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80.神聖ローマ帝国

画像は以下のサイトから転載。


引きつづき中世ヨーロッパ史を裏側からお伝えしていきます。

ローマの逆襲

西ローマ帝国の滅亡後、ローマ教皇庁はイタリア周辺の支配者たちの影響下に置かれてしまいました。

五三五年、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇帝ユスティニアヌス一世(四八二年~)は、いわゆるゴート戦争を開始し、イタリアとローマをレコンキスタしました。

すごいことにユスティニアヌス一世は、東ゴートだけでなくアフリカ、アジア(ササン朝ペルシャ)まで版図を広げ、一代で「ほぼローマ帝国」というくらいまで領土を回復させました。

ユスティニアヌス一世時代の東ローマ帝国(青色部分)。青色と緑色部分はトラヤヌス時代のローマ帝国。赤線は三九五年の東西ローマの分割線。

ただ、ユスティニアヌス一世がアレクサンドロス大王のような英雄だったかというとそうではなく、東ゴートの内紛などもあり、また有名なハギア・ソフィア大聖堂を再建するなど国力もあったので、「やればできる」「やったのでできた」という状況だったと思われます。

また、ユスティニアヌス一世自らが遠征に出ることはほとんどなく、軍事面では名将ベリサリウスの功績が大です。

しかもユスティニアヌス一世はベリサリウスの能力に嫉妬し、謀反の疑いをかけるなど常に冷遇していました。

そして五四三年、「ペスト」が蔓延し、栄光の時代は終わりを告げました。帝国は領土縮小の時代に入り、九世紀まで回復することはありませんでした。

ユスティニアヌス一世は、異教徒を迫害し、ユダヤ人にも冷たく当たっていました。プラトン大学の閉鎖もその一環です。

ペストといえばユダヤ人ですが、いずれにせよペストの症状の一つである壊疽は、服毒以外では起こり得ません。

教皇庁の逆襲

ビザンツ帝国はイタリアを再征服したのち、五三七年から七五二年まで「Byzantine Papacy」と呼ばれる期間に入ります。

「Byzantine Papacy」は、言及している日本語の論文を見つけられませんでしたので、ビザンツ教皇制と訳しておきます。

ようするに、教皇庁がビザンツ帝国の影響下に置かれていた時期、ということです。二世紀以上の長い期間、教皇の選出はビザンツ皇帝の正式な承認が必要でした。

そのためほとんどの教皇は東方の出身になりました。

五六八年、ランゴバルド人はイタリア半島に侵入し、独自のイタリア王国を築きました。イタリア北部を指す地名ロンバルディア(ランゴバルド人の土地)は、現在でも使用されています。

ランゴバルド人(族)の移動関連地図。遠い右にコンスタンティノープル(ビザンツ)。

ランゴバルド人はその後二世紀に渡って、ビザンツが取り戻したイタリアの領土のほとんどを征服してしまいました。

七世紀には、ビザンツの権限は、皇帝のexarch(地方大守、総督)がいたラヴェンナからローマ、南はナポリに至る一部と沿岸の飛び地にほぼ限られていました。

ビザンツ帝国はイタリアの教皇領をロンバルディア人に奪われ、ビザンツ帝国自体も弱体化していました。領地もなく教皇も選べないということで、かなりの屈辱的な状況でした。

教皇庁としては、支配者が変わったというだけの話です。教皇グレゴリウス一世(五九〇年~)と後継者たちは、ラヴェンナの総督にほぼ支配されていました。

教皇ステファヌス二世(七一五年~)も、東ローマ帝国出身でした。

ステファヌス二世

ですがこの人は東ローマ皇帝コンスタンティヌス五世(七一八年~)から離反し、フランク人に自分たちの領地を奪還するようお願いしました。

ステファヌス二世はパリ近郊のサン・ドニ修道院で、カロリング朝の祖ピピン三世(七一四年~)と二人の幼い息子、カールとカールマンに油を注ぎ、聖別しました。蛮族にローマ貴族の地位を与えたわけです。

ピピンは七五四年と七五六年に軍を率い、イタリアに向かいました。そしてランゴバルド王アイストゥルフを破り、北イタリアを支配下に置きました。

その後、教皇にラヴェンナ地方を寄進しました。有名な「ピピンの寄進」です。

寄進された土地財産は、かつてのラヴェンナ総督府のものでしたので、これが教皇領創設の法的根拠となりました。

ただ「ピピンの寄進」と聞いてもピンと来ないのですが、ビザンツ教皇制という重要な歴史的出来事が根っこにあったわけです。

神聖ローマ帝国の誕生

ピピンとともに聖別されローマ貴族になった息子、カールは、のちのカール大帝(七四二年~)です。

七六八年にピピンが死去すると、フランク族の相続法に従って王国は二分されました。

カールはアウストラシアとネウストリア、弟のカールマンはブルグント、プロヴァンス、ラングドックを手に入れたのですが、両者は不仲だったとされています。

七七一年、カールマンが早死にすると、カールはこの死を利用し、カロリング朝を統一しました。

カール時代のフランク王国(青がカール即位時のフランク王国、赤橙がカールの獲得領、黄橙がカールの勢力範囲、紫は東ローマ帝国領)

