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失われた龍 ―― 井頭龍神と、涸れた泉〈前編〉

札幌・龍神紀行 第1回 ― 鮭が遡った、街のいちばん古い公園 ―

札幌駅の北口を出て、線路沿いに西へ十分ほど歩く。

高層のホテルとマンションが途切れたあたりで、道が少しだけ下る。その先に、思いのほか唐突に緑地が現れる。偕楽園緑地。名前だけ聞けば立派だが、実際に立ってみると、拍子抜けするほど静かな場所だ。木立が多く、真夏の昼でも日陰が涼しい。近所の人がベンチで休んでいる。耳を澄ませば、車の音と、時折JRの走る音が届く。

偕楽園入口・西側から

この緑地の隅に、かつて龍がいた。

正確に言えば、龍を祀った小さな祠があった。名を井頭龍神という。今日は、その姿を探しに来た。

野の傍の、泉池

この土地には、かつて水が湧いていた。

アイヌ語で「ヌㇷ゚・サㇺ・メㇺ」。野の傍らの泉地、という意味の言葉だ。メㇺとは湧水池のことで、札幌の扇状地の縁には、こうした湧き水があちこちに口を開けていた。

一帯は原生林に覆われ、泉から流れ出す水がサクシュコトニ川となって北へ抜けていく。そしてその川には、鮭が遡ってきた。

札幌駅から歩いて十分の場所に、鮭が遡る川があった。

この一文を書いてみて、自分でも少し戸惑っている。今そこにあるのは、舗装された道路と、ビルと、コインパーキングだ。水音はどこにもしない。

緑地の木立とその向こうのビル群

日本でいちばん早い時期の、つくられた公園

明治四年(1871年)、開拓使はこの泉のほとりに「偕楽園」を設けた。市民の憩いの場として。

緑地に立つ説明板は、この公園をこう位置づけている。日本の公園制度は明治六年の太政官布達によって始まるが、それにさきがけて開設された偕楽園は、日本で最初期の公園といえる、と。

名の由来は『孟子』の一節、「古の人は民と偕(とも)に楽しむ」から。命名したのは薄井龍之で、水戸の偕楽園に範を求めたと伝えられている。

ただし、ここでいう公園は、私たちが思い浮かべる憩いの場とは少し違う。園内には農業試験場が置かれ、ぶどう園が拓かれ、育種場ができ、競馬場まであった。博物場、製物場、花室。そして――鮭卵孵化場。

サクシュコトニ川を遡ってきた鮭を捕らえ、卵を採る。北海道の魚卵孵化事業は、ここから始まっている。

清華亭の館内には、明治十五年に描かれた偕楽園の絵図が掲げられている。松林の間に清華亭が建ち、その手前をサクシュコトニ川が流れ、川沿いに鮭卵孵化場が並ぶ。奥には博物場、生徒館、製物場。手前には屯田兵招魂碑と、その鳥居。

1882(明治15)年の偕楽園絵図(清華亭館内)

絵図を眺めていて、ひとつ気づいたことがある。

この土地には、井頭龍神より七十年ほど前に、すでに別の社があった。屯田兵招魂社。西南戦争で戦死した屯田兵を祀るために建てられ、毎年八月には招魂祭が行われ、札幌神社の例大祭と並ぶ二大祭日として賑わったという。

その招魂碑は、明治四十年に中島公園へ移され、さらに昭和十四年、札幌護国神社へと移されていった。

つまりこの土地は、神様が来ては、去っていく場所だったことになる。

開拓使時代の偕楽園・再現模型(縮尺1:250、清華亭館内)

御膳水のこと

園内には今も清華亭が残っている。明治十三年、貴賓の接待所として開拓使工業局の設計監理によって建てられた木造の建物で、翌年、明治天皇の北海道行幸の際には御休息所となった。庭に「明治天皇札幌御小休所」の石柱が立っている。

清華亭
         明治天皇札幌御小休所の碑

入場は無料で、館内の展示も撮影できる。赤い屋根と、和洋折衷の窓。中に入ると、外の暑さが嘘のように静かだ。

建物の前に立つ札幌市の説明板に、心に留まる一語があった。

『この地区にある「清華亭遊園」と「偕楽園緑地」に、かつての偕楽園の池  
 地、御膳水の湧泉、子どもたちの水遊び場の証跡をとどめております』

御膳水。天皇に供される水、という意味だ。

ここに湧いていたのは、ただの湧き水ではなかった。天皇に献じられるほどの水だった。そう思って読み直すと、この土地の泉が持っていた格のようなものが、少し違って見えてくる。

同じ説明板は、開拓使が去ったあとの風景も伝えている。清華亭の周辺は子どもたちの天国になり、葦や笹が生い茂り、崖や谷地や斜面があり、蝉やクワガタがいて、青大将が出てきた。清流と大小の池にはフナ、八つ目鰻、ザリガニが棲み、そしてアキアジ――秋鮭が、のぼってきた。


清華亭の説明板(札幌市)

井頭龍神が建てられたのは、この風景がまだ残っていた頃のことだ。

祠が建った年、水が涸れた年

昭和二十五年(1950年)ごろ。

周囲がすっかり住宅地に変わってもなお、水源のひとつであるヌㇷ゚・サㇺ・メㇺだけは、まだ涸れずに水を湧かせていた。

そこに、有志の人々が祠を建てた。井頭龍神。井の頭――つまり水源の頭に鎮まる龍、という名だ。

水が涸れる前に建てたのか、それとも涸れそうな気配を感じて建てたのか。記録はそこまで語ってくれない。ただ、事実としてはっきりしているのは、次のことだ。

祠が建てられた、その翌年。都市開発の影響によって、一帯すべての水脈が涸れた。

そして、二度と回復することはなかった。

龍神を祀るというのは、本来、水の恵みに感謝し、水の荒ぶりを鎮めるための行為だろう。祀ったその翌年に、水そのものが消えてしまった。

信仰が間に合わなかった、と読むこともできる。あるいは、人々はもう間に合わないと知っていて、それでも祠を建てたのかもしれない。

それでも、人は祠堂を建てた

興味深いのは、その後だ。

水が涸れてしまえば、水神を祀る理由は消える。普通なら、祠は忘れられ、朽ちるにまかせられるはずだ。

ところが、そうはならなかった。ささやかな水神信仰は絶えず、昭和二十八年(1953年)九月には、より立派な祠堂が造営されている。

水が涸れて、三年後のことだ。

もう湧かない泉のために、人々は前よりも立派な祠を建てた。

失われたものを惜しむ気持ちだったのか。まだどこかで、水が戻ってくると信じていたのか。それとも、水のあった時代の記憶そのものを、祀ろうとしたのか。

龍神とは水の神である――という説明は、たぶん半分しか正しくない。ここで祀られていたのは、水そのものというより、水があった頃のこの土地の姿だったのではないか。そんな気がしている。

――ここまでが、この土地に起きたことだ。

では、その祠は今どうなっているのか。

後編では、実際に偕楽園緑地を歩く。案内図に残された四文字を頼りに跡地を探し、そこで見つけたものについて書きたい。

(後編へつづく)


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