福岡をゆく|博多から広州へ、茶葉が紡いだ物語──栄西・林則徐
緑から紅へ、お茶が生んだ文化
日本で、湯呑から熱い湯気を立てているのは“緑”茶。
イギリスで、スイーツと楽しむアフタヌーンティーは“紅”茶。
では、お茶の本場、中国で飲まれるのは“何色”のお茶でしょうか?
中国では、お茶を、茶葉の産地や種類、発酵度や製法などにより6色に分類しています。
緑茶、白茶、黄茶、青茶、紅茶、黒茶の6色です。
日本でも有名な烏龍茶や鉄観音は「青茶」の一種であり、普洱茶は「黒茶」の一種となります。
その内、日本に定着したのが“緑”のお茶、
イギリスに定着したのが“紅”のお茶となります。
つまり、日本の茶道も、イギリスのアフタヌーンティーも、元をたどれば6色のお茶が織りなす「茶文化」の一角でしかありません。
中国の茶文化が発展し、世界に広がり、他地域で愛され、定着した結果、地域の文化と結びつき、新たな文化を生み出していく…、そんな“文化の旅”の一端が、そこに見えてきます。
同じように世界中で飲まれている飲料でいえば「コーヒー」があります。
コーヒーにも産地の違いがあり、焙煎方法の違いがあり、淹れ方の違いがあります。
とはいえ、アメリカンコーヒーやベトナムコーヒーなどはあるものの、やはりコーヒーはコーヒーです。
地域ごとに作法や文化として花開いた例は、意外と限られています。
それに対し「お茶」は、国や民族や時代を越えて人々を魅了し、根付いた地域で新しい文化を生み出すほどに奥深い。
実は、ここには、世界が歩んできた歴史が大きく関わっています。
ヨーロッパの歴史を動かすお茶文化
ヨーロッパに最初にお茶がもたらされたのは、17世紀中期に最盛期を迎えていたオランダでした。
初期のヨーロッパ輸入茶は、世界初の株式会社として設立されたオランダ東インド会社を通じて運ばれました。
その多くは、日本から輸出された「緑茶」だったと伝えられています。
オランダでは、お茶の薬用効果などが注目される一方、飲み方については、日本の影響を存分に受けていたようです。
当時上演されていた喜劇では、オランダの茶会の様子が表現されていて、そこでは、お皿に注いだお茶を、まるで日本の茶道のように音を立ててすすっていたそうです。
これはおもてなしをしてくれた主人に対する感謝を表しているそうですが、その表現方法は正に日本の茶道文化を表面的に真似ていたものでしょう。
お茶は、この時から、既に単なる飲料の交易ではなく、喫茶にまつわる文化も含めた交易という形をしていたのです。
そして、その後、お茶はオランダからイギリスに伝えられます。
日本の鎖国により交易の中心が中国に移ってくると、イギリスでは徐々に香りの強い紅茶が人気を博していくようになります。
また、その飲み方もイギリスのスタイルを確立していきます。
お茶を提供する際、以前から親しみがあったミルク、そして当時の富の象徴でもあった砂糖を添えるようになるのです。
高価な輸入品で彩られた贅沢な茶会は、イギリスを象徴する文化にまで昇華されました。
さらに、産業革命によるイギリスの国力増加は、上流階級への憧れとともに庶民にまでティー文化の広がりをもたらしました。
お茶の需要は急増し、貿易量は増大します。
そして、巨額の貿易赤字を抱えたイギリスは、最終的には悪名高い三角貿易にて中国にアヘンを売りつけ、1840年に中国にアヘン戦争を引き起こすまでになるのです。
お茶が、イギリス人の生活習慣を変え、それが固有の文化へと昇華し、さらにその文化が次の歴史を作っていくのです…。
中国の喫茶文化
そもそも、中国で、お茶を“文化”へと高めた最初の人、それは唐代の文人・陸羽です。
喫茶の習慣自体は、中国四川省あたりで数千年前から広がっていたとされています。
周王朝が中原の覇者として君臨していた頃、既に巴(四川省)の特産品として王朝にお茶が献上されている記録が残っているようです。
その喫茶の習慣が本格的に広がり、成熟期を迎えるのが唐の時代です。
陸羽が登場し、史上はじめてお茶の専門書「茶経」を著し、お茶に関するさまざまな知識を紹介する一方、正しいお茶の煮方や飲み方を推奨しました。
当時は、新鮮な茶葉を蒸して酸化を止める「蒸青」という緑茶の製茶法が用いられており、さらにそれを型に入れて「餅茶」という固形茶の形にして流通していました。
固形茶になったことは、お茶を中国各地へ運搬することを可能にし、喫茶文化を広げることに一役買いました。
また、固形茶の形で入ってきたお茶は、飲む際には薬研で粉末にしてから(末茶)、釜で煮て飲むことになります。
陸羽は、最高の味が楽しめるようにと、こうした喫茶に必要となる道具や茶器も考案し、使い方だけではなく茶器製造の材料まで一つ一つ紹介しています。
