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シェアハウス・ロック(or日録)2601下旬投稿分

日本的なるもの8‐落語など(0121)

 網野善彦の歴史観は、たとえば能登半島にいた「百姓」が北前船で、実に大々的に交易をしていたことをあぶり出す。つまり、「百姓」=農業従事者ではなく、文字通り百もの生業(なりわい)で生きていた人たちの歴史を、古文書から読み解いていく。
 また、前にも申しあげたが私は、『古今集』『新古今集』より『万葉集』が好きだし、能より文楽が好きだし、謡より浄瑠璃が好きである。皇国史観なんかよりも、縄文、弥生といった考古学を延長した先に歴史を感じたい。
 つまり、三島由紀夫が<「天皇を中心とする日本の歴史・文化・傳統を守る」>と言う、むしろそういった網の目からこぼれおちたような人々、ものごとが、私の愛する「日本的なるもの」である。
 落語の話をすると、三大人情噺の『芝浜』では棒手振りの魚屋、『文七元結』では博打で身を持ち崩した左官屋、『唐茄子屋政談』では、元は大店の若旦那ではあるものの、花魁にいれあげて勘当され、噺の現在では叔父さんに言われて嫌々ながらも棒手振りの唐茄子屋をやっている男、つまり社会の底辺に近いところにいる人々の視点で描かれているから、私は落語が好きなのだろう。
 いままで落語に縁のなかった人たちにも、ぜひ、落語を好きになっていただきたいと思う。アルチュール・ランボーは、「酒場が私の学校だった」と言ったが、それに倣うと「寄席が私の学校だった」。しかも、学校じゃ学べないことも学んだ。「こんなことは、学校じゃ教えない(おせーない)」(Ⓒ古今亭志ん生)。
 まっとうな言語学では語源を問題にしないが、このことも、志ん生からおせーてもらったのが最初だ。
「じゃ、ご隠居さん。鶴は、なんで鶴って言うんですい」
「それはおまい、ツーと飛んできて、ルと止る。これで鶴だな」
 語と意味の関係は恣意だと知ったのは、それから15年後である。
 これから落語に馴染んでいこうとされるなら、これを読んでくださっている方であれば(つまり、コンピュータを使っている方であれば)、初期投資はゼロである。youtubeには相当の落語があがっているし(五代目古今亭志ん生の動画(!)すらある)、それらを順次聴いていけばよろしい。だんだん好みも定まっていく。
 もうひとつ、「落語検索エンジン『ご隠居』」という、素晴らしいサイトがある。必要に応じて、ここで情報を得ればいい。それで、「自分は落語にむいているな」と思ったら、それから寄席でも独演会でも行くんで遅くない。「落語なんてえのは、シャレをこじらせたようなもんですから」(Ⓒ古今亭志ん生)気楽に対応するに限る。
 さて、落語には、前述のような人々が出て来るが、まれに武士が出て来る話がある。それでも、武士が主人公である噺はめったになく、私は『柳田格之進』くらいしか知らない。ただ、それ以外にも、武士の理想像としての大岡越前守はよく出て来る。だが、これは装置、理想の装置としての武士の姿であるし、それも、より弱い立場の庶民に味方する人物として描かれる。『二番煎じ』に出て来る番小屋を見回る酒好きの武士など、私は大好きである。こいつとは、友だちになれそうだ。
 落語には、天皇は出て来ない。前述の『ご隠居』に聞いたところ、『はてなの茶碗』には、茶碗の判定を頼まれた近衛卿が、時の天皇に相談に行ったという形で出て来るそうだ。残念ながら、私は、大阪落語はからっきし不案内である。
 それが江戸落語に移入され『井戸の茶碗』になるわけだが、ここで鑑定するのは細川の殿様である。
 社会の底辺に近いところにいる人々の視点で描かれているから、私は落語が好きなのだろう。私の、ポリティカル・コレクトネスである。
 あと、会話でお話が進んでいくというのも特異なところで、これも「講」なんかとの関係でなにか言えそうな気がするが、これは長くなるのでそのうちに。

【追記】

 1月下旬の標題写真はキタキチョウである。1月の中頃に撮影したもので、キチョウは成虫で越冬をするめずらしいチョウだ。散歩コースの石段の下で撮影した。石畳に垂直に壁があり、そこに止まっていたのである。
 このあたりにはミナミキチョウはいないはずなので、キタキチョウだ。

日本的なるもの9‐「勝ち組」「負け組」(0122)