そしてザクセン、アキテーヌ、セプティマニアをはじめとする多くの征服によって版図を広げ、神聖ローマ帝国を発足させました。

フランク王国ではなく(神聖)ローマ帝国なのは、上記のとおりカール大帝が聖別された「ローマ貴族」だったからです。

これで神聖ローマ帝国は、中世から近世にかけて、ローマ・カトリック教会によってローマ帝国の唯一の合法的な後継とみなされました。

ちなみにカール大帝は、ご存じのとおりシャルルマーニュとも呼ばれます。ドイツとフランスの両方で英雄的な始祖と見なされているゆえんです。

ドイツといえば、オカルト史における重要な地です。フランスもフランクから直接名を得ているとおり重要な地なのですが、個人的な意見をいわせてもらうと、フランスはオカルトたちの実験場です。

クリュニー修道院もフランス、十字軍もフランス、テンプル騎士団もフランスです。

どれも裏の目的があり、どれもあの人たちが裏で糸を引いていました。

長く王政がつづいたのもフランス、啓蒙思想もフランス(興りはイギリス)、革命もフランス、ナポレオンもフランスです。

エリファス・レヴィなど、フランスはオカルティストをいくつも輩出していますが、英国王室のようにオカルトが定着した印象はありません(ここでいうオカルトは錬金術などではなく洗脳技術のほうです)。

愚かで感じやすく、勇猛果敢。フランス人はまさに蛮族でありつづけました。イギリス、スペイン、ドイツ、イタリアに囲まれながら決して「同化」せず、それゆえ常に狙われる立場です。よそ者嫌いなのも納得です。

そういえばド・ゴール将軍もフランス人です。この人は身長一九三センチ、古代ゴール人らしい風貌を持った、真の白人の英雄です。

なので例によってこそこそする人たちから何度も暗殺されかけました。

https://www.gettyimages.pt/fotos/charles-de-gaulle-presidentより転載

真の偉大さは民族の血が呼び起こすものです。「カネ以外のもの」が行動の動機であっても、本質的には同じことです。現世に囚われすぎている、ともいえます。

話がだいぶ逸れました。

戴冠のはじまり

時代は遡りますが、はじめてキリスト教を信仰した皇帝はコンスタンティヌス一世(二七〇年代~)です。

このコンスタンティヌス一世から、ローマ皇帝はキリスト教の推進者であり擁護者としての役割を担うものである、ということになりました。

もちろん当時のローマ・カトリック教会にいわせると、です。実際には邪教大好きのユリアヌス(三三一年~)などの皇帝もいたのですが、なにごとにも例外はつきものです。

ローマ皇帝はさらに、民の精神的健康のために神々に対して責任を負う者、でもありました。コンスタンティヌス一世以降、ローマ皇帝にはカトリック教会が正統性を守るのを助ける義務がありました。

なのでコンスタンティヌス一世以降のローマ皇帝は、教義を強制し、異端を根絶し、教会の統一性を守る役割を代々担いました。

カール大帝は、フランク王国の王です。ローマにいわせると「蛮族」の出ですが、幼いころに聖別を受けていたので立派なローマ貴族でもあります。

八〇〇年、ローマ教皇レオ三世は、カール大帝に「ローマ帝国皇帝」の冠を与えました。これによって西ローマ帝国の「皇帝」の称号が復活しました。

西ヨーロッパでは、フラウィウス・ユリウス・ネポス(四三〇年~)の死後から皇帝の称号が廃れていました。

蛮族の王国の支配者たちはというと、東方の皇帝の権威を名目上は認めていました。だいたい六世紀くらいまでです。

七二六年、東ローマ帝国イサウリア朝の初代皇帝、レオン三世(六八五年ごろ~)は、イコン崇敬の禁止令を出し、聖像破壊運動(イコノクラスム)を開始しました。

もちろん根拠は、モーセの十戒にある「偶像をつくってはならない」です。当たり前のようにまともです。

ですがキリスト教はもともとオリエントの宗教なので、ヨーロッパの「蛮人」たちには合わず、猛反発を招きました。

古代の教父たちはそこを見越してさまざまな妥協を重ねていたわけですが、レオン三世は突如、原理主義的な行動に出たのです。まわりが見えていなかったのでしょうか。

ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルでも猛反発を招きました。古代のギリシャ文化の伝統が色濃く残っていたからです。

