今宵、君の12星座当てゲーム―僕の世界では死んだ人―〈1.「死の香り」のする男〉
あらすじ
離婚から半年。日々充実はしているのに、絡まった糸のようなものを心に抱えた、占い師の今宵リツ(糸谷律子)。彼女が所属する人気占い館 占処アリアドネの糸のオーナー占い師ミラージュ・M・美裸にすすめられ、アリアドネの糸と同じビルに新しく入った治療院「東風-KOCHI-」を訪れる。迎えた治療家の東風谷響は、柔らかな物腰の奥に、不思議な温度と放浪の過去を抱えた人だった。施術中の会話は予想外の方向へと転がり、毎週火曜・休診日のとある秘密にも触れてしまう。―やがて、遊び半分の"12星座当てゲーム"が二人の距離を近づけ、律子の負けず嫌いにも火をつけるが⋯⋯。
今宵、君の12星座当てゲーム―僕の世界では死んだ人―〈1.「死の香り」のする男〉
律子の中で、突如着火する音がした。
「こうなったら⋯⋯東風谷先生の星座、当ててやるんだから!」
左の鎖骨のすぐ下。皮膚の薄いところに、ひやりとした指先が触れる。次の瞬間、鍼は、鍵穴に鍵が通るみたいに適所へと滑り込んだ。
「⋯⋯っ!」
「ぜひぜひ。星座、当ててみてくださいよ」
灸の準備をしながら、楽しげに、でもどこか試すみたいな声色で、東風谷が返事をする。律子は悔しさに似た熱を飲み込む。
「本気だからね⋯⋯ちょっと、考えさせて⋯⋯」
そもそも、こんなに意地になった発端は⋯⋯。
*
「ねえ、今宵ちゃん〜。隣の治療院からオープン記念割引券もらってるんだけど、要る?」
神楽坂占処「アリアドネの糸」のオーナー占い師、ミラージュ・M・美裸は、姿よりも先にその香りで存在を知らせてくる。
占い師:今宵リツの待機ブース[セレナイトの間]は、ミラージュの気配が入った瞬間、空気の色が変わった。ミラージュの手にはチケット。そしてピンクの包み紙に包まれたキャンディがひとつ。
《治療院 東風-KOCHI- 11月22日 OPEN記念! 初回90分3,300円(通常:16,500円)ご近所様特別価格》
「治療院⋯⋯ですか? ああ、そういえば、少し前から準備してましたよね」
律子がそう返すと、ミラージュは
「ウフフ。私昨日いってきちゃった」と肩を揺らした。
神楽坂ITOKAZEビル四階に本店を構える人気占い館――占処アリアドネの糸。
オーナー占い師のミラージュは元SM嬢で、十五年前に共同経営者とこの館を立ち上げた。十年前からは銀座・新宿にも店舗を展開していた。律子は「占い師今宵リツ」として主に銀座・新宿に出演してきたが、二年前、新宿の店舗は近隣の火災の余波で撤退。以来、神楽坂本店にも出る機会が増えていた。
「今宵ちゃん、行きなさいよ。身体、顔に色々出ちゃってるわよ」
「え、うそ。盛れてない?⋯⋯ですか?」
「盛れてる。盛れてるけど⋯⋯昨日ちょっと泣いたのかな?みたいな儚げなお顔」
律子はミラージュの言葉に笑いながらも、内心ちょっとだけ図星をつかれた気分だった。
離婚してそろそろ半年。
元夫とは「また仕事とかで会ったらよろしく」と言い合うような別れ方をした。揉めた離婚じゃない。驚くほどに、あっさりしていた。だからこそ、どこに置いたらいいか分からない、宙に浮いた乾いた感情だけが残っている。
仕事は順調。指名も増えている。昨今は書き物の仕事も忙しい。この前も新しく連載が決まった。充実してる。けれど、たまにふと「これでいい?」と確認してくる、もうひとりの自分がいるような気がしていた。
「治療院の先生、うち用にひとまず五枚くれたんだけど、最後の一枚、今宵ちゃんにあげる」
「いいんですか?ありがとうございます」
「だって今宵ちゃん〜、あの手の"死の香りがして、死に愛されちゃってる"みたいな男、好きでしょ」
「死の香り?(笑)なんですかそれ」
「とにかく、あの先生、若いのに色々経験した、滋味深ぁ〜いお顔してるのよね〜」
ミラージュはうっとりとした笑みを湛えながら、キャンディも一緒に差し出した。
