〓メモ.03〝1.17 混沌〟がはじまった
外側の人、内側の人間
震災のあった2年前には、北海道西南沖地震・奥尻町の大災害があった。更にその2年前には島原で普賢岳の大噴火による大きな被害がありました。(海外でも多くの災害があった)どちらにしても私は、その災害・被害の「外側の人間」であった。何やら心を痛めることはあったとしても、テレビの前に鎮座して、その出来事を追うに必死で、その事象の推移に添ってしか、その現場の人たちの心を推し量ることしか出来ませんでした。
当然ながら、大半のマスメディアも、事件の延長のようなスタンスでしか報道しない。そういう報道のフィルターを通して、うちら側がよく見える筈がない。だから現場へ行かなければならないという単純なものでもないけれど…。
阪神・淡路の震災を体験して、私はやっと「内側の人」となった訳ですが、その「内側」の何と凄まじいものか。悲惨さは当然として、その対極にある歓喜や解放までを含めて、この「被災地」とよばれたエリア内部の混沌さと共有感は、まず体験してみないと何とも理解できないでしょう。
テレビの映像や新聞の報道が、この内側の〝有り様〟をほとんど伝えていないというより、伝える力が無かったという方が正しいのでしょう。今の社会ならインターネットSNSの力が、無力なマスコミ報道を凌駕していたとも思います。大災害を目の当たりにしてジャーナリストの本来的な性根を持ち直した方も多々おられたと思いますが、悲惨さを伝えるためには悲惨なビジュアルが必要だ、という盲信のようなマスコミの無神経で愚劣な報道は、現在も改まっていないと思います。
私においても、マス魔ディアとの距離は、ますます遠ざかっていきました。しかし、ワラをも掴む思いで、一人くらいは分かってくれる人間はいないものか?心の底では、必死に思い願っていたのも確かでした。
火事場の糞力でしょうか。震災直後から、この混沌を誰かに伝えるべく必死に奔走しました。自分の中にこんなエネルギーがあるものなのか不思議なほどに動き回りました。スピリチュアルというものに関心があっても、自分には大した霊体験がありません。でも人生の節目には目に見えない力、不思議な波動が自分を奮い起こすことがあります。私が山を歩きはじめた時もそうでした。訳も何もなく、急に狂ったように六甲の山々を歩きはじめたのは自分の意思だけではないように思います。震災から一年余りの激走・奔走を支えた行動力も、今思い返しても、自分のものとは全く思えません。やはり、何かしらの力が私の背を押していたと言う他ありません。その間、それまでの人生で知り合った人の幾倍もの方々と出会うことになりました。
冒頭の二つの被災地の方々とは、震災の年の夏にコンタクトがとれ、復興にいたる貴重な体験を教授いただきました。互いに〝内側の人〟としてまみえたのは感慨深いものでした。直接、支援に行けないことを気遣かわれ、その意を返すつもりが「いや~私もあの雲仙の火砕流をせんべいをかじりながら見ていました」などと軽口を叩いてしまった。
しばらくは「内側」「外側」という言葉にこだわっていくつもりですが、内側=体験者と言う意味では決してありません。事実、炎にまかれてオロオロしていた自分が、部屋に帰ってテレビの前で「これ、すごいじゃん」という気分で見ている。テレビや新聞の前ではいとも簡単に「外側の人」になってしまう。内側の自分を外側から見るというパラドックスというか騙し絵というか、そんな二重性にとても気持ちが苛立ち、嫌気がさして、しばしはマスメディアからの情報を封印することにしました。
【1995.1.17/震災当日】
その瞬間「ど~んと」地下から突き上げられるような衝撃で身体が浮いたという話は周囲からも多く聞きました。
それから長い横揺れが続くのですが、私の場合、未明の5時46分、振動の中に飛び交う〝凄まじい騒音〟で目が覚めました。中国の旧正月に鳴り響く、無数の花火の破裂音によく似た「パパパパーン、バシバシバシ」という建物が激しく軋む音が、今でも耳に焼き付いています。連れ合いに布団をかぶせ、その上から覆いかぶさり、そのまま騒音が収まるまでの長い時間を耐えていました。意識もまだ覚醒していなので、一体何が起こっているのかが分からない状態でしたが、たとえ覚醒していたとしても、これ以上のことは何も出来なったでしょうが・・・。
〈2007年1月12日初稿〝遊歩のススメ〟より転載〉
〓メモ.04/23 へ続く

此所からの風景がとても遠くに見えた。
(1995年1月 撮影/T・I)

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