『大使とその妻』(水村美苗)に、「勝ち組」「負け組」が出て来る。
 大使の「妻」の実父が「勝ち組」であり、「負け組」との争闘で殺人を犯してしまったという副次的な扱いではあるものの、同書の通奏低音である「日本的なるもの」と「勝ち組」「負け組」は輻輳した構造になっている。
 今回は、この「勝ち組」「負け組」についてお話しする。
 1972年(昭和47年)、横井庄一さんが帰還した。日本の敗戦を知らず、グァム島で約28年間もの間、日本兵として生きていたのである。翌々年1974年には、小野田寛郎さんがフィリピン・ルバング島から帰還した。
 いま、「勝ち組」「負け組」という言葉を聞くと、私は必ずこのおふたりを思い出す。つまり、このおふたりは「一人勝ち組」だったというふうに、である。特に小野田寛郎さんはそうだ。この形容矛盾のような「一人勝ち組」で「勝ち組」の基本構造はほぼわかる。
 さて、「勝ち組」とは、第二次世界大戦での日本の降伏後も、日本の敗北を認めず「日本は戦争に勝った」と信じていた在外日本人のグループのことである。南米諸国、米国ハワイ州などの日系人社会、および外国で抑留されていた日本人のなかに「勝ち組」がおり、「負け組」もいた。「勝ち組」「負け組」は、「戦勝派」「認識派」と呼ばれることもある。
 この「勝ち組」の認識構造を考えると、人はどうやって誤謬に導かれるのかがわかり、反面教師になる。たとえば、「天皇陛下が生きているんだから、日本は勝ったんだ」などは、端的な例である。
 この日系人社会のなかでも特に深刻だったのが、ブラジルだった。もちろん、その他の場所では深刻でなかったなどと言うつもりなどないし、その原因たる戦争それ自体がそれだけで深刻なものだ。
 どうしてこんな対立が起こったのか。「勝ち組」から見たら、「負けるはずのない日本が負けた」とデマを飛ばす連中に、「負け組」は見えたのだろう。「戦争に負けた」という事実を認めただけで、敗北主義とされたのかもしれない。対立は抗争に発展し、特にブラジルでは最終的に銃撃戦にまで発展し、テロリズムに至った。。
 1945年8月、日本は降伏したわけだが、ブラジルでは翌1946年3月以降、「勝ち組」過激派による「負け組」へのテロ事件が頻発し、同年7月には日本人とブラジル人の間の騒乱事件までが起こった。
 1947年1月の「勝ち組」の最大組織・臣道連盟による「負け組」の日本人商店、日系新聞社への大規模襲撃以降、対立は沈静化へ向かうのだが、それに先行して臣道連盟がブラジル官憲により、大量に逮捕されていたという事情もあっただろう。
 この日系新聞社はパウリスタ新聞である。同紙は戦後いち早く「日本は敗戦した」と報じた日系新聞であり、これが「勝ち組」の強い反発を招いたのである。
 この間、「負け組」は、「勝ち組」説得のため、地道な努力を重ねていた。たとえばアメリカ総領事館を通じ、「勝ち組」の日本の親類・友人にはがきの送付を依頼、彼らから「勝ち組」を説得してもらうように動き、また中立国のスウェーデン政府、アメリカ国務省、GHQおよび日本政府にも協力を依頼して、日本の新聞、映像フィルムを取り寄せるなどした結果、最終的に抗争は終結に向かった。
 ところで、なんでこんなことが起こったのか。
 まず第一に、皇国信仰である。別の言い方をすれば、「刷り込み」である。明治維新以来、皇民教育がなされ、『教育勅語』『軍人勅諭』『戦陣訓』でそれは完成した。「嘘も百回言えば真実となる」。
 次に、ブラジルでは1938年に移民の同化を促す「外国人入国法」が施行されたことがあった。それにより日本人学校が閉鎖され、1941年6月に日本語新聞が廃刊された。日本からの短波放送を聞いていた日本人もいたが、放送内容はおおむね大本営発表であり、これは聞かないほうがまだましであった。
 つまり、情報がほぼ完ぺきに遮断された状態にあった。
 さらに、閉鎖社会であり、そのなかで情報がフィードバックしてしまったことも挙げられる。つまり、エコーチェンバー現象が起こった。
 最後に、これだけは絶対に許せないというお話をする。
「勝ち組」のなかには、敗戦により価値を失った日本の旧円紙幣を騙して売りつけることを狙った者もいた。このため、日本が勝ったことにしたほうが都合がよかったのである。
 旧円紙幣を購入するために農場を売った者すらおり、だまされたとわかった後は自殺や一家離散などの悲劇があいついだという。
 ブラジルに大量の旧円紙幣を持ち込んだ者がいるはずだが、その正体はわかっていない。上海や香港で大量の旧円紙幣を集めていた児玉機関(ここまでは事実)の関与が疑われたが、証拠は見出されていない。
 前述の「まず第一に」以降が、現在のネトウヨとそれを取り巻く状況と相似形のような気がするのは、私だけだろうか。

山上徹也への判決、無期は重すぎる(0123)

