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短編小説『変態倶楽部』~翅を捨てた日~

 これは、恋と復讐の果てに、理性の皮を脱ぎ捨てた女の静かな狂気の記録。

一部『翅の記憶』が願いなら、
この二部『翅を捨てた日』は、選び取った本能。

どちらも一話完結となっています。

_______________________________

 
 貴理子は、樹のことを疑ったことはなかった。
それは、二人の出会いがあまりにも自然で、必然にさえ思えたからだ。

 大学時代、サークルの飲み会で隣に座ったのが、樹だった。
静かで、派手さのない人だったが、貴理子の何気ない愚痴にも、ただ黙って耳を傾けてくれる人だった。

 気づけば、自然とそばにいるようになり、特別な言葉も派手な告白もないまま、互いに恋人になった。

 あれから、もう7年。
互いの生活に溶け込み、家族よりも長くそばにいる存在になっていた。
だからこそ、貴理子は樹を疑うという発想すら持たなかった。

 少しずつ気になることが増えても、週末に会えない日が続いても、深夜に鳴るメッセージの通知音にも、
(仕事が忙しいのだろう)
(私の気にしすぎだ)
そうやって、自分を誤魔化し続けていた。

 でも本当は、どこかでわかっていた。
怖かっただけだ。この日々が、手のひらから零れ落ちてしまうことが。

 樹の横顔を見つめながら
(どうか、裏切っていませんように)
と、貴理子は心の中で何度も祈った。

 けれど、現実は残酷だった。
偶然、スマートフォンの画面を見てしまった。
そこには、知らない誰かとの甘く熱のこもった「愛してる」の文字。

 目の前が、真っ白になった。
呼吸も、涙も、何もかも忘れた。
問い詰めることもできず、ただ、ただ、待った。

 そして、迎えた夜。
樹は、どこか申し訳なさそうな顔で告げた。
「・・・ごめん。やっぱり、アイツの方が大事なんだ」
その一言で、貴理子の7年間は静かに音を立てて崩れた。
世界は、音を失った。だが、裏切りはそれだけではなかった。

 会社でも、貴理子の居場所は奪われつつあった。
貴理子が時間をかけて育ててきた後輩社員が、いつの間にか上司たちに取り入り、貴理子の成果を横取りしていた。

 気づいたときには、重要なプロジェクトから外され、部署の空気も、どこか冷たく変わっていた。
何が悪かったのか、貴理子にはわからなかった。
後輩に問いただすこともできず、ただ、すべてを奪われていく感覚だけがあった。

(・・・もう、誰も、味方なんかいない)

 そう思ったとき、胸の奥で何かがぽっきりと音を立てて折れた気がした。
恋人にも、職場にも居場所を失った貴理子は、何も考えられないまま、夜の街へと歩き出していた。

 夜の街は、容赦なく冷たかった。
行くあてもないまま、貴理子は街灯の下を、歩道の端を、ふらふらと歩き続けた。家に帰る気にはなれなかった。誰とも話したくなかった。

(このまま、どこか遠くへ消えてしまえればいいのに・・・)

 そんなことを、ぼんやりと思った。
道行く人々の笑い声が、遠くの世界の音のように響いていた。
カップルたちが肩を寄せ合い、会社帰りのグループが酔って笑い合う。
そのすべてが、貴理子には眩しすぎた。
疎ましかった。憎らしかった。もう、ここにいたくない。

 気づけば、人通りの絶えた路地裏へと足が向かっていた。
暗く、湿った空気。ビルの間を吹き抜ける、冷たい風。
その先に、ひっそりと佇む建物があった。

 外壁はひび割れ、細い路地の入口、剥がれかけた木製の壁に、釘で無理やり留めたような看板。

 ー変態倶楽部ー

赤いマジックで書かれた文字。看板の下に小さく添えられた説明が、月明かりにかすかに浮かび上がっていた。

“変態とは、成虫と幼虫を持つ生命の神秘です
ここでは1時間だけ、あなたもその神秘の一部になれます”

