【闇シリーズ①】01~04(幼少から全日本プロレス)【英文翻訳版追加】
#創作大賞2026 #オールカテゴリ部門 #コミックエッセイ部門 #エンタメ原作部門 #エッセイ部門
2026/02/03 tue
※闇01~04を一気にまとめました
※翻訳版はこちら
闇 01(幼少期、自衛隊編)

2024/07/08 mon
2025/07/10 thu
2025/07/19 sta
2025/09/27 sta
2025/10/04 sta
2026/01/28wed
二千二十四年七月八日、月曜日友引。
夢って何だろう?
よく中々叶わないから夢なんだと言う人は多い。
俺にとってこれまでの夢って何だ?
強くなりたい。
リングの上で戦いたい。
ピアノを大きな場所で演奏したい。
書いた小説を世に出したい。
思った事全部叶っているじゃん。
夢じゃなかったって事?
いや、間違いなく夢だったんだ。
でもすぐ叶ってしまい、そこで俺は満足した。
だからすべて中途半端だったのだ。
初めて書いた小説で賞を取り、世に出したい。
もちろんそれも叶った。
でもさ、今になって思うと運がいいだけで時期尚早だったのだ。
決定的な力が備わっていないのに、結果を見てふんぞり返る。
そりゃあみんな、離れていくさ。
本物でも何でもないんだもの。
でもさ、振り返ってみろ。
馬鹿だから本当に色々利用され、騙され、金を失い、心筋梗塞にもなって、未だ醜く生きている。
小説を書かなくなって十三年の月日が流れた。
今の世の中のほとんどの人間は、俺に興味など無い。
このままただ年を取り、朽ち果てて行くのだろうか?
何ができる、俺に?
自分の人生をそのまま書いたら、誰でも一冊の本ができる。
みんな、よくそう言うけどさ……。
振り返ってみれば、本当酷い人生だった。
示し合わせた津波のように降り掛かる悪意。
神の悪戯か、ここまで滅茶苦茶にされたんだ。
なりふり構わず書いてみるか。
まず最近の酷い流れを思い出せ。
箇条書きでいい。
中学時代の悪友とつるんだ事による散財。
コロナワクチン打った翌日に心筋梗塞で死に掛ける。
マンションの後付け不当光熱費請求。
自称俳優のタカり行為。
百四十万の詐欺被害。
細かいのを除いたとしても、本当に酷いもんだ。
二千二十一年から二千二十四年の約三年、立て続けに身に降り掛かる地獄のような日々。
あれ、箇条書きじゃなくっている。
全然文章さえ書いていなかった俺が……。
何故?
簡単だ。
俺が書きたくなったからだ。
夢でも何でもない。
現実に今、俺は書いている。
今また十三年の沈黙を破り、また文学へ真摯に取り組む。
うん、それでいいんじゃないか。
何が生まれるのかなんて分からない。
それでもまたさ、もう一度足掻いてみよう。
文学の世界を……。
ただ書こう。
あの頃のように。
どうせ現世では評価など無いだろう。
もう期待なんてすんな。
まあいいさ。
思うまま、ただ書き綴ればいい。
もっと先を見ればいいだけだ。
百年、二百年後の人たちが、いつかこれを読むように……。
千九百七十一年九月十三日、月曜日赤口。
埼玉県川越市、岩上家の長男として生まれた俺。
家の目の前には映画館『ホームラン劇場』があり、いつも外から映画に掛かる曲が聞こえてくる環境。
二年置きに弟が生まれ、岩上三兄弟となる。
長男だった俺は、過保護に甘やかされ、また大事に
育てられた。

本川越駅前にまだ『パーラーいづみ』があった頃だった。
小学校の入学式を終えてから、いつの間にか強制で始まった雁字搦めの教育。
一つも望んでいないのに八つの塾や習い事へ通わされた。
ピアノ、絵画、習字、体操教室、学習塾、合気道、スイミングスクール、お囃子。
お囃子は親父が入っている雀會の子供囃子『子雀』に入れたかったからだと思う。
少しでも太鼓を叩くのを間違えると、手首に木の棒である通称『バチ』が当たる。
手首を押さえながら泣く俺。
同級生たちは自分の子供に対し、まるで容赦のない親父を見て一斉に辞めてしまう。
そんな時、泣いている俺をよく慰めてくれたのが、雀會会長の栗原さんと同じ町内の小林澄夫さんだった。
一週間一日も休みの日がなく、学校の友達からは付き合いの悪い奴というレッテルを貼られる。
同じ登校班の同級生パン屋の健ちゃんも、いつからか俺を白い目で見るようになった。
安達すみれは「勉強ばかりして大丈夫」とからかってくる。
それを見て注意する隣りの家の定食屋『ひろむ』の一ちゃん。
妹の良江ちゃんはいつもプリプリと頬を膨らませながら怒っていた。
親父は昔から家の金で遊び惚け、残されたお袋と俺ら三兄弟は家で静かに暮らす。
夜中にふと目を覚ます。
両親の言い争っている姿が見えた。
見てはいけないものを見てしまった罪悪感に駆られ、寝たふりをする俺。
幼稚園の時から一緒の斎藤陽吾こと斎ヤンと一緒に遊べないのが悲しかった。
彼の父親は銀座通りでレコード屋の『音羽屋』を経営している。
変わった人で書斎には油絵の具がたくさんあり、色々な絵を布に描いていた。
唯一の救いは家の目の前にある映画館『ホームラン劇場』。
そこのおじさんたちは俺の姿を見ると目を細くして可愛がり、館内の二階の席へ連れて行きコーラとアンパンをくれた。
アンパンは好きじゃなかったが、それでも黙って齧りながら目の前にある大きなスクリーンをジッと意味も分からず見つめていた記憶。
小学一年生の頃、家から徒歩一分のところで松本清張原作『鬼畜』の撮影があった。
緒形拳、岩下志麻、小川真由美と当時の花形スターたちが近くにいたのに、何も知らない俺はトコトコと前へ歩く。

撮影中カットが掛かる。
大人の人に大声で怒られ、大泣きしながら家へ帰った。
この頃映画館で『宇宙戦艦ヤマト』のアニメが放映され、デスラーの笑い方を真似して弟の徹也と一緒によく笑う。
いつからだろう、お袋の理不尽な虐待が始まったのは……。
初めて殴られた時の事は未だ鮮明に記憶していた。
小学生は俺一人で、二人の弟たちは幼稚園。
親父に続き、お袋は夜になるといない事も多くなった。
腹が減ったと泣き喚く弟の徹也と貴彦。
いくらあやしても泣き止まず、俺は二人を二階の部屋から一階の居間へ連れて行く。
おじいちゃんとおばあちゃんがいる居間まで行けば、何とかしてくれると思ったのだ。
お手伝いさんとおばあちゃんが作ったご飯。
それを食べながら幸せな気分に浸る。
しばらくしてドアの僅かに開いた隙間から、白い目が見えた。
椅子に座る方向的に俺しか気づかない。
その目がお袋の目だと気付く。
何故か怒っている目つき。
誰にも気付かれないくらい少しだけドアは開き、お袋がゆっくり俺を見ながら手招きする。
無邪気におじいちゃんの上でテレビを見ながらはしゃぐ徹也。
おばあちゃんの腕の中でぐっすりと眠る貴彦。
この団欒を壊してはいけない。
幼心ながら変に気遣った俺は「ご馳走様」とだけ言い、ドアへ歩いていく。
「あれ、智ちゃんもういいのかい?」
「う、うん…、もうお腹いっぱいだから……」
優しいおばあちゃんの声に背を向けドアに近付く俺。
居間を出た瞬間強い力で腕を引っ張られ、階段の方向へ連れて行かれる。
何故お袋がこの時こんなに怒っているのかまるで分からなかった。
二階への階段を一段上る度、ケツを強く叩かれる。
声を出したらおじいちゃんたちに気付かれてしまう。
俺は口を両手で必死に押さえながら涙を流す。
部屋に着くなり投げ飛ばされ、何度も殴られた。
そんなにおじいちゃんたちのところへ行った事が悪い事だとは思いもしなかった。
ひたすら両腕でガードして嵐が過ぎるのを待つしかない俺。
「立てっ!」
「は、はい……」
恐ろしいお袋の前に俺は言いなりになるしかない。
「これを持ってろ」
俺におもちゃ電話の受話器の部分を右手に持たせる。
電話機の本体を持ち、一歩一歩ゆっくりと後ろに下がっていくお袋。
幼いながらも、これからどうなるのかが理解できた。
分かっていながら怖くて離せなかった。
受話器を……。
手を離したら、そのあと何をされるかを想像してしまう。
まだ幼い俺には、その想像のほうが怖かった……。
どんどん伸びていくコード。
それでも俺は電話の受話器を震えながら持っている。
ただ恐ろしかったのだ。
抵抗して、これ以上殴られるのが嫌だった。
おもちゃの電話機の本体と、俺の右手にある受話器を繋げているゴム製のコードが伸びきったと思った瞬間、お袋の手元から離れていた。
「……!」
いきなり目の前が真っ暗になり、火花が散る。
思わずその場にうずくまってしまう。
目の上が焼けるような痛みを発している。
「ハハハ…、馬鹿だねー。あんた、何やってんの?」
逃げようと立ち上がり、後退した。
その時おもちゃのブロックを踏んでしまい、足の裏に痛みが走る。
大事に使っていたブロックは何個か割れていた。
胸を押され、床に倒れ込む。
合気道に行った時の風景が思い出される。
稽古を始める前に正座して一礼。
そのあと正座をして目を閉じているところを不意に先生が胸を押してくる。
そこで倒れてはいけない。
精神を集中させるのが、本来の目的らしかった。
でもそんな事は、当時の僕には分からない。
「何、勝手に転んでんだ。立て!」
俺は言われるまま立ち上がる。
足元にはおもちゃのブロックが散乱していた。
お袋はいくつかのブロックを拾っている。
「動くなよ。きょうつけして目をつぶってろ!」
「はい……」
これから何をされるのか。
身体を震わせながら、目を少しだけうっすら開けた。
お袋がブロックを投げつける途中だった。
青色のブロックが俺の頭に命中する。
幼い俺は再び倒れた。
「何、大袈裟に倒れてんだ!」
起き上がれば、また同じ目に遭う。
分かっていながら立ち上がる。
またあの電話をやられたらどうしよう?
