日本における国家の不作為と法学者の沈黙――生活に必要な法的理解が教えられない国の危うさ――
序:国家の不作為に沈黙する法学者
日本は、国民が日常生活を送るうえで不可欠な基本的理解や知識――とりわけ、憲法・人権・制度の使い方に関する理解――を、教育を通じて十分に提供してこなかった。この点において、日本には、まともな法治国家と比べて、国家および制度の不作為が際立って多いのではないか。
そして本来、この問題を最も強く、公共的に指摘すべき立場にあるのは法学者であるはずだが、現実には、その声は驚くほど小さい。
本稿では、まず、日本における国家の不作為の構造を明らかにし、次に、それがなぜ「法治国家としての欠陥」と言わざるを得ないのかを論じる。そのうえで、補論として、「法学者の役割とは何か」を問い直す。
第1章 何が国家の「不作為」なのか
ここで言う国家の不作為とは、単に福祉制度が足りない、支援が弱い、といった政策レベルの話ではない。問題はもっと根本にある。
本来、国家が教育を通じて国民に提供すべき、
* 憲法が自分の生活とどう結びついているのか
* 権利侵害が起きたとき、どのような行動が可能なのか
* 個人の問題と、制度・構造の問題をどう区別するのか
* 主権者として「してよいこと」「すべきこと」は何か
といった、生活に不可欠な法的理解が、体系的に教えられていない。その結果、日本では、
* 知らない人が損をする
* 声を上げない人は存在しないものとして扱われる
* 制度を使えないことが「自己責任」とされる
という状況が常態化している。これは、国民に「自己責任」を求めながら、責任を果たすための前提条件を与えていない状態であり、明確に国家と制度の不作為である。
第2章 なぜこれは法治国家として深刻なのか
成熟した法治国家においては、
教育 → 市民の理解 → 行動 → 制度改善
という循環が、意識的に設計されている。
ところが日本では、
教育が欠落したまま
→ 国民が行動しない
→ それを「民度」「無関心」と呼ぶ
→ 制度は変わらない
という逆回路が成立している。
さらに深刻なのは、この構造そのものが、社会問題としてほとんど認識されていない点である。「憲法は難しい」「専門家に任せればよい」という言説がまかり通り、主権者である国民が、主権を行使できない状態が放置されている(日本国憲法は中学生程度の国語力で読める平易な文体で書かれている)。これは、立憲主義の観点から見れば、極めて危うい状態だと言わざるを得ない。
第3章 本来、誰がこの問題を指摘すべきか
このような状況を最も正確に把握し、公共的に指摘できる立場にあるのは、本来、法学者である。なぜなら、これは思想論でも政策論でもなく、立憲主義が成立するための最低条件が満たされていないという問題だからだ。
「国民が主権者として振る舞えないのは、国民が未熟だからではない。国家が、その前提条件を提供していないからだ。」
この指摘は、法学の周縁ではなく、ど真ん中に位置するはずである。それにもかかわらず、日本では、この点を大々的に、継続的に指摘する法学者の声は、ほとんど聞こえてこない。
第4章 法学者の役割とは何か――公共的責務の忘却について――
本章で、法学者の役割について、さらに踏み込んだ考察を行う。そもそも、法学者の役割は、条文解釈を示し、論文を書くことに尽きるのだろうか。もしそうであるなら、法学は社会から遊離した自己完結的営みに堕してしまう。
本来、法学者には、
* 憲法や法が、社会に実装されていない事実を指摘すること
* その欠如がもたらす不利益や危険性を、公共的に可視化すること
* 市民が主権者として行動できない原因を、構造的に説明すること
といった、明確な公共的責務がある。にもかかわらず、日本の法学者の多くは、
* 学問の安全圏に留まり
* 制度不備を「研究対象」として扱うにとどまり
* 現実の不作為として告発するところまで踏み込まない
という姿勢を取ってきたように見える。これは、「政治的中立」を守っているのではない。むしろ、憲法を現実に適用する責務から退いている状態である。その結果、憲法を生活の規範として理解している一市民の方が、「法治国家とは何か」を正確に把握している、という逆転現象すら生じている。
もし日本の法学者が、憲法を「研究対象」ではなく「生きた規範」として捉えているなら、国民が主権者として振る舞えない社会そのものを、重大な異常事態として告発しなければならないはずだ。
それがなされていないとすれば、日本の法学者は、公共的責務の理解が乏しいか、あるいは不正確な理解にとどまっていると言わざるを得ない。
