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福島県の風土:東北第一の地域だった「会津」の悲哀

福島県の三つの地域のうち、今回は「会津」。

御薬園(会津若松市)
二代藩主の保科正経が貧しい領民を疫病から守るために薬草園を設け、
その一画に日本庭園を造成

会津は、これまでフィールドワークで訪れた滋賀県(近江)→三重県(伊勢)→京都と縁が深く、感慨深いものがあります。その詳細含め、以下「会津の歴史」をメインにその風土を紹介します。

瓦が「えんじ色」なのも鶴ヶ城の特徴

⒈かつて「会津若松」は東北の中心地

もともと会津若松は「黒川」と呼ばれ、東北一の大都市として蘆名氏が統治。室町時代まで東北の中心といえば、それは「会津」だったのです。

なぜ「黒川」と呼ばれていたかというと、江戸時代後期に幕府の名により編纂された『新編会津風土記』によれば、

「古は黒川と唱へ、今の湯川即ち是なり。其水色黒きによりて名づくといへり。」(巻之一・郡邑一)

ということで、今の「湯川」がかつて、その色が黒いことから「黒川」とよばれたらしい。

しかし戦国時代の1589年、蘆名氏は中通りを拠点とした伊達政宗に滅ぼされ、黒川は新たに伊達氏の拠点となります。

ところがその1年後の1590年、豊臣秀吉の「奥州仕置」によって伊達政宗は減封され、本拠地を米沢城に。

⒉若松の名付け親「蒲生氏郷」による街づくり

奥州仕置きのあと、秀吉の命により1590年に入城したのは近江商人でも有名な近江日野出身の戦国大名「蒲生氏郷」。

蒲生氏郷の銅像(滋賀県 近江日野町:2024年10月撮影)

蒲生氏郷は、三重県の「松阪」(江戸時代までは大阪同様「松坂」)の名付け親で今の松阪の礎を作った人物ですが、会津若松も同様に氏郷がその礎を築いたと言っても過言ではありません。

三重県 松坂城跡(2023年4月撮影)

氏郷は、出身地の近江日野の「若松の森」にちなんで、また「若々しい松のように末長く栄えるように」との願いを込めて黒川を「若松」と改称(『蒲生氏郷記』(蒲生家伝記)。

滋賀県 日野町「伝若松の森跡」(2024年10月撮影)
現在の松樹は氏郷が遠く会津の地より故郷を懐かしんだ名残の松だそう。

最終的には92万石という東北地方最大の領地を秀吉から与えられた氏郷は、伊勢の松坂同様、若松を織田信長のまちづくりを手本にした総構えの城下町として武家屋敷・商工の屋敷・寺町を区画別に整備。

所々に筋違いの交差点が設けられ、敵から攻められにくいよう設計するなどは、長野県上田市同様、城下町ならではの町割り。

近江日野町から近江商人を誘致(半ば強制的にだと思われる)して楽市楽座を導入し、城下町に定期市を設けます。

さらに近江から会津塗の源流となった塗り師なども移住させただろうし、鶴ヶ城の石垣も、氏郷時代の野面積みの部分は近江の穴太衆を呼び寄せて造らせたのかもしれません。

ということで、会津若松のまちづくりは氏郷の出身地「近江」ゆかりのものが多いのです。

ちなみに蒲生氏郷は、秀吉によって自害させられた千利休の家が後に続くよう、千利休の娘婿で千家の後継「千小庵」を会津に密かに呼び寄せ、住まわせたという。

鶴ヶ城内にある利久の後継「千小庵」の茶室

なので氏郷は千家の恩人中の恩人で今の茶道が日本の伝統として今に生きているのも、蒲生氏郷が後世に残した大きな遺産とも言えるのではないでしょうか。

千少庵の茶室のある麟閣にて茶を愉しむ

⒊現在の会津の精神を醸成した保科家

蒲生家は2代で血統が断絶し、その後上杉家などを挟んで、秀吉の家臣加藤嘉明の息子加藤明成が統治するも、主従関係のトラブル(会津騒動)などもあって、代わってやってきたのが保科正之。