あの痛みのほうが怖かった。
だからそうするしかない。
何度もお袋は、俺にブロックを投げつけた。
このまま殺されるのかな。
本能的にそう感じた。
その時、部屋のドアが勢いよく開く。
「おまえは何をやってんだ!」
おじいちゃんだった。
今まで見た事のないような厳しい目でお袋を見ていた。
二階の騒ぎを聞ききつけ、助けに来てくれたんだ。
真っ暗闇な中、一筋の光明が見えたような気がした。
必死にその光ある方向へと向かう。
「おじいちゃん……」
自然とその方向に駆け寄ろうとした時、背中に激しい痛みを感じた。
床に倒れ込む際、スローモーションのように映し出される。
そして、目の前に割れた白いブロックの破片が見えた。
「わぁっ……」
俺は目を押さえながら、床に転がった。
たくさんの血が出ていた。
俺は強くならないと、いつか殺されちゃう……。
それからあとは記憶にない。
このような出来事がり、しばらくおじいちゃんたちの部屋で寝泊まりするようになった俺。
おばあちゃんは三兄弟によく子守唄を唄ってくれる。
気付けばまた両親の部屋へ長男の俺だけ戻された。
夜中に目を覚ますと聞こえてくる夫婦喧嘩。
ひたすら寝ているふりをするしか思いつかない。
お袋のヒステリックさは日に日に酷くなっていく。
ある日塾を終え、部屋にいると一階から怒鳴り声が聞こえてきた。
声を聞き、自然と身がすくむ。
左目の上にできた傷が疼く。
「チクショウ! チクショウ!」
恐る恐る階段をゆっくり降りる。
覗き込むように廊下から居間を見ると、お袋が入口のドアを手で開きながら鬼の形相をしていた。
見てはいけないものを見てしまったような感覚。
おじいちゃんを始め、周りの従業員たちが「落ち着け」とお袋を宥めている。
しかし怒りはよりエスカレートし「チクショウ!」と言いながら居間のガラスのドアを叩き付けるお袋。
何度か叩き付けている内に、ガラスにヒビが入ってくる。
俺は呆然とそのおぞましい光景を震えながら見ているだけだった。
住み込みのお手伝いのせっちゃんが「坊ちゃん」と言いながらその修羅場から離れるよう肩を掴んでくる。
親父の弟である修叔父さんが「落ち着け!」とお袋の両肩を摑む。
錯乱するお袋。
俺は怖くてその場を動けずただジッと見つめていた。
お袋と視線が合うと、俺の元へ凄まじい勢いでやってくる。
せっちゃんが乱暴にどかされたあと、両肩を掴まれ「私はこうやられたんだよ? こうやられたんだよ?」と皮膚に爪が食い込んできた。
両肩から血を流しながら力なく泣くだけの俺。
周りにいた大人たちが必死にお袋を引き剝がす。
無力な俺は泣く事しかできず、気付けばおじいちゃんに抱っこされていた。
当然の事ながらその場に親父の姿は見えない。
夜になって母方の仲町のおばあちゃんが家に来た。
家から徒歩五分程度の場所なので俺が遊びに行く事はあっても、仲町のおばあちゃんが来る事は珍しい。
廊下へ呼び出してお袋へ何かを注意していたようだが、また怒り声が聞こえてくる。
身がすくみながらも、心配で部屋から廊下へ出た。
仲町のおばあちゃんの手首を掴むお袋。
よく見ると爪を立てているのか、おばあちゃんの手首から血が滴っている。
息を飲み黙ったままその光景を見ているだけの俺。
そんな俺に対し、おばあちゃんは優しそうな笑みを浮かべながら「智ちゃん…、何でもないから部屋へ戻っておいで」と言った。
見てはいけない状況を見てしまった。
そんな罪悪感を覚えた俺は、布団に包まりひたすら目を閉じている事しかできないでいた。
頭の中では仲町のおばあちゃんの手首から滴り落ちる血の光景だけが離れなかった。
家族間は常に仲が悪く、同じ家に住んでいるのに祖父母のところへ行くだけで殴る蹴るの強烈な虐待を受ける。
それでも幼い弟二人は、両親がいない食卓で腹が減ると泣く。
俺には一階へ連れて行くしか術がなかった。
長男である俺は日曜日になると、お袋へ外へ一緒に連れ回される。
デパートのような建物の『ニチイ』で親戚の京子叔母さんと同じ家に住む親父の妹のピーちゃんにバッタリ会った。
「あら、智ちゃんじゃないの」
陽気に手を振ってくる二人に、俺も自然と笑顔になり手を振り返す。
たったそれだけの事で、帰ると媚を売るなと暴力を受ける。
その一件以来、必然と感情を露わにしなくなる幼少時代を過ごすようになった。
左こめかみの目の近くについた未だ消えない二つの傷。
こんな地獄のような生活が、ずっと続くのかと日々の日常を恨んだ。
しかしそんなものは杞憂に終わる。
小学校二年生の冬。
あれだけ虐待を繰り返した母親は俺ら男三兄弟を捨てて、ひっそり家から消えた。
塾や習い事は、ピアノ以外すべて辞めた。
何故ピアノだけは続ける。
理由は先生が優しかったのだ。
しかし俺はピアノなどまったくせず、先生の家でテレビを見ておやつをもらい、帰りに送ってもらう際、いつもゲームセンターに寄ってゲームをさせてくれた。
今でもゲームが好きなのはこの時の影響が大きいと思う。
小学三年生の時、ホームラン劇場でジャッキーチェンの映画『酔拳』が上映された。
こうやって鍛えたら、俺も強くなれるのかと思った。
初めての暴力的衝動。
強さの定義を勘違いした俺は、クラスの女子を虐めてよく泣かす。
担任の神社の神主をしていたという福田文彦先生は、体育館へクラスの生徒全員を呼び出し俺をコテンパンにした。
この一件で正しい強さとは何かを学べたような気がする。
初めて心から笑顔になれた俺たち兄弟を祖父母、親父の妹である叔母さんのピーちゃんが育ててくれた。
それでもボンボンだった親父は、家の金を自由に使い遊び回っているだけだった。
母親がいなくなり自由になった俺は毎日のように映画をタダで観て可愛がられて育つ。
ジャッキーチェンの映画を見て衝撃を受け、真似できるトレーニングはやるようにする。
銀河鉄道999は未来への希望を膨らませる事ができ、見ていて興奮した。
家業のクリーニング屋の配達へ、たまに一緒に連れて行かれた俺。
お囃子の稽古も辞めたので、このくらいしか親父との接点はほとんどなかった。
ある日通常の配達ルートから外れ、住宅街にある家の前に車を止める親父。
中へ招かれると、化粧の濃い女性がたくさんの料理を作って待っていた。
妙に馴れ馴れしい化粧の濃い女性。
本能的に好きになれない。
幼心ながら父親と何かしら親密な関係なのだろうと感じる。
これが生涯に渡って因縁のできる守銭奴加藤皐月との初めての出会いだった。
小学校高学年になるとおじいちゃんが弁護士を同伴した状況で「養子にならないか?」と言われる。
財産を少しでも俺に多く残したかったらしいが、それを受けると父親の立場が無いだろうし丁重に断った。
おじいちゃんは笑顔で俺の頭を撫でながら「そうか、智一郎は偉いな」とだけ言った。
小学六年生になり猛烈な腹痛に見舞われ病院へ行くと、盲腸と診断される。
おばあちゃんは孫である俺の身体に傷をつけたくなかったようで、赤外線で盲腸を散らす手術を勧めた。
一日だけ腹痛は治まるも、翌日から地獄のような痛みに襲われる。
おじいちゃんは何度も病院へ連絡するが、安静にしていれば大丈夫の言葉だけで俺は日々衰弱していく。
おじいちゃんの素人判断で別の病院へ連れて行かれたら、腹膜炎を起こし掛けており緊急手術で即入院となった。
命の危険まであと一歩だったらしい。
俺はおじいちゃんの判断により命を救われた訳である。
この時見舞いで父親の知り合いである化粧の濃い女性が深夜来た事があった。
この時はまだこの女が加藤皐月という名前だと知らない。
俺は寝たふりをしてやり過ごした。
化粧品臭い残り香が鼻をつき、不快感を覚える。
遊び人だった父親は家に帰ると豹変し、傍若無人だった。
「情けない面をしやがって」とすれ違うだけで殴られ、突発的で理不尽な暴力を受ける。
「俺がおまえくらいの年には、もっと女にモテていたぞ」と殴られる。
料理をしようとして台所に立つだけで「女みてえな真似してんじゃねえ」と殴られた。
俺らを捨てたお袋は家から五百メートルも離れていない場所で、別の男と一緒に料理屋を始めた。
囲炉裏端料理『鬼』。
鬼のようなお袋だったから、鬼という店名をつけたのだと感じた。
実家が近かったお袋は、姪である従兄弟の宇津木裕子に対し、自分の都合いいように言い訳をしていたようだ。
逆恨みで俺を恨む裕子は模範的な優等生だったので、とても先生受けが良くまた影響力もあった。
そんな彼女が俺の家は寄って集って母親を追い出したというデマを発信するようになる。
再び学校でも闇が訪れた。
女の担任の市倉利子先生でさえ「裕子ちゃんに聞いたんだけど、岩上君お母さんと会いたいでしょ?」と訳の分からない仲介を買って出る。
過去の強烈なトラウマ。
猛烈に拒み、先生受けの悪かった俺。
俺は小学三年生の時の福田先生が担任のままだったらなと、何度も願ったが無理な話である。
ピーちゃんから「何でおまえたちのお母さんは、お兄さんと離婚しないか分かる?」と質問された。
小学生の子供にそんなもの分かる訳がない。
「おまえのお母さんはね、家の財産が目的だから離婚しないんだよ」と言われた。
幼少時代から思っていた事。
強くならないと殺されちゃう。
頭がいいだけでは誰も守ってくれない。

中学生になってもツッパる事は一切しなかった。
ゲームセンターには不良が溜まるようになっていた頃。
しかしそんな格好だけ態度だけ悪くしたところで、強くなれないのは身体が自覚していた。
皮肉な事に父方の従妹清水麻衣子と、母方の従妹の宇津木裕子とは同じ中学。
中学一年の時の担任鈴木正巳先生は、もの凄い暴力教師だ。
ゲームセンターへ行ったのを知られただけで殴られた。
同じクラスの飯野誠とは仲が良くなり、よく図書館へ行って時間を共有した。
何故麻衣子と裕子と同じ従妹だと知ったクラスメイトの矢島は、俺に協力してくれとせがんでくる。
もの凄い撫男なので、やめた方がいいと伝えてもしつこい。
やがて「片親の奴は本当に使えない」と罵り、俺は何度も殴りつけた。
結果登校拒否を起こした矢島。
担任の鈴木正己は俺を呼び出しボコボコに殴ってから、全教室を晒されるように歩き回された。
中学三年生になり岩崎智典ことチャブーや、岩崎努ことゴリと同じクラスになる。
病弱だった祖母は秋に他界する。
最後まで俺の高校受験を心配してくれた。
プロレスや相撲を見るのが大好きだったおばあちゃんの死。
受験日前日、俺はおばあちゃんの眠る広済寺へ深夜一人で行き、墓参りをした。
高校生時代に家業にパートで入ってきた緑という面倒見のいい人がいた。
弟の徹也と一緒にいい人が来て良かったねといつも話をしていた。
高校一年の担任谷先生。
谷は身長が大きかった俺をやたら部活動へ入れたがる。
始めはラグビー、それを辞めるとバレーボール、ハンドボールととにかく何かしらの部活へ強要させた。
最終的にサッカー部へ入り、一年生の最後と共に担任が代わるのを知り辞めた。
二年、三年の担任榊先生。
この頃から俺はとにかく喧嘩ばかりして日々を過ごすようになる。
俺はこの榊先生に何度も助けられ、結局停学すら一度も経験せずに無事卒業させてもらった。
社会人になっても、この先生とは定期的に交流がある仲になる。
離婚もせずに別の男と一緒に暮らすお袋。
遊び人で完全に育児放棄の親父。
世間体だけを気にする親父は常々近所の人たちに「コイツは頭がいいから六大学へ行かせる」と嘯く。
西武台高校の学費も払わず、おじいちゃんにすべて出してもらった俺。
当然の事ながら大学進学など何一つ考えていなかった。
美術の先生から美大の推薦を出すから行けと言われるも、結局行けばおじいちゃんが金を出す羽目になるのを知っていたので断った。
育ての親はおじいちゃん、そして叔母さんであるピーちゃん。
ある日、父親に弄ばれた人妻三人が同時に家へ怒鳴り込んできた事もあった。
親父はその場から逃げ、長男である俺が何故か捕まり家の中で意味不明な話し合いになる。
その三人の内の一人が家業へパートに来ていた緑で、当時高校生だった俺の前で父親の事を愛していると泣きながら喚く姿を見て、心の中で何かが壊れたような気がした。
もう一人は小学生時代から見た事のある化粧の濃い女性、加藤皐月だった。
この人が三人の中でも一番我が強く、人間恥を知らないとここまで図々しくいられるものかと感じる。
初めて会った頃から生理的に好きになれなかったが、自身の感じたものは間違っていなかったのを確信した。
ピーちゃんは「何故おまえたちのお母さんが離婚しないか分かるか?」と同じ質問をしてくる。
「それは家の財産が目当てだったんだよ」と常々言われた。
強くなりたい。
そして嫌だったけどお袋の元へ一度行き、話し合って俺が両親を離婚させないとと考えるようになった。
捨てられたとはいえ、お袋の性根がそこまで腐っているようには不思議と思えなかったのだ。
離婚にさえ応じてくれれば、財産が目当てというピーちゃんの言い分は覆るはず。
その為にはいち早く社会人になりたくて、一番早く就職が決まる自衛隊を選んだ。
烈火如く怒る親父。
常に格好をつけたい性格の為、自分の長男が六大学ではなく自衛隊へ進むのを許せなかったのだろう。
何度も殴られたが、半分この父親に対して恥を描かしてやろうという魂胆もあった。
そんな理由で俺は自衛隊を選択したのである。
高校を卒業してすぐ小学時代お世話になったピアノの先生の家へ挨拶へ行った。
小学生時代、あれほど俺を可愛がってくれたのだ。
六年ぶりの再会に胸を躍らせる。
すると先生は会ってくれず、先生の母親が憎悪の籠った目で睨みつけられ、二度と来ないでくれと追い返された。
あれだけ優しく接してくれたピアノの先生の家族が何故ここまで豹変したのかまったく理解できなかったが、仕方なく大人しく引き下がった。
社会人になって一番始めの行動が母親との再会だった。
他人以下と割り切っていたので敬語で話す俺に対し、母親は泣きながら礼儀正しく育ってくれてと勘違いする。
しかし離婚にはすぐ応じてくれた。
俺の要求を飲んでくれた母親に対し、彼女なりの言い分は聞いてあげようと思い、自衛隊にいる間数回会いに行く。
それを知った父親は「そんなおまえは母親が恋しいのか? 岩上の姓を捨てろ」と罵られた。
おまえのケツを拭いているだけなのに、何て言い草だ。
俺と親父の溝はより深くなる。
自分が出て行った言い分をするお袋。
次第に言い訳から、亡くなった祖母の悪口になってきた。
俺には優しく厳しかったおばあちゃん。
そんなおばあちゃんの悪口を言うお袋に対し、我慢できなくなり反論をした。
「何でこんな馬鹿に育っちゃったんだろ。私がちゃんと育てていれば……」
自分の意思で俺たちを捨てて出て行った事も忘れ、お袋は俺を罵倒した。
駄目だ、この人……。
まるで話が通じない。
俺は完全にお袋と決別する事にした。
結局のところ、人間の性根というものはそうそう変わらないものなのである。
俺の根底には強烈な憎悪が根付いている事に気付く。

自衛隊朝霞駐屯地前期教育での無茶苦茶なシゴキ。
班長副班長共にレンジャー出身だった俺の班は、とにかく毎日酷い仕打ちを受けた。
催涙ガスをテントの中で焚き、サザエさんの歌詞五番まで書いた紙きれを渡され、中で歌わされた事もあった。
これは歌詞を見るから目をやられ、歌を唄うから喉をやられる事を想定してのシゴキだった。
ガスマスクをつけたまま、外周五キロを走らされた事もある。
腹筋の姿勢で足を上げたまま一時間放置。
腕立て伏せの体勢のまま一時間放置。
途中崩れると容赦のない暴力が飛ぶ。
性格の曲がった班長は俺たち班員に言った。
