〓メモ.14 〝明日への胎動が始まる〟
ここのガレキを片づけよう。いやあっちが先だ。というような身近なことから、会社がこうなるああなると言うような先のことまで、日々いや、刻々に状況が変化して、目が舞う如く振り回されている。
「ああ、昨日へは戻らない」という気負いと、「えい、どうでもよいから早く昔に戻れ」という両極の衝動に揺すぶられながら、情報誌出版の手がかりを模索し続けていた。
具体的な手続きについてはその大半が分からない。Wからの紹介で、とある出版社の方に相談することができた、昨今でこそ大きく出版界は変ぼうして、様々の出版形態なり方法が考えられるようになりましたが、当時では、まだまだ前近代的と言うか偏屈・偏狭なシステムでした。そういう話をわんさか聞かされ、「隔月刊、一万冊、全国配本の情報誌」という当初の目論見には、遥かほど遠いことを知らされました。
「誠に申し訳ないが、現実はこんなのです」「だから自費出版する方が、本来の意味に近いものが出せるかも」とも言われた。
確かにそうだ「元にも戻らない」とは、そう言った旧態依然としたものに寄っかからないことなのだ。自力でやりたいものだが、一冊の本を悠長に時間をかけて売り伸ばしていくという訳にはいかない。どう考えても、この一年が勝負だと思う。右往左往しているものの、原型復帰への巨大なエネルギーがギシギシと動き始めているのは確かなのだ。一刻も早くこの明日へ胎動している神戸の生々しい姿や想いを発信したい。
けれど、資金は? 事務所は? スタッフは?・・・
え~い!何もかもが見切り発車となる。
この辺りの事情は創刊号の「編集部コメント」が雰囲気をよく伝えている。
【編集対策本部より(創刊号)】
発行に当てって、その拠点となる編集部が宿無しである。
もちろん制作スペースも電話もFAXもない。編集部の体裁を整えるまで取りあえず「編集対策本部」とだけ名前を付けておこう。スタッフにしても、この時期こんなことに専念できる奴は余程の人物だ。東京から応援に駆けつけてくれたPさんも、まずは寝る所と職を探さなければならない。私たちもガレキ整理の合間や知人のハード(機器)を借りながらの作業。パソコンだって公衆電話から盗電して打っている状態。(1月30日には電気回復)
原稿の募集が始まれば、そろそろ定まった編集室が必要。とりあえずは某社にお願いして、仮事務所としてのスペースを確保。それに頼るしかないが、居候の身で電話なども思う存分使えない。当座は郵便とFAXに活躍してもらおう。
地震以来、風呂なし、着たきり雀は珍しくもない。防寒着、軍手、リュック、首の白いタオルなどが定番だが、何と言っても、不便者ルックの象徴はこの髭づら。この髭をなんとかしようと思い始めたのも余裕が出てきた証か。結局悩んだ末、口髭は地震記念で残し、あご髭は編集開始を機に気分転換の為に剃ってしまう。口髭まで剃ってしまうのは何時の日になるだろう。

【後日譚】
社内でもあと2名、自らの復興が成るまで〝ヒゲ〟は剃るまじきという誓いで伸ばし共鳴者がいました。(まあ、単なるズボラ者でしょうが)震災前なら許されなかった口ひげ営業マンなどが誕生。しかし、平常な生活にもどるにつれこの震災シンボルの口髭も消えていきます。私は11年後に剃ることになりました。復興がなったのかどうか?
【1995.1.27/震災11日目のメモ】
○朝、地震以来、初めて新聞に目を通した。
目を通す気になったと言う方が正確か。
○会社/
明石移転の話が急浮上。プレバフ建設の話も出てきている。
どちらにしても解体が何時になることか。
○実家/
Pと創刊号のコンセプトを話し合う。
局外の情報収集を依頼する。
Wより出版社のIさんを紹介される。
地震関連のビジュアル収集も依頼する。
【1995.1.28/震災12日目のメモ】
○出版社/
貴重なアドバイスを受ける。定期出版の難しさ。
少し、いやかなりの落胆。
出版業界の歪みを聞く。自費出版を薦められる。
今晩ゆっくり考えよう。
○自宅/
山の会の臨時会報を見る。(安否と連絡先を確認)
大阪からNが突然訪れた。ボンベと酒の差し入れ。
青木駅から歩いてきたらしい。
現場に入って、やっと現場たるものが分かったとのこと。
実家を片付ける。
初めての洗濯。
ポリタン10数杯、6階まで運ぶ。バタンキュウー。
〈2007年1月29日初稿〝遊歩のススメ〟より転載〉

懐かしの神戸の顔がまた一つ消えた。 (1月30日/撮影Y)

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