Le Cheval Pâle Tableau Ⅷ
パリの夜が明ける前、神谷は目を覚ます。新しいランニングウェアとシューズに身を包み、部屋を出た。
この時間、ドアマンはいない。
フロントにも誰も立っておらず、気軽に外出できる。
神谷はスマートウォッチを起動させ、サン=ドニ大聖堂方面へジョギングを始めた。心拍数が120を超えたところで一気に加速し、目的地の大聖堂をあっという間に通り過ぎる。
"Le Cheval Pâle"の前を駆け抜けながら、パリの土地勘を身体に染み込ませていく。
夜が明けるまでまだ10分以上ある。
神谷はまだ走ったことのない道を右へ左へと走り、やがてマセナ通りから13区へ、アレジア通りから14区へと入った。
いつの間にか走り慣れた道へと進み、メーヌ通りからデパール通りへ。
人通りも車もまだ少なく、走りやすい。
レンス通りを抜けて6区を一気に駆け抜け、サンジェルマン通りからシテ通りを渡ってセーヌ川を越える。ノートルダム大聖堂をゴールに、ストップウォッチを止めた。
ペースをジョギングに落としながら、一気に呼吸と心拍数を下げる。
これも必須のトレーニングルーティンだ。
ホテルに着く頃には息も整っていた。
エントランスフロアを抜け、エレベーターで自室へ戻る。ミネラルウォーターを飲みながらテレビをつけると、耳慣れたフランス語のニュースがBGMとなる。
シャワーを浴びる頃にはノートルダムの鐘が鳴り響いていた。
マルシェで買っておいたオレンジジュースを飲みながら、毎朝届く英字新聞に目を通す。その後、ベッドにパリの全体マップを広げ、まだ行っていない道を探し始めた。
やがて部屋のチャイムが鳴り、いつものようにギャルソンが朝食を運んできた。
今朝は日本人留学生の鏡君が担当だった。
「おはようございます。もうほとんどの観光名所は行きましたか?」
「パリはね。モン・サン・ミシェルのような名所にはまだ行っていないよ」と無難に答える。
そこに嘘はない。
「来てみると意外と狭いんですよね、この町」と鏡君は楽しそうだ。
日本人への担当が気楽らしい。
「昼はいいんですけどね、夜はストリートギャングが多くて……。昼は目立つようなことはしてきませんけど、けっこう怖いこともありますよ。移民系とか……」と、治安について話してきた。
「危ないなら帰国するか、国を変えたら?」
と神谷が尋ねると、「やっぱりフランスは自分で決めたからには頑張りますよ」と言い残すように部屋を出て行った。
ダイニングでの朝食係も兼任しているため忙しいらしい。
神谷はベッドの上のマップを見ながら、
「今日はコンコルド広場から17区、18区、19区と回ってみるか……」
と呟き、立ちながらクロワッサンを頬張った。
ノートルダム大聖堂の朝ミサを終えた人々が出てくる頃には、いつも通りテレビではサッカーの試合結果が流れていた。
(相変わらず領海権争いの話か……いや、待てよ。このニュース……サッカーの試合結果……)
神谷はデスクにあるメモ用紙とペンを手に取り、繰り返される数字を書き出した。
(住所か……?もし暗号だとしたら……やはり行ってみるか)
メモをズボンのポケットへ入れ、シャツを着込んだ。
昼前、神谷は部屋を出た。
エントランスのドアマンが、もう友人のように話しかけてくる。
「今日は何を食べるんだ?」
神谷は
「モンマルトルの丘を目指してみようと思う」
と答える。
ドアマンはまたも訝しげな表情で、
「防犯ベルは持ってるか?人混みに入るなよ。スリがいるから」
と警告してくれた。
神谷はまずコンコルド広場へ行き、わざと時間を潰す。夕暮れ時、彼は17区方面へと歩き出した。
コンコルド広場のオベリスクを背に、神谷は薄暗い路地へと足を踏み入れた。
昼間は観光客で賑わう場所も、夜が深まると静けさに包まれる。マルセルとハンナの言葉が脳裏をよぎる。
「パリの顔は一晩で変わる。表通りだけを見てはいけない」。
神谷はまず17区を目指した。シャンゼリゼ通りからフォーブール・サントノレ通りへと入る。高級ブティックが並ぶ通りは、ショーウィンドウの光が冷たく神谷を照らす。
しかし、その雰囲気は徐々に薄れていく。
17区の北側、ポルト・ド・クリシーに近づくにつれて、街並みは一変した。壁には落書きが増え、ゴミが散乱している。カフェのテラス席は若者で埋まり、けたたましい笑い声が聞こえてくる。彼らの視線が神谷に向けられるが、神谷はスマホを見ているふりをして、何事もないように通り過ぎた。
そこからさらに北東へ。18区へと足を踏み入れる。モンマルトルの丘の麓、バルベス・ロシュシュアール駅周辺は、人種のるつぼだ。様々な言語が飛び交い、スパイスの匂いが鼻をつく。しかし、その活気の中に、何か張り詰めた空気があった。神谷は、少しでも不審な動きをすれば、すぐに複数の視線が自分を捉えることを察知した。道行く若者たちは、互いに目配せをして神谷の動向を探っているようだ。彼はわざと、人通りの少ない路地へと入ってみた。
壁に寄りかかり、タバコを吸っていた若者たちが神谷を取り囲む。「金を出せ」と、翻訳イヤフォンが耳元でささやく。神谷は無言で彼らを見つめた。若者たちの顔に笑みが浮かぶ。しかし、その笑みはすぐに消えた。神谷の視線が、彼らの奥にいるリーダーらしき男を捉えたからだ。
リーダーは腕組みをしたまま、神谷を睨みつける。「どこの人間だ?」と、翻訳イヤフォンが翻訳する。
神谷はゆっくりと手をポケットに入れ、折り畳まれた紙を差し出した。そこに書かれていたのは、ある場所の住所だった。
その住所を見た瞬間、リーダーの顔色が変わった。
彼は仲間たちに手で合図をすると、若者たちは散り散りに去っていった。リーダーは神谷に、何も言わずに道を譲る。
神谷はそのまま何事もなかったかのように、19区へと向かって歩き始めた。
19区、スタリングラード広場。夜は、まるで別の星に降り立ったような雰囲気だ。広場の真ん中では若者たちがたむろし、怪しげな取引が行われている。
神谷は、広場の端にあるカフェに入り、窓際の席に座った。コーヒーを注文し、ぼんやりと外を眺める。
しかし、彼の目は、広場の隅々までを観察していた。彼は、先ほど18区でリーダーに見せた紙に書かれていた住所が、この広場の近くにあることを知っていた。そして、この場所が、パリの裏社会の重要な接点であることも。
神谷は、コーヒーを一口飲み、ポケットからキーケースを取り出した。昨晩、ベルベットに包まれていた鍵だ。彼はその鍵をじっと見つめる。
「やっと、開く場所が見つかったか……」
神谷の顔に、わずかな笑みが浮かんだ。彼はまだ気づいていなかった。その鍵が、ただの場所の扉を開けるだけでなく、彼の知らないパリの闇の扉を開けることになるとは。
