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15.ユダヤ人と「ユダヤ人」


「ユダヤ人」の誕生

ソロモン王のあとも、イスラエルの民は邪教崇拝を貫きました。

イスラエルの民がエルサレムでなにをやっていたかは前回お伝えしました。時は下って紀元七十年、エルサレム第二神殿の破壊によってイエスの予言が成就し、神の国が(人の内側に)訪れたこともお伝えしました。神の国はすでに訪れています。

このころ、イスラエルの地は政治的な相違から、北のイスラエル王国と、南のユダ王国にわかれます。

そして神の預言どおり、紀元前八世紀から六世紀のはじめにかけて、古代パレスチナ(ユダ王国)のユダヤ人は、アッシリアに攻撃され、メソポタミアに追放されます。

第二列王記十七章によると、この災いがイスラエル民族に降りかかったのは、次のような理由からです。

かれらはかれらの神、主のすべての命令に背き、金属で二頭の子牛を造った。かれらはアシェラの柱を立て、バアルと天のすべての力を拝んだ。自分たちの息子や娘を火で生け贄に捧げることさえした。かれらは占い師に相談し、魔術を用い、悪に身を売り、主の怒りを買った。主はお怒りになったので、かれらを御前から追い払われた。ユダ族だけがその地に残った。しかし、ユダの人々でさえ、かれらの神である主の命令に従うことを拒んだ。かれらはイスラエルが築いたのと同じ悪の道を歩んだ。そこで主は、イスラエルのすべての子孫を拒まれた。主はかれらを罰し、滅ぼされるまで攻撃者に引き渡した。

https://www.biblegateway.com/passage/?search=2%20Kings%2017&version=KJV

紀元前五九八年から五九六年にかけて、ネブカドネザル二世はエルサレムを占領し、ソロモン神殿を略奪し、残った住民の多くをバビロンに追放しました(バビロン捕囚)。

バビロン捕囚

バビロンに移住したあと、異端のユダヤ人の一派は、自分たちの過去の過ちを悔い改める代わりに、「選民思想」を生み出します。

神との契約は永遠に拘束力を持つので、自分たちは永遠に選ばれし民であり、やがて約束の地(カナン)に戻り、メシアの到来によって人類の支配者に任命されるだろう、という主張です。「ユダヤ人」の誕生です。

この選民思想、シオニズム的解釈は、もともとのユダヤ教にはなかったのです。そして選民思想は千年以上つづけてきた邪教崇拝と同化し、そのためにイスラエルの民は断罪されました。

この解釈は、もちろん現在でも見られます。ですが、神と契約したのはアブラハムです。

創世記十二章にはこうあります。

あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。

https://www.biblegateway.com/passage/?search=Genesis%2012&version=KJV

この「あなた」のヘブライ語は単数形なのですが、現在ではすべてのユダヤ人、という解釈になってしまっています。

詳しいことはわからなくても、選民思想と聞いただけで、どこか危なっかしいにおいを感じ取れます。

争いを生むイデオロギー

わたしは日本に住んでいるので、日本人です。

ですがユダヤという国は存在しません。

現在イスラエルに暮らしているユダヤ人も、イスラエル人とは呼ばれません。ユダヤ人はユダヤ人です。

わたしは日本人ですが、たとえば韓国に帰化したら韓国人になります。

アメリカ国籍を持つユダヤ人は当然大勢いますが、みなユダヤ人のままです。現在のイスラエルの建国は一九四五年です。国を持たず、異国に暮らしていたときも、ユダヤ人は変わらずユダヤ人でした。

その国の文化を受け入れたユダヤ人を同化ユダヤ人というのですが、歴史上、どの国に行っても、ユダヤ人は自分たちの宗教や慣習を保ちつづけたという記録が残っています。つまりそのときどきに「おれたちはユダヤ人」として同化を拒否したのは、トップの判断があったからです。

ユダヤ人は約百十カ国で合計千回以上も追放されています。逆にいうと千回以上も戻ってきたということです。

中世ヨーロッパでは、ユダヤ人は金融屋として活動していましたので、王侯などのトップは必要に応じて呼び寄せ、住まわせました。同化せずに「ユダヤ人」として暮らすので、諍いを生みます。そしてなにかをし、民の怒りを買い、王侯などのトップは仕方なく追放します。

この諍い、追放、迫害については、どの学術論文を見ても、悪いのはキリスト教徒、と断定的に書かれています。反論の余地はないのだそうです。

皮肉っぽくつづけることもできますが、ようはユダヤ人批判はタブーだからです。学者も商売です。

ユダヤ人につけられたバッジ

人類は本来、人どうしで戦うものではない、という内容の記事を以前書きました。

いずれユダヤ人が世界を支配するのだ、というイデオロギーは、とにかく争いを生み出します。ですが宗教の教義として広まっているので(歴史が深すぎるので)、安易に批判できません。ユダヤ人嫌い、反ユダヤ主義として断罪されます。裏で誘拐した白人の子供を生贄に捧げていたとしてもです。