***
律子がミラージュと初めて会ったのは――まだ昼は文房具メーカーで総務の仕事をしながら、新宿三丁目の地下のバーであくまで副業的立ち位置で占いをしていた頃のこと。
―今宵だけ、あなただけの占い師―
そんなキャッチフレーズを、バーのマスターに勝手につけられて、言われるがままに指定の撮影スタジオに行って、赤紫のヴェールで口元をふんわり隠すポーズの宣材写真まで撮らされた。
バーの奥のソファ席で、中学一年生のときからの相棒のタロットカードと数秘術で占い始めた途端、「占い師今宵リツ」は光の速さで新宿界隈で話題の占い師のひとりになった。
当初は顔出し無しで、ひっそりお小遣い稼ぎする程度の気持ちで始めた。でも、その未来のなんとなくのラフスケッチは、外から自分以外の描き手がやってきてどんどん強く太い別の線で描き換えられていく。
ある夜、艷やかな長い黒髪とスラリとした姿勢が一際目を引く女性が、単身で店に現れた。どうやら既に出来上がっているらしく、狭い店内で大声を出せば、会話は丸聞こえだ。
「あー!!もう、銀座の優秀な先生ひとり、いきなり引き抜いていったのよ〜? 不満があるなら言ってくれればいいじゃない〜、なのにいつもニコニコしてさ、『私は大丈夫です^^』なんて言うからさぁ⋯⋯! 空席は困るのよ、銀座、立ち上がったばっかりなのに⋯⋯」
マスターとは友人らしい。砕けた口調で矢継ぎ早に愚痴を吐く。
「テキーラサンライズお願い。はー⋯⋯あの子も一応占い業界の人間なんだからさー、メルクリウスの[報告・連絡・相談]の力を使いなさいよ、ほんっと」
(メルクリウスって、言い方⋯⋯この人、占い館のオーナーかなにか?)
クローズ間際で客も少なく、律子はソファ席でタロットをソートし終え、本を読んでいた。
依頼があったわけではない。でも、なぜか勝手に個人的に一枚引いてみたくなった。せっかく秩序を施したカードたちをぐるぐると混ぜ、ど真ん中の一枚を裏返した。
「女帝⋯⋯逆位置、か」
(たぶん、陰であの人、嫉妬されてたんじゃないかな?あの人の黄色い輝きに耐えられなくなって、相手がテリトリーから出ていった。強すぎる光は時に暴力だから)
そんな風に思った、ちょうどその時。
「今宵リツ、さん?」
驚いて視線を上げるとカウンターで飲んでいた"女帝"が、ソファ席をゆるりと包み込むラベンダー色の天蓋を、その手の甲でそっと開きかけていた。
(この人、いつの間に。音も気配もなかった)
「あなた⋯⋯!絶対もっと、売れる!!」
彼女は突然、律子の真正面に座り、手を取った。
長さ出ししたダスティピンクのネイル。爪先はシルバーの大粒のラメが光っている。"女帝"の凛とした涼し気な佇まいとは裏腹に、握られた手は異様な熱を帯びていた。
酔っているのに、目が妙に冴えている。
「その左まぶたのほくろ、メイクで描いてるの?⋯⋯え!?天然? ますます、イイわ⋯⋯!」
彼女は更にしなやかに顔を近づけた。
ムスク?煙に巻かれたような、靄に包まれたような――今まで体験したことのない、不思議な香り。そして、律子の耳元でこう囁いた。
「こんな暗い地下に、長くいちゃダメよ。興味があったら連絡ちょうだい。必ずね。――今宵センセ」
そう言って、真紅の名刺を律子のテーブルに置いていった。
白い文字で《神楽坂 占処アリアドネの糸 オーナー占い師 ミラージュ・M・美裸》。
*
バーの夜から数日後。
昼間の文房具メーカーのオフィスは、いつもより空気が薄かった。朝礼のあと、課長が紙を配った。
《早期退職希望者募集》
HG丸ゴシックで柔らかく可愛く打たれてはいるが、言葉の響き自体は特に柔らかく可愛くはない。
(⋯⋯来たか)
業績が落ちているのは知っていた。会議のたび、数字は崩れ落ちるかのように悪くなる。
律子は先週末に一人出かけた、美術館のショップで購入したてのクリアファイルに、その紙を入れ、鞄にしまった。
しまった瞬間、なぜか心が軽かった。
(⋯⋯タイミングかも?)
