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日本人の物語00149【古墳】男大迹王の謎*

 武烈天皇8(507)年12月8日。武烈天皇が子を持たないまま崩御したため、ここで皇位が途絶えてしまいます。
 そこで継体天皇元(507)年1月4日、大連の大伴金村が
「越前国高向(福井県坂井市)に男大迹王(おおとのきみ:後の継体天皇:450~531)が住んでおられる。賢明な方と聞き及んでいる。男大迹王を天皇に迎えよう」
と提案します。
 男大迹王とは応神天皇の5世孫です。つまり、武烈天皇から見ると
「父(仁賢天皇)の父(市辺押磐皇子)の父(履中天皇)の父(仁徳天皇)の父(応神天皇)の子の子の子の子の子」
という関係です。10親等の血族というわけで、ほとんど赤の他人ですね。
 応神天皇から男大迹王に至るまでの間の子たちの名前は残っていますが、何をした人なのか、事績は一切残っていません。ただ、「まだホムダワケと名乗っていた頃の応神天皇が、禊のため武内宿禰に連れられて角鹿(つぬが:福井県敦賀市)に行った」との記述がありますので(00123回参照)、その際に敦賀の女性との間で子をもうけ、その子孫が男大迹王となったのだとすれば、辻褄が合わないでもありません。
 しかし、そもそもこの時代、文字もまだありませんし、家系図など誰も作っていません。応神天皇の5世孫であることが本人に分かるとは思えません。(ちなみに私はひいおじいさんの名前は知っていますが、その上になるともう名前すら分かりません。)
 してみれば、応神天皇の5世孫というのは虚偽であって、大伴金村は縁もゆかりもない人物を呼んできて天皇に据えたのではないか……と歴史学者たちが考えるのも、無理はないでしょう。
 国譲りにおいても、「旧勢力=オオクニヌシ」と「新勢力=ニニギ」は縁戚関係とされていましたね。何らかの侵略だとか王朝交代があっても、全て
「滅びた側と興った側は縁戚関係」
とすることで、天皇家を万世一系とするストーリー付けがみられるのです。
 全然関係ない人が出てきて皇位を乗っ取っておきながら、「前の天皇と縁戚関係なんだ」と強弁する理由は、将来、縁戚関係にない者が天皇になろうとするのを防ぐためではないか……とも考えられます。
 それにしても、なぜ5世孫なのでしょう。そういえばオオクニヌシは、スサノオの6世孫でした。6世孫となるともはやアマテラスの血筋は薄まっていて皇位継承権はないが、応神天皇の5世孫ならばギリギリ皇位継承権があるということでしょうか。「皇位継承は5親等以内」とのこだわりがあるのかもしれません。
 このように、継体天皇の血筋が史実かどうかは極めて疑わしいのですが、その論点はひとまず措き、日本書紀の記述を追っていきましょう。

福井市内の足羽山頂にある継体天皇像。2024年12月30日撮影。

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