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日本人の物語00387【平安後期】永久の変

 天永4(1113)年に入ると、皇位継承をめぐる疑獄事件が発生します。
 永久元(1113)年9月1日、鳥羽天皇が病に倒れ、祖父である白河法皇の命令で各地の寺社で祈祷を行うこととなりました。
 そんな中、10月3日、白河法皇の三女に当たる令子内親王(のりこないしんのう:1078~1144)の御所に、ある手紙が投げ込まれました。そこには、
「醍醐寺に仕える千手丸(せんじゅまる)という稚児が、鳥羽天皇暗殺を企てている」
との密告が書かれていたのです。
 驚いた令子内親王は父・白河法皇にこの手紙を見せました。白河法皇は、直ちに検非違使を派遣して千手丸を捕縛し、尋問を行わせました。千手丸の自白によると、
「輔仁親王の護持僧を務める醍醐寺の僧・仁観(にんかん:?~1114)の命により、鳥羽天皇が病で死ぬよう呪詛を行っていた。しかし呪詛に効き目がなかったため、やむなく手段を暗殺に切り替え、天皇を殺害する機会を窺っていた」
とのことでした。
 さて、輔仁親王の名をご記憶の方はほとんどいないでしょう。
 かつて後三条天皇は、長男の貞仁親王(=白河天皇)に譲位した後、次男の実仁親王を皇太子に就け、さらに「実仁が即位した際には、三男・輔仁を皇太弟とせよ」と遺言しました。にもかかわらず、白河天皇は父の遺言に逆らって自らの子・善仁親王を立太子させ、皇太弟になるはずだった輔仁親王を無視したのでした(00381回参照)。
 つまり、天皇になれるはずだった輔仁親王が、兄・白河法皇やその孫の鳥羽天皇を恨んで、殺害を計画したというわけです。
 さらに10月6日には、仁寛が検非違使に捕縛されて訊問を受けました。仁寛は最後まで無実を主張し続けました。
 10月22日、千手丸は佐渡国に、仁寛は伊豆国に流罪とする判決が下されました。輔仁親王は無実を訴え、罪に問われることはありませんでしたが、自発的に自邸に閉門・蟄居することとなりました。この事件を「永久の変」といいます。
 果たして、輔仁親王が本当に皇位を狙っていたのかは定かではありません。輔仁親王が立太子の約束を反故にされたのは応徳2(1085)年の出来事ですから、その恨みを永久元(1113)年になってから今更晴らすものなのかというと、疑いが残るでしょう。
 この事件は、白河法皇が自己の子孫に皇位を継承するため、謀略により弟・輔仁親王派を一掃したものとも考えられます。

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