闇 501(田無ボッタクリツアー編)
闇 501(田無ボッタクリツアー編)

2026/03/15 sun
前回の章

二千二十年九月二十日、日曜日大安。
朝起きてからよくうがいをする。
昨日はまさか過去のトラウマを思い出し、いっしょうけんめいのトイレで吐くなんて思いもしなかった。
精神的にはこれまで幾多のもの地獄を潜り抜け、強くなっていたと思うんだけどな……。
鏡で自分の顔を見てみる。
顔色は悪くない。
たまたま酒の酔いと重なり、様々なトラウマを反芻してしまっただけだろう。
部屋で横になりながらフェイスブックを眺めていると、先輩の須賀栄治さんがレトロチックな定食で食べている写真が載っていた。
興味を覚え、店名をチェックしてみる。
大正浪漫通りに新しくできた『大成亭』という店。
近所だし早速行ってみるか。
着替えを済ませると、足早に向かう。

元銀座通りにできた大成亭。
栄治さんのスガ人形店目の前。
確かこの跡地って、妹代わりのミサキを随分前に連れて行った店だよな?
確か桜産業という悪徳不動産を懲らしめたあと行った場所だ。
あの寿司屋潰れちゃったのか。
まあ一度しか行っていない俺が残念がるのも変だけど……。
不動産の一連の件が終え、俺はミサキを連れてクレアモール商店街をひたすら歩く。
「どこ行くの?」
「まだ決めていない」
真っ直ぐ進むと大正浪漫通りになる。
「ねえ、まだ歩くの?」
「そろそろだ」
目に付いた寿司屋の看板。
店内へ入る。
「ミサキ、マグるぞ」
「何マグるって?」
「マグロをたらふく食う事だ」
「えー! 私イクラとか雲丹が食べたい」
「おまえはそれでいいよ。俺はマグロの赤身しか食えないの」
「じゃあ、何で寿司屋なんて入ってんの……」
「マグロだけは俺の好きなものベスト五位だからだよ!」
「馬鹿みたい……」
あのままコイツの部屋にいたら、理性が吹っ飛びそうで怖かった。
壊れない関係。
それは俺が兄らしく、少しお馬鹿でいる事。
あれは俺が三十歳ぐらいの頃だから、もう約二十年前になるのかよ……。

チキンライスとナス味噌炒めを注文。
一品六百八十円から。
値段がかなり安い。
料理はちょっと味気ない感じであるが、この料金なら文句も言えないだろう。
食事を済ませ、斜め向かいのヤスのカガヤカフェにて、アイスコーヒーとコーラフロートのコンボ。
時間を潰しながら、買っておいた競馬のレース中継を眺めた。
ローズステークスは、軸馬クラヴァシュドールがコケたら終わり。
「クラヴァッシュドールふざけんなよ! クビクビ差で五着なら、頑張って三着まで入れば三連単取れてたのに」

来てれば三十三万になったのになあ……。

「智さん、惜しかったっすね」
「やっぱりね、悔しいから明日もやるよ、朝日杯セントライト記念。明日こそ当てるから。あ、タバコ切れたから、一旦家まで取りに帰る」
もう一度カガヤカフェへ戻り、競馬で負けた管を撒く。
小腹が減ったので、また大成亭へ食べに向かう。

今度は生姜焼き定食とポテトサラダを注文。
今日は大成亭からカガヤカフェ。
タバコを取りに一度家に帰り、再びカガヤカフェから大成亭と意味不明な行動をしているな……。

食べ終わり店を出ると、ちょうど逆側から櫻井さんが歩いてくるのを発見。
「ヤスの店行くんですか?」
「うん、ちょっと飲もうかなと思ってさ」
こうして一日の間で、三度目のカガヤカフェ。
向かいの大成亭の話になり、ヤスが用事あるようで店は六時半に閉まる。
「飲み足りないから、せっかくだし大成亭に行ってみようかな。智一郎も来る?」
「うーん…、実は大成亭も、今日すでに二度行っているんですよね…。まあいいです。こんな日もありますよね」
またしても三度大成亭。
店の従業員も俺の顔を見て思わず吹き出している。
だがこの店の閉店時間は七時らしく、俺たちは軽く飲んで出た。
こうなると少々飲み足りなさを覚える。
「櫻井さん、どこかあります?」
「連繋寺のおびつだった場所に、うどん屋ができたんだよ。松永さんもよく行っているみたいだよ。そこ行ってみる?」
そういえば呑龍の隣りに移転した玩具のおびつのオヤジ。
俺があそこを通る度、顔を見れば騙されたと愚痴りが始まるよな。
子供の頃から連繋寺の隣りにあったのだ。
あのオヤジからすれば、納得できないものがあるのだろう。
確かにあのおびつのあとにできたうどん屋は、少し気になってはいた。
目の前が今は無くなったカフェアンジーなので、あの辺りで食事をすると気分悪くなるので行く機会がなかっただけ。
あれだけ贔屓にして四周期祝いの花まで送ったのに、時間ギリギリで門前払いされ、一度もフォローなく、気付けば挨拶もなくどこかへ移転だもんな、アンジーは……。
同じ通りにあった『小江戸っ子うどん』にしてもそうだ。
あれだけ通って閉店する理由すら濁して、どこかへ消えた。
嫌な言い方だけど、新参者の店はそういった過去があるのでいまいち通う気になれない。
今回は櫻井さんが一緒だから、付き合いでそのうどん屋へ行くだけだ。
立門前通りを真っ直ぐ進み、中央通りをぶつかるところにあるうどん屋『土麦』。
中々凝った感じのお通しを出す店で、少し驚く。

