幼い頃に運転したゴーカートを彷彿とさせるEVの運転を通じて、これからの時代に人がやることをふと思った
はじめに
EVを運転するようになり5日目。3回目の運転は雨降りだった。早朝の雨のなか、数台しかまわりにいない道を進む。レーンキープの監視を車にされながらわずかなハンドル操作と、アクセルペダルを浅く踏むぐらいでほぼワンペダル運転で、電子制御がずいぶん進んだと感じる。そこから派生して、おそらく将来は、わたしの世代では市中で利用することはなさそうな自律型の自動運転車のイメージ。未来の社会に向けて、思い浮かぶことを記した。
きょうはそんな話。
人がやること
雨の中を車で進みながら、ボタンひとつで基本的にアクセルペダルだけの操作で車の加減速までやってしまう。雨の中でもブレーキペダルに足を移動させる手間が少ないというか、やることが少ない。車内が静かな分、これまでの車内でどうしていたかを思い出せない。静か過ぎるのもと思い、ラジオを聞く。そういえば前の車では同じ音量が、エンジン音でこんなには聞こえなかったと思い出す。
その延長で、幼い頃にゴーカートを運転したのを思い出した。骨組みだけの車体のエンジン音が大きく、連なって走る車の音も相まって他の音は何もわからない。あれも基本的にはアクセル中心で、ほぼワンペダルだったような⋯。ようやくハンドル操作に慣れた頃合いで、ブレーキを踏むのは基本的にゴールにたどり着いて、おしまいの合図に過ぎなかった。
集中を保つには
日頃の習慣からか、運転中はある程度の音に囲まれている方がかえって集中に良さそうだと思った。さまざま自らで操作の必要だった前の車以上に、この新しい車では何より周囲へより目を配る意識を持とうと思った。
今回、前の車に付いていた追従機能やハンドル操作をアシストする機能などの付加を選べたが、もはや高速道路に上がるつもりはないわたしにはいずれも必要なさそうでお断りした。むしろボタン操作に気を取られてしまいそう。ハラハラしながらの車任せもどうかと想像した。
今回の車にはブレーキペダルをさまざまな状況下で足を離してよいしくみが備わる。だが、しっかり理解を進めてから利用しようと思った。何かしら自分の操作や理解にあやふやさがあるまま使いたくないし、便利だからといってそれに頼るのは本末転倒。思わぬことへの予測ができないうちは使うまいと思った。「思わぬこと」は結局、操作する側、つまりとっさに予測できないまま使うわたしの方にあるだろうから。
この先には
おそらく、様々なコンピュータ制御の先には自律型の自動運転の目標があるに違いない。だが世間の道路の様子はじつに多種多様で、どれだけコンピューターが進歩したとて、その判断に任せていいのかと思ってしまう。
例えばPCを日常で操作するのが自分である以上、導かれて出てきたデータには自らの行為に対する「何かしらの疑わしさ」を内包しているような気がしてならない。どこかでミスしたまま操作を続けていないか、気づけないままの間違いを犯していないかどうか…。
おわりに
99%まではどうにか正常そうに操れたかのように見えても、最後の1%であっさり間違いが表出し、トラブルを生じてしまう。コンピューターや情報科学に関して、わたしは学校などで教わった機会のなかった世代。若い頃から独学だった。もちろんその時々で修正を図ってきたつもりでいる。でもどこかに大きな勘違いや何かをしでかしていないか、未だにそんな気持ちになってしまう。
確固とした方々を通じて教わっていない、どこかに置いてきてしまった一抹の不安というか、怪しさを持ち合わせたまま。車の運転に関しては安全が第一なのでそれは避けたい。やはりこのくらいのレベルで抑えて使ったほうが周囲の方々、さらに家族とわたしにとっては身のためかもしれない。
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