 意味がよくわからなかった。
でも、貴理子は、一歩、また一歩と近づいた。
頭はもう、何も考えていなかった。
ただ、このどうしようもない絶望を、どこかへ置き去りにしたかった。

 ギィィ、重たい音を立てて、扉を押し開ける。

 中は薄暗く、薬局のような、でもどこか理科室のような匂いがした。
奥から現れたのは、翅の模様の古びた着物を着た老婆。
乾いた枝のような手、古びた琥珀色の目。
貴理子をじっと、見つめている。

 老婆は口元をわずかに歪め、低く、かすれた声で問いかけた。

「あんた、変わりたいのかい?」

貴理子は言葉にならない声で喉を震わせた。
そして、かすかに、頷いた。

 老婆は、満足げに小さな笑みを浮かべると、カウンターの下から、ガラスの小瓶を取り出した。
翡翠色に濁った液体が、瓶の中でわずかに揺れている。

「カマキリだよ。強く、美しく、生きるために喰らう。今のあんたに、ぴったりだ」

 老婆はそう言って、小瓶を差し出した。
貴理子には、迷いも、恐れもなかった。
ただ、静かに手を伸ばし、その瓶を掌に受け取った。
それは、まるで、もともとそこにあったものを取り戻すかのような、自然な動作だった。

 冷たいガラスの感触。

「死にやしない、いいから飲んでごらん」
もうどうでもよかった。
貴理子は、小瓶の蓋を外し、一気に、それを飲み干した。
液体は思ったよりも甘かった。

 それが喉を通った瞬間、世界がぐにゃりとねじれた。
足の感覚が消え、視界が広がっていく。
髪が抜け落ち、貴理子の内臓が裏返るような激痛が走った。

 息が詰まり、膝から崩れ落ちる。
口を開けても、声にならない。
喉の奥で、獣のような呻き声が漏れた。
骨がきしむ音が、身体の内側から響く。
関節が歪み、肉が張り裂ける感覚。指先は細長く伸び、皮膚の下で何か硬質なものが形を変えていく。

(・・・い、いたい・・・痛いのに、心のどこかが歓喜している)

 血の一滴一滴にまで、力が満ちていくのがわかる。
人間としての脆さ、弱さ、温もり・・・。
そんなものは、今この瞬間に剥ぎ取られていく。

 背中が破れる感覚。
そこから、薄く硬質な翅が生まれる。
呼吸をするたび、翅が震え、空気を裂くような音を立てた。
視界が、異様に鮮明になる。
暗がりの中の埃一粒すら、はっきりと立体的に見える。
視野が広がった。それも360度。

 床に手・・・いや、すでにそれは鋭く変化した前脚をつき、貴理子はゆっくりと立ち上がった。痛みが、ふと途切れた。

 まるで嵐が過ぎ去ったあとの、静かな夜の海のような、静謐な沈黙が、貴理子を包み込んだ。
身体は、完全に作り変えられていた。
翅は静かに脈打ち、長くしなやかな前脚は、わずかな光を反射して艶めいている。外骨格に覆われた肢体は、冷たく、しなやかで、もはや人間だった頃の柔らかな温もりはどこにもなかった。

 貴理子は、ゆっくりと立ち上がった。足取りは、軽かった。
いや、軽いというより、研ぎ澄まされていた。
余分なものが、すべて削ぎ落とされた感覚。
無駄な情愛も、甘い期待も、痛みも、すべてが、どこか遠い世界の出来事のようだった。

 無造作に壁に立てかけてある標本箱のガラスに、改めて自らの姿が映る。
細く、鋭く、美しい・・・そして、容赦なく生きるためだけに作られた姿。
かつての貴理子の面影は、もう、全く残っていない。

(これが、私?)