メニューはうどん系が当たり前だが多い。

天ぷらを食べ、酒を飲み、会計する際櫻井さんがトイレへ行く。

八千円だったので先に払い、外でセブンスターに火をつけながら待った。
二本目を吸おうとして櫻井さんが出てくる。
半分は払ってくれるものと楽観視していたら「智一郎ごっちょさん」と焼肉なんでむんへ消えていく。
「……」
一応競馬も負けているし、驕るつもりはなかったんだけどな……。
まあ昔から世話になっているからいいか。
明日からまたホテル生活の日々が始まる。
二千二十年九月二十一日、月曜日赤口、敬老の日。
ラッキーハウスへ出勤すると、内藤ノブ紹介の新しい従業員が入ってきた。
名前は本田。
年は奇遇にも俺と同じ年。
ゲーム屋のような賭博業は初めての経験らしく、一の基本から教えなければならない。
初心者なのは仕方ないが、店のコールを発する時も恥ずかしいのかボソボソと小声で呟くように言う。
「本田さん! ハッキリみんなに聞こえるように声を出さないと。これはある意味金を扱う上での確認作業なんだ。恥ずかしがってちゃ務まらないよ」
「す、すみません……」
四十九歳で業界未経験。
特別なセンスがある訳ではなさそうなので、ノブも使えない人間を紹介したものだと内心うんざりする。
さすがに十二時間付きっきりでは参ってしまうので、山下にも面倒を見させた。
フェイスブックの過去の思い出で、二千三年の今日の出来事が出てくる。
今が二千二十年だから、本日をもってピアノを辞めて丸十七年が経った訳だ。

正確にはピアノ発表会をしてから十七年。
品川春美の為にピアノを始め、一心不乱に取り組んだ結果、何とかドビュッシー作曲月の光を弾けるようになった。
観に来ると言って結局会場には来なかった春美。
演奏を終了し、場内を見渡して彼女の姿を見つけられなかった俺は、軽く一礼するとさっさと舞台をあとにした。
そのあと裏ビデオ屋『メロン』での刑事騒ぎ。
危うく摘発される状況にも拘らず、キーボードでザナルカンドを演奏し、自身の作品『新宿クレッシェンド』の手作り本を持っていた事が窮地を救ってくれた。
だから十七年前の発表会が最後の演奏ではない。
あの小汚いビデオ屋の中で、俺はキーボードを持ち込みよく弾いていたのだから。
春美が来なかったショックが強く、俺の記憶の中では発表会でピアノを辞めたという記憶の改ざん。
これまでの順序でいえば、絵を描き、総合格闘技で闘い、ピアノを始め、パソコンを教わり、そこから初めて小説を書き出したのだ。
つまりピアノと小説は、同時進行ではない。
それにしても随分時間が経ったものである。
もうピアノなんて弾けなくなったであろう。
当時は懸命に時間を費やしたスキルの数々。
時の経過と共に腕はどんどん鈍っていく。
先日小谷野とバーのリバティで飲んだ際久しぶりに作ったカクテル。
あのようなものは、形だけは未だ作れた。
それでも繊細な技術面だけ見れば、大幅に落ちてはいる。
音楽の場合、これまでの経験で言えば柔軟やストレッチと同じだ。
一日やらないだけで劣化は激しく衰えてしまう。
では小説は?
「……」
もう九年は執筆していない現状。
ピアノや格闘技同様、このまま小説まで埋もれていくのか。
過去の感傷に浸っている内に仕事終了時間となる。
「岩上さん、飲みに行きますか?」
「行かねえよ。俺はこれからホテルへ行って部屋でしっぽり飲むんだ」
「えー、本田さんがせっかく入店初日なのに」
「まだ仕事慣れてもいないのに、おまえは飲む事しか頭にないのかよ。本田の歓迎会はもうちょっと様子を見てだな」
第五期ホテル暮らし一日目開始。
宿泊費も一泊五千円台に入り、そろそろこの生活も難しくなってきた。
お風呂ゆっくり入り、冷蔵庫へ入れた冷えたグレンリベットをストレートで飲む。
クラッカーにクリームチーズを塗ったつまみをお供に。