「山上徹也の公判に注目する(1127)(25)」で、私は刑法「第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」をひき、「これとは別に、『相場』というものがある。少し前までの殺人に関する『相場』は『3人以上殺害した場合は確実に死刑。2人殺害では死刑になる場合とならない場合がケースごとに判断される。1人殺害では原則的には死刑にはならない』といったところだった」と申しあげ、そして「殺害した相手がホームレスであろうが、元首相であろうが、法律の前では一人は一人でなければならないという立場から申しあげているのである」と言った。
 若干補足すると、「少し前までの」は、その後相場が変わったかもしれず(相場は変わるもんだからね)、それを私は、変わったか変わらないのかを含めて把握していなかったからである。
 以下、1月22日の毎日新聞からの引用は<>で示す。ただし、①~④は、私が付けた。原文にはない。
<奈良地裁判決骨子>には、<①生じた結果は極めて重大であることは明白だ><②殺害するための計画や準備は1年半にわたり、計画性は極めて高い><③被告の不遇な生い立ちは、犯行に大きく影響しておらず、汲むべく余地も大きくない>とある。で、結論は<④無期懲役に処する>。
 ①は、まったく承服できない。結果云々ではなく、前述のように一人は一人でなければならない。法律はこの「結果」を裁くのではなく、罪を裁くのである。この「結果」は情状に加味されるに過ぎない。情状に加味して無期懲役なのかね。だったらとんでもない判決である。この①自体が、問題視されていい。
 ②は前提がそもそも間違っている。②が間違いであることの指摘は簡単である。<山上徹也被告と事件を巡る経緯>には、<40歳(20年12月ごろ)銃の製造を始める>とあり、<41歳ごろ(21年秋ごろ)安倍晋三元首相が教団関係団体に寄せたビデオメッセージを視聴>とある。ここが安倍殺害の起点である。銃撃は22年7月8日であるから、安倍殺害を考えた期間は1年に足らない。それ以前は、教団幹部を狙っていたはずである。安倍を殺害しようとして1年半準備したというのは、事実に反する。だから、厳密に言えば間違いであり、この判決はその間違いを前提にしたものであることになる。
 ③は、2か所の<大きく>で若干のエクスキューズを判決文は仕掛けているが、裁判官の印象で裁いていることはまぬがれない。
 私は、有期刑を想定していた。それからするとだいぶ重い。
 当日の毎日新聞には、識者の意見が記事に付随して2件掲載されていた。
<常識的で妥当な判決だ>としたのは山崎学(元東京高裁部統括判事)である。<殺人罪と銃刀法違反(発射)がいずれも成立すれば、無期懲役より量刑が軽くなることはなかった>とし、<被告が不遇な生い立ちを送った側面はあるものの、それが安倍晋三殺害にまで至った点は不可解だった>としている。後者は、私のほうが不可解である。安倍晋三殺害にまで至った点は、明瞭このうえない。
 もうお一方は、島薗進(東京大名誉教授)で、判決は<教団による宗教被害を受けた被告の怒りが、安倍晋三首相に向かった理由について詳細に触れておらず、不自然だ><安倍氏と教団の関係についても触れていない>とし、<被告の人生を『不遇な生い立ち』として矮小化してしまうのは違和感がある>としている。
 山崎学は単に判決を追認しているに過ぎず、それ以上のことは言っていない。私は、島薗進のコメントを支持する。
 弁護団は控訴を検討しているとあったが、ぜひ控訴をしてほしい。そうして、<政治家と教団の関係について、政治の場や市民社会でも調査すべきだと改めて感じた>(島薗進)ことの推進力に控訴が資することを期待する。
 この判決は、これらのことを封じ込めるものであると、私は強く感じている。奈良だからね。忖度したのかね。
 当日の毎日新聞の記事で、私が一番腹を立てたことも言っておきたい。それは検察が提出した主張である。<被告が受けた『宗教被害』>にあった主張だ。弁護側は<悲惨な経験が犯行と一直線に結びついている。最重要視すべきだ>とし、判決は<生い立ちは不遇な側面が大きく、教団への激しい怒りも理解できなくはないが、犯行には大きな飛躍がある>としているが、検察は<逆境に耐え、犯罪をせずに生きている人もいる。大きく考慮すべきではない>である。
 よくこんなことが言えると思う。「よくこんなこと」は、検察が道徳めいたことを言うことを指す。道徳観なんぞを述べるのが、あなた方の仕事ではないはずだ。

日本的なるもの10‐武士は日本を代表するのか(0124)

 結論から言えば、私は、日本を代表するのは庶民であると考えている。断じて、武士ではない。三島由紀夫は日本を代表する作家ではあるが、「檄」によれば自己規定は「武士」である。だから、この三島は日本を代表していない。
 江戸時代、人口比率から言えば武士は1割程度だった。だが、この武士には郷士のような存在も含まれ、郷士は半農半武だから、武士(つまり、武士としての禄だけで暮らしていた人)はせいぜい5パーセントかそこらのはずだ。そんな薄い層が全体を代表できるはずがない。
 ただ、明治維新はその郷士層も含めた下級武士が実質的に担い、この連中の上昇運動、つまり、「(本当の)武士になりたい」がその原動力であったと言って過言ではない。
 この「武士になりたい」は、新選組も同様である。新選組の隊内粛清の理由で一番多かったと言われるものは「士道不覚悟」であるが、初期の新選組に武士階級出身者は少なかった。隊長の近藤勇は農民出身であり、副長の土方歳三もそうである。試衛館出身者が中核だった。
 武士でない者ほど武士になりたがり、しかも武士よりも武士らしくふるまうようになる。このパラドックスは興味深い。
 だから、例外はあるものの、京都での幕末の戦闘は勤王、佐幕双方が「(本当の)武士になりたい」という者であり、池田屋事件等々は「武士になりたい者同士」の戦いであったと言える。
 このあたりが今回言いたいことのキモだ。
 しかし、この上昇運動はイデオロギーなき運動だった。「王政復古」があっただろうと言われるかもしれないが、あれは「錦の御旗」であり、だいいち、あのころの思潮は、王政復古だ、公武合体だ、尊王攘夷だ、めまぐるしく変わっている。ああいったものがイデオロギーになったのは明治期だ。
 明治維新を、レーニンはブルジョワジー革命と言ったはずだが、それも間違いである。下級武士によるクーデターだったと考えたほうが実態に合っている。
 幕末の不平等条約という制約があり、それを払拭せんと明治早々に富国強兵路線に突入し、そして絶対天皇制へとなだれ込んだのである。
 ところで、武士道はどこで言われ始めたものなのか。
 カリフォルニア州モントレー滞在中の新渡戸稲造によって、しかも英語で書かれた『武士道』がフィラデルフィアで刊行されたのが1900年(明治33年)あたりである。だいぶ遅いが、これがほとんど武士道の嚆矢だ。クリスチャンである新渡戸が、おそらくクリスチャン仲間である米国人に「日本には宗教がない」、つまり「日本にはプリンシプルがない」と言われ、それに反発して書いたものだと言われている。
 それが翻訳され、日本でも刊行されたが、津田左右吉をはじめ、井上哲次郎、バジル・ホール・チェンバレンなどからの激しい批判にさらされている。「誤った日本像を海外に広めた」「あるべき概念を混乱させている」などがその批判内容だった。
 新渡戸は盛岡藩士の出ではあるが、それ以降の経歴から考えると、とても「武士道」に通暁していたとは思えない。
 それに先行して『葉隠』があるが、これは長い間鍋島藩でも禁書扱いされており、日の目をみなかった。1906年、『葉隠』抄が丁酉社(東京)より刊行されたが、これが人口に膾炙したのは、1932年(昭和7年)古賀伝太郎連隊長、「爆弾三勇士」、空閑昇少佐の死を、同年『肥前史談』が「葉隠精神の発露」として称揚して以降である。
 つまり、『葉隠』は、武士道の発露というよりも忠君愛国精神のシンボルとして有名になったわけである。
『佐武と市捕物控』(石森章太郎、後石ノ森章太郎)に、五月人形にまつわる話がある。本当かどうかはわからないが、兜、武者人形などを飾ることを町人は禁じられ、それに反発した町人は、鯉を空に泳がすようになった。
 その回の最後に近いコマで、空に大量に、かつ悠々と泳ぐ鯉のぼりを見て、登場人物の誰かが、次のようにつぶやく。私もまったく同感である。

