ケトルの湯を沸かしながら「水」がいのちの充填液として精巧な生命のはたらきの根源とあらためておもう
はじめに
けさ起きてねぼけまなこでぼんやりしたまま、いつものようにケトルに水をくんだ。家族ふたりの1日分。夜までこの温めた湯をつかう。家族は家で、わたしはおもに職場で。もちろん牛乳やなにか飲み物や料理からも水分を摂る。
いずれにしても水。これなくしては1日たりともすごせない。あまりに身近にありすぎて客観視する機会のすくない「水」。その存在の重みを生命のはたらきからつらつら記したい。
ケトルの重み
先日、わが家は水道とはべつに湧き水をひいて生活に活用しているとの記事を書いた。
そのありがたみを知るにはとっておきの場にいながらつねには意識のなかにあるわけではない水。
朝、まだ暗いうちにしぶしぶふとんを抜け出し、ケトルをつかみ口から水を入れる。水がもったいないのでこぼさぬようにしっかり把手をにぎり集中する。たいていこの操作でぼんやりした頭がすこし稼働しはじめる。
この過程で目覚めてきて、きょうやることを反芻できる。エンジンのかかりのとろいわたしでもなんとかこのルーティーンにより朝ごはんの準備にとりかかれる。
けさもまったく同じ。ただケトルの把手をにぎると、いつにもなくたまっていく水の重さをひしひしと感じとれた。新鮮な気づき。ああ、これだけのかさの水がからだのなかに入るのか、これで体内の恒常性が保たれるか、と。
水は主張するわけでもなく、主役になるのでもなくからだのなかをめぐり、物質を運んで反応のなかだちをする。栄養となる分子の反応の場をつくり、あるときは溶かしこみ、またあるときはみずからを惜しげもなく差し出しほかの分子へと変える。その過程で反応熱が生じてわたしたちの体温となる。
日々とぎれることなく
わずか数リットルにすぎない水と栄養分をとりつつ呼吸を加味して、このいとなみが休みなく一生のあいだ滞りなく進行する。無意識のままなんの困難さも感じずに。なんとたくみなことか。
くりかえすが意識せずとも進行する。健康であればみずからの身体においてとくに力をこめるわけでなく、苦痛をあじわうでもなく日々なんなくやりすごせている。
スタートはひと組の生殖細胞の受精であり、その胚の細胞分裂にはじまる。植物とてそれは種子の胚でありおなじ。地球上の生命がほぼ同様に水をもとめ、それをなかだちにいのちのバトンを受け継いでいく。
これは1日おきに生命に問いかけをおこなう仕事に向かうわたしにとって、いつになく頭に浮かぶのだが、そのたびごとに新たな驚きがある。しかも生命の精巧さは言葉を失うほど。これを大きな矛盾なく、これほどまで地球の環境に合致した方式で滞りなく何十億年も連綿とつづけてこれたとは。
いきあたりばったり、でも
生命の進化は気の遠くなるトライ・アンド・エラーの歴史。いまのところわたしたちはこの流れのなかで生きながらえている。
でも今後はどうか。地球上で利用できる真水はごくごくわずかにすぎない。こんなにひろい海があるにもかかわらず。その真水をもとめて争い苦しんだ歴史もある。人間とてその点ではまだまだつづくであろう進化の途上の生きものにすぎない。
見かたを変えれば人間の行動自体もいきあたりばったり。どう転んだとしても地球の歴史やタイムスケールを客観的にみればごく小さなできごとかもしれない。1頭の蝶が東に向かうか西に向かうか、そんなカオスのようなぐうぜんに支配されているのかも。
そのかぎは「水」がにぎりそう。
おわりに
ケトルの湯が沸いてきた。さて、日本茶を淹れようっと。朝ごはんに卵を目玉焼きにするかスクランブルエッグにするかなんてほんとうに小さなことだよなあと思いつつ、手を休めるでもなく朝ごはんと昼の家族の食事とお弁当までつくりあげた。きょうのいのちをつなぐため。
さて、きょうも生命のなぞをすこしばかり探りに職場に向かうぞ。
