人生の旅路を、一緒に歩いてくれる存在
人生の旅路を一緒に…
夫の話だと思いましたか?
すいません、違います(笑)
あ、いえ、夫も一緒に歩いてくれてますが(笑)
「悲しい時ー!(悲しい時ー!)」の話です。(←懐かしい)
教会の話です。
カトリック教会では、2週間前に復活祭をお祝いし、
この前の日曜日は、そこから3回目の日曜日、
「復活節第3主日」でした。
~余談~
この日は、子どもたちが典礼奉仕をするミサでした。
長男にっくんは、初めてオルガン伴奏を担当!
練習して臨んだのですが、左手の音が鳴らなくて、
メロディーのみ単音で弾いた、みたいになってしまいました。
それでも、フレッシュなオルガニストのデビュー、
教会のみなさんが温かく喜んでくださって、嬉しかったです。
次男はっくんは、第1朗読を読みました。
今週の第1朗読、めちゃめちゃ長い!
はっくんは、物静かで、自分から前に出るタイプではないのですが、実は朗読(国語の音読も)が上手で、
はっきり・しっかり・メリハリのある朗読でした。
ミサの後に、神父様から褒めてもらったそうです。良かったね♪
末娘くんちゃんは、侍者(神父様のお手伝い)。
今回初めて、鈴を鳴らす担当をしました。
ミサが始まる前に、香部屋(神父様や侍者が着替えたり準備をする部屋)から「チリチリチリチリ~」と練習が聞こえて、なんだかこっちが緊張…!
重い鈴だし、たまに空回って音が出ないこともあるし、タイミング間違えちゃいけないし、
私、子どもの時に鈴鳴らしたらゴロッと1つが外れて転がったことがあります(爆)
でもくんちゃんは、初めてとは思えないほど落ち着き払って、きれいな音で鈴を鳴らしていました。
意外と度胸あるなぁ…!
**
さて、本題。
今週の新約聖書の朗読は、
イエスさまが十字架につけられて亡くなった後、
2人の弟子が暗い顔で、絶望のうちに、自分の故郷エマオへと戻る道をとぼとぼ歩いている場面です。
(悲しい時…です。)

いつも表紙絵はヨーロッパの教会や彫刻などですが、
今週は日本の方が描かれたカラフルな絵
暗い顔で、とぼとぼ歩いていると、
イエスさまが近づいてきて、
一緒に歩いてくれます。
でも2人は、それがイエスさまだと気づきません。
2人は、
イエスさまが十字架につけられてしまったこと、
でも3日目に婦人たちが墓を見に行ったら、墓は空っぽだったこと、
天使が現れて「イエスは生きておられる」と告げたことを、話します。
そこでイエスさまは、
聖書全体にわたって、自分について書かれていることを説明されます。
(説明されても、まだイエスさまだと気づかない2人)
夕方になったので、2人はイエスさまを引き留めて、泊まるための家に入ります。
イエスさまが、一緒に食事の席についたとき、
パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡しました。
すると、2人の目が開け、イエスさまだとわかりましたが、
その姿は見えなくなりました。
2人は、
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。
(聖書の原文を読みたい方は、下のリンクより。
ルカによる福音書24・13〜35節です
「エマオで現れる」からが今週の箇所)
エマオに向かって、2人の弟子がとぼとぼと歩く道は、
「人生の旅路」と見ることもできる
と、神父さまが話していました。
人生の中で、
しんどい時、苦しい時、絶望する時、
自分の力ではどうしようもない時が、あります。
そんな時に、イエスさまのほうから近づいてきてくれて、一緒に歩んでくれるんです、と。
その話を聞いた時、ふと、
「足あと(Footprints)」という詩を思い出しました。
ある人が、ある夜、夢を見た。
海辺を、主とともに歩いている夢だった。
大空に、自分の人生のいろいろな場面がつぎつぎにあらわれた。
その一つ一つの場面には、2組の足あとが砂浜にくっきりときざまれていた。
その一つは自分自身のもの……もう一つは、主のものだった。