東方教会の修道士たちも猛反発しました。偶像の制作に携わっていたからです。

教皇グレゴリウス二世(六六九年~)は、七一五年にローマ教皇に選出されました。ローマ出身で、西側の人です。

グレゴリウス二世は選出後、イタリアを侵略するランゴバルド王国のリウトプランドと交渉し、ローマでの略奪や侵略をやめさせたりしました。

このころ東側のレオン三世は、イタリアの支配地に重税を課そうとしました。いちおう領地は残っていたのです。

グレゴリウス二世はイタリアに手を出してきたということで強硬に反対し、結果東西は対立することになります。

レオン三世はその報復として、イコン崇敬を異端と見なし、聖像破壊運動(イコノクラスム)を開始しました。

本気で偶像崇拝を禁止しようとしたわけではなく、やはり政治だったわけです。

レオン三世はさらに、グレゴリウスに対して聖像破壊運動を正式に承認するよう圧力をかけました。

グレゴリウス二世はイタリア北部の有力者たちの後押しを受けて拒絶し、なおも対立をつづけました。

そしてレオン三世の一連の行動を、異端の最新のもの、と見なしました。

聖像破壊運動は本来は「いいこと」のはずなのですが、政治が絡むと物事が複雑になります。やったほうも本気ではなく、やられたほうも本気ではありませんでした。

そしてレオン三世のイサウリア朝は、じつはシリアの王朝でした。セウェルス朝もシリアの王朝でしたが、女装好きの暴君エラガバルスなど、シリアはなにかと狂った人材を輩出します。

七九七年、イサウリア朝の第四代皇帝コンスタンティヌス六世(七七一年~)は、九歳で即位したので、母親のエイレーネが摂政を務めていました。

エイレーネは聖像破壊運動には否定的でした。コンスタンティヌス六世がもともと母親と不仲だったからか、聖像破壊運動推進派はコンスタンティヌス六世に近づき、エイレーネと対立をはじめました。

その後コンスタンティノス六世は、なぜかイコノクラスム支持派とも対立してしまいます。

また祖父のコンスタンティノス五世にならってブルガリア帝国に親征したのですが、恐怖のあまり戦わずに逃走するという失態を演じました。

これを機と見たエイレーネは、実の息子の目をくり抜き、追放し、自らを皇帝と宣言しました。初の女性ローマ皇帝の誕生です。

エイレーネーのノミスマ金貨。

教皇庁としては女性が帝国を統治することは許されないので、帝位を空位と見なしました。

このためフランク王でありイタリア王だったカール大帝が、コンスタンティヌス六世の後継者としてローマ皇帝になったのです。

またしても複雑な政治ですが、これによって西ヨーロッパでは、教皇の戴冠なしには皇帝にはなれないという先例が確立されました。

ローマ帝国の再興

カール大帝は「Renovatio imperii Romanorum(ローマ帝国の再興)」という思想を採用しました。

「Renovatio Romanorum、Renovatio Urbis Romae(ローマ市の刷新)」という言葉は、古代にはすでに使われていました。「Renovatio(刷新)」とその関連語「Rrestitutio(返還)」と「Reparatio(修復)」は、ハドリアヌスの治世以降のローマのコインに登場し、通常、反乱後の平和の回復を意味しました。

