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短編小説『変態倶楽部』~翅がはがれるとき~

観察者でいようとした者が、観察できないものに変わる。

一部『翅の記憶』は、願い、
二部『翅を捨てた日』は、選び取った本能、
三部『翅がはがれるとき』は、知覚の崩壊。

すべて一話完結となっていますが、三部は、一部、二部のどちらかを先に読んだほうが、内容がわかりやすいかと思います。

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 芹沢練は、その話を最初に耳にしたとき、鼻で笑った。

「翅が生える液体を飲むと、虫になって飛べるらしいよ。3回以上飲むと、人間に戻れないんだって」
研究室の同期が、昼休みの雑談のつもりで口にした言葉だった。

 練は苦笑しながらも、どこかでその響きに引っかかった。
現実的ではない。
「バカらしい。でも、よくできたストーリーだ。
変身、飛翔、限界。ちょっとした民話の三部構成だ」
ふ、練は鼻で笑った。

 練は、大学院で生物神経系研究科に所属している。
脳と神経の伝達機構を解明し、『感覚がどのように生成されるか』をテーマに論文を書いていた。

 そんな練にとって、都市伝説など非科学的なごっこ遊びに過ぎない。
だが同時に、その”ごっこ”がなぜ広まるのか?
なぜ人は“変身”を信じたがるのか?
急に調べたくなった。

 ネット検索すると、いくつかそれらしきブログ、SNSに辿り着いた。

「体験談ってことで聞いて、聞いて。
大学の時に酔っ払って都市伝説巡りとかしてたんだけど、
そのとき連れてかれた路地のボロビルで変な液体を飲まされた(笑)
今思うと、あれは何だったんだろう?
飲んだ瞬間に、床がなくなったみたいな感じがして、
世界が”浮いてる”みたいな?
翅音が耳の奥でずっと鳴ってて、
なんか、あたし、地面じゃなくて“匂い”で歩いてた。
もう一度行ってみたけど、あのボロビル、探しても見つからなかったよ。
あれは本当だったの?」

「またあの夢を見た。
変な液体を飲んで、翅が出て、でも途中で破れて落ちていく夢。
着物を着た店主が、不気味だったけど、なんだか優しかった。
一度しか行ってないのに、なんでこんなに感覚が残ってるの?」

「兄貴が、就職が決まった直後に失踪した。
誰にも何も言わずに消えた兄貴は病んでいたのか?
部屋から変なノートが出てきて、
”変態倶楽部の第三変態に注意”と書いてあった。
第三変態って、なに?
この地図はどこ?
選ばれし者しか見えない場所なのか?」

 内容は曖昧で、年代もばらばらだった。

液体。翅が生える。着物を着た店主。ボロビル。変態倶楽部。第三変態。

 練は、スマホにメモった。
調べれば調べるほど、話は現実の風景に近づいていった。
目撃談、場所を特定できそうな古地図、記憶の中にだけ残る建物の記録。

 そしてある日。
練は、都市伝説の検証者として、境界の扉を叩くために、特定した場所へ向かった。

 練が人形町に降り立ったのは、夜の10時を少し回ったころだった。
駅前の通りにはまだ灯が残り、居酒屋からは小さな笑い声が漏れていた。
けれど、少し脇道へ入れば空気は一変する。

 そこは東京であって東京ではないような、時間の折れ目だった。
表通りの華やかさのすぐ裏に、使われていない古い店舗や、なぜか取り壊されない小さなビルが点在している。

 練は、調べておいた手がかりをもとに、ある一画へと向かって行った。
細い路地を曲がると、そこにそれはあった。

 5階建ての古びたビル。
剥がれかけた木製の壁に、釘で無理やり留めたような看板。
赤いマジックで何か文字が書かれているが、読めなかった。

 練は、無意識に息を潜めた。

(ここだ)