「この勝負、町人の勝ちさね」

町人と武士‐言葉の力(0125)

 前回、町人というとてもいい言葉を思い出したので、本日はそれにまつわるお話をしたい。
 私は、私を含めた自分の周りの人々をどう呼んだらいいのか長年悩んできた。いまでも悩んでいる。人民、民衆、大衆は違う。これらは「集合名詞」である。たとえば、「私は人民です」と言ったらそれは奇異に響く。これは民衆でも、大衆でも同じ。これらの語彙を使うのであれば、「私は〇〇のひとりです」と言わなければヘンである。
 人民、民衆、大衆の同義語にどんなものがあるか、copilotに聞いてみた。庶民、一般人、一般大衆、市民、国民、住民、庶衆(しょしゅう)、群衆、公衆、世間の人々、が出て来た。copilotもたいしたことないな。このなかで使えそうなのは市民くらいだ。衆生もいいが、なんだか抹香臭い。
 私は仕方なしに庶民を使っていた。
「日本的なるもの8‐落語など(0121)」では、苦し紛れに「社会の底辺に近いところにいる人々の視点で描かれているから、私は落語が好きなのだろう」と言っている。ここで「庶民」を使うのに抵抗があったからである。たぶん、江戸時代には庶民という言葉はなかった。おそらく、町人と言っていたのだろうと思う。
 町人はとてもいい言葉だが、いまでは死語だろう。対立概念である武士がとっくに死語になってしまったからだと思う。ああ、武士は死語ではないな。武士がいなくなっただけだ。だが、武士という言葉は生きているのに、町人のほうはほぼ死語になってしまった。なんでだろう。
 だから、私を含めた自分の周りの人々を呼ぶ適切な言葉がないのである。
 あの戦争をアメリカでは太平洋戦争と呼び、世界では第二次世界大戦と呼んだ。日本では大東亜戦争と呼んだが、大東亜という概念自体に問題があるので私は使いたくない。とは言っても、太平洋戦争を使うのは抵抗があるし、第二次世界大戦だとその一部といった感じになる。
 そういうことを言っていたら、「15年戦争は?」と教えられ、それ以来私は「15年戦争」を使っている。
 だが、自分を含む自分たちの周りの人々を呼ぶいい呼称がないというのは大問題である。名前(呼称)は、とりあえず開明への手がかりだ。アフリカにいた、なんだかやたら乱暴で、狂暴な化け物のような存在が、ライオンという名前を与えられたことにより、乱暴で危険ではあるものの化け物から動物に降格された。名前を与えた効果である。
 このことからも、「自分を含む自分たちの周りの人々を呼ぶいい呼称がない」というのは大問題であると思える。呼称がないゆえに、私たちは軽んじられるのではないだろうか。ちょっと論拠がすれ違っている気がしないでもないが、おおむね正しいのではないかという気がしないでもない。
「自分を含む自分たちの周りの人々を呼ぶいい呼称がない」ことが、この国をこれだけ悪くしてしまっている大きな理由なのではないか。
 町人、武士をいまの言葉で強引に言い換えると、自営業者とサラリーマンになると思う。そうとう強引だけど。
 昭和の、まだまだ元気だった時代は、町人(自営業者)が多かった。私が通った小学校の親の職業はほぼ自営業だったと記憶している。あと、工員さんもいたな。
 それが、以前お話ししたようにダイエーが小商店を潰し、潰した魚屋さん、八百屋さんを雇い、サラリーマン化してしまった。
 いささか八つ当たり気味ではあるが、いま日本に元気がないのは、町人を武士化した、つまり、自営業者をサラリーマンに再編した結果、なれの果てなのではないか。
 この間申しあげている言い方に直すと、日本は武士(サラリーマン)の国ではなく、もともと町人(自営業者)の国なのである。日本を再生するには、この自営魂を取り戻すしかないのではないか。
 

隣の爺っちゃん婆っちゃん芋食って…(0126)