宗教云々を抜きにして考えると、「分断して統治せよ」という支配のテクニックにすっぽりと当てはまります。支配者としては、下々に諍いをつづけてもらうほうがいいのです。全アメリカ国民が共和党員として一致団結したら、権力の座が危うくなりかねません。

そして戦争は儲かります。戦争をしかけるような人たちは、ユダヤ人が何人殺されようが知ったことではないでしょう。その仕掛け人が「ユダヤ人」だったとしてもです。

陰謀論では「金融ユダヤが世界を支配している」といわれますが(これはこれで正しいのですが)、一般のユダヤ人は「おまえらを支配してやる」などとは考えていません。その地の文化に同化したユダヤ人もいたでしょう。

邪教の構造と同じで、選民思想を保ち、「ユダヤ人」というイデオロギーを現在まで保ちつづけているのは、トップの祭司たちの判断です。

現在見る「ユダヤ人」は白人です。「これがユダヤ人」という特徴がないので、見た目では判断できません。

また、宗教やその他の要素を除外して考えると、ビジネスなどをするなら「ユダヤ人」であったほうがなにかと得です。

儀式殺人の例

ユダヤ人はなぜ迫害されつづけてきたのでしょうか。

中世ヨーロッパでは、ユダヤ人は邪教由来のお祭りを行っていました。鳴り物を鳴らし、踊りまくります。下品で卑猥で、キリスト教徒にとってはとにかく不快だったようです。

この程度の理由で迫害、追放したのだとしたら、悪いのはキリスト教徒です。

有名な儀式殺人の事件があります。犠牲者はヒュー・オブ・リンカーンという男の子です。リンカーン(イングランド)という町のヒューくんという意味です。

ヒュー・オブ・リンカーン

以下はヘルムート・シュラムという学者の論文『Jewish Ritual-Murder, a Historical Investigation』からの抜粋です。

伝統があろうが悪いものは悪い

一二五五年、聖ペテロと聖パウロの祝日の前、リンカーンのユダヤ人は当時八歳のヒューくんを誘拐し、ラビの祭司長のコピヌスの家に連れていきました。

ユダヤ人の一人はピラト(ローマの総督)の役を演じつつ、ヒューくんを磔にし、手に釘を打ち、殺しました。磔刑の再現です。そして少年の腹を切って腸を取り出し、お守りにしました。

死体は井戸に投げ入れました。ゴイム(異教徒)は埋葬してはいけないからです。

死体を不適切に処理したため、少年の遺体が見つかりました。ラビは馬で市中引きまわしにされたうえ処刑されました。

そのあとの調査で、リンカーンのユダヤ人は以下のように自白しました。儀式の見物のためにほかの都市からユダヤ人を招いていた、このような生贄は毎年行っていた、人目につかないところでやっていたのでこれまでは見つからなかった、などです。

その後ヒューくんは聖人として列聖され、人々はシナゴーグを破壊して聖堂を建てました。リンカーンにはいまもその大聖堂があります。

聖堂の成り立ちについては以前は説明していたのですが、後世に取り払われました。

リンカーンのヒューくんについては、チョーサーが『カンタベリー物語』の中で言及しています(尼僧院長の物語)。

おお、リンカーンの若きヒューよ、おまえは呪われたユダヤ人たちに、この少年と同じように殺されたのです! その話はいまも悪名が高い。

カンタベリー物語 中(完訳) (岩波文庫 赤 203-2) 文庫 – 1995/1/17

ほかにも儀式殺人の例はたくさんあります。どれも実際の裁判記録から抜粋したものです。

一一九二年のイースターでは、ロンドンでロバートという子供が殺されました。

一八八〇年、アレクサンドリアのユダヤ人は、父親の不在中にキプロス島出身の船長の子供を殺しました。子供からは最後の一滴まで血が抜かれていました。

一八八一年四月、ユダヤ人はアレクサンドリアで再び子供を虐殺しました。死体は血もなく、刺し貫かれ、蝋人形のようでした。そしてユダヤ人に対する暴動が起こりました。

一八八二年、バラタ(トルコ)で、子供がユダヤ人の家に誘い込まれました。翌日、血まみれの死体が金角地帯で発見されました。その結果、民衆による暴動が起こりました。

一八八三年、ガラタ(トルコ)で儀式殺人が起きました。ペラの警察署長とガラタの警視総監は賄賂を受け取り、捜査を妨害しました。精力的に有罪に反対していたスタンブル紙は、十四万フランで黙らされました。

一八八五年、エジプトのMit-Kamerで、ユダヤ人の復活祭の祝日に若いコプト教徒が虐殺されました。

最後に、イタリアのユダヤ人歴史家Ariel Toaffの『Blood Passover: The Jews of Europe and Ritual Murders』からの画像です。

シモニーノの殉教と眼鏡をかけたユダヤ人。木版画、北イタリア、1475-85年。

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謎の賢人 この記事はリサーチにかなりの時間を費やしています。有料にはしたくないので無料で公開していますが、チップをいただけましたら精神的にも励みになります。