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どういうわけかこのところ夜空の星を見上げていなかった


はじめに

 日ごろのなにげなくやる習慣は何か月かごとに一部が変わるのかもしれないとふと思った。たとえば職場の学習室や実験室を掃除したり、本を図書館で借りたりといったこと。いつやってもべつにそんなにちがいはないかもしれない。いつもおなじ時間でそうしがち。順ぐりに習慣化してはいつのまにかとぎれる。最近やっていないと思ってふたたびやりはじめる。

きょうはそんな話。

いつのまにか

 たいていおなじ行動をほぼおなじ時間にやっている。それがいつのまにかとぎれては思い出したように再開。それをくりかえす。どうも思い返すとそれが数か月の周期のよう。

あきてながくつづかない性格なのか、それとも移り気なのか。いずれにしても再度はじめる場合もあればそのまま何年間ものあいだ放置したままのものも。後者のいちばんの例は絵を描く作業。

やりはじめると部屋中ひろげてしまうぐらいだが、着手する(つまり再開する)までがけっこうかかかる。たとえばいい絵を美術館で見たあとなど、触発されてまさにたね火がわっと大きくなるように、筆をもつ。

途絶える

 いつのまにか熱をいれてやっていたのにある日とつぜん中断してしまう。つぎの興味をみつけたとき、あるいはふとやりつづけるのに意欲を感じなくなるとき。それらはいずれもある。気ままなこどものよう。べつの興味をみつけて移りがちなのは自覚している。

そんな「残骸の山」を築いていきがちなのには気づいている。それでモノが増えたり、似たものが積み重なったり。断捨離を実践する際にこれがいつも懸案としてのこりがち。あとやるかも知れないからとっておこうが口ぐせに。

きもちの変化

 中断と再開にはたしかにわたしの内の変化をともなう。長らく間があいたのちに、ふとやろう、いまがそのタイミングともうひとりの自分がささやく。

そう思いはじめるとうずうずしてはじめたくなる。そのきっかけになる要素が必要。上にあげた美術館で触発されるほかにも身近なヒトのあらたな面を見つけたときなどもそう。ふだんは見知ったヒトでもある面だけで見てしまいがち。ほんとうは知りえぬ面があるのがふつう。「じつは…。」とか「本当は⋯。」など話を聞いてしまうと触発される。そのタイミングにじゃあ自分もとやりたくなる。

ひさしぶりに

 職場にむかう早朝の車内。信号停止中にふと空をみあげるとじつに細い月。こんなに高い位置にここまでごく細く欠けた新月を見るのはめずらしい。そういえばながいあいだ空を見上げていなかったと思う。

余裕がなくなっているのかと頭をよぎるけれど、そういうわけではなさそう。ほかに興味が湧いたり関心が起きたりするときもおなじようにそうなる。そんなふうに気づけると、意外とあらたに集中が移ったさきのほうによいアイデアなどが派生するもの。これはいままでの経験からそう。

おわりに

 こうした「気づき」があるときはたいていあらたな興味への移行期間。これまではそうだった。なにかつぎの関心を生みそうなものがそばに近づいている気がする。


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