おまえたちを後期教育の駐屯地は、遠くへ飛ばせば飛ばすほど俺の成績は良くなると。
「おまえらこのまま朝霞にいられると思うなよ?」
そして十名の俺たちから一万円ずつ貯金おろすよう命令され、自衛隊にあるPX(売店)で十万円分の班長が要求するものを買わされた。
この時同じ班だった富田は高田駐屯地へ行く。
どうせ地元の近くにいられないのなら、とことん遠くに行ってやろう。
ヤケクソになった俺を含めた班員の四名が一番遠い場所の北海道を選択し、行く事になった。
北海道倶知安の街の人間はとても優しい。
しかし上官たちは腐っていた。
基本的な生活の使い走りは当たり前。
酷い上官になるとわざわざ一番遠い隊舎の四階にある自動販売機でコーラを買って来いというひねくれた人間もいた。
態度が生意気だと文句を言われ、数名による問答無用の暴力行為は日常茶飯事。
漫画『あしたのジョー』に出てくる少年院でのリンチのシーンで『パラシュート部隊』というものがある。

両手足を数名に押さえつけられ、二段ベッドの上から俺の腹目掛けてダイブ。

百名ほどいる重迫撃砲中隊の中隊旅行で函館へ行った時、俺は酔ったふりをして五人しかいないコンパニオンの一人と宴会場の隅でイチャイチャした。
帰ったあとに壮絶なリンチが待っていた。
この時は死ぬかと思ったが、多勢に無勢俺一人が鍛えた自衛官十数名に対抗したところでどうにもならなかったのだ。
上官の命令には絶対。
ならば辞めてしまえば上官ではない。
俺は一任期途中で辞める事を決意し、そのまま北海道へ一週間だけ留まった。
これまで酷い仕打ちをした上官たちへ仕返しする為だけに潜伏していたのだ。
狭い町である。
休暇を取った自衛官の遊び場所などすぐ特定できた。
ある程度の復讐を終えると、俺は地元川越へ戻る事に決めた。
闇 02(探偵、サラリーマン時代編)

2024/07/14 sun
2025/07/10 thu
2025/07/20 sun
当時十九歳。
自衛隊を辞め、地元川越へ戻ったものの無職の俺。
高校時代アルバイトしたガソリンスタンドの山口油材。
とりあえず俺はまた古巣へ戻り、アルバイトを再開させた。
「兄貴、また山口油材戻ってきたね」
同じスタンドで働く弟の徹也は少し嬉しそうだった。
北海道の倶知安駐屯地を退職し、一週間潜伏して上官たちへ仕返ししてきたが、最後の数日間でスナック『パピリオ』で働く飲み屋の女ゆかりとの出会いがあった。
俺よりも五つ年上のゆかり。
切れ長の目をした細身のいい女だった。
辞めてから一週間も北海道へいたのは、上官への仕返しだけでなく、このゆかりと離れたくないという思いが強いせいもある。
「一緒に川越へ行かないか?」
地元へ帰る最後の夜を共に過ごし、俺は彼女へそう声を掛けた。
「私、ここが地元なんだよ? 智一郎についてそっちへ行ったら、誰一人友達もいなくなっちゃうよ。それにあんた無職になったばかりでしょ?」
返す言葉が無かった。
勢いだけで思いを伝えたところで、俺は何一つできない。
本当はもっとここにいてゆかりと過ごしていたかったが、約束があり地元へ戻らねばならなかったのだ。
山口油材の客である田中公男さん。
彼は俺より二回り年上のトラックの運転手だったが、高校生の頃来る度缶コーヒーをご馳走してもらった。
その田中さんの母親が心臓病の主日の為、B型の健康な人間の血液が欲しいと弟の徹也から連絡があったのだ。
まだこの時ゆかりと会う前なので、田中さんの役に立てるならと安請け合いをし、その手術が自衛隊を辞めてからちょうど一週間後だった。
無事手術も成功し田中さんは俺に謝礼として現金を渡そうとしてきたが、そんなつもりで動いていないと丁重に断る。
後日田中さんから家に、三万円分の商品券が届けられた。
金を早く貯めて、また北海道にいるゆかりへ会いに……。
しかし数ヶ月後ゆかりはパピリオを辞めており、同僚の女から俺より一つ上の自衛官と結婚したと聞いた。
自棄になった俺はスタンドも辞め、宛ても無く毎日プラプラ適当に過ごす。
金も無く仕事もない日々。
そんな屑のような人間だって腹も減る。
台所にある野菜や肉を使い料理をしていると、叔母さんであるピーちゃんは「勝手に人のものを使うな」と烈火の如く怒り出す。
仕方なく小銭をかき集め、幼稚園の頃から知っている喫茶店『ジミードーナツ』のミートソースを食べる事が、この頃一番の贅沢だった。
高校生辺りからアルバイトをして自分で稼ぐ事を知った俺は、一週間の内四、五回はジミードーナツへ通っている。
親父との仲は日に増して関係は悪くなる一方。
進学を勧める親に対し、反比例するように大学へ行かず自衛隊への選択をした俺。
それだけでなく一任期持たずに帰ってきたという事実だけで、人の顔を見れば「この半端足り野郎が」と罵倒された。
根底には内緒でお袋へ会いに行っていたというのが面白くなかったのだろう。
同じ家の中に住む家族でも、二種類に分かれる。
おじいちゃん、弟の徹也と貴彦。
俺にとって家族側の人間。
親父とピーちゃん。
この二人は他人以下の関係。
ある日貴彦が兄である俺を小馬鹿にした態度を取ったのでグーで殴る。
この日から貴彦は、内心俺を軽蔑しているようになった。
これまで生きてきて、一番自暴自棄になっていた事でもあった。
何一つ変わらない現状。
自身に対し嫌気を覚えながらも、どうしていいか方法が分からない。
時間だけはあったので、原付バイクで南大塚の従姉妹和ちゃんの家へ夜になると遊びに行く。
二つ上の和ちゃんは、幼少の頃から遊んでいる俺にとって兄貴分だった。
常に腹ペコの俺に文句を言いながらも何かしら飯を食わせてくれるので、頭が上がらない。
この頃よく同じように遊びに来ていた和ちゃんの同級生で、坊主さんという人がいた。
坊主なんて変わった苗字だなと思い聞くと土方智が本名であり、土と方を並べて書くと坊主の坊に見えるので、学生の頃から坊主と呼ばれるようになったらしい。
坊主さんも働いていたパソコン会社が潰れてしまい毎日暇をしていたので、南大塚以外に俺の家へ遊びに来るようになった。
もちろん二人共無職金無しなので、お互いの小銭をかき集めてタバコを買い、少し余裕がある時はジミードーナツに行きミートソースを食べる。
二十歳前後の若者二人が、ただ毎日時間をどう潰すかだけを考えながら社会の歯車にさえなれない日々。
無知だった俺は、指導されなければ単なる穀潰しでしかない。
ただ時間だけは過ぎていく。
そんな情けない俺を見て貴彦は馬鹿にするようになり、その生意気な態度にムカついたのでよく殴りつけた。
ある日ブラブラしている俺に対し、おじいちゃんが免許くらい取っておけと言う。
費用全般をだしてもらい、教習所で合宿所のあるところを選ぶ。
静岡県の浜松自動車学校に決まる。
この時四人同部屋の中で高尾昭という五つ上の男と仲良くなり連絡先を交換した。
一日確実に二時間の実務講習がある合宿。
基本暇な時間が多いので、近所にある喫茶店『コケコッコー』へたむろして過ごす事が多かった。
無事車の免許も習得し、地元川越へ帰る。
まだ何の仕事をしようか何一つ決めていない俺。
働いて金を得ないと何もできない。
興味本位と給料がいいと聞き、原一探偵事務所へ入社する。
免許証を取ってから初めて動いたのがこれだった。
まだ未成年なのに月給二十五万という高給。
探偵という響きが格好いいという理由。
十九歳当時の俺は本当に馬鹿でしかない。
実際に業務をして感じたのがかなり理不尽で重労働。
さらに命の危険性まで含んだ仕事なのを気付く。
基本は張り込み、そして尾行がメイン。
研修時、環七のような大通りで通行量の多い道路で、信号無視のやり方などを教わった。
どんな運転をするのだろうか?
そんな期待をしたが、結局は徐行で左折しながら様子を見て車を反転させる。
対向車がビビッて停車するのを前提で、無理くり信号無視を強引にするだけ。
依頼人に頼まれ素行調査する訳であるが、調査対象が家を出る前から張り込む事になるので、日々もの凄い勤務時間になった。
二十四時間調査は当たり前。
終わって事務所へ帰っても、寝る時間ももらえず次の調査へ駆り出される事などしょっちゅうだった。
酷い時は池袋から相手を尾行し、気付けば軽井沢を超えて小諸市まで行った事もある。
素行調査といったところで、ほとんどが浮気調査。
一度朝の四時に事務所集合し、仕事終わりが深夜二時を回っていた帰り道。
暴走族の集会の帰りなのか、三台のバイクが目の前をトロトロ走っていた。
あまりに遅いのでクラクションを鳴らす。
暴走族は脇にそれたが、睡眠不足のせいでイライラしていたので少し幅寄せして意地悪をした。
赤信号で停車していると、背後からクラクションを鳴らしながら暴走族は車の前にバイクを停めた。
「テメー、何幅寄せしてんだよ! 出て来いよ、オラッ!」
会社の車を蹴り出したので、横に座る係長へ聞いてみた。
彼は業務上無茶な運転で警察に捕まり、現在は免許取消。
主に仕事は、俺の運転する車の助手席に乗っての業務しかない。
「どうします、コイツら?」
年は俺と変わらない係長は質問に答える前にドアを開け、いきなり暴走族へ殴り掛かる。
相手がヘルメットをしているところへのパンチ。
拳を砕かれ、そのまま二人掛かりで殴られていた。
あいつ、ただの馬鹿じゃねえか?
仕方ないな……。
俺はドアを開け、止めに行こうとすると、一人の暴走族が胸倉を掴んできた。
「テメーよっ!」
「離せ」
「喧嘩売ってんのかよ、オラッ!」
粋がっているくせに喧嘩の仕方も知らないのか、コイツは……。
手首を左手で掴み固定する。
あとは右手で捻るだけで簡単に関節は極まった。
悲鳴を上げる暴走族。
そのままヘルメット毎左手で固定し、右の肘で思い切り殴りつける。
三発でフラフラになっているので頭を地面に下げさせ、背中目掛けて右肘を落とす。
潰れた蛙のように地面へうつ伏せで身体を痙攣させていた。
どうやら自衛隊で理不尽に鍛えられたこの身体、一般人に比べ力などの基本的な数値が別物になっていたようだ。
「弱いくせに突っ掛かってくんなよ」
ヘルメットを被ったままなので、そのまま頭を蹴飛ばす。
すると二人掛かりで係長を殴っていた暴走族たちが、慌てて「すみません! 勘弁して下さい」と謝りながら懇願してくる。
そいつらを無視して係長を助け起こす。
車に乗せ、俺は運転席へ戻ろうとする。
何度も謝ってくる暴走族。
俺がのした男は未だ倒れたままだった。
「おまえらさ、弱いのに喧嘩売ってくんじゃねえよ」
「す、すみませんでした!」
「車出すから、道路の車を止めろ」
「はい、畏まりました」
ガソリンスタンドの店員のように走行車を停めさせ、俺たちの車を発射させる。
「大丈夫すか、係長?」
血だらけになりながら係長は下を俯きながら押し黙っていた。
事務所へ帰ると返り血のついた俺を見て、事務員が「おまえら何をしてきた!」と怒鳴りつけてくる。
係長が暴走族に帰り道絡まれた事を懸命に伝え、それ以上事態が悪化する事はなかった。
「じゃ、これ次の依頼人の資料ね。このまま足立区へ向かって」
また徹夜で次の現場。
別にこれで残業代や給料が増える訳でもない。
過度な睡眠不足、また無茶な尾行による事故で月に三台は廃車している状況。
これで月二十五万円じゃ割に合わないなと思うようになった。
たまたまの休みの日、家の車を乗り回しながら適当にドライブをしていると、国道十六号川越の新宿の交差点で対向車が確認もせずに右折して突っ込んできた。
シートベルトをしていない俺は避けられない状況なのを把握し、両腕でハンドルを握ってぶつかる瞬間身体に力を入れる。
もの凄い衝撃が来て踏ん張っていても、ハンドルへ頭を痛打し、もう一度叩き付けられる。
ただ痛かっただけで意識がハッキリあった俺は車を降りるとボンネットが半分くらい潰れていた。
突っ込んできた対向車はもっと酷い有様で、助手席の男はフロントガラスを突き破り、頭が外に出ていた。
近くの通行人たちが救急車を呼んでくれたのか、十分ほどで実家の目の前の三井病院へ到着する。
後日警察の現場検証のあと、双方の保険者同士の話し合いという形でこの事故は幕を閉じた。
十日ほど探偵の仕事は大事を取って休みを取ったが、実際に働いていないので給料を出せないと言われ、事故なら保険屋から休業補償という形でもらえると意味不明な事を抜かす始末。
じゃあそれまでの生活はどうするのか聞くと、一万円だけ渡され「うまく使えばこれで十日は何とかなるぞ」と言われる。
半年でこの仕事は駄目だなと見切りをつけ、原一探偵事務所を退職した。
ガソリンスタンド山口油材でアルバイトをしていた時の客だった平子から徹也を通して連絡があり「身体が空いているならうちの会社へ来ないか?」と誘われる。
自衛隊、探偵と基本的に身体を使う仕事しかしていなかった俺は「何も知らないし役に立てるか分かりません」と答えた。
だが平子はファミリーレストランで食事をご馳走しながら「岩上君なら俺が色々教えていくから大丈夫」と笑顔を見せる。
コンパニオンと称し、山口油材にも可愛い子を送ってきた会社なのは知っていたので、内心異性とたくさん知り合えるのではと楽しみでしかない。
広告代理業を営む株式会社『3Sカンパニー』。
右も左も分からない俺。
まず職場へ案内され驚いたのが、マンションの一室を事務所代わりにしていた現状。
社長とは名ばかりで、実態は平子一人だけの会社。
そして社員は俺一人という超零細企業。
「岩上君、ガソリンスタンドの時は時間給いくらでやってたの?」
「八百円ですね」
「よし、じゃあうちもその値段出そう」
え、社員なのに時間給?
俺が腑に落ちない表情をしていると「そろそろランチタイムの時間帯だな。よし、岩上君ご飯食べに行こう」と二人で食事へ向かう。
毎日デニーズやすかいらーくなどの日替わりランチを奢ってくれたので、まあいいかなと平子の言われるまま働くようになった。
時間が経って気付いたのが、ここも無茶苦茶な職場で「企画書はワープロで綺麗な状態で出さないといけないから、岩上君も買った方がいい」と当時二十万万以上するワープロを勧められる。
「平子さん、俺そんな金持ってないですよ」
「え、岩上君クレジットカード持ってないの? 作ったほうがいいよ。ローンで簡単に買えちゃうんだから」
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当時無知な俺は仕事で使う為のワープロをローンで買わされた。
「岩上君家は大きいけど、車何台くらいあるの?」
配達用のも入れたら七台くらいと答えると、次は全部使っているのかと聞いてきた。
仕事以外の自家用車は休みでプライベートでもないと使わないと答えると「せっかく車あるのに使わないのはもったいないよ」とこの会社の為に車を使用するよう言われる。
断ると「ガソリン代とか経費はちゃんと出すからさ」と無理くり家の車を仕事に使わされた。
初任給といっても十五万程度だが、給料日になると平子が飲みに行こうと知り合いのバーへ連れて行かれ、会計時「今日岩上君金持ちだからなー」と本当に十九歳の俺に支払いをさせられた。
俺のおじいちゃんが名士で天皇陛下から勲章をもらったり、交通安全協会の会長、クリーニング組合の会長などをしているのを元々知っていたようで、そのコネをやたら利用するように何度も催促された。
「平子さん…、申し訳ないけど、俺はそういう事でコネなんて使いたくないですよ」
「馬鹿だなあ、岩上君は。コネなんて使って何ぼだよ」
何故そのコネをこの男の為に使わなきゃならないんだ?
