夏至の神武ラインと冬至の玉置ライン|磐座とは何か?|令和の竹取物語#1
前回は、日向から見た夏至の日の出の方角を神武ラインと定義しました。その続きを書いていきます。
夏至のラインがあるのですから、対となる冬至のラインももちろんあります。
夏至のラインの起点が日向の大御神社であるのに対し、冬至のラインの起点と考えられるのは出雲の日沈宮です。日沈宮と言うと今は日御碕神社を指しますが、古くは経島にありました。
経島
かつて島には、日御碕神社の天照大神を祀る日沈宮(ひしずみのみや・下の宮)があり、天暦2年(948年)に日御碕神社へ遷座している。現在も日御碕神社の神域となっており境外社・経島神社があり、年に1度の神事に携わる神職などのほかは上陸が禁じられている。
この経島から冬至の日の出のラインを地図上でなぞってみると、出雲大社の真の御神体と言われる八雲山があり、和歌山県の日前宮を経て、奈良県吉野の玉置山へ至ります。

逆に玉置山から経島の方向を見た場合は、夏至の日没のラインということになります。これが「日沈宮」という名の由来なのかもしれません。今回はまず、玉置山の謎を追ってみましょう。
玉置山と崇神天皇
大峰山系の南端に鎮座する霊峰、玉置山。昔は人里から遠く離れていて、道中には危険も多かったため「呼ばれた人でなければ辿り着けない」と言われていました。辿り着けないというのは要するに死ぬという事であり、誰でも車で気軽に行けるようになった現代とは違い、相当の覚悟が必要だったのです。

玉置という名は、神武天皇がこの山に十種神宝のひとつである「玉」を鎮め置いたことが由来とされています。
それなら玉置神社を創建したのは神武天皇という事になっても良さそうですが、しかし玉置神社の由緒には崇神天皇が創建したとあります。ここでも重なり合う神武と崇神の両天皇。その背景には何があったのでしょうか。
この謎を解く鍵は、玉置山の山頂近くにある玉石社です。
玉石社
古代、神武東征以前から熊野磐座信仰の一つとして崇められてきた玉石は、 玉置神社本殿と玉置山頂上中程に鎮座します。社殿がなくご神体の玉石に礼拝する古代の信仰様式を残しています。
玉置神社の基となったのが、この玉石社と伝えられ、玉石に宝珠や神宝を 鎮めて祈願したと伝わっています。大峯修験道では、玉石社を聖地と崇め、本殿に先んじて礼拝するのが習わしと なっています。
磐座と古代の祀り
歴史ある神社で御神体とされている事が多い磐座。神が宿る依代と言われることもあります。そもそも磐座とは一体何なのか?
まずこの問いに答えが出せない限り、玉石社や玉置神社の創建の謎は、推測することすらできません。私はこの問いについて、実体験に基づく仮説を立てています。以下はその仮説です。
縄文・弥生系の先住民族の中には、岩の前でカミマツリする文化を持っていた人々がいました。
人が特定の場所で繰り返し強く祈ると、目には見えない思念の波がその場に残ります。イ(意)をノル(宣る)からイノリ。場に残るのは言葉ではなく、霊と呼ばれる思念の波です。
特徴的な岩は、先人たちがどこでイノリを行ったかを示すための目印です。硬く重い岩であれば、よほどのことがない限りその場に何千年も変わらず残り続けます。ですからイノリの目印としては、一目でそれとわかる特徴的な巨岩がもっとも好都合でした。
磐座に宿るカミとは、先人のイノリの波=ヒであり、五感では知覚できない領域の物理を利用した「現象」です。このヒに共鳴し、そこから先人のイノリを言語化する才能に優れる者は、ミコ(神子=巫女)として人々から敬われました。
ミコはそれを言葉として為政者に伝え、そして自らも先人が行ったようにヒを磐座にノらせ、後世に伝える。天皇の後継者を意味する日嗣御子という言葉は「霊を継ぐ神子」に由来すると考えられます。
政治の事を古くは「マツリゴト」と呼んでいました。磐座の前で祈ること、ミコがその先人の祈りをヒとして受け取り言語化すること、それを為政者に伝え、より良い国作りに活かすこと、そこから学んだことを再び磐座の前で祈り同様に後世に伝え残すこと。この螺旋状に流れ移ろう形態がマツリ(祀り)です。ここには信仰という要素は全くありません。
「私の実体験に基づく仮説」という点が気になる人が多いと思いますが、それについて語るだけでかなりの長文になるのでそれ単体で記事を書きます。
追記:書きました👇
玉置山の玉石は、土の中に巨大な岩が埋まっていて、見えている部分はほんの一部分に過ぎないと言い伝えられています。

