〓メモ.15 〝明日への胎動が始まる2〟
状況に振り回されるより、状況を創っていこう。もう材料は、身の回りに身の回りにわんさかと転がっている。テンションも上がっていく一方だ。何でもありの何でもこい! とは言っても、闇雲に突っ走っていく訳にはいかない。
千人居れば、千の試練がある。万在れば、万の想いがある。マスコミは、このエリアの人たちの個々の体験を「被災者」という言葉で括ってしまう。そして、惨事の総称として「阪神大震災」という冠をつけたがるが、そうではなく「阪神大震災」とは、幾万という個々の貴重な体験の総体と見つめなければいけない。私たちは、このことを肝に銘じた。
一、政治的・宗教的・営利的なものは御遠慮してもらう。
一、誰も批難しない、しいては反省をしよう。
一、行政批判や責任のなすり付けは他の機関に任せよう。
一、「被災地」「被災者」という言葉に決して甘んじない。この言葉も極力使わない。
一、エリア内にも地震を体験化でき得なかった人がいたように、このエリア外にも地震を体験化・共有化ができ得た人々がいたことを忘れないでおこう。

この五項目を、原則に「1995.1.17兵庫県南部地震」に関する写真・エッセー・レポート・絵画・イラスト・詩・情報・提案などを一斉に募集した。もう、後へは引けない。ついに「ガレキからの発信」が始まることになった。事務所が不定なので、宛先・連絡先は「神戸中央郵便局」とし、電話は当時まだ普及していなかった携帯を使うことにした。いまでこそ携帯など珍しくもないが、神戸では震災を契機に携帯が普及したと思われます。
そして、同時に「人」を求めた。
気概としては、ボランティアは不要。資金は欲しいが、支援金や義援金は遠慮するというのもあった。
これは決してボランティアを否定したものではありませんでした。
・明日へ向かって歩き出した人
・昨日には戻らないと決め人
・心の活断層を見つけた人
・地震体験をしっかり自分のものにしようという人
こういう人たちを肩を組んで歩んでいきたい。ボランティアする方、される方という両極からしか視点を持てない人を排したのです。当然ながら、当時ボランティアと呼ばれた方々の中にも明確な指針を得られないまま徒労感にみまわれた人もいたでしょう。
どちらの側というのでなく、明日へ向かって歩き出そうという人と共に雑誌を創っていくことを心より願っていただけです。
この時期、ある若い僧に出会いました。腰の重い本山の対応に苛立って(確かに従来仏教団の動きは鈍かったかも)居ても立ってもおられず一人高野山を飛び出してきたと言うのですが〝救う〟という意識が強すぎて、やや閉口した記憶があります。
そういう〝救う〟は、実は復興が進んだもっと先(心のガレキが満杯になる頃)に必要になってくるのですが・・・
【1995.1.29/震災13日目のメモ】
○会社/
営業部の仕事は出来ても、工場が何一つメドがない。
明石移転は不可になった。傾いた別館を補習する方向で。
○実家/
両親と長兄一家が避難した京都から母親の愚痴が届く。
避難した先でもストレスが溜まっているよう。
○明石へ
友人の家まで足を伸ばす。明石は別世界だ。
神戸に勤務の彼の会社は給与4割カットで自宅待機。
【1995.1.30/震災14日目のメモ】
○会社/
一時金支給。
離職、一時離職が相次ぐ、後輩同輩が去る。
〔略〕
○六甲/
第一回編集会議。
「ネバー カンバック ツー イエスタデー」が決定する。
〈2007年1月29日初稿〝遊歩のススメ〟より転載〉

写真は日用品を供出した灘区の某組長宅に並ぶ人たち。
日時は不明だが地震後間もない頃と思う。

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