 足が勝手にゆっくりと歩を止めた。扉の隙間から光が漏れている。
風がないのに、空気が微かに動いた気がした。
夜の東京は騒がしいはずなのに、ここだけが妙に沈黙している。
まるで、練の訪れを待っていたかのように。

 練は扉を開けようとしたが、開かなかった。
コン、コン、コン。
扉を叩く。音は、自分の胸の内まで響くようだった。

 数秒の沈黙ののち、扉の内側から、ゆっくりと鍵の外れる音がした。

ギィ。

扉が、ほんのわずかに開き、標本室で嗅いだことのある乾燥昆虫の粉塵のような匂いがした。

 中から現れたのは、背が曲がり、翅の模様の古びた着物を着た老婆だった。
灰色の髪、墨のように沈んだ目。
しかし、まなざしは鋭く、まるで誰かを待っていたかのようだった。

 老婆は練を見て、口元だけを動かした。
「・・・迷ったのかい?それとも、何かを捨てに来たのかい?」

練は、躊躇なく言った。
「都市伝説の検証です。変態とやらを、観察したいだけです」

老婆は、しばらく黙っていた。そして、静かにうなずいた。
「なるほど・・・なら、どうぞ。よく目を凝らして見るんだね。
目で見えるものが真実とは限らないからね」

 扉がゆっくりと開き、冷たい空気が練を包み込んだ。
彼が足を踏み入れたその部屋は、ただ乾いた翅音と、薬局のような、でもどこか理科室のような匂いがした。

 わずかに冷えた空気が頬を撫でた。
老婆は無言のまま、足音を立てずに奥へと進んでいく。
練も、それに続いた。

 足元は古い木の床。歩くたびにわずかに軋む音がした。
薄く黄ばんだ、朧げな灯りが天井からぼんやりと漏れていた。

 壁一面に、虫の標本のような額縁がずらりと並んでいる。
だがそれは昆虫ではなかった。どれも翅だけが残されたもの。
翅ばたくための筋肉も体もなく、ただ、宙に浮かんでいた記憶のような翅。
標本でも、資料でもない。ただ、そこに残ってしまったものたち。
ひとつ一つに丁寧にラベルが張ってある。
『翅のかたち』『翅への憧れ』『翅の記憶』・・・。
 
 ある箱には、白い繭のような塊。
内部は空洞だが、誰かの羽化を待ちきれなかった熱だけが残っている。

 壁際には、椅子が三脚ある。どれも少しだけ、角度がずれている。
誰かがそこに座っていた形跡はあるが、誰が何を待っていたかは、もう誰にも分からない。

 中央に、小さな机が置かれている。
机の上には、古びた木箱、乾燥した花弁、半透明のガラスの小瓶。
瓶の中には、液体が揺れていた。
色は・・・練の目には、薄緑にも琥珀にも、あるいは透明にも見えた。

 部屋の隅には、藁を敷き詰めた箱がある。
中には、なにかが蠢いていた。
練は目を細めて見た。が、それはどう見ても、昆虫ではなかった。
動いている。だが、完全に羽化していない。
人の指先ほどのものが、もぞもぞもぞり、と音を立てて身をくねらせた。

 天井近くの梁には、乾いた蛹がぶら下がっている。
羽化する前に時を止められたのか、それとも羽化して、もうここには戻ってこなかったか・・・その輪郭はどこかヒトの形に、近くて、遠い。

「ここが、あんたの来たかった場所だよ」
老婆の声が、背中越しに響いた。

 練は、一瞬、視界が揺れた気がした。
額縁の中の翅が、微かに、震えたように見えた。
そこにいた何かの意志だけが、まだ空間の密度として残っている。

 老婆は言った。
「あれらは名前のない来訪者さ。途中でやめた者、変わりきれなかった者、変わったあとに誰にも見つけてもらえなかった者。
だからね、ただのものなんだよ。でも、ここではそれでいい。
変態ってのは、完成じゃない。
名前も語りも失って、それでも残ってしまうことなんだ。
それでも、あんたは、観察するのかい?」

