白紙のドリルと、私の不安。
新しい学期が始まる、夏休みの終盤。
リビングの床には、白紙のままのドリルが転がっていた。
塾に通う子の話を耳にするたび、
英語スクールの話題を聞くたび、
私は焦っていた。
「うちの子、大丈夫かな」
そう思った私は、
夏休み用の問題集を買い与え、
学力を管理しようと躍起になっていた。
塾には行きたがらない。
でも、せめてこのドリルだけは。
そんな“せめて”が、どんどん増えていった。
「そういえば、ドリルやった?」
聞かないと決めたはずなのに、
口からこぼれてしまう。
「あぁ、やるやる」
軽く返されるその言葉に、
私は勝手に裏切られた気持ちになっていた。
けれど本当は子どもに腹が立っていたんじゃない。
周りと比べてしまう自分に、
追いつけないかもしれない未来に、
不安になっていただけだった。
リビングの床に転がる白紙のドリル。
それは、子どもの怠けではなく、
しっかりした母親でいなきゃと私の焦りの形だったのかもしれない。
あの夜、私は気づいた。
信じる母でいたいと言いながら、
私は“管理する母”になろうとしていたことに。
子どもの気持ちは後回しだった。
白紙だったのは、ドリルだけじゃない。
私の「信じる覚悟」が曖昧で、大丈夫と信じたい気持ちと周りに追いついて欲しいの間で揺れていた。
本当にこの子は出遅れているのか?を置き去りにして。
それでも——
焦りながら、迷いながら、
私は少しずつ、信じて見守る力を学んだ。
信じることは、放っておくことじゃない。
不安をごまかさずに抱えたまま、それでも口を閉じること。
あの白紙のドリルは私に問いをくれた。
「あなたは、本当にこの子を信じている?」
その問いに、
私はまだ完璧には答えられない。
でも今は、こう思っている。
白紙の時間も、遠回りの夏休みも、
きっと、この子の中で何かを育てている。
そう思えるようになったのは、
あの白紙のドリルと向き合ったからだ。
焦りは、愛情の裏返しだった。
不安は、この子の未来を願っていた証だった。
だから私はもう、焦る自分も否定しない。
それでも、最後は信じる方を選ぶ。
ドリルが白紙でも、今日がだらけた一日でも、
この子の「やってみたい」は、きっと自分で見つける。
私は先回りしない。
静かに、見守る。
あの夏の終わりに、
私は初めて「信じる母」になろうと決めた。
いいなと思ったら応援しよう!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
よろしければ応援お願いいたします。
いただいたチップは、子どもの書籍代としてありがたく頂戴いたします。