日増しに不安だけが積み重なっていく。
会社の仕事が忙しくなると、企画書作りで三日間徹夜で働かせられた事もある。
俺はこんな中途半端な状態で、二十歳を迎えた。
この会社も半年ほど働いて駄目だなと見切りをつけ辞める。
またしても無職となった俺だが、この頃交通事故の示談金として四十万円の金が入ってきた。
遊ぶ金があるからいいかと図に乗った俺。
ちょうど川越祭りがあり、小中学時代の同級生大沢史博と一緒に街を歩いていると、女子高生二人組が暇そうにしているのを発見。
日頃から女に飢えていた大沢は「岩ヤン、あの子たちナンパしようよ」とうるさい。
「おまえが声を掛ける分には好きにしなよ」
俺がそう言うと大沢は電光石火の速さで彼女たちへ駆け寄る。
こっちを指さしながら何か話していると、三人で近付いてきた。
「何て声掛けたの?」
「岩ヤンのほう指さして、あの人が一緒に祭り回りたいって言ったらついてきた」
「何で俺をダシにするんだよ?」
「まあまあナンパ成功したんだからいいじゃん」
高校生とはいえ美人な顔立ちの鈴木美千代、そして連れの千夏。
仕方なく川越祭りを一緒に歩いていると、美千代が突然青褪めた表情で「普段門限七時なんだけど、今日はお祭りだから特別九時までって言われていたのに、時間過ぎっちゃった」と意味不明な事を言い出す。
そんな俺たちと一緒にいたくないなら帰っていいと伝えると、そうではなく本当に門限のある厳しい家の子のようだった。
目の前で泣きべそを掻く美千代を見て、嘘ではないのが分かる。
俺はいいアイデアを閃き、彼女たちへ伝えた。
「いいかい? 今日俺が美千代たちの学校の先生のふりして君の親へ電話をしてあげる。祭りで偶然会って屋台のものをご馳走している内に門限が過ぎてしまったと」
「本当ですか?」
縋るような目で見てくるので、何とか力になってあげようと思ったのだ。
一度家に帰り、家の電話で美千代の家へ連絡する。
俺は先ほど描いた絵図の説明を淡々として、只今交通規制で夜の十時にならないと車を出せないから、その時間になり次第、責任を持って送り届けると伝えた。
「それでしたら先生。うちの子釘無橋を渡ったところの山田うどんのあるバス停のところに自転車を停めてバスで学校へ通っているんですね」
「はい……」
「そこのバス停まで私ども迎えに行きますので、先生うちの子をそこまでお願いできますでしょうか?」
「は、はあ……」
ヤバいでしょ…、美千代の親と先生のふりして会わなきゃなるなんて……。
今さら嘘でしたなんて無理なので、俺は髪の毛をすべて上げて伊達メガネをつける。
「ねえ、ちょっとは先生っぽく見える?」
「だ、大丈夫だと思います」
「親にはあとで教育実習で来ている先生だとか適当に説明しておいてね」
「分かりました、ありがとうございます」
車で釘無橋を渡り、川島方面へ向かう。
真っ直ぐ行けば山田うどん。
そこで一旦千夏と大沢を下ろし「あとで拾いに行くからそこで大人しくしてて」と指示を出す。
美千代の両親とご対面の時間。
学校の先生っぽく振る舞い、非礼を詫びてから「ではまた明日学校で」と爽やかに言い、速やかにその場を去る。
大沢と千夏を拾い、車へ乗せると「岩ヤン凄えよ」と妙に興奮していた。
自分でもそんな面倒は嫌だったが、乗り掛かった船である。
見捨ててあとは知らないなど、声を掛けておいてあり得ない行動だったのだ。
無力ながらも自身の流れにある正義に沿う。
それを遂行する事が自分のアイデンティティだと、変に自分を意識していた行動だった。
去り際千夏が「今日は本当にありがとうございます。お礼したいんで、連絡先を教えてもらえませんか」と言われ、ポケットベルの番号を教える。
翌日美千代が彼女から聞いたのか年度もベルが鳴った。
会ってお礼がしたい。
その一辺倒な彼女。
俺もタイプだったので美千代と会い、気付けば自然と付き合う形になる。
北海道のゆかりとの情事を除けば、これが自身に初めて彼女ができた瞬間でもあった。
無職でも事故の保証金で四十万あった俺は、毎日のように美千代と会いラブホテルへ行って抱く。
門限が夜七時というのは面倒だったが、それでも充実した生活をしていた。
家の車を使って送り迎えもキチンとしていたが、ある日を境に美千代の母親から「岩上さん、お茶ぐらい飲んでって下さい」と家の中へ招かれるようになる。
正直嫌だったが、彼女の親なので断れずにいた。
やがて「岩上さん、悪いけどこれ銀行振り込みをお願いできないかしら」や「この商品を買ってきて下さらない」など使いっ走りのような事を頼まれるようになり、俺は美千代へ彼女の親の批判をするようになる。
自分の親の悪口を言わないでくれとこの頃から関係がギクシャクしだした。
ある日彼女の家へ招かれた時「岩上さん、うちへ婿へ来るつもりはありますか?」と聞かれる。
「いや…、あの…、まだ自分は二十歳ですし」としどろもどろに答えると「うちの子は鈴木家の長女です。嫁に出すつもりはありませんから」と先走った内容を言われるようになった。
結婚をほのめかした事などないし、ましてや美千代はまだ高校生である。
門限、使い走り、重い話は、まだ二十歳だった俺にはストレスにしかならず、美千代へあの親を何とかしてくれと愚痴をこぼす。
「私の親の悪口を言わないで」と頑なな彼女。
自然とこの子と付き合っていくのは無理だと感情が冷めていき、自然消滅のような形で別れた。
無職で毎日遊び歩いていれば、あっという間に金など無くなる。
仕方なく変な教材売りの仕事をし始めると、同じ職場に小学時代からの同級生の篠崎もいた。
「なあ兄貴、これ見てみ。凄いぜ!」
ある日弟の徹也から一本のビデオを見せられる。
ジャンボ鶴田・淵正信・田上明VS三沢光晴・川田利明・小橋健太のプロレスの試合だった。
幼少の頃から強さに拘って生きてきた俺。
これまで一対一の喧嘩だけは負けた事がなかったが、そんなもの社会に出れば何の役にも立たない。
この試合を見ていて、身体の芯が妙に熱くなっている事に気付く。
ひょっとしてここへ行けば、俺は求めている強さを得る事ができるのではないか?
そんな思いが根底に芽生えていた。
仕事が終わると本川越駅前の中央通りとサンロードの間にある道沿いにある二階のバー『エスト』で同級生たちと集まって良く飲んだ。
この当時よくつるんでいたのは岩崎努ことゴリと、大沢史博がメイン。
休みの日、エストへ行こうとサンロードを歩いていると、中学時代の後輩と道ですれ違い挨拶される。
セブンスターに火をつけ世間話をしていると、後輩は申し訳なさそうに口を開く。
「あのですね…、岩上さん」
「ん、どうした?」
「そろそろお金を返してもらいたいんですけど……」
「はあ、金を返す? 何だそりゃあ? 俺、おまえから金なんて借りてねえだろ!」
濡れ衣を着せられた俺。
詳しく事情を聞く。
原因は中学時代の同級生である橋本学。
コイツが「岩上が急遽金が必要だからさ」と人の名を使い、後輩全体から総額四十万円ほど借りている状態だと知る。
この驚愕の事実に怒髪冠を衝く。
「エストで待っているから、学を見つけたら店に電話を入れろ」
片っ端から連絡を入れ、総動員で学を探させた。
思い返せば本当に馬鹿で怪しい同級生だった。
俺が自衛隊から帰って来た頃、真夜中買い物へ出ようとすると物音がしたので工場の明かりをつける。
何故か人の家に橋本学がいた事あった。
「おまえ、夜中に人の家に入って何をしてんだ?」
「へへ…、いやー…、ガムがいるかなと思って」
その場で殴りつける。
まずは中学時代の嫌いだった仇名を二十歳になった今でも呼んだ事に対して。
もう一つは無職の学の手癖が悪いのを聞いていたので、黙って家の中にいたのは泥棒に入ってきたんだと確信があったからである。
エストで酒を飲んでいると後輩から連絡が入った。
すぐ近くのパチンコ屋藤沢プラザにいるらしい。
世間話をしながらそこで学を足止めしとけと言うと、ダッシュでその場へ駆け付けた。
俺の姿を見た学は必死に逃げようとするので、服を掴みその場へ倒す。
その勢いで学のシャツはビリビリに破れ、上半身剥き出しになった。
財布を奪い、その場にいた後輩たちへまず金を返す。
「許してくれよ、ガムー…、ギャッ」
俺は何発も学を殴りつけ、フラフラ状態のままサンロードを端から端まで一往復した。
一歩歩く度に顔面を軽く殴りながら歩く行為はとても目立つ。
この頃不良やチーマーといったクソガキ集団がよくサンロードにはたむろしていたが、俺が学をどつきながら歩く姿を見ると、視線が合わないように顔を背ける連中ばかりだった。
俺が行った行為に対してやり過ぎだという声も当然あった。
だがこれはケジメであり、人を小馬鹿にした制裁でもあるのだ。
後日嫌な噂を聞いた。
あの学が精神病院へ入ったらしいと……。
それでも自業自得に過ぎない。
俺はあの事について反省も何もなかった。
一つの災難が去ると、また一つ始まる。
この時働いていた妙な教材売りの会社。
同じ課で一回り年上の上司大和という上司がいた。
この男が曲者で、常に仕事終わると酒や食事を毎度タカられ「給料日になったら返すから」と俺にクレジットカードで彼と彼女の分まで毎回支払いを頼まれる。
結構年の離れた上司というものあり、その言葉を信用してしまった俺も馬鹿だった。
大和はかなり図々しい男で、大沢やゴリなどの同級生と飲む約束をしていても、お構いなしに彼女同伴で来て支払いは常に俺。
さらに東松山にあるマンションまで飲酒運転で送らせるという暴挙を平気で言ってきた。
給料日になり、これまでの金額を請求すると「俺も支払いが色々あって大変なんだよ」と意味不明な交わされ方をされる。
結局一円も返してもらえない状態のまま数ヶ月過ぎ、働いているのに何故か俺自身が借金しているという理不尽な状況が我慢ならなくなり、この仕事を辞めた。
当時三十二歳だった大木凡人のような顔立ちの大和。
まだ二十歳の俺に対し一円も返す事なくマンションを引っ越され、行方不明で借金だけを背負う羽目になる。
またもや無職になりフラフラしていた俺。
そんなタイミングで車の免許の教習所合宿時代、同室で仲良くなった六歳年上の高尾から連絡があった。
横浜のシーパラダイスをこれから作る大きな仕事があるから住む家も用意するし来ないかという誘い。
当時何の目標も無かった俺は、この話へ飛びつく。
高砂熱学という会社に所属して、横浜へ行く事になる。
初めての横浜、金沢八景駅から徒歩十分程度の物件に住み、新しい生活が始まった。
用意されたアパートは広さだけはあったが、風呂も無くトイレのみ。
部屋の中に古い額縁が飾ってあり、どかそうとすると裏の壁に魔よけのようなお札が貼ってあった。
そして押し入れにも同じ札を発見。
何かあった部屋なのかと思ったが、特に奇妙な現象はなく働いて寝るだけの日々を送る。
業務内容は雑工事で、シーパラダイスの中でモルタルを使って壁にできた穴を埋めたり、足場板をひたすら運んだりと便利屋紛いの仕事ばかり。
当時多くの現場関係者を驚かせたのが、俺の力だった。
足場板を一度に七本持ち上げて運ぶ姿を見て「お兄さん、その細い身体のどこにそんな力があるんだ?」と何人にも言われる。
一対一の喧嘩なら負けた事がない。
自衛隊で鍛えら抜かれた肉体。
あの暴走族を退治した事だけでなく、肉体的だけは誰もが見ても驚くほど強くなっていたのだ。
徹也に見せられたジャンボ鶴田や三沢光晴の試合。
あの中へ俺が入って行けたら……。
そんな日常を送りながらも、全日本プロレスへ行きたいという想いは次第に膨らむ。
しかし身長百八十センチ体重六十五キロの体格の俺が、いくらレスラーになると言っても現場のみんなは笑うだけ。
「兄ちゃんよー、力あるのは分かるけど、レスラーになるにはガリガリ過ぎだろ」
「そんな夢みたいな事言ってないで、今日もバンバン物を運んでくれよ」
真面目に聞いてくれる人間など誰一人いなかった。
まず身体を大きくしよう。
そう思った俺は横浜での仕事を辞めて、地元川越に戻る。
高卒自衛隊途中除隊。
自分の選択ではあるが、二十歳にして中途半端な状況の俺。
アルバイトをしながら稼いだ金はほとんど食費に当てる生活が始まる。
たくさん食べて身体を大きくしないといけなかったので、自宅で自炊するようになった。
父親の妹である叔母さんのピーちゃんは、キャベツの葉一枚使うだけで「勝手に家のものを使うな」「私が台所使うからどけ」と辛辣な言葉を浴びせられ、様々な嫌がらせをされる。
良かれと思って作った料理。