 それでも、貴理子は自分の姿から目をそらさなかった。
見つめた。確かめた。そして・・・受け入れた。
かつて夢見た「愛される未来」も、信じた「優しい世界」も、とうに終わった。
これからは、自分の欲望だけに従って生きる。
愛さなくていい。信じなくていい。ただ、生きる。

 誰にも縛られず、誰にも裏切られず、孤独と力だけを抱いて。
貴理子は、ひとつ、息を吐いた。
それは、かつて誰かに許されたいと願った少女が、最後に吐いた、儚い祈りのようだった。

 時間の感覚が、消えた。
貴理子は、ただそこにいた。
鋭く変わった前脚が、わずかな空気の流れを捉える。
背中にたたまれた翅が、かすかに震え、空間の微かな振動を感じ取る。
音も、匂いも、すべてが鮮明だった。

 壁を這う小さな虫の羽音、床を流れる冷たい空気の匂い、老婆がわずかに動かす指先の音。それらすべてが輪郭を持って押し寄せた。

 貴理子は、ゆっくりと前脚を持ち上げる。
その動きには、無駄がなかった。
獲物を仕留めるためだけに磨かれた、研ぎ澄まされた動き。
本能が告げる。

・・・生きろ。
・・・奪え。
・・・躊躇うな。

 愛も、痛みも、希望も、すべてが遠ざかっていく。
人間だった頃の貴理子は、確かにそこにいたはずなのに、今はもう、声も姿も、思い出せなかった。

 翅を震わせながら、貴理子は静かに空気を裂いた。
誰もいない闇の中で、孤独な狩人として、ただ、生存の喜びだけを胸に抱いて。

(・・・これが、本当の私なの)

心の奥で、かすかにそう囁く声があった。

 どれほどの時間が経ったのか、わからなかった。
夜が明けたのか、それともまだ夜のままなのか。
ただ、この鋭敏な肉体と、濁りなき生存本能だけが、確かに貴理子を貴理子たらしめていた。

 衝動のように、貴理子は跳び上がった。
ほとんど無意識の行動だった。
軽やかに宙を蹴り、次の瞬間、老婆の肩に、音もなく着地した。
老婆は、何の驚きも見せなかった。
ただ、肩に止まった小さな異形を、薄く目を細めて見た。

「かわいい子」

老婆の声は、かすかに笑みを含んでいた。
貴理子は、翅を小さく震わせながら、老婆の首筋から漂う温かな匂いを感じていた。

 不思議だった。
恐れも、憎しみも、もはや感じなかった。
あるのは、生きるために必要な、鋭い感覚だけ。
老婆は、そっと手を伸ばし、貴理子を傷つけないように、優しく指先で肩を叩いた。

「ほら、そろそろ、自分の足で立ちな」

 その声に導かれるように、貴理子は、翅を一度だけ鳴らし、再び軽やかに跳び下りた。闇の中に、微かな翅音が消えていった。

 やがて、皮膚の下で、何かが引き戻されるような感覚が走る。
肉体が、静かに、人間の形に戻り始めた。
骨が収まり、翅が背中に吸い込まれ、前脚が指へと形を変えていく。
痛みはなかった。

 ただ、不自然な違和感だけが、貴理子の内側にじんわりと広がった。
変態は、終わった。

 かつての貴理子は、もうどこにもいなかった。
変態の苦痛と快楽の果てに、仮の人間の姿へと戻った貴理子を、老婆はじっと見つめていた。

「驚いたかい。りっぱに変わったねぇ」

乾いた声が、静かに響く。
老婆はゆっくりと腰を上げると、カウンターの奥、暗がりに続く扉の前に立った。

「だが、忘れるんじゃないよ」

ギィィ、と鈍い音を立てて、老婆が扉をわずかに押し開ける。
そこから漏れ出したのは、重たい濁った空気だった。

 そして、・・・闇の中にうごめく、無数の”ものたち”の姿。
彼らは、もはや人間とは呼べなかった。

 硬く歪んだ肢体、異様に発達した翅や脚、剥き出しになった眼。
虫とも人ともつかない異形たちが、暗闇の中で身をくねらせ、微かに蠢いていた。低く唸るような声が、奥から響いてくる。
それは、かつて人間だった何かたちが、意思も言葉も失って、ただ存在だけを続けている音だった。

 老婆は、扉を開いたまま、静かに言った。

「変態は、力をくれる。けれど、その代わりに、少しずつ人間だったものを失っていく。心も、記憶も、言葉さえも」

 老婆の目が、鋭く光る。

「ここにいるのは、変態を重ねすぎた者たちさ。生きるために変わり続け、やがて、自分が何だったかすら忘れ、こうして・・・”ただのもの”になった」

 貴理子は、奥の闇を見つめた。
蠢く影たちを。もはや愛も痛みも知らぬ、ただ生存するだけの存在を。

(これが、私の行く先なの?)