本田を紹介者ノブのいる遅番へ持っていき、代わりに川崎か大山を早番へ持ってくればいいのにな。
面倒な客の対応や、新人育成はいつも俺に回ってくる。
店長の橋本は、前からそういった一面があった。
まあ愚痴っていても何も始まらない。
まだ週の初日が終わっただけなのだから。
二千二十年九月二十四日、木曜日先負。
昨日の夜、仕事を終えてからホテル一階のビーフキッチンスタンドでホンダのプチ歓迎会をした。
その時吉岡が言っていた事を思い出す。
「本当に赤崎さんが早番の店長になってから、ラッキーハウスは入客数も伸びたけど、何より客の滞在時間が増えましたよ。深谷さんなんて、ほぼ毎日来ているじゃないですか。遅番の橋本さんの時間なんて、ほとんど入客無い状態ですからね」
「持ち上げ過ぎですって。俺は昔からゲーム屋本来のやり方を心掛けているだけですから」
「木下はただふんぞり返ってましたけど、赤崎さんは全然違う。従業員思いだし、ちゃんと下の人間も庇うし」
「まあそろそろみんな、終電時間も近付いてきたし、今日はお開きにしましょう。俺は部屋で食べる朝食をまたここで作ってもらおうかな」
「あ、赤崎さん、ずっとこのホテルに泊まっているんですよね。朝食なら、確か三階だか四階だか忘れましたけど、レストランありますよ」
「え、本当ですか? じゃあ早速明日行ってみようかな……」
このアパホテルには、朝食ビュッフェがあるらしい。
その情報に心をときめかす俺。
だが彼は「二千円であれじゃ、ショボ過ぎて行かないほうがいいですよ」と助言していた。
そうはいっても朝から腹一杯食べられる環境なんて中々ない。
俺は風呂へ入り身支度を整えると、ブッフェへ向かう。

