96.アストゥリアス王国
画像は以下のサイトから転載。
エル・カミーノ・デ・サンティアゴ
サンティアゴ・デ・コンポステラは、エルサレム、バチカンと並ぶキリスト教三大巡礼地の一つです。
九世紀、イエスの十二使徒の一人、聖ヤコブの墓がサンティアゴで発見され、注目されるようになりました。
ですがガリシア地方の人たちは、墓に納められているのはグノーシス的な教義を広めた異端の司教、プリスキリアヌスの遺骸だと信じています。
プリスキリアヌスの禁欲主義が現地で人気だったからですが、だいたいエルサレムで斬首された人の遺骸がスペインで見つかるのはおかしな話です。
サンティアゴは、ムーア人(キリスト教徒がイスラム教徒を指していう語)に対するレコンキスタが開始された地でもあります。
イリア司教座のあるサンティアゴの教会はやがて要塞化し、いわゆるレコンキスタにおける軍事拠点に発展しました。
クリュニー会やローマ教皇庁のバックアップがあったことを考えると、この要塞化はどこか象徴的です。
アストゥリアス王国は、西ゴート族のアストゥリアスのペラギウス(六八五年ごろ~)、別名ペラーヨによって建国されました。

ペラーヨは七一八年または七二二年、コバドンガの戦いでウマイヤ朝軍を破った人です。
アストゥリアスは、ペラーヨの曾孫、アルフォンソ二世(七九一年~)の時代に、カール大帝とローマ教皇から王国と認められ、確固たる地位を築きました。
関係ありませんが、アストゥリアスといえばイサーク・アルベニスのこの曲です。
聖ヤコブの骨がガリシア地方のコンポステラで見つかったのは、アルフォンソ二世の治世中のことです。
コンポステラの伝承によると、ペラギウスという隠者はある日、地元の森で奇妙な光を発見しました。
念のため繰り返しますが、ペラーヨの本名(?)はペラギウスです。
奇妙な光を発見したペラギウスは、ガリシアの西にあるイリアの司教テオデミールに助けを求めにいった、とされています。
伝承によると、テオデミールは星に導かれてたどり着いたということです。コンポステラの語源は「Campus Stellae」、「星の野原」の転訛とされています。
天文学的な天ノ川のスペイン語名は、エル・カミーノ・デ・サンティアゴです。
中世の修道士や司祭連中は、偉大な古代ローマや古代ギリシャに憧れを抱いていました。
古典を学ぶともれなくついてくるのが、アストラル、星辰崇拝です。
占星術は古代バビロニアにおいてカルデアのマギが大発展させたのですが、旧約聖書の登場人物、反逆者ニムロデの時代にはすでに存在し、しかも堕落していました。
星占いはいまでも存在し、人気があります。人気者にはなかなかあらがえません。異端であってもです。
ホタテ貝
聖ヤコブのシンボルはホタテ貝です。
ギリシャ神話によると、女神アフロディーテは処女懐胎で生まれ、輝く真珠のような貝殻に包まれて海の泡の中からあらわれました。
これはボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」に描かれています。

アフロディーテは古代ローマのヴィーナスで、この二人はアスタルトと同一視されます。
ウィキペディアにはこうあります。
古くは東方の豊穣・多産の女神アスタルテー、イシュタルなどと起源を同じくする外来の女神で、『神統記』に記されているとおり、キュプロスを聖地とする[8]。オリエント的な地母神且つ金星神としての性格は、繁殖と豊穣を司る神として、庭園や公園に祀られる点にその名残を留めている。
金星といえばルシファーです。
またアスタルトは「塔や城壁を造った女」で、ルーツはこのNoteではおなじみ、邪教の創始者セミラミスです。
セミラミスはバビロンの都をこしらえた女で、処女のままタンムズを産みました。
ヴィーナスはヨハネの黙示録における大淫婦バビロンで、アレクサンダー・ヒスロップにいわせると、「あらゆる不純物の母」です。
ちなみにローマ教会は一八二五年、はじめてヴィーナスをシンボルとして採用しました。
ローマ教皇レオ十二世は、ジュビリーの機会にメダルを制作しました。メダルの片面にはヴィーナス(大淫婦バビロン)が、左手に十字架、右手に杯を持ち、「Sedet super universum」「全世界が彼女の座である」と記されています。

ヨハネの黙示録十七章は、ローマ教会が当時から天の女王マリアを崇拝する組織だったことを示しています。
レコンキスタおよび巡礼地サンティアゴ(聖ヤコブの遺骸)がいわくつきであることを考えると、ホタテ貝はマリアの象徴、暗喩として用いられたのかもしれません。
このホタテ貝は、カミーノとの関係から巡礼を象徴するようになりました。
貝殻は巡礼路でよく見かけられました。巡礼者は貝殻を身につけ、カミーノ・デ・サンティアゴの旅人であることを示しました。