 不思議と、怖くはなかった。
ただ、遥か遠くに見える地平線のように、その未来を静かに受け止めた。
老婆は、再び扉を閉めた。
闇が消えると、店内の空気はまた、重く湿った静寂に包まれた。
老婆は言う。

「それでも進みたいなら・・・好きにしな」

言葉に棘はない。
ただ、事実だけを突きつける声。
貴理子は、ゆっくりと目を閉じた。深く、静かに息を吸い込む。

 老婆は、ガラスの小瓶2本を貴理子に手渡しながら、ふっと小さな息を吐いた。

「・・・ひとつ、教えとこうかね」

 貴理子は、ガラス瓶の中の翡翠色を見つめながら、黙って耳を傾けた。
老婆は、ゆっくりと言葉を継いだ。

「変態したあと、どうしても腹が減ることがある。そのとき・・・虫だったら虫らしく、生きたもんやら、肉やら、本能で喰いたくなるかもしれない」

老婆は、軽く肩をすくめる。

「だけどね、それをやっちまったら、もう人間には戻れないよ。仮の姿をまとって、また元の世界を歩くことも、できなくなる。完全に向こう側の生き物になるんだよ」

老婆は、目尻に細かな皺を寄せて、少しだけ優しげに微笑んだ。

「怖がることはないさ。それもまた、ひとつの生き方だ。でも・・・選ぶのは、あんただよ。あんた自身なんだ。それだけは忘れるんじゃないよ」

 老婆は、貴理子をじっと見つめた。
その目には、脅すでも、慰めるでもない、ただ、すべてを受け入れた者だけが持つ静かな光が宿っていた。

 貴理子は、静かに頷づき、ガラスの小瓶をポケット入れた。
そして、扉の方へと向かう。
錆びた蝶番が、かすかな音を立てた。
夜の街は、冷たい空気に沈んでいた。
誰も待っていない、誰も迎えてくれない世界。
それでも、貴理子は迷わなかった。

仮初の人間の姿の下に、獰猛な異形を抱いて。
喰らうために。
生きるために。
自ら選び取った道を、ただ歩くだけだった。

 夜の街に出た貴理子は、しばらく人気のない道を、風のように歩いた。
顔を上げると、無数のネオンが滲んで見えた。
そのどれもが、かつての貴理子には眩しかったはずなのに、今はただ、遠い光の塊にしか見えなかった。

 人間たちは笑い、叫び、愛を語り、裏切り、何も知らずに生きていた。
貴理子は、ポケットの中のスマートフォンを取り出した。
薄暗い画面に、かつて登録していた樹のSNSアカウントを開く。

 樹は、隠すことなく日常を切り取って投稿していた。
新しい女との写真。職場での飲み会。休日の小旅行。
そこには、貴理子が7年間かけて積み上げたものなど、一片の影も残っていなかった。

 貴理子は無表情で画面をスクロールした。
胸の奥に、鈍い痛みがかすかに走ったが、すぐにそれもどこかへ消えた。

・・・探すのは、場所と時間だけ。

 もはや、感情はいらない。
貴理子は、樹が今夜、街の中心部にある小さなバーで飲んでいることを知る。
すべてが手の中にある。
自分の姿も、声も、態度も、仮の人間のままなら、樹には気づかれない。

・・・獲物に、近づく。それだけのことだった。

 貴理子は、スマートフォンを静かにポケットへ戻す。
仮面を整え、小さく呼吸を整える。
顔には、かつての貴理子の面影がまだ残っている。
だが、微笑んでも、そこに温もりはなかった。

