週3回ほど通勤で行き来する交差点に公衆電話ボックスのあることに気づいた
はじめに
いつもどおりにどっぷり浸かりながら生活していると無意識でできたことがいちいち思い起こさないとできない。ふだんづかいの使用頻度が低くなるとそう。たとえばレコードをかけるにはプレーヤーやなにかがいるし、銭湯には何をもっていき、どんな手順をふめば風呂に入れるんだっけとか。
なにも考えずにやれたことがひとまず思い起こさないとできない。そのうちおっくうになってしまうのか。
きょうはそんな話。
ふだんづかい
たいらな街ぐらしはじつに何十年ぶりだろう。学生生活とそのあと独身のころの10年弱以来。いつも引っ越し先には坂があり、風景は見わたしのきかないところが多かった。それなのになぜか自転車をつねに利用。乗るより坂を自転車を押して行き来する時間のほうが長かったはず。
今こそ自転車が使えるはずなのに利用しない理由がある。
めんどう
上に記したように自転車を長く利用してきた。いままでの住処との行き来をふりかえると自転車に乗る時間はそうじて短く、坂を押しているほうが圧倒的にながい。坂を歩いて登るだけでもつらいのに、重い自転車を押して登る。あらためて考えると自転車とは坂を押して登る道具といえる。使用時間だけみるとたしかにそう。なんのために利用しているのかわからなくなる。
そして今は平らな街なかでの暮らし。自転車はさぞかし利用しやすいかもしれない。だがさいわいにもまだ歩ける。歩いて不自由しない範囲にさまざまそろう。自転車はどうだろう。どこへ向かうにも乗るのは数分間に満たないはず。
道具は
使うと消耗するのは経験済み。車体が濡れればすかさず拭かないと錆びるし、タイヤの空気入れやブレーキの点検は怠れない、油さし、電球の交換、その他諸々のメンテナンスなど。昨今はヘルメットの推奨、防犯登録、ルールの厳格化。やむを得ないだろうがもうめんどう。歩いたほうがいい。
乗らなくなるととたんに何が必要かわすれるばかり。ひとつひとつ思い出して使うのは面倒この上ない。転倒するとむかしのように動けない。けがナシで済まないだろう。ここでズボラな性格が顔を出す。めんどうこのうえない。もはや乗らないほうがいい。そんな道具が身近にいろいろありそう。
電話は
たびたび使う交差点での信号待ち。斜めまえの交差点角の「見慣れぬ」ものに気づく。どこかまわりとなじんでいない。それもそのはず。四方を透明に囲まれた電話ボックス。第一印象は「こんなところにあったんだ。」ふだん週3回ここを通勤で信号待ちするのに気づかなかった。
使わないと視野のかたすみにすら入らないものらしい。関心がないモノの存在には気づけない。とうぜん抱える問題にはなおさら目が向かない。どんな場面で利用するのだろう。
ひとりで近くに頼るヒトや場所がなく、たとえばスマホの故障、電源切れ、なくした時だろうか。考えはじめるとどれぐらいの頻度で利用されるのか。多くのヒトが行き交う場所だけに色々なシチュエーションが想定され、必要だと判断されたにちがいない。
おわりに
学生時代、ひとり暮らしのころは下宿の大家さんに借りていた。そののち社会に出ても電話をひかず、必要なときはそばの公園から公衆電話をかけていた。つまりわたしに連絡をとるには手紙やはがきか電報。あるいは家に来てもらうしかない。
待ち合わせとかよくできていたものと今になって思う。相手のことを考えると電話をつけるべきだろうし、世のなかが当時はそれでかまわなかったのかもしれない。のちに「わたしがつかまらない」とまわりからの強いすすめでPHSをもったのはずいぶんあと。
もはや以前のことなので上で記したようにやらなくなると忘れてしまいわからなくなってしまう。
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