保科正之を祀った土津神社(猪苗代町)。
建立時は日光東照宮と比べられるほど豪華絢爛だったが戊辰戦争で焼失したとのこと

正之は、三代将軍家光が最も信頼していたらしい異母弟で、だからこそ信州の高遠藩から東北一重要だとも言える会津藩に移封させ、東北の守りの要として後々まで任せたという。

大内宿 三澤屋でいただいた「高遠そば」。
「高遠」とのように保科正之が蕎麦を高遠藩から蕎麦を持ってきたらしい

保科家は3代目になって徳川の親戚であることを明確化するため「松平」姓に改名。名実ともに徳川親戚筋として徳川幕府に忠誠を誓ったことが後々の会津の悲劇を生むのです。

保科家による御薬園の薬草園

⒋戊辰戦争の敗者としての会津の悲哀

今でも会津の人たちは、長州藩に対して特別な想いをもっていると言います(以下は「京都の風土」にて紹介したものを編集して再喝)。

京都市 金戒光明寺 会津藩殉教者墓地(2023年10月撮影)

幕末の頃、京都は諸国から尊皇攘夷の過激志士が集い、テロや強盗が横行し、京都所司代や京都町奉行もお手上げ状態でした。

そんな中、江戸幕府は京都の治安回復のための新しい職「京都守護職」を新設し、徳川親藩に打診したところ、受け入れる藩は当然ながらいませんでした。

会津藩でも例外なく家臣たちは猛反対。そんな中、会津藩主の松平容保は「幕府への忠義は初代保科正之以来の会津の家訓ではないか」と福井藩主の松平春嶽にそそのかされ、ついに承諾してしまいます(1862年)。

そしてこの金戒光明寺を本陣にしたのです(1年後に所司代千本屋敷の北側と釜座下立売上ルの2拠点に移転)。

金戒光明寺(同上)

家臣たちは「これで会津は滅びる」と慟哭したのですが、致し方ありません。とはいえ京都守護職として京都の治安を回復させ天皇を命懸けで守り、当時の今上天皇「孝明天皇」からも信任厚く、ある意味容保の守護職は成功したのです。

松平容保像:会津藩殉教者墓地にて(同上)

一方で容保が京都守護職領として幕府から新たに賜った5万石の(元は幕府直轄領)の京都近隣の領民は、京都警護のために駆り出され、その数は延べ3万人にも達したといいます。

『県史 京都府の歴史』272頁より編集

ところが、大政奉還して守護職もまっとうしたと思ったら、会津藩は薩長による偽の「倒幕の密勅」で逆賊扱いされてしまう。

大河ドラマ「八重の桜」の主人公を演じた俳優「綾瀬はるか」
が植樹した桜の木(鶴ヶ城にて)

維新政府内では、江戸開城で矛を収めようとという意見もあったそうですが長州の木戸孝允(桂小五郎)が、会津討伐を強く主張して決行。

綾瀬はるかの直筆掲示(同上)

というのも蛤御門の変で御所に大砲を撃つという前代未聞の不敬を働いた長州を、京都守護職の会津藩が徹底的に撃破したその恨みを晴らそうとしたためだとか。

三条実美宛ての書簡(慶応4年5月): 木戸は、江戸が無血開城したことで新政府軍に「緩み」が出ることを極度に恐れていました。彼は三条に対し、「会津は朝敵の首謀者であり、これを許せば維新の大義が立たない」という論理で、妥協を許さない徹底抗戦を説いています。

Gemininで生成

明治2年、維新政府は、67万石だった会津藩を南部領下北半島3万石に封じ込め、福島で最も栄えていた会津は放っておかれ、県庁は会津の10分の1ほどの規模だった福島市に置かれ、昭和になっても仙台に次ぐ第二の大都市だった会津には新幹線は通さず、など、維新政府からここまでするか、というぐらい、徹底していじめにあってきたのが会津だったのです。




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