エリンジウムの花ことば 第2話
白い玄関のドアが開いて、目鼻立ちのすっきりとした女性が笑顔を向けながら会釈した。まっさきに浮かんだのは、「エレガント」というワードだった。そう、エレガントはこのひとのためにある言葉だ。本気でそう思った。
この人が利用者さんの娘さんでキーパーソンであろう、ということはすぐに想像できた。銀次さんが79歳ということなら、この娘さんは40代から50代、この若々しい見た目でまさか60代ではないだろう。利用者さんの個人ファイルには、利用者本人の年齢や生年月日は当然書かれているが、キーパーソンをはじめ家族の年齢までは記入されていない。ただ、利用者さんの娘さん、というと比較的介護に疲れたり、それに伴って家族仲がぎくしゃくしたりして、たまたま老けた印象の人ばかりを見てきたせいか、この女性が僕にはとてもキラキラと輝いて見えた。同世代にはない、年齢を重ねたゆえの美しさとでも言おうか。背は僕より少し小さいぐらい。やわらかい栗色でゆるいウェーブのかかったセミロングのヘアスタイル、色白で年齢を感じさせない肌つや。淡いミントグリーンのカットソーに紺のワイドパンツといういでたちで、真冬というのに素足にサンダルをつっかけて出てきた。
「おはようございます! はじめまして。ひなた苑デイサービスの職員で久保田 葵と言います。よろしくお願いします」
いつもの人見知りを脇へ押しやる気持ちで、僕はとびっきり愛想よく挨拶した。
「おはようございます。私、遠山の娘で二宮です。今日からよろしくお願いします」
なんてすてきな女性だろう。
おそらく僕の母親と同世代に違いないのに、などという気持ちをなんとか胸の内に無理やり丸めてねじ込み、僕は彼女の後ろからゆっくりと姿を現した、背の高いおじいさんに声をかけた。
「遠山さん、おはようございます! はじめまして。僕、久保田って言います! よろしくお願いします!」
白髪混じりの短髪、日焼けしていた名残りのある顔つきで姿勢のいい銀次さんは、一瞬きょとんとしたような表情になったものの、僕と、ひなた苑の名前の入った白いキャラバンを交互に見て、ゆっくりと頷いた。
「父はかなり耳が遠いんです。お手数をおかけすることが、きっとたくさんあると思うんですけど、デイであったことなどはできる限り教えてくださいね」
彼女の声は決して高くはなく、落ち着いたトーンで耳に残る。この声音だけをとっても、介護士になったらきっと大人気でひっぱりだこだろう。こんな人に介護してもらいたい、と考える高齢者はたくさんいるはずだ。なんの仕事をしている人だろうか、いろいろ妄想がふくらみかけるのを、またもや無理やり胸のうちにねじ込んで、急いで笑顔をつくった。
「りょ……承知しました! ではまた、お帰りの時に。遠山さん、こちらへどうぞ!」
キャラバンのスライドドアを颯爽と開けてみせた僕に、彼女は言った。
「夕方は、私は出ているので母がおります。よろしくお願いします」
一気にがっくりきた。
それからというもの、僕は銀次さんの利用日である唯一の火曜日に、極力休みの希望を入れないことにした。ただ、毎回同じコースの添乗になるわけもなく、運悪く僕の思惑を知らない航平さんに火曜日を休みにされたりして、2月、3月と無常にも月日が過ぎて行った。だから、月に2回二宮さんに会えればいい方だった。他の男性職員やドライバーのおじさんたちが、送迎のついでにあのすてきな人と親しく話しているかもしれない、そう思うと、いてもたってもいられず、歯がゆくてならなかった。
3月の終わりごろ。桜のつぼみがちらほらとほころび、少し寒さがゆるみ始めると、遠山さんは送迎の車に乗るのをやめ、徒歩でデイサービスに来所するようになった。たまたま運よく僕はその日は送迎にあたっておらず、キャラバンの到着を待ちながらデイのフロアのテーブルをセッティングしたり、お茶の準備を整えたりと、これはこれで忙しくしていた。
デイサービスにやってくる利用者は一日に25~30人ほどで、当然みな状態が異なる。認知症で職員のひとりひとりはおろか、家族の顔や名前もわからなくなっている人、身体の左右どちらかに麻痺があり不自由な人、拘縮といって肩やひじなどの関節部分がかたくなり、動かしづらくなっている人、そして認知症も身体の不自由なところもない銀次さんのような比較的自立度の高い人、ほんとうにさまざまだ。
