なぜ『寝かしつけ後のアイス』は、心を満たすのか。
暗い部屋で、ようやく小さな寝息が安定する。
掛け布団をかけ直し、そっと扉を閉めて廊下に出た瞬間、私の「親」という一日は、静かに幕を閉じます。
22時。
リビングに転がっている、誰の作品かも分からないブロックの残骸を踏まないように歩き、キッチンへ向かいます。
お疲れ様、自分。
そう呟きながら冷凍庫を開けると、そこには引き出しの奥底に隠された、私だけの秘密が待っています。
理性のバッテリーが、空になる音
日中、私たちは驚くほど多くの「我慢」をしています。
仕事での理不尽な要求への対応はもちろん、家の中で「お菓子はご飯のあとだよ」と諭し、散らかった部屋を片付け、イヤイヤ期の嵐を笑顔でやり過ごす。
心理学ではこの、自分を律するために使う精神的なエネルギーを 「自己消耗(エゴ・ディプリーション)」 と呼びます。
意志の力は、スマホのバッテリーと同じで有限です。
特に「寝かしつけ」という、こちらの意図が1ミリも通じない相手と1時間程度向き合う作業は、そのバッテリーを一気にゼロまで追い込みます。
「私は今日、誰よりも自分を後回しにして頑張った」
脳の奥でそんな判定が下されると、私たちはセルフ・ライセンシング(自己許可)というモードに切り替わります。自分を律するブレーキが外れ、「悪いこと(深夜の糖分)」を自分に許すことで心の帳尻を合わせようとする、不器用な自己防衛の仕組みです。
だからこそ、深夜にアイスを食べるという「本来なら控えるべき行為」に対して、脳は驚くほど無防備に門戸を開いてしまうのです。
アイスを掬うのは、自分を回収する作業
なぜ、夜のアイスはあんなにおいしいのでしょうか。
もちろん、糖分と脂肪が疲れた脳の報酬系を直接叩くという物理的な理由もあります。
でも、それだけではない気がするのです。
アイスを一口、ゆっくりと口に運ぶ。
プラスチックのカップを擦るスプーンの小さな音が、今日、私が私のために鳴らす唯一の拍手のように響きます。
その間、私は誰かの要求に応える必要も、誰かの見本である必要もありません。
「至福のひとくち」というときれいすぎますが、その実態は、昼間に子供や社会へ吸い取られてスカスカになった自分の一部を、必死に充填するような生存活動に近いのかもしれません。
日中、家族のために、あるいは社会のために切り分けて配り歩いた自分自身を、深夜の台所で少しずつ回収しているような、そんなふしぎな感覚。
こっそり食べるという背徳感すらも、自分だけの領域を守るための大切なスパイスになっているのかもしれません。
「心を満たす」一人の時間の正体
心を満たすひとりご飯は、必ずしも豪華なディナーである必要はありません。
家族が寝静まったあとの、コンビニのカップアイス一つ。
それが、今日という一日を犠牲で終わらせず、自分の人生として完結させるための、何よりの儀式になることもあります。
自分を使い果たしたあと、空っぽになった心に冷たいバニラを流し込む。
それは、明日また優しい親や誠実な会社員という仮面を被るための、静かなエネルギー充填の時間でもあるのです。
ふぅ、ごちそうさまでした。
最後の一口を飲み込み、空になったカップをゴミ箱に捨てます。
ふと我に返れば、晩御飯を十分に食べたにも関わらずアイスを平らげてしまったせいで、物理的におなかが苦しい...。
そして、この時間に台所でアイスをなめている姿を、なんとかして心を満たすひとりご飯というキラキラしたコンテストの主旨にねじ込もうとして、無理やりな理論展開を重ねた結果、私の書いている内容も色々と苦しいです。
物理的な満腹感と、既視感のあるストーリー展開。
二重の「苦しさ」に身をよじりながらも、私は心が満たされるのを感じながら、アイスを掬ったスプーンを食洗機の中へと放り込むのでした。
▼もう少し「ふしぎ」を眺めたい方へ
寝息のリズムが同期する、あの温かな添い寝は「幸せな拘束」でもありました。親の脳を強引に眠りへと誘う、メトロノームのような不思議な正体。
自分へのご褒美(アイス)は即座に決断できるのに、なぜ「毎月の数百円」の解約ボタンは、あんなにも遠く感じるのでしょうか。私たちの理性のブレーキが、こっそり外される瞬間の不思議。
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