。
川崎さんの姿が見えなかった。
「体調不良なんじゃないかって」
隣の席の同僚が、スマホを見ながらそう呟いた。

(体調不良・・・そんな、簡単な言葉で片付けられるものなのだろうか?)

 舞衣は、胸の奥に冷たいものを感じた。
昼になっても、川崎さんからは何の連絡もなかった。
不安が、濃い霧のように心を満たしていく。

(何かあったんだ)

 舞衣は半休届を書き、上司に小さく頭を下げて会社を出た。
向かった先は、川崎さんがひとり暮らしているマンションだった。
インターホンを押しても、応答はない。何度か呼びかけてみた。
廊下に面している窓に、暗い部屋の奥で、何かが動いている影が映った。
それは、まるで翅を持つ生き物のように、ふわりと、重たく揺れた。

(川崎さん?)

 舞衣はドアノブを握った。
鍵はかかっていなかった。恐る恐るドアを押し開ける。

 部屋の中は、重い湿気と乾いた花のような匂いに満ちていた。
カーテンは閉めきられ、光はほとんど差し込んでいない。
リビングのテーブルの上に、見覚えのある小さなガラス瓶が3本転がっていた。

 リビングの奥、窓際に彼はいた。
だが、その姿は、舞衣の知っている彼ではなかった。
肌は青白く透け、両手の指先は、かすかに黒く変色している。
何よりも彼の背中から、小さな翅の芽が、確かに伸び始めていた。
舞衣は息を呑んだ。

「・・・川崎さん」

呼びかけると、川崎さんはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、かつて見たことのないほどに、深く、黒く沈んでいた。

「・・ま・・・ちゃん・・・」

かすれた声が、舞衣を呼んだ。
その声には、まだ、わずかに人間の温度が残っていた。
けれど、それがどれほど長くもつのか、誰にもわからなかった。

 川崎さんを見つけたその足で、舞衣は変態倶楽部へと向かった。
雨の匂いが残る路地裏。
あの木の看板は、以前よりも朽ちて、ほとんど字も読めなくなっていた。

 扉を押し開けると、薄暗い空気と薬品の匂いが、すぐに包み込んできた。
カウンターの奥では、老婆が静かに舞衣を見ていた。

「来たんだね」
老婆の声は、まるで最初から予想していたかのようだった。

 舞衣は、躊躇しながら口を開く。
「川崎さんが・・・変わりかけています。どうすれば、元に戻せますか?」
老婆は深く、長いため息をついた。
「もう無理だよ」
その答えは、あまりにもあっけなかった。舞衣は言葉を失った。

「一度翅を持った者は、人間の時間から外れてしまう。無理に戻そうとすれば、身体が耐えきれず、壊れるだけだよ」
老婆は、乾いた笑みを浮かべた。
「そもそも、ここに来た時点で、あんたたちは戻らない選択をしてるんだよ」
舞衣の胸が締めつけられた。

(そんな・・・そんなの、聞いてない)

 足元がぐらりと揺れる。
老婆は、カウンターの下から、あのエメラルドグリーンの液体が入ったガラスの小瓶を取り出した。

「3回目。・・・飲めば、あんたも彼のところに行けるよ。同じ高さで、同じ空をまた飛べる」
静かに、舞衣の前に瓶が置かれる。
美しいエメラルドグリーンの液体。あの夜、自由をくれた魔法。
でも、今は違う。舞衣の手は震えたまま動かなかった。

(飲めば、私も・・・。でも、もう人間には戻れないかもしれない、川崎さんみたいに・・・)

 ぐるぐると渦巻く恐怖と哀しみが、舞衣の手足を縛り付ける。
「怖いんだね」
老婆の声は、どこか優しかった。
「それが、最後の理性だよ」

 どのくらいの時が過ぎただろう。
覚悟はできた。舞衣は、震えながら手を伸ばした。
ガラスの小瓶をジャケットのポケットに素早く突っ込み、変態倶楽部を後にした。

 雨が、また降り出していた。
薄い翅のように、地面に水が滲みていく。
どこか遠くで、翅ばたきの音だけが、かすかに聞こえた気がした。

 どこをどう歩いたのか覚えていない。
夜の路地を、舞衣はひとり歩いていた。
雨はもう止んでいたが、空気はまだ湿って重たかった。
街灯の下、アスファルトが鈍く光っている。
ポケットの中で、小さなガラス瓶が冷たく震えている。
変態倶楽部でもらった小さなガラス瓶をポケットの中で握りしめた。

 店を出るとき、老婆はこう言った。
「3回目を越えた者は、人間の記憶を忘れていく。それでも、飛びたいなら、行きなさい」
舞衣は、うなずいた。
そして今、ここにいる。でも心は少し怖れていた。

 けれど、それ以上に、あの空を、あの感覚を、もう一度だけ味わいたかった。そして、川崎さんに会いたかった。
蝶になって、ふたたび、彼と並んで飛びたい。
それが、たとえ、戻れない道だったとしても。