しかし冷蔵庫に入れたまま料理が腐ってもそのまま放置だった。
お袋が出て行ったあと、好きなものを食べたいと台所に立つと「女みてえな真似しやがって」と親父から殴られた過去。
しかし今はもう理不尽に殴られるような事はない。
俺は徐々にであるが強くなっているのだ。
アルバイト以外の時間はトレーニング漬け。
ひたすら走り、腕立て伏せ、腹筋、スクワット。
回数など決めず、ただがむしゃらに頑張った。
一食でご飯三合食べても体重は七十キロ。
たった五キロしか増えない。
過度な運動量の消費で、体重を増やすよりもカロリー消費が上回った結果である。
レスラーになるという俺に対し、まだほとんどの人は笑う。
それでも数名の人間は頑張れという人も出てきた。

レスラーになると決めて一年間が経つ。
俺は二十一歳になっていた。
十キロ体重も増えて七十五キロ。
少しは頑張れ、期待しているぞといった声が増える。
一心不乱にトレーニングをし、とにかくたくさん食べた。
食べ過ぎのせいか寝ている時にゲロを吐き、起きると目の前が酷い有様など日常茶飯事だった。
それでも中々増えない体重。
自分には誇れるものが何も無い。
だから強くならないと……。
この頃は金も無い。
中途半端な人生。
それらを変えたくて必死に身体を苛め抜いた。
プロレス雑誌を見て、全日本プロレスが六本木にあるのを知る。
誇れる実績も、何のコネもない。
ならばこちらから何かしらのリアクションを起こす必要がある。
履歴書を書き、六本木へ向かう。
全日本プロレス事務所へ到着すると、緊張が全身を包む。
アポイントも無し、コネも無し、これからしようとする行為がどれだけ無礼な事か。
それでも俺は自分を印象付けないと道はない。
俺はドアを思い切り蹴飛ばす。
中にいる社員がみんな俺に注目した。
「レスラーになりに来たんだけど、どうすりゃいいすかね!」
できるだけ悪びれながら言った。
しばらくの静寂だけが辺りを支配した。
俺は目に力を入れ、天井を睨みながら黙って立ったまま。
数分して社員の一人が近付いてくる。
「書類選考というものがありましてね……」
俺は履歴書を渡す。
「無礼な真似してすみませんでした」
深く一礼して全日本プロレスをあとにした。
門前払いだけはしてほしくなかったから、悪印象だとしても全日本プロレスには俺を覚えて欲しかった。
当時の俺は馬鹿なので、こんな愚かな方法しか思いつかなかったのだ。
闇 03(全日本プロレスプロテスト編)
2024/07/19 fry
2025/07/10 thu
2025/07/25 fry
賽は投げた。
自分なりに努力してキツいトレーニングを続け、吐くほど食べて身体を大きくしてきたつもり。
六本木にあった全日本プロレス事務所から戻ると、変わらずトレーニング漬けの日々を過ごす。
書類選考があると全日本プロレス事務員は言っていた。
もう十二月に入る。
あんなふざけた真似をして事務所へ飛び込んだ俺など、やはり相手にしてくれなかったのかもな……。
そう思い出した矢先に一通のハガキが届く。
『岩上智一郎書類選考合格』
あとは手書きで戸田スポーツセンターへ来るよう書かれていた。
本当の始めの一歩を踏み始めただけ、それなのに俺は視界が滲む。
俺はハガキを見ながらボロボロ泣いた。
何の知恵も持たない俺が、我武者羅にやってきた事に対し一つの結果が出たのである。
この涙は報われたという一つの結果によるもの。
しかしまだ階段を一つ上がっただけなのだ。
いつまでも感慨深げにいられない。
次はプロテスト。
俺は泣いたままベンチプレスを持ち、一心不乱にトレーニングを始めた。
少しでも肉体の進化を……。
自身があのリングへ上がる姿を想像しながら。
肉体から迸る汗。
身体中の細胞が歓喜の悲鳴を上げている。
うん、これでいい。
今、俺はすべての細胞から祝福されているのだ。
まだ書類選考の段階であるが、この喜びを地元の人間に触れ回る。
まずは銀座通りの化粧品加賀屋のおばさんへ報告。
「ほんと良かったねえ、智ちゃん。身体もどんどん大きくなっているじゃない」
「へへ、日々鍛えまくっていますからね」
おばさんの息子である滝川兼一。
彼も嬉しそうに喜んでくれた。
「兼チン、ステーキ行こうよ」
「また宮?」
「二ヒヒ、よく分かるねー」
俺と兼チンはよくつるんで二五四バイパスにあるステーキ宮へランチに行った。
この時間帯だと五百円台でハンバーグや宮ランチが食べられ、またご飯のお代わり自由なのである。
金の無い俺たちにとって、これだけ楽園のようなレストランは他になかった。
続いて加賀屋の横にあるスガ人形店へ入る。
一つ先輩の須賀栄治さんに一次選考通過のハガキを自慢げに見せた。
「お、凄いじゃない。智ちゃん、昔はガリガリだったのに随分努力して身体デカくしたもんなあ」
「スピードを落とさずこの体格のまま大きくしようとするから、本当に体重が中々増えないんですよね」
夜になり、すぐ近くの喫茶店『ムッシュ』で連雀町の集まりがあり、先輩の吉岡さんから呼び出される。
そこには親父を始めとした囃子連の雀會メンバーの面々もいた。
俺は意気揚々と全日本プロレスの事を話す。
しかし酒に酔った雀會メンバーは俺の身体を見て大笑い。
「智一郎…、おまえがプロレスラーだなんて、やられ役にしかならないだろ」
「そんな細い身体で何を言ってんだよ。無茶な事しないで大人しく岩上クリーニングを継げ」
「……」
みんな手放しで祝ってくれると思っていたのが、まるで真逆の反応。
親父までが息子である俺を笑い者にして酒を飲む。
唯一七つ上の始さんだけが、俺の耳元で「頑張れよ」と肩を叩いてくれた。
一柳始さんは連繋寺の斜め向かいにある和菓子の伊勢屋を継いでいる。
そう言っても早い時点で始さんの親父さんは脳の病気で亡くなってしまい、二十代前半で家業を継がなくてはならない状況になってしまったのだ。
一人の先輩が奮起になる事もある。
俺は陽気に酔って笑っている親父たちを睨み付け、心の中で今に見ていろよと大成する事を誓った。
吉岡さんは同じ町内の同級生久保田広子たちと飲んでいて、俺を手招きで呼ぶ。
隣りには金子八百屋の子供である金子真弓に金子修一姉弟もいた。
驚いたのは久保田家と金子家は親戚のようで、近所なので交流もよくあるらしい。
特に修一などは俺の四つ下…、つまり弟の貴彦と同級生。
真弓にしても二つ下の徹也と同じ年。
さすが第二次ベビーブームと呼ばれる世代だけあって、一人っ子の家庭は中々いない。
同級生や先輩後輩の家だけで、一つの商店街ができてしまうのだから。
地元の同級生たちと酒を飲む機会が自然と増えた。
あと一つ、プロテストさえ通過すれば、待望のレスラーへなれるのだ。
誇らしげに俺を見る視線。
まだ成功した訳ではないのに、どうしても図に乗ってしまう自分がいた。
これまで中途半端で何一つ誇れるものがなかったのである。
夢ではなくもう現実があと一歩まで迫っている段階。
書類選考合格のハガキを見せながら報告する俺に対し、賞賛してくれる同級生。
とても居心地がいい空間。
少々天狗になってしまう自分を自制できない。
レスラーになると言った時、多くの人に笑われた。
それで笑った人間は、俺が実際になった時一体どんな態度で出迎えるのか?
あとプロテストに合格すれば、俺は全日本プロレス所属のレスラー。
この頃二つ年上の従妹の和ちゃんの同級生である土方智さんと妙に気が合い、よく共に行動するようになる。
俺は坊主さん坊主さんと呼びながら慕った。
パソコン会社を辞めて無職だった坊主さんは、よく俺の部屋に入り浸る。
金が無いのでほとんど自炊だが、この頃米不足によりタイ米がよく流通していた。
いかに不味いタイ米を美味く炊けるか?
身体をデカくしなければならない時期に、このテーマは俺にとって死活問題でもあった。
泊まりに来ている坊主さんの分も一緒に作り、食事を分け合う。
ナポリタンを作ろうと台所にある玉ねぎを半分ほど使ったのを叔母さんのピーちゃんに見つかった。
「この泥棒野郎が! 人の野菜勝手に盗むんじゃないよ」
たかがそのくらいで甥っ子に対し、泥棒扱いするのか……。
坊主さんはあまり相手にしないほうがいいと俺を宥め、二人で金を出し合い近所のジミードーナツへよく行った。
一人になると、近所にある二十四時間スーパーのマルエツへ夜遅い時間帯を狙って行く。
何故なら半額になったお惣菜やおつとめ品とシールの貼られた異様に安い肉や野菜が売られていたからだ。
このぐらい心掛けないとエンゲル係数が高過ぎて、体重を増やすどころではなかった。
当然の如く稼ぎはほとんど食費で消える。
一切の娯楽も無い状況下の中、ひたすら身体の鍛錬の追及。
惨めさなど微塵もない。
ヘトヘトになり大の字に寝ている俺の胸を一陣の風が吹き撫でる。
それだけで幸せを感じる事ができた。
ボロは着てても心は錦。
言葉通り心だけは充実している。
たまに俺が坊主さんの家へ行くと、彼の母親はキチンと三食のご飯を用意してくれた。
二人とも無職同然なのでとにかく金が無い。
キチンとした人間扱いをしてくれた事に多大なる感謝をした。
これが本来の母親像だよなと感じ、そんな親を持つ坊主さんが少し羨ましく思う。
金も無いにも辞められないタバコ。
よくお互いの小銭をかき集め、二百二十円を超えるとタバコを買って共有する。
先輩である坊主さんは、この時俺の吸っているセブンスターにあえて合わせてくれた。
自分を認めてくれる人間たちと時間を共有するのはとても楽しい。
金が足りなくても割り勘で酒を飲ませてくれる友達。
二十歳そこそこの身体だけは元気でも、金が追い付かない集団。
それでも楽しい日々を過ごしながらトレーニングに励む。
週末になると自然に集まる同級生の集まり。
一つだけ問題があり、酒乱の奴がいた。
俺より身長が十センチは高い大沢史博。
小学中学とずっと九年間同じ仲。
かつて真面目だった人間が、駒沢大学へ通いつつ、こうして酒を飲む楽しみを覚える。
もちろん俺だって酔う事もあれば、周りも同じ。
しかし彼の羽目の外し方は尋常でなかった。
あまりの酒乱ぶりに対し、二回に一度は警察を呼ばれたほどである。
外にUFOキャッチャーが設置してあるゲームセンターで一人ゲームをプレイする見ず知らずの女性がいると、大沢は突然尻を触った。
「何すんの…、この人、信じられない……」
「テメー、信じられないじゃねえよ」
そう言いながらいきなり抱きつく大沢。
完全な犯罪行為である。
こんな事を酔うと当たり前にしでかすので、常に大騒ぎになってしまう。
彼を力付くで制する事ができたのは俺だけだったので、必然的に大沢と飲む場面で呼ばれるケースは増えた。
とうとうプロテスト当日。
戸田スポーツセンターへ向かう。
何があるか分からないが、今までのすべてをありのままぶつければいい。
中へ入るとプロレスラー志望の人間が二十人ほどいた。
まだ興行前なので、関係者以外人はまばら。
俺たちはその場で腕立て伏せの姿勢を取らされた。
端から順番に十ずつ大きな掛け声で腕立て伏せをする。
百、二百と回数が増える度、掛け声を出す順番が早まってきた。
一人また一人と脱落する人間。
五百を超えた頃、とにかく声を出しながら一心不乱に腕立て伏せをこなす。
回数の順番待ちなど気にする余裕もない状況。
ひたすら目を閉じながら回数を言いながらこなす。
「よし、いいぞ」
途中で肩を叩かれ、顔を上げる。
「おまえだけ合格だ」
そうと言われた。
周りを見ると、生き残っていたのは自分だけだった。
「馬場社長に会いたいか?」
そう言ってレスラーの渕さんは笑う。
テレビでしか見た事がない超有名人。
もちろん大きく頷く。
俺なりにプロレスに対し、様々な想いがあった。
人生で初めて本気で取り組んできたのである。
それらを全部ぶつければいい。
頭の中で何を伝えようか考えながら、意気揚々と向かう。
「社長…、失礼します」
渕さんがノックをし、ドアを開ける。
部屋へ通されると、目の前にあのジャイアント馬場社長が脚を組んだまま座っていた。
本当に大きい。
想像を絶するデカさ。
テレビで見た事があるように本当に葉巻を咥えている。
この人がジャイアント馬場……。
あれだけ気負っていたはずが、初見で圧倒されていた。
言いたい事、伝えたい事が一杯あったはずなのに、頭が真っ白になり無言のまま立ち尽くす。
これだけ威圧感のある人間と、今まで出会った事がなかった。
「……」
どのくらい時間が流れたのだろう?
