パンはパンでも、教会で食べるパンはな~んだ?
我が家の末娘くんちゃんが、幼い頃から、
教会のミサで毎週欲しがっていたものがあります。
それは、
「パン」
この「パン」というのは、「ご聖体」と呼ばれます。
タイトル画像にあるような、ふわふわしたパンではなくて、
白くて、丸くて、小さくて、薄い、種なしパン。
味のないミニ炭酸せんべいみたいな感じ?
このご聖体を、私たちカトリック信者は、
毎週ミサの中で、いただきます(「聖体拝領(せいたいはいりょう)」といいます)。
大人になって洗礼を受ける場合には、洗礼式と同時にご聖体をいただく式もしますが、
幼児洗礼の場合は、小学2、3年生くらいで、
初めてご聖体をいただく=「初聖体」の式にあずかります。
そのため、末娘くんちゃんをはじめ、長男にっくんも、次男はっくんも、
幼い頃は、私がいただくご聖体を、
「いいなぁ~食べたいなぁ~」
「ちょっとだけかじらせて!一口でいいから!」
「(口に入れた後に)お口あーんして見せて~!」
と興味津々(笑)
そして、1年前のちょうどこの時期、
末娘くんちゃんも、初聖体を受けました。
女の子は、白いサテン生地のドレスに、ベールをかぶって、お姫様のような姿で初聖体式にあずかれるのも、嬉しい時間♡
私も、自分の初聖体の時に感じた嬉しさは、
今でも心に残っています。
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この前の日曜日、カトリック教会では
「キリストの聖体」の祝日でした。
私たちの教会では、今年は初聖体を受ける子どもがいませんでしたが、
全国のカトリック教会で、たくさんの子どもが、
初聖体の秘跡にあずかっていたのだと思います。
「パン」(聖体)とはいったい何の意味があるのかというと、
十字架につけられたイエスさまの体です。
レオナルドダヴィンチの「最後の晩餐」で有名な、
イエスさまが十字架につけられる前の晩に
弟子たちと食事をするシーン。
その時に、イエスさまは、パンを取り、
感謝の祈りをささげてそれを裂き、
「これは、あなたがたのために渡される、わたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」
と言われました。
毎週、ミサの中で神父様が、
それと同じ言葉を唱えながら、
ただの白いパンを、イエスさまの体(ご聖体)に変える儀式を行います。
私たちは、ご聖体を神父様から受け取り、食べることで、
「最後の晩餐」に、一緒に参加しています。
そして、イエスさまが私たちの内に来てくださったような、結びつきが強くなったような…うまく言葉にできないのですが、力づけられたような気持ちになります。
(もっと、ちゃんと神学的な説明があるはずなのに…上手に説明できずすみません)
昨年の初聖体の時、高齢のシスターが、
「くんちゃん、イエスさまがお胸に来てくださるね。嬉しいね。」
と、優しい笑顔で言ってくださいました。
また、亡くなった私の祖母も、
「ご聖体をいただいた後は特に、
イエスさまがゆっちゃんの心に来てくれるから、
神さまにお話ししたいことをたくさんお祈りするといいよ」
と教えてくれました。
他の方の聖体拝領の列がまだ続いている間に、
祖母の隣に座って静かにお祈りした温かい時間は、
今でも心に残っています。
この日の聖書の箇所には、次のように書いています(一部抜粋)
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。
このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。
わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
イエスは言われた。
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」
ユダヤ人たち…そうですよね。
いきなり「私の肉を食べなさい」と言われて、文字通りに捉えたらびっくりしますよね。
たまに、「クリスチャンは人の肉を食べるんですか?!」と誤解されたらどうしよう…と、密かに思ったりします。
私たちがいただくご聖体は、もちろん生身の肉ではなく(←当たり前)、
味のないミニ炭酸せんべいのような「パン」ですので、ご安心を…。
ただ、そのパンには、十字架で殺された「いけにえ」としての「イエスさまの体」の意味が込められているのです。
先週の日曜日、「三位一体の主日」には、
「父」である神さま、「子」であるイエスさま、「聖霊」の、三位一体の愛の交わりに、
私たち人間も、亡くなった後に迎え入れてもらえる、という話がありました。
けれども、三位一体の交わりに加わるまでに、
私たちは、この世を生きなければなりません。
嬉しいこともあれば、悲しいことも辛いこともある、この世界。
自分の力だけで生きていくには、しんどいときも、心細いときも、力が出ないときもある。
時には、悪い方向に向かい、罪を犯してしまいそうにもなる。
「ご聖体」は、そこに至るまでの「糧」なのだ、と
ミサの中で、神父様が話されていました。
ご聖体をいただくことによって、
イエスさまは、私たちの内にいて、力づけてくださいます。
同時に、イエスさまは、私たちを包み込み、守ってくださいます。
「三位一体のゴールに向かうまで、
毎週のミサでパン(ご聖体)をいただき、
力づけられながら、
守られながら、
信仰の旅路を生きるのです。」
という、神父様の言葉。
それを聞きながら、同時に、
シスターや祖母の言葉も、思い出していました。
そして、もう一つ忘れてはいけない視点が、
パンをいただく「ミサ」は、「食事」であるということ。
「最後の晩餐」は、食事です。
同じイエスさまの体は、私一人で個人的にいただくのではなく、教会のみんなで一緒にいただきます。
食事には、人と人を深く交わらせる力があります。
一緒に食事をすれば、仲良くなる。
食事をしながらいろんな話をして、関係が深まる。
仲良くなりたい人がいたら、「一緒に食事でも…」と誘いたくなる。
「私」と「神さま」の、1対1の関係ではなく、
「教会のみんな(共同体)」と「神さま」との関係で、ご聖体を共に食べ、分かち合い、交わることが大切なのだ、と…。
今まで、ミサを「私」と「神さま」の関係性でしか捉えられていなかった私にとって、
神父様のお話は、とても心に残りました。
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ちなみに。
もし、カトリックの洗礼を受けていない方が、
何かの縁でカトリック教会のミサにあずかる場合。
ご聖体をもらうことはできません。
洗礼を受けていないと、残念ながらもらえないのです。
実は、聖体拝領をする姿や動きを見ていると、
信者か、信者でないかは、
すぐに見分けがつきます(笑)
でも、
一緒に聖体拝領の列に並んで、
祝福をしてもらうことができます。
神父様の前に行ったときに、
「祝福をお願いします」
と言ったら、神父様が頭に手を当てて、祝福してくださいます。
神さまの、あたたかい祝福。
きっと、クリスチャンでなくても、
なんだか力づけられるような気持ちになるんじゃないかなぁと思うので、
遠慮せずに、ぜひ列に並んでみてください♪
私はいつも、
信者ではない方が祝福を受けているのを見ると、
宗教を枠を超えて、同じ神さまからの祝福を分かち合っているみたいだなぁ、
神さまの愛って、広いなぁ、深いなぁ、と感じて、
密かに、嬉しい気持ちで眺めています♡