 舞衣は雑居ビルの屋上へと向かった。
そこは、かつて川崎さんと飛び立った場所。
夜空は曇っていたが、わずかに、月の光が滲んでいた。
舞衣は、手の中のガラスの小瓶を見つめる。

 翅を持つこと。人間のままではいられなくなること。
すべてを知ったうえで、それでも、望んでしまう。
震える指で蓋を開けた。
甘い匂いが鼻をくすぐる。そして、一息に、飲み干した。

 世界が、またぐにゃりとねじれた。
骨が溶け、身体が軽くなる。翅が、舞衣の背中から生まれる。
今までよりもずっと強く、鮮やかに。

 夜風を受けて、エメラルドグリーンの蝶、エネラルドアゲハが、ふわりと舞い上がった。
ビルの谷間を抜け、黒い川を越え、舞衣は夜の空を舞った。
飛ぶたびに、心がどんどん自由になっていく。
重かった恐れも、過去も、名前さえも、すべて翅音の中に溶けていく。

 そして闇の中に、ひときわ輝く翅を見つけた。
金と黒の模様をまとった、川崎さんの蝶。オオゴマダラ。
彼も、ここにいた。

 ふたりは、言葉もなく、ただ翅を重ね、夜を舞った。
この瞬間だけは、何も怖くなかった。
川崎さんの存在が、世界のすべてだった。

 だが、その幸福のただ中で、舞衣は、ふと、奇妙なことに気づいた。
川崎さんの翅が、わずかに、破れかけている。光を失い、生気はない。
そして、その破れた翅の奥から、何か、別のもの、蝶とは違う、もっと異質な何かが、蠢いているように見えた。
舞衣は、風の中で小さく震えた。
でも、それでも。今だけは。今だけは、彼と。
そう願いながら、舞衣は、川崎さんのそばを離れなかった。

 夜空に、ふたりの蝶の翅が、静かに重なって、消えていった。
夜の街は、遠い夢のようだった。
ビルの灯りも、車のテールランプも、すべて水に滲んだ絵の具のように揺れていた。

 ふたりの蝶は、静かに、夜空を漂っていた。
エメラルドグリーンの翅と、黒と金の翅。
ゆっくりと、重なるように、並んで。
言葉はもういらなかった。目も、耳も、必要なかった。
ただ、風に溶けるように、互いの存在だけを感じていた。

 どれほど飛んだのだろう。
ふと、川崎さんの蝶が、翼をたたんだ。
それは、合図だった。

(もう、時間だ)

舞衣も、静かに翅ばたきをやめた。
風が、ふたりを導く。
どこまでも高く、どこまでも透明な空へ。そして、ふと気づいた。

 目の前に、開かれた扉があった。
古びた、木の扉。そこから、淡い光が漏れている。
ふたりは、躊躇なくその中へ飛び込んだ。
扉の先は、静かな静かな部屋だった。
高い天井。埃をかぶった木製の家具。壁一面に飾られた、無数の翅。

翅。翅。翅。

 そこにいるのは、かつて飛んだものたちの、最後のかたちだった。
ふたりは、部屋の中央に降り立った。
そこで待っていたのは、老婆だった。変態倶楽部の、あの老婆。
けれど、今はもう、顔も、声も、朧だった。

 老婆は静かに手を差し伸べた。

「おかえり」

その声は、雨上がりの風のように、優しかった。
川崎さんの翅が、かすかに震えた。舞衣も、そっと震えた。
互いに、最後の確かな感触を確かめるように。
ふたりの翅が、そっと触れ合った。

 その瞬間。ふたりの身体は、光の粒になってほどけ、次第に、ひとつの標本へと変わっていった。
古い額縁に収められた、エメラルドグリーンと黒金の翅。
二枚の翅は、重なり、寄り添い、そして、永遠に、静かに、そこに残された。誰も来ない、誰も知らない部屋の中で。
ふたりの願いは、永久に、ひらりと、震えるように、そこに、あった。
 老婆は、「翅の記憶」と古い額縁にラベルで書き添え、棚に置いた。


 扉の外で、小さな鈴の音が鳴った。カラン、カラン。
古びた変態倶楽部の木の扉が、ゆっくりと開かれる。
そこに立っていたのは、また別の誰か。顔も、名前も、知らない誰か。

けれど、その瞳には、どこか舞衣に似た、飛びたいという渇望が宿っていた。老婆は静かに立ち上がる。

「あんた、何になりたいの?」

 その声は、まるで、また新しい翅を迎えるための儀式のように、ゆっくりと空気に溶けた。

変態倶楽部の夜は、まだ、終わらない。




この物語は、『変態倶楽部』シリーズの一部です。
続編~翅を捨てた日~ 二部はこちら。

どちらも一話完結となっています。


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