文字は自由だ!イワタ鄭道昭の面白い文字を見てみよう(奥深き歴史編)
こんにちは。イワタ開発部の狩野です。
前回は少しハードな技術記事をお送りしてしまいましたが、今回はガラッと雰囲気を変えて、「面白い文字を見て楽しむ」という気楽な企画……のつもりで筆を執りました。
しかし、いざ書き始めてみると、文字の成り立ちや歴史の奥深さにどうしても熱が入ってしまい、この前半部分は少々マニアックな内容になってしまいました(笑)。
ですので、「難しい歴史の話は置いておいて、手っ取り早く面白い文字の形を楽しみたい!」という方は、この前半は飛ばして、面白字形編からご覧ください。

もちろん、「どうしてそんな面白い形になったのか?」というルーツや背景を知ってからじっくり文字を味わいたいという方は、ぜひこのままお付き合いいただけますと嬉しいです。
2026年4月10日にリリースされた「イワタ鄭道昭」は、非常にユニークな書体です。
まずはその不思議な魅力の源流からご案内させてください。
1. イワタ鄭道昭はどういう書体?
「イワタ鄭道昭」は、円筆の北魏楷書という書体をフォント化した、世界で唯⼀(2026年7⽉現在)のすごい書体です。これはちょっと自慢です。
「円筆」や「北魏楷書」という⾔葉は聞きなれない⽅も多いかもしれませんが、なぜ唯一となっているのかは歴史をひも解くと見えてきますので、次章ではまずこれらについて触れます。
2. 北魏楷書って何?
北魏(※1)楷書とは、現在も書かれている楷書のスタイルが初唐(※2)に完成する前にみられた石に刻まれた荒削りな書風の書体で、「六朝楷書」とも呼ばれます。固定したお手本が存在せず、一点一点が個性的な姿を見せているのが魅力です。我々の知る常識的な楷書の姿とは遠く離れたものもあります。
※1 北魏
正式な国名は魏だが、いくつもある他の魏(例えば、三国志に出てくる魏は「曹魏」)と区別して「北魏」(386-534年)と呼ぶ。中国の北半分に異民族王朝が乱立した、いわゆる「五胡十六国」の一つの鮮卑族による王朝で、150年ほど続いた。後に東西に分裂してからは東魏(534-550年)・西魏(535-556年)と呼ばれる。
※2 初唐
唐代の時代区分(初唐・盛唐・中唐・晩唐)の最初の期間で、618年に唐王朝が建国してから最初の約100年間。日本の飛鳥時代末期とほぼ重なり、聖徳太子が亡くなった頃から奈良時代の最初期にあたる。

・楷書の誕生から完成まで
楷書の⾁筆資料として現在知られる限りで最も古いのは、『東牌楼東漢簡』と呼ばれる後漢晩期(171〜186年頃)の⽊簡類で、2004年に湖南省⻑沙市の古井⼾から出⼟しました。
ちょうど同時期に、八分隷と呼ばれる波磔(※3)を強調した隷書体のスタイルが完成の域に達し、乙瑛碑(153年)や曹全碑(185)といった名碑が刻まれていた一方、簡便な筆記用のスタイルとしての隷書はその役割を生まれたばかりの楷書・行書・草書に譲りつつありました。
※3 波磔
滑らかな石に書き、刻まれた姿を正とした篆書と異なり、縦に繊維の通った竹簡に書かれる姿を正規の形とした隷書は、横方向へのベクトルと、スピード感がもたらす肥瘦(線幅の変化)を文字の美の中に採り入れていった。
とくに、1文字の中の主要な横画または右払いの収筆(終端部)を強調して三角形に仕上げる波磔は、隷書の完成形である八分隷を象徴する特徴である。波磔をつけるのは1文字に1箇所に限り、これは楷書体でも「長く強調する横画は1文字に1箇所だけ」とする「一画強調」に受け継がれている。仮想ボディの隅々まで字画を均等に行き渡らせようとする明朝体は、篆書体の美学への先祖返りであると言える。
このころの木簡では、1枚の中にカジュアルな隷書から楷書・行書・草書の書きぶりをもつ文字が混在していて、未分化な日用書体の生まれたばかりの姿をそこに見ることができます。
そこからおよそ400年をかけて楷書は成熟し、初唐の頃にスタイルとして完成するわけですが、初唐の三大家(欧陽詢・褚遂良・虞世南)の楷書はあまりに整いすぎていて、筆跡で個人の精神性を表現する書道の対象としては行書・草書が宋代以降中心となることとなります(一方、書物の内容を誤り無く伝えるための媒体が石経から版本に変わり、使われる書体も肉筆の楷書体から様式化された宋朝体・明朝体といった印刷用の書体へと移り変わります)。