「……」
料理の並ぶテーブルを見て、思わず言葉を失った。

料理の種類も少ないし、個々の品のストックが少ないのだ。
肉団子など白の細長いトレーに八個しか残っていない。

これまで数々のホテルブッフェを見てきた俺にとって、一番貧相なものに見えた。

うーん…、これで二千円はちょっとは高いなあ……。

このレベルなら、まだ大久保病院斜め向かいにあるホテルキャビンの朝食のほうがいい。
もっと金を出せば、新宿プリンスホテルのビュッフェだってある。
何より自身の生活問題だ。
来週の分もホテル予約を押さえてあるが、一泊六千円近くまで料金が上がってきたので、そろそろこの暮らしも頃合いで、別の方法を探さないといけない。
ラッキーハウスへ出勤していつものように仕事をしていて、ふと本田はどこから通勤しているのか聞いてみる。
「自分は家が相模原なんですよ」
「え、相模原って、横浜よりさらに奥でしょ? 新宿まで通うの大変じゃないの?」
「ええ、なのでラッキーハウスへ出る時は、ホステルとか利用しているんですよ」
「ホステル? 何それ?」
初めて聞いた名称だ。
ホテルとホステスをドッキングさせた感じ?
いやいや、何でホテルに飲み屋の女がセットでいるんだよ……。
「ホテル…、ちょっと違うか…。うーん、マンションみたいな感じで、でも部屋は各自あって、トイレや風呂だけ共用なんですよ」
まあ風呂トイレ共同ぐらいなら、普通に生活できるよな。
ちょっと色々聞いてみるか。
「ねえねえ、一泊いくらぐらいするの?」
「その時によって値段は変動しますよ」
「例えばさ、今俺が宿泊しているアパホテルも、コロナ初期なら二千五百円だったんだって。俺が泊まり出した頃で三千円ちょっと。今じゃ五千円越えだよ。やっぱそのぐらいするの?」
「え? そんなしませんよ。自分が泊まるところは、千五百円から二千円ぐらいの間ですよ」
「二千円? え、あのさ…、十月の最初の月曜日…、五日か。そこから俺も泊まれないかな?」
「自分の泊まるところでいいんですか?」
「うん、もちろん」
「場所は大久保になりますよ?」
「駅で一駅じゃん。歩いても通えるじゃん」
「じゃあ仕事あと行ってみますか?」
「まだ今はホテル暮らしだけど、早めに予約だけしてみようかな」
山下がニヤニヤしながら近づいてくる。
「岩上さん、本田さんもアパホテル泊めてやればいいじゃないすか」
あのダブルベッドに四十九歳の男二人で住む?
想像した瞬間、俺は山下のケツを蹴飛ばした。
仕事を終え、本田と大久保駅の先にあるホステルを見に行く。
駅前の大久保通りを真っ直ぐ進み、交差する小滝橋通りを超えた先にある『ラッキーホステル』。
何だ、このギャグみたいな名称は?
ラッキーハウスとほとんど変わらないじゃないかよ。
一階がファミリーマートでその横の階段を上がっていくらしい。
とりあえず料金を聞くと、一泊千六百円。
十月五日からだと月末の三十一日まで借りたとして、二十六日。
合計で四万千六百円。
下手にマンションを借りるより楽でいい。
五日間の宿泊で二万以上掛かるアパホテルより、断然お得だ。
俺は即決でラッキーホステルの契約を済ませる。
部屋の空き状況もある為、連続で一つの部屋を借りたほうがいいようなので、十一月分もまとめて支払う。
来月からは一ヶ月契約でホテル暮らし開始。
川越へ帰るのは予定だと、月に一度程度になるかな。
これで少し職場までの距離は遠くなるものの、大久保から歌舞伎町への出勤が決まる。
ラッキーホステルからラッキーハウスへなんて、もし俺がいつか小説を書く事があったら、絶対に読者も混乱するんじゃないか。
いやいや、執筆自体十年近くしていない人間が、作家みたいに考えるなよ。
四十歳になってからの俺は、昔と違い本当に行動力がなくなってしまったようだ。
明日は吉岡も出勤し、山下、本田と従業員の数も揃っているので、遅めの出勤にした。
来月に備え、家から必要なものを整理して新宿へ運びたかったのだ。
もう川越から新宿への出勤なんて、ここ一ヶ月程度のホテル暮らしですっかり無理になっていた。
コツコツ地道に働き金を貯め、ゆくゆくは何かしら考えればいい。
いずれ、うんと暇取れるようになったら、奈良行って鹿に餌をあげて可愛がるのもいいだろう。
アパホテルで料金を払っているので少々勿体なく感じたが、明日の出勤が遅いので、一旦地元川越へ帰る。
今日はあの部屋も、コインロッカー代わりだな。
夜の十一時過ぎに到着して、家へ向かう。
途中にある近所の焼鳥屋『中村屋』がまだ営業していたので、久しぶりに寄ってみた。
家から一分ほどの距離にある中村屋は、俺が子供の頃駄菓子屋だった。
中村さんのお袋さんが亡くなるちょっと前に、焼鳥を始める。
確か俺がくっきぃずでピアノを習い出した頃。
あれは二千一年ぐらいだから、もう何だかんだで中村さんも二十年近く営業しているのか……。
「お、智一郎。久しぶりだね」
「すみません。今、コロナ渦で新宿でホテル暮らしをしているので、あまり川越にいないんですよ」
「それはそれは豪勢な暮らししてるねー」
この店の面白いところが、ちょっとしたイタリアン料理チックなものまで置いてあるところ。

「このご時世で宿泊料金が安いから、たまたまそうしていられるだけですよ。中村さん、何かお勧め料理ってありますか?」
「うーん、そうだねえ。つくねが一番人気かな」
「じゃあ焼鳥を適当にと、つくねも下さい」
「はいよ」

勧めるだけあって、生卵の黄身も添えたつくねは絶品だった。
「これをさ、ご飯に掛けたつくね卵掛けご飯を食べる人多いんだよね」
「うん、美味しいです!」
みなさんも一度お試しあれと、俺はフェイスブックへ宣伝として料理の写真をアップした。
平日に川越なんて随分新鮮な感じがする。
さて…、新宿へ持っていくものは……。
結局ノートパソコン一台あれば用は足りるけど、毎回持ち帰るのも面倒臭いなあ。
とりあえず明日ゆっくり考えよう。
俺は布団に横になると、すぐ睡魔に襲われた。
二千二十年九月二十五日、金曜日仏滅。
結局長考した割りに、下着類を数週間分持っていくだけに留める事に決めた。
ラッキーホステル用に一台ノートパソコンを新たに買ってもいいなと思ったからである。
普段なら朝九時出勤が四時間遅れの一時出勤なので、牛タンとろろ『ねぎし』へ寄り、昼飯を食べていく。

