歴史の相聞|雪の下の相聞 ― 伊勢姫と上杉謙信―
歴史の中に残らなかった想いを、
相聞として描きました。
謙信は、自分の前に伊勢姫を乗せ、その身体をすっぽり包み込むようにして、自分の愛馬に乗せた。
城内の伊勢姫の居室にいき、
「出かける」
とだけ言った。
その謙信の顔を少し見つめてから、伊勢姫は、黙って支度をはじめた。
何も言わず待っている伊勢姫に、黙って手を差し出す。
少しためらった様子の伊勢姫が、その華奢な手を自分の無骨な手に乗せると、その手をつかみ、力強く身体を支えて引っ張り上げた。
「あっ……」
その小さな紅をさした唇から、小さな驚きの声が漏れたが、すぐに謙信の腕の中におさまって、ここまで連れてこられたというわけだった。
二人の前には、一面の花畑と池が広がっていた。
「なんと美しい……」
息を飲んだ伊勢姫に、謙信の手が差し出された。
ためらいがちに手を出すと、力強く握られ、今度は大地へと降ろされる。
謙信は、そのまま馬を水場へと連れて行き、伊勢姫は、その間に少し深く息を吸い込んだ。
花の甘い香りと緑の匂いが、伊勢姫の鼻腔をくすぐる。
「所々岩が出ている。気をつけよ」
知らぬ間に、謙信がすぐ隣に戻ってきていた。
「気に入ったか?」
伊勢姫は、謙信の横顔を少し見てから、かすかに頷いた。
「そうか」
謙信は、そう応えると、また伊勢姫の手を引いて花畑の中を歩き出した。
花の匂いが、一層濃くなる。
越後の春は、一斉に花が咲き、美しい。
伊勢姫は、自分の手を引く謙信の手を、――温かい
と思いながら、どこか夢見心地で歩いた。
「あっ」
石に躓き、自分の体が傾く。
だが、あっという間に隣の謙信の腕が伸びて、体を支えてくれる。
ふわりと謙信の纏う香の匂いが伊勢姫を包み、安心感を与える。その反面、心臓は激しく音を立てていた。
「ありがとうございます。謙信様」
助けてもらったことがうれしくて礼を言ったが、
「ああ」
とだけ言って、謙信は目をそらした。
「あっ……雪の下」
「知っておるのか?」
「はい……」
伊勢姫はしゃがみ込んだ。
まだ花はつぼみだった。
「都の庭にもございました故……」
「そうなのか……この花は、好きか?」
「はい。あまり目立ちはしませぬが……この花の清らかさが……」
「そうか」
二人の間を風が吹き抜けてゆく。
「良き花だ。この花は、この越後の厳しい冬さえ耐え抜いて花を咲かせる。芯の通った、美しき花だ……そなた……」
“そなたのように”
と言おうとして、謙信は言葉を飲み込んだ。
「謙信様……」
伊勢姫が、こちらを見ていた。
目の奥に、戸惑いとうれしさが交じり合っている。
言葉以外の感情が、目の前の伊勢姫には通じてしまうのか。
謙信は戸惑いながらも、何か熱いものが心に込み上げ、話題をそらした。
「ここは……私のとっておきの場所なのだ」
「そうなのですか?」
驚いた様子の伊勢姫が、謙信を見る。
謙信は眉ひとつ動かさない。
だが――
「私以外、連れてきたのは……そなたが初めてだ」
軍神と言われ、何一つ感情を表さないその瞳の奥に、ほんの少し人間的な揺らぎが混じったのを、伊勢姫は見逃さなかった。
「嬉しゅうございます」
はにかみながら、それでいて泣きそうな声の伊勢姫を、謙信はそっと抱き寄せた。
伊勢姫の華奢な身体と、みやびやかな、ほのかな香の匂いが、謙信の今まで感じたことのない心の震えを誘っていた。
その後も、謙信は戦から帰るたび、伊勢姫をあの場所へ誘った。
伊勢姫は、池のほとりに咲く雪の下を見つけては、うれしそうにしていた。
「そなた、そんなにその花が好きか?」
「都にいたときは、そうでもなかったように思います。でも……この地に来て……この花の本当の美しさが分かったような気がします」
伊勢姫は、大切そうに白い花を両手で包んだ。
白く、はかなげで……今にも消えてしまいそうな危うさを覚えて、謙信は思わず伊勢姫をその腕に抱きしめた。
「謙信様?」
戸惑ったように震える伊勢姫の声が耳元で聞こえ、謙信は我に返った。