業務を終えてオフィスからの帰り道、お気に入りのカフェに寄る。
(今日は、柑橘系でさっぱりしたいな)
珍しくメニューの〈冷たいお飲みもの〉の欄に目を落とした。
「アイスベルガモットティーください」
―――ミラージュの名刺を、使い込んだラクダ革の名刺入れから取り出して、名前の部分を指で撫でた。あの夜、妖艶な香りと一緒に渡された名刺。
"占処アリアドネの糸"のロゴの下に、ミラージュ・M・美裸――その名前はよく見ると白ではなく、シルバーで箔押されていた。
連絡するかどうか迷って、律子はまずスマホで検索をした。
『ミラージュ M 美裸 占い』
『ミラージュ 占い』
『ミラージュ SM』
『ミラージュ 彼氏』
(えええ?関連検索⋯⋯既に、なに??)
一番上に出てきたネット記事のタイトルを見た瞬間、律子はベルガモットティーを吹きそうになった。
――「女王様の愛のムチ🖤12星座占い」
(女王様⋯⋯? いや、それは⋯⋯)
あの夜、律子が引いたカードが頭に浮かぶ。女帝、逆位置。
(女帝、まんまじゃん)
記事をタップすると、やたら艶っぽいキャッチコピー。
「あなた、甘えたいの? それとも、変わりたい?」
監修占い師紹介に掲載されている写真のミラージュは、あのバーの夜の時よりもずっとキツく氷の女王のように見えた。
でも年齢と存在の輪郭が相変わらずぼやけていて、肌の光り方が現実離れしている。
スクロールしていくうちに、別の噂も出てきた。
『某有名俳優〇〇の元カノらしい』
『怖いけど、当たる』
『この人に軽蔑されたい⋯⋯』
『オーラ視える人。本物』
(⋯⋯スキャンダラスな人?)
スクロールする指が止まる。
怖がられている人は、だいたい強い。
強いけど繊細な人は、たいてい優しく見せない。
そして――優しく見せない人が、実は最後の最後は、ちゃんと優しいことがある。
スマホを伏せた。
思い出すのは、あの香りだった。
香りは嘘をつかない。香りの下にある人間の匂いが、確かな土台として存在していないと、あの手の香りは綺麗に乗らない。
(いい人、そうだった)
その直感だけを信じて、律子は名刺のメールアドレスを打ち込み、一気に本文を書いた。
ミラージュ・M・美裸先生。こんばんは。先日新宿三丁目のバーでお声がけいただいた今宵リツです。占いの仕事を、本気でやるタイミングが来た気がしておりまして、お時間いただけますでしょうか?