 貴理子は、人気のない路地裏へと足を踏み入れた。
薄暗い非常階段の影に身を潜める。
誰もいない。誰も、彼女を見る者はいない。
深く息を吸い込むと、貴理子は、静かに瞼を閉じた。

・・・本当の自分に、戻る。

 身体の奥に潜んでいたものが、目を覚ます。
皮膚の下から、硬質な殻が押し出され、指先が、腕が、脚が、異形へと変わっていく。
翅が背中から現れ、細く鋭利な脚が、闇の中でかすかに光を反射する。

 変態は、もはや苦痛ではなかった。
貴理子は、自然な動きで壁を蹴り、音もなく空へと舞い上がった。
冷たい夜風が、翅の間をすり抜ける。
高く、高く。ビルの屋上を越え、街の明かりの海を見下ろす高さまで。
夜の街は、ネオンの花が咲き乱れていた。
人々は笑い、叫び、愛を囁き、裏切り、何も知らずに生きていた。

 貴理子の目が、ひとつのバーに留まった。
そこにいた。
大きなガラス窓の向こう、樹が、新しい女と並んで笑っていた。
グラスを交わし、肩を寄せ合い、何の迷いもなく、未来を語り合っている。
かつて貴理子に見せたことのない、無邪気な笑顔を浮かべて。

 貴理子は、小さな翅を震わせながら、じっとその様子を見下ろしていた。
怒りも、悲しみも、もうなかった。
ただ、それは獲物だった。

・・・もうすぐ、喰らう。

 貴理子の心には、もはやそれだけしかなかった。
冷静に、静かに、彼らの動きを観察する。
どのタイミングで接触すればいいか、どんな表情で近づけばいいか、完璧に計算する。獲物に気づかれることなく、最も脆い瞬間を見極めるために。

・・・もう、私は愛されることを望まない。
・・・ただ、生きるために、喰らうだけ。

 貴理子は、翅を震わせ、ひとつ息を吐いた。
そして、静かに地上へと降り立った。闇の中で、仮初の人間の姿を取り戻す。

 再び、やわらかな皮膚と髪をまとい、柔らかな仮面をかぶる。
だが、その内側には、鋭く研ぎ澄まされた異形の本能が脈打っていた。

・・・獲物に、近づく。

微笑みながら。
愛しそうに見せながら。
すべてを奪うために。

 貴理子は、人気のない路地裏で変態を始めた。
骨がきしみ、皮膚が裂け、かつての身体は、あっという間に別の形へと変わっていく。

 そして、偶然を装って、バーの扉を押し開けた。
樹は、すぐには気づかなかった。
彼は新しい女と向かい合い、きっと何かくだらない冗談を言っているのだろう。軽く笑い合っていた。

 貴理子はわざと少し遠回りして、カウンターの隅に腰を下ろした。
軽く、髪を耳にかける仕草。
ゆっくりとグラスを持ち上げる指先。
目に入るように。自然に、樹の意識をこちらに向かせるように。

 数分後、樹がふとこちらに視線を向けた。
そして気づいた。貴理子だ、と。一瞬、驚いた顔。
それから、どこか気まずそうに微笑む。
新しい女が、樹の様子に首をかしげる。
貴理子は、微笑返した。
ごく自然な、何も知らない人間のふりで。

 樹が、席を立った。
ためらいながら貴理子に近づいてくる。
「・・・久しぶり」
懐かしさを隠し切れない声。
同時に、どこか罪悪感の滲む声音。
貴理子は、柔らかく笑った。

「うん、偶然だね」

声は震えていなかった。
表情も自然だった。
ただ、その胸の奥では、翅のようなものがかすかに脈打っていた。

(気づいてない、この仮面の下に何がいるのか、ふっ)

