私も、水の上を歩きたい!
この前の日曜日、
教会のミサで読まれた聖書の朗読を聞いて、
「あっ!この箇所は…!!」
と、顔がほころんでしまった私🤭
小学3年生の末娘くんちゃんが、
「水の上を歩く練習」をした、
思い出の聖書の箇所でした。
その前に…
8月9日(日)のミサは、
平和祈願ミサとしてささげられました。
1981年、教皇ヨハネ・パウロ二世は
「平和の使者」として日本を訪問し、
多くの人々に喜びと希望を与えました。
特に広島では、
「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と言われ、
日本国内外に平和メッセージを発信しました。
戦争を振り返り、平和を思うとき、
平和は単なる願望ではなく、具体的な行動でなければなりません。
そこで日本のカトリック教会は、
その翌年(1982年)、
もっとも身近で忘れることのできない、
広島や長崎の事実を思い起こすのに適した
8月6日から15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」と定めました。
このカトリック平和旬間の期間中に、
各教会で、平和祈願ミサがあげられています。
特に、8月9日は長崎原爆の日。
私たち家族は、昨年、長崎を旅行した際に、
平和記念公園と原爆資料館を訪れました。
実際に行って、見て、感じて、
原爆のおそろしさを目の当たりにし、
二度と同じ苦しみを味わう人がないように、との思いを強くしました。
今日の答唱詩編(第一朗読と第二朗読の間に歌われる)には、
「正義と平和」という言葉が出てきます。
その解説が、このように書かれていました。
聖書における「平和」は、
単に争いや戦いのない状態を指すのではなく、
「欠けたもののない状態」を表す。
不正な力によって「平穏」に保たれているような状態は「平和」とは呼べない。
それゆえ「平和」は「正義」と切り離せないのである。
「かつてのローマ帝国の平和は、
武力によって弱い国を従わせていました。
力によって抑えることで、平穏に見えても、
それは『平和』とは呼べません。
『正義』があってこその『平和』なのです」
と、神父様が話されました。
私たちの住む社会は、平和なんだろうか。
戦争をしていない状態ではあるけれど、
生活に困っている人、つらい思いをしている人、
差別されている人、孤独な人、生きづらい人…
社会の中で、声をあげられず苦しんでいる人が、
一人でも減っていくことを祈り、
自分に何ができるだろうかと、考える。
そして、
子どもたちが生きる未来が、
戦争のない平和な世界になることを、
今起きている戦争が一日も早くなくなることを、
一人ひとりの命が大切にされる世界になることを、
ただひたすら祈ります。
**
さて、「水の上を歩く練習」の話。
今日の福音朗読(新約聖書)の箇所がこちら ↓
イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
イエスはすぐ彼らに話しかけられた。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
すると、ペトロが答えた。
「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
昨年、くんちゃんは「初聖体」という、
初めてご聖体(イエスさまの体としてのパン)をいただく式をしました。
初聖体に向けた勉強会で、神父さまが、
この「湖の上を歩くイエスさまとペトロ」の話を
紙芝居で見せてくれました。
勉強会があった日の夜のこと。
くんちゃんはお風呂に入るときに、
片足だけそーっと水の表面に置き、
そーっと湯船の中に入ってきました。
「あー、ダメだ!
沈んじゃう。
水の上、どうやったら歩けるのかなぁ?」
・・・?!
一瞬、なんの話をしてるのか「???」だった私。
「くんちゃんも、水の上、歩けるのかなぁ?」
そしてもう一度、水の表面に足をそーっと乗せるくんちゃん。(→沈む)
「くんちゃんは
イエスさまも神さまも信じてるよ!
信じてたら、歩けるんだよね?
うーん、なんで歩けないんだろう…。
練習したら、歩けるようになるのかな?」
たしかにくんちゃんは、
いつもこちらが驚かされるほど、
まっすぐ純粋に、神さまを信じている。
だけど・・・さすがに水の上は・・・
「じゃあ、今度の日曜日に神父さまに聞いてみようか」
私には、とてもじゃないけどうまく答えられなくて
苦し紛れに、そう提案すると、
くんちゃんも「うん、そうする!」と意気揚々と日曜日を待っていました。
次の日曜日。
「神父さま!ペトロは水の上を歩いていたけど、
神さまを信じていたら、私も水の上を歩けるようになる?」
どストレートな質問に、
笑みを浮かべた神父さまは、
こう答えてくれました。
「そうだね。
本当に神さまを信じていたら、
歩けるようになるよ。」
(↑神父さまの答えに、一瞬びっくりする私)
「でもね、
『本当に』信じることは、難しいんだよ。
どこかで、『水の上なんて歩けるわけないよなぁ』って疑ってしまう。疑っていたら歩けない。
神父さまでも、難しい。
でも、『本当に』信じられるようになったら、
歩けるんだよ。
『本当に』信じられるようになりたいね」
なるほど~!
と、うなずく、くんちゃんと私。
いや、たぶん私のほうが「なるほど~!!」と激しくうなずいていた。
「水の上なんて歩けるわけないよなぁ」と思い、
あやうく
「くんちゃん、科学的には、水の上を歩くのはムリなんだけどさ…」
と言ってしまいそうだった私!(焦)
アブナイアブナイ…
神父さまに聞いて良かった。
神父さま、くんちゃんの小さな疑問に答えてくださって、ありがとうございます。
**
そんなことを思い出しながらの、今日のミサ。
神父さまは、
あの日はくんちゃんに答えてくれていましたが、
今日は大人も含めて、みんなにお話ししてくれました。
「『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』の
" 疑う " という言葉の原文は、
"二つに分かれた" という意味があります。
ペトロは、『イエスさまの元に行きたい』と『怖い』という二つに、分かれてしまった。
私たちの心は、絶えず二心(ふたごころ)。
いろんな悩みや苦しみに、常にうろうろしてしまいます。
神さまへの信仰を忘れて、
日常の悩みに心を惑わされる。
人間は弱いんです。
でも、
『主よ、助けてください!』と叫べば、
主はすぐに手を取ってくれます。
イエスがペトロを『すぐに手を伸ばして捕まえ』てくれたように。」
ゆるぎない信仰に生きることは、
本当に難しい。
いつも、いろんなことに悩み、
小さなことで苛立ち、
神さまに信頼することを忘れ、
心が神さまを向いていないことばかり。
もちろん、水の上は、なかなか歩けない。
弱い自分だけど、
だからこそ、
助けてください!と、祈り続けようと思いました。