俺は一言も話せず、その場でただきょうつけの姿勢のまま立っている事しかできない。
葉巻を置いた馬場社長が静かに口を開く。
「やる気はあるかね?」
やる気…、あるに決まっている。
どれほどここへ来るまで修練を積んだのか。
それでもどこか夢の中にいるような気分だった。
馬鹿…、社長が声を掛けてくれているんだ。
何か返事しろよ……。
必死に根底から絞り出すよう「はいっ!」と答えるのがやっとだった。
極度の緊張、そして重圧。
どうやって馬場社長の部屋から出たのかさえ、何も覚えていない。
気付けば廊下を渕さんと歩いていた。
「せっかくだから試合観ていくか?」
渕さんからそう言われ、これからビデオテープやテレビで見たジャンボ鶴田や三沢光晴を生で見られるのかと思った。
しかしプロテストに合格し、馬場社長と会え、一言とはいえ話せた現実。
この非現実的な状況から我に返った俺は、喜びと感動を一早く地元へ戻り、みんなへ伝えたい気持ちが強かった。
丁重に断ると、渕さんは俺の持っていた一次選考通過のハガキを寄越せと言う。
十二月末、たまプラーザ駅にある全日本プロレスの合宿所へ来るよう指示された。
「あの……、どうやってそこへ行けばいいですか?」
「せっかちな野郎だな。今からこのハガキに住所と連絡先を書いておく。そうだな、本多か浅子に迎えに寄越すから名前書いておくぞ」
「ありがとうございます!」
本多多聞に浅子覚。
たまにテレビにも映る全日本プロレス若手レスラー。
俺もその中に一員としてこれから入っていくのだ……。
遠くで三沢光晴さんがウォームアップしている姿が見えた。
俺は渕さんと別れると、そっと近づく。
「み…、三沢さん!」
後ろから思い切って声を掛ける。
ゆっくり振り向くと俺の顔を見る三沢さん。
こんなにもプロレスラーとは厚みのある大きな肉体を持っているのか……。
ここでも俺は圧倒される。
声を掛けておきながら何も話さない俺を見て、三沢さんは片側の口元を吊り上げた。
「サラリーマン?」
「い、いえ! 今度から全日本でお世話になる事になりました岩上智一郎です!」
「そう、頑張ってよ」
「はい!」
ポンと肩を叩かれ、またストレッチを始める三沢さん。
俺は深々とお辞儀をすると、戸田スポーツセンターをあとにした。
まず家へ戻り、おじいちゃん、父親の妹である叔母さんのピーちゃん、真ん中の弟である徹也が居たのでみんなへ結果を報告。
おじいちゃんは有頂天にならぬよう釘を刺す。
弟の徹也は凄い喜びようである。
まさかあの時見せた一本のビデオテープからここまでこうなるとは思っていなかったのだろう。
ピーちゃんは「私の行っているプールはインターハイ選手がゴロゴロいる」と俺の全日本プロレス合格をまるで祝福する気がない。
学生時代からずっと拗れた関係者のままであるピーちゃん。
今日ぐらい一緒に喜んでくれてもいいだろうが……。
「何を言ってんだよ、ピーちゃん! 全日本プロレスだよ、全日本!」
「だから何だよ? 私の毎日行っているプールにはインターハイ行ってんのがたくさんいるの」
「何だと、この野郎!」
あまりの暴言に掴み掛ろうとする。
「やめないか、智一郎!」
おじいちゃんに諌められ、何とか怒りを抑えた。
この人と、まともな会話を望んではいけないのかもしれない。
報告しようとした俺が馬鹿だったのだ。
別にいいさ、今日の事を喜んでくれる人はたくさんいる。
夜になると同級生たちを呼んで飲み明かす。
ここ一年間ずっと努力し突っ走ってきた一つの結果。
誰もが喜んでくれた。
酒乱である大沢がまた悪酔いし、店から通報を受けた警察が駆け付ける一面もあったが、それさえ除けば楽しい時間を過ごせた。
年末の合宿へ向け、日々身体の鍛錬をこなす。
幼少の頃からずっと強さを目指してきたのだ。
まだ途中であるにせよトントン拍子に進んでいるのが怖いくらいである。
このまま身体を大きくしたところで、俺には何のバックボーンも無かった。
柔道も知らなければ、レスリングも知らない。
プロレスラーの中に入れば体重も軽く身長だって低いほうになる。
これだという自分の必殺技が欲しかった。
トレーニングしながらも、何が一番自身にとって合う技なのかを常に考えるようになる。
服のボタンが取れ自分で裁縫していた時、うっかり針を指に刺す。
「……」
大して力も入れていないのに先端が細ければ細いほど、一点に力は集中する。
だからこの程度で指に刺さったのだ。
打撃の形は様々。
その中でも当てる面積が少なければ、そこへ力が増すはず……。
頭の中でちょっとした閃きがあった。
腕立て伏せの姿勢で、指先だけで支えてみる。
ただの指立て伏せ。
小指から一本ずつ離し、最終的に両親指の二本で身体を支える。
逆に親指だけ離し、残りの四本指で腕立て伏せをしようとするとできない。
つまり親指一本のほうが、他の四本指より強度があるのだ。
親指を鍛え、そこから繰り出す打撃。
真っ直ぐストレートに放つのでなく、真横から繰り出す奇妙な技。
相手と密着した際なら、至近距離で真横からできる。

段ボールを用意し、それを対戦相手に見立て真横からの打撃をしてみた。
少しの距離で段ボールに開く穴。
うん、想像通りだ。
これは相手と密着したクリンチ状態になった際、初めて有効になるもの。
しかもその体勢なら対戦相手も気を抜く瞬間でもある。
そこへ目に見えない死角から真横へズドンと突き刺さる打撃。
俺はこの打撃を『打突』と名付けた。
この日よりトレーニングの中に親指の鍛錬も入れる。
親指立て伏せ。
鉄の柱に親指を何度も打ち付けた。
バケツに小石を集め、そこへ親指を何度も突き刺す。
爪は何度も割れ、常に傷だらけだった。
だがこれでいい。
俺の必殺の打撃技である打突が、こうして日々強靭にまた恐ろしい威力になっていくのだ。
小中学校時代の同級生である化粧品加賀屋の滝川兼一とはよく食事へ行った。
兼一の兼を取り、昔から兼チンという仇名だった。
彼はプロレスファンで天龍源一郎の大ファン。
はにかみ屋の奥ゆかしい一面を持つ彼は、好きなレスラーと聞くと恥ずかしそうに「源ちゃん…」と答えた。
他に越中詩郎、木村健吾といった新日本プロレスの反選手会同盟が好きだと言う。
「今、ちょうど天龍が新日に殴り込みを掛けているから、兼チンはどっちを応援しているの?」
「うーん…、やっぱり源ちゃんかなあ……」
「あ、兼チンさ、腹減ったから飯行かないか?」
トレーニングの合間によく食事へ共に行き、ステーキ宮で二人で四食分のランチを注文する。
「あの…、お客様は四名様ですか?」と店員から驚いて聞かれるほどだった。
俺はライスのお代わりを何度もして、とにかく腹に詰め込む。
「あとさ、兼チン悪いんだけど、俺のトレーニングしているところの写真撮るのを手伝ってくれないかい?」
「うん、構わないよ」
彼に写真を撮ってもらい、休憩中プロレス話に花を咲かせる。
小学三年生の時の担任だった福田先生の話になり、また会いたいなと話していると兼チンが「福田先生の神社なら分かるよ」と上尾市の道順を教えてもらう。
学生時代の様々な担任の中で、俺が印象深いのは小学の時の福田先生に田中先生、あとは高校時代の榊先生だった。
まだ書類選考、そしてプロテスト通過の段階であるが、今の自分を見てほしい。
そして褒めてもらいたかった。
神社の神主だった福田先生とまず会いたい。
そんな思いから、二十歳も超えたので小学三、四年の桜組だけのクラス会でもやるかと俺が幹事になり、連絡をみんなに取ってみる。
肝心の福田先生とは連絡がつかず、そのあと担任になった田中光秀先生を呼ぶ。
田中先生は埼玉医大手前にあるお寺『一乗院』のお坊さん。
つまり俺たち小学三年四年は、神主とお坊さんというかなり変わった担任を迎えた訳である。
久しぶりに一乗院へ車で行き、本堂を訪ねた。
奥から田中先生が出てくる。
「え、ひょっとして岩上か? デカくなったなあ、おい」
この度全日本プロレスへ受かった報告をし、そしてクラス会を開くので先生には是非とも参加してほしいと伝えた。
中学でバラバラになってしまった柴崎義明こと柴チンや、亀田直剛たちとも久しぶりに連絡が付き、田中先生を招いてのクラス会。
十年ぶり以上の再会は、とても懐かしく楽しい時間を過ごす。
この時同級生の斉藤美和と再会し、すっかり美しくなった彼女に俺は惚れていた。
トレーニングやアルバイトの合間に彼女をよく食事へ誘う。
俺の誕生日も一緒に祝ってもらったが、元々彼氏のいた美和は結局彼氏を選ぶ形でフラれてしまう。
まだ何一つ大成していない俺にとって、女はまだ早過ぎる。
そう自分を戒め、日々鍛錬の時間を増やす。
全日本プロレス合宿数日前。
高校一年生の担任だった谷先生から電話が入る。
「岩上、元気でやっているのか?」
俺はこれから全日本プロレスの合宿へ行く事を伝えた。
当然喜んでくれると思ったが、谷先生の反応は違った。
「おまえ、その日何とかならんのか?」
「え、何とかならんのかって、どういう意味ですか?」
「その合宿へ行く日、その予定を外せないのかって事だ」
「はあ? 先生…、俺、その日に全日の合宿行くんですよ? 何があるんですか?」
「大川隆法総裁先生がな、東京ドームを借り切って大切な前夜祭をするんだ。岩上、おまえもそこへどうかなと思ってな……」
谷先生は高校教師でありながら、大川隆法の幸福の科学にどっぷりハマっていた。
「あのー…、先生…、頭、大丈夫ですか?」
「おまえは一体だな、プロレスを通じて世の中に何を訴えようとしているんだ?」
「先生…、ひょっとしてプロの世界をかなり馬鹿にしていませんか? 俺はあの世界に食らいついていくだけで、必死なんですよ!」
「だから大川隆法総裁先生が行う前夜祭にだな……」
「先生! ハッキリ言って本当に迷惑です! もう連絡してこないで下さい!」
感情的になり電話を切った。
西武台高校で生徒相手にもあんな事を説いているとしたら大問題だ。
榊先生に連絡をして、谷先生の現状を聞いてみる。
「ああ、岩上、大変だったなあ。谷さんは相手にするの止めときな。それより今度時間作ってうちにまたおいで」
谷の奴、高校でも宗教が何とかかんとかと謳っているのか?
何があったのか知らないが、どうしょうもない先生になったものだ。
宗教を妄信するのは個人の自由だ。
しかしそれを素晴らしいと相手の都合も考えずに強要するから、宗教自体が一気に胡散臭くなってしまう。
素直に俺の合格を祝福し、お祝いに酒でもご馳走するから会おうといった手段だったら、俺もここまで感情的にならずに済んだのだ。
「それより岩上、おまえ今度いつうちに来るんだよ?」
「そりゃあ先生に呼ばれれば、いつだって行きますよ」
榊先生は卒業したあとも交流があり、よく家へ招かれ奥さんの手料理をご馳走になっている。
娘の由香ちゃんも生まれて間もないし、あの子が大きくなった時俺はテレビに映るぐらいの活躍ができるようになっていないとな。
電話を切るとトレーニングウェアを着込み、ランニングへ出掛けた。
合宿へ行くとしばらくは向こうに住むようになるから、祝賀会も兼ねて飲もうと同級生たちから誘われる。
祝ってくれる気持ちは素直に嬉しい。
これから過酷な環境へ身を置くわけだし、少しくらい楽しんでもいいだろう。
本川越駅前にあった二階のつぼ八に集合して始まる飲み会。
飲む時はこの店がすっかり定番だった。
激励する同級生たち。
「あれ、ひょっとして岩上君?」
「ん-…、中野か?」
高校時代一か月半という短さでクビになったケンタッキーフライドチキン。
その頃一緒にアルバイトをしていた女の子の中野希美と偶然店内で出くわす。
「凄い久しぶりだよね。何だか身体凄い大きくなってない?」
中野は高校生の時以来という年月が経つのに気付き、意気投合。
共に飲みに来ていた友達も一緒に飲む事になった。
昔話の内容は、俺がケンタッキーをクビになった時の話となる。
彼女を含む当時女子高生だったアルバイトたちへ強引に飲み会を開催し、セクハラ紛いな行為を続けた店長代理の中島。
その頃まだ大学生だったが、この中島を何とかしてほしいと数名の女の子たちから相談されていた。
高校二年生だった俺もその飲み会に参加し、中島のセクハラ紛いな行動をさりげなく止める。
トイレへ行った時あとから中島が来て「テメー、ガキのくせに生意気なんだよ」と怒鳴りつけてきたので、その場で殴り倒した。
この一件で俺はケンタッキーをクビになり、その後ガソリンスタンドの山口油材で働き始める事になったのだ。
中野たちからすれば、俺は窮地を救った英雄扱い。
しかもそれの人間がこれから全日本プロレスへ行こうとしている。
「有名になったら初恋の人はってインタビューで、私の名前言ってね」
完全に主役扱いの飲み会はとても楽しい時間を過ごせた。
その横で彼女たちから相手にされず、焼酎のボトルをラッパ飲みする大沢。
目が据わり酒乱に切り替わる兆候が出ていた。
案の定大沢は店内にいた中野たちに絡み出す。
嫌がると強引に抱きつき胸を触りだした。
「おい、大沢! おまえ、いい加減にしろよ? 中野、会計は俺が持つから友達連れて帰りな」
「うん…、ごめんね、岩上君」
しつこい大沢を引き剥がし、中野たちを外へ逃がす。
すると大沢は彼女たちを追って外へ飛び出した。
出ようとすると店員に勘定を請求され、仕方なく払ってから出る。
外へ出ると彼女たちの姿は見えず、代わりに大沢が道端で三人組の男たちへ絡んでいるのが見えた。
慌てて間に入り謝罪する。
その間、大沢は奇声を発しながら道路へ飛び出す。
対向車が慌てて急ブレーキを踏む。
停まった車に自分からぶつかり道路へ倒れる大沢。
運転席のおばさんは目を真ん丸に見開いて身体を震わせていた。
「気にしないで行っていいですから! 悪いのはこちらなんで……」
起き上がりながら大沢はまた奇声を発しながら別方向へ走っていく。
俺が怒鳴っても一切聞こえていない様子。
まったく……。
先方に柄の悪いヤクザ者十数名が飲み屋のビルから出てくる。
全員がパンチパーマを掛けていた。
「ワーッ!」
その一人に向かって大沢は突進し両肩を掴んで、ガラスの壁へ思い切り叩きつける。
衝撃で割れるガラスの壁。
「いきなり何してんじゃ、このガキァーッ!」
他のヤクザ者たちは突然の暴行に対し怒り狂う。
十数名が大沢を殴り蹴っ飛ばした。
もちろん悪いのは悪酔いした大沢である。
しばらくその様子を眺めていたが、一方的な暴力は一向に止む気配がない。
いくら何でもやり過ぎだろう?
もう少しで合宿が始まる……。
しかし悪いのはこちらでも、このまま暴行を受ける同級生を見捨てて帰ってもいいのか?
俺は何の為に強さを求めたのだ?
相手がヤクザだから知らんぷりをする?
それは違うだろう。
「おい、いい加減にしろよ」
俺は止めに入った。
こちらが手を出していないのに殴り掛かってくるヤクザ。
「何じゃ、貴様はコラッ!」
「やり過ぎだ。もうやめろ」
頬に一発パンチを喰らう。
これで正当防衛だよな……。
まだ殴り掛かってくるので仕方なく足払いを掛け、大沢から一人ずつ引き離す。
まだプロではないが、素人との体力差は歴然としている。
俺は一切殴る事もせず、大沢からヤクザを守る事だけに専念した。
それでも十数人いるので質が悪過ぎる。
数名を止めていると誰かしらが大沢の顔面を蹴飛ばす。
さすがに大沢の上に覆い被さり、全身を無差別で殴られ蹴られた。
人が無抵抗なのをいい事にいい加減にしろよな……。
攻撃の手が止み、起き上がろうとすると、けたたましいサイレンを鳴らしながらパトカーが到着。
俺は殴っていない。
喧嘩を止めただけ。
必死に言い訳をしても手錠を掛けられ、強引に警察署へ連行された。
取調室で事の発端から捕まるまでを冷静に話し、手は出していない事を懸命に説明する俺。
隣の取調室では大沢が大声で喚きながら暴れている。
「酒を飲んでいるだろ、おまえは」
「お巡りさん、俺は至って冷静ですから!」
「隣りの奴は相当酔っているだろうが」
「……」
酒が入っているので俺の話をまるで信用しない警察。
「職業は?」
「……。今は無職だけど、もうちょいで全日の合宿へ行く身だ」
「何だって?」
「先日全日本プロレスのプロテストに受かり、これから合宿所入りする予定のレスラーだって言ったんだよ! だからこれでもプロ意識はある。手なんて一回も出しちゃいねえよ! 一緒にいたヤクザ者に聞いてみろ」
「はあ? おまえレスラーか? だから身体デカいのか。捕まえたのはおまえと連れの二人だけだ」
「はあ? あんだけ無抵抗の俺を殴る蹴るしときながら、警察は一人も捕まえられてねえのかよ!」
「少し待っていろ」
「……」
しばらく一人で待たされる。
隣では変わらず大沢が暴れていた。
あの馬鹿のせいで飛んだ目に遭ってしまったものだ。
変に正義感など出さず、放置してとっとと帰ればよかった。
何度注意しても酒乱の治らない大沢。
まさか事前にこのような形で足を引っ張られるとは思いもしなかった。
深い溜め息をついていると、先ほどの警官が入ってくる。
「ほら、代われ」
「え、何を?」
「早く出ろ」
「チッ…、分かったよ!」
手渡された電話と乱暴に奪う。
一体誰に電話したんだ?
そう思いながら出ると、相手はジャイアント馬場社長だった。
必死に状況を説明する。
一切暴力行為はしていないと身の潔白を叫ぶ。
「もううちには来ないでいい」
「え…、社長!」
電話が切れる。
冷たい言葉が心を切り裂く。
「社長っ!」
聞こえもしない相手に向かい、俺は何度も受話器で叫んでいた。
こんな事で、今まで頑張ってきたものが崩壊?
