見出し画像

映画「舟を編む」を観て:「世間ずれ」の意味が最近は常識からはずれることを指す誤用が目立つ理由を考えた


はじめに


 この映画は辞書をつくる出版社の編集者の話。原作は三浦しおん氏。教育に長くたずさわるわたしは、使う語を確かめるためいくつかの辞書を手放せない。とくに国語辞典はいつでも引けるように手もと近くの棚に。不確かなまま使うのは生徒たちへの影響を考慮するともっとも避けたい。辞書は安心して使えるこころづよい存在。

おそらく映画に出演した方々のようなこころもちの人々によって作られているだろう。とはいえそんなヒトビトもやっぱり人間。辞書づくりにたずさわるなかでの人間模様。ネタバレせぬよう気をつけつつ記したい。

きょうはそんな話。

変わり者


 世間からみると、このヒトって変ってない?はさまざまな場面で遭遇する。よく見ると世間とはそんなヒトビトのあつまりでじつは成り立っていないか。ふとそう思う。変わりぐあいを極めていくとけっこう特異な存在になれるのかも。むしろそんな「とんがった」存在が世界を動かしたり、大きな影響を与えたりするかもしれない。

映画「舟を編む」は辞書の編纂に取り組むなかで物語がすすんでいく。そこに従事するヒトビトの生き様からさまざま考えさせられた。結局のところこうして人力中心の労苦でつくるしかない。ちょうどコンピューター(そういえばコンピュータの表記もあり)の活用前夜から間もない頃といっていい時代の物語でもある。当時はおそらく実際にこれに近いかたちで辞書がつくられただろう。

ふつうのヒトビト


 話をもとにもどそう。本来の意味どおりの「世間ずれ」した人物たち。そうした生の声や発する語を生きざまとともに拾いあつめる作業なのかとあらためて気づいた。真っ当な見方をすれば主人公は「世間離れ」、そしてある登場人物はまさに「世間ずれ」タイプかもしれない。

世のしごとは数々あれどそれへの適性はどうやってできるのだろう。自覚してしごとを自ら選ぶ時点でもはや備えているものなのか、それとも配属された先で徐々に順応した結果、醸成されつつできあがっていくものなのか。

たずさわる期間


 ものづくりにたずさわるのに辞書づくりはけっこう時間のかかる作業に違いない。たえず生まれ、その一方で廃れていく言葉たち。編纂に時間をかければかけるほど陳腐化しかねない。流行語などはなおさらそうかもしれない。それぞれの辞書で役割や違いがありそう。

そんな語を自由に取り入れて使う層がいる一方で、古い語をうまく活用して言い得て絶妙に表す方々もいらっしゃる。さまざまな階層や利用者に向けて利活用される存在が辞書。もちろん連綿と作業をなさる方々は気の遠くなる作業を地道におこなうにちがいない。

おわりに

 意外とわたしはこうしたコツコツ作業向きのほうかもしれないなと観ながら思った。世間の流行語については疎いほうかもしれないが、以前から言語学に関しては興味関心がある。

映画を観ながらふと思った。もう一度記すが、この映画でけっこう大事な役まわりの人物はじゅうぶんに「世間ずれ」して見えた。「世間離れ」した主人公はこうした周囲の人物たちとの交流をつうじて徐々に折り合いがついていく。

この「世間ずれ」という語は世間の諸事情に通じていることを指し示していた。世渡り上手な意味合いも。ところが最近は用法が「世のなかの常識からはずれていること」を指すように誤用されがちという。つまり「世間離れ」化しつつある。この言葉すら映画のなかの人物たちのように揉まれて変わりつつあるのかもしれない。


こちらの記事もどうぞ


広告


ここから先は

0字
あれもこれもと首をつっこむ性分。自身の1000記事のなかからえらんだテーマごとの30編余の選集。

ヒトとヒトのあいだ。なんで「人間」と書くのだろう。つきあう範囲は限定された広くない空間だけれど意外なつながりも。ふりかえるとふしぎな出会い…

Amazon Payで支払うと最大2%還元のチャンス! 9/30まで

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?