楷書の全盛期は唐代であったと言えるでしょうが、盛唐から中唐に至り顔真卿の力強い書風の評価が高まったのは、楷書の枠内での、洗練より表現性を重んじたスタイルへの揺り戻し現象なのかもしれません(揺り戻しは漢字の字体の面でも現れるのですが、それは後ほど触れることにします)。

左:欧陽詢「九成宮醴泉銘」(632年)
中:褚遂良「雁塔聖教序」(653年)
右:顔真卿「千福寺多宝塔碑」(752年)
・北魏楷書が誕生した時代背景
話は、楷書のスタイルが未確立だった時代に戻ります。
楷書は隷書から派生して現れたもので、完成までに400年余りを要しましたが、この期間は隋が中国を再統一するまで全国を支配した統一王朝が存在しなかった魏晋南北朝時代とほぼ一致します。この間ずっと中国は南北に分かれており、文化面では北から逃れた貴族たちが作った王朝が重要な役割を果たします(例えば、書聖と呼ばれる王羲之は、東晋で最有力の貴族であった琅琊王氏の出身です)。
そのため、文化史では南で栄えた呉・東晋・宋・斉・梁・陳の6つの王朝に因んで、この時代を「六朝時代」と呼ぶことが一般的です。北魏楷書が別名「六朝楷書」と呼ばれることもあるのはそのためです。
北魏楷書の遺品の中心は、華北を統一した北魏で作られた墓誌銘(※4)と造像記(※5)なのですが、碑よりも法帖を重んじた(いわゆる「北碑南帖論」)と言われる南朝の名前で呼ばれるのは皮肉なところです。
北魏楷書の美は清の末期に再発見され、日本にも明治時代に拓本がもたらされるとともに「真蹟の残っていない南朝の文字を後世模刻した法帖より、実物が残っている北朝の石碑のほうが価値が高い」という論拠によって高く評価されるとともに、論争を巻き起こすこととなりました。
※4 墓誌銘
単に墓誌とも呼ばれる。棺とともに墓の中に安置される石板で、散文で経歴を記した誌と、死者を悼む韻文の銘が刻まれる。北魏に墓誌の遺品が多い理由は、かつては曹操の薄葬令を受け継いだ立碑の禁が後の王朝でも繰り返されたために、碑の代わりに密かに埋めたのだと説明されてきた。しかし近年の歴史学的研究によると、墓誌の形式は南朝の宋で整えられ、北魏の中国化政策を推し進めた第七代皇帝孝文帝が高官に墓誌作成を求めたことにより広まったという説が有力である。
※5 造像記
北魏では、第三代の太武帝が僧侶の穴埋めを命じる廃仏の詔を出すが、太武帝暗殺後に帝位に就いた文成帝はすぐに仏教を復興した。彼が任命した沙門統・曇曜は山西省大同市の雲崗に石窟寺院を造営し、巨大な磨崖仏を歴代皇帝の姿に似せて作った。大同市の平城から洛陽に遷都した後、その南郊に龍門石窟が造営され、寄進された磨崖仏の由来を記した造像記が多数刻まれた。中でも優れた二十点は『龍門二十品』として知られ、北魏楷書の代表的な存在である。
・方筆とは
北魏楷書は大きく方筆と円筆の二つに分かれると言われます。
北魏楷書の主流を占めるのが方筆と呼ばれる特異なスタイルで、とにかく角張った文字です。中には、現代の見方で言えばゴシック体のような四角い線で彫られたものもあります。
点が三角形に刻されることが特徴で、「口」形の右上にある転折部を斜線で表すなどの線質の単純化・様式化が見られます。方筆の代表例として、「牛橛造像記」を示します。

⿓⾨⽯窟の造像記の中で最も優れた『⿓⾨⼆⼗品』にも選ばれている
(出典:ColBaseより切り抜き)
もちろん、当時筆で書く楷書体が実際にこのような形で書かれていたわけではありません。
当時の彫り手は、骨格は元の文字を尊重しつつ、線質については書き手の線質の再現ではなく、自分独自のスタイルでディテールを表現していたのだと考えられています。「牛橛造像記」と同じ洞窟には多数の造像記が刻まれており、同一の職人集団が関わったと推測されます。
このように、方筆は円筆よりも分かりやすい共通のスタイルを持っています。