左右のどちらかに麻痺がある人の場合、ふたり掛けのテーブルのどちらに座ってもらうかは重要なポイントで、耳の聞こえの良し悪しなども関係があったり、デイの席順を決めるのは一朝一夕ではできない仕事だった。僕も航平リーダーやベテランの先輩方に教えてもらいながら、最近やっと席の配置がつくれるようになったばかりだ。
「遠山さん来られましたよ~!」
正面玄関の脇にある事務室から、施設長の声がした。僕ははずむような気持ちで出迎えに行く。うっかりスキップしそうになってしまった。
「おはようございます! 近くとはいえ、歩いて来られるの、とてもいいですね、遠山さん、おはようございます」
「ああ。おはようさん」
「おはようございます。父、このところ毎日のお散歩をさぼり気味だったんです。引き続き歩行訓練、びしびし歩かせてくださいね」
ここちよい声で二宮さんが言う。
「わかりました、任せてください! そういえば、遠山さんは要支援2だから、週に2日デイサービスに通えますよね? なぜ1日だけなんですか?」
遠山さんの、春ものの薄いグレーのジャケットを受け取りながら二宮さんに聞く。
「父、ほんとうはデイサービスに来たくなかったんですよ」
「え! どうして」
「そんなのお金がかかるだろ、なんて言って。私が具体的な金額を話して、そんなにかからないんだよ、ってなんとかなだめすかして『じゃあ、試しに週に1回だけ、行ってみない? 嫌ならやめてもいいから』ってだまくらかしてね。もう大変。ほんとうは要支援2は週2日行っての月額だから、週1日だけだと損しちゃうのよね。本人には言ってないですけど」
「だまくらかして、って。二宮さんて見た目と違っておもしろいこと言うんですね」
「え、私、どんな見た目です?」
「あぁ、いやいや、まじめな方って印象だったので」
「そんなこともないですよ」
焦った。ちょっと、いいな、と思っている気持ちが、ダダ漏れてしまいそうで慌てた。
そんな立ち話をしている間に、遠山さんはずんずん進んでデイのフロアへ行き、勝手知ったるという感じでうがい、手洗いをしている。デイでの流れにすっかり馴染んではくれていると感じた。造園職人だったというから、はじめはとっつきにくくて頑固で怖い人なのかと勝手に思っていた。よく見ていると温厚な性格で、あまり多くは語らないと思いきや、話を振られるととたんに饒舌になることもあった。やはり、かつての仕事に関しては誇りを持っているようで、昔こんな仕事をしたんだ、新聞に載ったんだ、などと話してくれたことがあった。年寄りの昔の自慢話は嫌われることもあるけれど、不思議と自慢話に聞こえなかった。
4月になって、僕はそれまでのらりくらりと理由をつけて断っていた、介護職員初任者研修という資格を取るため、合計21日間ほどを約3か月かけて、座学や実習でまる一日A市の専門学校へ出向くことになった。
初任者研修は介護の入門資格で、特に資格がなくても僕のように施設で採用してもらえることもあるのだけど、持っているに越したことはない。この資格があることで、毎月のお給料に資格手当として数千円上乗せされる法人が多いのも事実だ。介護福祉士と違って国家資格ではないから、微々たるものではあるが、それはそれでモチベーションにはつながるだろうか。今まで資格取得から逃げていたのは、その資格手当とを天秤にかけても、やはり僕が勉強が苦手で、怠け者だからだ。
A市の福祉系専門学校は、最寄りの私鉄の急行停車駅から徒歩7分、3階建てで古びていた。僕が生まれる前からあり、歴史を感じさせた。職場の先輩方も、ここの専門学校出身の人が何人かいるらしい。
ただ、今日からまた知らない人たちと、しばらくの間ここで同じ時間を過ごさなくてはいけない。新たな人間関係を築くことが億劫だと感じる、基本人見知りな僕は、少しだけ憂うつな気分で、指定された2階の教室のドアを開ける。
「あら? もしかして、ひなた苑の……久保田さん? でしたっけ」
背後からの、聞き覚えのある落ち着いたトーンの心地よい声に、一瞬胸がドクンと脈打ったのが、はっきりとわかった。
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