 練はうなずいた。
「ええ。変態倶楽部がただの都市伝説でないとすれば、それがどうして伝播したのか、どうしてこれだけ構造化された物語を持っているのか。
分析する価値があります。
液体を飲んで、変態するなんて、とても興味深い」

 老婆は、くしゃくしゃになった目元を細めて言った。
「価値ねぇ・・・興味深いねぇ。
でもさ、あんた、変態を観察できると本当に思っているのかい?」

 練は、一瞬だけ黙った。
「・・・できると思ってます」

老婆は笑った。声を出さずに、喉だけで笑った。
「あんた、まじめだね。
あたしは長いことここにいて、何人も、何十人も変態する姿を見てきた。
だけど一度たりとも、それを説明できた人はいなかったよ」

「・・・そ、それは、主観的だからです。観察対象が自ら変化してしまえば、客観性は失われる。だからこそ、私は観察者の立場にいるのです」

「ふーーーん」

 老婆は、机の上のガラスの小瓶を指差した。
瓶の中の液体は、また色を変えていた。
翡翠、琥珀、無色、そして透き通った灰色になっていた。

「その液体はね、あんたの奥にあるものを写すんだよ。
何になりたいかじゃない。何にならずにいられないかをね」

「ならずにいられない?」

老婆は続ける。

「変態ってのはね、虫になることじゃない。人間という形をやめることさ。
観察しようとするあんたは、まだ人間でいたい?だろ。
でも、もう、その枠が軋んでる。感じてるだろ?
時間の流れが、耳鳴りみたいにうるさくなってきただろ?」

 練は何も言わなかった。
だが、確かに、五感のどれかが観察者の形式を失い始めているのを感じとっていた。

 老婆は、静かに言った。
「変態とはね、観察されることの快感を、そのまま自分の感覚として溶かすことなんだよ」

 練は、ガラスの小瓶を見つめていた。
液体は、先ほどよりも濃くなっていたように思えた。
透明感がなくなりつつある灰色。
 
 練はガラス瓶を手に取った。
心臓がひとつ強く打った。喉元が微かに熱を持つ。
それだけで、体内のどこかが異物を迎え入れる態勢に入ったのがわかった。
練は、ごくりと液体を飲んだ。液体は思ったよりも甘かった。
それが喉を通った瞬間、世界がぐにゃりとねじれた。

・・・視界が、音になる。

 最初に崩れたのは、視覚だった。
光が、点ではなく、流れとして目に入ってくる。
壁に貼られた翅が、ひとつずつ、周囲の空気と共鳴しているように見える。

・・・カサ・・・カサカサ・・・。

 耳の奥で、紙をめくるような音が続いている。
音は、自分の中から聞こえていた。
練は息を整えようとした。
だが、呼吸のたびに肺が誰かの記憶を吸い込むような錯覚がある。

 指の感覚が消える。代わりに、翅の重さが生まれる。
まだ体の外には出ていない。
けれど、それが背中に折りたたまれている何かを、彼は知覚した。

 彼は膝をついて、俯いた。吐き気はない。
ただ、身体の輪郭がゆっくりと薄れていく。

「・・・これは・・・」

そう呟いた自分の声が、他人のものに聞こえた。
老婆の足音が近づいた。床板が、まるで翅音のようにきしんだ。

「それが第一変態さ」

 練は、自分の視線が下向きではなく拡がっていることに気づいた。
世界の中心が、いつの間にか外側へ出ている。

背後から老婆の声がした。
「距離なんて、取れないよ。
あんたは、もう何かを見ている時点で、その中に入りかけているのさ。
見ようとしているふりをして、本当は自分は変わらないって信じたいだけなんだ」