 子どもはおおむねバカなので、ある一時期、やたら「うんこ」「おなら」等が好きになる。そして、それらの単語を口走り、大喜びし、大騒ぎをする。自分はそんなことはなかったという人は、記憶力が悪いか、嘘つきかである。
 私の長女長男も例外ではなく、標題に続けて、「屁して、大事なパンツに穴開けた」と歌い、ふたりして大喜びし、キャーキャー騒いでいたことがあった。バカである。だが、私の子どもなので似たのだろう。仕方ない。甘受するしかあるまい。
 この替え歌をご存じなく、ぜひ歌ってみたいという人にお教えすると、メロディは『アルプス一万尺』である。
 このバカな替え歌を子どもが歌うのを聞いてしまった以上は仕方ない。注意せねばなるまい。親の務めである。
「きみたち、ちょっと来なさい」と私は彼らを呼んだ。
 私はいきなり子どもを殴りつける暴力親父だったので、警戒してなかなか近寄って来ない。
 いつだったか、長女がなにかとんでもない口答えをしたときに、私はビビビッと横っ面を張り、「四の五の言ってんじゃねえ」と怒鳴りつけたことがある。長女は、「なんだ、なんだ、四の五のってどういう意味だ」と反応した。あのね、問題はそこじゃないだろう。その反応はヘンだぞ。
 つまり、彼女は暴力には耐性ができていて、セリフのほうに反応したのである。艱難汝を玉にす。
 よって、警戒しながらも近づいてきた。
「ちょっとそこへ座りなさい。長くなるから」と私は言い、彼らはダイニングの椅子に座った。
「よく聞きなさい。『屁して』とか『屁する』なんていう日本語はないぞ。屁は『ひる』が正しい。いろはがるたには、『[へ]屁をひって尻つぼめ』とある。俗語では『こく』だ。その歌を歌うなら、どちらかにしなさい」と申し渡した。
 彼らは「こく」を採用し、しばらくその歌を歌っていたが、2、3日でそれは止んだ。単に飽きたのか、あまりにも語感がきたないので嫌になったかのどちらかだろう。
 私の愛読する毎日新聞「毎日ことば」の1月20日の問題は、「お鉢が巡ってくる」を間違いであると指摘させるものだった。これは言うまでもなく「お鉢が回る」が正しい。「お鉢が巡る」でも、「お鉢が来る」でも意味が通じるには通じるが、慣用的には間違いで、言語というのは慣用の束なのである。だが、誤用も、それが頻繁に行われれば慣用になる。慣用って、そういうことだからね。
 慣用つながりで、私は、本日お話ししたことを思い出したのである。懐かしい思い出だが、我が子どもの諸君は憶えてないだろうな。

世界はつながっている(0127)

 もう何回も、もしかしたら何十回も言っていることだが、私の朝はコーヒーとバッハで始まる。
 数日前聴いたバッハは、『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ』(前橋汀子)だった。これは、書肆ほうろうという古本屋で、20年近く前に買ったものだ。このころは、道灌坂を下ったあたりにあり、私の散歩コースのひとつだった。「谷根千」のあたりである。
 私は「書肆ほうろう」で記憶していたのでそう書いたが、念のため調べたら「古書ほうろう」になっており、東大鉄門そばに移っている。
 さて、その日はちょっとのんびりできる日だったので、箱をゆっくりながめた。剝がれかけた帯がまだかろうじてついており、そこには五木寛之の文章があったが、これは完全に忘れていた。

 この演奏を聴いて、ぼくははじめて音楽というものに接したような衝撃的な感動を味わった。この演奏ひとつあれば、ほかにもう音楽などいらない、と、本気でそう思ったほどだった。

 のんびりできるのはいいことだ。「忙しい」は、「心が亡ぶ」と書く。だいぶ亡びていたんだろうな。これ、忘れてたもんな。いまも亡びたままかもな。
 ライナーノーツも五木寛之が担当しており(というか、ライナーノーツの抜き書きが帯の文章だ)、そこには、前橋汀子が幼いころ小野アンナにヴァイオリンを習っていたとあり、五木寛之は小野アンナの姉であるワルワーラ・ブブノヴァの講義を、早稲田の学生時代に受けていたという。これを五木はライナーノーツで、「だから前橋さんと自分は兄弟弟子ならぬ従兄弟弟子だ」と強弁(笑)している。
 でも、なんとなく、世界はつながっているという気はするし、いい話である。
「ベアテ・シロタ・ゴードン小伝(1226)(25)」に、「ワルワーラ・ブブノワやその妹でヴァイオリニストの小野アンナ」と書いた。ベアテ・シロタの乃木坂の家に出入りしていた人たちの一部としてである。表記こそブブノヴァ、ブブノワだが、同一人物だ。
 このことは『1945年のクリスマス』(ベアテ・シロタ・ゴードン)で
知ったことであり、この本は、日本国憲法に男女同権を書いた女性の半自叙伝である。
 つまり、CDのライナーノーツ、日本国憲法を起草した人々のひとりの半自叙伝という、なんの関係もないところに同じ姉妹が登場したことになる。有名人ならままあることだが、おふたりはそこそこの著名人ではあるものの、それほどの有名人でもない。
 そう言えば、我が畏友その1は、前述の書肆ほうろう(古書ほうろう)によく行く。これを知ったのも比較的最近のことだ。その1が翻訳した『韓国演劇運動史』(柳敏榮著)を「一人でも多くの人に読んでほしい」と考え、新古本で持ち込んだことによってそれを知ったのである。
 我が畏友その2もその1も、大久保昌一良(おいおい、本当かよ、Wikipediaに項目があったぞ)が作演出の芝居に出た(私は音楽担当だった)縁で知り合い、仲良くなり、そこから50年が経った。
 やはりこの芝居に出たキヨという女がいた。こいつは3人子どもを産み、父親が全部違うという豪傑なのだが(私の見立てだけど)、彼女がなんかの求人に応募して、面接に出てきたのが畏友その2だったという。畏友その2も、キヨ本人も、びっくりしただろう。これは本人(キヨのほうね)に聞いた。聞いた私もびっくりした。
 この世界は、どこかでつながっている。その回路を、私たちがなかなか探し出せないだけなのだ。
 ものすごく素朴な感慨にすぎないのだが、「この世界はどこかでつながっている」ことに私たちが気がつき、そのつながりをもっともっと引き寄せることができれば、「分断」はいまよりもずっとましなものになっていくに違いない。