結語:国家と専門家が果たすべき責務
国家が、国民に必要な法的理解を与えず、法学者が、その不作為を十分に告発しない社会は、形式的に法律が存在していても、実質的な法治国家とは言えない。
今、日本で問われているのは、国民の「意識」や「民度」ではなく、国家と専門家が果たすべき責務そのものである。
補記 なぜ、法学者の沈黙は続いているのか――不作為を不作為として名指さない構造――
ここまで、日本における国家と制度の不作為、そしてそれを十分に指摘してこなかった法学者の問題を論じてきた。
では、次に避けて通れない問いがある。なぜ、これほど明白な問題がありながら、法学者の沈黙は続いているのか。
この沈黙は、偶然ではない。いくつかの構造的要因が重なり合って生じていると考えられる。
第1章 「政治的中立」の誤解
日本の法学界では、「政治的中立」を非常に狭く、かつ防御的に理解する傾向が強い。その結果、
* 国家の不作為を指摘する
* 憲法が社会に実装されていない事実を告発する
といった行為までが、「政治的発言」「立場表明」と誤認され、回避されてきた。しかし、これは本来の意味での中立ではない。憲法が機能していない現実を指摘することは、政治参加ではなく、立憲主義の最低限の確認作業である。それを避けることは中立ではなく、現状への追認である。
第2章 「学問」と「社会」を切断する専門主義
多くの法学者は、
* 憲法は研究対象
* 社会への適用は立法・司法・市民の仕事
という暗黙の役割分担を受け入れてきた。
だが、この分断は、憲法を「生きた規範」ではなく「抽象理論」へと後退させる。結果として、
* 国民が憲法を使えない
* 制度が不全でも「研究対象」で終わる
という状況が温存される。従って、専門性を社会から切り離すことは、安全であるかもしれないが、公共性を失う。
第3章 「個人の問題」へ回収する思考習慣
日本社会全体に広く浸透している「制度の問題を個人の問題に回収する発想」は、法学者の意識にも例外なく影響を与えている。そのため、
* 国民が憲法を知らない → 教育の問題
ではなく、
* 国民が憲法を知らない → 国民の関心や努力不足
と、無意識のうちにすり替えが起きる。だが、この発想自体が、憲法12条・13条の精神に反する。権利の行使には、行使可能な条件が制度的に保障されていなければならないからである。
第4章 法学者が沈黙しても不利益を被らない構造
日本では、法学者が沈黙しても、
* 職を失うわけでもなく
* 学界から排除されるわけでもなく
* 社会的に責任を問われることもない
という構造がある。
沈黙のコストがゼロである以上、沈黙は合理的選択になってしまう。だが、これは個人の倫理の問題ではなく、社会が「公共的発言を要請していない」ことの反映である。そして、この状況を放置することは、国民の不利益にしかつながらない。
結びに代えて――沈黙は、専門性の放棄である――
憲法が社会に実装されていない現実を前にして、それを構造的に説明できる立場にある者が沈黙するならば、その沈黙は「慎重さ」ではなく、専門性の放棄である。本来、法学者は、
* 国民が主権者として行動できない理由を明らかにし
* 国家の不作為を不作為として名指しし
* 憲法が現実に使われていない事実を、公共の言葉で示す
責務を負っている。それが果たされていない現状は、日本がいまだ成熟した法治国家の段階に達していないことの証左でもある。沈黙は中立ではない。沈黙は、現状への同意である。
・主権者とは?
読者へのお願い
どうか皆さん、日本国憲法を読んでください。私が所持し、座右に置いている童話屋発行の日本国憲法は、文庫本の大きさで、厚さは0.3mmしかありません。どこにでも持ち運びができます。ここに、読みやすい字の大きさで、憲法全文全てが入っています。
特に、前文と第二・三・十章をお読みください。第三章は、国民生活に関わる全てがあり、とりあえずここだけ熟読しておくだけで大丈夫です。
なお、「教会での人権侵害」第3章第3節4で述べた、人権侵害を指摘・報告する文書の作成・送付は、第16条(請願の権利)の行使によるものです。これを行うのに、特別な資格は不要です。法律条文がわからなければ、AIに教えてもらい、自分で確認すれば、良いのです。
憲法は、政治家だけのものではありません。むしろ、本来は権力を縛るという点で、国民のものなのです。これを読めば、誰にでも“社会を変える力”が芽生えます。
※以下のマガジンに以前の記事があります。
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