送信。
たったそれだけで、世界が変わった気がした。
*
二十時半。占処アリアドネの糸・神楽坂本店の最終受付が終わった。
明日土曜日もそのまま勤務だから、セレナイトの間は引き続き今宵リツの結界を張っておく。タロットと最近買い足したオラクルカードをソートし、石占いの道具たちも丁寧に拭いてお決まりの位置に配置した。
「お疲れ様でした。じゃあ、ちょっと⋯⋯お隣行ってきます」
「ウフフ。いってらっしゃ〜い!」
昇りたての満月のような嬉々とした笑みで、ミラージュは律子を送り出した。
ITOKAZEビルは一階が大手チェーンの定食屋、二階がピラティススタジオ、三階が不動産屋。四階だけ二部屋あり、4Aの占処アリアドネの糸と、もう一区画の4Bは「五階に住んでいる大家の物置」という話だった。
半年ほど前から4Bに業者が頻繁に出入りしていて、エレベーターはしょっちゅう塞がれていた。
「マッサージ屋ができるらしいよ」
「え〜!休憩時間に凝りほぐしてもらえるじゃない〜」
仲間の先生たちの間でもそんな風に噂していたが、《新しく入居します》の挨拶チラシには、こう書いてあった。
――「鍼灸治療をベースとした、かけがえのないあなたの心身のための、ホリスティック治療院」――
そこに治療家先生の顔写真。
――整っている。それでいて、"水っぽい"顔してる。
生成りの、丸襟のゆるっとした服。濃いベージュのバックペーパーで撮られた、すごくシンプルなプロフィール写真。肌加工と色調補正くらいはしてあるかもしれないが、実際に会ったら肌もきめ細かそうだった。
一週間前の出演の際にチラシを見かけて、そう思った。
―――4B。スモークガラスのドアに、真っ白なドリームキャッチャーが掛けてある。その下の銀のプレートに、治療院 東風-KOCHI-の文字。
扉に手を伸ばすと、指先がほんの少し躊躇した。
ドリームキャッチャーの白だけがやけに浮かんでいる。
(⋯⋯結界っぽい。同類?)
律子は内心クスッと笑い、ノックをした。
「はい、どうぞ」
返事はすぐだった。若い男の声。
低すぎず、聞き取りやすくてクリア。
扉を開けると、淡いミルクガラスの照明がふわりと肌に当たった。
パロサント香木の香り。それと、消毒液と、新しい場所の独特の匂い。
会計カウンターの向こうに、袖をまくった男が立っていた。
黒髪は無造作にまとめられていて、顔立ちは整っているのに冷たい感じがしなくて、まろやかな微笑を向けてくれている。睫毛が妙に長く、目の奥の光が静かだ。――けれど近づくほど、その静けさの下に「温度」があるのが分かる。
“死と同居できる人間の気配”
痛みに慣れている。終わりを見てきた。終わりそのものに、慣れている。そういう瞳。
「こんばんは。初めまして」
男は軽く会釈して、名乗った。
「治療院 東風‐KOCHI‐の、東風谷 響です。よろしくお願いします」
「隣のアリアドネの糸の、今宵リツこと⋯⋯糸谷律子です。よろしくお願いします」
案内されたのは、カウンター横の黒い大理石風の丸テーブルと、オリーブ色のソファ。座ると、背中がふわっと沈む。
「こちら、問診票をお願いします」
渡されたバインダーを受け取る。
氏名、性別、年齢、郵便番号、住所、電話番号、メールアドレス、未婚/既婚⋯⋯書き進めるうちに、見覚えのある質問が続いた。エステとマッサージと薬局の問診票を、全部ひとつにまとめたみたいな。
――アレルギーはありますか?
(ある。花粉症、スギ、重度。猫、軽度)
――現在妊娠していますか?またはその可能性はありますか?(女性の場合)
(⋯⋯ない⋯⋯っと)
裏面に進んだところで、ペンが止まった。
――あなたの人生の中で、繰り返している問題はありますか?
(ん? なにこの質問。治療院で、そこまで訊く?)