その手を、伊勢姫の身体から離す。
「すまぬ……」
「いいえ」
二人の間に、風が吹き抜けてゆく。
「帰ろう」
謙信は、今日も行きと同じように伊勢姫を自分の前に乗せ、連れ帰った。
降り際、謙信は、
「また行こう。あの場所は、二人の秘密の場所だ」
と耳元で囁いた。
ハッとして目を上げると、すでに謙信は踵を返し、伊勢姫から遠ざかっていた。
その後も謙信は、伊勢姫の居室に不意に現れては、伊勢姫を外へ連れ出した。
決まって場所は、二人だけの秘密のあの場所だった。
夏の木陰で、ただ二人並んで座っていたり。
時には、和歌を作り合った。
たったそれだけのこと。
だが間違いなく、それは二人だけの逢瀬だった。
そのたびに伊勢姫は、雪の下を見つけては喜んだ。
その姿を見ながら、謙信はいつしか雪の下と伊勢姫を重ね合わせるようになっていた。
次の年、謙信は出陣した。
出陣の少し前、部屋を訪れた謙信は言った。
「今回は、少し長くなる」
さみしそうな、心配そうな顔をする伊勢姫に、
「そのような顔をするな」
と、伊勢姫の頭に手を乗せ、すぐに引っ込めた。
謙信の出陣は、家臣たちの手でどんどん進められていく。
伊勢姫は側へ行くこともできず、時折、柱の陰から漏れ聞こえる声を耳にすることしかできなかった。
日月前立ての兜をかぶった威風堂々たる姿の謙信が、城を後にする。
伊勢姫は、建物の影からその姿をそっと見送ることしかできなかった。
――軍神……生ける神に、また、なられたのですね……
でも、どうか謙信様。
どうか、そのままのあなた様でお帰りになられますように。
柱の陰で祈る伊勢姫の声は、誰にも届かない。
謙信自身も、柱の陰に人影を見た気がしたが、それをすぐに見なかったことにした。
翌年春。
謙信は春日山城へ帰還した。
軍議と宴を終え、謙信は伊勢姫の居室へ向かった。
しかし、そこには伊勢姫の姿はなかった。
「伊勢姫は……どこだ?」
だが侍女は、謙信を前にひれ伏すだけで何も答えない。
「どこだ! 申せ!」
謙信の怒鳴り声に、侍女は泣きながら答えた。
「お亡くなりに……」
頭が一瞬真っ白になる。
隣に、守役の宇佐美の顔が見えた。
「貴様、知っておったのか!」
「お館様!」
あまりの激情ぶりに、長年仕えた宇佐美でさえ戸惑うほどだった。
「なぜ知らせなかった!」
胸ぐらをつかみ叫ぶ謙信に、泣き伏した侍女が言う。
「姫様が……お知らせせぬようにと……。お館様のご大望に支障が出るかと……」
その言葉を聞いた途端、謙信は急に真顔へ戻った。
「……もうよい。どこに埋葬した」
いつもの謙信だった。
だが、その声には、ぞっとするほどの重みと闇があった。
長年守役を務めた宇佐美でさえ、その顔をまともに見ることができない。
「留守居役に命じて……」
「そうか」
それだけ言うと、謙信は部屋を出て行った。
後日、謙信は一人で馬を走らせた。
行く先は、あの二人だけの秘密の場所の花畑だった。
花盛りだった。
だが、はにかみながら喜ぶ伊勢姫は、もう隣にはいない。
――なぜ黙って逝った。
心の中で問いかけても、返事はない。
「雪の下か……」
目立ちはしないが、白く可憐な花が咲いていた。
「雪の下……伊勢、そなたが好きな花であったな」
謙信は、じっと花を見つめた。
越後の雪の下に埋もれても、じっと耐えて花を咲かせる。
――芯の強さは、やはりそなたのようだな。
謙信は、侍女から伊勢姫の文を渡された。
亡くなる間際に、謙信へ宛てて書いたものだった。
ただ一人
道を行きける
我が君を
とわに支えむ
この雪の下
『軍神と言われるあなたの心が壊れないように……いつまでも、あの雪の下の咲く野原で待っております』
「そなた……私に軍神になれと申すか……」
謙信は、ぽつりと呟いた。
――いつまでも、お支えしています。
伊勢姫の声が聞こえたような気がした。だが、それが空耳なのかどうか、謙信にも分からない。
ひとり咲く
さだめと知りつつ
雪の下
君の姿なく
我いかにせむ
謙信は、長い間、雪の下の花を見つめ続けていた。
