見出し画像

ヨハネス・フェルメールの絵を何度か模写していて気づいたこと


はじめに


 絵のたのしみでデッサンとともによく模写をする。公民館の図書館には信じられないほど立派な画集がそろっている。大判のためか一部は書庫に。ほとんど手にとられたことがないほど。いずれもおそらくわたしが借り手としてはじめてページを開いたぐらいではないか。

大きなサイズで見ると、ヨハネス・フェルメールの絵はいずれも息をのむほど。今度はどれを模写しようか迷う。外形がとれたら、もちろん画集をよごしてはならぬのでただちにとじて返却。印象を目に焼きつける。あとは手もちのちいさな画集や美術館のサイトで確認しながらの着彩。作者がやろうとしたことのごくごくわずかを知れるに過ぎないけれど。とてもためになる。

きょうはそんな話。

模写はたのしい


 デッサンとともに、やはり色をつけられる模写はどんな画家の作品でも興味深い。油絵ならば下書きと下塗りまで、そして乾かしたあとの着彩2回ほどで完成。なるべくちまちまやらずに大づかみするつもりで。あまり細かなところに固執しないように心がけているつもり。

大まかでもなにかしらひとつつかめればさいわい。模写でのたのしみやまなびはそれでいいと自分なりに位置づけている。

もとの絵は模写をとおしてかならず語りかけてくる。いずれの作品も画家が渾身の力で描いた作品。敬意をはらいつつ本来ならば実物の作品のそばで模写するのが理想。フランスの美術館ではそんな模写をする方々のようすを見てあこがれた。それだけ作品をつうじて画家の人となりや絵の特徴、独自性がにじみでているようすにじかに接することができる。

この作品も


 今回は「真珠の耳飾りの少女」。はじめてこの作品を見たのはおそらく中学か高校のころ。それ以来気になっていた。しかしその衣装やあたまにつけたものはどこかなじみのない文化圏のもの。もちろんそれ以来、この絵の印象は強く残っていた。しかしのちに模写をするなんてかんがえもしなかった。

どちらかというと若い頃は、おなじ人物画でもコローやルノワールなどを模写の対象にしがちだった。まさかフェルメールのしかもこの作品を模写しようなどとは思いもしなかった。

年をかさねてくると


 ところが年をかさね興味の対象は移り変わる。この画家はどうもちがうと気づいた。彼の作品から共通して感じるのは静謐。いずれの絵からも周囲の静けさと独特の空気感を受けとれる。はたしてそんな感じをすこしでも表現できるだろうか。

模写をしてみようと着手。絵に向かうとそれなりにわずかでも表現できたように感じるからふしぎ。フェルメールの絵のどこにそんな手がかりがあるのか。まだ実感としてこうすればよいというのに気づかないまま。しかしそれなりにその印象は模写したほうにも感じられる。やっぱりふしぎ。

おわりに


 手がかりに気づかないままの結果になっているがそれでかまわない。みずからの表現では表面的になぞっただけにすぎないのはわかっているつもり。絵の本質は⋯などと語るのはおこがましいし、到底そんな域までわかったふうに語るつもりもない。ただ楽しみでやっていること。

そんな域は永遠になぞとしてとっておきたいぐらい。

こちらの記事もどうぞ


広告


いいなと思ったら応援しよう!