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どんなことでもやりつづけないと勘が鈍るのはまちがいない


はじめに


 ごくたまにだがやさいづくりを熱心にやっていた頃を思い出し、土の感触がなつかしくなる。やろうと思えばそのままになっている畑がまえの家の近くににあるにはある。たまに立ち寄るその家の猫の額ほどの庭でもやれないことはない。でもやりはじめるときりがないと着手しない。

きょうはそんな話。

ぱっと浮かばない


 この時期にはどんな畑の作業をしていたかとふりかえる。ところが9月下旬に何をしていたかすぐにはピンとこない。そうだ種まき・育苗をしていたとようやく思い出せる。かなりの数のトレイに種子を蒔き、毎日水やりしつつ、芽が出るとポットにつぎつぎ植え替える。一方畑のほうは耕して元肥をいれふかふかの状態にしておく。

ようやくそんなだんどりを思い出した。何年ものあいだ真冬でも室内で、それ以外は屋外で年じゅうそうやって毎日水やりし、苗作りした。日課になっていたのにそれすらようやく思い出すぐらいになりはてた。

習慣とは


 ほかの日常の行動もおなじかもしれない。日課としてやっていることですらふと中断をはさむと、とたんにどうやるのかわざわざひとつひとつ思い起こさねばすぐにできない。はたけしごとは何年かやっているうちに前もってやるべきことがらまで段取りできてスムーズにからだが動いてやれたはずなのに。

いつごろ畑を耕起して、堆肥をいれておくとのちの生育がスムーズで、いち早く販売所に出せるとそんなに算段せずともできていた。年のせいかなとちらりと思うがそれよりもやはり継続のちから。つづけないと何でもこなせなくなってしまうもの。

再開はしないが


 錆びつきかけたあたまには動いていない個所やそのままになっているところがあちらこちらにありそう。思い起こす作業をしないままだとなおさら固着してしまいそう。

再開はせずともあたまのなかでシュミレーションするだけでも違うかな。そうやってできたはずのことがらをつらつら思うだけでもよいのでは。

新たにはじめると


 そのほかにあらたに着手すればいい。過去をふくめてまだ使っていないあたまとからだはどうもまだ残っていそう。そこを開拓すればまたちがう自分を構築できるのでは。

そんな妄想にちかい発想で、ましな行動にむすびつけられるかどうか。やっていないなかでまだやれそうなことをひとつずつでもやってみようか。すでに人力に頼る農業はすでに残された体力では再開はなかなかむずかしい。

その理由は燃料をつかう作業はどこかうしろめたく、人力だけでどうしてもやりたいから。おそらくひとりでほそぼそとやるなかで燃料をさまざま使ってはもっともエネルギー効率がわるくなるだろうし。

おわりに


 こうしてさまざまやらない理由や口実を理由に畑づくりをやろうとしない。わたしのような中途半端なやりかたでは、まわりの慣行的なやり方で野菜作りをされる方々に迷惑をかけかねない。畑で災いを生みかねないことをしでかしてはよくない。

ほかで人様の迷惑にならないことでやれることをしようとつねづね思うし、実際にそんな活動ならば周囲の方々も安心していられる。何度も記すがわたしのいたらぬ動きが、知らないうちに周囲に支障をあたえてしまうのだけは避けたい。どんなことでもやりつづけないと勘が鈍るのはまちがいない。そこをわきまえようと思う。


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