母が何度も私の顔を見てくれた
急きょ飛行機を予約し、故郷へ向かった。
母の体調が少し悪くなり、入院したと連絡を受け、いてもたってもいられなかった。(2050字)
1,急いで故郷へ向かった
前回行った時も、すでに母の言葉は少なくなっていた。
おしゃべりが好きな母の面影は、ほとんどなくなっていた。
今回会った母は、さらに静かになっていた。
私が「お母さん、いとだよ」と声をかけると、母はじっと私の顔を見て、ほんの少しだけうなずいたように見えた。
けれどそのあと母からは、何も言葉は出てこなかった。
2,言葉はなくても届いていた
私は母の前で、以前と変わらないように話を続けた。
「だんだん暑くなってきたね」
「もう半袖になったよ」
「家の庭の掃除をしてきたよ」
そんな何気ない話ばかりだった。母は言葉を返さない。
それでも耳はよく聞こえていて、私が話すたびに顔を向け、じっと見つめていた。うなずくように顔を動かすこともあった。
手や腕にはむくみがあり、痛々しく見えた。私はその手をさすりながら、
「痛くないの?」と尋ねた。母は何か言いたそうな顔をしたが、何も言わなかった。
「痛くはないのね?」そう聞くと、小さくうなずいた。
そんなやり取りをしながら、私は、もう母と以前のようにおしゃべりをする日は来ないのだろうかと考えた。
あれこれ心配してくれたり、こうしなさい、ああしなさいと言ってくれる母には、もう会えないのだろうか。
3,母らしい一言
しばらくして私は、「どこか痛いところはない?」と聞いた。
すると、それまで黙っていた母が突然、
「ある」とはっきり言った。
私は驚いて、「どこ?」と聞いた。
母は脇腹を押さえていた手を少し動かした。
私がその場所に触れながら、「ここ?」と尋ねると、「うん」と言う。
「ある」と「うん」
たったそれだけの言葉だった。けれど、その言い方ははっきりとして、とても母らしかった。長い沈黙のあとで、以前の母がほんの少し戻ってきたように感じた。
母の脇腹を手でゆっくりとさすり続けながら、その短い会話が、とても嬉しかった。
4,赤ちゃんのように見えた母
母はずっとベッドで横になっていて、髪の毛は薄くなり、頭も小さくなったように見えた。
体位を変えるためのクッションにもたれながら横向きに寝ている姿を見ていると、私はふと赤ちゃんの頭を思い出した。
まだハイハイもできない赤ちゃんは、いつも寝ているためか後頭部の髪の毛がぺたんとなっている。
柔らかくて細い髪。小さな頭。
母の後ろ姿は、どこかその赤ちゃんに似ていた。抱きしめたくなった。けれど急にそんなことをしたら、母は驚くかもしれない。
だから私は抱きしめたりはせずに、ただむくんだ手や腕をさすった。
そうしているうちに、昔のことが次々と思い出された。
毎日自転車で会社へ通っていた頃の母。
二人で中華レストランへ行き、「何でも頼んでいいよ」と言ったのにラーメンだけ頼んだ母。
片付けが苦手な母の洋服を、片付けてあげると、とても喜んでくれたこと。
吸引力がなくなった掃除機をなかなか手放せず、新しい掃除機を使いたがらなかったこと。
どれも母らしいことばかりだった。

5,何度も振り向いてくれたこと
しばらく母の顔を見つめていた。
母は横向きに寝ていたので、本来なら私とは反対側を向いているはずだった。それでも2、3分おきに、少しだけ振り向いて私の顔をじっと見た。
何も言わない。
2、3秒だけ見て、また元の向きに戻る。
しばらくすると、また振り向いて私を見る。それを何度も繰り返していた。母が何を考えていたのかは分からない。もしかしたら、もういろいろなことは考えられなくなっているのかもしれない。
何も話さなかったけれど、何度も何度も私の顔を見てくれた。
6,忘れることは、優しさなのかもしれない
年を重ねると、多くのことを忘れてしまう。周りのことも、自分のことも、少しずつ分からなくなっていく。
それは悲しいことだと思っていた。
けれど今日の母を見ていると、もしかしたらそれは神様が与えてくれた優しさでもあるのかもしれないと思った。
自分の身体の状態や、失っていくものをすべて理解しながら過ごすことは、とてもつらいことだと思う。
だから少しずつ霧の中へ入っていくことは、人に与えられた穏やかな救いなのかもしれない。
もちろん、私は悲しい。
母と大きな声で話し合う時間は、もう二度と戻ってこない。以前のような会話も、もうできないのかもしれない。
そう思うと涙が出る。それでも今日、母は何度も私の顔を見てくれた。言葉はなくても。
私はそのことに感謝している。
母が何度も振り向いて私を見てくれたこと。そのことを、私はずっと忘れない。
☘️☘️
前回母に会いに行った時のことを書いた投稿記事です。
よろしければお読みください。
☘️☘️☘️
そして今こうして文章にしてみると、自分がどんな気持ちだったのか、少し分かったような気がします。
これは誰かに何かを伝える文章というより、わたし自身の心を見つめ、少しでも理解するための記録なのだと思いました。
思いつくままに、長々と書いてしまいました。
ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。
noteを書くことにより、私は心の中を少しずつ整理しやすくなってきました。感謝しております。