伝説によると、アルフォンソ二世の息子、アストゥリアス家のラミロ一世(七九〇年ごろ~)は、八三四年にクラビホの戦いでムーア人を破りました。
その際、聖ヤコブが白馬に乗り、白い旗を持ってあらわれたのだそうです。トップの写真がその聖ヤコブです。
以来、聖ヤコブはサンティアゴ・マタモロス(ムーア人スレイヤーの聖ヤコブ)と呼ばれるようになりました。
「サンティアゴ、イ・シエラ、エスパーニャ!(聖ヤコブと [ともに] スペインを討て)」は、中世スペインのキリスト教軍の伝統的な戦いの叫びでした。
繰り返しになりますが、コンポステラの墓に眠っているのはグノーシスの異端者、プリスキリアヌスです。
妙な動き
後世の資料では、「スペイン皇帝」と呼ばれるようになったのは、ラミロ一世の孫のアルフォンソ三世(八四八年ごろ~)からです。
アルフォンソ三世は、八六六年から死去するまで、レオン、ガリシア、アストゥリアスの王として君臨しました。
アストゥリアスの王たちは、レコンキスタに際して、自分たちの主張を正当化するためには宗教が必要だということに気づきました。
そこから妙な動きがはじまります。
アルフォンソ三世の時代の歴史や十一世紀以降に書かれた歴史は、どれもスペイン以外の外国人聖職者によって書かれたものでした。
著者たちはどれも、レオンにおける君主制の政治的優位を支持し、その君主制に神聖な性格を与えていました。明確な取り決めがあったようです。
この著者たちは、喜んで歴史を捏造し、文書を偽造し、系図をでっち上げていました。キリスト教とイスラム教の壮大な対立、という設定によって、レオンとカスティーリャのイベリア半島支配の根拠としたわけです。
このような歴史を書いた修道士や司祭たちは、天上の闘争という観点から世界を見ていました。
この人たちの言葉は聖書的で、修辞は黙示録的でした。この修道士や司祭たちにとって、スペインのキリスト教徒は「真のイスラエル」で、神によって選ばれながら不服従の罪のためにうち捨てられた民であり、その罪滅ぼしとして異教徒と戦っている、というわけです。
この設定の次に来るのは、巡礼です。
アルフォンソ三世の息子であり王であるガルシア、オルドーニョ、フルエーラは、九一〇年、父親に対して叛乱を起こしました。
この叛乱によって、アルフォンソ三世は退位を余儀なくされました。
三人の息子たちは、王国を独立国として三つに分割しました。蛮人お決まりの慣習です。
そしてガルシア一世はレオン王、オルドーニョ二世はガリシア王、フルエーラ二世はアストゥリアス王になりました。

レオン王のガルシア一世は、九一四年に息子を残さずに死にました。なのでオルドーニョがレオンを引き継ぎました。
九二四年、オルドーニョが死ぬと、息子がいるのに兄弟のフルエーラ二世がレオン王になりました。フルエーラはレプンに王宮を構え、アストゥリアス王国はレオン王国に移行しました。
三人の兄弟は、全員九二五年までに死にました。そして再び後継者争いに陥りました。
その後一世紀に渡って、レオン王国はイスラム教のコルドバ・カリフの実効支配下に置かれることになります。
九二五年、フルエーラ二世の死後に内戦が起き、オルドーニョ二世の長男、アルフォンソ四世(八九〇年ごろ~)がレオン王に即位し、九三二年まで統治しました。
後継者問題のごたごたによって、後ウマイヤ朝のアブド・アッラーフマン三世(八八九年ごろ~)に対する敵対行為は、九三二年にオルドーニョ二世の息子ラミロ二世(九〇〇年ごろ~)が王位を得るまで途絶えることになりました。
問題なのは、ムーア人に対する敵対行為が途絶えたことよりも、再開したことです。
いわゆるレコンキスタは、八世紀初頭から一四九二年のグラナダ開城までとされています。
これだけの長いあいだ敵対行為がつづくこと自体、妙な話です。
血縁関係
九二九年、コルドバは再統一されたアル=アンダルスの中心地になり、後ウマイヤ朝は西ヨーロッパと西地中海の揺るぎない大国になりました。
九三四年、アブド・アッラーフマン三世は、パンプローナとアラバの覇権を再び握ったあと、ラミロ二世をブルゴスに退却させ、ナバラ女王のトダ・デ・パンプローナを臣下として服従させました。

