客のいない喫茶店|古代人に学ぶ創造的社会の造り方
「未来」の話
手塚治虫先生の火の鳥を真似て、古代と未来の話を交互に織り交ぜながらnoteを更新していきたいと思います。
このところ古代の話が続いていたので、今日は未来、と言うかこれからの社会についての話です。
私が古代史や神話の探究をライフワークとしているのは単なる趣味ではなく、自分の生き方の指針とするため。未来の在り方・創り方を古代人の精神に学ぶためです。何かに突き動かされて古代の探究をしていたらいつのまにか未来のことを考えるようになっていた、と言った方が正しいかもしれません。
見えるのは、海に浮かぶ島々のビジョン。それぞれの島の住人は、他の島に依存せず自律的に暮らしながら、かつ他の島々とも並列でつながり相互に影響を与え合っている。
女性性の象徴である瀬織津姫は市杵島姫や弁財天と同一視されています。これらの神々が祀られている場所は「島」が多いです。
例をあげると、神奈川の江ノ島、愛知の竹島、滋賀の竹生島、広島の厳島など。他にも無数にあるので興味がある方はぜひ調べてみてください。これは偶然の一致などではなく、日本の先人たちは意図的に「島」に市杵島姫や弁財天を祀っています。
島は周囲から離れて存在する一方で、海を通して外界と緩やかにつながっています。この特徴は3〜4千年前に存在した、縄文文明・インダス文明・クレタ文明などの自律分散型社会の精神性と相似なのです。
ボッチのすすめ
現代においてボッチという言葉は「ひとりぼっち」などの文脈で、主に否定的な意味で使われています。私はこのボッチという言葉を「孤高」と捉えて肯定的に見ています。つるまない、馴れ合わない、依存しない孤高のボッチ。
一説によるとボッチの語源はアイヌ語で、「巨大なもの」や「高い山」という意味があるそうです。国作りの巨人ダイダラボッチの「ボッチ」も言葉のルーツは近縁だと思います。
個別で見ると小さな単位が無数に連なって大きなネットワークを形成する。統一などしなくとも、分かれたままで「元から一つである」と知っている人々が住む国。
仲間がいないということではなく、自分の中に芯となる柱が立っていて、外界(他者)の動向に振り回されないということです。ちなみに瀬織津姫と不動明王も同一視されています。
私はこのビジョンを共有する事で、自然に現実世界も“多数の島がつながる”カタチになっていく仕組み作りをしたいんですよね。縦の男性意識が支配的である今の世の中は、まだこのような創造意識の場はほとんどありません。
学校にしてもそうです。大人は子供に教える側で、子供は教わる側。この上下関係は固定であり、大人が子供から教わる関係になる事は“常識的に考えて”あり得ないと今は誰もが思っています。
時にはこれが逆さまになることもある方が、より自然な人間関係だと思います。大人と子供という差異に捉われず、水平に繋がっている関係。
物事の本質を理解する近道は、人に教える事です。頭に詰め込んだだけの表面的な知識ではなく本質を理解していなければ、人に何かを教える事はできません。つまり人に教えるという行為は、自分自身でも気付いていない知の盲点を知るための最短行為。
だからこそ、子供に本質を最短距離で理解してもらうために大人が子供から教わることもあってもいいと思うのです。
上辺の知識ではなく本質を掴む事によって、はじめて実生活に応用し役立てる事ができます。
教師の上には学校があり、学校の上には文部科学省。このピラミッド型の階層システムが逆さまになる事は絶対にありません。会社にしても国にしても今はその多くがトップダウンのピラミッド型階層構造です。
ピラミッド型社会そのものを否定するわけではなく、自然界の生命として本来あるべき循環システムが欠けているというのが私の指摘です。言わば社会に適度な混沌をもたらす揺らぎの要素を実装したいということですね。
一部の企業では自律分散型の組織構造を取り入れようという動きが数年前から始まりつつあります。しかしまだまだ一般的ではないし、それが始まっている事が知られてさえもいない段階です。
客のいない喫茶店
現実世界は人の意識が作ります。そこでまずは、この社会の凝り固まった価値観に揺らぎを生む創造意識を共有する場作りから始めたいと思っています。
私自身なんの手がかりもない状態から始めることなので、結果はやってみるまでわかりません。これは実験ですね。結果として成功か失敗かではなく、何が起きるかの過程を見るための実験です。
上述したような、大人と子供といった立場の差に捉われず、すべての人が対等に交流や学びを楽しむ場。私はすでに何度かレンタルスペースを借りて神話・古代史が好きな人の交流会を主催していますが、参加を事前予約するという形なので、いつでも気軽に集まれるという形ではありません。
そこで、まず文字通りに「いつでも」集まれる場にしていきます。「教」の意識ではないので、学校や塾ではありません。お茶でも飲みながら交流を楽しむ場。
お店という形態にしても、そこにはやはり「客」と「店主」と「店員」という、固定化された意識上の境界線が生まれることになります。この境界線さえもすべて取っ払ってしまったらどうなるか。
このコンセプトに名をつけるとしたら客のいない喫茶店です。ここに来る全員が客であり、同時に店主でも店員でもあり、場作りに参加したい人は参加し、そうではない人は無理に参加しなくても、ただその場に居るだけでもいい。人と関わる中で自分が何者になりたいのかを自分自身で見つけられる。そういう意味で客という存在がいない、創造意識の場です。
もし余剰利益が出るような仕組みになったら、その利益を“消えゆく神社を守る活動”の財源とします。
この“客のいない喫茶店”の近くに元から喫茶店があるなら、そのお店と競合してしまわないように、軽食等はその喫茶店に注文する形にできればそのお店の売り上げアップになってwin-win。
最初から立派な店構えである必要もなく、むしろ立派ではない方がいいかもしれません。その方が皆で育てていく過程を楽しめそうですからね。
何よりも大切なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことだ。それらは、あなたが本当は何者になりたいのかを、どういうわけか既に知っているのだから。他のことは二の次だ。
このような夢語りの話を盛り込んだ次回の名古屋オフ会は、来年一月中旬に開催予定です。詳細はまだ未定ですが、少しでも興味関心があれば気軽に連絡してください。
今後私がこの話題について書く時は、#客のいない喫茶店 というタグをつけます。
追記:
専用マガジンを作りました。“客のいない喫茶店”はコンセプトの名前。そのコンセプトを体現する実際の店名は“余白亭”に決めました。

