手持ちの何着かのスーツをどうしようかと思案をはじめた
はじめに
勤めていた頃はそれなりにしごとでTPOに合わせてスーツを着た。公的な場ではこれはやむを得ない。ところが自営業で学習サポートをやりはじめて以降の20年。ほとんど着る機会がなくなった。ごくたまに行われるなんらかのパーティー、業者の会合や展示会に出るときぐらいだろうか。
クローゼットのなかにはこうした着なくなった何着かが思う以上に場所を占める。今後も賃貸住まいは間違いない。それらを必要としないならば、もはや一部を残して処分していいのではないかと思った。
きょうはそんな話。
よく着た
前職のほうがまだスーツを着る機会が多かった。給与をもらうしごとはいずれもそうかもしれない。みずからの意に沿わなくてもやむなく着たといったほうが近い。やはりその場にふさわしく、相手への謙譲として着るもの。きちんとしたといった言葉がよく似合う。
しごと着としてきちんとしているだけでスイッチが入り、その場所に心身ともに入りやすくなる。いわば身分証明証を表しているかのよう。当然入口でのチェックやあつかいも違ってきそう。オフィス街では違和感なくその場所になじんでしまえる。目立たなくなるといっていい。
ところが一転してこれがふだんの中山間地のまわりは畑ばかりのなかでは、同じ姿では途端に悪目立ちしてしまう。その場にそぐわない。さらに飛行機に乗る場合、スーツ姿とカジュアル姿ではそもそもそのときの気持ちがまるでちがう。
やはりTPOの服装として最たるものかも知れない。
服装で
スーツ姿だとやはり、おなじ言葉を発しても相手の方の受け取り方がこころなしか違って見える。おなじ肩書であってもスーツを着てネクタイを締めているだけでずいぶん上乗せ分がある気がする。
したがって、ふだんスーツ姿しか見たことのない方が、とたんにカジュアルな格好で現れるとこちらはどう対処したらいいのか一瞬迷う。姿でずいぶんその方に対する受け取り方が変わると知れる。これはある程度仕方がない面があるかもしれない。
わたしの親が小学校に父親参観に訪れたあと一緒に帰り道で、「校庭で熱心に庭仕事をなさる用務員さんと会話したと話した。「ああ、その作業着姿は校長先生だよ。」と伝えると目を丸くした。日ごろからそんな先生のようすをわたしたち生徒たちは見慣れていた。
医師は白衣やそれに類するものを着ているイメージ。もしもかかりつけの医師が、街でわたしたちのふだんとおなじ出で立ちならば「おや?」と思うだろう。
職業にふさわしい格好や衣装というものは少なからずあり、わたしたちはそれで一種の固定されたイメージとの一致で安心感のようなものを得つつ接する。
ところが
働き方が変わりほぼスーツを着る機会はない。さらに真夏ならばいちばんふさわしいはずの場所でさえも軽装でよくななった。もはや真夏のスーツ姿は避けていい。ネクタイ姿では「かたくな」にすら見えてしまうほどに。
時代が変わればおのずとこうした習慣もすこしずつだが変わる。それでも学生さんたちの就職活動は例外中の例外かもしれない。たしかに一世一代の大事な場面かもしれないが、真夏になぜ上着なのだろうと思ってしまう。ネクタイで首まで覆い、炎天下を出歩く服装とは思えない。
おわりに
もはや今のわたしはスーツを着ずともだれからも咎められるわけではない。もっともしっかりしたものほど着ないのは何とも皮肉なもの。もはやそれに準じる服装を準備していればいい。たとえばネクタイなしのブレザーに相当するものでちょうどよさそう。
やはりあきらかにこの年齢になり、着る機会のないものから処分していくのがよさそう。賃貸住まいで不要なものの保管にお金を月々払っていることを考えるとなおさらそう思えてきた。
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