この磐座には、神武天皇──籠目のレイラインを構築した謎の一族──に関する何か重要な情報が、先住民族の祈りとして込められていた。つまり神武天皇が鎮め置いたとされる玉とは、物質ではなく御霊、祈りの思念です。ヒもタマも同じ意味ですね。
それを代々守っていた先住民族も、大和盆地を支配した崇神天皇とその後の王朝によって、次第に支配下に置かれていったと考えられます。
崇神という諡号が「神を崇める」と書くことからわかるように、崇神天皇は
古代中国に起源を持つ唯一神、太一の信仰心を利用する国作りを行いました。
彼らには、岩を前にして先住民族が祈る行為が何なのかは、想像することさえできなかった。怪しいまじないにしか見えなかったことでしょう。そんな理解不能な磐座と祀りの精神文化を廃れさせ、民族統一を推し進めるためにも、唯一神信仰の布教は崇神王朝にとっての至上命題でした。
次の岩戸閉めは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、そろってお出まし近くなって来たぞ。
崇神王朝は、先住民族にとって最も大切な聖地の一つである玉置山を封じた恨みが悪霊となって王朝に災いをもたらすことを恐れ、悪霊封じを行った。それが玉置神社の起源と考えられます。玉置神社では今も「悪魔祓い護符」を配布しています。

注連縄
もちろん玉置山だけではなく、各地の先住民族の磐座と祀りも崇神王朝によって封じられていきました。磐座に注連縄がかけられているのを見た事があると思いますが、この風習の由来はやはり古代中国に起源を持つ注連です。
中国における注連は、死者の霊がふたたび家に帰ってこないようにするために縄を張る風習でした。磐座に注連縄をかけることで、先住民族のカミ(=先祖)の霊が磐座に宿らないようにする封印を目的として、崇神王朝が始めたと考えると辻褄が合います。
縄は所詮ただの縄に過ぎずなんの効力もないのですが、先住民族が言う霊の概念が理解できず、注連縄を磐座のカミ封じに使おうと考えたんですね。
現在、玉置神社の主祭神は国常立尊となっています。崇神天皇が最初から国常立尊を祀っていたとは考えにくいので、後世に祀られはじめた可能性が高いです。
最初に書いた通り、修験者は本殿よりも玉石社を先に礼拝するのが習わしです。私の推測通りなら、修験者は先住民族の意思を密かに受け継いでいたとも読み取れますね。玉置山に限らず、籠目のレイラインに乗る聖地には必ずと言っていいほど山伏と修験道が関係しています。
山伏とは何者だったのか。古代ユダヤの装束や風習と酷似していることにはどんな理由があるのか。崇神王朝が唯一神信仰を推し進めたとして、そこから日本が今のような八百万の神々の国へと生まれ変わったのにはどのような歴史が隠されているのか。今後はこれらの謎の真相にも迫っていきたいと思います。
今回紹介した経島と玉置山を結ぶラインが冬至の日の出の方角だからと言って、それだけで神武ラインと対になると言い切るには根拠が弱いと言う人がいるかもしれません。その根拠を書いて今回は終わります。

ラインが交差するところに、日前宮があります。この日前宮のほぼ真北に、籠神社とその奥宮、眞名井神社があります。

籠神社は言わずと知れた元伊勢で、伊勢神宮よりも先に天照大神・豊受大神を共に祀っていた唯一の神社です。
日前宮は正式名称を日前神宮・國懸神宮と言います。全国的にはあまり有名ではないかもしれませんが、極めて重要な神社です。
平安時代以前の律令制において、各地の神社の祭神には朝廷から神階という位が与えられていました。内宮に祀られる天照大神は皇祖神であり、当然ながら最高位なので、そもそも位付けする必要がありません。そしてそれと同じ理由で位付けを免除されていた唯一の神が、日前宮の祭神である日前大神です。これは、朝廷が天照大神と日前大神は同等の神であると公認していたことを意味しています。
それほど重要な日前宮と元伊勢籠神社が正確に南北方向でつながっている。これが単なる偶然のはずがありません。従って、日前宮を中心とした夏至と冬至のラインも同様に重要と言えるのです。
さらに付け加えて言えば、日前宮の御神体は、三種の神器の八咫鏡と同等とされる日像鏡・日矛鏡(ひがたのかがみ・ひぼこのかがみ)という二枚の鏡です。日本書紀にはカグヤマの金から日矛鏡を作ったと書かれており、また古語拾遺にはカグヤマの銅から日像鏡を作ったと書かれています。これも非常に意味深ですよね。
続きます。