少しだけ考える。
考えるほど、今の自分は「繰り返し」の塊みたいな気がしてきて、書き出しの手が何度も止まる。
「⋯⋯書けましたか?」
東風谷の声が、遠くからではなく近くから聞こえた。見れば、いつの間にかテーブルの斜め前に立っている。
「あ、はい。⋯⋯だいたい」
律子は最後の項目だけ空欄のまま、バインダーをそっと差し出した。
しばらく問診票に目を落としていた東風谷が、ふいに顔を上げる。
「今宵先生。僕、テレビで観たことありますよ」
「え!?いつ、どれ!?」
テレビや雑誌には、アリアドネの糸に世話になり始めた頃から徐々に露出し始めた。ミラージュの強力なコネもあったが、[占い師:今宵リツ]は「等身大の20代女性占い師」として、いつの間にかそれっぽい位置に収まってしまった。
「僕が専門通ってた頃なんで⋯⋯七年前くらいかな。深夜番組で、芸人さんの司会で、鍵屋さんとタクシードライバーさんと一緒にお金の話してたやつ」
(うわ、よりにもよってそれ??)
TV九段下『隣のお財布どないやねん?』の、《人の秘密抱えがちお仕事特集》。プロデューサーの意向で私だけが顔出しをして、他の人たちはマスクだった。思い出しただけで、胃の奥がきゅっとする。
「ああいうのって、わざと分かりやすくて、ぶっ刺さりそうな言葉がフィーチャーされるじゃないですか。でも今宵さんだけ『毒か毒じゃないかギリギリ』みたいな言葉選びしてて⋯⋯結果的にコメントもがっつり使われてて、スタジオも盛り上がってて。あ、なんか、めっちゃ頭いい人なんだって思いましたよ」
「ウソ⋯⋯そんな感想もらったの初めて」
律子にとっては黒歴史だった。
SNSでも告知しなかったし、できれば誰にも見られたくなかった。
占い師として、占術の腕前披露で仕事をしたわけじゃない。完全に「若い女占いタレント」枠のトーク仕事。あれ以来、ミラージュには悪いが、律子はその手のオファーは基本的に断っていた。
「⋯⋯それと」
東風谷は、問診票の次の項目を読み上げるみたいに淡々と続けた。
「今宵さん、綺麗な人だなって」
「へぇ⋯⋯!?」
声が少し裏返る。
褒め言葉には慣れているはずなのに、こういう"盛ってない極フラット"な言い方は受け取り方がわからない。
口説きたい人の声じゃない。距離を詰めたい人の目でもない。ただ、そこにある事実を確認したよ、みたいな温度感が一番反応に困る。
東風谷は自分の言葉の強さに気づいたみたいで軽く咳払いをした。
「すみません。⋯⋯印象の話です」
律子は笑っていいのか困って、結局、小さく笑った。
「⋯⋯じゃあ、ちょっと状態見させてください。この衝立の向こうでこれに着替えて、そのあとベッドに腰掛けてもらってもいいですか?」
「はい」
「今宵さん、でいいですか?呼び方」
軽く頷き、律子は言われるまま着替えを終え、ベッドに腰掛けた。
東風谷の手が肩に触れる。あくまで触れてるだけなのに、身体の奥の方を静かに探られている感じがする。
「今宵さんは、どんな占いするんですか?」
来た。毎度の初対面質問。
名刺交換の次くらいに来る、あのやつ。
「最初は簡単な数秘術と西洋占星術とタロットだけでした。でも独学だけじゃ無理だなって途中で分かって⋯⋯先生についたりしながら、今は四柱推命、古典占星術、紫微斗数、梅花心易とかも。あと石を使ったり」
言いながら自分で思う。
AI自動返信ばりにスラスラ出る。こういう説明だけは、鍛え上がっている。
「へえ⋯⋯難しい。しちゅうすいめいは聞いたことあるけど、シビトスウ⋯⋯バイカシンエキ⋯⋯は、初めて聞きました」
「そうですよね」
次に仰向けになるように指示されて、身体にタオルをかけられる。