ラッキーハウスへ出勤すると、丁度売上を取りに番頭の香川が店にいるところだった。
「赤崎さん…、ちょっといいですか?」
「え、何でしょう?」
香川に促され、店の外に出て喫茶店のクールへ向かう。
出勤したての俺をわざわざ連れ出す意味合いは何だ?
嫌な予感しかしない。
「何故今日勝手に出勤時間を遅らせたんですか?」
「従業員全員には了承を得ていますよ。暇な時間帯に四人いてもやる事がないし、かといってみんなもそれぞれ生活あるから休めとも言えません。なので俺が日払い減りますが、四時間遅く出勤したまでです」
「ですから何故それを自分へ報告しないんですか?」
「……」
いちいち重箱の隅を楊枝でほじくるようなネチネチした性格は、相変わらず変わらないなあ。
「店長の橋本さんも、遅番でよく早上がりとか暇な時しているので、自分もそれでいいと思いました」
「分かりました。まあ、何故ここへ赤崎さんを呼んだかと言うとですね。赤崎さんを早番の責任者にしてから、入客が落ちているんですよ」
「はあ? 入客表見てますよね? 吉岡さんなんて、俺には再三入客どころか客の滞在時間まで増えたといつも言ってくるぐらいですよ? 顧客来店表を見れば分かると思いますけど?」
最近では早番のほうが入客状況も、客が店内にいる滞在時間も、すべて遅番よりかなりいい結果を出している。