そしてトダを息子ガルシア・サンチェス一世(九一九年~)の摂政とし、直接統治から手を引かせました。
このトダは、アブド・アッラーフマン三世の叔母にあたります。
長い期間同じ地に暮らしていると、自然とこのような血縁関係が生まれます。宗教、イデオロギーの争いが人為的であることを示す一つの例です。
トダの母親の最初の夫は、後ウマイヤ朝の第七代アミール、アブドゥッラー・イブン・ムハンマド(九一九年~)でした。
トダの夫はサンチョ一世(八六〇年ごろ~)です。サンチョ一世はアルフォンソ三世の援助を受けてパンプローナの支配権を獲得し、九〇五年から九二五年まで王として統治しました。
敗走したラミロ二世は、あきらめませんでした。九三九年、ラミロ二世とガルシアは、いわゆるシマンカスの戦いでカリフの軍を破り、アブド・アッラーフマン三世をほぼ殺害しかけました。
シマンカスの戦いでラミロ二世が捕虜にしたイスラム軍の中に、アブド・アッラーフマン三世の親友、ムハンマド・イブン・ハシム・アル・トゥジビが混じっていました。
なのでアブド・アッラーフマン三世は、和平を申し出ました。そしてお抱えの医師にして外交官、ハスダイ・イブン・シャプルート(九一五年ごろ~)を交渉人として派遣しました。
いわゆるレコンキスタの「設定」によると、スペインのキリスト教徒は「真のイスラエル」で、罪滅ぼしのために異教徒と戦いつづけなければなりません。和平などもってのほか、なはずです。
十一世紀のコルドバの年代記を記したイブン・ハイヤーンは、ハスダイについてこのように書いています。
ハスダイ・イブン・シャプルートは、その時代において比類なき人物であり、その高貴な教養、深い狡猾さ、鋭い洞察力、並外れた聡明さゆえに、世界のいかなる皇帝の臣下の中にもかれに匹敵する者は見当たらなかった。
ハスダイは最終的に、ラミロ二世と非常に親しい友人になりました。ラミロ二世はハスダイの滞在を七ヶ月以上延長しました。
レオン王国はシマンカスの戦いの勝利によって、ラミロ二世の息子オルドーニョ三世(九二六年ごろ~)が敗北するまで、イベリア半島の軍事的主導権を維持することができました。
オルドーニョ三世は、「太っちょ」と呼ばれた異母弟サンチョ一世(九三二年ごろ~)を支持するナバラとカスティーリャと対立し、王位継承権を争いました。
サンチョ一世は、ラミロ二世とトダ(アブド・アッラーフマン三世の叔母)の娘、パンプローナのウラカ・サンチェスの子です。
トダは孫でデブのサンチョ一世の健康状態を気にしていました。そして九五八年、トダの要請を受けたアブド・アッラーフマン三世は、医者のハスダイを派遣しました。
結局のところ、サンチョ一世の肥満はのちの廃位に大きく影響しました。
ハスダイは、トダがコルドバを訪れることを条件に、サンチョ一世の「治療」を約束しました。
当時のコルドバは、お伝えしたとおり後ウマイヤ朝の中心地です。
トダと息子のガルシア・サンチェス一世、孫のサンチョ一世、その他貴族や聖職者たちは、いわれたとおりコルドバに向かいました。
そして連中がコルドバに到着すると、中世外交史上で画期的な出来事とされるほどの盛大な歓迎を受けました。
人間どうしの争いは、人為的に起こされるものです。人は本来、殺し合いをしません。
アメリカの作家で陸軍退役中佐のデイヴ・グロスマンは、ある南北戦争での銃撃戦を『戦争における「人殺し」の心理学』で伝えています。
ある戦場では、敵味方の兵士が十五歩と離れていないところから何度も一斉射撃を行ったのに、一人の死傷者も出なかったのだそうです。
人を平気で殺せるのは、一パーセントから二パーセントの割合でいるといわれるサイコパスです。
仕掛け人としては、キリスト教対イスラム教の戦いなので、もっと憎み合ってもらわなければなりません。
このように筋道を立てて考えると、いわゆるレコンキスタが七百年もつづいたこと自体が異様だとわかります。
宗教の力、宗教というイデオロギーが、それだけ強力だということです。
ですが問題なのは宗教そのものではなく、宗教などの「熱狂」を利用しようとする勢力です。
現在もほとんどの人がなにかに「熱狂」しています。熱狂させるためのアイドルなどの娯楽は、宗教をヒントに生み出されました。
そして皮肉にも、「熱狂」の中でもっともまともなのが、宗教です。
それが原因で殺し合いをしたとしても、です。
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