フランスが遠因だった?日米開戦『蒋介石』家近亮子著 読了
<概要>
最新の史料に基づき蒋介石(1887−1975)の歴史を辿ることで、新たな視点の近現代の東アジア史も勉強することができる新書。
<コメント>
今年2025年出版の最新の蒋介石に関する著作。来月台湾旅行に行くのでその関係でさっそく読んでみました。
私の知っている蒋介石は、独裁者として国民党を率い、第二次世界大戦後の毛沢東との戦いに敗れ、台湾に逃げた指導者。そして独裁者として台湾を統治し、その発展の基盤を築き上げた人物。さらには宋姉妹の一人「宋美齢」の旦那でもある、ということ。
しかし本書を読み終わって感じたのは、弱者でありながら外交能力を駆使して日本との戦いに勝利した一方、日本に注力し過ぎて、中国人民を蔑ろにし、毛沢東率いる中国共産党に出し抜かれた人物、という印象。
そして本書の中でも一番興味深いのは、大日本帝国との戦いです。
蒋介石自身は日本に留学していたこともあって親日派ではあり、そのこともあって「大日本帝国は敵ではあるが日本国民は敵ではない」という戦後の中国共産党と同じスタンス(=二分論)をずっととっていたのが印象的。
終戦時のいわゆる「以徳報怨」の演説は政治生命をかけた日本および日本人に対するアピールであったと言うことができる。確かに蒋介石は抗日戦争中、一度も日本国民を敵とする発言はしなかった。そればかりか常に深い同情の念を寄せていたのである。
日本との戦いで最も注目すべきは「いかにアメリカを日本の敵にさせるか」という点。中国単独では勝てない状況において、当時も世界最強だったアメリカをいかに味方につけるか、という外交戦略を展開。
そのためもあって自分の愛する妻(陳潔如)を見限って、キリスト教徒で宗家の娘「宋美齢」と結婚し、しかも敬虔な仏教徒からキリスト教徒に改宗までして宋家を取り込み、資金獲得を手始めに妻の兄弟の宋子文や宋美齢本人を活用してアメリカ工作に成功したわけです。
日本が真珠湾攻撃を仕掛けたのは、アメリカからの日本への石油輸出を再開するためには「大陸からの完全撤退が条件」という無理難題をアメリカが要求したから致し方なく、が通説になっています。
ではなぜアメリカが日本にこんな無理な要求をしてきたのでしょう。
それは日本がフランスの植民地ベトナムを侵略しようとしたから。
日本は1941年7月14日フランスのヴィシー政権に対して、日本が南部仏印に進駐することを一方的に通告したが、このことによってアメリカの徹底的な対日制裁を招く結果となった。7月24日ルーズベルト大統領は野村吉三郎駐米大使を読んで日本軍の仏印からの撤退を勧告し、25日には在米日本資産の凍結を発表する。
1941年11月の段階でもまだアメリカは大陸からの全面撤退を要求していなかったのです。
11月21日、アメリカ国務長官のコーデル・ハルが胡適を緊急に呼び出して示した対日暫定協定案は、中国からの撤退については全く触れられておらず、日本の仏印南部からの撤退と引き換えに、仏印北部での駐兵(2万5千人程度)を認め、通商の限定的再開の提案とも読める内容であった。
これに驚いたのが蒋介石で、部下の胡適と宋子文にアメリカ政府の要人に会いに行かせると同時に、英国チャーチル首相に電報を打ち、アメリカの暫定案に強く反対するよう工作。これを受けたチャーチルはルーズベルト大統領に絶対反対する電報を打ち、この提案を撤回。
そして太平洋戦争が始まる、という経緯。
これによって中国は連合軍の一員としての資格を獲得し、さらには世界の四強国の一員としてアメリカに認められるのです。
日米開戦は中国の国際的な地位を飛躍的に上げることになった。1942年1月1日、宋子文がワシントンで26ヶ国による「連合国共同宣言」に署名したが、そのとき、ルーズヴェルト大統領が中国が世界の4強国になったことを歓迎するという発言をした。
このような蒋介石の外交戦略が回り回って戦勝国の一員としての今の中国の常任理事国につながっているわけですが、その後の毛沢東との内戦に敗れた蒋介石はその役得をライバルであった毛沢東に奪われてしまう、という悲劇が起きてしまう。
この辺りの中国共産党の外交工作も狡猾です。
戦後の内戦で反共だったアメリカの中国対策が遅れたことも蒋介石が毛沢東に負けた要因の一つではあるものの、毛沢東は共産党だけが新中国を統治するのではなく、民主連合を形成する政党のうちの一つとしての位置づけをアメリカに印象付けたことも大きい。
共産党はこれら(民主建国会、中国民主促進会、中国民主憲政促進会、中国民主同盟)の勢力を吸収して、「民主」連合のリーダーとしての役割を演じることに成功する。彼らは政治促進会議に参加することで、毛沢東の「連合政府論」が実現することの期待を持つようになる。
一方で蒋介石は、国民党単独の国家建設にこだわりすぎ、その上から目線の独裁的態度が中国国内外からの評価を下げてしまう。
さらに蒋介石が戦後戦勝国のソ連やイギリスを怒らせたことも大きい。蒋介石は民族自決にこだわってイギリスが支配したチベットや香港の返還、ソ連が支配した外モンゴル(現モンゴル国)の中国への返還を要求。
この点、毛沢東は賢くて英ソとの領土問題の棚上げを提言。
毛沢東はこの領土問題に関しては、「矛盾論」の枠組みで、「副次的矛盾」として処理しようとし、問題を棚上げし、英ソと対立することはなかった。このように国民党と共産党は抗日戦争に対する認識が異なっていたのである。
最終的には、中国共産党も朝鮮戦争をきっかけに共産党独裁に向かう。
中華人民共和国は成立当初、社会主義ではなく新民主主義、連合政府による国家建設をおこなった。共産党の指導者たちは社会主義への移行には一定の時間が必要であると判断していた。劉少奇は長ければ15年から20年かかるという考えを示した。毛沢東も同様の発言をしていた。それを一変させたのは朝鮮戦争の勃発である。中国はこれを「抗米援朝」の戦いと想定して義勇軍を募集して派兵することで参戦し、アメリカを主要敵とすることを宣言した。
この結果、社会主義に至る民主的な政治体制は終焉し、共産党独裁に向かい、1957年の反右派闘争で毛沢東独裁が確定する、という流れ。
「あとがき」にて著者曰く
蒋にとって、「人民」は常に教育し、動員し、危機を煽ってさまざまな犠牲を強いる支配の客体に過ぎなかった。「民主憲政」の重要性を唱えながら、人民に寄り添い、敬愛される姿が最後まで見られなかったことは大変残念に思う。
でも毛沢東もこれは同じ。
結局中国大陸の指導者は儒教文化から抜け出せず、上から目線の民主主義であってボトムアップ型の西洋的民主主義の文化ではないのです。今の習近平も同じ(詳細は以下参照)。
一方で、蒋介石が逃げた台湾は、蒋介石の息子「蒋経国」(1900−1988)の指導力もあって見事に西洋型の民主化に成功。
ちなみに蒋経国は蒋介石の最初の奥様「毛福梅」との間にできた唯一の息子。そして宋美齢は実質的には4番目の奥さんで、最も蒋介石が愛したのは前述の3番目の奥さん「陳潔如」ではないかと思います。
そんな複雑な家庭で育った蒋経国は最終的には蒋介石と仲は良くなるものの、長年のしこりはあったでしょうから、父の独裁的姿勢を反面教師として自分の治世では民主化へと舵を切ったのではないか、と個人的に思います。