これは俺を中心に、早番がまとまっているからこそ、客も安心して遊びに来れるし、業務に関する手は抜いていない。
何を根拠に難癖をつけているのかまるで理解できず、意味不明だ。
どこに目をつけているんだと怒鳴りつけてやりたかった。
顧客のデータは残っているのに、それを無視して個人的主観を述べているだけ。
「ちゃんと早番の責任者できますか?」
香川の投げ掛ける屈辱的な問い。
さすがに感情的になってしまう。
「俺がやっていないとでも言いたいんですか?」
「自分は現場にいる訳でないので、あの店を任せている店長の橋本から評価を聞いています。赤崎さんはどうも評価が良くないんですよね」
「……」
一体何なんだ、この流れは?
橋本が本当にそう言ったのか?
以前山下が掴んだ橋本の個人ビンゴ捏造。
その事をよほど言ってやろうかと考える。
「おかしいと言えば、橋本さん…、多分抜きやってますよ」
「え?」
思わずいきなりの告白に、大きな声が出てしまう。
「昨日岩上さんが休みだったじゃないすか」
「何があったの?」
山下の話によると、最近ではめっきり来なくなったガジリ屋佐藤ヤスの個人ビンゴが、昨日俺のいない日に遅番で完成してらしい。
「……」
いや、俺からまだ山下には下手に動くなと言い聞かせたのだ。
その俺が感情的になって香川へ、橋本の抜きを伝える。
この状況では見苦しい言い訳になってしまうだけ。
それに橋本とも長い付き合いになる。
四年近く同じ釜の飯を食べて同僚。
オーナーの酒井さんがまだ捕まっている時に、店の混乱を招くきっかけを俺から言い出していいものだろうか?
「香川さん…、一つ提案なんですが、叙々苑弁当の注文はもうやめませんか?」
話題を変えるように別の問題点を話す。
二つ以上注文しないと持って来れない叙々苑弁当。
別にそこしか出前できる店がない訳ではないのだ。
梶原のように二つ頼めと勘違いする客も出てくるし、経費だって無駄になるだけ。
すると香川は俺の発言に対し、目を丸くして驚いている。
「何を言ってんですか、赤崎さん? あの店は遊びに来れば、叙々苑弁当が食べられる…、そんなステータスを感じられるからこそ、自分は許可しているんです」
「……」
本当にこの馬鹿の頭の中はどうなっているんだ?
ゲーム屋で叙々苑弁当を食べられるステータス?
酒井さんの前でも、コイツは同じ事が言えるのか?
駄目だ、まるで会話にならない。
俺は話すのを諦め、終始相槌を打つ事に撤し、クールでの緊急ミーティングを早く終わらせるようにした。
この日、店へ戻っても心にとれない邪魔な棘が刺さったような感覚はずっと取れなかった。
ホテルで休んでいても、昼間の会話が何度もリフレインして苛立ってくる。
前から判断力がおかしいとは感じていたが、香川と橋本が裏で何やら繋がっているのではないかと、その事だけで頭がいっぱいになった。
ただの嫌がらせをしているようにしか、どう考えても思えない。
池袋のちかとのLINEのやり取りだけが、心を少しだけ癒してくれた。
中々寝付けず、何回も風呂へ入る。
ようやく眠れたのは明け方近くだった。
二千二十年九月二十六日、土曜日大安。
気持ちを上手く整理できないままのラッキーハウスへの出勤。
昨日の事は、まだ誰にも話していない。
まあ今日出れば明日は休み。
そう割り切ろうと考えるも、やはりイライラしてしまう。
第三者の視点も必要だ。
俺は山下へ香川とのやり取りを話してみる。
「えー、何すか、それ? 絶対言ってる事おかしいじゃないすか!」
「…だよな……」
「だって岩上さんの早番のほうが客だって入ってるし、橋本の遅番なんて酷い時入客ゼロすよ? 香川さんの言ってる事、かなりおかしいすよ」
そう…、やはり俺は間違っていない。
じゃあ、何故あんな事をあえて言ってきた?
ハッキリ言えば、香川の話した内容はただの捏造だ。
この店へ入った当初からどこか安心できないものがあったが、その原因は香川という癌細胞がいるからなのだ。
「橋本の抜きは言ったんですか?」
「いや…、まだ言ってない。推測すると、あいつらグルで何かやっている。じゃないと、俺にあんな事を言ってくる意味合いが理解できない」
落ち着けって。
俺がカッカとして冷静さを失うと、取り返しがつかなくなるぞ。
懸命にささくれ立つ精神を抑えるよう努める。
「俺さ、香川のムカつく面見たくないから、売上あいつが店に来る時間、飯休憩行ってくるよ」
「え、またそんな事したら、何か言ってくるんじゃないすか?」
「真面目にやってんのに、すでに言われてんだろ!」
「……」
「悪い…、山ちゃんに八つ当たりしてもしょうがないのにな。すまない」
唯一の昔からの味方である山下。
俺がこれまで歌舞伎町でどう生きてきたかをある意味一番知っている生き証人でもある。
「そうだな…、悪い事などしていない。俺は堂々としていればいいんだよな」
「そうすよ」
昼になり香川がラッキーハウスに来店。
台の設定に入るので、一斉に従業員は食事休憩へ行く。
山下と本田を連れ、近所の定食屋で食事を済ませ、一時間経ってから店へ戻る。
「赤崎さん、ちょっといいですか」
「え、何ですか?」
「ここじゃアレなんで、外へ」
「……」
また理不尽な何かが始まるのかよ……。
うんざりしながら昨日と同じくクールへ入る。
開口一番聞いてきたのは、俺が抜きをしているかの確認だった。
今になってあの時の事を持ち出してくるのかよ。
内藤ノブを庇った一件。
しかしあいつの裏切り行為に近い、不必要な密告によりあのままだった捏造の件。
先月だけでも、俺自身八万円の金を店へ補填し埋めている現実。
今月も今日のこの一万で、三万円目になる。
俺はノブを呼び、酒井さんの自論を話す事にした。
そして最近来なくなった客の個人ビンゴを捏造し、完成した状態にしてその金で不足分を埋めると伝える。
「そんな事して大丈夫なんですか?」
「もちろん店長の橋本さんや、香川さんには言えない。でも、俺たちも生活あるし、こう毎回ミスが出て埋めていたんじゃ、何の為に働いているんだか分からないでしょ? 酒井さんが前に俺に言った台詞って、多分こういう時の為なんだと思う」
「うーん……」
「ノブさんも、日払いから一万出したら苦しいでしょ?」
「まあそうですけど……」
「これは抜きではない! 私欲でやったものでなく、俺もそうだけど、ノブさんの生活を守る為でもあるんだ」
「はあ……」
「とりあえずこの個人ビンゴを偽造して完成させたという事は、俺とノブさんしか知らない。二人でこの事を黙っていれば問題ないから」
確かに俺のした事は、褒められたようなものではない。
だが、ノブがわざわざ橋本へ密告しなければ、それで済んだ話なのだ。
ここは潔く認めたほうがいいだろう。
「はい、それは自分の判断でやりました。すみませんでした。二万円なら、今すぐ自分の金で埋めます」
「でも赤崎さん、聞いたところによると、ホテル暮らしをしているそうじゃないですか」
「それはこのコロナ渦で宿泊料金が安いから、感染リスクも考えてそうしているだけじゃないですか」
「それならマンションを借りればいいじゃないですか」
自分の稼いだ金をホテル代に使って何が悪いのだ?
何故そんな事まであれこれ言われる筋合いがある?
「逆に言いますけど、マンションのほうが今は高くつくと思いますけど?」
「それ以外にも、本当に赤崎さん…、抜いていないんですか?」
卑しい笑みを浮かべながら聞く香川。
いきなりの疑惑に瞬間湯沸かし器のように頭へ血が上る。
「抜く訳ないじゃないですかっ! 俺は酒井さんにまた拾ってもらい恩義を感じています。その酒井さんが捕まったままの状況で、ラッキーハウスを護る事しか考えていません」
「分かりました。赤崎さんは抜きをしていない。まあそういう事にしておきましょう」
「……。ちょっと何ですか、その言い方は?」
よほど店長の橋本のほうが私利私欲で抜いているだろうと言いたかったのを必死に堪える。
「一応赤崎さんには早番の責任者を任せていますが、これなら内藤さんのほうがいいのかなあ……」
「……」
入ってまだ一年程度の新人のほうが、俺より優れていると言いたいのか?
大久保冬芽がゴネたら、ヘラヘラしながら店の金を十万渡して帰すのが、見本の接客なのか?
人を馬鹿にするにも程がある。
俺はテーブルへ千円札を置き、席を立った。
「どこへ行くんです?」
「仕事中なので、店へ戻ります。人事権はどうせ香川さんが決めるんだろうから、勝手にして下さい……」
「赤崎さん!」
俺は無視してラッキーハウスへ戻った。
異様な様子で帰って来た俺を見て、山下は何事かと話し掛けてくる。
「俺が抜きをしてんじゃないかだってよ……」
「はあ? あり得ないじゃないすか!」
「それと俺には責任者として不足だから、ノブを代わりにするかもだって」
「え、香川さん何を考えているんすか?」
「知らねえよっ!」
レスラーは攻撃を避けちゃいけない。
俺はずっと逃げずに受けてきたつもりだ。
だが、根底にある魂まで小馬鹿にされたら黙っていられない。
俺にとって根っこの矜持だけは、どんな状況下にあろうともそれが第一優先だ。
しかし自暴自棄になるな。
まずは落ち着け……。
今の心境をそのままフェイスブックへ投稿した。
人間には不必要なプライドと、譲ってはならないプライドがある。
人としての尊厳を踏みにじられてまでヘラヘラしてるのは違う。
何故ならば、これまでの自身は多くの人の出会いを経て成長し、現在に至るのだから。