「・・・ち、ちが・・・う」
老婆は、静かにその翅の震えを見つめていた。

 そのとき、背中がふっと軽くなった。何かが開いた。

・・・灰色の翅。
言葉も、記録も、名前も持たず、ただ空間の綻びを這うように揺れている。

それは光に焼かれる観察者=蛾、だった。

 練は、最初、動かなかった。
小さな身体を畳み、空気の震えに耳を澄ませていた。
けれど、それは音ではなかった。空間そのものの、密度の変化だった。

 翅が、ひとたび震えた。ふわりと宙が持ち上がる。
風はない。だが、空気が練を押し上げた。
それは練が望んだことではない。ただ、翅がそう反応した。

 感覚と運動の境界が、もはや存在していない。
ふいに・・・飛んだ。
だがそれは、鳥のようなものではない。高く、高く舞い上がるのでもない。
空間のゆがみを這うように進んだ。
部屋の天井と壁の継ぎ目をなぞり、額縁に飾られた翅の前でひととき漂う。そして、吸い寄せられるように、灯りの周りを飛ぶ。
ただ、ただ飛ぶ。

 やがて、灯りのない天井裏の隙間へと滑り込み、まるで夜そのものに同化するように、翅をたたんだ。

 もう、誰にも見えない。もう、観察もされない。
芹沢練という枠は、すでに翅の下に剥がれ落ちていた。
ただ、ただ世界に浸っているだけだった。

 どのくらい時間が経っていたのだろうか。
練は、静かに目を開けた。
目の前には、天井の木目があった。
天井、という概念が理解できるまで、数秒かかった。
自分が横になっているという感覚が、どこか借り物のようだった。

 指が動いた。それは確かに、五本の指だった。
けれど、触れているはずの床の質感が、わからない。

 喉が渇いていることに気づいた。
だが喉という感覚自体が、まだはっきりと輪郭を持っていなかった。

 しばらくして、ようやく身体を起こした。膝が、震えた。
だがそれは寒さではなかった。
翅を失ったあとの、背中の虚ろさがそこに残っていた。

人間に戻ったはずなのに、物の名前が、ただの記号にしか感じられなかった。
机。壁。瓶。老婆。それらは確かにそこにある。
けれど、触れようとすると、まるで別の層に沈んでいくような違和感がある。

 老婆は、すぐ横にいた。
練の目を、じっと見ていた。
「・・・帰ってこれたんだね。変わってどうだったかい」

 練は返事をしなかった。
返す言葉がまだ、自分の中で輪郭を結んでいなかった。
「1回目は戻れる。でも戻れないこともあるのさ」

 練は立ち上がった。身体は、自分のものだ。
けれど、感覚の重心が、少しだけ前にずれている。
まるで、自分の内側に別の意識が触れているようだった。

 練はポケットからスマホを取り出した。
スマホにメモしようとしたが、言葉が浮かばなかった。
ただ、ひとことだけ、震えるように打った。

「ここには、なにもなかった」

老婆は、その言葉を覗き込むように見て、
ふ、と小さく笑った。

 練は、静かにスマホの電源を切った。
それは、嘘ではない。だが、真実のすべてでもない。

「あんた、いい翅持ってたよ。
蛾っていうのは、光を見たいんじゃない。
自分の中にある暗さを、ちょっとだけ温めたいのさ。」

 練は、答えなかった。
そして、扉を開け、冷たい朝の空気のなかへ、踏み出していった。

 

 ある日、老婆は床を箒で掃いていた。
変態俱楽部の奥、誰もいないはずの空間。
風はない。虫もいない。けれど、そこには何かが触れていた。

 老婆は、ただ小さく笑って、独り言のように言った。

「・・・あんた、ちゃんと変態したんだね。
もう見る必要も、残す必要もない。
これからは、ここに吹く風として、みんなの翅を、静かに揺らしておくれ」

部屋の空気が、ふっと柔らかくなった。
誰にも見えない翅の気配が、確かにそこに宿っていた。

「・・・おかえり」

変態倶楽部は、再び静けさに包まれた。



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