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生活に密着していて愛着の湧いてくる路面電車のある生まれ故郷

はじめに


 路面電車のある八幡の街に生まれた。北九州市はこの八幡をふくめ5市が合併してできた政令指定都市のひとつ。人口は100万を超えていた頃があった。くしくもわたしがこの街をはなれた年が人口のピークだった。当時は市の東の端から西の端近くまで西鉄(西日本鉄道㈱)の路面電車の路線が伸びていた。さらに市役所のある小倉と副都心の黒崎駅前からは南北に、そして戸畑方面にはぐるりと大まわりする路線まで。

バスや国鉄(現在のJR)もあったが、細かく電停があるおかげで主要な場所にむかうにはべんり。高校通学に活用していた。近年、全国でみると一時は廃れつつあるのかと思われた路面電車の一部はLRTのかたちで見直され、あらたに路線延長などのうごきがある。

きょうはそんな話。

国道沿いに


 明治から昭和にかけてのこの地域の路面電車の路線の変遷は、西鉄ウエブミュージアムに。

これらの路線のうち、よく利用していたのは八幡と小倉や門司をむすぶ北九州本線。国道3号線というこの街の幹線道路を通行していた。

明治末の路線は「平和のまちミュージアム」のHPなどにある。NHKアーカイブスには北九州線の映像


高校通学に


 この北九州本線を高校通学のために利用していた。多くの方が学校の歴史の授業で学ばれた「官営八幡製鐵所」は統合整理され、八幡地区は斜陽にむかいつつあった。

当時の新日本製鉄八幡製鉄所をはじめとする北九州の八幡エリアの工業地帯の内陸沿いを西から東に日々往復。ようやく煙突からのばい煙などがすこしずつ収まりつつあった時代。

信じられないかもしれないが小学校当時はこの「製鉄所」の「起業祭」の日は学校が休みだった。それほどの企業城下町。その衰退や整理の影響は計り知れないほど。従業員の暮らす地区の大きな団地がまるごとなくなっていく時代だった。

そののちにモータリゼーションの進行により、主要な幹線の通行に支障が出るとのことで路面電車はつぎつぎに廃線。小倉の北方線の一部がなんとかモノレールのかたちで置き換わり、八幡西区に筑豊電鉄(筑豊電気鉄道㈱)が筑豊直方(直方市)まで残るだけに。


そして国道も


 ひさしぶりに北九州の黒崎や小倉をおとずれた。国道3号線に路面電車の軌道と架線がなくなりすっきりはしたものの、どこでも見るようなよそ行きの街になったようで、街や沿線をかたちづくっていた一部が欠落したようなふうに感じた。

やはりさびしい。とくに路面電車の結んでいた八幡と小倉、それと八幡の南北方面はいずれモノレールで結ばれる計画があがっていた。それらは実現せぬまま現在をむかえた。路面電車の代替に西鉄バスが縦横無尽に走るとはいえ、一抹のさびしさが残った。

最近は黒崎駅前の国道3号線の車の往来が少ないらしい。これはおそらく尾倉方面から黒崎へと3号線バイパスが伸びたおかげかもしれない。そちらへ車が迂回し、黒崎駅前付近では車の通行がわりとスムーズになったのかも。もしかしたらピークから14万の人口減もそれに寄与しているかもしれない。

おわりに


 こうしてたびたび生まれ故郷のようすを垣間見ると、通学していたころに想像した将来とは一部ちがう。それもしかたない。日本全体で人口減がはじまりすでに10余年。北九州市は企業の事情でそれ以上の減り方。

このところ宇都宮などでLRTの新路線の開通や延長が話題にあがった。おなじ時間帯に、路線上で両方向に都合よく顧客のある状況があると成立するということが明らか。

北九州にそんなエリアがあるかどうかわからない。とはいえ八幡西区の南部、若松西の地区、小倉の南区などはさまがわりしつつある。ほぼ平地がのこっていたので、まだ発展の余地がありそう。八幡西区に筑豊電鉄がかろうじてのこったのはほかに代替するものがなかった以上に、潜在的に往来の需要があるのかもしれない。

先日、60年ぶりに北九州市の転入がふえたというニュースが。それから市外だが直方近辺には山陽新幹線の新駅の案がふたたびあがっているらしい。

最近は工場夜景ならびに皿倉山からの街の夜景で観光名所に。

わたしにのふるさと。市の職員に応募、内定をいただきながらそれに応えられなかった。これからも末永くバランスよい街としてつづいてほしい。

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