ハビトゥス…「『わたし』という現象をめぐる考察ノートに関する用語集」3
フランスの社会学者・人類学者のピエール・ブルデューが提唱した概念です。
端的に言えば、人の好みや行動の仕組みなど、すべては社会構造によって形成されたものだということです。そして、それは暗黙の裡に身体化され、無意識の状態でも機能し、実際の行動をコントロールしているとします。
ここでの「ハビトゥスが機能している無意識の状態」のことを「実践感覚」といい、実際の行動や志向を選び取ることを「実践(プラティーク)」と言います。
社会構造の規制の下でハビトゥスが形成されるということは、必然的にその人の生まれに応じた文化的・経済的な制約にも規制されるということになります。そのため、ブルデューにおいては、社会階層などの社会分析で駆使されました。
代表的なのが、ブルデューの代表作「ディスタンクシオン」です。そこでは音楽の好みなど、一見個人的な嗜好に見えるものであっても、その人の属する階層の影響が強いことが示されます。
そしてブルデューは、それが「無意識のはたらき」であることを強調します。その習得過程においても実践感覚としても、無意識のまま機能するとしています。むしろ「自己についての(つまり過去についての)回顧を許さない」とまで記しています。つまりそれが自分のからだの動きとして発現しているときを除いて、反省的思考の対象にさえならないのです。
またブルデューは、「持続性」、すなわち過去の体験(歴史)によって、いわば一貫性を持った実践感覚として保持されるとしています。実践においては、予期あるいは期待する未来への道筋として、現在を知覚し、それと同時に生起するものとして評価や実践を生成すると考えていました。
無意識のまま作用する機能であり、現在に強く定位しつつも過去を参照して未来を選ぶ能力であること。このあたりの性質が、ハビトゥスって身体論なんだな、と感じさせるところでもあります。
完全に余談ですが、筆者が大学院生だった2000年前後には(少なくとも日本の学界では)ハビトゥス概念はほとんど文化論的な文脈でのみ引用されており、身体論の文脈での引用はほぼ見当たらない状態でした。筆者はそんななか、身体論としてのハビトゥス論を中心にして修士論文を書いた記憶があります。
ですが、今となってふりかえってみると、筆者とほぼ同年代の方々が、ほぼ同時期にほぼ同じようなフレームでハビトゥスを理解していたようで、国内・国外を問わず、多くの人が身体論の文脈からハビトゥスを問い直すという作業を進めていたようです。ちょうどそのころ書かれた論文や著作が、今では広く受け入れられるようになっています。現在では、ハビトゥスを身体の文脈でとらえるのは、全く一般的な解釈になっているようです。
そのような「同世代」のひとりが、本文中でも紹介したニック・クロスリーです。メルロ=ポンティの身体論とブルデューのハビトゥス概念が関連していることを示すとともに、ハビトゥス概念を批判的に継承し、今日につなげています。
クロスリーによるハビトゥス批判の主なポイントは二つあります。
ひとつは、ハビトゥスがあまりに受動的、あるいは固定的な刻印のように記載されていることへの批判です。
ブルデューにおいても、ハビトゥスが変わっていくこと、あるいは実践において構造を変容し得ることの理論的道筋は示されていました。しかしながら、その可能性への言及は少なく、むしろ決定論的に「構造に規定された性質」が強調されていたのです。
たとえばブルデューは、中流階級のハビトゥスを身体化した人が上流階級での振る舞いを求められたとき、おそらく失敗して嘲笑されると考えます。それはハビトゥスが階層ごとの文化に即し、それぞれの経験に応じて形成されたものであり、事前の反省的思考の余地がないものだからです。
でも、実際にはそうなるとは限らないですよね。たとえハビトゥスが経験によって構造化されているとしても、現実にわたしたちは反省的に実践感覚を再編し、その場に即した行動をとることができます。つまりは、ハビトゥスとして身体に構造化されたものがあるとしても、それは決して受動的だったり固定的だったりするものではないということです。
クロスリーによるもうひとつの指摘も、じつは上記の文章で暗示してしまっています。それはハビトゥスって、反省的に再編できるでしょってことです。
日本語だとどちらも「実践」と訳されますが、ブルデューはplatiqueという語(慣習的実践)を使用しています。これに対して、クロスリーはpraxis(意識的・理性的な実践)という語を採用しています。
ブルデューがプラティークについて語ったのは、意図的なことではありました。プラクシスという語は、もともとドイツ語であり、ドイツ哲学の伝統のなかで、しばしば政治的であり、理論的に誇張された…ブルデューの語を借りれば…「マルクス主義を洒落たものにしている言葉」であったからです。
しかし意図の有無にかかわらず、プラクシスという語を退けたことによって、ブルデューは「実践の論理」から、ひとの反省作用を検討する余地を排除することとなったといってもいいのではないでしょうか。結果として、ブルデューはハビトゥスの創造的、能動的な側面について多くを語らないままでした。
反省作用、すなわちハビトゥスをナラティヴ化することは、実際にはハビトゥスの形成過程でも大きな役割を持ち、さらにはひとの創造性や能動性の源泉でもあります。
筆者としてはプラティークとプラクシスを区分する必要性、つまり「意識的であるかどうか」を区別する必要を感じておらず、単に「身体の運動」としてのみ捉えています。ただ、そこにナラティヴセルフがどのような作用を及ぼしているか。それがナラティヴであるということは、「語る行為」であると同時に「物語としての性質を持つ」ということに視点を向けたいと思っています。
そして物語は、それが自由に読み替えられる可能性を持つことにより、ひとの創造性や能動性、さらには構造の変革に結びつく可能性を包摂していると考えています。
構造により形成された身体としてのハビトゥス。反省以前の身体図式として身体に刻印されたもの。
しかし、それは逆説的に構造を変革する力でもありえるということ。私が記述したいのは、そこに集約されるのかもしれません。