樹は、しばらく迷ったあと
「ねぇ、少しだけ、話す?」
と誘った。貴理子はゆっくり頷いた。

 樹は、あの女の方に戻り、女に何か耳打ちした。
「ちょっとだけだから」
と手を振ると、女はちょっと怪訝そうな顔でバーを出て行った。

 カウンターの隅。
ほの暗い照明の下、貴理子と樹は並んで座った。
静かなジャズが、店内に漂う。

樹は、グラスを弄びながら言った。
「・・・なんか、変な感じだな。こんなふうにまた会うなんて」
貴理子は、微笑みながらグラスの縁をなぞった。

「そうね。こんなに・・・世界が違って見えるなんてね」
樹は、気まずそうに笑った。
どこか、昔の空気を思い出しているようだった。

「元気・・・だったか?」
その言葉に、貴理子はふと目を伏せた。

「・・・うん。まあ、なんとかね」
かすかな寂しさを滲ませるように、わざと答える。
樹の表情に、わずかな罪悪感が浮かぶのが見えた。

(・・・もう少し)

 貴理子は、微笑みの下で静かに翅を震わせた。
樹は、さらにグラスを傾けた。

「・・・あの頃さ、悪かったなって、思ってるんだ」
ぽつりと、そんな言葉が落ちた。
貴理子は、グラスを置いた。
そっと、樹の目を見つめた。

「・・・本当に?」
声は柔らかかったが、その目の奥には冷たい光があった。
樹は、視線を逸らした。
だが、完全に逃げることはできなかった。

「本当に、悪かったと思ってるよ。でも・・・時間ってさ、流れるだろ?」
言い訳めいた言葉。
自分を許してほしいと願う、かすかな甘え。
貴理子は、静かに笑った。

「うん、わかるよ」
声はやさしかった。
だが、その内側では・・・冷たく研ぎ澄まされた本能が、樹を喰らうタイミングを、冷静に見極めていた。

(・・・今だ)

 貴理子は、手を伸ばした。そっと、樹の手に触れる。
かつて何度も重ねた手。かつて愛した人間の手。
だが今、その温もりは何の意味も持たなかった。

「樹・・・少しだけ、外を歩かない?」
貴理子は、あどけない微笑みを浮かべた。
樹は、戸惑いながらも頷いた。

「・・・うん、まぁ、少しだけなら」
獲物は、自ら罠に足を踏み入れた。
貴理子は、カウンターに数枚の紙幣を置くと、何も言わずに立ち上がった。
夜の街へ。静かな狩りの場へ。

 夜の街は、ひどく静かだった。
二人は人気のない路地裏を歩いていた。
どこか、かつて一緒に帰った夜のことを思い出させるような、甘い錯覚を誘う道だった。

 樹は、貴理子の隣を歩きながら、懐かしげに笑っていた。

「なんか、変だよな。・・・また、こうして並んで歩いてるなんて」
貴理子は、微笑みを返した。
だが、その心には、何の波紋も広がらなかった。
彼女の内側では、静かに、確かに、狩りの本能だけが呼吸していた。

 足音が、コンクリートに吸い込まれていく。
誰もいない。誰も見ていない。貴理子は、ふと立ち止まった。

「ねえ、樹」
樹も足を止め、振り向く。
その瞳に、かすかな戸惑いと、どこかまだ彼女を信じようとする脆さが滲んでいた。

 貴理子は、にっこりと微笑んだ。
「今日は会えて、嬉しかった」

 二人は路地裏の奥の階段へと歩く。
誰の目にも触れない暗がりで、貴理子と樹は向かい合っていた。
微かな街灯の光が、二人の影を細く歪めていた。
貴理子は、樹より階段を一段登って、ゆっくりと手を伸ばした。
樹の頬に触れる。

 かつて、愛おしさを込めて撫でた手。
今は、冷たく、無機質な仮面を纏った指先。
樹は、不安げに笑った。
「お、おい、どうしたんだよ、貴理子」

 貴理子は、何も答えなかった。ためらいはなかった。
ただ、静かに微笑んだ。

 そして、唇を重ねた。
深く、優しく、すべてを包み込むように。
驚きで固まる樹の口の中へ、貴理子は密かに隠していた小さな翡翠色の液体を、そっと流し込んだ。
樹が驚きに身を引こうとしたときには、もう遅かった。
液体は、彼の喉奥へと滑り落ちていた。