最後の場面があらわれたとき、彼はそれまでの人生のいっさいをとおして、
砂に残っている足あとをかえりみた。
そして、気がついたのは、
人生のいろいろな場所に、足あとが一組しかないことだった。
そして、さらに気づいたのは、
それが、彼の思い出のなかで、一番悲しいときだったことだった。
これを見て、彼の心は大いに悲しみ、主にたずねた。
「主よ、
私があなたについて行く、と決めたとき、
あなたは、私と一緒に、
ずっと終わりまで歩いてあげよう、とおっしゃってくださいました。
それなのに、私がここまで生きてきたあいだ、
一番苦しくさびしかったとき、
足あとが一人分しかないではありませんか。
私があなたを必要としていたとき、
あなたはいったいどうして私を一人ぼっちになさったのですか。
私にはあなたがわかりません」と。
主は答えられた。
「私のたいせつなたいせつな愛する子よ、
私は、あなたを愛しています。
決してあなたを一人ぼっちにはしません。
あなたが試練にあい、苦しんでいるとき、
あなたが一人分の足あとしか見えないという、そんなとき、
私は、あなたを背負って歩いていたのです。」
初めてこの詩を読んだ時、なんだか感動してしまって…
しんどい時、背負ってくれてたんだ。
だからきっと、私は乗り越えられたんだ。
でも、背負われてたこと、全然気づかなかった…
そう、本当にしんどい時、
私は「祈る」ことにすら気持ちが向かいません。
ただただ、出口のない暗闇に1人で迷い込んだようになって、祈ったり希望を見つけたりが、なかなかできませんでした。
それでも、周りの人の優しい一言や、
ふっと風向きが変わる出来事など、
苦しい状況から救ってもらった小さなことは、
すべて神さまが用意してくれたもののように感じます。
どこかの神父さまが言ってました。
「苦しい時こそ、神頼み。それでいいんです」
**
そして、驚いたことに…!
カトリックの神父である来住英俊神父さまが、
noteでまさに同じ「足跡」を取り上げていました!
全然ホーリーな生活じゃないクリスチャンの自分が、
「あ~、『足あと』の詩みたいだなぁ~」とぼんやり思い浮かんだものが、
御受難会の来住神父さまとリンクするなんて!
ちょっと嬉しかったです。
こういう出会いも、noteの良さですね。
**
この聖書の箇所で、もう一つお話がありました。
それは、ミサのこと。
カトリックのミサは、
前半の「言葉の典礼」:旧約聖書~新約聖書から3つの聖書が読まれる
後半の「感謝の典礼」:最後の晩餐を記念する
の大きく二つに分けることができます。
今日の聖書に出てくる、
「イエスさまが、聖書全体にわたって、自分について書かれていることを説明された」は「言葉の典礼」を、
「イエスさまが、一緒に食事の席についたとき、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡した」は「感謝の典礼」を、
それぞれ表しているのだそう。
つまり、毎週のミサというのは、
復活したイエスさまに出会うことなのだ、と。
出会ったら、弟子たちのように「心が燃える」。
イエスさまのように生きよう、
ここからまた1週間をがんばろう、
と力をもらう場が、ミサなのだと…。
子どもの頃から、ずっとミサに行っていると、
唱える言葉も、ミサの動きも、お祈りも、
一つの「流れ」になってしまいがち。
でも、ミサって実は、すごい。
弟子たちが、復活したイエスさまに出会った感激を、毎週再現しているんだなぁ…。
もっと、新鮮な気持ちを大事にしなきゃなぁと思いました。
(「いつもの流れ」になってた自分、ちょっと反省)
復活祭の直前の聖木曜日にも、
同じように感じたこと、記事にしています。↓
これらの話を、神父さまが、
子どもたち向けに、わかりやすく伝えてくださいました。
子どもたちは、どう感じたかな…。
これから長い人生の旅路を、
イエスさまと並んで歩いたり、
(くんちゃんは、手つないで歩きそうだな…笑)
おんぶしてもらったりしながら、
希望を失わずに歩いて行ってくれたらいいな、と思います。