仁とは施しの心、優しさ。
義とは人助けの心、義侠心。
礼は礼儀、礼節の心。
智は正義を真に理解できる知恵。
信は言葉と言動が一致する事、人を欺かぬ事。
厳は自らを厳しく勇める事。
勇は自ら勇気を持ち行動する事。
これを踏み外してまで俺はヘラヘラいられない。
うん、自分の思うまま行動するとしよう。
別に責任者へ任命されたからといって、給料が一円でも上がった訳ではない。
例え裏稼業へいようと、自分の生き方はある。
見えない何かの芯に従い、これまで行動してきたのだ。
苛立ちが止まらない。
以前から理不尽過ぎるこの職場。
そろそろ新たなステージを選んだほうがいいのか?
そんな事さえ考えるようになっている。
「岩上さん、明日休みすよね? 酒飲んで帰りましょうよ。香川さんに言われた事なんて、あまり気にしない方がいいすよ」
「あんな言われ方されりゃあ、気にすんなって方が無理だろうが!」
「自分にそんな怒らないで下さいよ。ほら、今日は本田さんも付き合うって言ってくれてますし」
「……。分かったよ…。どこへ飲みに行くんだ?」
「田無どうすか?」
「はあ? 何で田無なんだよ?」
「だって岩上さん、今日川越帰るじゃないすか。途中にある田無で降りましょうよ。結構いい店多くて、自分最近ハマってんすよ」
「嫌だよ、面倒臭い……」
「本田さんも来るんすから」
「じゃあ、終電で必ず帰るからな」
しつこい山ゴネスに根負けする形で、初の田無駅で途中下車。
一件目の串焼き屋へ三人出入り、適当に注文をする。

