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憲法に照らすという営為――支援と制度を結ぶ視座の欠如と再構築

すべて国民は、個人として尊重される。

日本国憲法第13条

はじめに──なぜ「憲法に照らす」という営為が必要なのか

 「支援」という語を聞いて、人々が最初に思い浮かべるのは、おそらく活動であり、組織であり、善意である。行政が用意した制度に加え、民間NPOや支援団体による取り組みが存在し、それらが人間の苦難や困窮に寄り添っている――そのように捉える人は少なくない。
 しかしここに、重大な視座の欠落がある。それは、支援が「憲法に照らされる営為」であるべきだという認識の不在である。
 憲法とは、国家の骨格であり、国民にとっては「最後の依って立つ基盤」である。従って、どのような支援がなされているか、どこに欠落があるのか、誰が取り残されているのかを問うとき、私たちはまず、その状況を「憲法に照らして」見る必要がある。
 本論考では、犯罪被害者支援を中心に、この視座の重要性を問い直し、なぜ制度設計や法整備にまで視点が届かないのか、その構造的背景を明らかにしながら、憲法的営為としての支援再構築の方向を提示する。
 なお、ここでの「被害者」には、欧米の被害者学で「二次被害者」と呼ばれる加害者家族も含めることとする。

第1章 「支援は活動である」という意識の限界

 犯罪被害者支援に関心を持つ市民、あるいは当事者・関係者の中であっても、「制度」や「法制度」の整備という発想に至る人はまだ少ないように見受けられる多くは、相談員・カウンセラー・医師・警察官・弁護士など、既存の専門職の関わりや、人道的な「寄り添い」の実践を思い浮かべる。
 しかし、それらの善意や専門性だけでは、制度的空白を埋めることはできない。例えば、犯罪被害者の遺族が精神的・経済的に追い詰められても、それを継続的に支える法制度がなければ、支援は一過性で終わってしまう。二次被害者においては、日本での行政的・法的枠組みがないので、状況はさらに深刻と言える。
 支援を本質的に持続可能なものとするには、「制度」として確立され、法的枠組みに位置づけられる必要がある。その前提として、「支援とは制度的な営みであり、憲法によって支えられるべきである」という発想の転換が必要である。

第2章 「このままでよいのか?」という憲法的問いの不在

 なぜ人々は、「今の支援状況は、憲法に照らして正しいのか?」という問いを発しないのか。その理由は複数あるだろうが、特に以下の三点が深く関係している。

第1節 憲法が「裁判のもの」とされてきた日本社会

 日本において憲法は、「司法の場面で使うもの」「国会や政府に関わるもの」という印象が強く、市民の日常的営為に適用される感覚が乏しい。そのため、「憲法に照らして支援・制度の不備を問う」という営為自体が、そもそも想起されにくい構造がある。

第2節 支援を「恩恵」として捉える文化

 日本では、支援はしばしば「恩恵」や「慈善」として語られる。「してもらってありがたい」「もらえただけで充分」という自己抑制の文化は、制度への批判的眼差しを封じてしまう。だが本来、支援は「権利」であり、「制度不備」は国の義務違反であるはずだ。それを指摘するのは、国民の義務でもある。

第3節 社会的弱者が「発言しにくい構造」

 犯罪被害者・遺族・二次被害者、障害者、生活困窮者、性的マイノリティ、性暴力被害者、虐待サバイバーなど、支援を必要とする人々は、そもそも社会的に声を上げにくい構造に置かれている。その声なき声を「憲法に照らして」掬い上げるという媒介者の存在が、社会的にまだ十分に育っていない。

第3章 支援を「憲法的営為」として再定義する

 ここで提起したいのは、次のような視座の再構築である。

支援とは、憲法に基づいて、国家が人間の尊厳を具体化する営為である

この定義に立脚すれば、すべての支援制度・支援活動は、日本国憲法第13条「個人の尊重」、第25条「生存権」、第97条「基本的人権の保障」などに照らされ、その正当性と不備の両方を、主権者たる市民の側が評価・批判できるものとなる。
 この視座に立ってはじめて、「この支援制度では、被害者が救われない」「この法的空白は、国家の不作為ではないか」という問いが可能になる。

おわりに──「媒介者」としての市民と憲法を読むこと

 憲法に照らして支援を捉え直すこと、それは単なる制度論でも、法解釈論でもない。むしろこれは、私たち自身の「人間観」の問題であり、「国家とは何か」の問題である。「目の前の困難に手を差し伸べる支援」と「制度を問い直す支援」は、決して対立しない。むしろ、後者がなければ、前者は持続不可能となる。
 今後は、支援者、研究者、法学者、市民の一人ひとりが、「媒介者」としての役割を自覚し、支援の営為を憲法的次元にまで引き上げていく必要がある。
 その一歩として、私たちは今日から、「この支援の在り方は、憲法に照らして正しいか?」と問い始めてよいのである。
 それをするためには、市民一人ひとりが、自分と憲法との距離を近くする営みが欠かせない。そのためには、憲法を読むことだ。声に出して、黙読で、ただひたすら、読む。
 私の憲法を巡る思索・問い・論考は、全て「憲法を読む」という個的な営みから生まれている。憲法学者の本を読まなくてもよい。解説も不要だ。ただ、虚心に、「憲法を読む」という営みをする。そうして、憲法と自分との精神的距離が近くなった時、ある日、「あれ?日本社会には、憲法13条が浸透していないのか?人々の内面にも根付いていない。なぜだ?ドイツでは、ドイツ基本法が市民に深く根付き、日本で起きているような人権侵害が起これば、すぐに市民が行動し、制度是正に動くのに、なぜだ?」という問いが兆した。この問いが、今にいたるまでの憲法・平和・教育・支援制度をめぐる全ての論考・主題の出発点になる問いだった。この問いが、新聞を読む時、テレビのニュース報道を見る時、周りの人間の発言を聞いた時、「これは憲法13条違反では?これは人権侵害的言説では?」と気づくアンテナを、私にもたらすこととなった。
 そして、これが、しばしば私が、「読者へのお願い」で、憲法を読むように促している理由でもある。理論宗教学者・佐々木中が『定本 夜戦と永遠』(河出書房新社、2011)や『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社、2010)で委曲を尽して論じているように、「言葉を読む」ことから革命は始まったのである。それは、今も可能か。可能である。だから、読め!


読者へのお願い

 どうか皆さん、日本国憲法を読んでください。私が所持し、座右に置いている童話屋発行の日本国憲法は、文庫本の大きさで、厚さは0.3mmしかありません。どこにでも持ち運びができます。ここに、読みやすい字の大きさで、憲法全文全てが入っています。

 特に、前文と第二・三・十章をお読みください。第三章は、国民生活に関わる全てがあり、とりあえずここだけ熟読しておくだけで大丈夫です。
 なお、「教会での人権侵害」第3章第3節4で述べた、人権侵害を指摘・報告する文書の作成・送付は、第16条(請願の権利)の行使によるものです。これを行うのに、特別な資格は不要です。法律条文がわからなければ、AIに教えてもらい、自分で確認すれば、良いのです。
 憲法は、政治家だけのものではありません。むしろ、本来は権力を縛るという点で、国民のものなのです。これを読めば、誰にでも“社会を変える力”が芽生えます。


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jacob_truth369 ( ´∀`)サポート本当にありがとうございます!!😭😭😭🥰🥰🥰 (  ・ ∀ ・)ご恩返しするためにも、今後も一生懸命頑張ります!!😊😊😊