「ローマのものはローマのものに」という、イエスに似た思想です。そしてイベリア半島(スペイン)に目を向けると、あそこももともとはローマのものでした。

ユスティニアヌス一世の時代には、「Renovatio(刷新)」は、いわゆるレコンキスタによる帝国の辺境回復と関連していました。

ちなみに女帝エイレーネはその後どうしたかというと、カール大帝に結婚を申し出ました。

エイレーネのノミスマ金貨

カール大帝もまんざらではなかったようなのですが、エイレーネの評判が悪すぎたのでやめました。

結局エイレーネは宮廷のクーデターに遭い、廃位され、イサウリア朝は終了しました。

カール大帝は最終的に、現在のフランス、ドイツ、北イタリア、低地地方(ヨーロッパ大陸北西部)などを併合し、フランク王国と教皇領を結びつける仕事をしました。

ですがイベリア半島、イスラム教徒のいうアル=アンダルスまでは取れませんでした。

カロリング朝は、アル=アンダルスのウマイヤ朝と激しく対立しました。七三二年のトゥールの戦いなどに代表されます。

レコンキスタはもともと、ローマの思想から来た運動だったのです。

和解、分割、そしてユダヤ人

そのあと八世紀から九世紀にかけて、カロリング朝とアッバース朝のカリフ、およびアル=アンダルスの親アッバース朝支配者とのあいだで同盟が試みられました。

使節団による交渉や和平や軍事作戦などによって、結果同盟は部分的に形成されました。

七六五年、カール大帝の戴冠前ですが、フランク王国の使節団がバグダッドに向かい、三年後、たくさんの贈り物を抱えて戻ってきました。

また七六八年には、アル=マンスールのアッバース朝の使節団がフランスを訪れました。

カール大帝は、アッバース朝第五代カリフのハールーン・アッ=ラシード(七六三年~)に三回使節を送り、ハールーン・アッ=ラシードのほうも少なくとも二回、使節を送りました。

そしてカール大帝は、芳香油、織物、時計、チェス盤、アブ・アッバースという名前の象などをもらいました。

カール大帝からの最初の使節団は、七九七年に送られました。

この使節団のメンバーは、ユダヤ人のイサク(イサク・ユダイオス)、ラントフリード、シギムドの三人で、この人たちはハールーン・アッ=ラシードを「ペルシャ人の王アーロン」と記しました。

https://alchetron.com/Abbasid–Carolingian-alliance

このユダヤ人はおそらく通訳として同行したものと思われますが、外交などのシチュエーションでは顔を出してきます。

カール大帝には数人の息子がいましたが、生き残ったのはのちの敬虔王ルートヴィヒ一世(七七八年~)だけでした。

もちろん父につづいて帝国の支配者になったのですが、敬虔王ルートヴィヒは、やはりフランク族の伝統に従い、三人の息子に領土を分け与えました。もちろん自分は皇帝のままです。

敬虔王ルートヴィヒが八四〇年に死去したあと、三人の息子たちは短い内戦を行い、八四三年、のちにヴェルダン条約と呼ばれる条約を結び、帝国を三つに分割しました。

ヴェルダン条約で定められた国境。左から西フランク、中フランク、東フランク。

敬虔王ルートヴィヒの息子、ロタール一世(七九五年~)は、名目上は皇帝になりましたが、事実上は中フランク王国の支配者に過ぎませんでした。

ロタール一世の三人の息子たちは、中フランク王国をさらに三つに分割しました。ロタリンギア、プロヴァンス、イタリアです。

紫がロタリンギア王国、オレンジがプロヴァンス王国、ピンクがイタリア。

敬虔王ルートヴィヒの次男ルートヴィヒ二世(八〇四年~)は、東フランク王国の王となりました。この人はドイツ人王とも呼ばれます。

ドイツ王国は、ロタール一世の中フランク王国の領土を追加して拡大し、のちの神聖ローマ帝国の骨格を形成しました。

これらの領土は、最終的に現代のオーストリア、スイス、ドイツに発展します。

敬虔王ルートヴィヒの三男シャルル二世(八二三年~)は、現在のフランス南部と西部の大部分を占める西フランク王国の王となり、カペー家の下、のちのフランスの基礎を築きました。

ユダヤ人の神秘主義運動は、のちのイタリア、南フランスのセプティマニア、そしてドイツでも盛んになります。

ドイツとイタリアといえば、第二次世界大戦における枢軸国陣営です。地理に疎い方は「なぜドイツとイタリア?」と思いがちですが、意外とすぐそばです。

https://www.travel-zentech.jp/world/infomation/q036_map_germany2.htmより転載

元々は同じ神聖ローマ帝国であり、ヒトラーのようなオカルティストはもちろん歴史を知っています。ドイツとイタリアは千年も前からオカルトでつながっていました。

地図を眺めていると、フランスの悲惨な歴史は必然だったのだと思えてきます。

ユグノーの虐殺、フランス革命などは、民主主義と呼ばれるものの確立のための壮大な「実験」でした。

実際のところ民主主義は理想の統治システムとはほど遠く、本質的には共産主義と同意です。同じ顔が対を成しているだけに過ぎません。

そして平和で平等ですばらしい民主主義国家の中で、人々はさらにイデオロギーを振りまわして対立し合っています。SNSの登場などもあり、イデオロギーは年々くだらなくなっていきます。

個人主義というものがくだらないイデオロギーを生み出すのです。「分断して統治せよ」という、オカルト、カバラの教えです。

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謎の賢人 この記事はリサーチにかなりの時間を費やしています。有料にはしたくないので無料で公開していますが、チップをいただけましたら精神的にも励みになります。