「……」
手から受話器を落とす。
頭が真っ白になり、しばらく放心状態だった。
大沢が騒ぎ、怒鳴りながら制する警察の声で我に返る。
「……」
あの馬鹿のせいですべてが台無しになった。
本当に洒落にならん事をしてくれたもんだ。
「おい、何を勝手に立ち上がってんだ?」
気付けば椅子から立ち上がっていた。
隣の取調室へ向かおうとすると、数名の警官が止めてくる。
「どけよ……」
邪魔なので数名の警官を跳ね除けた。
大沢が俺の姿に気付くと「岩ヤン、あいつらやりに行こうぜ」と大声を出す。
この馬鹿のせいで、俺の目指してきたものがすべて壊れてしまった。
「おい、どこに行く?」
「止まれ!」
警官の制止も気にせず、大沢の元へ近付く。
数名の警官が力付くで俺の身体に覆い被さってくる。
身体の自由を奪われ、取調室から強引に出された。
どけよ、コイツら……。
このままじゃ、あの馬鹿を殺せないだろうが。
すべて払いのけ、再び部屋へ向かう。
また数名の警官が俺の身体を押さえつけてくる。
今度は抵抗せず、自分の取調室へ連れ戻された。
このままでいいのか?
いいはずがないだろうが!
俺は転がっている受話器を見つめた。
闇 04(全日本プロレス編)
2024/07/21 sun
2025/08/12 tue
もう来なくていい。
ジャイアント馬場社長から言われた言葉が心をエグり、これまで頑張ったものすべてが音を立てて崩壊していく。
視界が狭まる。
何故暴力を振るわず、喧嘩を止めに入っただけの俺が、こんな目に遭わなきゃいけない?
悪いのは大沢史博。
しかし多勢に無勢で十数名で寄ってたかって暴行を加え過ぎたヤクザ連中もやり過ぎだ。
だから止めたまで。
警察が来て奴らは逃げ、捕まったのは俺と大沢のみ。
仲裁しただけの俺は問題ないと思い、堂々としていた。
それが何故こんな深夜、警察は馬場社長へ連絡など取った?
何故俺のプロレス入りが無くならないといけない?
隣りの取調室からは相変わらず大沢史博の暴れる声が聞こえてきた。
下を俯いたまま静かに立ち上がる。
「おい、貴様! 何、勝手に立ち上がってんだ!」
肩に手を掛けた警官の腕を捻り、投げ飛ばす。
すべての元凶の元。
俺が全日本プロレスの合宿があると知っていて、この凶行をしてくれたのだな……。
部屋を出ようとすると別に警官が掴み掛ってくる。
左腕を固定し力任せに壁へ叩き付けた。
俺を止めようとする人間すべてを破壊したい衝動に駆られる。
黙って大人しくしてりゃあ、随分と調子に乗りやがって……。
「岩ヤン! あいつらやりに行こうぜ! おい、離せよ!」
俺の姿が目に入った大沢は、警察官に取り押さえられながらも振り解こうと大声を出す。
目の前にいる同級生が人間に見えなかった。
あのつぼ八で飲んでいた時点で、こんな屑を放置していれば、こんな風には……。
警官が数名俺の身体に群がってくる。
指を掴み、そのまま投げ飛ばす。
せっかく辿り着いた檜舞台をこんな奴のせいで……。
「何やってんだ、貴様!」
近付いてくる警官をそのまま跳ね飛ばした。
コイツのせいで……。
明確な殺意。
黒い何かに全身を乗っ取られたような感覚。
もはや視界に映るのは大沢ただ一人だった。
蠅のように群がる警官を一人一人ちぎっては投げる。
「お…、大沢っ!」
瞬間的な感情の爆発。
怒りを込めた右の拳が、大沢の顔面に突き刺さった。
身長百九十センチの大きな身体が吹っ飛ぶ。
力の解放を済ませた俺は、呆然と立ち尽くす。
数名の警察官が俺に飛び掛かる。
床へ叩きつけられ、一切の身体の自由を奪われた。
ジャイアント馬場社長のもう来なくていいと言う言葉。
それだけが頭の中で絶えずリフレインしていた。
全身の力が抜け、あがらう事なく警察のされるがまま。
終わってしまった……。
何もかもこれで終わってしまったのだ……。
自然と出てくる大粒の涙。
視界が滲む。
俺はその場に突っ伏して大泣きする事しかできないでいた。
気付けば牢屋の中。
肌寒い温度。
中にいる暗い表情の人間たち。
目の前に映る鉄格子。
世界の終わりを見たような気がした。
牢屋の中に俺はいるのか?
ここは留置所というところだろうか?
頭を思い切り殴る。
少しだけスッキリしてきた。
何故こんなところにいる?
大沢を助けに行ってからだ。
警察に捕まったんだよな?
だから取り調べで自身の潔白を証明しようとした。
馬場社長の言葉は夢?
現実逃避するなよ。
思い切り現実じゃねえか……。
全日本プロレスは終わり?
もう来ないでいいと言われたじゃねえかよ……。
何でこうなった?
どこでこうなった?
俺の何が悪かったのだ?
整理しろ。
全日本プロレスの合宿前、飲みに行ったのが軽はずみだったのか?
酒乱だと分かりながら大沢と飲んだのが失敗だったのか?
ヤクザ者にボコボコにされていた大沢など、放って帰っていれば……。
いくら後悔したところでもう遅い。
すべては無に帰してしまったのだ。
壁を思い切り殴る。
同部屋の男が「うるせえ」と呟いたので、目を見開いて睨み付ける。
その男は視線を反らし口を閉じた。
血だらけになっていく拳。
鉄格子の外にいる警官が「静かにしろ」と事務的に言った。
大声を張り上げながら壁を殴る。
どのぐらいそうしていたのか分からない。
気付けば言いようのない虚無感、絶望感に包まれ、牢屋の中で項垂れていた。
一人の警官が出ろと命令する。
夜中なのに目の前にはおじいちゃんがいて、平謝りしていた。
身元引受人として親父は来なかったらしい。
代わりにおじいちゃんが来てくれたおかげで、俺は釈放された。
「おい、今回の件、俺は納得いかないからな。おまえら、思えておけよ?」
警察官に向かい、凄みを利かせる。
法律など関係無ければ、この場で皆殺してしてやりたい気分だった。
「止めないか、智一郎!」
おじいちゃんに諫められ仕方なくこの場を引く。
警察署の外へ出ると、隣りには大沢史博と、その両親が立っていた。
口元は俺の打撃でお化けのように膨れ上がっている。
「岩ヤン…、本当にごめん……」
「ごめんじゃねえよ……。何をしてくれたんだよ、おい?」
「本当にごめん……」
「そんなもんで済むのかよ、クソ野郎!」
大沢へ掴み掛ろうとすると、おじいちゃんに止められた。
「ガラス代はうちで弁償したんだ。君もいい加減落ち着きなさい!」
メガネを掛けた大沢の厳格そうな父親が俺を睨みつけながら口を開く。
辺りの景色が真っ赤になっていった。
うん、もうどいつもコイツも殺してしまおう……。
「はあ? おい…、おまえ今何て言ったんだ、おい……」
「止めないか、智一郎!」
間に入るおじいちゃん。
それがなければ確実に殴っていた。
「落ち着きなさい」
おまえが精子をぶっ放して作った息子のせいで、こんな目に遭った俺に対し何て言い草だ?
大沢の親父の台詞にまた感情が爆発しそうになる。
「オメーの息子が勝手にガラスを割っただけだろうが! 偉そうに抜かすな、ボケッが!」
「黙れ、智一郎!」
おじいちゃんに諫められ、俺はそのまま泣くしかできなかった。
家に帰るまで、どう帰ったのかすら覚えていない。
このくだらない一件で、俺はすべてを失った。
それだけは間違いない。
何をしていいのかまったく分からなかった。
レスラーになろうとしたこの一年間。
すべてがあの一夜で無になり、存在価値すら無くなったのだ。
死にたかった。
どの面下げて生きていけばいいのか。
部屋に先輩の土方智こと坊主さんが来た。
社会人になってから仲良くなった先輩で、俺は坊主さんと呼んでいる。
「智…、何であんな奴と酒なんて飲みに行っちゃったんだよ?」
「……」
坊主さんの言葉は正論すぎて、何一つ言い返せない。
あんな男とつるんでいたから、こうなってしまった。
「…で、全日はどうなったんだ?」
「……。馬場社長から来ないでいいって…、言われました……」
「これから合宿だろ?」
「……」
「行ってこいよ」
「だって…、来ないでいいって……」
言葉に詰まり大泣きした。
どのくらいそのままでいたのか分からない。
それでも坊主さんは黙って傍にいてくれた。
「もう…、死にたいですよ……」
「今、何て言った?」
「もう死にたいです! 何の価値もなくなりました……」
「……」
嗚咽を漏らしながらみっともなく突っ伏して泣く。
何度も泣きながら「死にたい」と連呼した。
「死んじゃ駄目だ! 生きろ!」
「生きてどうしろって言うんですか!」
「ジャイアント馬場から来なくていいって言われたかもしれないけど、明日全日本の合宿所へ行け」
「無理ですよ!」
「いいから行ってこい」
「どうやって? どんな面して行くんですか?」
「死ぬつもりだったんだろ? だったら行ってから死ね。嫌なら生きろ」
「……」
その言葉はどんな崇高な言葉よりも心に突き刺さる。
俺は口で死にたいと言っているだけ。
それなら合宿所まで行く。
行ったあと死ねばいい。
どうせ死のうとまで腹を括ったのだ。
少しだけ光が見えたような気がした。
いや、光などでない。
門前払いを喰らい、ただ追い返されるだけなのが目に見えている。
それでも駄目元で…、全日本プロレスへ行ってみよう。
そこに一筋の光も無かったが、俺にはそれしかなかった。
再び大泣きする。
坊主さんは肩を力強くポンポンと二回叩く。
東武東上線で川越市から池袋。
山手線で渋谷へ。
しかしたまプラーザ駅への行き方が全然分からない。
「すみません…、たまプラーザ駅って、どう行ったらいいのか……」
「……」
何度このやり取りをしただろう。
通行人に聞こうと話し掛けても、誰もが無視して相手にしてくれない。
東京の人間は何と冷たい事か。
これだけ駅構内を探してないのだ。
別のところから行くのかもしれない。
渋谷駅を出ると、一定の距離を保ちながら列を作っている集団が見える。
その内の一人が声を掛けてきた。
「あなたの幸せの為に一分祈らせて下さい」
「はあ? それよりたまプラーザは?」
「あなたの幸せの為に一分間まずはお祈り……」
「おい、この野郎!」
「は、離して下さい!」
気が付けば俺は胸倉を掴んでいた。
「幸せを祈るなら、たまプラーザまでの行き方を教えろ!」
「いえ…、あのー……」
「俺の幸せを本当に考えるなら、たまプラーザへの行き方を教えてくれって!」
その剣幕に押されたのか宗教活動家は、親切に道案内してくれた。
JR渋谷駅から出て少し歩いたところに地下へ降りる通路。
ここからたまプラーザには行けるようだ。
東急田園都市線……。
一度渋谷駅を出て、別の線に乗り換えなくてはいけないなんて、初めての俺に分かるはずもなかった。
無知な俺はそんな事すら知らない状況。
「お陰で幸せになれたよ、ありがとう!」
俺は地図を頼りに全日本プロレスの合宿所へ向かう。
玄関のチャイムを押す。
しばらくして渕さんが出てきた。
俺の顔を見るなり怪訝な表情で「何をしに来たんだ? 社長から来なくていいと言われたろ」と怒鳴られる。
必死に弁解した。
しかし門前払いだった。
当たり前だよな。
来るなと言われたのに勝手に押し掛けただけ……。
「……」
蜘蛛の糸など、どこにも垂れていない。
うん、やるだけはやった。
でも駄目だった。
さて、どう死ねばいいだろうか?
項垂れたまま帰ろうとした時、奥から一人の大男が出てくる。
「いいじゃない。せっかく来たんだからとりあえず入れてあげようよ」
大男はあのジャンボ鶴田だった。
不満そうな渕さんを横に僕が見るからと、説得するジャンボ鶴田。
練習できる格好になるよう指示される。
バックにはTシャツやトレーニングウエアが入っているので着替えた。
テレビでしか見た事のないプロレスラー。
思えばこの人と三沢光晴の戦いを見て、この団体を選んだ。
遥か雲の上の存在。
そんな人の視界に今、俺は立っている……。
他のレスラーがいる中、合宿所のリングに上がった。
明らかにみんな俺より身体が大きい。
テレビで見た秋山準の姿もいた。
見て一番衝撃的だったのは小橋建太の肉体だった。
まるで肉の鎧を纏っているかのような大きさ。
レスラーってこんなに大きいものなのかとカルチャーショックを受ける。
いかに自分が井の中の蛙大海を知らずだったのか。
すべてに圧倒される中、ジャンボ鶴田によるトレーニングが始まる。
腕立て伏せ、腹筋、スクワット各百回を十セット。
もちろん休憩時間は無し。
「僕がね、休憩時間をあげないと思っているでしょ?」
「そ、そんな事思っていません!」
「ちゃんとね…、腕立ての時は腹と足の筋肉。スクワットの時は腕と腹の筋肉に休み時間をあげているんだよ」
「……」
いやいや、俺動きっ放しだからと言いたかったが、こんな偉大なるレスラーに何も言えず、歯を食いしばりながら回数をこなすだけに撤した。
次にリングのコーナーを背に両脇のロープを掴んで身体を浮かせる。
その体勢で両足を上に持ち上げる足上げ腹筋。
俺ってこんなに体力無かったのか?
緊張からなのか、いつもの調子が出ない。
コーナーの上に乗り、そのままリングへ向かって飛び降りる。
簡単に言えば、トップロープの高さからただの自爆行為。
背中でうまく受け身を取ろうが回数を重ねる内に、皮がすり減り血が滲んできた。
いつまでこんな事が続くんだ?
自衛隊でのシゴキが軽く感じるほどだった。
エプロンサイドに首だけ出して、上から鶴田さんがタオルを被せ力を入れて押さえてくる。
「はい、この状態で首を持ち上げて」
身体の向きを変え、上下左右に百回ずつ。
途中で首にまるで力が入らなくなる。
赤ん坊の首の座らない状態、正にそんな感じだった。
「レスラーはジャーマンやるのも首鍛えてないとできないからね」
力を加減してくれていても、首がもげそうに感じる。
それ以外にも様々で過酷なトレーニングは続く。
レスラーがよくロープへ飛ばし戻ってくるロープワーク。
まるで鋼鉄の棒へ向かって自ら背中を叩きつけたような固い感触。
え、ロープってこんな痛かったの?
