見出し画像

「知性に序列がある」という信仰を解体する――AI時代の「論文」という鎧について

はじめに――引き金を引いたことへの敬意

noteである思想記事を読んだ。僕はその記事に対し、踏み込んだ批評記事を書いた。

この記事でも書いている通り、この「論文」の著者の問いはきわめて誠実だった。
「人間がAIと区別できなくなったとき、人間の価値とは何か」。
これは今の時代の核心を突く問いだし、AIが発達しても人類は善きものであってほしいという切実な願いも伝わってきた。

ただ、どうしても見過ごせなかった点がある。その記事が「論文」という言葉を冠していたことだ。

僕の基準では、この記事は論文としての要件を満たしていなかった。
論文とは、調査や実験に基づく客観的な根拠があり、新規性や再現性が担保された文章を指す。単なる意見や感想、既存の理論の再構成は、本来「論文」とは呼ばない。

「銃(ピストル)を抜いたからには、命を懸けろよ」

『ワンピース』シャンクス

これは、漫画『ONE PIECE』のシャンクスの言葉だ。
「論文」という知的権威の象徴を名乗るなら、事実誤認や論理の瑕疵を指摘されるリスクを背負わねばならない。それが言葉を武器にする者の作法だ。僕が批評記事を書き、さらにAI(Claude)を使ってリライトを始めてみたのは、その「看板」に対する僕なりの最大の敬意のつもりだった。

批評記事を書いてみて、ふと不思議に思ったことがある。
なぜ、この著者は「論文」という言葉に執着するのだろうか。

AIを使った「学問のコスプレ」

おそらく「論文」という言葉を使うことは、記事の内容への自信の表れではない。むしろ「論文」というラベルそのもが持つ知的権威への渇望から来ているのではないか。

かつて、学術的に見える文章を作るには、それなりの学習と訓練が必要だった。しかし、AIはその障壁を粉砕した。
「論文らしく見える文章」「専門家らしく聞こえる語彙」「学術的な論理構成」。 AIに求めれば、それらしい「形」はすぐに手に入る。

これは一見「学問の民主化」に見える。
しかし別の側面から見れば、AIを「承認の道具」として、あるいは「知性のコスプレ」のために消費しているだけにも思える。

その結果、出力される文章から「問いと真剣に向き合った痕跡」が消える。ただ「知的に見えること」が目的化したとき、人の思考は止まってしまう。
その根底には「知性には序列がある」という信仰がこびりついている気がする。

知性は「一次元の直線」ではない

ここで言う「知性に序列がある」とは、頭が良い人が上にいて、そうでない人が下にいるという一本の線がある世界観を想定している。
僕はこの前提を信じていない。

批評家の東浩紀氏はかつて、ゲンロンカフェで興味深い趣旨の発言をしていた。「絵を描くことは間違いなく知的活動だが、実際に絵を描ける人と対談をしても話が通じないことが多い」

これは決して侮辱ではない。むしろ逆だ。絵を描くという行為の中には、ペーパーテストや論理構成では取り出せない「別次元の知性」が宿っている。それは哲学者の知性と同列に並べられるものではない。

料理人が味付けするとき、音楽家が音を紡ぐとき、アスリートが肉体を操作するとき。そこには間違いなく高度な知性が働いている。知性とは一本の線ではなく、複数の独立した次元が重なり合う、広大な「海」のようなものではないだろうか。
東浩紀氏は「多少頭がよければその結論に到達するはずだ」とも言っていた。つまり、知性を一本の線上の「高さ」で測ることの無意味さに気づくことこそが、彼の考える知性の本来のあり方だ。

「知性の序列」を信じてしまうから、僕たちは学歴に過剰に依存し、特定の障害を持つ人を「序列の下」と見なす過ちを犯す。
相撲の番付のように学校をランク付けし、『みいちゃんと山田さん』のような障害を持つ登場人物を蔑むような視線からは、東浩紀氏と同じ「結論」は見えてこない。

以前、僕はギャルについての記事で「異端が異端を認める」というテーマを書いたが、これも同じ話だ。

外れた個性を「劣っている」と切り捨てる論理は、すべてこの一次元的な知性観から生まれている気がする。

「わからない」から面白い

「論文」という言葉への執着は、「論文を書ける人間は知的に上位だ」という呪縛の現れかもしれない。

だとしたら、それはとてももったいないことだ。
なぜなら、著者が抱いた「AI時代の人間の価値」という問いは、論文という鎧を借りずとも十分に価値のある、本物の問いだったからだ。

この一連のやり取りの中で、僕は20世紀アメリカの哲学者エリック・ホッファーを思い出していた。
彼は生涯を港湾労働者として過ごし、学位も肩書きも持たなかった。しかし、独学で思索を深め、自分の中の疑問と格闘し続けた彼の言葉は、今も多くの人の心を打ち続けている。
彼が書いたのは「承認のための文章」ではなく、自分自身の「問い」との格闘の記録だった。
あの「論文」の作者もエリック・ホッファーになれるかもしれないと思っている。

知的活動とは「論文」に見えるように頑張って見た目を整えることではない。「わからない」という状態を面白がり、そこを起点に問い続けることだ。そこに、学術用語という「鎧」は必ずしも必要ない。

おわりに――知性の序列信仰を解体する

僕が言いたいことは「みんな違ってみんないい」という浅い励ましではない。

ある人は論文を書く。
別のある人は同じ問いを絵で表現するかもしれない。
その問いは音楽やダンスになるかもしれない。投球フォームになるのかもしれないし、物語や詩になるかもしれない。
それらは比較不能な別次元の輝きだ。

AIを、自分を賢く見せるための「装飾品」にする必要はない。それは思考を止める行為だ。そうではなく、AIは「自分の疑問と戦うための武器」として使える。ナイフの刃をつかむと手を切るが、柄を持てば役に立つのと同じだ。
どちらを選ぶかは、「知性の序列」を信じるかどうかと、おそらく連動している。

「わからない」ことを面白がること。「これは私自身の疑問だ」と、AIにも誰にもその舵を渡さないこと。
その誠実さは、どんな権威あるラベルよりも、「知的」に見える。

いいなと思ったら応援しよう!

ジァン=サマー 読んでいただけることが一番の報酬です。 無料で誰でもアクセスできることに価値を感じているため、お気遣いは一切不要です。 もし過分なご厚意をいただいた場合には、社会貢献活動などへ寄付させていただきます。