この方筆のスタイルは、現代では書として臨書されるだけでなく、篆刻の側款(※6)にもよく使われています。もともと様式化が進んだ書体だけに活字書体化にも向いており、金属活字時代に既に上海字模一廠から新魏体という活字が開発され、このデザインに基づいたデジタルフォントは数社から販売されています。
※6 側款
印石の側面に、刻者や日付、特殊な文字を用いた時にはその出典などを刻んだもの。
・円筆とは
方筆に比べ、円筆とは何かを定義することには困難があります。
実際のところ、方筆と円筆の中間的な、後世の楷書体に近い筆の線の形を刻した墓誌なども多く見られます。
典型的な円筆として挙げられるのは、鄭道昭の遺した数々の磨崖碑のほかは、『石門銘』や『瘞鶴銘』などの少数の作品に限られます。
円筆という決まった刻法があるのではなく、様式化された刻法と、元の筆跡を忠実に再現しようとする刻法の⼆つが存在し、後者の中で、元の⽂字の筆法が丸みを帯びたものを円筆と呼んでいると捉えたほうが良いのでしょう。
一方で、円筆は存在しないという説も存在します。『鄭羲下碑』の丸みを帯びた起筆は風蝕による虚像であり、当初は碑額(※7)部分に見られる鋭い書風で全体が統一されていて、龍門の造像記と大差なかったはずだというのです。文字の大きさが異なるとは言え、同じ石を刻んだ磨崖の上下で風化状況が変わったとは信じがたいのですが、そのような風蝕と採拓を経た風化の美を含んだ姿として鄭道昭の書は美しい姿を我々に示しています。
※7 碑額(題額)
石碑のタイトル部分。中国の石碑は南北朝時代以降、碑首・碑身・碑座の3つの部分に分かれるスタイルが確立した。四角い碑身の下に台座(碑座)部分があり、上に碑首と呼ばれる部分が載っている。この碑首の中央に大きな文字(本文より古典的スタイルが用いられる事が多い)でタイトルが記された。残りの部分には多く装飾的な彫刻が施される(別の石を組み合わせることもある)。
なお、このような区分がなく、頂部の丸い石の形なりに文を刻んだ簡便なものは碣と呼ばれ、碑とは区別される。鄭羲下碑は、題額に「碑」と題されているためそう呼ばれるが、山の岩肌に直接文字を刻んだものは磨崖であって、碑・碣とはまた異なる区分に属する。
3. 自由な字体と正しい字体
北魏楷書の字体はなぜ自由だったのでしょうか。漢字の形の変遷にみられる法則性を知ればそれが分かります。
漢字の形の変遷にみられる法則性
どの時代にも、正書体と通用書体の二つが常に並行して存在する。前者は公式な文書を残すときに用い、後者は日常大量に書かれる文書に用いる
通用書体の字形は連続的に変化し、多様化し続けている。
王朝が統一されると文字も統一される。その際、それまでの通用書体が正書体に格上げされる。
旧来の正書体は廃止されず、特別な権威ある書体として用途を限定して残る。
正書体である篆書、隷書、楷書はそれぞれ秦・漢・唐という統一王朝により規範化されました。
秦の始皇帝が書体・度量衡・車両の軌間を統一したことはよく知られています。統一した小篆の整った字形は『泰山刻石』(前219年)などに遺されています。隷書は後漢の『熹平石経』(175年)により八分隷のスタイルが確立しました。
楷書が正書体である今も、紙幣の「壱万円」のような額面表記に隷書が、パスポートの「日本国旅券」の文字に篆書が用いられている事実を見れば、「特別な権威ある書体」としての役割をそれらが持っていることはおわかりいただけると思います。
篆書は印鑑の書体として用いられるほか、最初の部首建て漢字字書である『説文解字』(100年)で、当時知られた最古の書体として字源を明らかにするために用いられたことは特筆すべき事実です。
・楷書の2段階の規範
楷書に関しては、2段階の規範化があったことが知られています。
1段階目は、先ほども挙げた初唐の三大家が活躍した頃で、楷書のスタイルが確立するとともに字体についても一旦統一されています。唐の宮廷で作成された仏典の写経はこのスタイルに基づいており、1字種につき1字体を用いるという態度が徹底していることが確認されています。この時の字体は、隷書から北魏楷書を経て楷書の完成に至る字体の変遷を自然に反映した、正書体として当時一番多く書かれていたものです。