気付けば俺の足は痙攣し、立つ事さえできなくなっていた。
「うーん、まだまだ体力不足だなあ」
「……」
足を引かれ、リングのエプロンサイドへ出される。
かろうじて振り向き眺めた。
先輩レスラーの泉田さんが俺を担ぎ、リングから降ろそうとしているところだった。
風呂場へ連れてってもらい、大の字に寝転がる。
「足が釣っちゃっているなあ。初日じゃレスラーのトレーニングはキツいよな。ちょっと我慢して待ってな。もうちょっとで楽になるからさ」
丹念にマッサージをしてくれる泉田さん。
少しずつ緊張していた身体が楽になり、再び動けるようなる。
「せっかくだから風呂入って身体を温めてからきな」
「すみません…、色々とありがとうございました……」
四人ぐらいは一度に入れそうな大きな浴槽へ一人入る俺。
少し温度はぬるく感じたが、贅沢など言える身分ではない。
自分で鍛え抜いたという自負だけはあった。
しかしそれがプロの世界では話にならないという惨めさも痛感した。
まだ背があり体重が重ければいいが、体格でも最下位。
はなっから話にならないじゃん、俺って……。
湯に浸かったまま俺は泣いた。
風呂から出てリングのあるトレーニング場へ向かう。
まだレスラーたちはトレーニングをしていて、泉田さんは突然立ち上がり外へ行くとゲーゲー吐き出した。
「昨日飲み過ぎちゃったよー」
「え……」
吐くだけ吐くと、泉田さんはまたリングの上に戻り、腕立て伏せの続きを始め出す。
一体何なの、この人たちは?
俺は圧倒され、目の前の光景をボーっと眺める事しかできなかった。
気付けば自分の中で先輩レスラーたちをさん付けで呼んでいる事に気付く。
全員がトレーニングを終え、ちゃんこ鍋を作る準備に掛かっても、小橋建太さんだけは黙々トレーニングを続けている。
だからあの人は、あんな大きな身体を維持できているのか……。
秋山準さんが「今日は初日だからお客さん扱いだ。先に食え」と座らせてくれた。
四人掛けテーブルには左にジャンボ鶴田さん、右に渕さん、そして対面には先程トレーニングを終えたばかりの小橋さんが座る。
これ、プロレスオタクなら発狂するような面子だなと思った。
夢のような時間の中、俺はちゃんこ鍋を勧められる。
テーブルの真ん中にはくり抜かれた穴があり、そこへ鍋を置いて直に火がつけられるようガスが通ってあった。
大きな金物の鍋を持って泉田さんがテーブルの上に置く。
タッパに入った味噌を渡される。
ジャンボ鶴田さんが「ちゃんこ鍋にはこの味噌ダレをこうやって入れて食べるんだよ」と言いながらフーフーしていた。
「うん、旨い!」
真似して食べてみると、格別な旨さのちゃんこ鍋だった。
おそらく俺は、この味を生涯忘れる事などないだろう。
夢のような時間は終わるのも早い。
やるだけやった。
でも力及ばず。
自身の限界を知ったのだ。
頭を下げて合宿所を出ようとした時だった。
玄関で見送りに来てくれたジャンボ鶴田さんが口を開く。
「まだ線も細いけど、力もあるし勿体ない。また来年になるけど、またプロテストからおいでよ」
「……」
「もうちょっと体重を増やさないとな」
「はい……。鶴田さん…、ありがとうございました……」
誠心誠意頭を下げ、ジャンボ鶴田さんにお礼を伝える。
気付けば土下座をして何度も頭を下げていた。
「おいおい……」
この瞬間、心の底からこの人が俺の師匠なんだと固く誓う。
この人によって俺は救われたのだ。
夢のような一日を終え、地元川越に戻る。
全身がガタガタだった。
これまで応援してくれた大半の人は、手のひら返しで罵倒された。
当たり前だ。
仕方ない。
すべては自身が招いた不徳なのだ。
丁重に謝罪し、また茨の一年間を過ごす決意をする。
あの人に言われたのだ。
俺は諦める訳にはいかない。
またあの世界を目指してみようじゃないか。
ジャンボ鶴田師匠と接してみて、痛感したのは人間的な器の大きさ。
心の底から尊敬できる人。
あのようになりたいが、今の自分では無理なのは自覚できた。
元々備わっている器が違い過ぎる。
日々トレーニングして身体を大きく。
そして親指の鍛錬。
いつか編み出した打突を使う日が来るまで……。
あの世界に入れば俺などかなり小さい部類になってしまう。
誰と戦っても勝てるような技が必要。
新聞紙一枚を広げ、右手で端を掴む。
右手のみで新聞紙をグシャグシャ手の中に握っていくトレーニング。
新聞紙一枚なら簡単にできた。
二枚にすると、難易度は一気に上がる。
幸い家ではおじいちゃんが新聞を取っていたので量には困らない。
親指立て伏せ。
鉄の柱に親指を打ちつける。
小石の入ったバケツに指を突き刺す。
爪など何度も割れた。
そんなもの放っておけば、また勝手に生えてくる。
そんな狂気に俺はとり憑かれていた。
日々の鍛錬が、俺の右の握力をより強力なものにしていく。
ベンチプレスをするにしても、回数を決めずひたすら上げ下げを繰り返す。
終わるのは腕がバーベルを持ち上げられなくなった時。
台の下には汗が水溜りのように溜まった。
家から五キロほど先にある伊佐沼へ走り、着くと腕立て伏せ、腹筋、スクワットを各五百回。
丹念にストレッチをしてから帰る。
途中にある島忠で五キロのダンベルを二つ買い、振りながら家へ戻った。
最後は腕が持ち上がらないくらいの疲労。
働いて食べてトレーニングだけの生活。
それでも俺は幸せだった。
常にオーバーワーク気味の俺。
身体の疲れを癒やす為、近所にできたTBB総合整体へ行ってみる。
メガネを掛けた先生の腕は良く、筋を痛めた俺の身体を治してくれた。
俺の筋肉の質の良さを褒めてくれ、中々筋肉痛にならないと説明される。
一回り年上の先生とは非常に気が合う。
気付けば毎日のように整体へ足を運ぶ。
毎回施術を受けるわけではなく、時にはお茶を飲みながら話をするだけ時もあった。
ある日先生から自分の治しの施術も覚えてみないかと言われる。
もちろん患者がいない時ではあるが、先生は自身の持つ技術を俺に金も取らず無償で伝授してくれた。
人間の身体の構造を頭で理解する。
壊しと治しの両極的な差。
日々俺はこのような日常を送った。
全日本プロレス入りを潰した張本人である大沢史博は、何度も家に来て謝罪しに来る。
坊主さんは絶対に許してはいけないし、関わらないほうがいいとアドバイス。
しかし土下座しながら何度も詫びる大沢を見て、俺は酒にもう飲まれるなと言い、また付き合いを復活させた。
ある日、TBB総合整体へ行くと、先生は高周波の機械を入れていた。
実験も兼ね、これを使ったトレーニングを頼まれる。
治療だけでなくトレーニングにも使えるらしい。
実際に体験して感じたのが、通常の鍛錬では筋肉が付き辛い細部に部分までが鍛えられる事。
この科学的なトレーニングを非常に気に入り、日々の鍛錬の中に取り入れた。
先生はそんな俺に対し一日五百円の金しか取らなかった。
俺が金銭的余裕が無いのを知った上でなのだろう。
本当に頭が上がらない。

仕事といってもアルバイトのような形で色々な事をした。
土木作業員を経て、軌道屋の仕事。
これは自衛隊の北海道倶知安駐屯地で知り合った同期の鳥谷部が、青森から東京へ出てきてしていた仕事を紹介してもらったからだった。
昼と夜の両方を働く軌道屋。
しかし技術も何もない俺は夜の作業しかない事も多く、ほとんど金にならない。
それでも目黒にあるプレハブでできた小屋は家賃も掛からないし、食事も出る。
風呂場で湯船の淵に腰掛け、足を延ばして壁につけた状態で毎日千回以上の腹筋を心掛けた。
週末になると川越へ戻り、友達と酒を飲み、トレーニングをした。
握力と親指の鍛錬だけは欠かさず毎日していたので、指三本でリンゴを潰せるまでになっている。
一度握力を測ると九十六キロを記録した。
自身が求めるのは強さ。
それに強靭な肉体。
身体をデカくして耐久力を増やし、この打突で相手の身体に穴を開けてやる。
攻撃だけでも駄目。
防御だけでも駄目。
強さとはすべてを兼ね揃えたものだろう。
どんな状況下に置いても変わらない強さ。
いざという時の為に秘中の秘。
それにはこの握力と打突が一番自分には適していると思った。
着々と大きくなる身体。
とにかく食べ、トレーニングに励む。
しかしカロリー消費が凄いのか、体重は中々上がらないでいた。
去年の全日本プロレス合宿時で七十五キロ。
現在七十八キロ。
筋肉はつき見栄えは変わってきているものの、肝心の体重が増えない。
だからといってトレーニング量を落とすわけにはいかなかった。
唯一気が休まるのが坊主さんや知人と食事したり酒を飲んだりする時だった。
金も地位も何も無い俺。
こんな男に女が近寄ってくる訳がない。
つるむのは決まって同性の男だけ。
今はそれでもいいさ。
俺が世に出て大きくなった時、小馬鹿にしていた連中は吠え面を掻くなよな。
俺にあるのは常に反骨心。
今はこんな事をしながら生活の糧を得てギリギリの生活をしているが、今に見ていろよ……。
自分で選び招いた現状を俺は社会のせいにする事で精神を保っていた。
ある日目黒から川越に行き、大沢たち同級生と飲んだ時。
これはこちらに出てきて同世代の友達がいない鳥谷部の為に、彼らを紹介したいという思いもあった。
この頃大沢は駒澤大学へ通っていたが、成増に親が借りてくれたマンションで一人暮らしをしていた。
目黒へ帰る俺たちと方向が一緒なので途中まで帰ろうという事になり、川越市駅まで向かう。
「あ、ごめん。岩ヤン忘れ物しちゃったから、ちょっとここで待ってて」
一度実家へ戻って荷物を取りに行くと言う大沢。
帰りの電車を待っていても、いつまで経っても来ない。
この日は鳥谷部も一緒に川越へ遊びに来ていたので、一時間以上経っても戻らない大沢に対し、非礼を詫びる。
下手したらまた道端で誰かに絡み、喧嘩になっているのではないかと杞憂した。
終電が無くなりそうだったので、深夜に失礼とは思ったものの大沢の実家へ電話を掛ける。
受話器から聞こえてきたのは大沢と母親の口論だった。
彼の母親が言うには、酷い酔い方をした大沢がどこからか女を連れて実家に戻り、この子を泊めると言い出し揉めている最中だと説明される。
俺の全日本プロレスを自身の酒乱的な行動で潰し、散々土下座してきた大沢。
一体あれは何だったのだと頭に血が上った。
「鳥谷部…、悪いけど今日は俺の実家に泊まってくれや……」
「岩上、どこ行くんだよ?」
彼を引き連れた状態で大沢史博の実家へ向かう。
ドアを開けると、玄関先でまったく知らない変な女が立ち尽くしている。
その横で大沢は母親と揉めている状況だった。
「おい、おまえ…、どういうつもりなんだ?」
完全に酔った大沢へ凄みを利かせる。
「関係ねえだろ」
面倒臭そうに吐き捨てる大沢を見て、視野が狭くなる。
気付けば大沢を外へ連れ出し、拳を思いきり叩き込む。
そのまま倒れる大沢。
唇は潰れ数本の歯も欠け、酷い出血をしていた。
人生これまでで本気で人の顔面を加減せず殴ったのは、これで二度目。
二回ともこの大沢史博という因果。
こんな馬鹿のせいで俺はすべてを失い、また許したのにまた裏切られたのだ。
彼の両親はただ黙って俺を見ているだけだった。
「智一郎、おまえは甘過ぎる。だからあんな奴許す必要がないと言ったろ?」
坊主さんや仲のいい知人からは散々責められた。
当たり前だ。
自身の選択がすべてを台無しにしていたのである。
自分の甘さに対し反吐が出た。
相手の事を何も考えないような奴だからこそ、酒に飲まれあんな騒ぎを起こした。
いくら謝ってきたところで、そんなもの表面上的なだけ。
だらか許したところでまた同じ過ちを繰り返す。
もう他人につまらない感情や許しはいらない。
いい加減気付けよ。
自分の人生は自分で切り開くしかないのだから。
付き合う人間など最低限でいい。
より貪欲に身体の鍛錬を求めよう。
もう二度とあんな目に遭わないように気を付けながら……。
川越でいい仕事先が見つかり、目黒の軌道屋を辞めて地元へ戻る事にした。
新たな職場は協同商事。
西武新宿線本川越駅の一つ隣駅の南大塚から徒歩十五分くらいのところにある。
家から自転車だと約三十分で行けるので、交通費節約と運動の為にもそれで通う事にした。
有機野菜を扱い、これからビールの事業なども考えているようだ。
俺は入間市にある小学校の給食センターの有機野菜食材管理を任されるようになった。
もう少しでまたプロテストの時期がやってくる。
あの挫折と屈辱から一年が経とうとしていた。
体重もようやく八十五キロと去年より十キロ増やす事に成功している。
協同商事内で、野菜一箱十キロが五十個積んであるカゴ車を高台に上げたいと言われる。
しかし車内のフォークリフトはすべて使われていて時間がない状況もあり、俺がカゴ車を押して坂道を上る事を決めた。
純粋に五百キロの重さ。
渾身の力を入れ、カゴ車を押す。
少しずつではあるが坂道を上がり始めた時だった。
その時カゴ車を支える車輪の一つが壊れ、こちらに向かって倒れてくる。
一瞬支えようとしたが、五百キロの重さにはまったく意味がなかった。
寸前で身を翻し避けようとした時、カゴ車の角が左足親指に当たる。
思わず出る呻き声。
プロテスト前に俺の左足親指の爪は粉々に割れ、その破片が突き刺さりめり込んだ。
おびただしい出血。
その状況を見た周りから悲鳴が聞こえる。
俺は左足を両手で押さえ、必死に痛みを堪えるしかなかった。
専務である奥さんは俺の状態を見て「岩上君ごめんね、病院連れてってあげたいんだけど、これから帰って息子にご飯作らなきゃいけないから…」と信じられない言葉を吐く。
俺は近くに住む従兄弟の和ちゃんへ連絡し、迎えに来てもらった。
このラインより上のエリアが無料で表示されます。
今でこそコエドビールで協同商事は一躍有名になったが、この一件が現在ならもの凄い問題になっているだろう。
図に乗ってJ三部リーグのプロモーターをしているようだが、俺のような事故を当時は無視して出来上がった環境だという事を忘れるなと言いたい。
この時の子供が、現在ではこの会社の取締役をしているのも因果なものである。