この「茶経」は、その後の喫茶文化に、非常に大きな功績をもたらしました。
これにより、お茶は、単に飲むというだけの生活習慣から、斬新で閑雅な喫茶様式として確立したのです。
博多にお茶が渡る日
唐代に喫茶文化が流行ったのには、もう一つの深い理由がありました。
禅仏教との関わりです。
禅仏教は、とりわけ厳しい戒律を僧に課しており、特に座禅時の睡魔を取り払うため、カフェインによる喫茶の効用を利用しました。
禅宗自体は、南北朝時代に達磨が広州に上陸し中国に伝わってくる事になるのですが、実際に中国内で広がりを見せるのは、唐代から宋代にかけての時代になります。
そして、喫茶の習慣は、禅宗の広がりと共に、中国中に広がっていく事になるのです。
そんな中、12世紀、博多から一人の僧が海を渡ります。
禅宗を日本に伝えた栄西です。
当初、天台宗の立て直しを志して中国へ渡った栄西だったのですが、当時、南宋の仏教界は既に禅宗一色となっていました。
そこで、栄西は改めて禅宗を学びます。
そこで、禅宗と共に、そこで活用されていた喫茶文化も学ぶことになるのです。
1191年、栄西は博多に帰国しました。
そして、日本で最初の禅寺である聖福寺を博多に創建します。
この時、栄西は、座禅の時に必要となるお茶も持ち帰りました。
栄西は、中国から持ち帰ったお茶の種子を佐賀県脊振山に植えて栽培を始めたと言われています。
さらに、1211年には喫茶の効能や製法について「喫茶養生記」にまとめ、1214年には時の将軍である源実朝に献上しました。
禅宗は、その後、日本にも浸透し、同時に禅宗を学んだ武士階級により喫茶習慣が広がります。
こうした背景のもと、16世紀に千利休が、その喫茶の営みを「茶道」という日本固有の精神文化へと昇華させていくのです。
広州と飲茶文化
明の時代、中国の喫茶習慣は大きな転機を迎えます。
粉末状の末茶ではなく、茶葉をそのまま茶壺(急須)で淹れて飲む習慣が流行し始めるのです。
それに伴い、お茶の製法も、茶葉を蒸して製茶する方法から、釜炒り製茶方法へと発展を遂げました。
そうなってくると、その後の加工工程として、茶葉の発酵度合いの変化によって、異なる味わいのお茶が作られるようになり、更にそれぞれの製法に最も適した茶葉の開発が進んできます。
明代に中国茶は大発展を遂げるのです。
ここから、清代までの時代で、冒頭で紹介した茶葉の体系はほとんど完成したと言われています。
一方、日本には、江戸時代に末茶ではなく茶葉からお茶を飲むという習慣は伝わってきたものの、製法の変化をもたらすまでには至らず、そのまま蒸す製茶法が引き継がれています。
なお、中国の茶の産地は、中国の南方に集まっており、地方ごとに様々な特色を生んでいます。
清王朝は、日本同様、海禁政策をとっていましたが、その中でも唯一交易が認められていたのが広東省の交易都市・広州になります。
中国中のお茶がここに集まり、ヨーロッパと交易を行いました。
そのため、お茶の代価として販売されたアヘンもここから密輸されることになり、1839年に欽差大臣として派遣された林則徐はこの地でアヘンを処分してイギリスと対立する事になるのです。
広州は、今でも「食は広州にあり」と言われるほど美食の都市ですが、その特徴の一つとして「飲茶」料理があります。
朝から、点心といわれる蒸籠(せいろ)に小分けにされた料理をつまみながら、のんびりお茶を飲んで時間を過ごすという飲茶の習慣は、この地方独特のものです。
今でも広州のレストランに入ると、最初に「なんのお茶にするか?」と聞かれます。
そして、その日の気分によって、お茶を選んで飲む。
広州では、今でも喫茶が地域の飲食文化の一部として、重要な要素を形成しているのです。
このように、お茶をめぐる物語には、世界の歴史も、文化も、宗教も深く関わっています。
福岡にも、「八女茶」という地域の有名ブランド茶があります。
陸羽からはじまり、栄西と共に博多に渡ってきた茶の流れの先に、福岡があります。
そして、明の時代に多品種化を遂げ、イギリス人を魅了した中国茶の流れの先に、今の広州もあります。
どうですか?
目の前に置かれたお茶の一杯に、人々が培ってきた歴史や文化を感じませんか?
参考文献
角山栄(2017)『茶の歴史 緑茶の文化と紅茶の社会』中央公論新社.
孔令敬(2002)『中国茶・五感の世界 その歴史と文化』日本放送出版協会.
成美堂出版編集部(2002)『香りを楽しむ 中国茶の事典』成美堂出版.
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