ぼくもまたアメリカなのだ(0128)

 参政党のポスターに「I am Japan」とある。
 この言い方は英語としておかしいが、参政党自体のおかしさにはとうてい及ばない。まあ、それは、いまはどうでもよろしい。
 この語句は、「私(たち)は日本だ」が妥当な訳だろう。「私(たち)が日本だ」と訳したら、「それは違うぞ」という思いが、私にも湧きおこってくる。「オレだって日本だぞ」と言いたくなる。
 参政党の皆さんの日本は、「天皇陛下の日本」だ。参政党のホームぺージだかなんだかを確かめたのだが、「『創憲』プロジェクトの成果として、新しい憲法案を完成させました」とあり、「2年かけてこれをつくりました」とあったが、キミたち、2年もかけてこれなのかね。この憲法案を読めば、「天皇陛下の日本」でしかないことがよくわかるし、この憲法案よりは、まだ日本帝国憲法のほうがなんぼかましであると、私なんかには思えて来る。これは憲法案でもないしへったくれでもなく、ただただ、天皇と日本が好きだと言っているだけだ。正気かと言いたくなる。
 ああ、そんなことを話したいわけじゃなかった。
 この方たちの「I am Japan」に対し、私にも日本はある。私の日本は天皇陛下のではなく、武士のでもなく、町人の日本だ。「教育勅語」ではなく落語の日本。「教育勅語」には愚劣な説教があるだけだが、落語には知恵や人情が詰まっている。それから、浄瑠璃の日本。縄文弥生の日本。1銭五厘のハガキ一枚で徴兵され、南方で餓死した兵士だが、本来は百姓だったやつらの日本。いろいろな日本がある。日本は、キミたちだけの専売特許じゃない。
 前述した「オレだって日本だぞ」で思い出したのが標題である。長い前置きだった。ここからが本論。
 これは、ラングストン・ヒューズの詩の題名だ。日本語訳では標題以外に「ぼくもアメリカを歌う」「ボクだってアメリカ人だ」などいろいろとあるが、 原題は“I, Too”というシンプルなものだ。“I, Too”がとてもいい。
 本当は、その詩全体を紹介したいのだが、著作権法とやらの制約があるので、仕方ない、大意を紹介するだけにする。
「ぼく」は黒人であり、たぶんお屋敷かなんかの使用人だ。ラングストン・ヒューズも、もちろん黒人である。それを前提に読んでいただきたい。

 ぼくは客が来ると、台所で食事をさせられる
 でもぼくは笑い、おいしく食べ、強くなる
 明日、客が来たら、ぼくは台所ではなく、テーブルにいるつもりだ
 誰もぼくに、「おまえは台所で食え」なんて言えなくなるだろう
 彼らもぼくの尊厳、人間の尊厳に気づくはずだし
 いままでのことを、恥ずかしくも思うだろう

 僕もまた、アメリカなのだ。

 ラングストン・ヒューズは、15、16歳のころずいぶん読んだ。
 その年ごろだから、背景なんてほとんどわからないし、あまり気にもしなかった。。
 copilotに聞いてみた。60年後である。

Q.ラングストン・ヒューズが「ぼくもまたアメリカなのだ」を書いたのはいくつのときですか。また、それは何年ですか。
A.「I, Too」は1925年に書かれ、翌1926年に詩集 The Weary Blues に収録されて発表されました。ヒューズは1902年生まれのため、1925年時点では23歳になります。

 おお、copilot、ありがとう。
 ラングストン・ヒューズは「黒人民族の桂冠詩人」("Poet Laureate of the Negro Race")と言われ、生涯ニューヨークのハーレムから発信を続けた。「ハーレムの桂冠詩人」と呼ばれることもある。私はこっちの呼称のほうが好きだ。
 15、6歳のころの私は、ヒューズの詩のなかで、『七十五セントのブルース』が好きだった。頭の部分を紹介する。

 どっかへ 走っていく 汽車の
 七十五セント ぶんの 切符を くだせい
 ね どっかへ 走っていく 汽車の
 七十五セント ぶんの 切符を くだせい ってんだ

 どこへいくか なんて 知っちゃ いねえ
 ただもう こっから はなれてくんだ

 きっと、15、6歳のころの私は、「こっから はなれて どっかへ ただもう」行きたかったんだね。ネットで拾ったこの訳は、木島始さんのものだと思う。
 そのころ、ヒューズを筆頭にして、リロイ・ジョーンズ、ジェームズ・ボールドウィンなど、黒人作家の本を、私はずいぶんと読んだ。
 木島始の名前が出たついでに申しあげておくと、『詩・黒人・ジャズ』(晶文社、木島始)は、一時期、私のバイブルだった。

私は人種差別主義者だった(0129)