「ゲッ、・・・ペッ・・・な、なにするんだよ!」

 樹は、ふらりとよろめいた。
声が震え、身体がぐにゃりと軋んだ。
骨が変形し、皮膚が引き攣れ、指が細く、異様に伸びていく。
樹は、恐怖に満ちた目で、貴理子を見た。

「い、いたい・・・た、すけ・・・」
だが、貴理子は、ただ静かに見つめていた。

 やがて、樹の身体は、手のひらほどの小さなカマキリへと変わり果てた。
翅を震わせ、細い脚で必死にもがく。
だが、それは、ただの小さな命だった。

 震える翅、細い脚。かつて愛した人間の影は、もうどこにもなかった。
貴理子は、その変わり果てた樹の姿を見下ろしながら、ポケットから、もうひとつのガラスの小瓶を取り出した。

 自らの手で、急いで蓋を開ける。
小さな翡翠色の液体を、一気に喉へ流し込む。
冷たい感覚が、胃の底に沈み、すぐに全身を支配していく。
痛みは、なかった。
ただ、静かに、確かに、人間という殻が剥がれ落ちていった。
指先が細く変わり、背中に翅が生え、柔らかな肉体は硬質な殻へと変態する。

 数分後、貴理子もまた、小さなカマキリへと姿を変えていた。
夜風が、翅を震わせる。
仮面も、言葉も、記憶も、すべてが薄れていく。
ただひとつ、残っていたのは、

・・・喰らえ。
・・・生きろ。

その本能だけだった。

 貴理子・・・いや、いまや異形となった存在は細い脚で樹へと近づいた。
小さなカマキリ同士、二匹はしばし向き合う。
樹・・・かつて樹だったものは、戸惑い、震え、しかし、もう言葉を持たなかった。

 貴理子は、翅を一度だけ震わせると、迷いなく、貴理子よりも小さいその細い身体に食らいついた。

 翅を、脚を、柔らかな肉を、静かに、確実に。
生きた命が、喉の奥に流れ込む。
それは、歓喜でも、哀しみでもなかった。
ただ、必要なことだった。

 すべてを終えた貴理子は、静かに空を仰いだ。
夜の闇は深く、どこまでも冷たかった。翅を震わせ、貴理子は音もなく飛び立った。

 誰にも気づかれず、誰にも知られず、ただ、生きるためだけに。
人間の世界を、完全に捨て去って。
かつて恋を知り、裏切られ、絶望した貴理子は、もうどこにもいなかった。
ただ一匹のカマキリとして、夜の闇へと、溶けていった。
誰にも、知られずに。

 誰も知らない裏通りの奥、ひとひらの翅が、静かに、夜風に流れていった。
やがてそれも消え、ただ、冷たい闇だけが残った。
その夜、誰ひとりとして、二匹のカマキリの存在なんて知らない。
いや知らなくてもいいこと。
誰も、何も気づかないまま、世界は、いつもの朝を迎えるだろう。

 夜の奥、喰らい終えた貴理子の小さな翅が、微かに震えた。
闇の向こう、変態倶楽部の扉の前で、老婆が静かに佇んでいた。

 老婆は、闇に溶け込むように貴理子を見下ろしていた。
そして、かすかに、口を開いた。

「・・・よく、射止めたね」

その声は、優しさでも、冷たさでもなかった。
ただ、この夜を、この孤独を、この生を、見届けた者だけが持つ、静かな確かさだった。

 老婆は、それ以上何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと背を向け、重たい扉の奥へと消えていった。

 貴理子は、ひとり、夜空へ跳び上がった。
誰にも知られず、誰にも縛られず、ただ、生きるために。

・・・すべてを射止めた翅を震わせながら。



観察するはずだったのに、感覚はゆっくりと崩れていく。

第一部が「願い」、第二部が「本能」。
第三部は・・・、気づけばもう戻れなかった。
第三部はこちらから、





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