「僕、姉貴がいるんですけど、姉貴が占い好きで。家に九星気学とかマヤ暦とか数秘術の本があって。それと、僕⋯⋯メキシコに半年くらい住んでたこともあるから、メキシコと関係あるマヤ暦ってやつ、ずっと気になってたんですよね」
「メ、メキシコ⋯⋯?」
律子の声が自分でもわかるくらい間の抜けた感じになる。
「はい。メキシコシティ」
東風谷は脈を取るため、律子の手首に指を当てた。しばらく沈黙が続いたあと、こう続けた。
「鍼灸の専門卒業して、就職先も決まってたんですけど、家庭の事情でバタバタして白紙になって。親父が急に亡くなって⋯⋯それで、親父の生命保険金で放浪してました。二年くらい」
(そうなんだ。さらっと言ってるけど、重いな)
「韓国とかタイとか、カンボジア、ラオス。ニューヨークも。ブラジル、アルゼンチン⋯⋯で、メキシコ」
ただ国名地名を羅列してるだけなのに、映像が勝手に出てくるような言い方だった。たぶん、この人は土地の空気を身体に定着させてきた人だ。
「メキシコが一番居心地よくて。バスに乗ってたら急にみんな歌い出すし、飯も合うし、街はカラフルで。いるだけで元気出ました。毎日飽きなかったんです。友達もできて」
手首や腕、頭部をチェックしていた手が離れ、今度は腹部を確かめる。みぞおち付近、指先の圧が深まれば深まるほど、律子は苦しい痛みを薄っすらと感じた。
「長期滞在してたホテルで、壁画が剥げてきたから『一緒に描かないか』って言われて。好きに描いてたら『お前うまいな』ってホテルスタッフに言われて⋯⋯その流れで気ままに何日か描き続けてたら、通りがかりの近所のタトゥースタジオの親父に声かけられて、『お前うちのスタジオ来い』って、そのままその親父のタトゥースタジオに連れて行かれました」
「ええ⋯⋯怖ぁ」
「怖かったですよ。身体デカいし、顔には意味ありげな傷や刺青あるし。でも『マシン握ってみろ』って言われて。いわれるまま握って、電源入った瞬間、思ったんです」
東風谷は、一拍だけ言葉を止めた。
「『知ってる』って」
(なにそれ⋯⋯)
施術ベッドに仰向けに寝かされながら、身体を一方的にチェックされながら、律子は東風谷の"唐突で意味不明なのに、やたら聞かせる独白"を聞いていた。
「タトゥーの親父が『お前ここで働け』って聞かなくて。怖かったから、っていうのは冗談ですけど、最初は言われるがままに既存のデザインをひたすら彫ってました。でも、なんかやたら評判になって⋯⋯だんだん『響オリジナル、おまかせで』って言われるようになって」
「それ、運命力が過ぎません?」
「そうかもしれないです」
さらっと言って、消毒綿を手に取る。
「で、インスタに淡々と載せてたら、いつの間にかフォロワー3.5万とかになってて。帰国しても『響のデザインがいい』って色んな国の人からDM来るようになって⋯⋯」
(うん、ちょっと待って。私いま鍼灸の治療院に来てるんだよね⋯⋯?)
うっすら話の行方を案じてはいたが、予想外の方向に広がっていくのが、単純に面白い。
「その話、すごい。⋯⋯そうだ。あそこにかかってる絵って、東風谷先生の?」
ベッドに横たわると、右正面の壁に細い黒縁に入った絵が見える。
中心にドクロ、その周りに絡みつく二匹の蛇。複数の稲妻がドクロを囲むように走っていて、遠目からでもアイコニックで目を引くのに、近づいたらそこに壮大な物語があるようだった。
「そうです。HIBIKIスタイル。稲妻多め」
「やっぱり」
「ここ、火曜定休なんですけど⋯⋯火曜だけ予約制のタトゥースタジオになります。大々的には言ってないですけど」
(何この人、面白すぎるでしょ)
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