エリンジウムの花ことば 第7話
「瞳子さん、デートしよう」
6月、初任者研修も最後の追い込みに入り、次回はいよいよ筆記のテスト、という日の放課後、コンビニのイートインでソフトクリームにかじりつきながら、僕は言った。
「デート。私にとっては、今もじゅうぶんそんな気分だけど?」
「またそんな、殺し文句言う~。もう、大好き」
「だってそうでしょう? 50過ぎたおばさんにデートしよう、なんてそれだけで舞い上がるわ。殺し文句は葵くんの方でしょ」
「いやいや、こんなすてきな大人の女性に、コンビニのアイスでデートだなんてバチがあたっちゃうよ」
「ああ。私の世代はね、今の若い子たちと全然違うからさ。クリスマスのディナーとか、誕生日のプレゼントとか、そういうものより、むしろコンビニでアイスの方が新鮮なんだ」
嬉しい。こんなに幸せでいいんだろうか。そうは言っても、若くてお金のない僕に気をつかって言ってくれていることぐらい、わかっていた。とはいえ瞳子さんとふたりきりでどこかに行きたい。手をつないで歩きたい。一緒に美味しいものや甘くてかわいいお菓子を食べたりして笑い合いたい。
「今度、うちにおいで。一緒にお菓子つくろうよ」
「え、いいの? あの、ご家族は……」
「息子たちは結婚していてもう家にはいないし、両親は同居だけどお互いそんなに干渉しないし……、夫のことが気になる?」
「もしお会いしたら、きちんと普通にご挨拶すればいいかな。その、友達として」
「心配しなくても、今はほとんど家にいないから、会うことはないでしょう」
「忙しいお仕事なんだね」
本当はこの時、なぜご主人がほとんど留守なのかを聞けばよかったんだ。実際、瞳子さんは聞いてほしかったのかもしれない。
次の休みの平日、僕は瞳子さんの家に初めて上げてもらった。
「お邪魔します。はいこれ、プレゼントです」
自分の最寄り駅のお花屋さんで買った、一輪の青いエリンジウムという花を玄関で渡した。
「花ことばを調べて買ってきたんだ」
「なんていうの?」
「エリンジウム、『秘密の恋』だよ」
「えぇ~、すごい。たまたまお花屋さんにあったの? 私、このお花初めてよ」
「へへ、ちょっと中二病っぽいね。でも、僕たちにぴったりだなって」
銀次さんと奥さん、つまり瞳子さんのお母さんは1階に住み、瞳子さんの住まいは2階と、同居とはいえ完全に分かれて暮らしていた。通された2階のキッチンは広いリビングとつながっていた。瞳子さんが生の桃を用意してくれていて、まず、アーモンドクリームの中にりんごを煮詰めたものと、くるみを入れて焼き込んだタルトをつくる。その上にカスタードクリームを盛り、カットした桃をのせてゆく。仕上げにホイップした生クリームで覆い、おしゃれなフルーツタルトが完成した。
「僕、こんなおしゃれにつくったことなかった。たいてい焼いて終わりだから、目からうろこが落ちまくりです」
「私は本を見ながらじゃないとつくれないのよ。葵くんは、割と何も見ないで、勘でつくっているでしょ。それがすごいなと思って」
「や、だから失敗もありますって。やっぱ本とか、基本って大事だな~」
梅雨の晴れ間の明るいリビングで、ふたりの合作の上品な桃のタルトを堪能する。瞳子さんが淹れてくれたアールグレイの紅茶を味わいながら、僕はとても幸せだった。このままずっとこうしていたかった。ふと、立ち上がって瞳子さんを椅子から立たせた。
僕が抱きしめるのと、瞳子さんが僕をつかまえたのは、ほぼ同時だったかもしれない。
「瞳子さん、好きだよ……。ずっと、ずっと一緒にいたい。瞳子さんがだめって言っても離れないから……」
瞳子さんは黙って、僕の腕の中にいた。
初任者研修の筆記テストに、瞳子さんも僕も無事合格し、最終日は午前で終了だったので一緒にお昼ご飯を食べることになった。瞳子さんは、何人かの女性の仲間たちと水引アクセサリーの講習会をすることになったと言っていた。
ショートステイでの勤務は、夜勤もひと通りできるようになり、少しずつ、効率よく仕事をこなせるようにもなってきた。介護の仕事は、効率だけを求めてもどうにもならないことも、多々あるのだけれど……。
7月になって、梅雨も明けきらないうちから暑い日が続く。高齢者の熱中症が毎年テレビやラジオでとり上げられ、「こまめな水分補給を」だの、「上手にエアコンをつかって」などと呼びかけている。そもそも高齢になると、暑さ、寒さを感知するセンサーが働かなくなるのだ。デイサービスの頃は、ひとり暮らしの利用者さんのお宅に迎えに行くと、暑い中せっかくエアコンがあるのにつけず、冬みたいな服装でいる方を見て慌てることが何度かあった。
その日は飯田さんが5日間の入所日で、僕は早番のため朝の7時から勤務していた。13時から15時ぐらいの間に入所、10時か11時で退所、というホテルのチェックイン、チェックアウトと同じような感じなのだけど、入所者と退所者が同じ日に集中すると、早番はてんやわんやになる。
「はい、飯田 結美子さま、ご到着でございます」
送迎ドライバーの鶴野さんが、わざと大げさにおどけた調子で言いながら、飯田さんを伴ってショートステイのリビングに入ってきた。
「こんにちは、飯田さん。暑いですね。今、冷たいお茶持ってきますね」
挨拶しながら、僕は鶴野さんから飯田さんのバッグを受け取る。先に冷蔵庫から冷えたほうじ茶のボトルを出して、取っ手つきのプラスチックのカップに半分注いだ。キッチンの片隅に作って置いてあった常温のほうじ茶をそれに足して、飯田さんが座った場所まで持って行った。
「お荷物と、着ているお洋服のチェックをさせてくださいね」
「はい、わかりました」
ボストン型のバッグから、まずは連絡帳を取り出す。ここに家族からの申し送りがあるのだが、最終排便や最終入浴が書かれていないことがたびたびある。入浴はわかっても、ふつう家族がいつお通じがあったか、などと把握するのは介護職でもない限り難しいだろう。僕は、筆記用具や事務用品の入ったひきだしからメモを一枚取り、黒いマジックで『お通じがあったのはいつですか?』と書いて飯田さんのそばに行き、しゃがんで目線を合わせた。メモを飯田さんだけに見せる。
「これ、どうでした? 覚えてます?」
「えぇと、さっきね、男の人が来て、それで、ここへ来ました」
「あ、いえ……、これです」
僕は『お通じ』のところを指でさし示したが、飯田さんは不安そうな顔をするばかりで、黙り込んでしまった。
あれ、この前はこんなじゃなかったのに……。
ことのほか、ショックだった。デイに来ている時も、認知症らしき兆候はほとんど見られなかったのに。こうやって急速に、坂を転がるように状態が落ちてしまうことがあるのだ。
「あの、今日はカズヤさんは」
「え?」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
「約束したんです。カズヤさんと。ずっと一緒にいるって。何があっても離れないって」
明らかに、飯田さんは認知症が進んだ、と確信した。ただ、僕はつい、認知症の方が言う辻褄の合わない話だと思い込んでしまい、気にせず忙しい早番の仕事をこなしていた。その日の夜勤をシフト表で確認した時、福沢さんの名前を見るまでは。
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