(前回から続く)
 そこから、私のジャズ・エイジにつながる。15、6歳のころにはすでに私はいっぱしのジャズ小僧で、ジャズ喫茶で夜明かしをし、高校に行ったことすらある。ともかくジャズ喫茶に入り浸った。
 ジャズ喫茶なんて言ったって、なんでそんなとこ行くのかわからないでしょ、若い人には。
 バイトの時給が120円かそこいらのころ、レコード(アルバム)は2500円くらいしたのである。アルバム一枚分で、立ち食いの掛け蕎麦なら80杯食えた。ホントだよ。まあまあ聴けるオーディオセットが20万弱。無理でしょ、時給120円じゃ。
 ジャズ喫茶では、普通の喫茶店のコーヒーが100円くらいのところ150円で、それだけ出せばあまりうまくないコーヒーを飲みながら、とりあえずジャズが聴けたのである。
 ジャズの話をする。ジャズがあまり好きでない人、ごめんね。
 ジョン・コルトレーンが亡くなったのは1967年7月17日。だから、私がジャズ小僧になったころにはまだ生きていた。『ライヴ・イン・ジャパン』は1966年7月録音だから、可能性としては、私は十分行けたことになる。だが行けなかった。
 当時の私は、ジャズという肥沃、かつ広大、かつ鬱蒼という熱帯雨林のような土地に迷い込んでしまった子どもみたいなもので、五里霧中だった。しかも、この熱帯雨林は、富士の麓の樹海のように、コンパスもあまり効かない。当時はあまりいい指南書もなく、あるいはあっても私には探し当てられず、自己流で行き当たりばったりに聴くしかなかったのである。だから、残念なことに、「コルトレーンが来たんだから、なにがなんでも行かなくちゃ」というふうにはなっていなかった。
 ただ、徐々に徐々にだけど、地図はできていった。
 ジャズをご存じの方は、もう標題の意味にお気づきかと思う。私はそのころ、白人のジャズを軽蔑していたのである。生半可な、ただただ生意気なだけの小僧(残念ながら、私のことである)は、「ケッ、白人のジャズなんか聴けるけえ」と思っていたのである。
 私が入り浸っていたジャズ喫茶も、白人差別主義者の拠点ではあったわけだが、それでも、『Anita sings the Most』(アニタ・オディ)はたまにかけていた。特に過激派がまだ参集していない開店すぐなどにはよくかけていた。
 30歳を過ぎてから私も多少は正気づき、「あれ(『Anita sings the Most』ね)、けっこうよかったんじゃないか」と思うこともあるようになり、あるときCD店で購入した。よかったよ。聴き終わって、「いままでバカにしてごめんね」とあやまったくらいだ。それからアニタ・オディを買いまくり、聴きまくった。
 この「転向」で、私は白人のジャズもわかるようになり、ほぼ同時にクラシックもわかるようになり、音楽全体が、おそらく二段階くらいわかるようになったのである。それで、豊かな(笑)老後を送れている。
 だから、説教くさくなるのを承知で若い人たちに言っておく。いまのあなたの感覚とか嗜好は、必ず変わるものだからね。そう思っていたほうがいい。変わったその先を想像して、そこから現在を照射して現在を考えたほうがいい。
 できたら、感覚とか嗜好なんかに頼らず、論理に頼ったほうがいい。前提は変わっても、論理構造は変わるものじゃないから。そのほうが物事の射程距離を長くできる。
 この説教は、音楽だけに有効なわけではないことは、言うまでもない。

八王子に来てよかったことなど(0130)

 おじさん、おばさん、私と、他人同士3人でのシェアハウス暮らしも、今年の9月で丸10年になる。
 それぞれの個室以外の場所は共有スペースなので、お互いになるべく物を置かないようにしている。よって、それなりにきれいに使っている。共有スペース(シェアハウスの大部分である)がきれいになっているというのが、まずシェアハウスのいい点である。
 あと、なんと言ってもいいのは孤独死がないこと。これは、いつ死んでも不思議はない老人にとっては大きなメリットである。
 3人揃っているときには夕飯だけは一緒に、しかも同じものを食べるというルールになっている。これも、栄養の偏りが少なくなるというのでいい点だ。
 次は、私にとってのいい点だ。
 毎日毎日A4一枚くらいグズグズと書いていて、どういう冗談かとお思いかもしれないが、私は、実は、あんまりしゃべる人間ではない。だから、私ひとりで誰も知らないところへ移ったら、おそらく誰一人友だちはおろか、知人すらできないだろうと思う。
 八王子に来てから親しくなった人が、いま、たぶん10人くらいいる。
 陶芸クラブに誘ってくれたタカダ夫妻も、我がシェアハウスのおばさんの介入がなかったら、いまだに目礼を交わすくらいの間柄だと思う。ただ、なにかの話題で話がはずみ、それをきっかけに親しくなり、それで陶芸クラブに誘われるということはあったかもしれない。
 でも、こういう付き合い方だと勝ち味が遅い。そこいくと、おばさんは勝ち味専門だから、話は早い。
 人づきあいは相互作用だから、こっちが目礼だけでも先方がそうでなかったら、急速に親しくなることはあるだろう。
 だが、先方が、たとえばお店の人だったりすると、基本、先方は仕事で接しているわけだから、私のような人間では親しくなるきっかけはほぼない。
 以前お話ししたようにダイエーが小商店を潰し、潰した魚屋さん、八百屋さんを雇い、サラリーマン化したのが日本がダメになった一因だと思う。これを、「産業構造を壊した」まで言うとちょっと大げさだけど、雇用形態、営業形態は壊したと言っていい。さらに、お店とお客の関係は確実に壊れた。会話がまったくといいくらいなくなっている。
 おばさんは、人を呼ぶのが好きだ。よって、おばさんの関係者、私の関係者などを呼び、よく飲み会を我がシェアハウスで開催する。
 このごろは飲み会開催も年のせいかちょっと間遠になっているが、そのときはそれなりの準備をする。その準備のひとつが、近所のスーパーで刺身盛り合わせを頼むことだ。
 おばさんは、たとえば「七人来るんだけど、5000円くらいで大丈夫?」などと鮮魚部の主任の人に聞いたりする。とにかく、よくしゃべるひとだからね。口から生まれた桃太郎。私だったら、そもそもそういう頼み方をしないし、頼んだとしても、「❍❍日の3時ごろ取りに来るんで、5000円分。よろしく」などとほぼ電報文みたいに頼むだけである。
 おばさんは、やれ貝は入るか、白身魚はなにを使うかなど、やたらねちっこい。そういうときに、鮮魚部の主任のタカハシさんが言った言葉を、私は忘れない。