2段階目は、開成石経(837年)が建てられる時に、楷書の字体は大きく変化することとなります。見直しが必要とされた理由は、科挙の明経科の試験のためと考えられています。経書を暗記しているかを試すため、途中の3文字を伏せた穴埋め問題を出題したのです。これにより、文字の一点一画に至る正確さが試験の合格を左右することとなり、判定の根拠としての石経が必要とされました。
この2段階目の規範は、字様書(※8)と呼ばれる書物を参照して定められました。字様の学は顔真卿を輩出した顔氏一族の家学であり、顔師古『顔氏字様』(散佚)や、顔元孫(732年没)の『干禄字書』が知られています。
後者は文字通り「禄を干める字書」、今風に言えば「就職できる漢字字典」の意味で、顔真卿の書写したテキストが774年に石碑に刻まれて、広く流通しました。開成石経を建てる時に新たに編纂された字様書『五経文字』『新加九経字様』は、経書のテキストに附刻されて、現在も西安碑林博物館で見ることができます。
※8 字様書
字の形(字様)の異なる文字(異体字)のどれが正しいか、許容される字体はどれかを分類して示した書物。本稿では「字様」(字形と書風の複合概念)そのものと区別して「字様書」と呼ぶ。
『干禄字書』では正・通・俗の3段階に文字を分類しており、科挙の答案に使える文字を正字とする一方、日常的な文字使用(戸籍や処方箋)では俗字を用いてよいとしています。
この分類の根拠として用いられたのが説文解字で、その見出しに載っている小篆の字形と一致するものが正字とされました(ただし、実際の文字使用の実態に配慮して手心を加えた部分もあります)。
篆書の部品を楷書に置き換え、流通していた字形よりも複雑な形が正字とされた文字も多数あります。例えば、「隠」の旧字体の「隱」に「工」が加えられているのはその一例です。この正字の字形は、現代の漢和辞典が皆典拠とする『康煕字典』(1716年)の見出し字にも受け継がれています。
日常的な手書きの文字では「隠」のような略字や「夲」(=「本」)のような俗字が多く使われてきました。その形はイワタからリリースされている「弘道軒清朝体 復刻版」の字形にも多く見ることができます。

これらの略字の多くは『当用漢字字体表』(1949年)で定められた新字体として、1200年ぶりに正字としての復権を遂げました。江守賢治氏(※9)は晩年の著書で、初唐標準楷書から現代の新字体に連なる、実際に書かれてきた通用字体の系譜を「水の流れ」、説文解字・開成石経標準・康煕字典体のように字源に基づいて定められた正字体の系譜を「油の流れ」という印象深い呼び名で呼んでいます。
※9 江守 賢治(1915-2011年)
元・文部省主任教科書調査官。当時の教育漢字881字の筆順を定めた『筆順指導の手びき』(1958年)の取りまとめを行い、文字表も自ら執筆した。この表には1字につき1種類の筆順しか掲載されていないが、後年、字によっては正しい筆順は複数あることを古典に遡って立証した多数の著書を著し、筆順の手本も執筆した。
髙内一(1927-2022年、元・岩田母型製造所社長)氏によると、イワタ教科書体の原字にある手書きのマークは、江守氏に監修を受けたOKの印であるとのことである。
北魏楷書は、後漢から唐に至る楷書体の形成の途中で常に変化し続け、その間に規範が示されたことはないため、時代により常に変わり続けるとともに、「水の流れ」の字体、隷書体の名残や未分化であった行書体風の字体や、後に見られなくなったこの時代ならではの字体などを内包しています。
ここまで、楷書の成り立ちや、北魏楷書の歴史について少し駆け足でお話ししてきました。
さて、歴史の旅はここまでにして、いよいよ後半では、「イワタ鄭道昭」に収録されている多様でユニークな文字たちの姿を、実際に目で見て味わっていただきます。「こんな形があったの!?」と驚くような文字がたくさん登場しますので、ぜひご覧ください!
引用画像について
本テキストで引用した画像はすべて、国立文化財機構所蔵品統合検索システム(ColBase)で公開されている画像より該当文字を切り抜いたものです。
・九成宮醴泉銘(東京国立博物館蔵)🔗
・雁塔聖教序(東京国立博物館蔵)🔗
・多宝塔碑(東京国立博物館蔵)🔗
・牛橛造像記(東京国立博物館蔵)🔗