「ここいい店なんすよ」
そう言う山下であるが、ただの路地裏にある寂れた居酒屋というだけに過ぎない。
一軒目を出ると、本田が終電だから帰ると駅へ向かう。
俺も一緒に行こうとすると、山下が声を掛けてきた。
「え、岩上さんまで帰っちゃうんすか?」
「終電で帰ると言ったろ、最初に」
「もう一軒だけ行きましょうよ? もっといい店あるんすよ」
次を付き合えば田無残留決定。
しかしコイツなりに、俺を元気付けようとしているのかもしれない。
どうせ明日は休み。
たまには朝まで飲むのもいいか……。
二軒目は少し洒落た感じの居酒屋。
このコロナ渦なのに、この近辺は客が多い。
当たり前だが店を出ると、もう川越までの電車は無くなっていた。
「次は凄いすよ」
「おまえの凄いって、何も凄くねえじゃねえかよ」
「次の店はクラブなんすよ」
「はあ? クラブってディスコだろ? 俺はいいよ。踊りとか興味ないし」
「違うんすよ! クラブといっても男女の出会いの場みたいな店なんすよ。 結構若い女の子来てますよ」
「若い女ねえ……」
「行きましょうよ、その店へ」
強引に引っ張られるような感じで、俺は三軒目のクラブへ入った。
時間を確認すると、ちょうど日が明けて二十七日になっている。
騒がしい騒音に包まれた店内の中、俺と山下はカウンター席へ腰掛けた。
二千二十年九月二十七日、日曜日赤口。
お互いの話し声も聞こえない喧噪な中、どうにも落ち着かない自分がいる。
ノンヴォーカルのジャズがシックに掛かっているような静かな店を元々好む俺。
今は無くなってしまった本川越駅近くのスイートキャデラックを懐かしく思う。
「ねえ、山ちゃん…、ここ出ようよ。うるさ過ぎる」
「あ、岩上さん、紹介します。こちらタケオさんと言って、この近くでバーをやってんすよ。ほんといい人なんで」
田無なんて来る事もないのに、そんな紹介など正直いらない。
しかしタケオも交えた飲みは、すぐ解放されそうもなかった。
派手な音楽が掛かる中、耳がおかしくなりそうになり、俺は外へ出る。
慌てて追い駆けてくる山下。
「どうしたんすか?」
「だから言ったじゃん…。俺、ああいう場所って嫌いなんだよ」
「じゃあちょっとだけ待ってて下さい。タケオさんのバーにしましょうよ。あそこなら落ち着くので」
それだけ言うと、山下はクラブへ戻り、タケオを連れてきた。
昨日の考え事から睡眠不足。
そのままラッキーハウスの出勤。
再度香川の小言。
精神的にも肉体的にも疲れていた。
できればすぐにでも横になりたい気分だ。
しかしこうして彼をわざわざ店で飲んでいるのを連れ出した今、少しは付き合わないといけない状況。
山下も俺を引っ張り回すのは、本当にいい加減にしてほしい。
「もう眠いよ……」
「あと一軒、タケオさんところだけ行って終わりにしましょう」
少し歩いた先にあるタケオのバー『サザンクロス』。
南十字星…、北斗の拳のファンなのか?
いや、考え過ぎか。
カウンター席も空いていたが、ボックス席へ通され目の前に酒が置かれる。
「何か頼みますか?」
「いや、本当に腹一杯だし、眠いんだよ」
「あとちょっとだけすから」
次第に視界が狭まっていく。

身体を揺すられ目を開く。
ん、どこだ、ここ?
意識が混濁する中、ゆっくり瞼を開き辺りを見渡す。
そうだ…、山下に連れられてバーに来て、そのまま寝てしまったのか……。
何故か目の前には店員が三人立っていて、俺のほうを笑顔で向いている。
何だ、コイツら?
「いただきまーす!」
「いただきまーす!」
「いただきまーす!」
三人がそれぞれシャンパンのボトルを持ち、目の前で突然開けだした。
何やってんの、コイツら?
そういえば山下の姿が見えない。
俺は店員に聞くと、先に眠いから帰ったようだ。
「はいはい、またシャンパン行きますよー」
何故かハイテンションのタケオが、またシャンパンを開ける。
何をやってんだ、コイツ?
テーブルの上には空いたシャンパンが四本置いてあった。
この数は何だ?
タケオがシャンパングラスに酒を注ぎ手渡してくるので、不機嫌にいらないと断りチェックをする。
「四万二千円になります」
「はあ?」
あまりの眠気ですぐ寝てしまい、俺は一杯しか飲んでいないぞ?
朦朧とする意識の中、面倒なので財布から金を取り出し払う。
「この辺泊まれるホテルねえのかよ」
「あ、ありますよ。自分案内します」
一体俺は、こんな場所で何をやってんだ?
田無駅の線路を超えたのは分かった。
フラフラとした足取りで男の後をついていき『田無第一ホテル』へ案内された。
とりあえず俺は携帯電話でホテルの写真を撮っておく。
「じゃ、自分はここで」
男が早足でいなくなると、俺は壁に手をつきながら中へ入る。

受付で部屋を取ると、すぐベッドへ倒れそのまま朝まで眠った。

起きてから少しスッキリした頭で整理をする。
まず財布の確認だ。
「……」
ごっそり無くなっている現金。
酔いながらもあのサザンクロスというバーで、ボラれたのだけはハッキリ覚えていた。
山下の野郎…、あんな店に連れて行きやがって……。
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