「私らにもプライドがありますからね」

つまり、「ちゃんとした仕事をしますよ」と言っているのである。
 サラリーマン化しているお店の人のなかにも、タカハシさんのような人がもっといるはずである。ただ、私たちが気が付かないだけなのだろう。私は、タカハシさんのこの言葉を聞き、「日本もまだまだ捨てたもんじゃないな」と思ったくらいだ。多少大げさだが、思ってしまったものはしょうがない。
 タカハシさんのこの言葉を引き出したのは、おばさんの功績である。
 

山上徹也判決における疑問点、問題点1(0131)

 1月27日毎日新聞夕刊の「Media NOW!」(金平茂紀 テレビ報道記者)に、次のように書かれている。
 なぜ安倍晋三が標的になったかについて、判決文では「『本筋ではない』『もとより被害者(=安倍氏)には殺害を正当化できるような落ち度は何ら見当たらない』とあったのみである」
 また、裁判では「結局、あれだけ国会でも追及された自民党と旧統一教会の構造的な癒着については、何ら検証されなかったというのが僕の受け止めだ」
 また、この総選挙に関連しても、金平さんは同記事で、
「自民党は派閥の裏金事件に関与した議員を公認した。その中には旧統一教会との関係が指摘された議員も含まれている。山上被告の裁判は、こうした動きとは無関係に区切りがつけられた」
と言う。
 私から見ると、「何ら検証されなかった」どころではなく、言及を避け、それに触れることは最小限にとどめられたという印象である。
 それにしては、逆に、ヘンテコな印象操作をしている。判決文の『』内が、それに相当する。ちょっと異様である。そんなことを言う必要もないのに、山上徹也への判決文のなかで、安倍晋三を無罪と主張しているように見える。
 また、2025年12月18日の論告求刑には、次があったという。これは別のソースだ。
「被害者が教団の関連団体のイベントにビデオメッセージを送ったのは、政治家による儀礼的な挨拶で、『被告自身も被害者が教団を積極的に支持していない』と思っていた」
「被告人自身もUPFのイベントへのビデオメッセージ以外に旧統一教会と被害者を直接結びつけるものを見付けていたわけではなく、インターネット上の正確性が担保されていない情報がほとんどであったことから、被害者個人に対しては怒りではなく、困惑の感情を抱いていたにとどまっていた」
 これも、検察側が、論告求刑中に、安倍晋三の無辜であることを印象づけるようで、異様である。殺人犯への論告求刑で、「殺人に至る動機足りえない」と言いたいのだろうか。
 次の2点はネットで拾ったものだ。。
「裁判長は、最後に被告に言葉をかける『説諭』をすることなく閉廷した」
 判決文を読みあげる最後に裁判長が「説諭」をすることはよくあり、特に、山上徹也のように被害者の側面をも持っていると思われる被告に対しては比較的あることである。ただ、これが異様かどうかの判断が私にはつかないのが実際のところだ。
 もうひとつ、「山上徹也被告は、公判に至るまで長期間『未決拘禁者』として拘置所に収容され、メディア接見を一切拒否し続けていたが、判決直前の2026年1月14日になって初めて接見に応じた」ということもネット情報で得た。
 それにしては、メディアに細々した情報がけっこう掲載されていた。あれは、検察側、あるいは弁護側のリークだったんだろうか。あるいは山上徹也のSNSなどから丹念に拾ったものなのか。これも知りたいところだ。もしわかれば、あの裁判の異様さの理由もよりわかるようになるはずだ。
 以上により、検察、裁判所、さらに弁護団までも加わり、「ああいったこと」にしておきたいとでもいった「大きな意志」を感じてしまうのは私だけだろうか。山上徹也が控訴をしなかったら、「こういったこと」になり、「フタ」は完全に閉じられてしまう。
 そんなことを考えているときに、「安倍元首相暗殺の真相を究明する会」の存在を知った。

【「まとめ」での追記】

 山上徹也は控訴するようだ。
 次の裁判で、もうちょっといろいろなことがわかってくるはずである。「山上徹也判決における疑問点、問題点2(0201)」でお話しすることになる「安倍元首相暗殺の真相を究明する会」も弁護団に加わらないものか。さらに真相がわかってくるに違いない。
 今回「まとめ」作業中に気が付いたことも追記する。
 判決文中の、『もとより被害者(=安倍氏)には殺害を正当化できるような落ち度は何ら見当たらない』のなかの。「殺害を正当化できるような落ち度」が相当ヘンである。そもそも「殺害を正当化する」ことなどありようがない。裁判官たる者が、「殺害を正当化」することを認めることになってしまう。
 愚考するに、もともとは「被害者には落ち度がない」と言いたいところだが、それだと安倍晋三をなりふり構わず擁護するようになってしまうと思った文章作成者が、「正当化できるような」を挿入し、全体をよく読まずに、こういう奇怪な文章になったと考えれば腑に落ちる。

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